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2026年05月22日
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新田義貞 謀反 の 事        
              付 天狗が越後勢を 催す事         
              新田義貞 高塒の使者を斬る         
             高塒は 義貞を討とうとする           
               義貞の 挙兵 

 こうした所に、新田太郎義貞は去りぬる三月十一日に先朝(先帝、後醍醐天皇)から綸旨を給わり

たりしかば、千劒破(ちはや、大阪府南河内郡千早赤坂村。楠正成が籠る千剣破城がある)から虚病

(嘘の病気)して本国に帰り、便宜(べんぎ、頼りのよい)の一族達を潜かに集めて謀反の計略を

廻らしたのだ。 この様な企てが有るとは思いも寄らない相模入道は、舎弟の四郎左近大夫入道に



総・常陸・下野など六ッか国の勢をぞ催されける。 その兵粮の為にとて、近国の庄園に臨時の天

役(てんやく、鎌倉時代以降、朝廷の大儀・造営などの時に臨時に賦税した雑税)を懸けられた。 

中でも、新田庄世良田(にったのしょうせらだ)には有徳の者が多いとと言うので、出雲介親連(ち

かつら)、黒沼彦四郎入道を使にして、六万貫を五日の内に沙汰すべしとて、堅く下知さられたの

で使は先ずかの所に臨んで、大勢を庄家(しょうけ、庄園事務を掌った家」に放ち入れて譴責(けん

せき、責める)することは法に過ぎた(並々では無かった)のだ。 新田義貞はこれを聞きなされ

て、我が舘の辺を雑人(ぞうにん、身分の低い者、賎者)の馬の蹄に懸けさせたのは返す返すも無

念である。

 どうして見ながら我慢が出来ようか。と言ってあまたの人数を差し向けられ、忽ちに両使を生け

捕って、出雲の介を禁縛(きんばく、縛る事)しておき、黒沼入道の頸を切り、同日の暮程には世良

田の里中に懸けられたのだ。



命に随わずということは更にない。然るに近代、遠境はややもすれば武命に随わず、近国は下知を

軽んずる事は奇怪である。

 剰(あまつさ)え、藩屏(はんぺい、垣の内、直轄の領地の中)の中にあって使節を誅戮(ちゅうり

く、殺す)する条は罪科は軽くない。この時にもし緩々の沙汰を致すならば大逆の基となってしま

うであろう、とて則ち武蔵・上野両国の勢に仰せて、新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討って参



 義貞はこれを聞いて、宗徒の一族達を集めて、ここ事は如何あるべきか、と評定ありけるに、異

議様々で、一定(いちじょう)ではない。

 或いは、沼田庄を要害にして利根河を前にして敵を待とう、と言う義もある。又、越後の国には

大略、富家の一族が充満しているので、津張郡に打ち越えて上田山を伐り塞ぎ、勢を付けてから防

ぐべきだなどと、異見が定まらず。

 舎弟の脇屋次郎義助はしばらく思案してから、進み出でて申されける、弓矢の道は命を軽んじ名

を重んじるを以て義としている。なかんずく相模の守は天下を取って百六十余年、今に至るまで武

威が盛りに振るってその命を重んぜずという所はない。

 されば仮令(たとえ)利根川を堺にして防ごうとも、運が尽きるならば叶うまい。又、越後の一族

を頼みにしても人の意(こころ)は一定していないので、久しい謀は出来ない。さしたる事もしでか

さぬ物故に、ここかしこに落ちて行き、新田の某(なにがし)こそ相模の守の使を切った咎で他国に

逃げて討たれたなんどと、天下の人口に入らん(人の噂になる)事こそ残念である。

 とても討ち死にする命を謀反人と言われて朝家の為に捨てるのは、無くなった後までも武勇は子

孫の面目となり、武名は死後の名誉となるであろう。

 先だって綸旨を下されたのは、何の用にあたるであろうか。各自が宣旨を額に当てて、運命を天

に任せてただ一騎であろうとも国中に打って出て、義兵を挙げたならば勢も付き、やがて鎌倉を攻

め落とす勢力が付かないならば、鎌倉を枕にして討ち死にするより他の事が出来ようか、と義を先

として勇を宗として申されたので、当座の一族三十余人は皆この義に同じたのだ。

 さればやがて事が漏れ出ない前に打ち立たんとて、同五月八日の卯の刻(午前六時)に生品(いく

しな)の明神の御前にて旗を揚げ、綸旨を披いて三度これを拝し、笠懸野に打ち出でた。

 相続く人々、氏族には大舘次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口

三郎貞光・舎弟四郎行義・岩松三郎經家・里美五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎

尚義、これらを宗徒の兵として百五十騎には過ぎていなかった。

         越後の国の一族等 来たり援ける者が相つぐ
          二十万七千余騎 となる

 この勢ではどうかと思っている所に、その日の晩景に利根川の方から馬・物の具が爽やかに見え

たる兵が二千騎ばかりが馬煙を立てて馳せ来った。

 すはや、敵よと目に懸けて見れば敵にはあらずして、越後の国の一族で里見・鳥山・田中・大

井田・羽川の人々であったのだ。

 義貞は大いに悦んで、馬を抑えて(馬が前に進むのを抑えて)宣いけるのは、この事は兼ねてか

らその企てが有ったのでが、昨日今日とは告げてはいなかった。

 俄かに思い立つ事があったので、告げ申さないでいたのではあるが、何として存ぜられたのであ

ろうか。と、問いければ、大井田遠江守が鞍壺に畏まって申されけるには、勅諚に依って大儀を思

し召し立たれし由を承り候わずば何にとして、斯様に馳せ参るべく候。

 去りぬる五日の御使とて天狗山伏が一人、越後の国中を一日にして触れ廻り候間、夜を日に継い

で馳せ参りて候。境を隔てたる者は、皆が明日の程には参着致すでありましょう。

 他国に御出で候わばしばらくかの勢を御待ち候えかし。と、申して馬から下りて各々対面し色代

(しきだい、挨拶)して、人馬の息を継がせなされている所に、後陣の越後並びに甲斐・信濃の源氏

共が家々の旗を差連れて、その勢は五千余騎、夥しく見えて馳せ来る。

 義貞・義助は斜めならず喜んで、これは偏に八幡大菩薩(八幡神に奉った称号。奈良時代以後に

神仏混淆の結果で起こって称)の擁護によるものであろう。暫くも逗留すべからず、とて、同九日

に武蔵の国に打ち越え給うに、紀五左衛門が足利殿の御子息の千壽王殿を具足し奉り、二百余騎に

て馳せ着いたのだ。

 これより上野・上総・常陸・武蔵の兵共はいまだ期(ご)せざるに(予期していないのに)集まり、

催さざる馳せ来りて、その日の暮程に二十万七千余騎が兜を並べて控えたのだ。

 されば四方八百里に余れる武蔵野に人馬が共に充満して、身をそばだてるに所なく、打ち囲んだ

る勢であるから、天に飛ぶ鳥も翔けることを得ず、地を走る獣も隠れようとしても場所がない。

草の原から出る月は馬鞍の上にほのめきて(ちらちらと見えて)鎧の袖に傾いた。尾花の末を分ける

風は旗の影をひらめかせ、幌の手(冑の上から馬の頭辺までかぶって矢を防ぐ道具で、絹・略式は

布で作り、下方は垂れ流すか腰に結び付ける)が静まることがない。





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最終更新日  2026年05月22日 19時15分31秒
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