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東路(あづまぢ)の 手兒(てご)の呼坂(よびさか) 越えがねて 山にか寝むも 宿(やどり)は無しに(― 東海道の手児の呼坂を越えることができずに、山に寝ることであろうか。仮寝の場所もなくて)うらも無く わが行く道に 青柳(あをやぎ)の 張りて立てれば 物思(も)ひ出(づ)つも(― 何心なく私が歩いて行く道に、青柳が生き生きと芽吹いて立っていたので、ふと、恋しい人を思い出した)伎波都久(きはつく)の 岡の莖韮(くくみら) われ摘(つ)めど 籠(こ)にも満(み)たなふ 背(せ)なと摘まさね(― きはつくの丘の茎韮を私が摘んでも、籠にすら一杯にはなりません。それならば、背子と一緒にお摘みなさいな) 第四句までと五句とで、唱和する形である。水門(みなと)の葦(あし)が 中なる玉小菅(たまこすげ) 刈り来(こ)わが背子(せこ) 床(とこ)の隔(へだし)に(― 水門の葦のなかにある玉小菅を刈っておいでなさい、わが背子よ。寝床の隔てにするために)妹なろが 使ふ川津(かはづ)の ささら荻(をぎ) あしと人言(ひとごと) 語りよらしも(― 妹が使う川辺の物洗い場に生えているササラ荻に似た葦、アシ・悪し と人々が集まって私のことを噂しているらしいよ)草蔭の 安努(あの)な行かむと 墾(は)りし道 阿努(あの)は行かずて 荒草立(あらくさだ)ちぬ(― 三重県の安努に行こうとして開墾した道も安努まで行かずに、荒れて荒草が繁ってしまったよ) 何か寓意があるらしい。花散(ぢ)らふ この向(むか)つ嶺(を)の 乎那(をな)の嶺(を)の 洲(ひじ)につくまで 君が齢(よ)もがも(― 花の散るこの向かいの嶺の尾奈の嶺が、時を経て湖の洲に浸かるほどにまでに長く、あなたの寿命があって欲しいものです)白栲(しろたへ)の 衣の袖を 麻久良我(まくらが)よ 海人(あま)漕ぎ來(く)見ゆ 波立つなゆめ(― まくらがから海人が漕いで来るのが見える、波よ、決して立つな)乎久佐壯子(をくさを)と 乎具佐助丁(をぐさすけを)と 潮舟(しほふね)の 並べて見れば 乎具佐勝(をぐさか)ちめり(― 乎具佐男と乎具佐助丁と並べてみると、乎具佐助丁の方が勝っているように見えます)左奈都良(さなつら)の 岡に粟蒔(ま)き かなしきが 駒はたぐとも 吾(わ)はそと追(を)はじ(― さなつらの岡に粟を蒔いて恋人の馬がそれを食べても、私はそれをソソと追うことはしまい)おもしろき 野をばな焼きそ 古草(ふるくさ)に 新草(にひくさ)まじり 生(お)ひは生(お」ふるがに(― 眺めのよい野を焼かないで下さい。古草に新草が混じって芽が出たら伸びるように) 風の音(と)の 遠き吾妹(わぎも)が 着せし衣(きぬ) 手本(たもと)のくだり まよひ來にけり(― 遠くにいる吾妹が着せてくれた衣の袂の縦糸が緩んで、薄くなってきた)庭にたつ 麻布小衾(あさてこぶすま) 今夜(こよひ)だに 夫(つま)寄しこせぬ 麻布小衾(あさてこぶすま)(― 私の麻布小衾よ、せめて今夜だけでも夫を私に寄せてよこしておくれ、私の麻布小衾よ)戀しけば 來ませわが背子(せこ) 垣(かき)つ柳末(やぎうれ) 摘みからし われ立ち待たむ(―恋しいならばおいでください、わが背子よ、垣根の柳の枝先を枯らしながら私はお待ち致しましょう)うつせみの 八十言(やそこと)の葉(へ)は 繁くとも 争ひかねて 吾(あ)を言なすな(― 世間の噂はたとい繁くても、それに屈して私の名を口に出したりしないでください)うち日(ひ)さす 宮のわが背は 倭女(やまとめ)の 膝枕(ま)くごとに 吾(あ)を忘らすな(― 宮廷にいるあなたは大和女の膝を枕にするごとに、私をお忘れにならないで下さい) 男が大和へ帰る際の詠歌であろう。吾背(なせ)の子や 等里(とり)の岡道(をかぢ)し 中だをれ 吾(あ)を哭(ね)し泣くよ 息衝(いきづ)くまでに(― わが背子は、等里の岡道の途中のタワ・中途がたわんで低くなっている所 のように、この頃気持が中だるみで、私は泣けてしまいます。こんなに溜息が出るまでにも)稲舂(つ)けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ(― 毎日稲をつくので、あかぎれするこの手を、今夜もまた、御殿の若様が御とりになって嘆かれることだろうか)誰(たれ)そこの屋(や)の戸 押そぶる 新嘗(にふなみ)に わが背を遣(や)りて 齋(いは)ふこの戸を(― 誰ですか、この家の戸をガタガタ押すのは、新嘗の祭りで、夫を外に出して潔斎しているこの戸を)何(あぜ)と言へか さ寝に逢はなくに 眞日(まひ)暮れて 宵(よひ)なは來(こ)なに 明けぬ時(しだ)來(く)る(― どうして共寝するために逢ってはくださらないのですか、日が暮れて、宵のうちにあなたは来ないで、明けた時に来るとは)あしひきの 山澤人(やまさはびと)の 人多(さは)に まなといふ兒が あやに愛(かな)しさ(― 多くの人々が止せと言うあの子が、何とも言えずに胸にしみて可愛いことだよ)ま遠(とほ)くの 野にも逢はなむ 心なく里の眞中に 逢へる背(せ)なかも(― 遠くの野でお逢いしたいのに、思いやりなく、人目の多い里の真ん中で親しい声をかけてくださったあなたよ)人言(ひとごと)の 繁きによりて まを薦(ごも)の 同(おや)じ枕は 吾(わ)は纏(ま)かじやも(― 人の噂がしきりだからと言って、それで、マヲ薦の枕をあなたとともにしないことがありましょうか)高麗錦(こまにしき) 紐解き放(さ)けて 寝(ぬ)るが上(へ)に 何(あ)ど爲(せ)るとかも あやに愛(かな)しき(― 紐を解き放って共寝しているのに、この上にどうしろと言うのか、無性に可愛いことよ)ま愛(かな)しみ 寝(ぬ)れば言(こと)に出(づ) さ寝(ね)なへば 心の緒(を)ろに 乗りて愛(かな)しも(― 愛しさに共寝をすれば噂される、共寝をしないと、いつも心にかかって可愛くてならないよ)奥山の 眞木の板戸(いたど)を とどとして わが開かむに 入り來て寝(な)さね(― 奥山の真木で作ったこの板戸をことことと私が押して、私が開けたら入って来て、共寝をしなさい)山鳥の尾(を)ろの 初麻(はつを)に 鏡懸(か)け 唱え(とな)ふべみこそ 汝(な)に寄(よ)そりけめ(― 山鳥の尾に似た初麻に鏡を懸けて、神に呪文を唱える役を私がするはず、私はあなたの妻になるはずだからこそ、当然に噂が立ったのだろうが、実際には困ってしまう)夕占(ゆうけ)にも 今夜(こよひ)と告(の)らろ わが背(せ)なは 何(あぜ)そも今夜(こよひ)寄しろ來まさね(― 夕占にも今夜と出たわが背子は、どうして今夜お寄りにならないのだろう)あひ見ては 千年や去(い)ぬる 否をかも 吾(あれ)や然(しか)思ふ 君待ちがてに(― この前お逢いしてからもう千年がたっただろうか、いや、私だけがそう思うのだろう。あなたをお待ちし切れないで)しまらくは 寝つつもあらむを 夢(いめ)のみに もとな見えつつ 吾(あ)を哭(ね)し泣く(― しばらくの間は静かに寝ていたいのに、あなたの姿が夢にしきりに現れて、私は泣けてしまった)人妻(ひとづま)と 何(あぜ)か其(そ)をいはむ 然(しか)らばか 隣の衣(きぬ)を 借りて着(き)なはも(― 人妻だからいけないと、どうしてそれを言うのだろうか。では、隣の人の着物を借りて着ないだろうか、着るではないか)佐野山(さのやま)に 打つや斧音(おのと)の 遠かども 寝(ね)もとか子ろが 面(おも)に見えつる(― 佐野山で打つ斧の音が遠くに聞こえるように、遠くに居るが、共に寝ようと言うのか、妹の姿が面影に見えたことよ)植竹(うゑだけ)の 本(もと)さえ響(とよ)み 出でて去(い)なば 何方(いづし)向きてか 妹が嘆かむ(― 慌ただしく私が旅にでてしまったら、吾妹子は見当もつかずに、どっちを向いて嘆くことであろうか)戀ひつつも 居(を)むとすれど 木綿間山(ゆふまやま) 隠れし君を 思ひかねつる(― 恋しく思いながらも此処にじっとしていようと思うけれど、木綿間山に隠れてしまったあなたを慕い思う心持に堪えられないことです) 挽歌とも取れる。諾兒(うべこ)なは 吾(わぬ)に戀ふなも 立(た)と月(つく)の 流(のが)なへ行けば 戀(こふ)しかるなも(― なるほど、吾妹子は私を恋しく思っていることだろう。立つ月が流れ去っていくと恋しく思うことだろうな)東路(あづまぢ)の 手兒(てご)の 呼坂(よびさか)越えて去(い)なば 吾(あれ)は戀ひむな 後は逢ひぬとも(― 東海道の手児の呼坂を越えてあなたが行かれたら私は恋しいでしょう。後では、お逢いしましょうとも)遠しとふ 故奈(こな)の白嶺(しらね)に 逢(あ)ほ時(しだ)も 逢はのへ時(しだ)も 汝(な)にこそ寄され(― 遠いと言う故奈の白嶺でお前と逢う時も逢わない時も、世間の人々からお前と仲がいいと噂を立てられているものを。どうしてこの頃逢ってくれないのです)赤見山(あかみやま) 草根刈り除(そ)け 逢はすがへ あらそふ妹し あやに愛(かな)しも(― 赤見山で草を刈りそいで、承知の上で逢ったのに、恥ずかしがって従わない妹が何とも言えず可愛い)大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 愛(かな)し妹が 手枕(たまくら)離れ 夜立(よだ)ち來(き)の かも(― 大君の御命令を畏んで、愛しい妹の手枕を離れて、夜に出発してきたことだ)あり衣(きぬ)の さゑさゑしづみ 家の妹に 物いはず來(き)にて 思ひ苦(ぐる)しも(― 家で私を待つ妹に物を言わずに出かけて来て心苦しい気持である)韓衣(からころも) 裾(すそ)のうち交(か)へひ あはねども 異(け)しき心を 吾(あ)が思(も)はなくに(― この頃お逢いしませんけれど、私はあだし心を私は持っておりません)晝解(と)けば 解けなへ紐の わが背なに 相寄(よ)るとかも 夜(よる)解けやすけ(― 昼間解くと解けない紐が、わが背子に逢うからとでも言うのか、夜は解け易いことだ)麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 績(う)まずとも 明日(あす)着(き)させめや いざせ小床(をどこ)に(― 麻の荢・麻の皮からとった繊維で糸や縄に製するもの を麻笥いっぱいに糸になさっても、明日着物としてお召になるわけではないでしょう。ですから、もうその仕事はやめて、さあ、床に入りましょう)劔刀(つるぎたち) 身に副ふ妹を とり見がね 哭(ね)をそ泣きつる 手兒(てご)にあらなくに(― 身に寄り添っている吾妹子をやさしく介抱しかねて、私は泣いてしまった、子供ではないのに)愛(かな)し妹を 弓束(ゆづか)並(な)べ巻(ま)き 如己男(もころを)の 事とし言はば いや勝(か)たましに(― 愛しい吾妹子よ、弓束を並べて革を競い巻くように、恋敵というのなら、私は必ず勝つと決まっているのですが。あなたにはどうしても勝つことが出来ません)梓弓(あづさゆみ) 末に玉纏(ま)き かく爲爲(すす)そ 寝(ね)なな成りにし 將來(おく)を兼ね兼ね(― 梓弓の弓末に玉を巻きつけて大切にするように、大事にしながら、とうとう共寝もせずに終わってしまった。将来をあれこれ期待していたのに)生(お)ふ楉(しもと) この本山(もとやま)の 眞柴(ましば)にも 告(の)らぬ妹が名 象(かた)に出(い)でむかも(― ほんの少しも口に出さない妹の名前だが、鹿の骨の占いであらわになってしまうだろうか)梓弓 欲良(よら)の山邊の 繁(しげ)かくに 妹ろを立てて さ寝處(ねど)拂(はらふも(― よらの山辺の草木の茂みに吾妹子を立たせて、私は寝る場所の草を払っている)梓弓 末は寄り寝む 現在(まさか)こそ 人目を多み 汝(な)を端に置けれ(― 将来は一緒に寝よう、現在こそ人目が多いので、お前を中途半端にしているけれど)楊(やなぎ)こそ 伐(き)れば生(は)えすれ 世の人の 戀に死なむを 如何に爲(せ)よとそ(― やなぎならば切ってもまたは生えもしようが、人の世の私が恋の苦しみで死ぬのをどうしろと言うのでしょうか)遅速(おそはや)も 汝(な)をこそ待ため 向つ嶺(を)の 椎(しひ)の小枝(こやで)の 逢ひは違(たが)はじ(― 来るのが遅くても早くても、私はあなたをじっとお待ちしていましょう。向かいの嶺の椎の小枝のように若いさかりが過ぎてしまいましょうとも)子持山(こもちやま) 若鶏冠木(わかかへるで)の 黄葉(もみ)つまで 寝(ね)もと吾(わ)は思(も)ふ 汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ(― 子持山の若いカエデの葉が赤く色づくまで一緒に寝ていたいと私は思う。お前はどう思うのだね)
2024年09月27日
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筑波嶺に 背向(そがひ)に 見ゆる葦穂山(あしほやま) 悪(あ)しかる咎も さね見えなくに(― あの子には全く欠点が見えないのだよ、欠点が見えれば諦めることもしようが…)筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 世にもたゆらに わが思はなくに(― 筑波山の岩を轟かして落ちる水が決してと途絶えないように、我々の仲も途絶えようとは私は決して思わないのに)筑波嶺の 彼面此面(かのもこのも)に 守部(もりべ)据ゑ 母い守(も)れども 魂(たま)そ逢ひにける(― 筑波山のあちらこちらに山野の番人・守部を置いて山を守るように、母が私を守っているけれど、私達二人の魂は既に合一してしまった)さ衣(ごろも)の 小筑波嶺(をつくばね)ろの 山の崎(さき) 忘ら來(こ)ばこそ 汝(な)を懸(か)けなはめ(― いつも見える小筑波山の山の崎が忘れられないように、お前を無理にでも連れて行くことが出来るのならこそ、お前の名前を口に出さないだろうが)小筑波(をづくは)の 嶺(ね)ろに月立(つくた)し 間夜(あひだよ)は 多(さはだ)なりのを また寝てむかも(― 小筑波嶺の山に月が出るようになってお前と逢わない夜が重なったが、また一緒に寝ようか)小筑波(をづくは)の 繁き木(こ)の間(ま)よ 立つ鳥の 目ゆか汝(な)を見む さ寝(ね)ざらなくに(― 小筑波の山の繁った木の間を飛び立つ鳥の捕らえがたいように、お前を見てだけいなければならないのだろうか。一緒に寝たこともある仲なのに)常陸(ひたち)なる 浪逆(なさか)の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ 何(あ)どか絶えせむ(― 常陸の浪逆の海は満潮時に波が逆巻くので、そこの玉藻こそは引けば切れるけれど、私達の仲はどうして切れましょう)人皆の 言(こと)は絶ゆとも 埴科(はにしな)の 石井の手兒(てご)が 言(こと)な絶えそね(―世の中全ての人の言葉の行き来は絶えようとも、長野県の埴科の石井の愛しい娘の言葉はどうか、絶えずに寄こして欲しい)信濃道(しなのぢ)は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましなむ 履(くつ)着(は)けわが背(― 信濃道は新しく開墾した道です。きっと切り株を踏むでしょう、靴をお履きなさい、わが背子よ)信濃なる 筑摩(ちくま)の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾(ひろ)はむ(― 信濃の筑摩川の小石も、あなたがお踏みになったのなら、玉として拾いましょう)中洲(なかまな)に 浮き居(を)る船の 漕ぎて去(な)ば 逢うこと難し 今日にしあらずは(― 川の中洲に泊まっている舟と同じで、一旦漕ぎ出してしまったら、もう逢うことは難しい。今日でなければね)日の暮(ぐれ)に 碓氷(うすひ)の山を 越ゆる日は 夫(せ)なのが袖も さやに振らしつ(― 碓氷の山を越える日には、夫ははっきりと袖を振ってくれた、私はそれが見えて、嬉しかった)吾(あ)が戀は 現在(まさか)も悲し 草枕 多胡(たご)の入野(いりの)の 將來(おく)も悲しも(― 私の恋は今も切ない、多胡の入野の奥ではないが、オク(将来)も切ない気持です)上毛野(かみつけの) 安蘇(あそ)の眞麻群(まそむら) かき抱(むだ)き 寝(ぬ)れど飽かぬを 何(あ)どか吾(あ)がせむ(― かき抱いて寝てもまだ満ち足りた気持にならない、満足出来ない、私は一体どうしたらよいだろうか)上毛野 乎度(をど)の多杼里(たどり)が 川路にも 兒(こ)らは逢はなも 一人にもして(― 栃木県の小野のタドリの川道で愛しい子が逢ってくれるといい。一人で来てくれて)上毛野 佐野の莖立(くくたち) 折りはやし 吾(あれ)は待たなむゑ 今年來(こ)ずとも(― 上野の佐野のククタチを折ってお料理を作り、私は待っていよう、たとい今年あなたが見えなくとも)上毛野 眞桑島門(まぐわしまど)に 朝日さし まぎらわしもな ありつつ見れば(― 上毛野の真桑島門に朝日がさしてまぶしいように、このままじっとあなたを見ていると、眩しい気がします)新田山嶺(にひたやまね)に は着(つ)かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる兒らし あやに愛(かな)しも(― 新田山が、続いた山々から離れて端にいるように、私と親しいと噂されて、一人、一人から離れている子が何とも言えず、胸が痛い程に可愛い)伊香保ろに 天雲(あまくも)い繼(つ)ぎ かぬまづく 人とおははふ いざ寝(ね)しめとら(― 群馬県の伊香保の嶺・榛名山に天雲がつぎつぎにかかるように、カヌマズク人達が静まってきた。さあ、共寝をさせよ、愛しい子よ) 古来、難解とされている。伊香保ろの 岨(そひ)の榛原(はりはら) ねもころに 將來(おく)をな兼ねそ 現在(まさか)し善(よ)かば(― こまごまと今から将来のことを心配しなさるな、目前の今さえ幸せなら)多胡(たご)の嶺(ね)に 寄綱(よせつな)延(は)へて 寄すれども あにくやしづし その顔よきに(― 多胡の嶺に寄せ綱をかけて引き寄せるように、あの娘をなびかせようとするけれど、憎いとことに水に沈んだ石の様に動かないよ、顔が美しいものだから)上毛野 久路保(くろほ)の嶺(ね)ろの 久受葉(くずは)がた 愛(かな)しけ兒らに いや離(ざか)り來(く)も(― 黒穂の嶺のクズ葉の蔓が別れ別れに地を這うように、落としい子にますます離れて此処に来たことだ)利根川(とねかは)の 川瀬も知らず ただ渡(わた)り 波にあふのす 逢へる君かも(― 利根川の浅瀬が何処であるかも知らずに真っ直ぐに渡ってしまい、波にぶつかるように、ひたむきな気持で逢いに来て、ぱったりと逢えたわが君よ)伊香保ろの 八尺(やさか)の堰塞(ゐで)に 立つ虹(のじ)の 顯(あらは)ろまでも さ寝(ね)をさ寝てば(― 伊香保のヰデ・田に水を引くために川の水をせき止めた場所 に立つ虹のように、はっきりと人目につくほどに一緒に寝ていたら、どんなに楽しかろう)上毛野 伊香保の沼に 植(う)ゑ子(こ)水葱(なぎ) かく戀ひむとや 種求めけむ(― 伊香保の沼に植えるコナギ・浅いところに生える水草、葉が食用、夏咲く紫色の花は染料 ではないが、こんなに恋に苦しもうとて、私は種を求めたのであろうか)上毛野 佐野田の苗(ねへ)の 占苗(うらなへ)に 事は定めつ 今は如何(いか)にせも(― 上野の佐野の田の占ナヘ・苗代からひと握りの苗を抜き取り、その数によって吉凶を占うと言う によって結婚の事はもう定めました。今になってはもうどうにもなりません)上毛野 佐野の舟橋(ふなはし) 取り放(はな)し 親は離(さ)くれど 吾(あ)は離(さか)るがへ(― 上野の佐野の舟橋を取離すように親は私たちを遠ざけるが、私達は遠ざかるであろうか、遠ざかることはない)伊香保嶺(ね)に 雷(かみ)な鳴りそね わが上(へ)には 故(ゆへ)は無けども 兒らによりてそ(― 伊香保の嶺に雷よ鳴らないでおくれ、私には何のわけもないのだが、私の恋人が嫌うので)伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾(あ)が戀のみし 時無かりけり(― 伊香保風は吹く日吹かぬ日があるというけれど、私の恋の心ばかりは何時と言う定まった時もなく私を襲って来る」上毛野 伊香保の嶺(ね)ろに 降る雪(よき)の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり(― このまま通り過ぎることのできない妹の家のあたりよ)下毛野(しもつけの) 美可母(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま麗(ぐは)し兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ(― 下毛野の美可母の山の小楢のように可愛らしく美しい子は、一体誰の笥・食べるものを盛り付ける四角な箱 をもつのだろうか、誰の妻になるのだろう)下毛野 安蘇(あそ)の河原よ 石踏(ふ)まず 空ゆと來(き)ぬよ 汝(な)が心告(の)れ(― 下毛野の安蘇の河原を、石を踏んだ心地もなく宙を飛ぶ気持でやってきました。ですから、あなたの本心を言ってください)會津(あひづ)嶺(ね)の 國をさ遠(どほ)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね(― 福島県の会津の山のある国が遠くて会えない時には、偲び草にするようにと紐を結んで下さい)筑紫(つくし)なる にほふ兒ゆゑに 陸奥(みちのく)の 可刀利少女(かとりおとめ)の 結(ゆ)ひし 紐解く(― 筑紫の美しい子のために、東国の果の可刀利の少女が結んだ紐を解くことだ)安達多良(あだたら)の 嶺(ね)に臥(ふ)す鹿猪(しか)の ありつつも 吾(あれ)は到らむ寝處(ねど)な去(さ)りそね(― 福島県の安達太良山で寝る鹿猪がいつも同じところで寝るように、何時もと変わらずに私はお前のところに行こう、寝場所を変えないでいてくださいね)遠江(とほつあふみ) 引佐(いなさ)細江(ほそえ)の 澪標(みおつくし) 吾(あれ)を頼(たの)めて あさましものを(― 遠くの淡海・浜名湖の引佐の細江の澪標のように、頼みにさせておきながら、本当は浅い心であったのだなあ)志太(しだ)の浦を 朝漕ぐ船は 因(よし)無しに 漕ぐらめかもよ 因(よし)こさるらめ(― 静岡県の志多の浦を朝漕いでいる舟は、わけもなく漕いでいるのであろうか、そんなわけはあるまいよ、きっとそれなりの理由があるのだろう)足柄(あしがら)の 安伎奈(あきな)の山に 引(ひ)こ船の 後(しり)引(ひ)かしもよ ここば來(こ)がたに(― 足柄のアキナの山で舟を後ろから引いて下ろして行くように、帰る夫の後を私は引っ張りたい。私の所に来るのがひどく難しいのだから)足柄の 吾(あ)を可鶏(かけ)山の 穀(かづ)の木の 吾(わ)をかづさねも 穀(かづ)割(さ)かずとも(― 足柄の穀の木・皮をはいで紙を作る材料にする ではないが、私を誘って下さいな、穀の木を割かないでも)薪(たきぎ)樵(こ)る 鎌倉山の 木垂(こだ)る木を まつと汝(な)が言はば 戀ひつつやあらむ(― 薪を樵る鎌倉山の繁った木々を、松の木だと、待っていると、お前が言うのなら、何で私は此処で恋に苦しんでいよう。直ぐにもお前を訪ねて行こう)上毛野(かみつけの) 安蘇(あそ)山葛(やまつづら) 野を廣み 延(は)ひにしものを 何(あぜ)か絶えせむ(― 上毛野の安蘇山の蔓草が、野に広さ這い伸びているように、私の心はお前に走って深く思いをかけたのに、どうして途中で絶えることが出来ようか)伊香保ろの 岨(そひ)の榛原(はりはら) わが衣(きぬ)に 着(つ)きよらしもよ 一重(ひたへ)と思へば(― 伊香保の近くの榛原の榛の木は、私の衣に実によく染まる。裏もない心をもっているから、あの女の気持は私にぴったり合う、純粋だからだ)白遠(しらとほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の 守る山の 末(うら)枯(か)れ爲(せ)なな 常葉(とこは)にもがも(― 人に立ち入らせずに保護している小新田山の木々の葉のように、末え枯れすることもなく、何時までもみずみずしく元気でいたいものだ)陸奥(みちのく)の 安太多良(あだたら)眞弓 弾(はじ)き置きて 反(せ)らしめきなば 弦(つら)着(は)かめかも(― 安太多良真弓の弦を外して、そのまま弓を反らしておいたなら、弦を容易くかけることが出来ようか、出来はしない。逢わずにいて急に仲良くしようとしても、中々難しい)都武賀野(つむがの)に 鈴が音(おと)聞ゆ 上志太(かむしだ)の 殿(との)の仲子(なかち)し 鷹狩(とがり)すらしも(― 都武賀野で鈴の音が聞こえる。上志太の殿様が鷹狩りをなさっていらっしゃるらしい)鈴が音(ね)の 早馬驛家(はゆまうまや)の 堤井(つつみゐ)の 水をたまへな 妹が直手(ただて)を(― 早馬駅家の堤井の水を飲ませて頂きましょう、直接に妹の手で)この川に 朝菜洗ふ兒 汝(なれ)も吾(あれ)も 同輩兒(よち)をそ持(も)てる いで兒賜(たば)りに(― この川で朝菜を洗うお方、あなたも私も同じ年頃の子供を持っています。どうか、あなたの子を私に下さいな)ま遠(とほ)くの 雲居に見ゆる 妹が家(へ)に いつか到らむ 歩め吾(あ)が駒(― 遠くの空に見える妹の家に、何時つくだろうか、早く歩め、我が駒よ)
2024年09月24日
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この月は 君來(き)まさむと 大船の 思ひたのみて 何時しかと わが待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎていにきと 玉梓(たまづさ)の 使の言えば 蛍(ほたる)なす ほのかに聞きて 大地(おほつち)を 炎(ほのほ)と踏(ふ)みて 立ちて居(ゐ)て 行方(ゆくへ)も知 らず朝霧の 思ひ惑(まど)ひて 杖(つゑ)足(た)らず 八尺(やさか)の嘆(なげき) 嘆けども 驗(しるし)を無(な)みと 何處(いづく)にか 君が坐(ま)さむと 天雲(あまくも)の 行きのまにまに 射(い)ゆ猪鹿(しし)の 行きも死なむと 思へども 道し知らねば 獨り居て 君に戀ふるに ねのみし泣かゆ(― この月はわが君が見えるであろうと楽しみにして、何時だろうと早くと待っていると、亡くなったと使者が言うので、ほのかにそれを聞いて、大地を踏んでも炎を踏むように、立っても坐ってもどうして良いかわからずに、心も惑うて大きい嘆きをしても、何の験もないからと、何処にあなたはおいでかと天雲が流れるように歩いていき、手負いの猪鹿のように行き倒れにでもなってしまおうと、思うけれども、道が分からないので、独り坐ってあなたを恋しく思っていると、ただ泣けてくる)葦邊(あしべ)ゆく 雁の翅(つばさ)を 見るごとに 君が佩(お)ばしし 投箭(なげや)し思ほゆ(― 葦辺を行く雁の翅を見る毎に、あなたが身につけておられた投げ矢が思い出される)見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 十羽(とば)の松原 小子(わくご)ども いざわ出で見む こと離(さ)けば 國に放(さ)けなむ こと離(さ)けば 家に放けなむ 天地(あめつち)の 神し恨めし 草枕 この旅の日(け)に 妻離(さ)くべしや(― 見たいものは遥か遠くに見える十羽の松原、若者たちよ さあ、出てみよう。同じ遠ざけるなら、国で家にいるときに遠ざけてください。天地の神が恨めしい、この旅の間に妻を私から引き離すべきでしょうか)草枕 この旅の日(け)に 妻放(さか)り 家路(いへぢ)思ふに 生ける爲方(すべ)なし(― この旅の間に妻を亡くして、家への道を思うと、生きている術もない)夏麻(なつそ)引(ひ)く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ渚(す)に 船はとどめむ さ夜更(ふ)けにけり(― 千葉県の海上潟の沖の洲にこの舟は停めよう、気づいてみると、すっかり夜は更けてしまったよ)葛飾(かづしか)の 眞間(まま)の浦廻(うらみ)を 漕ぐ船の 船人(ふなびと)騒(さわ)く 波たつらしも(― 下総の葛飾の真間の浦廻を漕ぐ舟人がしきりに声を上げて動いている。波が立っているらしい)筑波嶺(つくはね)の 新桑繭(にひぐはまよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲(きほ)しも(― 筑波嶺・茨城県筑波郡にある、男女二峰を持つ名山として知られ、春秋ここでカガヒ・上代に稲の種まきや収穫の後に、神に祭り、飲酒して、男女が舞い、掛け合いの歌を謡い豊作を予祝して性の自由な開放を楽しむ行事で、東国ではかがひと言った の新しい桑繭の着物は着られなくとも、あなたの御着物は着たいと無性に思いますわ)筑波嶺に 雪かも降らる 否(いな)をかも かなしき兒ろが 布(ぬの)乾(ほ)さるかも(― 筑波嶺に雪が降ったのか、それとも愛しいあの子が洗った布を干したのだろうか)信濃(しなの)なる 須賀(すが)の荒野(あらの)に ほととぎす 鳴く聲聞けば 時すぎにけり(― 長野県の、信濃の須賀の荒野でホトトギスが鳴く声を聞いた。ああ、もう随分と時が過ぎたのだなあ)あらたまの 伎倍(きへ)の林に 汝(な)を立てて 行きかつましじ 眠(い)を先立(さきだ)たね(― 麁玉の伎倍の林にお前を立たせたままで待たせながら、今夜は行けそうにありません。先に寝て下さい)伎倍人(きへひと)の 斑衾(まだらふすま)に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床(をどこ)に(― 伎倍人の斑衾・種々の色の濃く薄く入り混じった布の掛け布団には綿が沢山入っていると言うが、私はどうしても入りたかったのに、妹の床に)天(あま)の原 富士(ふじ)の柴山 木(こ)の暗(くれ)の 時移(ゆつ)りなば 逢はずかもあらむ(― 今日の夕方、約束の時間が過ぎて行ったら、二度と逢うことが出来ないだろうなあ)富士の嶺(ね)の いや遠長き 山路(やまぢ)をも 妹がりとへば 日(け)に及(よ)ばず來(き)ぬ(― 富士山の遠い山路でも、妹の許へと言うので、日数もおかずにまたやってきた)霞ゐる 富士の山傍(やまび)に わが來(き)なば 何方(いづち)向きてか 妹が嘆かむ(―霞のかかっている富士山の麓に私が行ったら、私の姿が見えないので、吾妹子はどちらを向いて嘆くことであろうか)さ寝(ぬ)らくは 玉の緒ばかり 戀ふらくは 富士の高嶺の 鳴澤(なるさは)の如(ごと)(― 共に寝た夜は玉の緒ほどの短い間なのに、恋しい胸の内は富士の高嶺の鳴沢のように高く轟いています)駿河(するが)の海 磯邊(おしへ)に生(お)ふる 濱つづら 汝(いまし)をたのみ 母に違(たが)ひぬ(ー あなたを頼りにして私は母と仲違いしてしまいました)伊豆の海に 立つ白波の ありつつも 繼ぎなむものを 亂れしめめや(ー このままずっとお逢いして行きたいものを、何で心を乱すことがありましょうか)足柄(あしがら)の 彼面(をても)此面(このも)に 刺す罠(わな)の かなる間しづみ 兒(こ)ろ吾(あれ)紐解く(― 足柄山のあちこちに仕掛けるワナの、騒がしい間を、私と少女は紐を解くのです)相模嶺(さがむね)の 小峯(をみね)見かくし 忘れ來(く)る 妹が名呼びて 吾(あ)を哭(ね)し泣くな(― いつも見える相模の嶺の小峯を見て見ないふりをするように、つとめて忘れてきた妹の名を、つい口に出して呼んで私は泣いてしまいました)わが背子(せこ)を 大和へ遣りて まつしだす 足柄山の 杉の木(こ)の間か(― わが背子を大和へやって待ちつつ立つ、足柄山の杉の木の間よ、ああ)足柄の 箱根の山に 粟蒔(ま)きて 實(み)とはなれるを 逢はなくもあやし(― 足柄の箱根の山に粟を蒔いて実ったように、私の恋は成就したのに、今日逢えないことはおかしなことだ)鎌倉の 見越(みごし)の崎の 石崩(いはくえ)の 君が悔(く)ゆべき 心は持たじ(― わが君が後悔なさるような浅い心など私は決して持ちますまい)ま愛(かな)しみ さ寝(ね)に吾(わ)は行く 鎌倉の 美奈(みな)の瀬川(せがは)に 潮満つなむか(― 妹可愛いさに、私は共寝をしに出かける。鎌倉のあの美奈瀬川に今頃は潮が満ちているであろうか)百(もも)づ島 足柄小舟(をぶね) 歩行(あるき)多み 目こそ離(か)るらめ 心は思(も)へど(― 多くの島々を足柄小舟が漕ぎ回るように、あれこれ歩き寄る所が多いので、あなたは心に思っていても会う機会が少ないのでしょうね)足柄の土肥(とひ)の 河内(かふち)に 出づる湯の 世にもたよらに 兒(こ)ろが言はなくに(― 足柄の土肥の河淵に湧く温泉の、決して絶えそうもないように、ふたりの仲が絶えそうにはあの子は言わないのだが、私は心配で仕方がない)足柄の 崖(まま)の小菅(こすげ)の 菅枕(すがまくら) 何故(あぜ)か巻(ま)かさむ 兒ろせ手枕(たまくら)(― 足柄の崖に生えた小菅で作った菅枕を、何故しているのかね。愛しい子よ、私の手枕をしなさい)足柄の 箱根の嶺(ね)ろの 和草(にこぐさ)の 花つ妻(づま)なれや 紐解かず寝(ね)む(― 足柄の箱根の嶺の柔らかい草の花ではないが、お前が花のように眺めている妻なら紐も解かずに寝ようが、そうではないので打ち解けて寝たいのだ)足柄の 御坂(みさか)畏(かしこ)み 曇夜(くもりよ)の 吾(あ)が下延(したば)へを 言出(こちで)つるかな(― 足柄の坂の神の畏さに、はっきりと人に言わない心のうちを口に出してしまった)相模路(さがむぢ)の よろきの濱の 真砂(まさご)なす 兒(こ)らは愛(かな)しく 思はるるかな(― 相模のヨロキの浜の美しい砂のように可愛くあの子が思われることよ)多摩川に 曝(さら)す手作(てづくり) さらさらに 何そこの兒の ここだ愛(かな)しき(― 多摩川に晒す手作りの布のように、サラニサラニ、どうしてこの子がこんなにも可愛いのかしら)武蔵野(むざしの)に 占(うら)へ肩(かた)焼き 眞實(まさて)にも 告(の)らぬ君が名 卜(うら)に出(で)にけり(― 武蔵野で占いをして、鹿の肩の骨を焼くが、決して口に出さないあの人の名がまさしくその占いに表れて、人々に知られてしまった)武蔵野の 小岫(をぐき)が雉(きぎし)立ち別れ 去(い)にし宵より 夫(を)ろに逢はなふよ(― 立ち別れて行ったあの夜から、私はずっとあの人に逢っていない)戀しけは 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出(で)なゆめ(― 恋しいなら私が袖を振りもしよう、決してお前は恋心を顔色に表してはいけませんよ)武蔵野の 草は諸向(もろむ)き かもかくも 君がまにまに 吾(あ)は寄りにしを(― 武蔵野の草は同じ方向を向く、そのように、とにかくもあなたのなさるままに私は寄り添いましたのに)入間道(いりまぢ)の 大家(おほや)が原の いはゐ蔓(つら) 引かばぬるぬる 吾(わ)にな絶えそね(― 入間道の大家が原のイハヰツラが引けば緩んで抜けるように、私との仲が切れてしまわないようにしてください)わが背子を 何(あ)どかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを(― 恋しい人を何と言おうか、何時も見える武蔵野のウケラの花のように、何時と言うこともなく恋しいものを)埼玉(さきたま)の 津に居(を)る 船の風を疾(いた)み 綱は絶えとも 言(こと)な絶えそね(― 埼玉の津に泊まっている舟のもやい綱は、風が激しくて、切れることがあろうとも、私への言葉は切らさないで下さい)夏麻(なつそ)引(ひ)く 宇奈比(うなひ)を指(さ)して 飛ぶ鳥の 到らむとそよ 吾(あ)が下延(したは)へし(― 宇奈比を指して飛ぶ鳥が宇奈比に行き着くように、私はお前のところに行き着こうと、密かに思いを寄せているのだ)馬來田(うまぐた)の 嶺(ね)ろの篠葉(ささは)の 露霜の 濡れてわが來なば 汝(な)は戀ふばそも(― ウマグタの山々の中に隠れているように、こんなにまでお前のいる国が遠かったら、お前の顔をますます見たくなるだろうな)葛飾(かづしか)の 眞間(まま)の手兒奈(てごな)を まことかも われに寄すとふ 眞間の手兒奈を(― 本当だろうか、葛飾の真間の手兒奈と私とが良い仲だと噂していると言う。真間の手兒奈と)葛飾の 眞間の手兒奈が ありしかば 眞間の磯邊(おすひ)に 波もとどろに(― 有名な葛飾の真間の手兒奈がいたものだから、真間の磯辺で波も轟くほどに人が騒ぎ立てることだ)にほ鳥(どり)の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(― 葛飾早稲で新嘗・神や天子にその年の新い物を食物として捧げる の祭りを行っていても、東国ではその夜は物忌が厳重で、その饗応に預る神以外は、家人は全て外に出される、あの私の愛しい人を外に立たせておけようか、そんな事は出来ない)足(あ)の音(おと)せず 行かむ駒もが 葛飾の 眞間の繼橋(つぎはし) やまず通はむ(― 足音を立てずに行く馬が欲しい。葛飾の真間の継ぎ橋をいつも女のもとに通いたい)筑波嶺(つくはね)の 嶺(ね)ろに霞居(ゐ) 過ぎかてに 息(いき)づく君を 率寝(ゐね)てやらさね(― 筑波山に霞がかかって動かないように、あなたの側を通り過ぎきれないで溜息をついているお方を一緒に寝て帰しておやりなさい)妹が門(かど) いや遠そきぬ 筑波山 隠れぬ程(ほと)に 袖ば振りてな(― 妹の家の門は、いよいよ遠のいていく。筑波山に隠れないうちに袖を振ろう)筑波嶺に かか鳴く鷲(わし)の 音(ね)のみをか 鳴き渡りなむ 逢ふとはなしに(― 筑波山で声高く鳴く鷲のように、私は泣き続けることであろう。あなたにお逢い出来なくて)
2024年09月20日
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磯城島(しきしま)の 大和の國に いかさまに 思ほしめせか つれも無き 城上(きのへ)の宮に大殿を 仕え奉(まつ)りて 殿隠(こも)り 隠(こも)り在(いま)せば 朝(あした)には 召して使ひ 夕(ゆふべ)には 召して使ひ つかはしし 舎人(とねり)の子らは 行く島の 群れて侍(さもら)ひ ありて待てど 召し賜はねば 劔刀(つるぎたち) 磨「と)ぎし心を 天雲(あまくも)に 思ひはららかし 展轉(こいまろ)び ひづち泣けども 飽き足(た)らぬかも((― 大和の国で、所もあろうに、どうお思いになってか、縁もない城上にお隠れになったのでそこに殯宮をお作り申し上げ、皇子は隠っておいでになる。それゆえに、皇子が朝夕に召してお使いになった舎人達は、そこに群がって伺候し、いつもお待ちしていてもお召しがないので、磨 ぎすまし緊張していた心も砕け、展転反則して泥にまみれて泣くのだけれども、泣いても泣いても飽きたらないことである)百(もも)小竹(しの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 東(ひむかし)の厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふといへ 水こそば 汲みて飼ふといへ 何しかも 葦毛(あしげ)の馬の 嘶(いば)え立ちつる(― 三野の王が東の厩西の厩を立てて飼っていた駒よ。草こそは刈り取って与えていると言うのに、水こそは汲んで与えていると言うのに、どうして葦毛の馬が嘶くのであろうか。三野の王を偲んで啼いているのであろう)衣手(ころもで)葦毛の 馬の嘶(いば)え聲 情(こころ)あれかも 常の異(い)に鳴く(― 王を追慕する心があるからか、葦毛の馬の嘶く声がいつもと違っている)白雲の たなびく國の 青雲(あをくも)の 向伏(むかふ)す國の 天雲(あまくも)の 下なる人は 吾(あ)のみかも 君に戀ふらむ 吾(あ)のみかも 君に戀ふれば 天地に 満ち足(たら)はして 戀ふれかも 胸の病(や)みたる 思へかも 心の痛き 吾(あ)が戀ぞ 日にけに益(まさ)る 何時(いつ)はしも 戀ひぬ時とは あらねども この九月(ながつき)を わが背子が 偲(しの)ひにせよと 千世にも 思ひわたれど 萬世に 語り續(つ)がへと 語りてし この九月(ながつき)の 過ぎまくを いたも爲方(すべ)なみ あらたまの 月のかはれば 爲(せ)む爲方(すべ)の たどきを知らに 石(いは)が根の 凝(こご)しき道の 石床(いはとこ)の 根延(ねは)へる門に 朝(あした)には 出で居て嘆き 夕(ゆふべ)には 入り居(ゐ)戀ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝ずに 大船のゆくらゆくらに 思ひつつ わが寝(ぬ)る夜らは 數(よ)みも敢(あ)へぬかも(― 白雲のたなびく国、青雲が遠くにふしている国の、天雲の下にいる人々の中でこんなにあなたに恋するのは私だけだろうか。私だけがこんなに甚だしい恋をして、天地の間に激しい恋を満たしているからだろうか胸が苦しく、心が痛い。私の恋は日増しに強くなる。何時とて、恋しく思わないときはないけれども、わが背子がこの九月を思い出にせよと、千年も想い続けよと語ったこの九月が、やがて過ぎ去るのを何ともするすべがなく、月が変わればどうすればよいのか分からないので、岩根のゴツゴツした道を、岩床の広がった門で、朝は出ていて嘆息し、夕方には中に入っていてお慕いし、黒髪を敷いて、世間の人のようにぐっすり眠ることもなく、大船が揺れるように定まらぬ思いをしながら、私の寝る夜は数えきれないだろうなあ)隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 鵜を八頭(やつ)潜(かづ)け 下(しも)つ瀬に 鵜を八頭(やつ)潜(かづ)け 上つ瀬の 年魚(あゆ)を食はしめ 下(しも)つ瀬の 鮎を食はしめ 麗(くは)し妹(いも)に 鮎を取らむと 麗し妹に 鮎を取らむと 投(な)ぐる箭(さ)の 遠離(とほさか)り居て 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 衣(きぬ)こそば それ破(や)れぬれば 繼ぎつつも またも合ふと言へ 王こそば 緒の絶えぬれば 括(くく)りつつ またも合ふと言へ またも逢はぬものは 妻にしありけり(― 泊瀬の川の上流と下流に鵜を多く潜けて、鮎を食べさせたいものと、きめ細かく麗しい妹に遠く離れていて、慕う心地も不安で、嘆く心も不安でいると、衣こそは破れたならば継ぎ継ぎして再び合わされると言うけれど、玉ならば、それを合わせている紐が切れれば、括り合わせればそれですむけれども、再び逢うことのないのは、亡くなってしまった妻なのであるなあ)隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山 青幡(あをはた)の 忍坂(をさか)の山は 走出(はしりで)の 宜しき山の 出立(いでたち)の 妙(くは)しき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも(― 泊瀬の山、忍坂の山は、家から出て見ると姿の良い美しい山である。この立派な山が荒れるのは本当に惜しいことだ)高山と 海こそは 山ながら 斯(か)くも現(うつ)しく 海ながら 然(しか)眞(まこと)ならめ 人は花物そ うつせみの世人(よひと)(― 高山と海こそは、その性格上から、これほどに確乎として厳然と存在しているが、人間とは花のように儚く散りやすいものである、この世に僅かながらに生を得て生きる人というものは!) 亡き妻を悼む心を忘れえずにいる私にはひどく、ダイレクトに響いて来る、心にしみるような一連の歌ではありまする。大君の 御命(みこと)恐(かしこ)み 秋津島(あきづしま) 倭(やまと)を過ぎて 大伴の 御津(みつ)の濱邊ゆ 大船に 眞楫(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 朝凪(あさな)ぎに 水手(かこ)の聲しつつ 行きし君 何時(いつ)來(き)まさむと 卜(うら)置きて 齋(いは)ひ渡るに狂言(たはこと)や 人の言ひつる わが心 筑紫(つくし)の山の 黄葉(もみちば)の 散り過ぎにきと 君が正香(ただか)を(― 大君のご命令を畏んで、倭の国を過ぎ、秋津の浜辺から大船に櫓を備えて朝凪、夕凪に、水夫の声を高く、櫓の音も高らかに出発して行った君は、何時帰っておりでだろうと、占いをして潔斎を続けてお待ちしていたのに、デタラメを人が口にしたのか、わが思うその人は亡くなってしまったと言う。ああ)狂言(たはこと)や 人の言ひつる 玉の緒の 長くと君は 言ひてしものを(― でたらめを人は言ったのであろうか。わが君は、玉の緒のように長く一緒に暮らそうと仰ったのに)玉鉾(たまほこ)の 道行く人は あしひきの 山行き野行き にはたづみ 川行き渡り 鯨(いさな)取り 海道(うみぢ)に出でて 畏(かしこ)きや 海の渡(わたり)は 吹く風も 和(のど)には吹かず 立つ波も 凡(おぼ)には立たぬ とゐ波の 立ち塞(さ)ふ道を 誰(た)が心 いたはしとかも 直(ただ)渡りけむ 直渡りけむ(― 道を行くこの人は、山を行き野を行き、川を渡り、海道に出て、恐ろしい神の渡りは吹く風も穏やかではなく、立つ波も並々でなく、うねる波で激しくうねって妨げる道であるのに、一体誰の心を思いやって無理をして真っ直ぐに渡ったのだろうか。ためらいもせず渡ったのか) 水死人を見ての歌鳥が音(ね)の きこゆる海に 高山を 障(へだち)になして 沖つ藻を 枕になして 蛾羽(ひひるは)の 衣(きぬ)だに着ずに 鯨魚(いさな)取り 海の濱邊に うらもなく 宿れる人は 母父(おもちち)に 愛子(まなご)にかあらむ 若草の 妻かありけむ おもほしき 言傳(ことつ)てむやと 家問へば 家をも告(の)らず 名を問へど 名だにも告(の)らず 泣く兒如(な)す 言(こと)だに問はず 思へども 悲しきものは 世間(よのなか)にあり 世間にあり(―鳥の声が聞こえる海で、高山を隔てにして、沖の海藻を枕にして薄い衣さえも身に付けずに、海の浜辺に無心に横たわっている人は、母や父にとっては愛子であろううし、可愛い妻もあったであろうか、思うことを言伝ましょうかと、家を聞くが家も言わず、名前を聞いても名前も言わない、どう思っても悲しいのはこの人生である、この人生であるよ)父母(いもちち)も 妻も子どもも 高高(たかたか)に 來むと待ちけむ 人の悲しさ(― 父母も妻も子供も今か今かと帰りを待っているであろう、その人の無残な姿を見ると悲しくてならない) 偶々目撃した溺死者に寄せる歌人の真情溢れる思いには素直に共鳴できますし、人間とはなんて素晴らしい存在なのかと、改めて感じるのですが、此処で突然ですが、女優の吉永小百合について私の感想を述べてみたいと思います。彼女は御自分を「表現者」と敢えて仰る。私達は皆創造者たる全能の神からすれば 被表現者 でありますが、それはともかく、吉永小百合さんは現代日本を代表する国民的アイドルでありまして、私もそのファンの一人であります。私がその吉永小百合に物足りなさを感じていると言っても、生意気だなどとお叱りを受ける心配はないのですが、女優として大成して大輪の花を咲かせ続けている彼女ですが、一人の女性としては何かもう一つ開花させきっていない、未成熟で未発達な部分が感じられてならないのであります。良き人生の伴侶に恵まれ、女優としては最良のブレインにも恵まれている彼女に、私ごときが何を生意気を言うのか、と誰かからお叱りを受ける心配はないのですが、注文をつけたくなるだけの素晴らしい器であるからこそ、私も本気でダメ出しをしたくなる。敢えて言いましょう、彼女の集大成はこれからにある。着せ替え人形めいた上辺の美々しさに拘らず、小百合流の悪女(?)を創造して頂きたい。血の通った、人間味溢れる、それ故に一層魅力あふれる役柄の開拓こそ、ご本人にとっては勿論の事、芝居好きの未来の観客をも引き込む驚天動地のスーパースターに変身して我々を楽しませて欲しいのですね。その気になりさえすれば、御自分の殻を思い切って破ってみる決意さえ見せれば、結果はおのずからついてくるでしょう。例えば、王女メディアの様な深味のある役柄を想定して下されば十分でしょう。私の持論ですが、大部分の役者が生涯に自分だけを表現し続ける。美空ひばりが生涯に美空ひばりだけを演じ続けるしかなかったように。吉永小百合もどのような役柄を演じようとも、吉永小百合しか演じられないように。同様に私古屋克征も一生涯私自身を演じきり、表現しきるしか能はないわけですが、十二分に己の可能性を発揮できたか否か、それだけが神から問われる厳しい審問なのですが、今は後悔のないように一日一日を悔いが残らないように過ごすだけです。このブログの読者も、神の与えられた可能性をフルに発揮してより良い人生を築き上げて欲しいものです。あしひきの 山道(やまぢ)は行かむ 風吹けば 波の塞(さや)れる 海道(ぢ)は行かじ(― 山道を行きましょう。風が吹くと波が遮る海の道は行きますまい)玉鉾(たまほこ)の 道に出で立ち あしひきの 野行き山行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚(いさな)取り 海路(うみぢ)に出でて 吹く風も のどには吹かず 立つ波も のどには立たず 恐(かしこ)きや 神の渡(わたり)の 重波(しきなみ)の 寄する濱邊に 高山を 隔(へだち)に置きて 沖つ藻を 枕に纏(ま)きて うらも無く こやせる君は 母父(おもちち)の 愛子(まなご)にもあるらむ 若草の 妻もあるらむ 家問へど 家道(いへぢ)もいはず 名を問へど 名だにも告(の)らず 誰(た)が言(こと)を いたはしみかも とゐ波の 恐(かしこ)き海を 直(ただ)渡りけむ(― 旅道にのぼって、野山を行き、川を渡り、海路に出て、吹く風も立つ波も荒い。恐ろしい神の渡の、波のしきりに押し寄せる浜辺で、高山を隔てに置き、沖の藻を枕にして無心に横たわっている君は、父母には愛しい子であろうし、可愛い妻もあるであろうに、家を聞いても名を聞いても、家道も名さえも言わずにいる。一体、誰の言った言葉を心にかけて、うねる波の恐ろしい海をひたすらに渡ったのであろう)母父(おもちち)も 妻も子どもも 高高(たかたか)に 來(こ)むと待つらむ 人の悲しさ(― 父母も、妻も子供も、今か今かと帰りを待ち望んでいるに違いない、この人を見ると実に悲しい)家人(いへびと)の 待つらむものを つれもなく 荒磯(ありそ)を纏(ま)きて 伏せる君かも(― 家の人々が待っているであろうのに、その気持ちに答えもせずに、荒磯を枕に臥せっている君であるよ)沖つ藻に こやせる君を 今日今日と 來(こ)むと待つらむ 妻し戀しも(― 沖の藻を枕にして横たわっている君を、今日帰るか今日帰るかと待っているに違いない妻は可愛そうだ)浦波の 來寄する濱に つれもなく こやせる君が 家道(いへぢ)知らずも(― 入江の波の入ってくる浜で、もはや人の気持に応えもせずに横たわっているあなたの家道が分からないことである)
2024年09月17日
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見渡しに 妹らは立たし この方に われは立ちて 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに さ丹塗(にぬり)の 小舟(をぶね)もがも 玉纏(たままき)の 小楫(をかぢ)もがも 漕(こ)ぎ渡りつつも 語らはましを(― 見渡す彼方に妹は立ち、こちらに私は立って、思う心地も安らかではなく、嘆く心地も不安でいるのです。赤く塗った小舟が欲しい、玉を纏いた楫が欲しい。漕ぎわたって互いに語り合おうものを)おし照(て)る 難波(なには)の崎に 引き上(のぼ)る 赤(あけ)のそほ舟 そほ舟に 綱取り繋(か)けひこづらひ ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はえにしわが身(― 難波の崎で引き上る、舟の保全のために赤土を塗ったソホ舟、そのそほ舟に綱をかけ、ああこうして舟を引いていくように、あれこれと否定したけれど、色々な事を言っては否定したけれど、結局否定しきれないで、人々から噂を立てられた私です)神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 朝凪(な)ぎに 來寄(きよ)る深海松(ふかみる) 夕凪ぎに 來寄るまた海松(みる) 深海松の 深めしわれを また海松の 復(また)行き反(かへ)り 妻と言はじとかも 思ほせる君(― 伊勢の海の静かな朝の浜に打ち寄せられる深海松・緑の藻や夕の浜に打ち寄せられる叉ミル、その深海松のように深くあなたをお慕いしている私なのに、そのまたミルのように、また行きつ戻りつしていて、この私を妻と呼ぶまいと思っているあなたなのですね)紀の國の 室の江の邊(へ)に 千年(ちとせ)に 障る事無く 萬世(よろづよ)に 斯(か)くしあらむと 大船(おほぶね)の 思ひたのみて 出で立ちの 淸き渚(なぎさ)に 朝凪ぎに 來(き)寄(よ)る深海松(ふかみる) 夕凪ぎに 來寄る縄苔(なはのり) 深海松の 深めし子らを縄苔の 引けば絶ゆとや 里人(さとびと)の 行きの集(つど)ひに 泣く兒なす 靫(ゆき)取りさぐり 梓弓(あづさゆみ) 弓腹(ゆはら)振り起(おこ)し 志乃岐羽(しのきは)を 二つ手挟(たばさ)み 放(はな)ちけむ 人しくも惜し 戀ふらく思へば(― 紀の国の室の入江のほとりで、永く障りもなくこのように幸せでありたいものだと頼みにして深く思いを寄せている子を、引けばふたりの仲が絶えると思ってか、里人が寄り集まっているところで、靫をとって探り、弓を振り立ててしのぎ羽の矢を二つ手に取って射放つように、ふたりの仲を引き裂くようなことをしたという人が本当に忌々しい。今こんなにも恋しいことを思えば)里人(さとびと)の われに告ぐらく 汝(な)が戀ふる 愛(うつく)し夫(つま)は 黄葉(もみちば)の 散り亂れたる 神名火(かむなび)の この山邊から ぬばたまの 黒馬(くろま)に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫(つま)は逢ひきと 人そ告げつる(― 里人が私に告げるには、お前が恋しく思っている愛しい人は、黄葉の散り乱れた神名火のこの山辺を通り、黒馬に乗り、川の七瀬も渡って、うらぶれた姿で出会ったと、里人が私に告げました) 挽歌(死者を悼む歌)とする説がある。聞かずして 默然(もだ)あらましを 何しかも 君が正香(ただか)を 人の告げつる(― 噂も耳にせずに黙ってぼんやりとしていればよかったものを、どうして里人があなたの様子を告げたのでしょう)物思はず 道行く行くも 青山を ふり放(さ)け見れば つつじ花 香(にほえ)少女(をとめ) 櫻花 榮(さかえ)少女(をとめ) 汝(なれ)をそも われに寄(よ)すとふ われをもそ 汝(なれ)に寄すとふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝(な)が心ゆめ(― 物も思わず道を歩きつつ、青山を振り仰いで見ると、そこに咲いているツツジの花のように色美しい少女よ、桜花のように咲き誇る少女よ、お前と私は仲がいいと人が噂しているそうだ。私とおまえとが仲良しだと噂をしているそうだ。あの人気のない荒山ですら、仲がいいと誰かが噂を立てるとひどく評判になるというから、気を付けないといけないよ)いかにして 戀ひ止(や)むものぞ 天地の 神を祈(いの)れど 吾(あ)は思ひ益(まさ)る(― どうしたら恋が止むものでしょう。天地の神に祈っても、私はますます恋心が増してきます)然(しか)れこそ 年の八歳(やとせ)を 切り髪の 吾同子(よちこ)を過ぎ 橘の 末枝(ほつえ)を過ぎて この川の 下(した)にも長く 汝(な)が情(こころ)待て(― ですから、長い年月にわたって年も行かない時代を過ぎ、橘の上枝を超える背丈になるまで、心の底深く、長いことあなたの気持が私に向くのをお待ちしていますのに)天地の 神をもわれは 祈(いの)りてき 戀とふものは さね止(や)まずけり(― 天地の神々にも私は祈りました、しかし、恋心というものは全然止みませんでした)物思はず 路行く行くも 青山を ふり放(さ)け見れば つつじ花 香(にほえ)少女(をとめ) 櫻花 榮少女(さかえをとめ) 汝(なれ)をぞも われに寄(よ)すとふ われをぞも 汝(なれ)に寄(よ)すとふ 汝(な)はいかに思ふや 思へこそ 歳(とし)の八年(やとせ)を 切り髪の よちこを過ぎ 橘の 末枝(ほつえ)を過ぐり この川の 下にも長く 汝(な)が心待て(― 物も思わずに道を歩いて行きながら、青山を振り仰いでみると、そこに咲いているツツジの花のように色美しい少女よ、桜花のように咲き盛る少女よ。お前と私が仲がいいと噂しているそうだ。お前はどう思う? 以上が男の歌 慕わしいと思っているからこそ、この長の年月、年も行かない時代を過ぎ、橘の上枝をこえる背丈になるまで、心の底深く、長いことあなたの気持が私に向くよのをお待ち致しておりましたものを。 女の答え )隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の國に さ結婚(よばひ)に わが來れば たな曇り 雪は降り來(き) さ曇り 雨は降り來(く) 野(の)つ鳥 雉(きぎし)はとよみ 家つ鳥 鶏(かけ)も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝(ね)む この戸開かせ(― 泊瀬の国に私が結婚にやって来ると、一面に曇って雪は降ってき、曇って雨は降ってくる。雉は鳴き立てて鶏も鳴く。夜は明けてしまう。入って、そして共寝をしたい。この戸を開いて下さい)隠口(こもりく)の 泊瀬小國(はつせをくに)に 妻しあれば 石は履(ふ)めども なほし來にけり(― 泊瀬の国に妻がいるので、石を踏む歩きにくい道だけれども、それでも私はやってきた)隠口の 泊瀬小國に よばひ爲(せ)す わが天皇(すめろき)よ 奥床(おくとこ)に 母は寝たり 外床(ととこ)に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ 幾許(ここだく)も 思ふ如(ごと)ならぬ 隠妻(こもりづま)かも(― 泊瀬の国に私を求めておいでになったスメロキ・土地の番長よ、奥の床には母が寝ています、外側の床には父が寝ています。私が起き立ったならばきっと母が気づくでしょう。出て行ったならばきっと父が気づくでしょう。夜は明け離れてしまいました、ほんとに何も出来ない隠妻です、私は)川の瀬の 石ふみ渡り ぬばたまの 黒馬(くろま)の來る 夜(よ)は常にあらぬかも(― 川瀬の石を踏んで渡り、私の夫の乗る黒馬の来る夜は、毎夜であればいいなあ)つぎねふ 山城道(やましろぢ)を 他夫(ひとつま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 其(そこ)思(も)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見(かたみ)と わが持(も)てる 眞澄鏡(まそかがみ)に 蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ) 負(お)ひ並(な)め持ちて 馬買へわが背(― 山城への道を他の夫が馬で行くのを、私の夫が歩いて行くので、見る毎にひたすら泣ける。それを思うと心が痛い。私が母の形見として持っている真澄の鏡・よく澄んでいる立派な鏡 にアキズヒレ・非常に薄い女用のマフラー を添えて持って行って馬をお買いなさい、わが背子よ)泉川 渡瀬(わたりぜ)深み わが背子(せこ)が 旅行き衣(ころも) 濡れにけるかも(― 泉川の渡る瀬が深いので、私の夫の旅の着物が濡れてしまった)眞澄鏡(まそかがみ) 持てれどわれは 驗(しるし)なし 君が歩行(かち)より なづみ行く見れば(― 真澄の鏡を私は持っているけれどもその甲斐がない。わが背子が徒歩で難儀して行くのを見ると)馬買はば 妹(いも)徒歩(かち)ならむ よりゑやし 石は履(ふ)むとも 吾(あ)は二人行かむ(― 馬を買ったならば、私は馬に乗ったとしても、吾妹子は徒歩で行かなくてはならないだろう。いいよ、構わない、私達は石を踏んでも二人で歩いて行こう)紀の國の 濱に寄るとふ 鰒珠(あはびたま) 拾はむといひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 何時(いつ)來まさむと 玉鉾の 道に出で立ち 夕卜(ゆううら)を わが問ひしかば 夕卜の われに告(の)らく 吾妹子(わぎもこ)や 汝(な)が待つ君は 沖つ波 來寄(きよ)る白珠(しらたま) 邊(へ)つ波の 寄する白珠 求むそと 君は來まさね 拾ふとそ 君は來まさぬ 久にあらば 今七日ばかり 早くあらば 今二日ばかり あらむそと 君は聞(きこ)しし な戀ひそ吾妹(わぎも)(― 紀の国の浜によるという鰒の珠を拾おうと言って、妹山背山を越えて行ったわが君は、何時帰って来られるだろうと、私が道に立って夕卜をしたところ、その夕卜のお告げに、吾妹子よ、お前が待っている君は沖の波に寄る白珠を、岸辺の波が寄せる白珠を求めるとてまだ帰っておいでにならないのだ、長ければもう七日ほど、早ければもう二日ほどかかるだろうと、わが君が仰った。恋しく思うな吾妹子よ、とのことだった)杖衝(つ)きも 衝かずもわれは 行かめども 君が來まさむ 道の知らなく(― 杖をついてもつかなくても、私はお迎えに行きたいけれど、あなたが帰っておいでになる道がわからなくて)直(ただ)に行かず 此(こ)ゆ巨勢道(こせぢ)から 石瀬(いはせ)踏み求(と)めそ わが來(こ)し 戀ひて爲方(すべ)なみ(― 巨勢道を通って石瀬を踏み、あなたを追い求めて私はやって来ました。恋しくて仕方がなくて)さ夜更(ふ)けて 今は明けぬと 戸を開(あ)けて 紀へ行く君を 何時(いつ)とか待たむ(― 夜が更けて、さあ夜が明けたと戸を開けて、紀の国に行くあなたを、お帰りは何時と思ってお待ちしたらよいのでしょう)門(かど)に座(ま)す わが背(せ)は宇智(うち)に 至るとも いたくし戀ひば 今還り來(こ)む(― 門先にいるわが背は宇智まで行ったとしても、私がひどく恋しいと思ったら、直ぐに帰ってくるだろう)階(しな)立(た)つ 筑摩(つくま)左野方(さのかた) 息長(おきなが)の 遠智(をち)の小菅(こすげ) 編(あ)まなくに い刈り持ち來(き) 敷かなくに い刈り持ち來て 置きて われを偲(しの)はす 息長(おきなが)の 遠智の小菅(こすげ)(― 滋賀県の筑摩のサノカタ・蔓植物 や、息長の遠智の小菅を、編みもしないのに刈ってきて、敷もしないのに刈って持ってきて、さて、そのまま捨て置いて、捨て置かれた私に恋しい思いをさせるとは。私はその淋しい息長の小菅です)懸けまくも あやに恐(かしこ)し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも多く坐(いま)せど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ來(こ)し 君の御門(みかど)を 天の如 仰ぎて見つつ 畏(かしこ)けど 思ひたのみて 何時しかも 日足(ひた)らしまして 十五月(もちつき)の 満(たた)はしけむと わが思ふ 皇子(みこ)の命(みこと)は 春されば 植槻(うゑつき)が上(うへ)の 遠つ人 松の下道(したぢ)ゆ 登らして 國見あそばし 九月(ながづき)の 時雨(しぐれ)の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負(お)ひて 靡(なび)ける萩(はぎ)を 玉襷(たまたすき) 懸けて偲(しの)はし み雪ふる 冬の朝(あした)は 刺楊(さしやなぎ) 根張梓(ねはりあづさ)を 御手(おほみて)に 取らしたまひて 遊ばしし わが大君を 霞(かすみ)立(た)つ 春の日暮(ひくらし) 眞澄鏡(まそかがみ) 見れど飽かねば 萬世(よろづよ)に 斯(か)くしもがもと 大船の たのめる時に 妖言(およづれ)に 目かも迷(まと)へる 大殿を ふり放(さ)け見れば 白栲(しろたへ)に 飾りまつりて うち日さす 宮の舎人(とねり)も 栲(たへ)の穂(ほ)の 麻衣(あさきぬ)着(け)れば 夢(いめ)かも 現(うつつ)かもと 曇り夜の 迷(まと)へる間(ほと)に 麻裳よし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ 石村(いはれ)を見つつ 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)り奉(まつ)れば 行く道の たづきを知らに 思へども しるしを無み 嘆けども 奥處(おくか)を無み 御袖(おほみそで) 行き觸れし松を 言問(ことど)はぬ 木にはあれども あらたまの 立つ月ごとに 天(あま)の原 ふり放(さ)け見つつ 玉襷(たまたすき) かけて偲(しの)はな 畏(かしこ)かれども(― 口に出して申し上げるのも恐れ多いことですが、藤原の都いっぱいに人は満ちているけれど、君は多くおいでになるけれど、送り迎える年月も長くお仕えして来た君の御門を、大空のように仰ぎ見、恐れ多いけれども心に頼みにして、何時になったら皇子様が成長され、満月のように満ち足りてご立派になられるだろうと思ってきた、その皇子様は春になると植槻のあたりの松の下道から丘にお上りになって、国見をなさり、九月の時雨の降る秋には大殿の敷地いっぱいの境界に露を負って靡く萩を心にかけて賞美なさり、雪の降る冬の朝は梓弓を手になさり御狩りを行った。この皇子様を、春の日の長い一日をかけて眺めても見飽きないので、永久にこのようにあって欲しいとお頼み申し上げている時に、人惑わしの言葉に目が狂ったのか、大殿を見やると白栲でお飾り申し上げ、宮の舎人達も白い喪服を着ているので、これは夢か現実かと、戸惑っているうちに、城上の道を石村を見ながら通って御葬り申し上げたので、歩いていく道の様子も分からず、どう思っても甲斐がないので、また、嘆いても果がないので、皇子の袖が触れた松を、物言わない木ではあるが、新月が上がるごとに振り仰いで見ては、心を寄せてお慕いしよう、恐れ多いことではあるけれども)つのさはふ 石村(いはれ)の山に 白栲(しろたへ)に 懸れる雲は わが大君かも(― 石村の山に白くかかっている雲はわが皇子であろうか) つのさはふ、は蔓が多く這っているの意で、石(いは)にかかる枕詞である。
2024年09月12日
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第百三十九聯、ああ、お前の無情な仕打ちが我が心を苦しめるのに、その罪の弁明役に当の私を呼び出すのが常套手段なのだが、それは止めてくれないか、私には辛すぎるのだよ、酷く傷ついている、お前が想像する以上にだ、えっ、あたしは想像なんかしない、だって、そうだろう、そうだろう、私の女々しい泣き言なのだ、恋人よ、その悪魔的な眼で私を傷つけずに、その舌で辛辣極まりない毒舌で傷つけてくれ。思いっきり力を振るうがよい、だが、策略で殺してくれるな。他の男を愛していると言うがよい、だが、恋人よ、お願いだから私の前ではよそに流し目をくれるのは、どうかよしてくれ、お前の力は追い詰められた私の力には負えないくらいに強いのに、何故、計略をつかってまで傷つける必要があろうか。お前の為に世の中の慣例に従って弁ずればこうなろうか、ああ、我が恋人は、その気まぐれな目つきが私の敵であるのを篤と承知している、それゆえに私の顔から敵を引き上げて、他の男に矢を降り注ぎ、手傷を負わせようとしている、と。だが、それは止めてくれ。私は半分死にかけているのだ、いっそ、その目つきで息の根をとめ、苦痛から救ってくれ。 第百四十聯、恋人よ、お前は世にも残酷な女だが賢さも持ち合わせてくれ、私がこうして黙って耐えているのに、この上、それを無視して責め苛むな。さもないと苦しさと悲しみが私に言葉を与えて、言葉は 憐憫欠乏症 の、わが苦しみぶりを述べ立てるだろう。お前に分別を説いてよければ、愛する者よ、肉欲の対象よ、たとえ愛していなくとも、嘘に嘘を重ねて「愛しているわ」と言うがよい。苛立ちやすい病人は、死期が近づくと、担当医からは良くなりますよという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望して狂乱に陥れば、その狂乱の最中でお前を悪しざまに言うかも知れない。全てっを捻じ曲げる当世の堕落混迷は甚だしいから、狂った男のたわいのない中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。だが、愛しい恋人よ、淫猥な肉欲の対象たるダークレイディーよ、狂った私の中傷の言葉が信じられて、お前が世間から中傷され、爪弾きされないように、お前の高慢で淫乱な心が肉体からさ迷いでても、眼だけは、正面を見詰めるがいい。 此処で、私の詰まらない感想を一言、詩人は女性を相手の繰り言、愚痴を述べる際には当然のことながら平凡な世の詩人並みの言辞しか述べることは出来ない。理想は現実の肉体交渉で解消され理想や夢を欠いた愛の空虚な表現は生彩さを伴いようがない。万葉詩人たちの方が余程素敵で生き生きとした躍動する恋心を表出し得ている。相手が肉欲だけで夢や理想を感じさせない相手では天才の出し様がないわけですね、しかし、これも天才詩人の計算の中に織り込み済みなこと。最終目的は神にも勝る理想の恋人の青年をより崇め、奉る手段なのですから。地の低さを強調することで天の高さを暗に表現する、本当の目的は此処に在ることを忘れないようにしよう。 第百四十一聯、実のところ、眼で見てお前を愛しているのではない、眼はお前の内に無数の欠点を見ているのだ。だが、心の方は眼が蔑むものを、愛している。心は見えるものに逆らって熱愛を捧げたがる、耳がお前の声音を楽しむのでもなければ、鋭い触感が卑しげに撫で回したがるのでもない、同様に、味覚も嗅覚も、別にお前一人だけを相手にして、官能の饗宴にあずかろうと思っているわけでもない。ただ、私の五官(視・聴・嗅・味・触)も、知恵の五つの働き(分別・想像力・知覚力・判断力・記憶力)も、ひとつの愚かな心がお前に仕えるのを抑制できないのだよ。かくて、わが心は、魂は、抜け殻同然の私を放り捨てて、お前の高慢な淫靡な心に仕える卑しい下僕と成り果てた。ただ、この本質的な禍が奇跡的に利益にも成りうるのは、私を愚かな罪に誘う女が、苦しみの罰を同時に与えてくれる事だけだ、その分だけ死後に与えられる罰が軽くなるから。 第百四十二聯、私の罪は愛したことで、お前の大切な美徳は憎しみと唾棄だ、私の罪に対する憎しみは、罪深い愛情から生まれ出た、ああ、お前よ、ああ、私の事情をお前のと比べてくれさえしたら、敢えて私を咎めるにも当たらぬことが分かるだろうよ。仮に咎められるにしても、よりによってお前の汚れた唇に謗られるいわれはない、それは、これまでにもおのが緋色の枢機卿の如き高貴な着衣を穢し、私の唇同様に、幾度も愛の偽証文に刻印を押してきたのだし、他人の寝台に入る収益を掠めてもきたのだからね。私の飢えた眼がお前に迫るように、お前の淫乱な眼も人を見境もなく誘い、贋の愛を語り続けるのなら、私がお前を愛したっていいはずだ、その心にどうか憐れみを植えてくれ、束の間でも構わないさ、そいつが育ってお前の造花の如き憐れみが人間らしさを僅かであっても帯びるのなら。それで、我慢できる。もしも、自分が拒絶するものを他者には要求するというになら、おのが身に照らしてみても、相手からは拒まれてしかるべきなのだ、因果応報なのだよ。 第百四十三聯、気苦労の絶える間もない一家の女房が、駆け出してはぐれた鶏の一羽を引っ捕えようと躍起になっている、抱えていた幼子を地面におき、相手を捕まえようと後を追って力の限り走っていく、捨てられた子供も母親を追って泣き喚くけれど、取りすがろうとするけれど、母親の方は目の前を逃げる鶏を追うのに無我夢中で、哀れな幼子の嘆きなどとんと頭にない、お前も同じさ、無慈悲な恋人よ、お前はただ自分から逃げる者だけを追いかける。私は見捨てられた幼子で、遠くから後を追ってついていく、でも、恋人よ、お目当てのモノを手にしたら戻ってきて母親役を勤めてくれ、私に接吻して、優しくしてくれ。とにかくも、戻ってきて泣き喚く私を宥めてくれるのなら、お前がウィル・思い(願望、意志、欲情、男根、心)などを手にするように陰ながら祈りもしようよ。 百四十四聯、慰安をもたらしてくれる者と、絶望に追い込む者と、私には二人の恋人がいて、二種類の霊魂のように絶えっずに私に働きかけてくる。より良い方の天使のごとき恋人はまことに色が白くて伝統的な美人、美貌の男なのだが、悪い方の霊はきわめて今日的で、不気味な黒い色をしたどう見ても不吉そのものと言った女だ。この女の悪霊は直ぐにでも私を地獄・梅毒の病 にひきおとそうとし、良い方の天使を私の側からおびきだし、あの醜くも華やかな娼婦的な姿で純潔な青年を口説き落とし、この純情この上ない初心な私の聖者を手もなく堕落させて、根っからの悪魔のように変化させようと図る。私はわが敬愛する天使が唾棄すべき悪魔に成り下がってしまったのではないかと疑い、恐れているのだが、まだ、確かなことは言えない。だが、二人は私から離れてお互いの友達になったのだから、男の天使は女の悪霊の股ぐら地獄、女陰の中にいるのだろう、だが、これは私には分からない、あの悪魔が無垢な天使を恐ろしい梅毒の火で燻り出すまで、疑いながら戦々恐々として生きるわけだ。 第百四十五聯、愛の優しい女神が美しい手で自ら作られたあの魅惑の唇が、「私は嫌いよ」という言葉を口にした、彼女を心底愛して挙句に恋にやつれ果てたこの私に向かってだ。しかし、私が極度に嘆くさまを見て取ると、すぐさま女の残酷な心にも哀れみが現れて、普段は情け深い判決を下している、常には優しい、あの舌を叱りつけて、こう言い直せと教え込んだ。女は「私は嫌い」に結びを添えて言い変えた。その出現はまるで暗い夜の後に穏やかな昼が訪れきたって漆黒の夜は悪魔のごとくに天から地獄に逃げ失せたよう。女は「私は嫌い」を憎しみの遠くに捨てて、「じゃないわ」と言い添え、我が命を救った…。 第百四十六聯、わが罪深き土くれの中心よ、お前を貶めんとするこの反逆の軍勢に打ち負かされた、憐れな魂よ、外壁は金を惜しまず、華やかに塗り立てながら、何故に、内では飢えに苦しみ悩むのか、窮乏に苦しみ耐えるのか。わずかの間だけ借りたに過ぎない、この朽ちゆく屋敷に、何故、こんなにも多額な費用を費やすのか、こういう奢りの相続人たる蛆虫どもにお前の預り物を食らわせるのか、それがお前の肉体の定めなのか。それなら、魂よ、こんな下僕は見殺しにして生きるがいい、お前の貯えを増やすためなら、奴は餓えさせておけ。屑みたいな時間を売り払って、永遠の生命を贖うがいい。もう、外側を装うのはよしにして内なるものを養うがよい。こうして、人を食らう死神をお前が喰らうのだ、そして、死神が死んでしまえば、もう死ぬことはない。 第百四十七聯、私の愛はそもそもが熱病みたいなものだ、いつでも病気を尚更養い育てる物を欲しがり、患いを長引かせるものを食べて、気まぐれで、病的な食欲を満たしている。つまり、性悪な黒い婦人を飽くなく追い求めて憔悴している。私の理性がこの悪性の愛を根治する医者なのだが、処方を守らないと言って怒り、私を見捨ててしまっている。病状は絶望に陥り、私は薬を拒む欲望が死に等しいのを此の身で知った。理性に見放されたからには回復する見込みはない。私は絶えずに不安に苛まれて錯乱している。わが心も、言葉も、狂人のそれと同じで、ひどく的外れな上に、愚にもつかぬ話ぶりだ、ああ、恋人よ、お前は地獄の如く暗く夜のように黒いが、私は美しいと誓い、輝くばかりと、見たのだからね。 第百四十八聯、全く愛は、愛の神キューピッドは何と言う眼をこの頭に嵌め込んだのだろうか、わが見る物は真実の姿とは似つかない、紛いものばかり。もしも似ているのなら、私の判断力は何処へ逃げたのか、眼は対象を正しく見るのに、鑑定を間違えているのではないか。あてには出来ないわが眼の熱愛するものが美しいなら、世間が違うというのは、どういう理由があってのことだろうか。違うのなら、わが愛がはっきりと示すとおりで、愛の眼は世間の眼の見る真実を見ないのだ。そうとも、ああ、どうして、ああ、どうして寝もやらず涙にくれて、痛み疲れた愛の眼に真実が見えようはずもない。だから、私が見違えても別に不思議はないのだが。太陽だって雲が切れるまでは何も見てはいないのだ、ああ、狡猾な愛よ、わが黒き恋人よ、愛のキューピッドよ、狡猾な愛よ、お前が涙で私を幻惑して目を晦ますのは、よく見える眼に、忌まわしい弱みを見つけられない為だ、それだけなのだよ。 第百四十九聯、ああ、ああ、酷い女よ、恋する淫乱女よ、私は敢えて己に背いて憎たらしいお前に組みしているのに、私が実はお前を愛してなどいないなどと言えるのか、暴虐非道なる女よ、我が事を忘れてこんなにも一途に尽くしているのに、私がお前の為を思っていないなどと言うのか。お前が憎む者に対して、私が友よ、などと呼びかけるであろうか。お前が不興げな顔を向ける者に、私が諂い顔を見せるか、いや、いや、お前が私に嫌な顔を見せれば、私はたちどころに嘆き悲しんで、我と我が身に恨みを晴らしはしないだろろうか。お前に奴隷のごとくに仕えるのを蔑むほどに、誇らしくて優れた才質を何にしても我が身の内に認めているだろうか。私は忠実な下僕宜しく、お前の眼の動きが命じるままに、全身全霊を挙げてお前に尽くし、厭らしい欠点を崇め奉っているではないか、だが愛する者よ、心底憎むがいい、今はお前の心が解った。眼の見える者達をお前は愛するが、私は盲目なのだ、進んでそうなったのだ、本望だよ。 第百五十聯、ああ、お前、淫乱好色なる我が恋人よ、どんな種類の神からその強力な力を授かったのか、お前はわが弱みを逆手にとってわが心を支配する。挙句に、私は真実を見る眼を嘘つき呼ばわりして、昼間を引き立てるのは明るさではない、などと誓う始末。醜悪な嫌悪すべきものに魅力を添えるこの術を、お前は一体何処で覚え仕込んだのか。塵芥同然のその卑しく浅ましい振る舞いにさえ、確かな手練手管、遣り手婆あさながらの老練な力が満ち満ちているから、わが心の中ではお前の最悪が全ての最善に打ち勝つのだ、憎んで当然のものを見聞きするほど、却ってお前を愛したくなる、その手口は誰に教えてもらったのだ。ああ、ああ、私は他人が忌み嫌うものを愛しているが、お前までが人と一緒になって私を忌み嫌う法はないぞ、思いの卑しさと好色さが私の愛を呼び起こしたのなら、尚の事、私はお前の愛に相応しい淫猥な男だ、実に、嘆かわしくも似合いのカップルと呼べようよ。 第百五十一聯、愛は若すぎるから、分別がどういうものかを知らないが、分別が愛から生まれるということは誰でも知っている。だから、優しい残酷な裏切り者よ、私の過ちを責めるのはよせ。美しいお前がわが罪の元と知れては困りもしようよ。お前が私を裏切るから、私も裏切りを働いて自分の高貴なる魂を、賎しい肉体の反逆に委ねるのさ。魂は肉体に命じて、愛の凱歌をあげるがいいと言い、肉体の方は二度と言われるまでもなく、お前の名前を聞いて突っ立ち、勝利の獲物はお前だと指を指す。こうして、自惚れ、膨れ上がり、惨めな苦役人の身分に満足して、事あればお前の為に立ち、お前の傍らで死のうと言う。彼女を恋人と呼び、愛ゆえに立とうと、死のうと、だからと言って私が無分別だとは考えてくれるな。 第百五十二聯、私がお前を愛して誓いに背いたのは、知っての通りだ、事実さ。でも、お前は私に愛を誓って二度も誓いに背いた。夫婦の契を裏切ったし、新しい愛が生まれると、新しい約束を破り捨てて、新しい憎しみを誓ったのだから。だが、二度誓を破ったとて、お前を咎められるか、この私は二十度も誓を破っているぞ。私が一番の嘘つきだ。私の見え透いた誓いはみんなお前をその場限りで欺く誓いにすぎない。お前のせいで私の誠実さなどは何処かへ吹き飛んでしまった、私はお前が真情溢れる女性だと心底から誓い、お前の愛にも、誠にも、貞節にも、嘘偽りはないなどと誓った、お前に光を添えるために、私はこの眼を晦ませた。また、眼が見るものとは逆の事を誓わせたよ。つまり、私はお前が美しいと誓ったし、真実に逆らってこんな醜く厭らしい嘘をつくとは,眼のイカサマがもっとひどい。 第百五十三聯、愛の神キューピッドが愛の松明を傍らに寝込んでしまった。純潔の女神ダイアナの侍女が、その隙に恋心を掻き立てるこの松明を引っつかみ、いきなり、近くの谷間の冷たい泉に突っ込んだ、泉は愛の神のものなるこの焔から、永劫の活気にあふれて変わることなき熱気をもらい、沸き滾る温泉と変じ、かくて、重病難病を癒す効験あらたかな薬湯となったのは、今も人の知る通り。ところが、愛の神の松明は我が恋人の眼からまた火種を得た。しかも、この少年、試しに私の胸を灼いてみないと気がすまぬ。おかげで私は病を得て、温泉の助けを借りようと急ぎこの土地を訪れ、哀れな患い客となったが、治療のすべはなかった。私を癒す温泉は、新たにキューピッドが火を得たところ、我が恋人の眼だったのだ。 第百五十四聯、或るとき、幼い愛の神が横になって眠り込んだ、恋心に火をつける松明を横に置いたままで。そこに純潔の一生を送ると誓った多くのニンフ達が軽やかな足取りで通りかかり、中でも一番美しい巫女が、清らかな手に松明を取り上げた、これまでに数え切れない数の真心を燃え立たせた松明をだ。こうして強い情欲を支配するこの大将殿、眠っている間に、娘の手で得物を奪い取られた。彼女はこの松明をそばの冷たい泉に浸して消した。泉は愛の神の火から永久(とこしえ)に冷めぬ熱気をもらい、温泉に変じて、病に悩む人々を癒す薬湯となった。だが、恋人の虜である私は此処に治療に来たけれど、こんなわけで知ったのは、これ。詰まりは、愛の神の火は水を熱っするが、水は愛を冷やしてはくれぬ、と。
2024年09月10日
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第百二十五聯、美々しい貴人に対して天蓋を捧げ持ち、これ見よがしに外面(そとずら)を崇めてみても、また、永遠の輝かしい名声を残そうとして巨大な礎石を築いても、それが私にとって何の得になろうか、何の得にもなりはしない。そんなものは、家屋敷が荒廃する程の間も持ちはしない。顔や容貌にこだわる者達が、素朴な香りを捨てて、甘ったるい混ぜ香水を欲しがり、高い代価を支払って一切合財を失うのを私は見なかったか、あれらは外見を気にして失ない破産した哀れな成り上がり共だ。いや、いや、私は君の麗しい清潔な心にだけ忠実に仕えたい。貧しいけれど、心からなるこの捧げ物を受けてくれたまえ。私のは見かけ倒しの混ぜものではないし、わざとらしい技巧も知らぬ。ただ、お互いを交換して、君に私の全てを差し出すだけだ。あっちへ行ってしまえ、穢らわしい、金で買われた密告者共め。大切な真実を守る者はどう謗られようとも、お前達の意のままになどはならない。 第百二十六聯、ああ、ああ、君よ、ああ、愛する若者よ、君は時の神の持つ気まぐれな鏡も時間という小鎌も、自らの手で管理統括している。時は移ろうが、君の美はいや増すばかりだ、だから、その美貌が成長すれば周囲の友人たちの衰えが変に目に付く。破壊を統御する女王たる自然の女神は、君が先に進むと絶えずに後ろに引き戻すが、君を自分の手元に留めておくのは彼女の技をもって時の神に恥をかかせ、ケチな時刻を滅ぼすためなのだ。ああ、君は彼女のお気に入りだが、決して気を許したりしないでくれたまえ、あれは自分の宝を引き止めても、永遠に傍らに置く力はない。彼女の決算が遅れても、いずれ報告はなされねばならない。そして、その支払いとは君を引き渡すことなのだ。 第百二十七聯、ここからは美貌の青年ではなく、黒い女が対象になる。昔の人は黒が美しいとは思わなかった、よし、そう思っても、口に出してまでは美しいとは言わなかった。金髪で色白なのが女性の美の標準だったから。だが当今では、黒が美の相続人に成り上がり、金髪色白は私生児めなどと、悪しざまに罵られている。つまり、世の誰も彼もが自然の力を掠め取り、技巧から借りた贋の顔で醜を美のスタンダードに変えた、それで、麗しい美は名声を失い、聖なる住み家を奪われて、俗界に落ち、汚辱に生きる身ともなりかねない始末だ。それゆえに、わが恋人の眼は鴉の如くに黒い、美人に生まれもしないのに技巧で美を手に入れ、ありもせぬのにあるかのように見せかけて、創造の力を貶める者らを、その黒い装いは嘆くかのようだ。だが、その眼は如何にも優雅に悲しみを嘆くので、どの人も、美とはこういう色に違いないと主張する。 第百二十八聯、バージナル、わが楽の音よ、黒き婦人、お前があの幸せな鍵盤に触れ、音楽を奏で、その美しい指の動きにつれて木片の動きが楽音に変わるとき、また、お前が弦の和音をたおやかに操り、わが耳を陶然とさせるとき、お前の柔らかな手の窪(くぼ)に接吻しようとて素早く跳躍する鍵どもを、私はどれほどしばしば憎んだことだろうか。その収穫を刈り取る筈の私の哀れな唇と言えば、木片の臆面もない振る舞いを、下衆な男どものようだと感じて、顔赤らめて見守るばかりなのだよ。お前の指は踊る鍵盤の上を軽やかに歩くけれど、私の唇だって、こんな素敵な愛撫を受けられるのならば、喜んで奴らと身分や境遇を取り替えようよ。その指は命のない木片を命のある生きている唇よりも幸せにしてやるのだもの。生意気な鍵はこれで大満足なのだから、接吻をさせるのなら、奴らにはその指を、私にはその唇を与えてくれ。 第百二十九聯、恥ずべき放埒のあげくに、精気を消失すること、これが淫欲の行為というものだ、また、行為に至るまで淫欲は偽証や、殺人や、流血を事とし、数多くの罪を犯し、野蛮、凶暴、残忍、無慈悲にして、到底頼み難い。人は一旦これを享楽し終われば、たちまちにして蔑む。分別をうちやって捜し求めても、手に入れてしまえば、分別をうちやって憎む。人を狂わせる為に仕掛けた餌を呑み込めば、こうもあろうというように。追い求めるときが狂乱の様子なら、手に入れても狂乱のまま。行為の後も、最中も、これからという時にも凶暴のきわみ、体験の最中には至福を味わうが、体験の後には悲しみだけが残る。前方には歓びが見えても、振り返れば一片の夢にしか過ぎない、世の人だってそれは篤と御存知だが、こういう地獄に人を連れ込む天国を避けて通るすべは、誰も知らない、知らされてはいないのだ。 第百三十聯、私の彼女の魅惑の瞳などは輝く太陽などとは比較にもならぬ。あれの唇の赤みより珊瑚の方が遥かに紅色だ、雪を白いと表現するなら、彼女の乳房はさしずめ薄い墨の色と言うべきか。毛髪が針金と形容するのが詩歌の常套句なら、あれの頭には黒い針金が生えているわけだ。赤や、白や、色混ざりのバラを見たことはあるが、だが、彼女の愛らしい頬にそんな薔薇が咲いたのをかつて見たことがない。香水の中にだってあれの吐く息よりももっと芳しい香りをはなつやつがある。あれが喋るのを聞くのは好きだが、音楽の方にだってもっとずっと妙なる響きがあるのを、私もよく承知している。確かに私は光り輝く美しい女神が歩むのを見たことがない、私の女が歩くときは大地を踏みしめて歩くのだから。だが、神掛けて言おう、わが麗しの恋人は勝手な比較を操ってでっち上げたどの女に比べても、見事引けをとらない。 第百三十一聯、この通りに黒いお前だが、昔なら美とは無縁だった、その無慈悲さときたら、美貌を笠に着て酷い仕打ちをする女等にも負けない。愛にのぼせたこの心には、お前は世にも美しく、貴重な宝石だ。それを、当のお前が心得切っている、だが、実のところお前を見て、あの顔には恋人に溜息を吐かせる力はない、と言う人たちもいる。それは間違いだと主張する程私は向こう見ずにも大胆にもなれない、ただ、自分だけには間違っていると誓言してみるのだが。そして、この誓言が偽りであることを信じさせるためにか、お前の個性的な顔を思い浮かべるだけで、次から次へと無数の溜息が漏れ来たって、証人となり、わが判定の場たる心の中で、お前の醜くも美しい黒さがこの上もなく美しいと断言する。お前が黒くて醜いのはそもそも振る舞いだけ、他にはない。だから、思うに見当違いな、恋人を十分に魅了する魅力に欠けるなどという、中傷も生まれるのだろう。 第百三十二聯、私はお前の黒い瞳を愛している、それはお前の心が私を蔑み、苦しめるのを知って殊更に憐れむように、黒い衣服を纏い、愛の喪に服して、優しい憐憫の情を抱いて私の痛ましい苦悩を見守っている。まことに、天空の朝の太陽が東の空の灰色の頬に相応しかろうとも、また、夕暮に先ず現れる明星が宵闇の西空にどのような輝きをそえようとも、この喪服を着た二つのつぶらな瞳がお前の顔を飾るのにはとても及ばない。ああ、喪服がお前に優雅さを添えるのなら、お前の心も、私を嘆くのにふさわしい装いにしてくれ。他と同様に、お前の哀れみにも喪服を着せてくれ。そうしたら私は、美の女神自身が黒いのだ、その色ならぬものは全て醜く見るに堪えない、と誓って見せように。 第百三十三聯、わが麗しの心友と私に、あれほどの深い手傷を負わせ、わが心を呻かせる、あの残忍な心に禍いよ降りかかれ、私ひとりをこっぴどく痛めつけるだけでは飽き足らずに、わが優しい繊細この上ない友まで奴隷の身に堕とさねば気がすまないのか。その残忍な眼は私から私自身を奪い取り、その上になお無情にも、第二の我なる宝石の如き友を虜にしてしまった。結果、私は友にも、私自身にも、お前にも見捨てられた、ボロくず同然に。こんな酷い目に遭うなんて九層倍もの拷問を受けるにも等しい。私の脆弱な心はお前の鉄の胸の牢獄に閉じ込められても、わが友の純真極まりない心は大切に真綿に包むようにして、私の哀れな、惨めな、可憐さで満ち満ちている心に収監しておきたい。誰が私を独房に繋いでも、私の心は彼専用の個室にしておこうよ、私の牢獄でなら、お前も手加減なしの酷い仕打ちには出られまいからね。でも、やはり駄目か、絶望か、お前に鋼鉄の鎖で繋がれている私は、身も心もひっくるめて全部が全部、お前のものなのだから、お手上げなのだ、やはり…。 第百三十四聯、さて、彼がお前の所有になったのも認めたし、私自身、お前の意のままになる抵当物件なのだから、私は自分を没収されても構わない、第二の私を返してもらって、いつまでも我が慰めに成しうるならば。でも、お前はそうはしないだろうよ、彼も自由を求めまい、お前は貪欲だし、彼は根っから気のいい男だからね。彼は自分をも身動きならない目に引き込む。あの証文に、保証人気取りで署名することしか知らないのだ。あらゆるものに利子をつけねば気の済まない、この強欲な高利貸しめ。お前はその美と魅力ゆえに手にした権利書を盾に取り、我が為にむざむざと莫大な債務者と化した友人を無慈悲にも訴えようと言う。だから、私は己の心無い仕打ちによって、友を失う。私は彼を失ったが、お前は彼も、私も手に入れた。彼が全額を支払うのに、私はまだ自由の身にはなれない。 第百三十五聯、他の女はいざ知らず、お前は自分のウィル、心、願望、意志、欲情、男根、女陰、ウィリアムの愛称、などの様々な意味が込められている、を確かに手に入れた。その上に、おまけのウィルも、あり余りのウィルもある。いつもお前を悩ます私などは、そのお優しいウィル・心に、こうして、もう一つ加わった余計者もいいところだ。お前のウィル・心は大きくて広やかだが、せめて一度だけでも私のウィル・心をその中に包み込んでくれないだろうか。他人のウィル・心は誠に有難い幸せを授かったようであるが、私のウィル・心には気持ち良い受納のしるしを見せてくれないのか。海は一面の水だが、いつでも雨を受け入れる。有り余る富を抱えていても、なお富を加えるのだ。お前も豊かなウィル・心の持主だが、その心・ウィルに私の・心ウィルひとつ加えて、お前の大いなる心・ウィルをもっと増やしてくれ。つれない拒絶で嘆願者達を殺さないでくれ、すべてをひとつと考えて、私もそのひとつの心・ウィルに入れてくれ。 第百三十六聯、私が側により過ぎると、お前の心が咎めるのなら、これはあたしのウィルよ、と盲目の心に言ってやれ。彼も知っての通り、ウィルなら入れてもらえる。頼むからそれくらいはわが愛の願いを聞き入れてくれ。ウィルがお前の愛の宝庫をいっぱいに満たしてやる。そうとも、数多の思い・ウィルを詰めてやる、私の思い・ウィルはそのひとつだ。広い宝庫を使う時には、数あるうちの一つは数のうちには入らぬと容易に証明できるさ。だから、数に紛らせ、数えないで私を通してくれ。お前の財産目録の中では、私も一項目にはなるけれど。勿論、私を零と見てくれていい、ただ、その零の私がお前に素敵な者だと思ってもらえるなら。私の名前だけを恋人にして、それをいつも愛してくれ。それで私を愛することになる、わが名前がウィルだもの。 第百三十七聯、盲目の愚か者、愛の神キューピッドよ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見ているのに見ているものが分かっていない。美とは何かを知っているし、何処にあるかも見ているのに、最低の物をこよなく優れていると思い込む、恋の僻目に馴れて堕落した眼が、どの男たちでもが乗り入れる港に錨を下ろしたからと言って、何故、お前は眼の過ちで釣り針を作り、わが心の判断力を引っ掛けるのか。広い世間の共有地だと心は納得しているのに、その心がこれは個人の私有地だなどと何故考えるのか。また、私の眼はこれを見ながらこれではないと言い、こんな醜い顔に美しい真実を、どうして、装わせるのか。私の心も、眼も、誠真実なるものを見誤り今はこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。 第百三十八聯、わが恋人が、あたしは真実そのものと誓えば、嘘をついているのが解っていても信じてやる、それも皆、私が初心(うぶ)な若者で、嘘で固めた世間の手管など何も知らぬ、と思わせたいがため、女は私が若いさかりを過ぎたのを知っているのに、こちらは女に若く見られていると虚しく自惚れ、愚かな振りをしては彼女の嘘八百を信じてやる。両方がこんなふうに露骨で無遠慮に真実を押し隠す。だが、何ゆえに彼女は己の不実を白状しないのか。また、私は何ゆえに自分の老いを認めようとしないのか。ああ、ああ、愛が作る最良の習慣は信じあう振りをすることだ。恋する老人は年齢を暴かれるのを好まない。だから、私は彼女と寝て、嘘をつき、彼女も同様に嘘を言う。二人は欠点を嘘で誤魔化し合い、慰め合うのだ。
2024年09月06日
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うち延(は)へて 思ひし小野は 遠からぬ その里人(さとびと)の 標結(しめゆ)ふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らず 居(を)らくの 奥處(おくか)も知らず 親(にき)びにし わが家すらを 草枕 旅寝の如く 思ふそら 安からぬものを 嘆くそら 過(すぐ)し得ぬものを 天雲(あまくも)の ゆくらゆくらに 蘆垣(あしかき)の 思ひ亂れて 亂れ麻(を)の 麻笥(をけ)を無みと わが戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 人知れず もとなや戀ひむ 息(いき)の緒(を)にして(― 心を寄せて私が思う野・娘は、その近くの里人が標を結って占有したいと聞いた日から、己が立つ様もわからず、座っている結果も見透せず、馴れ親しんだ自分の家すら旅寝のように感じ、想う心も安からず、嘆く気持もやり過ごせずにいるものを、心が天雲のように動揺し、思いは蘆垣のように乱れ、麻笥が無いために乱れると麻の様に乱れに乱れて、恋しさの千分の一も人に知らせず、無性に恋し続けるであろうか、生命をかけて)二つなき 戀をしすれば 常の帯を 三重結ぶべく 我が身はなりぬ(― 二つとない恋をしているので、いつもの帯を三重に結ぶほどに痩せてしまった)爲(せ)む爲方(すべ)の たづきを知らに 石(いは)が根の こごしき道を 岩床(いはとこ)の 根延(は)える門(かど)を 朝(あした)には 出で居て嘆き 夕(ゆふべ)には 入り居て偲(しの)ひ 白栲の わが衣手(ころもで)を 折り反(かへ)し 獨りし寝(ぬ)れば ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝(ね)ずて 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ わが寝(ぬ)る夜らを 數(よ)みも敢(あ)へむかも(― どうしてよいのかも分からず、岩のごつごつした道を、岩床の広がっている門を、朝は出ていて嘆き、夕方には入っていてお慕いし、白栲の袖を折り返して独りで寝るので、黒髪を敷き、世間の人のようにぐっすり寝ることもなく、大船が揺れるように不安定な思いをしながら私が寝る夜は、数え切れるであろうか)獨り寝(ぬ)る 夜(よ)を算(かぞ)へむと 思へども 戀の繁きに 情利(こころど)もなし(― 一人で寝る夜を数えてみようと思うけれど、恋しさで胸が一杯で、数えるだけのしっかりした心もない)百足らず 山田の道を 波雲(なみくも)の 愛(うつく)し妻と 語らはず 別れし來れば 速川(はやかは)の 行くも知らに 衣手(ころもで)の 反(かへ)るも知らに 馬じもの 立ちて躓(つまづ)く 爲(せ)む爲方(すべ)の たづきを知らに 物部(もののふ)の 八十(やそ)の心を 天地(あめつち)に 思ひ足(た)らはし 魂合(たまあ)はば 君來ますやと わが嘆く 八尺(やさか)の嘆き 玉鉾の 道來る人の 立ち留(とま)り いかにと問(と)へば 答へ遣(や)る たづきを知らに さ丹(に)つらふ 君が名いはば 色に出(い)でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人にはいひて 君待つわれを(― 山田の道を波雲のように可愛い妻とゆっくり語り合わずに別れてきたので、行きも帰りもできず、私は馬のように一旦歩き出してはみたが、躓いて止まってしまった。 以上は男の歌 私もどうしてよいやら分からずに、様々に思う心を天地の間に満たすほどにあなたをお慕いし、魂が合ったら帰っておいでになるかしらと、私の吐く長い嘆息に道来る人が立ち止まって、どうしたのかと尋ねるので、答えやる術もわからずにあなたのお名前を言うと、私の恋心が外にあらわれて、人に気づかれてしまいそうなので山から出る月を待っていますと人には言って、あなたをお待ちしている私なのです。女の答え この様な男女の掛け合いの歌は珍しい。眠(い)をも寝(ね)ず わが思ふ君は 何處(いづく)邊(へ)に 今夜(こよひ)誰(たれ)とか 待てど 來まさぬ(― 眠りもせずに私が恋しているわが君は、今夜、どなたと何処にいるのでしょうか、お待ちしていてもお見えにならない)赤駒(あかごま)を 厩(うまや)に立(た)て 黒駒(くろこま)を 厩に立てて 其(そ)を飼ひ わが行くが如(ごと) 思ひ夫(つま) 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目(いめ)立てて しし待つが如 床敷きて わが待つ君を 犬な吠えそね(ー 赤駒を厩に立たせ、黒駒を厩に立たせて、それを飼い、私が乗っていくように、夫のことがいつも私の心に乗りかかっていて、高山の峯の低くなった所に射目・柴などを立てて射手が隠れて獲物を狙う設備 を立ててシシを待つように、床を敷いて待っているわが君を犬よ吠えないでおくれ)葦垣(あしかき)の 末かき別けて 君越ゆと 人にな告げそ 言(こと)はたな知れ(― 葦垣の先をかき分けわが背子が乗り越えて来るとしても、人には告げないでおくれ、犬よ。私の言葉をよく弁えなさいよ)わが背子(せこ)は 待てど來まさず 天(あま)の原 ふり放(さ)け見れば ぬばたまの 夜も更けにけり さ夜更けて 風の吹けば 立ち待てる わが衣手(ころもで)に 降る雪は 凍り渡りぬ 今さらに 君來まさめや さな葛(かづら) 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち 床(とこ)うち拂へ 現(うつつ)には 君には逢はず 夢(いめ)にだに 逢ふと見えこそ 天(あま)の足夜(たりよ)を(― わが背子は待っていてもおいでにならない。大空を振り仰いで見やれば夜も更けた。さ夜更けて風が吹けば戸外に佇んで待っている私の袖に、降る雪は一面に凍りついた。今さらわが君はおいでになるはずはない。後でお逢いしようと心を慰めて、両袖で床を打ち払うけれど現実にはお会いできない。せめて夢の中ででも逢おうとて姿をお見せください、この良い夜一晩を)わが背子は 待てど來まさず 雁(かり)が音(ね)も とよみて寒し ぬばたまの 夜も更けにけり さ夜更くと 風の吹けば 立ち待つに わが衣手に 置く霜も 氷(ひ)に冴(さ)え渡り 降る雪も 凍り渡りぬ 今さらに 君來まさめや さな葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど 現(うつつ)には 君には逢はず 夢(いめ)にだに 逢ふと見えこそ 天(あま)の足夜(たりよ)に(― わが背子は待っていてもおいでにならない。雁の声も鳴り響いて寒い。夜も更けた。夜が更けたとて嵐の風が吹くので、戸外に立って待っていると私の袖に置く霜も冷たく氷りわたり、降る雪も一面に凍りついた。今さらわが君がおいでになるはずもない。後でお逢いしようと心には頼みにしているけれども、現実にはお逢い出来ない。せめて夢にだけでも逢うとて姿を見せてください。この良い夜一晩を)衣手に あらしの吹きて 寒き夜を 君來まさずは 獨かも寝む(― 袖に嵐が吹いて寒い夜なのに、あなたがおいでにならないで、私は一人で寝ることであろうか)今さらに 戀ふとも 君に戀はめやも 寝(ぬ)る夜をおちず 夢(いめ)に見えこそ(― いくらあなたを恋しく思っても、今さらお逢いできないでしょう。眠る夜を欠かさずに夢に現れて下さい)菅(すが)の根の ねもころごろに わが思へる 妹に縁(よ)りては 言(こと)の障(さへ)も無くありこそと 齋甕(いはひべ)を 齋(いは)ひ掘り据(す)ゑ 竹珠を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂れ 天地の 神祇(かみ)をそ吾(あ)が祈(の)む 甚(いた)も爲方(すべ)無み(― ねんごろに私が慕っている妹のことでは、どうか言葉の禍もないようにと、神に捧げる神酒を入れる瓶を枕辺、床辺に据えて、細い竹を短く切って珠の様に紐にとうした竹玉をぎっしりと垂らして、天地の神々に私は祈る。何とも恋に耐え難くて)天地の 神を祈りて わが戀ふる 君いかならず 逢はざらめやも(― 天地の神々に祈って私が恋しているあなたには、必ずお逢いできるに違いありません)大船の 思ひたのみて さな葛(かづら) いや遠長く わが思へる 君に依りては 言のゆゑも 無くありこそと 木綿襷(ゆふたすき) 肩に取り縣け 齋(いはひ)瓶(べ)を 齋(いは)ひ掘り据え 天地の 神祇(かみ)にそわが祈(の)む 甚(いた)も爲方(すべ)無み(― 大船のように頼みにしていよいよ遠く長くあれかしと思っているあなたのことでは、言葉の禍もないっようにと木綿のたすきを肩にかけ、土を掘って齊瓶を据え、天地の神々に私はお祈りします。何ともするすべがなくて)御佩(みはかし)を 劒の池の 蓮葉(はちすは)に 渟(たま)れる水の 行方(ゆくへ)無み わがする時に 逢うべしと 逢ひたる君を な寝(ね)そと 母聞(きこ)せども わが情(こころ)淸隅(きよすみ)の池の 池の底 われは忘れじ ただに逢うまでに(― 剣の池の蓮の葉に溜まった水のゆくへもないように、行くべき方もなくている時に、逢おうと言って逢ってくださったあなたと共寝をしてはいけないと母が申しますが、私の心は清隅の池の池の底のように深くあなたを思っていて、あなたを忘れないでしょう、直接お逢いするまで)古(いにしへ)の 神の時より 逢ひけらし 今の心も 常忘らえず(― 昔々の神々の時代から男女は相逢ったものらしい。今の世の心でも、恋というものはいつも忘れられないものです)み吉野の 眞木立つ山に 青く生(お)ふる 山菅(やますが)の根の ねもころに わが思ふ君は 大君の 遣(まけ)のまにまに 夷(ひな)離(さか)る 國治めにと 群鳥(むらとり)の 朝立ち去(い)なば 後(おく)れたる われか戀ひなむ 旅なれば 君か偲(しの)はむ 言はむ爲方(すべ) せむ爲方知らに 延(は)ふ蔦(つた)の 行(ゆ)きの 別(わかれ)のあまた 惜(を)しきものかも(― み吉野の真木の立っている山に青く生えている山菅の根の、ねんごろに、私の慕う君が、大君の任命なさるままに辺鄙な田舎を治めにと朝立っておいでになったら、後に残った私は恋しく思うだろうか、旅なのであなたが私を偲ぶだろうか、どう言ってよいのか、どうしたらよいのか分からなくて、この別れが本当に惜しく思われます)うつせみの 命を長く ありこそと 留(とま)れるわれは 齊(いは)ひて待たむ(― 命長かれと後に残った私は潔斎してお待ちします)み吉野の 御金(みかね)の嶽(たけ)に 間無(まな)くぞ 雨は降るとふ 時じくそ 雪は降るとふ その雨の 間無きが如(ごと) その雪の 時じきが如(ごと) 間(ま)もおちず われはそ戀ふる 妹(いも)が正香(ただか)に(― み吉野の御金の岳に、止む間もなく雨は降ると言う。時を定めず降るように、間もおかず私は恋しく思う。妹その人を)み雪降る 吉野の嶽(たけ)に ゐる雲の 外(よそ)に見し子に 戀ひ渡るかも(― み雪が降る吉野の岳にかかっている雲のように、自分とは無縁のものと見ていた子を、今は恋しく想い続けることである) うち日(ひ)さす 三宅(みやけ)の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏(ふ)み貫(ぬ)き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑそ 通はすも吾子(あご) 諾(うべ)な諾(うべ)な 母は知らじ 諾(うべ)な諾(うべ)な 父は知らじ 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 眞木綿(まゆふ)以(も)ち あざさ結ひ垂(た)れ 大和(やまと)の 黄楊(つげ)の小櫛(をくし)を 抑え挿(さ)す 刺細(さすたへ)の子 それそわが妻(― 三宅の原を素足で地べたを踏みつけ、腰に纏わる夏草をかき分けかき分け、どんな子の為にそんなにまでして通っておいでなのだね、我が子よ。 以上は父母の問 そうお尋ねになるのはごもっともですが、父さんも母さんもご存知ないでしょうが、黒い髪に真木綿でもってアザサ・全国の湖沼や池などの浅い所群生する浮葉性の多年草 を結んで垂らし、大和で出来る黄楊の小櫛を髪の抑えに挿す、可愛い子、それです、私の妻は)父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道(みやけぢ)の 夏野の草を なづみけるかも(― 父母に知らせない可愛い子の為に、私は三宅へ行く夏野の草の道を難渋しながら行ったものだなあ)玉襷(たまたすき) 懸けぬ時無く わが思ふ 妹にし逢はねば あかねさす 晝はしみらに ぬばたまの 夜(よる)はすがらに 眠(い)も寝(ね)ずに 妹に戀ふるに 生(い)ける爲方(すべ)なし(― いつも心にかけぬ時とてなく、私の恋している妹に逢わないので、昼は日の暮れるまで、夜は夜の明けるまで、少しも眠らずに恋い慕っていると、もはや生きるすべもない)よしゑやし 死なむよ吾妹(わぎも) 生けりとも 斯(か)くのみこそ 吾(あ)が戀ひ渡りなめ(― ええ、もう私は死んでしまおう。吾妹よ、生きていても、こんな風に恋い続けるだけでしょうから)
2024年09月05日
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第百十一聯、君よ、君、ああ、お願いだから、私の運命の女神を叱ってくれ、私が悪いことをしたとしても、それはみんなあの性悪な女神のせいなのだからね、あの女神が私の暮らしの方便((たずき)の支えとして充てがってくれたのは、雑多な付き合いを生み出す座付き作家としての当座の人気稼業でしかなかったのだ、お蔭で私の名前にはよからぬ烙印が押される結果となり、謂わばこの為に私の本性までもが染物師の手のように、おのが仕事場の色に染まることになったのだ。だから君、ああ、君きみ、私をどうか哀れんで、私の地道な更生を願ってくれたまえ、私の方は聞き分けの良い患者宜しく酢を服用して、この強力な伝染病から身を守るとしよう、どんなに苦くとも、苦いとは思うまい、また、罰に罰を受け、二重に悔いることも更に厭わないつもりでいる。だからわが友よ、愛しい君よ、私をどうか憐れんでくれ、憐れんでくれ、そうとも、君の憐憫の情さえあれば私は十分に癒されるだろうからね。 第百十二聯、世間の非難中傷というやつが私の額に灼きつけたこの烙印の痕を、いつでも君の優しさと深い哀れみとが埋めてくれる、有難いことだよ。君が私の悪を蔦の葉のように緑で覆い、私の善を認めてくれるなら、他の誰が私を褒めようと、謗ろうと私は何も気になどしはしない、君こそが全世界だからね、君以外は私にとっては存在しないも同様なのだ。私は君の口からわが恥と美点とを知るように努めねばならない。私には他に生きている者などはいない。私も他人が見れば生きてなどはいないのだ。良くも悪くも、この頑なな心を変える者は他にいない。他人の意見などという煩わしいものは、ことごとく深い淵に投げ込んでしまったから、私の耳は聾の蝮の耳も同然、謗る者の声も諂う者の声も一切聞こえない。こうした無関心をどう弁明するか、まあ聞いてくれたまえ。君は、我が思いの中に余りにも深く根を張ったので、ほかの世界は全て死んだように思われるのだ。 第百十三聯、君と別れて以来、この目は心の中に引きこもり、心の目、想像力だけが私を支配している、詰まり私が活発に動き回る際に案内役を果たすべき機能が、半ばしか役目を果たさずに、あとの半ばは盲目同然で、見ているようでいて実際には何も見ていない、何故ならこいつめ、鳥でも、花でも、その他のものでも、自分が捕らえる姿を心に伝えてはくれないのだ。眼が瞬時に写すものにも心は一向に預ることがない、眼の視力自体が捉えて物を引き止めておく事ができない。どんなに粗野なものを見ても、反対に、どれほど優雅な対象を見ても、こよなく美しい顔でも、醜怪極まる動物でも、山であれ、海であれ、昼の光であれ、夜の闇であれ、鴉でも鳩でも、とにかく何を見ても君の姿に変えてしまう始末なのだ。なにしろ、わがまことの心は君で溢れ満ち満ちている、それで、もう受け入れる余地がないので、眼に偽りを見させるのだよ。 第百十四聯 君よ、私は愛する君を心の友として、我が心が、想像力が王座にのし上がり、君主たる者が罹患する悪質な疫病、このお追従という妄想を飲み干すせいだろうか。それとも、謂わば、眼は真実を告げているのに、君を愛する深い篤い思いが奴にこういう錬金の術を授け、事物が眼に入って形を成すやいなや、奇っ怪至極なもの、醜悪極まりない物に手を加え、作り直して美しい君そっくりの智天使、神の使者で霊的な存在であり悪魔の対局に位置する、に変化させてあらゆる罪悪を完璧な善に仕立てるせいなのだろうか。ああ、君、君、それはまだ最初の方なのだよ、眼の捧げる見え透いたお追従を、このお偉い心の奴が誠に王者に相応しく、飲み干すからだ。ずる賢い眼は心が何を一番に好むかをよく心得ている。だから、奴の舌に合わせて飲み物を調合する、当然のこととして。そこに毒が入っていようとも、罪は軽いのさ、この眼が好きな飲み物だし、この眼が先に飲むのだからね。 第百十五聯、私が前に書いて捨ててしまった一連の詩は嘘をついていた、つまり、これほどに心底から君を愛することなどは不可能だ、などと述べた、あの詩だが。でも、当時の私の判断では、あんなにも激しい愛情の焔が後になってもっと激しく燃え盛ろうとはとても想像できなかった、とても。だが、悪辣至極な時の手口を思えば、奴は無数の事件をでっち上げて誓言の間に巧妙に割り込ませては、国王の絶対的な布告をさえ改変させ、神聖な美さえも黒ずませ、研ぎ澄ませた野心満々足る意欲をも鈍(なま)らせ、確固不抜強固な心を万物流転の流れの中に、巻き込んでしまう。ああ、君よ、君、暴虐無礼な時の不埒な振る舞いを恐るからこそ、私が全ての不安を乗り越えて確固たる信念のもとに現在を至高の時と見做し、その余の一切を疑っていたあの時に、「今、君をこよなく愛する」と言ったのが何故に悪かろうか、愛の神キューピッドは可愛らしい幼子だ、だから幼児などと呼んではいけない、絶えずに成長している存在を大人と言うことになるからね。 第百十六聯では、真実なる心と心が結ばれて結婚するにあたり、我に障害の介入を認めさせ給うなかれ、事情が変われば己も変わるような愛、相手が心を移せば自分も心を移そうとする愛、そんなものは本当の愛とは言えない。飛んでもないことだよ、愛は嵐を見つめながらも微動の揺るぎさえ見せず、何時までもしっかりと立ち続ける燈台なのだ、全ての彷徨う小舟を導く北極星みたいな存在なのだ。その高さを測れようとも、その力を知ることは出来ない。たとえ、薔薇色の頬や唇は邪悪な時の大鎌で刈り取られても、愛は時の道化に成り果てしない。愛は、束の間に過ぎる時間や週とともに変わるものではない。最後の審判が来る瞬間まで耐え抜くものだ。これが誤りで、私の言うことが間違いだということになれば、何も書かなかった事と同じ事、この世にかつて愛した男などはいないことになる。しかし、私は確かに君という愛すべき若者をしっかりと愛したのだ、それは紛れもない事実で、誰にも否定などは出来はしない。 第百十七聯、君、君、私をこう言って告発してくれ、つまり、君の大いなる恩愛に報いるのを全くなおざりにしていたと、日々に、あらゆる絆が私を君の高貴な愛情に結びつけるのに、その愛に訴えるのを忘れていたと。又、素性も知れぬよからぬ輩と慣れ親しみ、君が高価な値段で買い取った権利をむざむざと呉れてやったと。又、君の姿から遠ざけてくれる風が吹けば、どのような風であれ帆を上げていたと、そう私を責めてくれ。故意の罪も、過失の罪も、共に書きとどめてくれ、確かな証拠の上に、推測も積み重ねてくれ。私が君の不興の的になるのは、仕方のないことだ。でも、本当に憎んで拳銃で撃つのはやめてくれ。私は強固不変の君の私への愛情がどのようなものなのかを試してみただけなのだからね。と、私の上訴の弁術は述べているのだから。 第百十八聯、人は時に欲望を一層研ぎ澄ますために、辛い前菜で味覚を故意に刺激しもするし、まだ兆候も見えない病をやり過ごす為に、我から強力な下剤をかけて病気になり、病気を避けようとする。私も同じで、飽きるはずもない君の優しい甘さに腹が膨れたから、極度に辛い薬味に口を合わせたのだ、あまりの幸福に食傷したから、本当はその必要が無いのに、この辺で一回病気になっておくのも悪くはないなどと考えたのだ。こうして、ありもしない病気に備えた愛の方策が、本物の病を作り出し、健康な身体を薬漬けにしてしまった。これも体に幸福があり余り余計な病気で治そうとしたせいなのだ、でも、負け惜しみではなく、私はお蔭でまことの教訓を学ぶ結果となった。つまり、こうして君に飽いた男には薬もまた毒となるのだ。 第百十九聯、地獄の様に汚らわしいランビッキ(ガラス、又は金属製の蒸留器具)で蒸留した魔女の空涙を、私は過去にどれほど飲み干したことか、希望は不信で抑え、不安には希望を処方して、それでも、勝ったと思ってはしょっちゅう負けた。わが愚かなる心は無上の至福に恵まれたつもりでいて、その実、何と惨めな過ちを犯したことか。この気狂いじみた熱病の仕掛ける錯乱に囚われて、わが眼球は如何に眼窩を飛び出し、瘧(おこり)に震え戦いたか。ああ、何と言う悪の恩恵か、今こそ私は思い知った、良いものは悪の試練を経て更に良くなり、壊れた愛は新たに建て直せば、前よりも美しく、強く、遥かに大きくなることを。だから、私は手酷い罰を受けてわが歓びのもとに帰るのです。悪行のお蔭で、費やした三倍の恩恵を手にするのですね。 第百二十聯、かつて君に冷たくされたのが、今は私の役に立つ。あの時に味わったあの悲しみを知ればこそ、わが罪の重さに押しひがれずにはいられない。この身は真鍮でも、打ち鍛えた鋼鉄でもないのだから。私は君の冷たい仕打ちに苦しんだが、君も私のせいで苦しんだのならば、やはり地獄の辛さを嘗めたはずだ。それなのに私は、暴君も同然、かつて君に背かれた際にどんなに自分が悩んだか、考えようともしていない。ああ、私達が嘆いた夜を思えば、真の悲しみが如何に人を打ちのめすのか、わが心の奥底に蘇ってもよかろうに。そして、あの時の君の様に傷ついた胸を癒す慎ましい弁明の軟膏を差し出してもいいはずなのだ。でも、君の悪が、今、償いを支払ってくれるね。私の罪が君の罪を贖う、君の罪も私を贖わねば。 第百二十一聯、悪くもないのに悪いと非難されるくらいなら、悪(わる)だと思われるより、本当の悪になる方がいい、こっちは後ろめたくなくとも、見る者が悪いと言えば、極まっとうな快楽だって台無しになるではないか。私が色好みでも、不実で淫らな他人様から眼くばせの挨拶を頂く筋はない、私が下劣でも、もっと下劣な奴らから目くじら立てられるいわれはないのだ。彼等は欲情に溺れて、私がよいと判断しているものを悪いと言うのだ。いや、私は飽くまでも私さ、私の愚行に狙いをつける連中は、自分達の乱行を数えたてているようなもの。向こうがねじけていて、私は真っ直ぐなのだ。私の行為が奴等の淫猥な考えで染め直されてたまるものか。もっも、人は全て悪で、悪に栄える、と、こういう悪の公理を説くのなら別の話なのだがね。 第百二十二聯、君からの大切な贈り物、あの手帳、あれは私の頭の中にしまってある、消えやらぬ数々の思い出をぎっしりと書き込んで、この方があんな虚しい紙束などよりも長持ちするし、限りある時を越えて永遠に生きてもくれよう。ともかく、頭と心が自然から授かった力を働かせて生命を保ち続ける限りは、生きてくれようさ。やがては、その各々が君の姿を空無の忘却に委ねようけれども、すくなくともそれまでは君の記録が消失することはない。それに、あの貧弱な記憶の容器には多くを入れることが出来ないし、君の貴重な愛を刻み付ける割符も私には要らない。だから敢えてあれを手放して、もっと多くの君を収めるこの心の手帳に頼ることにしたのだよ。大切な君を思い出すのに、一々防備録を手元に置くなんて、私が非常に忘れっぽい男だと言うことになりませんか。 第百二十三聯、いや、いや、俊足の時よ、私も変化するなどとは自慢させはしない、お前が当世の技術を凝らして建てたピラミッド様の大堂宇も、私には別に目新しくもないし、珍奇でもない。要するに昔の形の単なる焼き直しでしかない、人の命は短いから、お前がペテン師同様に平凡な古道具を押し付ければ、ただ見惚れるばかり、以前にも話に聞いたななどと考えるよりも、こちらの好みに合わせて作った新品だと思い込みたがる。とりわけ私は現在にも、過去にも驚異を感じないから、お前の歴史も、お前自信も鼻であしらおう。お前の記録も、今眼前にあるものも嘘っぱちだ。ただ、いつも早足で通り過ぎるから、大きくも、小さくも見えるのだ。誓って言うが、これこそは永遠に変わるまい、即ち、私は大鎌にも、お前にも逆らって真実を守るのだ。 第百二十四聯、私のこの切ない大切な愛が、単に成り行きで生まれた子供に過ぎなければ、つまりは運命の女神の私生児であって、父(てて)なし子、時の神の思うがままに愛されて、憎まれて、時には雑草として捨てられもし、時には美しい花と共に摘まれもしよう。いや、違う、違うのだ、わが愛は偶然などの手の届かない場所に築かれた。華やかに笑いさざめくところで堕落しない、鬱屈した怒りが打ち据えても倒れはしない。御時世は人の生き方をどちらかに引き寄せるけれども。又、それは、短い契約期間の中で動き回るあの異端者、策謀というやつを怖れることもない。わが愛はひとり屹立し、自らの巨大な知恵を恃む故に、暑熱に繁茂することも、大雨に溺れることもない。私はこの証人として時の道化共を呼び出そう、彼等は罪を企てて生きたが、善の為に死ぬのだからね。
2024年09月03日
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ももきね 美濃(みの)の國の 高北(たかきた)の 八十一隣(くくり)の宮に 日向尒 行靡闕イ ありと聞きて わが行く道の 奥十山(おきそやま) 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く寄れと 人は衝(つ)けども 心無き山の 奥十山 美濃の山(― 美濃の国の高北の八十一隣の宮に…があると聞いて、私が通っていく道にある奥十山、美濃の山よ。もっと低くなれと人人は踏むけれどこう寄れと人は突くけれど、さっぱり応じない、心無い奥十山、美濃の山よ)少女(おとめ)等(ら)が 麻笥(まけ)に垂(た)れたる 績麻(うみを)なす 長門(ながと)の浦に 朝なぎに 満ち來る潮の 夕なぎに 寄せ來る波の その潮の いやますますに その波に いやしくしくに 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ來れば 阿胡(あご)の海の 荒磯(ありそ)の上に 濱菜つむ 海人少女(あまをとめ)ども 纓(うな)がせる 領巾(ひれ)も照るがに 手に巻ける 玉もゆららに 白栲(しろたへ)の 袖振る見えつ 相思ふらしも(― 少女らが麻笥に垂らしている績麻のように長い、長門の浦に、朝凪に満ちくる潮、夕凪に寄せてくる波、その潮のようにいよいよますます、その波のようにいよいよしきりに、吾妹子を恋しく思いつつやって来ると、阿胡の海の荒磯のあたりで浜菜を摘む海人の少女らが首にかけている領巾も照る程に、手に巻いた玉を鳴らして、白栲の袖を振るのが見えた、思う人がいるらしい)阿胡の海の 荒磯(ありそ)の上の さざれ波 わが戀ふらくは 止(や)む時もなし(― 阿胡の海の荒磯のほとりのさざ波が止むときもないように、私の恋は止むときがない)天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月讀(つくよみ)の 持てる變若水(をちみず)い取り來て 君に奉(まつ)りて 變若(をち)得(え)しむ(― 天に昇る梯子も長くあって欲しい、高山も高く有ってもらいたい。月の神の持っている若返りの水を取って来て、わが君に奉って若がらせようものを)天(あめ)なるや 月日の如く わが思へる君が 日にけに 老ゆらく惜しも(― 天にある日月のように私の思っている君が日増しに老いていかれるのが残念であるよ)渟名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜しも(― ぬな川の底にある立派な玉。私がやっと探し求めて手に入れた玉。やっと拾って手に入れた玉。やっと見つけて拾った玉。この素晴らしいあなたが年を取っていかれるのが本当に惜しい)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國に 人多(さは)に 満ちてあれども 藤波の 思ひ纏(まと)はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明(あ)かさむ 長きこの夜を(― 大和の国に人は多く満ちているけれども、私の心が纏わりつき離れない、美しいあなたの目を恋しく思って、この長い夜を明かすことでしょうか)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ(― この大和の国の中に私の恋しい人が二人あるのだったら、どうして嘆いたりいたしましょうか)蜻蛉島(あきつしま) 日本(やまと)の國は 神(かむ)からと 言擧(あげ)せぬ國 然れども われは言擧す 天地(あめつち)の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや 行く影の 月も經行(へゆ)けば 玉かぎる 目もかさなり 思へかも 胸安からぬ 戀ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずは わが命の 生(い)けらむ極(きはみ) 戀ひつつも われは渡らむ 眞澄鏡(まそかがみ) 正目(まさめ)に君を 相見ばこそ わが戀止まめ(― 大和の国は領する神の性格として、言葉に出して言い立てない国である。しかし私はあえてはっきり言おう。天地の神も全く私の心を知らないのだろうか。月が経っていき、日も重なり、君を思う故か胸は安からず、君を恋うる故か心が痛む。もし将来ついにあなたに会えないならば、生命の続く限り恋い焦がれながらも私は長らえていこう。直接お目にかかったならば私の恋は止むであろうが)大船の 思ひたのめる 君ゆゑに 盡す心は 惜しけくもなし(― 大船のように頼みにしているあなた故に、さまざま心を尽くすのは、何の惜しいこともありません)ひさかたの 都を置きて 草枕 旅ゆく君を 何時とか待たむ(― この立派な都をおいて旅に出るあなたを、お帰りは何時と思ってお待ちしたらよいでしょう)葦原の 瑞穂(みずほ)の國は 神(かむ)ながら 言擧(ことあげ)せぬ國 然れども、言擧ぞわがする 事幸(ことさき)く 眞幸(まさき)く坐(ま)せと 恙(つつみ)なく 幸(さき)く坐(いま)さば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波 千重波しきに 言擧(ことあげ)すわれ 言擧すわれ(― 葦原の瑞穂の国は、支配なさる神の御性格として、言挙げをしない国である、しかし私は敢えて言挙げをする、お幸せでご無事でと。もし、お障りなくご無事であれば後にもお目にかかりたいものですと。百重波、千重波、が寄せてくるように、私は重ねて言挙げ致します、言擧げを致します)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國は 言靈(ことたま)の 幸(さき)はふ國ぞ ま幸(さき)くありこそ(― 日本という国は言霊が幸いをもたらす国です、私のこの言葉でご無事で行ってきて下さい) 古(いにしへ)ゆ 言ひ續(つ)ぎ來(く)らく 戀すれば 安からぬものと 玉の緒の 繼(つ)ぎてはいへど 少女(をとめ)らが 心を知らに 其(そ)を知らむ 縁(よし)の無ければ夏麻(なつそ)引(ひ)く 命かたまけ 刈薦(かりこも)の 心もしにに 人知れず もとなそ戀ふる 息(いき)の緒にして(― 昔から恋をすれば苦しいものと言継できているが、全くその通りで、少女の気持ちが分からず、それを知る手掛かりもないので、命を傾け、乱れて心もひと向きに人知れず、留めるよしもない恋をすることです、命を懸けて)しくしくに 思はず人は あるらめど しましもわれは 忘らえぬかも(― あの人はあんまり私を思ってくれないようだが、私の方はしばらくも忘れることができないでいるよ)直(ただ)に來ず 此(こ)ゆ巨勢道(こせぢ)から 石橋(いははし)踏(ふ)み なづみぞわが來(こ)し 戀ひて爲方(すべ)なみ(― 直接行かずに、此処から巨勢道を通って、石橋を踏み、難渋して私は来た。恋しくて仕方がないので)あらたまの 年は來(き)去(ゆ)きて 玉梓(たまづさ)の 使の來(こ)ねば 霞立つ 長き春日を天地(あめつち)に 思ひ足らはし たらちねの 母が飼(か)う蠶(こ)の 繭隠(まよこも)り息衝きわたり わが戀ふる 心のうちを 人に言う ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠く 天傳(あまつた)ふ 日(ひ)の闇(く)れぬれば 白木綿(しろたへ)の わが衣手(ころもで)も 通(とほ)りて濡れぬ(― 年は来て去っても君の使いは見えないので、霞が立つ長い春の日を天地に満ちる恋の思いを、母の飼う蚕が繭に隠れていぶせく苦しいように、いぶせくて苦しく嘆き暮らし、恋する自分の胸の中は人に語るべきものではないから、一人待つ事久しい折柄、大空を渡る日も暮れてしまったので、白栲の衣の袖も濡れ通ったことである)斯(か)くのみし 相思はざらば 天雲(あまくも)の 外(よそ)にそ君は あるべくありける(― こんなに思ってくださらないなら、あなたは、大空を行く雲が我々に無縁であるように、始めから私とは無縁であるべきでした)小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間無(まな)くそ 人は汲(く)むとふ 時じくそ 人は飲むとふ 汲む人の 間無きが如 吾妹子(わぎもこ)に わが戀ふらくは 止む時もなし(― 小治田の年魚に行く道の水を、絶えることなく人は汲むと言う、時を定めず人は飲むと言う。汲む人の絶え間のないように、飲む人の時を定めないように、妹に対する私の恋は止むときがない)思ひやる 爲方(すべ)のたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の經(へ)ぬれば(― 何とも胸の思いを慰める慰めようも今はありません、あなたに逢わずに年が経ちましたから) この君は妹の方が適切であろう。みづかきの 久しき時ゆ 戀すれば わが帯緩(ゆる)む 朝夕(あさよひ)ごとに(― ずっと以前から恋しているので、私は痩せて帯がゆるむ、朝に夕に)隠口(こもりく)の 泊瀬(たつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 齋杭(いくひ)を打ち 下つ瀬に 眞杭(まくひ)を打ち 齋杭には 鏡を縣け 眞杭には 眞玉を縣け 眞玉なす わが思ふ妹(いも)も 鏡なす わが思うふ妹も ありと言はばこそ 國にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑ行かむ(― 泊瀬川の上の瀬には齋杭を打ち、下の瀬には真杭を打ち、齋杭には鏡を掛け、真杭には真玉を掛けてお祭りするが、その真玉のように大切に思う妹が生きているというのならばこそ、私は国へも家にも帰ろうが、さもなくて、誰故に帰ろう、帰りはしないのだ) この歌は古事記を参照すれば、木梨輕太子(きなしのかるのみこ)が逝去される際に作られた御歌であろうと言う。年わたるまでにも 人は有りといふを 何時の間(ま)にそも わが戀ひにける(― 年を経るまでも人はそのまま辛抱していると言うのに、この間違ったばかりの私がいつの間にこんなに恋しく思うようになったのだろう)世間(よのなか)を 倦(う)しと思ひて 家出(いへで)せし われや何にか 還りて成らむ(― 世間を厭って出家した私は還俗して何になろうか、何にもなるものではない)春されば 花咲きををり 秋づけば 丹(に)の穂(ほ)にもみつ 味酒(うまさけ)を 神名火山(かむなびやま)の 帯にせる 明日香(あすか)の川の 速(はや)き瀬に 生(お)ふる玉藻のうち靡き 情(こころ)は寄りて 朝露の 消(け)なば消(け)ぬべく 戀ふらくも しるくも逢へる 隠妻(こもりづま)かも(― 春になると花がいっぱいに咲き茂り、秋になると真っ赤に色づく神名火山が帯と巡らしている明日香川の早瀬に生えている玉藻のように、うちなびいている心はあなたに寄り、朝露のように消えるならば消えていいと、命をかけて恋していた、そのかいあって今こうして会うことの出来た隠し妻よ)明日香川 瀬々の珠藻の うち靡き 情(こころ)は妹に 寄りにけるかも(― 明日香川の瀬々の珠藻のなびくように、私の心は今妹にすっかり靡き寄ってしまったことである)三諸(みもろ)の 神名火山ゆ との曇(くも)り 雨は降る來(き)ぬ 雨霧(あめき)らひ 風さへ吹きぬ 大口の 眞神(まかみ)の原ゆ 偲(しの)ひつつ 歸りにし人 家に到りきや(― 三諸の神名火山から一面に曇って、雨は降って来た。雨は霧のように降って風までも吹いてきた。真神の原を通って、私を思いながら帰っていったあの人は、家に着いたかしら)歸りにし 人を思うふと ぬばたまの 其の夜はわれも 眠(い)も寝(ね)かねてき(― 帰っていった人を思うとて、その夜は私も眠れませんでした)さし焼(や)かむ 小屋(をや)の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きてうち折れむ 醜(しこ)の醜手(しこて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床(とこ)の ひしと鳴るまで 嘆きつるかな(― 火をつけて焼きたい、憎らしいボロ小屋に、破り捨てたい破れゴモを敷いて、折れちまえばいいごつい手をさし交わして、今頃女と寝ているお前さんだのに、私は昼は一日、夜は一晩中、この床がミシミシ言うほどに嘆いていることだ)わが情(こころ) 焼くもわれなり 愛(は)しきやし 君に戀ふるも わが心から(― 自分の胸を焦がすのも私だし、あああああ、お前さんへの恋に苦しんでいるのも私の心によるものなのだ)
2024年08月30日
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第百一聯、ああ、なんて怠惰な女神なのか、真実の心に加えて完璧な肉体の美を備えた私の心から敬愛する青年をなおざりにして、忘れたような振りをしてきたこの罪を、一体どのようにして償うつもりなのだろうか。真実も、美も、わが愛する者を頼りにしている。お前もそうだ、詩の女神よ、彼あってこそ威厳も備わるのだ、答えてみろ、詩の女神よ。思うに、多分お前はこう答えるのではあるまいか、真実には本来の色褪せぬ色彩があるから、絵の具などは必要ない、ましてや美は、美の真実を描き添える絵筆などはいらぬ。最上の物は何も交えぬから最上の物なのだ、と。彼には称賛の言葉など要らないから口を噤むというのか。しかし、そんな沈黙の言い訳などはよしてくれ、聞きたくもない、ミューズよ、お前には金箔の墓などよりもずっと彼を長生きさせて、やがてやって来る世々の称賛の的にするだけの力があるのだもの、だから詩の女神よ、汝の勤めを果たせ、やり方なら私が教えもしようよ、後の世までも、彼の今の輝かしい凛々しい容姿と内面の充実とを伝え、保たせてやってくれないか。 詩人は詩の女神に命令している、彼は霊感を期待してなどいない、天才の中に縦横無尽の詩才は充溢し切っている、彼の内面から爆発してエネルギーは有り余っている。それに然るべき秩序さえ与えてやれば済むはなし、対象は言葉を超越して存在して、既に描写しつくしてしまっている。詩人が召使たる女神を頤使しているので、その逆ではないのだ。これも歴史上で例を見ない逆転現象と、此処で私ははっきりと言明しておこう。こうなると、現し身の彼は既に問題ではなくなってしまう、と再度私は断定しようか。してみると、詩人が信奉する美人たる青年の存在すら疑わしい。現実の彼は青年貴族で周囲の羨望と称賛とを一身に集めていたにしても、詩人が描いて見せたような理想の存在ではなかった。現実と理想の間には雲泥の差どころか、相関関係は無いに等しいだろう。詩とは本来の成り立ちからしてそう言う性質のものだ。モデルは飽くまでもモデルであって、理想化され美化されたそれとは似ても似つかない。それでいいのでしょう。 第百二聯、君よ君、私の君への愛は弱まったように見えるかもしれないが、実は、強くなっているのだよ、以前ほどには外に現れ出ないのだが、決して愛が減ったわけではないのだよ。宝の持ち主がこれは世にも稀な高価な物なのだ、などと世間に喋りちらし吹聴するならば、そう言う愛ならば要するに売り物も同然だ、我々二人の愛が新しい頃は、謂わば春の季節の中にいたわけで、私もよく歌を歌ってはこれを讚えはした、ちょうどナイチンゲールが夏の初めに囀るけれど季節が深まれば歌いやめるようなものだ。あの愁いを帯びた歌が夜をひっそりと静めていた頃に比べて、今時分の夏が美しくないというのじゃあない、ただ、今はどの枝にも姦しいだけの音楽が溢れているし、楽しみはいつでも手に入るなら、貴重な喜びではなくなる。私が時折、ナイチンゲールよろしく黙り込むのも、君を歌でうんざりさせたくないからなのだよ、他のヘボ詩人がやたらとがなり立てる愚は犯したくないだよ。 第百三聯、ああ、何たることか、わが麗しの詩の女神は何と貧弱なものを産むのか、己の栄光を示すこんな絶好の機会を手にしながらも、私が下手な称賛の言葉を付け加えるよりも、裸の題材の方がずっとましだなんて。ああ、君、君、ああ、これしか書けないからと言って私を不当に責めないでくれたまえ、もう一度、鏡を覗いてみたまえ、そこに現れている顔は私の粗雑な着想などよりも遥かに優れている、それは私の詩の生気を失わせ、私に恥をかかせるのだ。自分では改良するつもりでいながら、前には良かったものを駄目にしてしまう。これは罪悪ではなかろうか…、何故ならば、私の詩は君の優美と有り余る才能を語り、伝えるより他は何も当てがないのだからね。それに、君が鏡を覗き込めば、私の詩に収まるよりも、ずっと多くのものが見えるのだもの、何を弁解する必要があろうか。君、君、君。ああ、君よ。 第百四聯、美しい友よ、君よ、君、私にとっては君は永遠に年老いることなどはない、ああ、初めて君の魅惑の目を見つめた時の、あの眩しく神々しい姿と、今の美しさとは、ちっとも変わっていないと思う、決して錯覚などではない、三度の寒い冬が、森の木々から、三度の夏の華やかな緑の装いを邪険に振り落とした。三度の美しい春が、黄色の秋に遷るのを季節の移ろいの中で私は目撃してきた。三度の四月の香りが三度の暑い六月の中でくすぶり燃えた。君は今も新緑鮮やかなフレッシュさを見せているが、あの匂い立つ芳しい絵姿を最初に見てから、確実にこれだけの年月が経過しているんだ。ああ、君よ、だが、美は時計の針のようなものだから、いつしか文字盤の上を推移するけれども、その足取りは誰にも見えない、だから君の美しい輝く姿も私には何時までも現状を保持していると見えても、実は動いていて、この私の眼が欺かれているのかも知れない。私はそれを恐れる故に、まだ生まれない時代に今から告げておこう、お前達が生まれる前に、真の美の夏、最盛期は終わったのだ、と。 第百五聯では、ああ、君よ、私の愛の言葉も、賛美の言葉も等しく、どれもこれも、ただ一人の人に向けて、一人について、いつでも同じ調子で歌い続ける、が、だからと言って、この愛を在り来りな偶像崇拝などと安っぽく呼んでくれるな、また、私の愛する対象を平凡な偶像などに見立ててくれるな。我が愛する者は、今日も優しく、明日も優しい、人に勝る見事な資質は常に変わることがない。それゆえに、私の詩も変わるわけにはいかないから、一つことを述べ続けて、多様な変化には見向きもしない。「 美しく、優しく、真実の 」がわが主題の全てであり、「 美しく、優しく、真実の 」を別の言葉に変えて用いる。私の着想はこの変化を考えるのに使い果たされる、三つの主題が一体となれば、実に多様で深遠な世界がおのずから開かれるから。美しく、優しく、真実の、は別々にならずに、随分生きていた。だが、この三つが一人の人間に宿ったことは、かつてないのだ。 第百六聯、虚しく過ぎ去った昔の年代記の中で、こよなく美しい人たちが描かれているのを読み、今は亡き貴婦人や、美貌の騎士達を称える古い歌が、美しい人たちの故に美しくなったのを見ると、古人の筆が、優しい美の所有する最善のものを、詰まり、手や、足や、唇や、眼や、眉を数え上げたのは、まさに、今、君が所有している類の美を書き表したかったからだ、ということが理解できる、だから彼等の称賛はことごとく、私たちの時代を予言したものに過ぎない。すべては君をあらかじめ予想して示している。ただ、彼等は想像の眼で未来を見たにしか過ぎないから、君の真価を歌い上げるに足る知識と技術がなかった。所が今、現代の日々を見ている私達は称嘆する眼はあっても、称賛する舌を失っている。 第百七聯、この私自身の気遣いも、又、先行きを占ってあれこれと思い廻らす、広い世間の予感とやらも、たとえ、限りある定めを免れ難いと思っても、わが誠の愛の期限を決めることは出来ない。今は、現身(うつしみ)の月が月食から蘇り給い、気難しい占い師等は己の予言を笑っている、かつて不安に慄き揺れ動いた時代が、今では、どっしりと安定して王座におさまり、平和が永久(とわ)なるオリーブの繁茂を告げているのだ。この、快い芳香を周囲に惜しげもなく放つ時代の滴(しずく)を受けて、わが愛は以前の生気を取り戻した。死神さえ私には屈服する、たとえ彼が物言うすべを知らぬ愚かな大衆の上に君臨しても、私は敢然と彼に反逆して、この拙い詩の中に生きるのだよ、君、君、ああ、君、たとえ暴君の紋章や真鍮の墓標が滅んでも、君は私の詩の中におのが栄えある記念碑を見出し、永遠久遠に輝き、生き続ける、光を放ち、この世を明るく住みよい場所として示し、導くのだ、君、君、ああ、君、私はそれで本望なのだよ。 第百八聯、わが真心の有り様は余さずに描いて見せたのだ、この上にインクで書き記す何が残っているだろうか、この頭に。わが愛を、又、君と言う大切な人を表し示すのに、何の目新しい事が語れようか、今さら何を書き得よう、何もありはしないのだ、愛する者よ、君よ。私は神に祈るように日毎、一つことを繰り返すほかはない、言い古るした言葉を古いとも思わずに、汝(なれ)は我がもの、我は汝(な)のもの、と、丁度最初に君の麗しい名を崇めた時のように。こうして、永遠の愛は愛の青春の姿を保ち続けて、老い萎び、朽ちることなど気にもかけずに、いずれは必ず顔に刻まれる醜い皺など心にもかけず、むしろ、老年を自分の童僕に仕立て上げて何時までも奉仕させる。時を経て外側が変わり、愛も死んだと見えるその姿に、最初の愛の心が生まれ、育ったのを知るからだ、内実は少しも変化等はしていなし、むしろ充実し、成熟し、見事な大輪の花を開かせてさえいる、心、魂、精神は。 第百九聯、君としばらく離れていたせいで、私の胸の焔が弱まったように見えたとしても、私が不実な人間などとは言って欲しくない、君だって幾らなんでもそんな悪態はつかないだろうがね、君の中にいる清浄極まりないわが魂と別れるのは、私がこの自分と別れるくらいに無理なことだ、君の素晴らしい無垢な胸こそ私の愛の終の棲家だ、たとえ夢遊病者よろしく彷徨いでたとしても、旅に出た男のように私は当然にまた戻ってくる。時間通りに、時を経ても心変わりなどせずに、詰まり、わが罪を清める涙の水を携えて帰るのだよ、君、私は断じて君を陰で裏切る事などは夢寐にも考えない、出来ないことだ。仮にあらゆる気質の人を悩ませる、あらゆる弱点が私を支配しようとも無に等しい物のために、君の美徳をそっくり捨てるほどにひどく堕ちたなどとは思ってくれるな。わが麗しの芳しい薔薇よ、君がいなければ私はこの広い世界を無と呼ぶ。この世では君こそが私の全てなのだよ。 詰まり詩人にとって自分自身こそが全部なのだ、理想の自己、うぬぼれ鏡に映った理想の好男子こそが、青年貴族たる絶世の美人なのだ、そして私、古屋は天才詩人の驥尾に付して天空を駆け巡る羽衣の如き魔法の衣装を纏って実生活では決して経験できない夢の擬似体験をすることが出来るのだった。実に有り難いことでありまする。 第百十聯、成程、確かに私はあちこちに顔を出して、ダンダラ染めの道化を演じ、我が身を人目に晒し、自分の心を痛めつけ、こよなく貴重なものを安値で売り、新しい愛を求めては、いつも裏切りを繰り返した。真実に対してはそ知らぬ顔をして、よそ目に見て置いたのも、真実、その通りには違いない。でも、天に誓って言っておこう、この流し目は私の心に青春を蘇らせたし、悪い付き合いが、君こそは最上の愛人だと教えてくれた。それももう全部終わったのだから、この終わりなき愛を受け入れてくれ。古い友人の値打ちを確かめようとて、新しいのを試してはわが愛欲を掻き立てる真似は、もうやめにする。愛については君が神だ、君のほかに我が神はない、君は天国に次ぐ、わが最愛のもの。その清らかな、いとも、いとも、清らかで優しい優しい胸に私を受け入れてくれ。
2024年08月28日
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問答体の歌数種玉の緒の うつし心(こころ)や 八十楫(やそか)懸(か)け 漕ぎ出む船に おくれて居(を)らむ(― 舟よそいして漕ぎでる舟がら後に残されて、正気でいることができるでしょうか)八十楫(やそか)懸(か)け 島隠(しまがく)りなば 吾妹子(わぎもこ)が 留(とま)れと振らむ 袖見えじかも(― 多くの櫓を備えて漕ぎでた船が、島隠れたならば、吾妹子が留(とま)れと振る袖が見えないだろうか)十月(かんなづき) 時雨(しぐれ)の雨に 濡れつつか 君が行くらむ 宿か借(か)るらむ(― 十月の時雨に濡れながら今頃わが君は旅をしておいでだろうか、宿を借りておいでだろうか)十月 雨間(あまま)もおかず 降りにせば いづれの里の 宿か借らまし(― 十月の雨が止むまもなく降ったなら、どこの宿を借りようか)白栲(しろたへ)の 袖の別れを 難(かた)みして 荒津の濱に 屋取(やど)りするかも(― 白栲の袖を別れかねて、私は荒津の浜で一夜の仮の宿りをすることだ)草枕 旅行く君を 荒津まで 送りそ來ぬる 飽き足(た)らねこそ(― 旅に行くあなたを荒津までお送りして来ました。もっとお逢いしていたいと思うものですから)荒津の海 われ幣(ぬさ)奉(まつ)り 齋(いは)ひてむ 早還(かへ)りませ 面變(おもがは)りせず(― 荒津の海に私は幣を奉って、斎戒していましょう。早く帰っておいでなさいませ、面変りなどはしないで)朝な朝な 筑紫(つくし)の方を 出で見つつ 哭(ね)のみわが泣く いたも爲方(すべ)無み(― 毎朝毎朝、出ては筑紫の方を見ながら、泣きに泣いています。どうにもするすべがなくて)豐國の 企救(きく)の長濱 行き暮らし 日の暮れぬれば 妹をしそ思ふ(― 企救の長浜を歩いて行って日暮れになったので、故郷の妹を思うことである)豐國の 企救の高濱 高高(たかたか)に 君待つ夜らは さ夜ふけにけり(― お帰りを今か今かと待つ夜は更けてしまいました)冬ごもり 春さり來れば 朝(あした)には 白露置き 夕(ゆうべ)には 霞たなびく 風の吹く 木末(こぬれ)が下(した)に 鶯鳴くも(― 春がめぐってくると、朝は白露が置き、夕方には霞がたなびく、風のそよ吹く梢では鶯が鳴いている)三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本邊(もとべ)は 馬酔木(あしび)花咲き 末邊(すゑべ)は 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く兒守(も)る山(― 三諸は人が大切にする山である、麓の方はアシビ・早春に壺状の小さな花が咲く が咲き、いただきの方は椿の花が咲く、まことに美しい山である。この、人々が大切にする三諸の山は)霹靂(かむとけ)し 曇れる空の 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の降れば 雁(かり)がねも いまだ來(き)鳴(な)かね 神名火(かむなび)の 淸き御田屋(みたや)の 垣内田(かきつた)の 池の堤の 百足(ももた)らず 齋槻(いつき)が枝に 瑞枝(みづえ)さす 秋の赤葉(もみちば) 巻き持てる 小鈴(をすず)もゆらに 手弱女(たわやめ)に われはあれども 引きよぢて 峯(すゑ)もとををに ふさ手折(たを)り 吾(あ)は持ちて行く 君が挿頭(かざし)に(― 雷が鳴って曇っている空の、九月の時雨が降ると、雁もまだ来て鳴かないが、神奈備の清い御田屋・神の田を管理する人が住む家 の垣の内の堤の、神聖な槻・ケヤキの枝に艶やかに映えている秋の紅葉を、私は手に巻いた小鈴を鳴らしながら、か弱い女の身ではあるが、手に取って木末も撓む程に引き、枝を折りとって持っていく、あなたの挿頭にするために)獨りのみ 見れば戀しみ 神名火(かむなび)の 山の黄葉(もみぢ)を 手折(たを)りけり君(― 一人だけで見ているとあなたが恋しくなって、神名火山の黄葉の枝を手折りました、あなた)天雲(あまくも)の 影さえ見ゆる 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川は 浦無みか 船の寄り來ぬ 磯無みか 海人(あま)の釣(つり)爲(せ)ぬ よしゑやし 浦はなくとも よりゑやし 磯は無くとも 沖つ波 競(きほ)ひ漕ぎ入(り)來(こ) 白水郎(あま)の釣船(つりぶね)(― 天雲の影さえも映る泊瀬の川は、浦がないからか舟が寄って来ない、磯がないからか海人も釣りをしない。よしや、よい浦はなくとも、よしや、良い磯はなくとも、沖の波が次々と立つように、先を争って漕ぎ入ってこい、海人の釣り舟よ)さざれ波 浮きて流るる 泊瀬川(はつせがは) 寄るべき磯の 無きがさぶしさ(― さざ波が立って流れていく泊瀬川は、よるべきよい磯がないのが淋しい事だ)葦原の 瑞穂(みづほ)の國に 手向(たむけ)すと 天降(あも)りましけむ 五百萬(いほよろづ) 千萬神(ちよろづかみ) 神代より 言ひ續(つ)ぎ來(きた)る 神名火の 三諸の(みもろ)の山は 春されば 春霞立ち 秋行けば 紅(くれなゐ)にほふ 神名火の 三諸の神の 帶にせる 明日香(あすか)の川の 水脈(みを)速(はや)み 生(お)ひため難き 石枕(いはまくら) こけ生(む)すまでに 新夜(あらたよ)の さきく通はむ 事計(ことはかり)夢(いめ)に見せこそ 劔刀(つるぎたち) 齋(いは)ひ祭れる 神にし坐(ま)せば(― 葦原の瑞穂の国に手向けをするとて、多くの神々が天下っておいでになったという神代から、手向けの山だといい継いできた神名火の三諸の山は、春になると春霞が立ち、秋になると紅葉が美しい。三諸の山の神が帯としている明日香川の水脈が速いので、なかなか生えて着いていることのできないその川の石枕に苔が生える時までも、毎夜毎夜、新たに元気で通うための計らいを神々よ、どうか夢でお示しください、私がこんなに大切にお祭りしている神でいらっしゃるのですから)神名火の 三諸の山に いつく杉 思ひ過ぎめや こけ生すまでに(― あなたへの恋の思いは心から消えることはないでしょう、苔が生える時までも)齋串(いくし)立て 神酒(みわ)坐(す)ゑ奉(まつ)る 神主部(かむぬし)の うずの玉蔭(たまかげ) 見れば羨(とも)しも(― 祝い串を立て、神酒を瓶に入れて据え供えると神主のウズ・木の葉・花・玉などを頭にさして飾りとしたもの として刺したヒカゲノカズラを見ると、見事だ)弊帛(みてぐら)を 奈良より出(い)でて 水蓼(みずたで) 穂積に至り 鳥網(となみ)張る 坂手を過ぎ 石(いは)走(ばし)る 神名火山(かむなびやま)に 朝宮に 仕え奉(まつ)りて 吉野へと 入り坐(ま)す見れば 古(いにしへ)思ほゆ(― 奈良から出て穂積に至り、坂手を過ぎて、明日香の神名火山でわれわれが朝のお宮でお仕えして、わが君が吉野へおいでになるのを見ると、吉野へ度々の行幸のあった昔のことが思われる)月日(つきひ)は 行きかはれども 久(ひさ)に經る 三諸(みもろ)の山の 離宮地(とつみやところ)(― 年月は行き変わり行きかわりして過ぎていくけれども、長い時を経てなお変わらない三諸の山の離宮よ)斧(をの)取りて 丹生(にふ)の檜山の 木折(こ)り來(き)て 筏(いかだ)に作り 二楫(まかぢ)貫(ぬ)き 磯漕ぎ廻(み)つつ 島傳(つた)ひ 見れども飽かず み吉野の 瀧(たぎ)もとどろに 落つる白波(― 斧を取って丹生の檜山の木を切り出して、筏に作り、その筏の左右に櫓をつけて磯を漕ぎめぐりながら、島伝いして見ても飽きない事だ、み吉野の激流を轟かして落ちる白波は)み吉野の 瀧(たぎ)もとどろに 落つる白波 留(とま)りにし 妹(いも)に見せまく 欲(ほ)しき白波(― み吉野の激流を轟かして落ちる白波の美しさよ、都に留まった妹に見せたいと思う白波の美しさよ)やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子(みこ)の 聞こし食(め)す 御饌(みけ)つ國 神風(かむかぜ)の 伊勢の國は 國見ればしも 山見れば 高く貴(たふと)し 川見れば さやけく淸し 水門(みなと)なす 國もゆたけし 見渡す 島も名高し 此(ここ)をしも まぐわしみかも 掛けまくも あやに恐(かしこ)き 山邊(やまのべ)の 五十師(いし)の原に うち日さす 大宮仕(つか)へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ榮えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人(おおみやひと)は 天地と 日月と共に 萬代(よろづよ)にもが(― わが大君、日の皇子がお治めになる御饌・みけ の国である伊勢の国は、国の様子を見ると立派で、山を見ると高く貴い。川を見ると冴え渡って清らかである。水門を作る海もゆったりと広い、見渡す島も有名である。此処をこそ麗しい所と思ってか、口に出して申し上げるのも恐れ多い山辺の五十師の原に、大宮仕えをしている。まことに朝日のように麗しく夕日のように美しいことよ。春の山のように繁り栄え、秋の山のように彩が心をひきつける大宮人は、天地とともに、日月とともに万代までも栄えて欲しいものである)山邊(やまのべ)の 五十師(いし)の御井(みゐ)は おのづから 成れる錦を 張れる山かも(― 山辺の五十師の原の御井は、おのずから出来た錦を張った山であることよ)そらみつ 倭(やまと)の國 あおによし 奈良山越(こ)えて 山代(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡(わたり) 瀧(たぎ)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳(ちとせ)に 闕(か)くる事なく 萬歳(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の社(もり)の すめ神に 弊帛(ぬさ)取り向けて われは越え行く 相坂山(あふさかやま)を(― 大和の国の奈良山を越えて、山代の管木の原、宇治の渡、滝の屋の阿後尼の原を、何時までも欠かさずに永久に通いたいと、山科の石田の神社の神に弊帛を手向けて私は越えて行く、相坂山を)あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り 少女(をとめ)らに 相坂山に 手向草(たむけくさ) 糸取り置きて 吾妹子(わぎもこ)に 淡海(あふみ)の海の 沖つ波 來寄(きよ)る濱邊を くれくれと 獨りそ來る 妹が目を欲(ほ)り(― 奈良山を過ぎて、宇治川を渡り、相坂山に手向けの糸を供えて、淡海の海の沖の波の寄せる浜辺を、私は独りで、暗い気持ちでやって来る、妹の顔を一目見たいと)相坂を うち出(で)てみれば 淡海(あふみ)の海 白木綿花(しらゆふはな)に 波立ち渡る(ー 相坂山を打ち越えて出てみると、眼下に淡海の海が開け、白い木綿花のように波が一面に立っているのが見渡される)近江の海 泊(とまり)八十(やそ)あり 八十島の 島の崎崎(さきざき) あり立てる 花橘を末枝(ほつえ)に 黐(もち)引き懸(か)け 中つ枝(え)に 斑鳩(いかるが)懸け 下枝(しづえ)に ひめを縣け 己(な)が母を 取らくを知らに 己(な)が父を 取らくを知らに いそばひ居(を)るよ 斑鳩(いかるが)とひめと(― 近江の海には舟着き場が沢山ある。また島も沢山ある。その島の崎々にずっと立っている花橘の枝の上にモチをかけ、中の枝にイカルガを囮にかけ、下の枝にはヒメを囮にかけて、イカルガとヒメの父や母を取ろうとしていることを知らないのでイカルガとヒメとは戯れて遊んでいることよ)大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 眞木(まき)積(つ)む 泉の川の 速(はや)き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡(わたり)の 瀧(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道(あふみぢ)の 相坂山(あふさかやま)に 手向(たむけ)して わが越え行けば 樂浪(ささなみ)の 志賀の韓崎(からさき) 幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む 道の隈 八十隈(やそくま)毎(ごと)に 嘆きつつ わが越え行けば いや遠(とほ)に 里離(さか)り來(き)ぬ いや高に 山も越え來(き)ぬ 劔刀(つるぎたち) 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡山(いかごやま) 如何(いか)にかわが爲(せ)む 行方(ゆくへ)知らずて(― 大君のご命令を畏んで見飽きることのない奈良山を越え、真木を積む泉川の速い瀬を竿をさして渡り、宇治の 渡の激流の瀬を見ながら渡り、近江街道の相坂山に手向けをして旅の安全を祈りながら行くと、ささなみの志賀の韓崎が見えてくる。もし元気であったら再び戻ってこの美しい風景を眺めよう。道の多くの曲がり角毎に嘆きつつ私が過ぎていくと、いよいよ遠く人里も離れてきた。いよいよ高く山も越えてきた。私はどうしよう、自分の行く方向も分からないで)天地を 嘆き乞ひ禱(の)み 幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む 志賀の韓崎(― 天地の神々に切に願い、叩頭して祈り、もし無事であったら、また戻ってきて眺めよう、この志賀の韓崎の美しい風光を)
2024年08月27日
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第八十九聯では、君が私を捨てたのは、私が過ちを犯したからだと言うが良い、私自身がその罪悪をいちいち講釈して見せようから。私は足萎えだと主張したまえ、直ちにその通りに足を引きずってやりもしようよ、誰が君の言い分に逆らったりするものか、愛する者よ、素晴らしい、何物にも代え難い宝物よ、君が心変わりを取り繕うのに、どれほど悪しざまに私を罵ろうとも、君の心を察知して私が自身に悪態をつく表現にはとても及ばないだろう。私は内心の親しみの感情を無理にも押し殺して、素知らぬ顔をしても見せよう。君がしょっちゅう出入りする場所は極力避けるのは勿論のこと、愛する懐かしいその名前を口にすることも止めよう。余りにも賤しい私が君の名前を傷つけたり、うっかり昔の仲を口にしたりしてはいけないからね。君の名誉のために私はこの私自身と戦うことを誓おう。私は君が憎んでいる男、この私自身を愛しては断じてならないのだからね。 第九十聯、だから、君、君が私を憎みたいと思うのなら、思う存分に憎んでくれたまえ、それもいっそなら、今がいい。今は世間が私のすることなすことにケチをつけ邪魔をするからね、君もこの運命の悪意を利用して、私を屈服させるといい。忘れた頃になって、後から不意に襲いかかって痛い目に遭わせてくれるな。ああ、君よ、君、ああ。私の心がこの苦しみから逃れた時に征服し終えた嘆きの後備えよろしく、突然に現れるのはやめてくれないか。風吹く夜が明けて、雨降る朝となるのは何とも侘しくて堪らないからね、私を破滅させようと意図しているのなら、ぐずぐずしないでひと思いに止めを刺してくれ。そして捨て去るのなら、他のけちな諸々の悲しみが私を苦しめ抜いてから、最後に捨てるのだけは後生だから止めてくれ。いっそ先陣に立って私を攻撃してくれ、そうすれば、悪意ある運命の最悪の痛手を最初に味わえようと言うものだ。他の苦しみなどは、君を失うことに較べたら何ほどでもない、何でもないからね、君、ああ、君よ、私が既に心の中で滴らせている鮮血が見えるだろうか、愛する君よ。 第九十一聯、世の中では、或者は家柄を誇りにする、或る者は知識を、そして或る者は富と財産を、また或者は体力を、或者は衣服を、最新流行の俗悪趣味なのだがね、そして又或者は鷹や猟犬を、或者は馬を自慢する。各々が気質に応じて自分の楽しみを見つけ出し、それが他の何よりも気に入ってしまう。だが、こういう個々別々の楽しみは私の性には合わない。私は既に全てを含み包む最善の物を所有してしまっているから、それらを超えるのだ。私には君の愛の方が高貴の生まれよりもいい、それは莫大な富などよりも優に豊かだし、値の張る高価な衣服よりも素晴らしい。鷹や馬などよりもずっと大きな楽しみを与えてくれる、君さえいれば、あらゆる人が誇りとする、例えば古代ギリシャの文人が愛した対象のような高雅なる物、を自慢出来るのだよ。ただ、惨めなのは、君、君、実に惨めなのは、君がこの全てを奪って私を惨め極まる悲惨な目に遇わせるのでは、と言う不安のせいだ。 第九十ニ聯、だが、君が私から逃げようとしてどのような仕打ちに出ようとも、私のこの命が続く限りは、君は、この世の最善最高の宝物は、確実に私だけのものだ、また、私の命は君の愛情よりも長く生きることはないだろう、何しろ、君の愛に頼りきっているのだからね。ほんのすげない素振りだけでも私の儚い命は絶えてしまうのに、今更に最悪の事態の到来を恐れる必要などあるはずもない。君の気まぐれな気分次第でいちいち変わってしまう不安極まる生活より、ずっと増しな地位が私のものになるのだから。もう、君の気まぐれが私を苦しめることはない、裏切られたら、その時限りで私の命は終わるのだから。ああ、ああ、君よ、愛する者よ、ああ。何と言う幸福を私は手に入れるのだろうか、君に愛される至福と、死と言う最高の幸福と。だが、美しく恵まれたものにも滲みは付くものだ、君が陰でする不実を私が知らずにいることもある。 第九十三聯、つまり言ってみれば私は寝取られ亭主みたいなもので、君の真実を信じて生きることになる、心変わりをしても上辺はやはり、私を愛していると見えもしよう。君の顔はそばにあっても、心はよそにあるわけだ。君の美しい目に醜悪な憎悪が住まうことはありえないからね。私には君の心変わりを知る手立てがまるでない、普通なら、不機嫌な表情や、しかめ面や、すげない皺が、不実な心の内実を顔に書くけれど、天なる創造主は君を造る時に布告を出して、この顔には常に優しい愛が宿るべしと申された。つまり、君の思いや心の働きがどうであれ、顔に現れるのはただ優しさだけ、と仰ったのだ。もし君の美徳が容貌と釣り合わなければ、その美しさはイヴの林檎、外見は美味しそうだが中は灰色、そっくりになるのだ。 第九十四聯、他人を傷つけようと思えばその力がある、傷つけようとはしない人たち、つまり、外見(そとみ)は一癖ありげだが、何も危害を加えぬ人々、人の心を動かしはするが、自らは石のようにどっしりと動かずに、冷たくて、誘惑に負けぬ人達、こういう人達は、誠に、天の恩寵に恵まれて、自然の与えた富を徒に浪費せずに、慎ましく用いる者である。彼等は己の顔の主人であり、持主であるが、他の者等はその優れた資質の管理人に過ぎない。夏の花は、たとえ、種を結ばないでひっそりと枯れていくにしても、夏には甘い香りを周囲に撒き散らす。だが、もしもこの花が賤しい疫病にかかれば、どんな卑しい雑草よりもみすぼらしい姿を晒す。如何に美しいものでも行為次第では忌まわしい下卑た存在に堕す、腐った百合は毒のある雑草よりも更に酷い悪臭を放つように。 第九十五聯、君は恥辱を何と優しく、愛すべきものに変えてしまうのか、そいつは香り豊かな薔薇に喰い込む青虫の如くに、華麗に咲き綻びかけた美しい名前に傷をつけるのに。ああ、君よ、君は罪の行為を何と甘い歓喜に包み込んでしまうのか。君の日々の振る舞いを物語り、君の愛の戯れに、いちいち、妄りがましい注釈をつける奴も、謂わば、称賛の形でしか非難することしか出来ないのだよ。君の名前さえ出せば、悪評も忽ちに祝福されてしまうからね。ああ、この悪徳共は何と素敵な住み家を手に入れたことか。何しろ、ほかの誰でもない君を住居に選んだのだからね、ここなら、美のヴェールがあらゆる汚点を覆い隠し、目に見える物すべてを美しく変えてしまう。ああ、愛する者よ、君よ、最愛の美人よ、こういう気ままな特権には心したまえ、どんなに硬いナイフでも、使いすぎれば刃が鈍るのだよ。 第九十六聯、君の欠点を若さだと言う者も、色好みの性(さが)だと言う者もいる、君の魅力は若さと大様な遊びっぷりだ、そう言う者もいる。魅力であれ、欠点であれ、身分の別なくみんなから愛されている、君は自分のもとに集まる欠点を素晴らしい魅力に変えてしまうからね。豪華な玉座にある女王様がはめていれば、どんな安物の宝石でも立派に見えるだろうよ。君に見られる通常の過ちでも、同様に正しい行為に変じて、本物と鑑定されることになる。残忍な狼が柔和な羊に身を変えて、羊の群れに近づくことがあれば、どれほどに多くの羊を欺き捕らえるか知れない。君が自分の魅力を思いのままに操れば、どれほど多くの賛嘆者達を迷わせることになるか。そんなことは絶対にやめてくれ、私は君を心底愛しているから、君だけでなく、君の名声をも我が物にしたい。 第九十七聯、過ぎてゆく年に歓びをもたらす者よ、君よ、君と別れていた間は、まるで冬のように思えたものだ、どれほど凍える思いをしたことか、どんなに暗く辛い日々を送ってきたことか、何処も彼処(かしこ)も老いさらばえた十二月のうそ寒さばかり、所が、君と離れていたこの時期は輝かしい夏のさなかだったのだ、多産な秋は、豊かな実りを結んで、大きな腹を抱え、浮気な春の子供らを孕んでいた。まるで、亭主が死んだあとの後家の腹みたいに。しかし、この豊穣な子供等も孤児の定めを背負った暗い、父親知らずの実りのように私には思われた。何故なら、夏と、その喜びとは君に付き添っているので、君がいなければ鳥でさえ押し黙ってしまうからだ。たとえ鳥が歌っても、あまりに暗い心で歌うから、木々の葉も冬の到来かと怯え、色あせてしまう。 第九十八聯、春の間、私は君から離れて過ごした、色鮮やかな四月が晴れ着で飾り、あらゆるものに青春の息吹を吹き込んだので、陰気な老人のサターンも不気味な笑い声を上げて、一緒に踊りまわっていた。だが、鳥の歌声を聞いても、色も香もとりどりに咲く花々の甘い匂いをかいでも、私は夏向きの楽しい話を語る気にはなれなかったし、咲き乱れる花床から美しい花を摘む気にもならなかった。百合の花の白さを愛でることもなく、薔薇の深い赤みを褒めることもなかった。これらは芳香を放つだけのもの、要するに、君をなぞった快いただの模写にしか過ぎない、君が全ての手本なのだからね。ともかく、まだ冬の感じがしていた。そして、君がいないから私はそれらと遊び戯れた、君の影と戯れるようにね。 第九十九聯、私は早咲きのスミレをこう言って叱りつけた、美しい盗人よ、お前はそのこよなく甘い香りを何処で盗んだのか、わが愛する最愛の青年の芳しい息から掠め取ったに相違あるまいよ。その柔らかな頬に宿る華やかな色彩も、明らかに、我が愛する者の血管に浸して染めたものだ、と。更には私は君の手の白さを盗んだと言っては百合を詰り、君の髪を奪ったと難癖をつけて、シソ科で芳香を放つマヨラナの蕾をそしった。薔薇の花は恐れ戦きながら棘の座に咲いていた、或るは恥に赤らみ、或るは絶望のあまりに蒼白になって、赤でも白でもない第三の薔薇は両方の色を盗み、おまけに君の息まで我が物にしたが、盗みの報いを受け、若々しい花の盛りに復讐を目指す青虫に食い荒らされて死んだ。私はもっと多くの花を眺めたが、どれも、君から香りや色を盗んで来たとしか見えなかった。詰まり、この世の美しいもの、芳しいものは全て君に由来するとしか私には思われないのだ、繰り返して言うのだが、そうとしか信じられない、考えられない程に君は浮世離れした天上の清浄な美の贅を尽くして存在している、そうとしか思えないし、見えない。全宇宙の美がことごとく君に集中し、収斂しているのだからね。 第百聯、わが詩の女神は一体、何処へ行ってしまったのだ、この私に力の一切を与え、夢の広大な世界を恵んでくれたものについて、こんなにも長いあいだ、語るのを忘れていてよいのか、詰まらぬ俗受けする端唄を作るのに詩の霊感を使い果たし、卑しい主題に光を当てるのに力を燃やし尽くしたのか。戻ってこい、戻って来るのだ、忘れっぽくて気まぐれな女神よ。今すぐに高貴な詩を創り、虚しく過ごした空白の時を贖え、お前の歌を珍重してくれるもの、お前の筆に技量と主題とを与えるものの耳に、歌いかけるがよい。怠惰な詩の女神よ、起きて、我が愛するものの顔を眺め、時が皺を刻みつけたか否かを調べるがいい。もし醜悪な皺があれば、衰退を嘲笑う詩を書け、時の行った破壊行為をして、世間のつまはじきにしてしまえ。非情な時が生命を滅ぼす前に、愛する者に更なる名声を添えてやれ、そうすれば、冷酷無情の時の忌まわしい大鎌を出し抜くことになるからね。 詩人は愛する青年の完全無比の美と完成を永遠のものとは見ていない、移ろいやすく、儚い一過性のものとみなしている。時と言う平等で公平な破壊作用はこの世のもの全てに決定的な影響を及ぼさないではおかない。それゆえに美は価値をまし、完璧は愛おしさを倍加する。永遠とは退屈であり、無価値であり、忌まわしい。ほんの一瞬間に現出するからこそ限りもなく大切なのだ、無限なのだ、無尽蔵なのだ。永遠は一瞬の輝きの中にしか真の美しさを演出し得ない。造花の永続性などを誰が珍重するだろう、人は変化し、一瞬にして死ぬ。だから、それ故に愛おしく懐かしく大切なのだ。その間に火花として恋情が迸る。稲妻として宙を奔る。今が限りもなく大切な時と改めて実感させられる。
2024年08月24日
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澪標(みをつくし) 心盡(つく)して 思へかも 此處(ここ)にももとな 夢(いめ)にし見ゆる(― 心を尽くして妻が私を思うからか、ここでも妻の姿がしきりに夢に見える)吾妹子(わぎもこ)に 觸るとは無しに 荒磯(ありそ)廻(み)に わが衣手(ころもで)は 濡れにけるかも(― 私の袖は吾妹子に触れることはなくて、荒磯の廻りで私の袖は濡れてしまった)室の浦の 淵門(せと)の崎なる 鳴島(なきしま)の 磯越す波に 濡れにけるかも(― 室の浦の瀬戸・海や川が陸や島や岸の間で狭くなっている所 の岬にある鳴島の磯を越す波に濡れたことである)霍公鳥(ほととぎす) 飛幡(とばた)の浦に しく波の しばしば君を 見むよしがも(― 飛幡の浦に寄せる波のように、しばしばわが君を見る縁があればよいのに)吾妹子を 外(よそ)のみや見む 越(こし)の海の 子難(こがた)の海の 島ならなくに(―吾妹子を傍から眺めているだけなのであろうか、吾妹子は、近づきがたい越しの海の子難の海の島だというわけではないのに)波の間ゆ 雲居に見ゆる 栗島の 逢はぬものゆゑ 吾(わ)に寄(よ)する兒ら(― 逢いもしないのに、人々が私と親しいように噂を立てるあの子よ)衣手の 眞若(まわか)の浦の 眞砂子(まさご)地(つち) 間無く時無し わが戀ふらくは(― 和歌の浦のマナゴ地と言うように、マナく、止む時もない、私の恋しく思うことは)能登(のと)の海に 釣する海人(あま)の 漁火(いざりび)の 光にい往(い)け 月待ちがてり(― 能登の海で釣りをする海人の漁火の光を頼りに行きなさい、一方では月の光を待ちながら)志賀(しか)の白水郎(あま)の 釣し燭(とも)せる 漁火の ほのかに妹を 見むよしもがも(― 福岡県の志賀の海人が釣りをして灯している漁火のように、ほのかにでも妹を見る手立てが欲しいものだ)難波潟(なにはがた) 漕ぎ出(で)し船の はろばろに 別れ來ぬれど 忘れかねつも(― 難波潟を漕ぎ出た船のように、別れて遥か遠くに来たけれど、妹を忘れることが出来ない)浦廻(うらみ)漕ぐ 熊野(くまの)舟(ふね)着き めずらしく 懸(か)けて思はぬ 月も日もなし(― 浦廻を漕ぐ熊野舟が着いて珍しいように、もっと見たくて、あなたを心にかけて思い出さない日は、一日もありません)漁(いざ)りする 海人(あま)の楫の音(と) ゆくらかに 妹(いも)は心に 乗りにけるかも(― 漁をする海人の櫓の音がゆるやかに聞こえてくるように、私はゆったりと妹の心に乗っている) 恋心が切迫すればするほど胸が締め付けられて切ない思いが迸り出るものですが、この歌の作者は通常とは逆を行って、緩やかに、安心しきって妹の心をわが物と心得、安心立命している、実に立派であり、こうありたいものと誰もが願わずにはいられない理想の恋の在り方。平凡で、日常的で、平易であるが、なかなかこうした安定して安らかな恋の情緒にはたどり着けない。羨ましい限りでありまする。若の浦に 袖さへ濡れて 忘貝 拾へど妹は 忘らえなくに(― 和歌山県の若の浦で袖まで濡れて恋忘れ貝を拾ったけれど、恋しい妹は忘れられない)草枕 旅にし居(を)れば 刈薦(かりこも)の 亂れて妹に 戀ひぬ日は無し(― 旅に出ているので、心が乱れて妹を恋しく思わない日はない)志賀(しか)の海人(あま)の 磯に刈り干(ほ)す 名告藻(なのりそ)の 名は告(の)りてしをなにか逢ひ難き(― 私は名をお教えしたのに、どうしてお会いするのが難しいのでしょうか)國遠み 思ひな侘(わ)びそ 風の共(むた) 雲の行くなす 言(こと)は通はむ(― 旅に出て国が遠いからとてあれこれ考えて力を落としなさいますな。風に連れて雲が流れていくように便りを致しますから)留(とま)りにし 人を思ふに 蜻蛉(あきづ)野(の)に 居(ゐ)る白雲の 止(や)む時も無し(― 家に残った人を思うと、蜻蛉野にかかる白雲が消える時がないように、私の思いは止む時がない」うらもなく 去(い)にし君ゆゑ 朝な朝な もとなそ戀ふる 逢うとは無けど(― 平気で行ってしまったあなただけど、朝な朝なに無性に恋しく思います。お逢いするというのではありませんが)白栲(しろたへ)の 君が下紐 われさへに 今日結びてな 逢はむ日のため(― 白栲のあなたの下紐を私までも手を添えて今結びましょう。再びお逢いする日のために)白栲(しろたへ)の 袖の別れは 惜しけども 思ひ亂れて ゆるしつるかも(― 袖を別って離れ離れになるのは惜しいけれども、私は心が乱れて、別れたいと言うあのお方を許してあげた)京師邊(みやこべ)に 君は去(い)にしを 誰解(たれと)けか わが紐の緒の 結(ゆ)ふ手たゆしも(― 都へ我が君は行ってしまわれたのに、誰が解くからか、私の下紐の緒の結び目を結ぶ手がだるいほどです。あなたが私を思って下さるので、紐の緒が自然に解けるのでしょう)草枕 旅行く君を 人目多み 袖振らずして あまた悔(くや)しも(― 旅に出るあなたを、人目が多いので袖を振らずじまいだったのが大変後悔されます)眞澄鏡(まそかがみ) 手に取り持ちて 見れど飽かぬ 君におくれて 生(い)けりとも無し(― いくら見ても飽きないあなたに残されて生きた心地もしません)曇(くも)り夜の たどきも知ぬ 山越えて 往(い)ます君をば 何時(いつ)とか待たむ(― その様子も分からない山を越えていかれる我が君を、私は何時お帰りとお待ちしたらよいのでしょうか)たたなづく 靑垣山(あをかきやま)の 隔(へな)りなば しばしば君を 言問(ことど)はじかも(― 青い垣根のような山々が隔てとなったならば、しばしばあなたに手紙を差し上げることは出来ないでしょうか)朝霞 たなびく山を 越えて去(い)なば しばしば君を 言問(ことど)はじかも(― 朝霞の棚引いている山を越えていったなら、私はあなたを恋しく思うことであろう。お逢いする日まで)あしひきの 山は百重(ももへ)に隠すとも 妹(いも)は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに(―山が百重にも隠そうとも、妹を私は忘れないであろう。再び直接逢う日まで)雲居なる 海山越えて い行きなば われは戀ひむな 後は逢ひぬとも(― 遥かな海山を越えて行ってしまわれたら、私は恋に苦しむだろうな。将来きっとお逢いするにしても)よしゑやし 戀ひじとすれど 木綿間山(ゆふまやま) 越えにし君が 思ほゆらくに(― もう諦めて慕うまいと思うけれど、木綿間山を越えていった我が君が思い出されてなりません)草陰(くさかげ)の 荒藺(あらゐ)の崎の 笠島を 見つつか君が 山道(やまぢ)越ゆらむ(― 荒藺の崎の笠島を見ながら、我が君は今頃山道を越えておいでであろうか)玉かつま 島熊山の 夕暮に 獨りか君が 山道(やまぢ)越ゆらむ(― 島熊山の夕暮にあなたは一人で山を越えておいでであろうか)息の緒に わが思ふ君は 鶏(とり)が鳴く 東方(あづま)の坂を 今日か越ゆらむ(― 命の綱と私が思うわが君は、東国の険しい坂を今日は越えておいでであろうか)磐城山(いはきやま) 直(ただ)越(こ)え來(き)ませ 磯崎(いそさき)の 許奴美(こぬみ)の濱に われ立ち待たむ(― 磐城山を真っ直ぐに越えておいでなさい。磯崎のコヌミの浜に私は立ってお待ち致します)春日野(かすがの)の 淺茅が原に おくれ居て 時そとも無し わが戀ふらくは(春日野の浅茅が原に残されて、私はいつも恋に焦がれています)住吉(すみのえ)の 岸に向かえる 淡路島(あはぢしま) あはれと君を 言はぬ日は無し(―あなたに、ああ、と呼びかけない日はありません)明日よりは 印南(いなみ)の川の 出でて去(い)なば 留(とま)れるわれは 戀つつそあらむ(― あなたが明日から旅に出ていなくなったならば、残った私は恋しく思い続けることでしょう)海(わた)の底 沖は恐(かしこ)し 磯廻(いそみ)より 漕ぎ廻(た)み行かせ 月は經るとも(― 海の沖は恐ろしゅう御座いますから、岸近くの浦廻を漕ぎ巡っておいでなさい。時が多くかかろうとも)飼飯(けひ)の浦に 寄する白波 しくしくに 妹(いも)が姿は思ほゆるかも(― 兵庫県のケヒの浦に白波がしきりに押し寄せるように、しきりに妹の姿が思い出されることだ)時つ風 吹飯(ふけひ)の濱に 出で居つつ 贖(あか)ふ命は 妹が爲こそ(― 吹飯の浜に出てみそぎをして、命が長いように祈るのは、全く妹のためなのです)柔田津(にきたつ)に 舟乗(ふなの)りせむと 聞きしなへ 何そも君が 見え來(こ)ざるらむ(― ニキタツで船に乗って帰るとお聞きするとともに、お待ちしていますが、どうしてわが君はお見えにならないのでしょうか)みさごゐる 渚(す)にゐる舟の 漕ぎ出(で)なば うら戀(こひ)しけむ 後は逢ひぬとも(― みさごのいる渚にいる舟が漕ぎ去るように、あなたが去ったならば、心の内で恋しく思うでしょう。後では必ず逢うとしても)玉鬘(たまかづら) さきく行かさね 山菅(やますげ)の 思ひ亂れて 戀ひつつ待たむ(― 御無事でいっていらっしゃい、私は思い乱れてお慕いしながらお待ち致します)おくれ居て 戀つつあらずは 田子の浦の 海人(あま)ならましを 玉藻刈る刈る(― 後に残されて恋しく思っていずに、ああ、田子の浦の海人だったらよかったのに。玉藻を無心に刈り続けて)筑紫道(つくしぢ)の 荒磯(ありそ)の玉藻 刈るとかも 君は久しく 待てど來まさぬ(― 筑紫からの帰路、荒磯の玉藻を刈っていると言うのだろうか、わが君は久しくお待ちしてもお見えにならない)あらたまの 年の緒ながく 照る月の 飽かざる君や 明日別れなむ(― 年月長く見ていても飽きない月のように、見飽きることのないあなたに、明日お別れするのでしょうか)久にあらむ 君を思ふに ひさかたの 清き月夜(つくよ)も 闇(やみ)のみに見ゆ(― 長い旅路にお出かけになるあなたを思うと、清い月の光も全く闇のように見えます)春日(かすが)なる 三笠の山に ゐる雲を 出(い)で見るごとに 君をしそ思ふ(― 春日の三笠の山にかかっている雲を家から出て見る毎に、遠いあなたを思います)あしひきの 片山雉(かたやまきぎし) 立ちゆかむ 君におくれて うつしけめやも(― 旅に立つあなたに残されて、正気でいられましょうか)
2024年08月22日
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第八十一聯、私が長命して君より長生きして、君の墓碑銘を書くような悲惨な運命に見舞われたら、或いは順運で、君が生き残り、私が土の中で朽ち果てようと、死に神がこの詩作から君の誇るべき思い出を奪うことは出来ない。まあ、私の才能などが綺麗さっぱりとこの世から忘れ去られるとしてもだ。私があの世に行けば、世間からも死んで消えるが、君の名前はこれからは不滅の生命を勝ち得る、大地は私には粗末な墓の一つもあてがうに過ぎないけれども、君は人々の眼の中に埋葬されるだろう、つまり、君の墓碑とはこの私の高雅な傑出した詩なのだよ、まだ生まれていない人人の眼がいずれはこれを、比類なく素晴らしい詩歌を読む。今この世に生きている人々が全て死に絶えたとしても、やがて生まれ出てくる舌が、口々に古今に絶した比類なく素晴らしい人柄を語り継ぎ、誉めそやす。そう、ああ、君よ、君は当然のこととして永遠に輝かしく太陽や月や、星々のごとく生きる、光り輝く。そういう力が私の筆にはあるのだからね。生命の息が最も晴れやかに息づく場所、人々の口に、舌に生き、語り継がれる、間違いなくだ。 何という傲岸不遜で神をも恐れぬ自信であろうか、私などは一応そう驚嘆しておきましょうか、天才は己の天才を疑う術を与えられていない、当たり前なのだ、ことごとく傑出して人力を遥かに超越仕切ってしまっている彼に、白を白としか言えない。当たり前の事なのだが、私のような凡人には天才の非凡さを、その一端を垣間見るのが精一杯で、驚嘆するのみ。天才とは己の大胆不敵さに居直る権利と言おうか、自然な振る舞いが許されている。大胆でも、不遜でもないのだ。 第八十二聯、成る程、そうだよ、君は私の信奉する詩神と結婚したわけではない、だから、他の才能あるとうぬぼれている詩人達が君の類希な美貌を種に賛辞を書き連ねると、それにいちいち丁寧に目を通して、どの詩集にも祝福を与えるのは、別に恥ではない。君は容姿や外見のみならず、学識や知識にも優れているから、自分の才質は私の称賛などを遥かに超えている、という気にもなるだろうね。それゆえに、今日の日進月歩の時代からもっと新しく斬新な作品を新たに手に入れたい、と言う思いに駆られもしようし、それも無理からぬ事と私は承認しようよ。そう、そうしたまえ、愛する君よ、君よ。しかし、彼等が頭を絞り、捻り、いくら修辞法をいじくりまわし、持って回った言い方をしても、真実に美しい者よ、我が最愛の若者よ、君は、この真実を率直に語る私という、友の、平明真実な言葉の中でこそ、真に、あるがままに描かれよう。当世はやりの厚化粧は、頬の血の気が失せてしまっている人には有効だろうが、少なくとも君に使うのは場違いだし、見当違いだよ。 筆舌に絶した美しさを言葉で表現する、この本当のパラドックスを詩人は冒頭部分で述べてしまっている。この上に何を重ねて述べる必要があろうか、詩人はライバルで才能豊かな若い詩人たちを睥睨して、歯牙にもかけようとしない。青年に必要な忠告をやんわりと投げかければそれでよい。だから、そうしている。何たる自信であろうか、私などはただただ驚嘆するばかり、天才には天才にしか言えない言葉しか表出出来ないわけで、美貌の青年紳士に理想の自己を見、人間の最高の在り方を見出している。してみると、これは私・古屋が自分に語るのですが、シェークスピアという劇作家兼不世出の詩人は現世での社会規範や階級などを超越して、人類史上に燦然と輝く最高にして最優美な人間神なのだと、このソネット群を通じて高らかに宣言しているわけで、彼自身は自覚していなかっと思われるのですが、事実上はキリストを越える現人神として自分は時代を越えて不滅だし、永遠に生き続けると断言している、確かに。私の表現が誇張でもオーヴァーでもないことがお分かりいただけるでしょうか。とにかく、名実ともにシェークスピアなる天才は凄いお人なわけでありまする。 第八十三聯、私はいまだかつて君に化粧が必要だと思ったことは一度もない、だから、君の美貌に化粧を施そうとしたこともない、必要のないことだからね。流行の詩人が、君の恩義に報いようとて下手な賛辞を捧げても、当人はそうは思っていないだろうがね、君はいつだって彼等の表現を超えていたよ、少なくとも私は、そう思った。私が君を誉めそやすのに怠惰であったのは、君と言う人間が此処に実在していれば、平凡で並みの筆が君の美質を語ったとしても、君の中に生きて光り輝いている美質に遠く及ばないから、それが直ぐに透けて見えてしまう、君は、最愛の愛人よ、君は私の沈黙を私の罪と見做したようだが、黙して語らぬことこそは私の最大の誇りに化するしかないのだよ、君、君。何故とならば、言わずもがななことを付け加えるなら、私は口を噤んだからこそ美を汚すことはなかったけれど、他の連中は生命を与えるつもりで結局は墓を建ててばかりたのだからね。君のその、美しい眼の一つにも、少なくとも売れっ子のふたりの詩人が散々に頭をひねって捻り出したヘボ賛辞よりも、ずっと強い素晴らしい生命が生きている、現に。それは誰の目にも明らかだよ。 第八十四聯、世界でどんなに巧みな詩人でも、この世でただひとり君だけが、君がただひとりでいる時だけが本来の君でいられるのだから、この素晴らしい君という豊かに称賛に勝る言葉を言い当てられるのだよ、君に匹敵するような者が育つ場所を例に挙げようにも、そういう立派な品種は君という特別の囲い地の中にしか見られない、詩歌の対象にちっぽけな栄光をさえ与えられないのであれば、そんな筆には貧弱極まる力しかない。だが、君、君、君を書く詩人は、君が君であるという事さえ言えば、それだけで立派に、己の作品に栄光を与える事になる。詩人は君の中に書かれてあるものだけを単に写せばよい、自然がかくも鮮明に浮き上がらせている物を下手に弄る必要はない、こういう複写ならば、その詩人の才能を世間に広めてもくれようし、その文章もいたるところで称賛されるだろうよ。君は当然のことながらに賛辞を好むから、美貌才質と言う天来の祝福にどうしても呪いを招く結果になるし、称賛も度重なると必然として安物に堕してしまう。 第八十五聯、私の以前から信奉している詩神・ミューズはもうだいぶ前から金縛り状態に陥ってしまっていて、慎ましく沈黙を守っているのだが、一方では、君を称える山のような文章が修辞も華やかに、詩の女神達が総がかりで彫琢した世にも珍奇な言葉を連ね、自称「黄金の筆」を以て次から次へと書き綴られていく。かくて、他の詩人たちは結構な言葉を書くのだが、私の方はと言えば密かによい想いを胸に抱くだけ、才人が洗練された筆を縦横に揮い、形を整え、とことん磨き上げて君に捧げる賛美の歌のひとつひとつにも、無学で気のきかない田舎の教会書記宜しく、「アーメン」、斯くてあれかし!と叫び続けるだけなのだ、今の私は。しかし、君が褒められるのを耳にすれば、「さよう、誠にしかり」と心の中で唱えて、称賛の頂点に、又、何ほどかの称賛の言葉を加えては見るのだが、それは飽くまでも心の中でだけのこと、つまり、言葉では皆に遅れをとっても、心の中ではいつだって君への愛は先頭を切っているのだよ。だから君、他人には雄弁さのゆえに目をかけてやりたまえ、そして、私には、喋っているのと変わらないこの静謐な沈黙の故に、全身全霊を傾けてくれたまえ、ああ、愛しの君よ、君よ。 いつの時代でも、どのような場合でも、沈黙は雄弁、駄弁に遥かに勝るのであります。声無き声こそは真実の言葉なのですからね。詩人は、天才詩人の名に値する彼は、言葉を心の中だけに溜め込もうとしているかのようであります。真実に愛する人の前で、言葉は役に立ちませんよね、言葉以上の情念が、愛情のほとばしりが稲妻の如く宙を走るだけ、相手だって、同じ事、魂のアンテナで、心の宇宙の真っ只中で同じように激しく火花散らして受け止めるだけです、愛とはそうしたもの、詩歌とはその火花の火の粉でしかない、それを私ども鑑賞者は心得てさえいれば事足りる、自分の心の中に竜神が駆け巡るさまを感じ取ればよい。表現は二の次でありましょう。なんで他人である詩人の切ない感情が我々に伝わるのか、そもそも「他人」などではないからであります。詩人は即ち私であり、私は詩人なのですね。シェークスピアの詩を鑑賞するとは私たちが彼に同化することを意味します、虚心坦懐に接すればイナズマは、龍神は必ず何処からともなく姿を現し、無限の力を放射して読者の心臓を射抜かないではおかないのです、置かないのです。それは、我々が神から授かった有難い肉体を有しているからなのですよ。精神と肉体は一体のもの、便宜上で二つに分けているだけのこと、魂が宙を駆け巡るなら、肉体も宇宙を遊泳し飛翔するはずなのですよ。これ、私の表現であって、私の言葉ではない。言葉は、霊魂、言霊を有していて、私達に霊妙な働きかけをしてくる。無心に言葉と対すればの話ですがね。 第八十六聯、半分生まれかけていたわが思考を、再び脳髄に埋葬して、こうして思考が育ってきた母胎を墓場に変えたのは、あれは、君という類なく貴重な獲物を目指して、壮麗な帆に風を孕ませて進む彼の、偉大な詩のせいであったか。或いは、私を撃ち殺したのは諸々の霊に教えられて、人間業とは思えない傑出した詩をものした彼の活力であったか。いいや、違うよ、彼も、そして夜毎に彼を助けにやって来る仲間達も、私の新鮮な詩心を恐怖で萎え萎ませることはなかった、彼も、また、夜な夜な彼に知識を詰め込む、あの何とも愛想のいい使い魔の霊も、決して勝利者などではない、私を遂に黙らせたと言って自慢することは出来ない。私はもとよりそんなものを畏れて気力を失ったのではない。しかしながら、君が目をかけて彼の詩が完璧になれば、私は言うべき主題を失う。それが、私の詩の持つ力を弱める。 第八十七聯、さようなら、君よ、わが友よ、最愛の理想よ、さようなら、君は私が所有するには余りにも貴重だ、きっと、君も自分の価値を知っているのだろうさ。その、高貴な価値という特権が君を解き放ち、自由にする。君に対する私の権利は既に期限切れだ、君の同意もなしにどうして君を引き止めておけようか。一体、私のどこにこんな富に相応しいところがあろうか…、私にはこうした美しい贈り物を受ける理由がない。だから、私の所有権は自然に君のもとに戻ることになる。君が自分を与えた時には、自分の価値を知らなかった。或いは、与えた当の私を買いかぶり過ぎていたのだ。だから、君の大きな贈り物は誤認から生まれたのであり、しっかり判断し直して、手元に取り戻すわけだ。つまり、君を一時的に所有したのは、楽しい夢を見たようなもの、眠っている時は王様でいられるが、覚めてみればとんでもない話しさ。 第八十八聯、君が私を安く見積もるつもりになり、私を値踏みして、軽蔑の目を向ける時が来たら、私は躊躇なく君を支持して、我が身と戦うことにしよう。君が友情を裏切っても、君が正しいことを証明しよう。自分の弱みは自分が一番よく知っているから、君の肩を持って、私が人知れず破廉恥な罪の行為に耽り、汚辱にまみれ果てている、と言う話をでっち上げてもいい。君が私を弊履の如くに捨てて大いに面目を施すのなら。私だって、これで利益を得ることになる。何故ならば、私の君への愛の想いはことごとく君に捧げ尽くしてしまっているから。我と我が身に加える危害が君の利益になるなら、私の方も二重に得をするのだからね。わが愛はかくも強く、私は真に君の物なのだから、君を正しくする為にあらゆる悪を背負ってやるよ。 彼のような天才以外に誰がこんな文章を書けるであろうか、彼には究極の自己愛が、徹底したナルシストが露出している。彼を、理想の恋人をほめあげればほめあげる程、彼自身の価値が高まる仕掛けなのだ。天才中の天才でなくて何であろうか。彼は謙遜をしているのではなくて、徹底して自分を持ち上げているだけだ。私、古屋も内心では密かに大いに自惚れているのだが、彼程には手放しで自己吹聴に耽ることなど思いも及ばないことであった、このソネットに接するまでは。創作と鑑賞とは究極的に天才を必要とする。この場合の天才とは誰にも平等に与えられていると私は信じているのだが、努力という裏付けが不可欠であることを申し添えておきましょうか。今の私は沙翁の天才に酔い痴れて狂っている、そういう作用をこのソネットは本質的に備えているのだ。良質の酒と本物の詩歌は人の心と肉体とを酩酊させる。神が人に与えた最良の贈り物だろう。
2024年08月20日
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すべもなき 片戀をすと ここのころに わが死ぬべきは 夢(いめ)に見えきや(― どうすることもできない片思いで近いうちに私は死にそうなのは、あなたの夢に見えたでしょうか)夢に見て 衣(ころも)を取り着 装(よそ)ふ間(ま)に 妹(いも)が使そ 先に來にける(― それを夢に見て衣を取って着て、支度をする間に、あなたの使が先に来ました)ありありて 後も逢はむと 言(こと)のみを 堅め言ひつつ 逢ふとは無しに(― このまま時を待って後で会おうと言葉ばかり固く約束しておきながら、会うことはなくて)極(きはま)りて われも逢はむと 思へども 人の言こそ 繁き君にあれ(― 是非お逢いしたいと思いますけれど、人の噂の頻りに立つあなたでいらっしゃいますから、お逢いできずいます)息の緒に わが息衝(いきづ)きし 妹すらを 人妻なりと 聞けば悲しも(― 命の綱と頼んで私が切なく思いを寄せていた妹が、意外にも既に人妻だったと聞いたので悲しい)わが故(ゆゑ)に いたくな侘(わ)びそ 後遂に 逢はじといひし こともあらなくに(― 私のことでひどく力を落としなさいますな。将来、決してお逢い致すまいとは申したことは御座いません)門立(かどた)てて 戸も閉(さ)してあるを 何處(いづく)ゆか 妹が入り來て 夢(いめ)に見えつる(― 門を閉め、戸も立ててあるのに、何処から妹が入って来て、私の夢に現れたのだろう)門立てて 戸は閉(さ)したれど 盗人(ぬすびと)の 穿(ほ)れる穴より 入りて見えけむ(―門を閉め、戸も立ててあるけれど、盗人が密かに開けた穴から入ってみえたのでしょう)明日よりは 戀ひつつあらむ 今夜(こよひ)だに 速(はや)く初夜(よひ)より 紐解け吾妹(わぎも)(― 明日からは恋しくも思うことであろう、せめて今夜だけでも速く、紐を解きなさい吾妹)今さらに 寝(ね)めやわが背子(せこ) 新夜(あらたよ)の 一夜(ひとよ)もおちず 夢(いめ)に見えこそ(― 今更、寝たくありません、わが背子よ。どうかこれから先、毎晩毎晩必ず夢に見えてください)わが背子が 使を待つと 笠も着ず 出でつつそ見し 雨の降らくに(― わが背子の使いを待つと言うので笠も着ずに、外に出て見ていました。雨の降る中を)心無き 雨にもあるか 人目守(も)り 乏しき妹に 今日だに逢はむ(― 心無い雨であることよ、人目のない時を覗って、稀にしか会えない妹にせめて今日だけでも会いたいのに)ただ獨り 寝(ぬ)れど寝(ね)かねて 白栲(しらたへ)の 袖を笠に着 濡(ぬ)れつつそ來(こ)し(― 唯ひとりで寝ても眠れずに、白栲の袖を笠にして濡れてきました)雨も降り 夜もふけにけり 今さらに 君行かめやも 紐解き設(ま)けな(― 雨も降り夜も更けました、今さらあなたはお帰りになることもありますまい。紐を解いて寝る支度をしましょう)ひさかたの 雨の降る日を わが門(かど)に 蓑笠(みのかさ)着ずて 來(け)るひとや誰(たれ)(― 雨の降る日なのに、私の家の前に、蓑も笠も身につけずに来ている人はどなたですか)纏向(まきむく)の 痛足(あなし)の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつそ來(こ)し(― 痛足の山に雲が掛かって雨は降るけれど、私は濡れながらもあなたに逢いに来たのです)渡會(わたらひ)の 大川の邊(べ)の 若久木(わかひさき) わが久ならば 妹戀ひむかも(― 渡会の大川の辺の若ヒサキのそれではないが、私が久しく旅に出ていたならば、妹は恋しく思うだろうなあ)吾妹子(わぎもこ)を 夢(いめ)に見え來(こ)と 大和路(やまとぢ)の 渡瀬(わたりぜ)ごとに 手向(たむけ)そわがする(― 吾妹子よ、夢に現れてこいと、大和路の渡り瀬毎に私は手向けをしています)櫻花咲きかも 散ると見るまでに 誰(たれ)かも 此處に 見えて散り行く(― 桜の花が咲いてはすぐに散ってしまうように、此処に集まっては散っていくのは誰なのであろうか)豐國(とよくに)の 企救(きく)の濱松 根もころに 何しか妹に 相言ひ始(そ)めけむ(― どうして妹と親しい言葉を交わすようになったのだろう)月易(か)へて 君をば見むと 思へかも 日も易へずして 戀の繁かく(― 来月になったらあなたにお会いできようと、そればかり思っているせいか、お出かけになって一日も経たないのに恋心が頻りです)な行きそと 歸りも來(く)やと 顧(かへり)みに行けど 歸らず道の長道(ながて)を(― 行くのはおやめなさいと、留めに引き返してくるかしらと省みしながら行ってみるけれど、引き返してはこない。この先、旅は長いのだけれど)旅にして 妹を思ひ出(で) いちしろく 人の知るべく 嘆きせむかも(― 旅に出て妹を思い出し、はっきりと人が気付く程に私は嘆息することであろうか)里離(はな)れ 遠くあらなくに 草枕 旅とし思へば なほ戀ひにけり(― 里から離れて遠くもないのに、旅に出たのだと思うと一層恋しくなる)近くあれば 名のみも聞きて 慰めつ 今夜(こよひ)ゆ戀の いや益(まさ)りなむ(― 近くにいるので噂だけ耳にして心を慰めていましたが、お会いした今夜からは恋心がいよいよ勝ることでしょう)旅にありて 戀ふれば苦し いつしかも 都に行きて 君が目を見む(― 旅に出ていて、あなたが恋しくて大変苦しい、早く都に行ってお顔が見たい)遠くあれば 姿は見えね 常の如(ごと) 妹が笑(ゑま)ひは 面影にして(― 遠く離れているので、実際の姿は見えないが、いつものように妹の笑顔が面影に見える)年も經ず 歸り來(き)なむと 朝影に 待つらむ妹(いも)し 面影に見ゆ(― 年も立たないうちに帰ってくるだろうと身も痩せて待っているに違いない妹が、目の前に浮かんだくる)玉鉾(たまほこ)の 道に出で立ち 別れ來(こ)し 日より思ふに 忘るる時なし(― 旅立ちして別れてきてからずっと思っているので、妹を忘れるときが全くない)愛(は)しきやし 然(しか)ある戀にも ありしかも 君におくれて 戀しく思へば(― ああ、こうしたはっきりした恋の気持であったのだなあ、あなたの旅立ちの後に残されて、こんなにも恋しいことを思えば)草枕 旅の悲しく あるなへに 妹を相見て 後戀ひむかも(― 旅が淋しく悲しい気持がする時に、こんなにも可愛い妹に遭ったので、今は楽しいが、後で恋しさに悩むだろう)國遠み 直(ただ)には逢はず 夢(いめ)にだに われに見えこそ 逢はむ日までに(― 国が遠いので直接お会いできませんから、せめて夢にだけでも見えてください、お逢いするまで) 念の為に書き添えておきますが、古代の旅は、今日の物見遊山の愉快なだけの旅行ではなく、少し誇張して言えば死の危険と背中合わせの決死の覚悟、が背後に秘められている。まかり間違えば今生では二度と会えないかも知れない、そんな含みが旅の中に透けて見える。少なくとも歌の解釈としては、そうした含みを持たせて解釈した方が歌に奥行が出る。老婆心ながら、蛇足めいて申し添えました。かく戀ひむ ものと知りせば 吾妹子(わぎもこ)に 言問(ことど)はましを 今し悔(くや)しも(― これほど恋しいものと知っていたなら、吾妹子に親しく声を掛けるのだったのに。今になって後悔される)旅の夜の 久しくなれば さにつらふ 紐解き離(さ)けず 戀ふるこのころ(― 旅の夜が久しくなったので、赤い下紐を解き放たずに、妹を恋しく思う今日この頃であるよ)吾妹子し 吾(あ)を偲(しの)ふらし 草枕 旅の丸寝に 下紐(したびも)解けぬ(― 吾妹子は家で私を慕っているらしい、私が旅の丸寝をしていると、下紐が解けた) 当時、恋人が心を寄せると下紐が解けると言う俗信があったらしい。草枕 旅の衣の 紐解けぬ 思ほゆるかも この年頃は(― 一人旅の着物の紐が自ずと解けた、妹と親しんでいたこの年頃の事が思われることだ)玉くしろ 纏(ま)き寝(ね)し妹を 月も經ず 置きてや超えむ この山の岬(さき)(― 手に纏いて寝た妹をひと月も経たないのに打ち捨てて、この山の岬・海や湖に突き出た陸地 を越えて行くことであろうか)梓弓(あづさゆみ) 末は知らねど 愛(うつく)しみ 君に副(たぐ)ひて 山道(やまぢ)越え來(き)ぬ(― 先はどうなるか分からないけれど、愛しく思ってあなたにお任せして一緒に此処まで来ました)霞立つ 春の長日を 奥處(おくか)なく 知らぬ山道を 戀つつか來(こ)む(― 霞の立つ春のうららかな日なのに、果も知れない山道を私は恋の思いで越えて行くことであろうか)外(よそ)のみに 君を相見て 木綿畳(ゆふたたみ) 手向(たむけ)の山を 明日か 越え去(い)なむ(― 親しく言葉を交わさずに、あなたをよそ目に見ただけで私は恐ろしい手向けの山を越えて行くことでしょう)玉かつま 安倍島山の 夕露に 旅寝得(え)せめや 長きこの夜を(― 安倍島山の夕暮れの霧の中で独り旅寝をすることができようか、長いこの夜を)み雪降る 越(こし)の大山 行き過ぎて いづれの日にか わが里を見む(― 雪の降る越しの国の大山を過ぎて、何時わが里を見ることであろうか)いで吾(あ)が駒 早く行きこそ 眞土山(まつちやま) 待つらむ妹(いも)を 行きて早見む(― さあ、わが駒よ、早く行っておくれ、きっと今頃私を待っている妹に、早く会いたいから)惡木山(あしきやま) 木末(こぬれ)ことごと 明日よりは 靡きてありこそ 妹があたり見む(― 悪木山の梢は全部、明日からは靡き伏していてくれ、妹の家のあたりを見ようと思うから)鈴鹿川 八十瀬(やそせ)渡りて 誰(たれ)ゆゑか 夜越(よごえ)に越(こ)えむ 妻もあらなくに(― 鈴鹿川の多くの瀬々を渡って、一体、あなた以外の誰のために夜越えをすることがありましょうか。家に妻もいるわけではありませんのに)吾妹子(わぎもこ)に またも近江(あふみ)の 野洲(やす)の川 安眠(やすい)も寝ずに 戀渡るかも(― 安らかな眠りも寝ずに私は恋い続けていることです)旅にして 物をそ思ふ 白波の 邉(へ)にも沖にも 寄すとは無しに(― 旅にいて私は物思いをしています、白波のように、沖にも岸にも寄せるということもなくて。恋しい人に身を寄せることもなくて)湖廻(みなとみ)に 満ち來る潮の いや益(ま)しに 戀はまされど 忘らえぬかも(― 湖廻に満ちてくる潮のいよいよ増すように、恋しさは募りはしても少しも消えることはない)沖つ波 邉波(へなみ)の來寄(きよ)る 左太(さだ)の浦の この時(さだ)過ぎて 後戀ひむかも(― この良い時期が過ぎてしまって、後で恋しく思うだろうか)在千潟(ありちがた) あり慰めて 行かめども 家なる妹(いも)い おぼぼしみせむ(― ここでこうして引き続き心を慰めていこうと思うけれど、あまり長く旅していると家の妹が屈託するであろうなあ)
2024年08月19日
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第六十九聯、世間の人々が見る君の顔立ちや、体つき、これは完璧だ、どう考えてももう手の入れようがない、あらゆる舌、内なる声がそれを認めている。敵の褒め言葉と同じで、掛け値なしの真実を述べているのだ、このようにして、君の外見は上っ面の称賛を勝ち得ているわけだ、しかし、当然の取り分を君に与えているその同じ舌が、眼が見せたものよりも更に遠くを見ると、がらりと口調を変えて、この称賛を取り消すのだ、彼等は君の心の、内面の美を探ろうとする、そうして、君の行為からそれを推量して判断を下す、そうなると、彼らの眼は親切であっても、考えは極めて下衆なもの、君という麗しい花に雑草の悪臭を付け加えようとする。だが、何故君の匂いはその姿にそぐわないのか、答えは簡単で、君が悪臭紛紛たる雑草と交わるからなのだ。 第七十聯、たとえ君が非難されたとしても、私は君が悪いせいだとは決して思わない、美しく魅力に溢れた人間はいつだって中傷の的にされるからねえ、疑惑というやつは美の引き立て役なのだから、例えれば、澄み切った大空を飛ぶ鴉みたいなものさ、君さえ正しければ、世間に寵愛される、だから中傷なんか、ただ、君の価値を更に高めるだけだ、悪徳は青虫みたいに、香り高い莟を好むが、君はシミひとつない清らかな青春の日々に潜む待ち伏せを見事に切り抜けてきている。襲われずに済んだことも、襲われて勝ったこともある。だが、これまで評判がよくっても、評判で人の悪意を繋ぐことはできない、悪意はいつでも野放しだからね。君の姿に悪の疑惑がさしていなければ、君はひとりで心の王国を支配してしまうよ。 第七十一聯、たとえ私が死んだとしても、君よ、何時までも嘆いてはくれるな、嘆くならせいぜい暗鬱な重い鐘の音が鳴り響き、私がこの下劣な世を去って、下賤きわまる蛆虫どもと共に住むのを、世の人に告げている間だけでいい、いや、いや、君がこの詩を読んでも、これを書いた手がこの世にあったことを思い出してくれるな。私は心底、君を愛している、だから、私を思って嘆いてくれるくらいなら、君の美しい心の中で忘れられる方がいい。ああ、私が多分土と混ざり合ったとき、この詩を目にすることがあっても、言っておくが、わが哀れなる名前を口にするさえやめてほしいのだよ、君の真実の愛は、私の生命とともに朽ちるに任せてくれたまえ。さかしらな世間が君の悲しみを覗き込み、私の亡いあと、私を種に君を笑いものにしては困るからね。 第七十二聯、あの男、ゲス野郎に、君の崇高な愛に叶うどんな美点があったのかね、ひとつ教えてくれないかね、などと世間の人から迫られぬように、私が死んだあとは、私のことはきっぱりと忘れてくれたまえ。私の値打ちなど何一つ取り出せるわけがないのだから、それでも、君が善意から真っ赤な嘘をひねり出して、私の身に余るような果報を言ってくれたり、ケチくさい真実が喜んで与えるよりも、もっと多くの賛辞で亡き私を飾り立ててくれるというのなら、話は別なのだがね。ああ、君が愛ゆえに偽って私を褒め称え、それで、君の真実の愛までが贋物と断定されないように、私の名前はどうか私の亡骸の傍らに埋めてくれ。この上に生かして、私や君自身に恥をかかせないように。私は自分の書くもので散々に恥を晒した、つまらぬものを愛したりすれば君もそうなるのだからね。 第七十三聯、君が私の中に見るものは一年のうちの、あの季節、寒気に震えおののく樹の枝から黄色い葉が落ちつくし、残ったとしても二、三枚、先ごろまでは小鳥たちが美しく歌い囀り、今は裸の朽ち果てた聖歌隊席さながらの無残な姿をされけ出している、あの季節。私の中に君が見るものは、夕暮れどきの淡い光、太陽が西の空に沈み、西の空は黄昏てしまい、真っ暗闇の漆黒の夜が、全てを柩に閉じ込めてしまい、安らわせる死の分身が、やがては消してしまう、そうした夕暮れどきの微弱な光だ。そしてただ、私の中に君が見るものは、焔の輝き、最期の息を引き取る死の床に横たえられたように、己の青春の灰に埋もれて、かつては自分を養った物が、薪や活力が尽きると共に消えていく、焔と化した生命の最期の輝きだ。これを見るからこそ君の愛は尚更強まり、やがて別れねばならぬものを心から愛するのだ。 第七十四聯、だが、だが、死に神が私を酷くも逮捕して、一切保釈などは認めずに引っ立てる時も、どうか君よ、取り乱さずにいてくれたまえ、私の大切な生命の某かはこの詩に投資しておいたし、この詩は形見となって、何時までも君の手元にのこるから。これを読み返してくれれば、君だけに捧げた一番大切なものが、また、見られるのだ。大地が手にするのは、私の滓にしか過ぎない、それが奴の取り分だ。私の精神、魂、心、私のより良い部分、これは何といっても君だけのものだ、だから、結果を言えば私の残り糟を失うだけだ、私の肉体などは、死んでしまえば蛆虫の餌だ、むざむざと刺客の刃にかかる臆病者にしか過ぎない、君が覚えておくには卑しすぎる代物さ、人の肉体に価値があるのは霊魂が入っているからこそで、魂とはこの詩の代名詞、しかもそれは永久に君の手元に留まるのだ。 第七十五聯、君とわが思いの間は、食べ物が生命に不可欠なのと、或いは、時を得た慈雨が大地に必要なのと同様だ、君と平和な友情を保つ為に、私はあたかもケチな金持が自分の財産を相手にやるような葛藤を演じている。今、自分は金持だと言って自慢するかと思えば、今度は、コソ泥みたいな世間に貴重な宝を盗まれるのではないかと恐怖し、今は君と二人っきりが一番だと思い、次には、世間にわが歓びを見せるのも悪くない、と思い直す。また時には、堪能するまで美しい君を眺めてひと時の満足を得るのだが、その内に飢え飢えてはまた一目君を見たくなる。君から得た歓び、やがて手にするはずの歓喜と有頂天、これがあればあとは何ももとめない、何も要らない、こうして私は日々に飢えたり、満腹したり、すべてを貪り喰らい、全てを失っている。 第七十六聯、どうして私の詩作には新奇で華麗な修辞がこうも乏しくて、変わり映えがせずにに、素早い発想の転換が見られないのか、何故に私は時流に乗って軽やかに身を翻し、最新の技法や珍奇な言葉の組み合わせに目を向けないのか、どういう理由で私はたった一つのテーマを変わらず書き続け、詩歌の着想にいつもながらの着古しを着せておくのだろうか、これではまるで一語一語が私の名前を告げ、出生や、家系の秘密を明かしているようなものではないか。あああ、君よ、君よ、分かってくれ、我が最愛の君よ、私はいつでも君を書くのだ、何時でも君と、君への私の深い愛情が唯一の私の主題になっている、だから、私はせいぜい古い言葉を新しく装い、以前に使ったものを、また、使うことしか出来ない。太陽は日々にあたらしくて古い、私の愛もそれと同じで、すでに語ってしまっていることを、いつも繰り返し語り続けるのだよ 第七十七聯、鏡は君が衰えていく様を見せてくれよう、日時計は貴重な一刻一刻が虚しく過ぎていくのを教えるだろう。この白くまっさらなページにはやがて君の心が刻印されるだっろう、君はこの手帳から、こういう教訓を学ぶことになる。鏡がありのままに曝け出す顔の醜い皺は、口を大きく開けて待っている墓穴を思い起こさせる、密かにうつり進む日時計の影は、時が永遠に向かって忍びやかに歩むのを知らせてくれている。記憶に留めきれない事は何でも、この白い紙に書き記すがよい、そうすれば、君の頭が生んだ子供達は此処で育てられて、挙句には、初めて我が心に出会うような、思いをするだろう。鏡や日時計の仕事を見れば見るだけ、君は利益を得ようし、手帳もずっと豊かになる。 第七十八聯、私はよく君を詩神に祭りあげては祈りを捧げ、詩を創作する際には、随分と親切に手助けしてもらった、だから、他所の詩人達までが私の流儀を真似て、君に仕えて詩を書き散らしている。君の眼は物言わぬ者に声高くし、歌うことを教え、鈍重な無知に天翔けるすべを教えてくれたが、その眼が学識豊かな詩人の翼に羽を挿し加え、美に二重の壮麗さをあたてやった。だがね君、君は、私の書く詩を何よりも誇って欲しい、その力は全部が君のものだ、君からうまれたものだからね。ほかの詩人の作品では、君は文章を整えるだけだ、学識は君の優雅美しさを飾りに使っている。だが、だが、君はわが芸術の全てであり、この粗野な無知を学識と同じ高さに引き上げてくれる。 第七十九聯、わたしひとりが君の助けを求めて祈っていた頃には、私の詩だけが君の優しい恩恵を受けていた、だが、今は私の優雅な詩も衰え果て、わが病める詩神は他人に座を明け渡す。愛する者よ、なるほど、君の美貌を歌うのは、もっと立派な詩人にこそ相応しい仕事なのだろう、しかし、そういう詩人が君を歌い上げても、君から盗んだ物を払い戻すだけに過ぎまい。彼は成る程、美徳を貸してくれるだろうが、その言葉は君の振舞いから盗んだもの、美を与えると言うが、それも君の頬で見つけたものだ。称賛するといっても、君の中に生きている物をくれるだけのこと、だから君、彼が何を言おうとも 礼を述べることはない。彼が借りているのに、君が支払うのだから。 第八十聯、ああ、君よ、最近私は君を書く時に、何とも気力が萎える、もっと才能のある詩人が君のなまえを上げているのも、その名を称えるのに全力を尽くすのも、知っているから、だから君の名声を語ろうにも、私の舌は金縛りだ、だが、君のすぐれた人柄は大海のように広くて、粗末な小舟も、華麗を極める大船も等しくうかべるから、身の程知らずのわが小舟は彼の船よりずっと劣るのに、大きな顔をして、君の広やかな大洋にあらわれるのだ、私は君の浅瀬がちょいと助けてくれれば浮かぶけれども、彼の方は、測り知れない程に深い海を乗り切っていく。私は難破した所で、取るにも足らない小舟に過ぎないが、彼の方は作りも頑丈なら、飾りつけも美々しい豪華船だ、だから彼が栄えて、私が捨てられても、言えるのは、せいぜいが、わが愛がわが身の破滅という事だけ。
2024年08月14日
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谷狭(せば)み 峯邊に這(は)へる 玉葛(たまかづら) 這(は)へてしあらば 年に來(こ)ずとも(― 谷が狭いので峯の方に伸びていった玉葛の蔦のように私に対する気持が絶えないならら、たとえ一年中お見えにならなくとも、辛抱しておりますが)水莖(みづくき)の 岡の葛葉を 吹きかへし 面知る子等が 見えぬ頃かも(― 顔を知っているあの子が見えないこの頃だなあ)春駒の い行きはばかる 眞葛原(まくずはら) 何の傅言(つてこと)直(ただ)にし良(え)けむ(― 赤駒が行くのを控える真葛の原ではあるまいに、どうして人に伝言などをするのです、直に言えば良いのに) 日本書紀では政治的な風刺であったものが、此処では恋の歌と見られている。木綿(ゆふ)畳(たたみ) 田上山(たなかみやま)の さな葛(かづら) 絶えむの心 わが思はなくに(― このまま時が過ぎても、今でなくとも逢ってください)丹波道(たにはぢ)の 大江の山の 眞玉葛(またまづら) 絶えむの心 わが思わなくに(― 二人の仲が絶えるようにしたい気持は私は持っていないのに)大崎の 荒磯(ありそ)の渡(わたり) 延(は)ふ葛(くず)の 行方(ゆくへ)も無くや 戀ひ渡りなむ(― 大崎の荒磯の渡り場に這っている葛の行方が定めがないように、私の恋は行方なく続いていくであろう)木綿(ゆふ)つつみ 白月山(しらつきやま)の さな葛(かづら) 後もかならず 逢はむとそ思ふ(― 今でなくとも将来にでも、必ずあなたと逢いたいと思います)唐棣花色(はねずいろ)の 移ろひやすき 情(こころ)なれば 年をそ來經(きふ)る 言(こと)は絶えずて(― ハネズ・初夏に咲いて赤い花をつけ、その色は変わりやすいと言う 色のように変わりやすい心を持っておいでなので、お言葉だけは絶えないで、お見えないならないでもう年を経てしまいました)斯くしてそ 人の死ぬとふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに(― こうして人は死ぬと言うことです、ただ一目見たに過ぎない美しい人のもとで)住吉(すみのえ)の 敷津(しきつ)の浦の 名告藻(なのりそ)の 名は告(の)りてしを 逢はなくもあやし(― あの人は名を名乗ったのに、逢はないのはどうしてだろうか) 男の歌とも女の歌とも両様に取れる。みさご居(ゐ)る 荒磯(ありそ)に生(お)ふる 莫告藻(なのりそ)の よし名は告らせ 父母(おや)は知るとも(― ミサゴ・鷲鷹目の猛禽、鳶に似て、海岸や絶海の孤島に住み、魚をとって食う のいる荒磯に生えるホンダワラのそれではありませんが、もう構いませんから、あなたのお名前を仰ってくださいませんか、たとえ親たちが私達の仲を知るようになったとしても)波のむた たなびく玉藻の 片思(かたもひ)ひに わが思ふ人の 言の繁けく(― 波とともに片方に靡く玉藻のような片思いを、私が寄せている人について、他の人との噂が何やかやと立っていることよ)大海(わたつみ)の 沖つ玉藻の 靡き寝む 早來(き)ませ君 待たば苦しも(― 大海の沖の玉藻のように靡きあって寝ましょう、早くおいでくださいな、わが君よ、待っていると苦しく思われます)大海(わたつみ)の 沖に生(お)ひたる 縄苔(なはのり)の 名はさね告(の)らじ 戀ひは死ぬとも(― 焦がれて死のうとも、私はあなたの名を決して申しますまい)玉の緒を 片緒(かたを)に搓(よ)りて 緒を弱み 亂るる時に 戀ひずあらめやも(― 玉の緒を一方からよると緒が弱くて、切れて玉が乱れ散るように、あなたとわたしの仲が絶えたりすれば、その時に私は恋に苦しまずにいられはしないでしょう)君に逢はず 久しくなりぬ 玉の緒の 長き命の 惜しけくもなし(― あなたにお逢いせずに久しくなりました、もう私は長い命がなくなっても惜しいこともありません)戀ふること 益(まさ)れば 今は玉の緒の 絶えて亂れ 死ぬべく思ほゆ(― 恋の苦しみがますます甚だっしくなってきて、今はもう、玉の緒が切れて玉が乱れるように、心みだれて死にそうです)海少女(あまをとめ) 潜(かづ)き取るといふ 忘れ貝 世にも忘れじ 妹が姿を(― 私は決して妹の姿を忘れないであろう)朝影に わが身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去(い)にし子ゆえに(― 朝影のように私は痩せてしまった。ほのかに見えただけで去ってしまったあの子なのに、それを思いつめて)なかなかに 人とあらずは 桑子(くはこ)にも ならましものを 玉の緒ばかり(― なまじっか人間でいずに、何の思いもない蚕にでもなったらよかったのに。ほんのしばらくでも)眞菅(ますが)よし 宗我(そが)の河原に 鳴く千鳥 間(ま)なしわが背子(せこ) わが戀ふらくは(― 宗我川の川原で鳴く千鳥が間を置かないように、わが背子よ、私の恋は全く絶える間がありません)戀衣(こひころも)着 奈良の山に 鳴く鳥の 間無くわが背子 わが戀ふらくは(― 奈良山に鳴く鳥のように、絶え間もなく定めた時もありません、私の恋の思いは)遠つ人 猟道(かりぢ)の池に 住む鳥の 立ちても居ても 君をしそ 思ふ(― 立っても坐っても、あなたを思っています)葦邊ゆく 鴨の羽音の 聲(おと)のみに 聞きつつもとな 戀ひ渡るかも(― あなたの評判ばかり聞いていて、逢えずに無性に恋しく想い続けておりまする)鴨すらも 己(おの)が妻ども 求食(あさり)して 後(おく)るるほとに 戀ふといふものを(― 鴨ですらも自分の夫や妻と一緒に食物をあさり歩いて、先に行かれたわずかの間にも恋しがると言うのに、まして人間である私は)白眞弓(しらまゆみ) 斐太(ひだ)の細江の 菅鳥の 妹に戀ふれか 眠(い)を寝(ね)かねつる(― 斐太の細江にいる菅鳥のように妹を恋しく思うからか、眠ることができなかった)小竹(しの)の上に 來(き)居(ゐ)て鳴く鳥 目を安み 人妻ゆゑに われ戀ひにけり(― 安心した気持で逢えるので、相手は人妻であるのに、気づいてみると私は恋しているのだった)物思ふと 寝(い)ねず起きたる 朝明(あさけ)には 侘(わ)びて鳴くなり 庭つ鳥さへ(― 物思いをするとて眠らずに起きていた夜明けには、鶏までが気力を無くして鳴いているように聞こえるよ)朝鴉(あさからす) 早くな鳴きそ わが背子(せこ)が 朝明の姿 見れば悲しも(― 朝鴉よ、あまり早く鳴きなさるな、わが背子が朝帰るお姿を見れば悲しいから)馬柵(うまさ)越(ご)しに 麥食(は)む駒の 罵(の)らゆれど なほし戀しく 思ひかねつも(― 馬柵越しに麦を食う駒の叱られるように、親に叱られるけれども、なお恋しくてじっとお慕いしていることが出来ません)左檜(さひ)の隈(くま) 檜の隈川に 馬駐(とど)め 馬に水飲(か)へ われ外(よそ)に見む(― 檜の隈川に馬を停めて水を飲ませなさい、私は他所ながらあなたのお姿を見ましょう)おのれゆゑ 罵(の)らえて居(を)れば あを馬の 面高夫駄(おもたかぶた)に 乗りて來(く)べしや(― お前さんのことで叱られているのに、青馬の面高のブチの馬に意気揚々と乗って来るとは何事でしょうか)紫草(むらさき)を 草と別(わ)く別(わ)く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ(― 紫草を他の草と別けながら伏している鹿が、夫婦で別の野に伏しても心は一つであるように、私とあなたは別れ別れにいても心は一つなのです)思はぬを 思ふといはば 眞鳥(まとり)住む 卯名手(うなて)の社(もり)の 神し知らさむ(― 思いをかけてないのに、思っていますなどと言えば、卯名手の神社の神様がその偽りを御存知になります。私は決して偽りは申しておりません) 以下、しばらく問答の歌が続く。紫は 灰指(さ)すものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる兒(こ)や誰(たれ)(― ツバイチの辻であったあなたは、何というお名前でしょうか)たらちねの 母が呼ぶ名を 申(まを)さめど 路(みち)行く人を 誰と知りてか(― 母が私を呼ぶ名を申したいと思いますが、路を行くあなたをどなたとも存じておりませんもの。あなたのお名前を先ず伺いたいと思います)逢はなくは 然(しか)もありなむ 玉梓(たまづさ)の 使をだにも 待ちやかねてむ(― お逢い出来ないのは仕方のないことですが、せめてお使いだけでも頂くことは出来ないものでしょうか)逢はむとは 千遍(ちたび)思へど あり通(かよ)ふ 人目を多み 戀つつそ居(を)る(― お逢いしたいとは千重に思っておりますが、往来する人の目が多いので、恋しく思いながらじっとしております)人目多み 直(ただ)に逢はずして けだしくも わが戀ひ死なば 誰(た)が名ならむも(― 人目が多いので直接逢わずに、もし私が焦がれ死にしたならば、誰の名誉になるでしょうか、誰のためにもなりませんね)相見まく 欲(ほ)りすればこそ 君よりも われそ益(まさ)りて いふかしみすれ(― お逢いしたいと思えばこそ、あなたよりも私の方こそずっと、おかしいことだなと思っておりますのに、どうしてそんな事を仰るのですか)うつせみの 人目を繁み 逢はずして 年の經ぬれば 生(い)けりとも無し(― 世間の人目が多いのでお逢いせずに年が過ぎてしまいました、生きた心地もいたしません)うつせみの 人目繁けば ぬばたまの 夜(よる)の夢(いめ)にを 繼(つ)ぎて見えこそ(― 世間の人目が多いから、せめて夜の夢に続いて現れて下さい)ねもころに 思ふ吾妹(わぎも)を 人言(ひとごと)の 繁きによりて よどむ頃かも(― 私は吾妹子にねんごろに心を寄せているけれども、人の噂がしきりに立つので、この頃は行かないでいるのです)人言の 繁くしあらば 君もわれも 絶えむといひて 逢ひしものかも(― 人の噂が頻りにたったならば、あなたも私もお付き合いを止めましょうと言ってお逢いしたのでしょうか、そんなはずはないのです)
2024年08月13日
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第五十七聯、私は君の忠実な奴隷なのだから、何時いかなる時でも、君の望み、欲望のままに仕える他には、何もすることはない、君からのお召があるまでは、自分自身に費やすほどのどのような貴重な時間もなければ、果たすべき勤めも持っていない。また、わが王よ、心の底から敬愛してやまない君主様よ、君を待って時計を眺めている時にも、いつ果てるとも知れない長い、長い時間を責めたりはしない、一度、君がこの下僕に別れを告げて出ていけば、一人で過ごす時間を辛く嫌だとも思わない、君が何処にいるのかを疑り深く詮索したり、どのような用事があるのか無いのかを勘ぐったりはしない。真面目な下僕らしくじっと坐って、君がどんな風に周りの人達を楽しませているのか、心の中で想像するだけだ。愛とは誠に愚かなものだから、この私の君への愛も、君が陰で何をやろうとも悪気があってのこととは思わない。 第五十八聯、最初に私をして君の奴隷になされた神が、御禁じになられたのだ、君がいくら快楽や愉悦に時を費やしても、抑えようとしてはならぬ、君に時間の収支決算、詰まり、君が何時、何処で、何をしたのかを、はっきりと明示せよなどと、要求してはいけない、と。何しろ私は君の御意のままにはべる従僕の身なのだからね。指図に素直に従うべき賤しい身分であればこそ、君が自由に外を出歩いていて、私が孤独の牢獄と言う地獄に閉じ込められていてもよい、君の不当な仕打を咎めるでもなく、辛抱の権化となり、小言のひとつひとつに黙々と耐えるのも構わない、何処に行こうと誰と会おうと、何をしようともよい、君が授かっている強大な特権は実に偉大だから、君は自分の心の赴くままに、欲望の命ずるに従い、君は自分で時間を割り振る自由を有しているのだ、権利があるのだよ。自分の犯した罪を自分で許す資格だって君は持っているのだ、だから私はじっと耐えに耐えて待たねばならぬ、こうして女々しく卑屈になって待つのが地獄以上の苦しみ、嘆きであっても、ひたすらに待っているのだ、君の快楽が善であれ、悪であれ、私には咎める資格などは端から与えられていないのだからね。 第五十九聯、この世に全く新しいものはない、今あるものは前にもあったのだ、人はそう言う、もしそれが正しいならば、我々の脳髄は途方もない妄想に取り憑かれ犯されているのか。新しいものを産むつもりで、前に生まれたことのある子供を再び産み直しているのだから、ああ、記憶を探り、過去を振り返って、太陽五百周の歳月を遡り、人が初めて心を文字に写しとり、書き綴った古代の本の中に、君の見事な姿を見ることが出来たなら、そうなれば、君のこの見事に均整のとれた美々しい肉体について、昔の人達が何を言い得たか、私達が進歩したのか、彼等の方が優れていたのか、それともまた、歴史は循環して同じ事を何度も繰り返すのか解かりもしように。いや、私は確信している、昔の才人達は君に遥かに劣る題材に賛嘆讃仰の言葉を捧げていたに違いないのだ。 第六十聯では、あたかも、小石に埋もれた浜辺に波が次から次へと押し寄せるように、私達に与えられている尊い時間も、刻々と一瞬も休むことなく、静かに音もなく終末に向かって急いでいるかに見える、それぞれの時が、先を行く時に取って代わり、みんなが押し合いへし合いしながら次から次へと進んでいく。例えば、母親の胎内を出た幼児は一度光の大海原に生まれ出るや這いにじり、直ぐに壮年に達するが、頂点を極めると、不吉な影が、その頂点に戦いを挑み、かつては豊かな恵みを与えてくれた時の神が、自分の恵み与えたその当のものを打ち壊す。時の神は青春と言う生命にとって最も華やかで美しい命を酷くも指し貫き、美の額に、幾重もの醜悪な皺を掘り穿ち、自然が生み出した完璧無比の手本をも食い荒らし、食いちぎる。残酷極まりない時の大鎌に刈り取られずにすむものは、地上には何一つない。だが、私の詩はその酷い手にあらがい、来るべき世まで持ちこたえ、君の素晴らしさを永遠に讃え続けるだろう、間違いなく。 第六十一聯、夜になると君の姿がどこからともなく姿を現しては、この重い目蓋を閉じさせず、倦み疲れる夜更けまで私を起こしておくのは、それは一体君の意志の力なのだろうか、君に似た幻が眼の前にちらつくのは、私の眠りを邪魔するつもりでいるからなのだろうか…、家からはこんなにも遠く離れた所まで、君の霊魂を送り込み、私の行動に首を突っ込もうと言うのか。私の乱行放蕩や、暇の潰しっぷりを暴こうと言うのかね、それが疑ぐり深くて猜疑心の塊である君の目的で、本音なのだろうか。いや違うね、君の愛は豊かでも、こんなにまでは大きくはない。私を目覚めさせておくのは、この私自身の君への大きな愛なのだよ、私の真実の愛が、私の安息をぶち壊し、君の為に夜警の役を勤めているのだ。私は君故に目覚めている、君もよそで起きてるのだが、私からは遠く離れて、他の者達のすぐ近くで、歓楽を存分に尽くすべく。 第六十二聯、自己愛という罪が我が眼にも、我が魂にも、わが肉体のすみずみまでも、しっかりと根付いている、この罪は、どうにも矯め直す方法がない、何しろ心の底深くに根を生やしているのだから、思うに、私の顔ほど気品に溢れたものはない気がする、これ程に完璧な肉体もないと、これ程に貴重な完璧さもないと思う、私としては、私の価値が他のあらゆる人々のあらゆる価値に勝るものだと、心密かに考えている。だがしかし、鏡が私の真の姿を、つまりは、日に灼け、年老いて、打ちのめされて、罅(ひび)割れた、この顔を映し出すと、私は自己愛を全く逆に解さざるを得なくなる、こういう自己を愛するのは、邪悪な事なのだと。私は、我が身のつもりで、君を、つまり、真の私を、称え、君の青春の美の輝きでわが老残の身を飾り立てているのだ。 第六十三聯、我が愛する者が、やがては今に私のように、邪悪な時の神の手で押しつぶされて、着物のように擦り切れる、時々刻々と若い瑞々しい血潮が涸れて、代わりに額に醜い皺が増えていく、そして青春の明るい曙が疲れきった足を引いて旅を続け、慌ただしく暮れる老年の夜に向かう、そして今、彼が王として統治している諸々の美は次第に姿を消して、視界から失せ、消えながらも彼に青春の宝をこっそりと掠めて行く。そういう時が早晩やって来る、私は全てを打ち倒す老年の無残な刃に備えて、守りを固め、たとえ、彼が愛する者の命を断ち切ろうとも、その美を人の記憶から切り放つ真似までは、させない。彼の美はこの黒いインクの文字の中に見られるであろう。この詩は生き続け、彼は此処では永久(とわ)に緑であろう。 第六十四聯、今は朽ち果てたいにしえの時代の華美で煌びやかで、贅を尽くした建築が、時の神の凶悪な手に穢され、かつては高く聳えた塔が跡形もなくなり、不朽の真鍮の碑が死の怒りの前に為すすべもなく屈従するのを見れば、また、飢えた大洋が陸の王国を侵略し、堅固な大地が大海原を打ち破り、向こうが失ってこちらが増やし、向こうが増やしてこちらが失う、その様を見れば、つまり、こうして物皆が移り変わり、栄華もまた崩れ落ちて、残骸となるのを見るとき、無残な廃墟を前にして私は想いを致すのだ、やがては恐ろしい時の神が現れて、わが愛する者を奪って行くだろう、と。この考えは謂わば死のようなもので、手中のものをいずれは失うと恐怖しつつ手もなく泣くしかないのだから。 第六十五聯、真鍮板も、石碑も、大地も、果てし無い大洋も、どの力も、結局はおぞましい死の前に屈服するしかないのだから、一輪の花の命ほどの力しか持たない美が、どうして、この猛威を相手に申し開きが出来ようか、ああ、破城槌をもって攻め立てる歳月の恐怖の包囲に、甘く香る夏の微風が、どうして持ちこたえられようか。頑丈な岩でも、鉄づくりの城門でも時の破壊に耐えるほどには強くはないのだ、思えば恐ろしい限りだ。時の所有する最上の宝石を、美そのものを何処に隠しておいたならよいだろう、最終的に時の棺桶たる櫃に返さずに済むだろう、どんな強力な手が一体時の速やかな足を引き止められようか、時が美を次々と滅ぼすのを誰に禁じることができよう。出来はしないのだ、わが愛する者が黒いインクの中で、永遠に輝き続けるという稀に見る奇跡が生じない限りは。 第六十六聯、こんなことには全くうんざりだから、安らかな死が欲しい、例えば真の価値が生まれながらの乞食であり、取り柄のない無が綺麗に着飾り、清廉潔白な忠実が惨めにも見捨てられる、そして金ピカの栄誉が浅ましくも場違いな奴に授けられる、純真可憐な美徳が酷くも淫売呼ばわれされ、正真の完璧が理不尽にも貶められる、力が足萎えの権勢に動きを阻まれ、学芸が時の権力に口を塞がれ、愚昧が学者づらして才能に指図を与え、素朴な誠実が莫迦という汚名を着せられ、囚われの善が横柄な邪悪に仕えるのを見るなんて、こんな事には全くうんざりだから、私はおさらばしたい、ただ死んで、愛する者を一人後に残すのが困る、悲しい。 第六十七聯、ああ、何ゆえに彼は腐敗堕落と一緒に生き、悪徳と付き合って奴に、栄誉を添えてやるのか、その為に、罪悪は彼を利用して、栄達を掴み、彼に付きまとってはわが身の飾りにしているではないか、何故、インチキな化粧が彼の美しい頬を真似て、あの生気溢れる顔色から死んだ上っ面をかすめるのか。彼の薔薇が本物だからとて、何故に貧弱な美までが、二番煎じのまがい物の薔薇を欲しがらねばならないのか、今は自然の女神が破産して、生命の血管を赤々と流れる、血も枯れ果てたのに何故、彼は生き続けなければならぬのか、今彼女に残されたのは彼の宝庫だけ、子沢山の身で彼の収入を当てにしているのか、ああ、ああ、彼女が彼を生かすのは、昔、自分がどんな富を持っていたかを、この邪悪な末世に示そうがためなのだ。 第六十八聯、してみれば、彼の頬は過ぎし時代の縮図なのだ、当時は美は花のように自然に生き、かつ死んだ。こうしたまがいの美の飾りは、まだ、生まれていなかったし、生きている人間の顔に住み着く気も起こさなかった、本当なら墓に納められていいはずの死んだ人の金色の巻き毛が切り取られて、二人目の頭で、二度目のお勤めをすることもなかった。つまり、死んだ美人の髪が他人を飾りはしなかった。彼にはああいう清らかな昔の時代が見られる、何の装飾も用いずいつも真実の姿を保ち、他人の緑を借りて、夏を作り出す事もなく、古人から盗んで新しく美を装うこともない時代が。自然の女神は、いわば縮図として彼を生かしているのだ、偽りの技巧に対して昔の美がどうであったかを誇示する目的で。
2024年08月10日
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行方(ゆくへ)無(な)み 隠(こも)れる 小沼(をぬ)の 下思(したもい)に われそも思ふ このころの間(あひだ)(― 人知れぬ恋を心に込めて私は物思いをしています、このごろずーっと)隠沼(こもりぬ)の 下ゆ戀ひ餘(あま)り 白波の いちしろく出でぬ 人の知るべく(― 恋しい気持を包みきれずにはっきりと様子に現してしまった、ひとが気づくほどに)妹が目を 見まくほり江の さざれ波 重(し)きて戀ひつつ ありと告げこそ(― 妹の姿を見たいと思い、堀江の小波が絶え間なく立つようにしきりに恋い慕っていると告げてください)石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の水の 愛(は)しきやし 君に戀ふらく わが情から(― 石の上を激流落下する滝の水のように、激しくあなたを恋しています、私の心持ちひとつで)君は來(こ)ず われは故無(ゆゑな)く 立つ波の しくしくわびし 斯(か)くて來(こ)じとや(― あなたは来ず、私はわけもなしに立つ波のようにあとからあとから侘びしい気持に襲われます。こうして結局お見えにならないおつもりなのでしょうか)淡海(あふみ)の海 邉(へた)は人知る 沖つ波 君をおきては 知る人も無し(― 私の気持の浅いところは誰でも知っているのですが、深いところの本心はあなた以外に誰も知る人はないのです)大海の 底を深めて 結びてし 妹が心は 疑ひもなし(― 大海の底を一層深くするように、心の奥深く結びあった妹の気持は、もはや何の疑いもない)左太(さだ)の浦に 寄する白波 間(あいだ)なく 思ふをなにか 妹に逢ひ難き(― 左太の浦に間なく白波が寄せるように、いつも妹を思っているのにどうして逢うことが難しいのだろう)思ひ出でて 爲方(すべ)なき時は 天雲(あまくも)の 奥處(おくか)も知らず 戀ひつつそ居(を)る(― 思い出されて何ともするすべがない時には、天雲の奥底が分からにように、果てもなく想い続けておりまする)天雲の たゆたひやすき 心あらば われをな憑(たの)め 待てば苦しも(― 天雲のように揺れて定まらない心をお持ちならば、頼りに思わせないでください。おいでをお待ちしていると苦しくてなりませんので)君があたり 見つつを居(を)らむ 生駒山(いこまやま) 雲なたなびき 雨は降るとも(― わが君の家のあたりを見ておりましょう、奈良県の生駒山に、雲よ、たなびかないで下さい、たとい雨が降ろうとも)なかなかに なにか知りけむ わが山に 燃ゆる火気(けぶり)の 外(よそ)に見ましを(― なまじっかどうしてあの人を知ってしまったのだろう。私の山で、春の頃に燃える野火の煙をよそながら見るように、無関係に傍から見ていればよかったのに)吾妹子(わぎもこ)に 戀ひ爲方(すべ)無かり 胸を熱(あつ)み 朝戸開(あ)くれば 見ゆる霧かも(― 吾妹子が恋しくて仕方がない、胸の熱さに朝戸を開けると、朝霧の流れているのが見える)暁(あかとき)の 朝霧隠(あさぎりごも)り かへらばに 何しか戀の 色に出でにける(― 夜明けの霧に隠れていたのに、かえって私の恋が外に表れて人に知られしまったのはどうしてだろうか。 別解 朝霧に身を隠して家に帰ったのに、どうして人に知られたのだろうか)思ひ出づる 時は爲方(すべ)無み 佐保山に 立つ雨霧(あまきり)の 消(け)ぬべく思ほゆ(― 恋しい人を思い出すときは何とも仕方なくて、奈良県の佐保山に立つ朝霧が消えていくように、我が身も儚く消えてしまうように思われます)殺目山(きりめやま) 往反(ゆきかへ)り道(ぢ)の 朝霞 ほのかにだにや 妹(いも)に逢はざらむ(― 和歌山県のキリメ山の行き帰り道に立つ朝霞のように、ほのかにすらも妹に会えないのであろうか)斯(か)く戀ひむ ものと知りせば 夕(ゆふべ)置きて 朝(あした)は消(き)ゆる 露にあらましを(― こんなに恋に苦しむものと知っていたなら、夕方おいて朝には消えてしまう命の短い露であったらよかったものを、人間などに生まれてしまって、とんだひどい目に遭うことです) 作者は恋の苦しさをどう受け止めているのでしょうか、言葉の表現では否定的ですが、心の中では喜びをかみしめてもいる、私には、どうしてもそう読めてしまう。有り難くも人間に生まれたからこそ、恋の苦しみという格別の経験をすることができた。何も感じないであろう露などであったならば時間とともに何事もなく事態は推移して、八百万の神々の眼を楽しませることだけに終始して、森羅万象は古代も未来も同じで、平穏無事な世界が永遠に継続するのみ。人間なぞという片輪者がどう間違ったのか自意識などという半端な物を自覚して、生殖に付随する半チクな恋心などを後生大事に抱え込んで…、もうやめましょうね、恋とは人間に特有の病気ですが、それゆえに他の動物にはない 勿体無くも、有難い 嘆きや苦しみ を味わわせてくれる、何とも得体の知れない代物なのですが、その体験を表現して和歌に仕立てる、これは人間の素晴らしさの証明でもある。人間に生まれ、恋の苦しみ死ぬほどの辛い目にあう、なんて素敵なことなのか、得恋も失恋も、おしなべて素晴らしい、ハッピーエンドは必ずしも幸福の終着点ではなく、叶わぬ想い、届かぬ気持、片思いの痛恨、恋にまつわる全てが、全部素晴らしい、神、仏がそう仕組んでくださっている。恋の歓びや苦しみを知るからこそ人間存在は無限に素晴らしい、敢えて創造神よりも、と恋にトチ狂っている癲狂老人たる私は無理にも主張しておきましょうね。誰か異論のあるお方がいらっしゃればどしどしこの恋愛至上主義を無理やり振りかざしている私に直接お考えをお聞かせくださいませ。恋愛論以外でも私には色々と特殊な体験を重ねている関係で呼吸が合えば楽しい意見交換ができるやもしれませんので、是非、あまり期待しないでご連絡ください、どうぞ。夕置きて 朝は消ゆる 白露の 消ぬべき戀も われはするかな(― 夕方に置いて翌朝には消えてしまう白露のように、私は儚い恋をしています)後(のち)ついに 妹は逢はむと 朝露の 命は生(い)けり 戀は繁けど(― 将来妹は必ず会ってくれると頼みにして、朝露の儚い命を生きています、しきりに恋しくて、苦しいけれども)朝な朝な 草の上(へ)白く 置く露の 消なば共にと いひし君はも(― 朝な朝な草の上に白く置く露が消えるように、消えるなら一緒にと言った我が君は、今どうしているであろうか)朝日さす 春日(かすが)の小野に 置く露の 消ぬべきわが身 惜しけくもなし(― 朝日のさす春日野に置く露が消えるように、消え去るに決まっている私の身は何の惜しいこともありません。身も心も全部あなた様に差し上げましょう、たった今でも…)露霜の 消やすきわが身 老いぬとも また若反(をちかへ)り 君をし待たむ(― 露や霜のように消えやすい我が身は年老いようとも、また若返ってあなたをお待ちしたいと思います)君待つと 庭にし居(を)れば うち靡く わが黒髪に 霜そ置きにける(― あなたをお待ちするとて、私が庭に居るとうちなびく私の黒髪に霜が降りていました)朝霜の 消(け)ぬべくのみや 時無しに 思ひ渡らむ 息(いき)の緒にして(― 朝霜が消えるように命も消えそうに、いつも想い続けるであろう、命の綱と思って)ささなみの 波越すあざに 降る小雨(こさめ) 間(あひだ)も置きて わが思はなくに(― ささなみの・地名、或いは小波の意か 波の越してくるアザ・地勢上の特殊な窪みや穴を言うか に降る小雨がしとしとと間がないように、頻りにあなたのことが思われます)神(かむ)さびて 巌(いはほ)に生(お)ふる 松が根の 君が心は 忘れかねつも(― 神々しい巌に生えている松の根のようなしっかりしたあなたの心を私は忘れかねています)御猟(みかり)する 雁羽(かりは)の小野の なら柴(しば)の 馴れは益(まさ)らず 戀こそ益れ(― あなたに馴れはまさらっずに、恋しさばかり勝ってしまいます)櫻麻(さくらを)の 麻原(をふ)の下草 早く生(お)ひば 妹が下紐(したひも) 解かざらましを(― サクラオの麻原の下草が気がつかないうちに早く伸びるように、誰かが早く言い寄っていたら、私が妹の下紐を解くようなことはなかったろうに)春日野(かすがの)に 浅茅(あさぢ)標結(しめゆ)ひ 絶えめやと わが思ふ人は いや遠長(とほなが)に(― ふたりの仲がいつまでの絶えたくないと願っている私の人は、どうかいよいよ遠く長くお元気でいらしてください)あしひきの 山菅(やますが)の根の ねもころに われはそ戀ふる 君が姿に(― 山菅の根が細かく絡み合っているようにねんごろに、私はあなたの美しいお姿を恋い慕っておりまする)杜若(かきつばた) 咲く澤に生(お)ふる 菅(すが)の根の 絶ゆとや君が 見えぬこのごろ(― ふたりの仲がもう絶えるというのでしょうか、あなたがお見えにならないこの頃です)あしひきの 山菅の根の ねもころに 止(や)まず思はば 妹に逢はむかも(― 山菅の根が細やかに絡み合っているように、ねんごろに止まずに心を寄せていたら妹に逢うことができるだろうか)相思はず あるものをかも 菅の根の ねもころごろに わが思へるらむ(― 私を思ってくれないものを、私は心を込めて思っているのだろうか)山菅の 止(や)まずて君を 思へかも わが心神(こころど)の このころは無き(― いつもいつもあなたを思っているからか、私のしっかりした心はこの頃は失われてしまいました)妹が門 行き過ぎかねて 草結ぶ 風吹き解くな 又頼りみむ(― 妹に家の門前を通り過ぎかねて私は草結びをする。風よ、吹きほどくな、また帰ってきて妹に会いたいのだから)浅茅原(あさぢはら) 茅生(ちふ)に足踏み 心ぐみ わが思ふ子らが 家のあたり見つ(― 浅茅原に足を踏み入れると足が痛いように、心が痛く苦しくて、恋しいあの子のあたりに眼をやった)うち日さす 宮にはあれど 鴨頭草(つきくさ)の 移ろふ情(こころ)われ持ためやも(― 宮仕えはしておりますが、ツキクサの様な色変わりやすい心を私は持っておりません)百(もも)に千(ち)に 人は言うとも 鴨頭草の 移ろう情(こころ) われ持ためやも(― あれこれと人は噂をたてましょうとも、私はツキクサのような変わりやすい心を私が持ちましょうか)忘れ草 わが紐に着く 時と無く 想い渡れば 生(い)けるとも無し(― 忘れ草を私は紐につける、ひっきりなしに恋しく思っていると、生きている心地もしないから)暁(あかとき)の 目さまし草(くさ)と これをだに 見つつ坐(いま)して われを偲(しの)はせ(― 暁の目覚めの時のものとして、せめてこれだけでも眺めておいでになって、私を偲んでください)忘れ草 わが紐に着く 時と無く 思い渡れば 生けるとも無し(― 忘れ草を私は紐に着ける、ひっきりなしに恋しく思っていると、生きている心地もしないから)浅茅原 小野に標結(しめゆ)ふ 空言(むなしこと)も 逢はむと聞(き)こせ 戀の慰(なぐさ)に(― 浅茅原に標を結っても空しいように、空しい嘘にしても、逢いたいとおっしゃってください、私の恋の慰めに)人皆の 笠に縫ふといふ 有馬菅(ありますげ) ありて後にも 逢はむとそ思ふ(― 私は今は会えなくともこうしていて時が経ったあとに、何時かはお会いしようと思います)み吉野の 蜻蛉(あきづ)の小野に 刈る草(かや)の 思ひ亂れて 寝(ぬ)る夜しそ多き(― み吉野の蜻蛉の小野で刈る草の乱れるように、恋心に思い乱れて寝る夜の多いことよ)妹待つと 三笠の山の 山菅(やますげ)の 止(や)まずや戀ひむ 命死なずは(― 妹と逢うときを待つとて、止まずに想い続けることであろうか、生命のある限りは)
2024年08月07日
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第四十七聯、私の眼と心との間に講和条約が結ばれて、今はお互いに相手を助け合っている、例えば私の眼がせめて一目をと飢え焦がれると、熱病のような恋に悩む心が、溜息をつきながら胸をふたげると、眼は我が愛する者の絵姿を眺めて正餐となし、この絵に描いた豪華な饗宴に心を正客として招待してやる、また、時には眼が心の客となり、深く豊かな愛の饗応にあずかったりもする。こうして君の絵姿や、我が愛の思いが、君と遠く離れていても愛しい君を私の側に引き寄せてくれるのだよ、君は我が思いの届かない場所には決して行かれない、私は四六時中君に熱い想いをかけ、想いは常に君のそばにいるのだから、たとえ想いが眠っても、眼の中の君の姿が私の思いを目覚めさせ、心と眼を楽しませてくれる…、君よ、愛する恋人よ、こんな私が幸福だと思えるかね、私は決して不幸ではないが、さりとて夢現の有頂天に在るとも言い難い、ひょっとしたらこの世での焦熱地獄に陥ってしまっているのかも知れないのだが、私には他に生きようが許されていないのだから、これも運命と諦念を以って受け止めている。だが、恋とは、人間の殉愛とはこれ以外に道はないのだから、私は結局世界一の幸福者だと断定せざるを得ない。地獄は取りも直さずに天国であり、天国とは即ち地獄の別名だ。幸福は不幸だし、不幸とは幸福の最上級の呼び名だ。 第四十八聯では、今度旅に出るとき、私はどんなにか細心に、念入りに細かな品々を一つづつしまい込み、頑丈な掛け金をかけておいたか。安全確実な金庫に任せておけば、また使うまでは無事で手つかずであり、強欲な盗人共の手には渡るまいから。所で私の所有する宝石類などは、君に比較すればただのガラクタに過ぎない、君は我が最上の歓びにして、同時に我が最大の悲しみ、今旅に出ているが故にだよ、こよなく大切であると同時に、また唯一の悩みの種だ。その命よりも大切に思う君を、そこいらの泥棒風情が狙うままにして来たとは。当然に私は君を箱に入れて鍵をかけておかなかった、ただ、君が居るようでいて、実はいない場所に、つまり、この胸と言う優しい囲い地に入れて、気儘に出入りできるようにしておいたのだ。此処からだって盗まれる虞れはある、こんなに高価な獲物があると知れば、正直者でも押し込み強盗になろうからね。 第四十九聯、君の私への愛が慎重なる比較考量を行った末に、総決算を付ける気になり、最後の精算をすませ、挙句には私の足りぬ所に顔をしかめて見せる、そんな時が来るのに備えて、仮に来るとしての話だが、また君がその太陽の眼差しで挨拶もくれず、よそよそしげに私の側を通り過ぎて行く、愛が昔の姿をがらりと変えて、すげなく、堅苦しい態度をとる口実を見つけ出す、そんな時が来るのに備えて私は今のうちに、我が身の程をよくわきまえて身を守るとしよう。証人が法廷で宣誓をするときのように、この我が手を上げて我が身に不利な証言をなし、君の尤も至極な言い分を進んで弁護するとしようよ、君には至らぬ私を捨てる法律上の確固たる根拠があるのだ、君がほかならぬ私を愛さねばならぬ理由を、当方は申し立てられぬのだ、残念ながら、即ち、幸福なことにだ、その際に私はえびす顔をしていることだろう、きっと、いや、満面に私にできる最高の笑みを浮かべている…。 第五十聯、君よ、愛する君よ、なんと重い心で私は旅を続けていることか、私の求めるもの、詰まり、辛い旅の終わりが、そのくつろぎが、その憩いにこう言わせるのだ、「お前は友からこれだけ離れてしまったのだね」、と。私を乗せた馬は、私の嘆きに疲れ果てて、のそのそと足を引きずりながら緩慢に歩みを進め、私の胸の内にある重く暗鬱な気持を運んでいく、まるで、此奴め、この乗り手は君から離れるのが嫌さに、先を急ごうとはしないのさ、とその本能で悟ったかのような振舞いなのだ、私はと言えば、時には癇癪を起こして怒りに任せて馬の横腹を突きはするが、血まみれになった拍車にも、奴の脚を早めるだけの効き目はない、ただ、物憂げなうめき声でこれに答えるだけだ、脇腹の拍車も痛かろうが、私には呻き声の方がもっと痛い、何故と言って、このうめき声が私に思い出させるのだ、悲しみの累積が行く手に有り、様々な歓びは背後に去ったことを。 この人馬の苦痛と嘆きは、美青年と詩人との愛の現在形を具現化している、少なくとも詩人はそれを明瞭に意識して描写している。平凡な描写が非凡さを表現して代表例だろうか。 第五十一聯、今度の旅で私が君から遠ざかる時には、わが愛は、君に対する寛大にして、慈愛に満ちた愛情はのろまな馬の遅滞の罪を、こう言って許してもやれる、我が愛する恋人から、君から、君のいる懐かしい場所からどうして急いで離れる必要があろうか、と。帰る時までは走る必要などありはしないと。だが、その時には、この哀れな奴にどんな言い訳を言わせてやろうか、帰る際には力の限りに疾走しても、じれったくて堪るまいよ、そうなれば私はたとい疾風颯(はやて)に乗っていようとも、拍車をかけるさ、翼を生やして宙を飛んでいようとも動いている気がしないだろうよ、そうなれば、どんな瞬足の馬であっても、わが欲望の速さにはかなわない。だからして、最も完璧な愛からなるこの欲望は、焔となって駆け、並みの馬じゃあない、ペガサスの如くに嘶くだろう、だが、愛は愛の心ゆえに、こう言って私の駄馬を許してやる、「君から去る時に、これは態と遅く歩んでくれた、だから帰りには私が走って、これは歩かせてやろう」。 第五十二聯では、私は実際に金持ちのようなもので、有難い鍵を持っているので、金庫にしまった大切な宝物のそばに行けるのだ、しかし本当の金持だって極端な話、一時間置きに自分の宝を見ようとは思うまい、それでは、時折の楽しみの鋭い鋒をなまらせるだけだからね。祭日があれほどに晴れがましくて貴重なのも、長い一年の間にごくたまにしか巡ってこないから、貴重な宝石のように、まばらに埋め込まれているからなのだ。或いは、首飾りの大宝石のように、と形容してもよい。君をしまいこんでおく時と言う囲いも、まあ、私の宝石箱か、衣装を入れておく贅沢な箪笥みたいなもので、これは華やかものを閉じ込めておいて、また時に解き放つ、そして格別な機会を格別に楽しく盛り上げてくれる。君よ、君よ、君は本当に素晴らしい、その徳を手に入れれば突き上げるような歓喜があり、手になければ、それでも大きなかけがえのない希望を与える。 第五十三聯、君の恒常不変の実態とは一体どのようなものであろうか、無数の、異様な影が君にぴったりとつき添っているではないか、人は誰でも、それぞれ一つの影を持っているが、君は例外的に一人であらゆるものの影を見せてくれる。ギリシャ神話中の美少年のアドニスを絵に描いてみたまえ、その絵姿は君を粗雑になぞったお粗末な模写にしか過ぎまい、また、トロイアの王子パリスに奪われてトロイ戦争の原因を作った美女のヘレンの頬と容貌に美の限りを尽くしてみたまえ、ギリシャの衣装を纏った君が新しく描かれるに過ぎないだろうよ、一年の春について、秋の豊饒について語るもいいさ、だが、ここでも春は君の美の影を見せるに過ぎず、秋は君の大様な恵みとして現れるにしか過ぎない。詰まりは、私達はこの世でのあらゆる見事な形の中に君を、その本質的な見事さを見ることになる。君は外界の優雅なものすべてと何かを頒かち合って居る、だが、だが、その変わらぬ心と本質は誰とも違うし、誰もかなわない、天と地ほどに隔たりがあり、異なっている、ああ、君よ、私の魂を震撼させてやまない神々の上をゆく、絶対美の象徴よ。私の言葉はもう君を形容する道具たる価値を喪失してしまう、君よ、私の君よ。 不出世の天才詩人が不可能と断じたた訳ではなく、勝手訳の古屋が仮に言っているので、美青年の美青年たる所以の素晴らしさを形容することなどは神業ですら出来ないと詩人はほのめかしている。だから、天才絵師でも、比類なき彫刻家でも、現代で言えば傑出したフォトグラファーだって詩人の鑽仰する美青年の片鱗すら捉えることは出来ないのでしょう。つまり、その客観性は兎も角、詩人の心を捕らえて離さない美青年の魅力は言語を絶している。そのことだけが詩人のレトリックを越えて我々に確実に伝わって来るのだ。 第五十四聯、ああ、君よ、心も姿も共に素晴らしいこの世のバラの女王よ、君の真実の心がああいう見事な飾りを添えるせいで、その美が更に映えてどんなに美しく見えることか。薔薇の花は美しい、無条件に、だが、そこに香しい馥郁たる香りが潜んでいるからこそ、尚更に美しいと思えるのだ、それは、野ばらの花にしたって、この香り高い薔薇と全く同じ、濃く、深い色合いをしている、同じく刺ある枝に花咲き、夏の息吹が莟(つぼみ)に触れて、花の顔を開かせると、気儘に風と戯れるのも変わりはない、だが、野ばらの取り柄は見かけにしかない、だから、誰にも求められずに、誰からも構われずに色あせて、ひっそりと死んでいくだけ。が、香しい薔薇はそうはない、香り豊かな貴重な香水は馥郁たる薔薇の 死骸 から作られる。君もそうだ、美しく愛すべき若者よ、その青春の日が消え失せぬ日に、この私の詩歌が君の真実を 蒸留 するのだよ。 第五十五聯、栄華を極めた王侯達の大理石の墓も、金箔を美々しく貼った記念碑も、この私が今物している力溢れる詩歌ほど長くは生きられない、詩が時という暴虐に逆らって不滅の生を得るとする主題は、既にローマの詩人たち、例えば「転身物語」を書いたオヴィディウスや「歌章」を表したホラーティウスに始まり、ルネッサンス期の詩人たちにも広く用いられた主題なのだが、穢れた時の埃にまみれて打ち捨てられる幾多の石碑よりも、この詩の中でこそ君は更に光り輝くに相違ない。何もかも破壊しつくす戦争が彫像を押し倒し、騒乱が石造りの頑健な建物を根こそぎ覆しても、君を偲ぶこの永遠の輝かしい記録だけは、世にも恐ろしい軍神マールスの剣にかかわらず、戦いの猛火に焼かれはしない。君は決定的な一撃をもたらす死にも、呵責なく攻め滅ぼす忘却を必然する全ての敵にもひるむことなく、堂々と歩み続けるだろう、君の不滅の栄誉は何時までも、何時までも後世のあらゆる人々の眼にとまり、この世の終末に至るまで生き続けて行く、それは確実なのだ、だから、最後の審判の日が来て、また蘇るまで君は、君こそは私の光栄ある詩の中で生き、世々の麗しい恋人達の目に住まうのだ、ああ、ああ、君よ、私がこんなにも愛してやまない美の女神にしてそれ以上の存在者、神以上の神的実質よ、永遠に栄えあれ、ああ、君よ、ああ…。 第五十六聯、我らふたりの間の愛よ、麗しい愛よ、お前の本来の精力を、精悍なエネルギーを蘇らせてはくれないか、お前の刃は様々な欲望よりも鈍い、などと人に言わせるな、欲望と言うやつ、食べさせれば今日だけは満足するが、明日になれば元の鋭い力を取り戻す、愛よ、我らの間の切なくも愛しい愛よ、愛よ、お前もそうあってくれ、たとえ、今日はその飢えた眼がたっぷりと眺め、十分に満足して眠っても、明日は、また、眼を開けてよく見てくれ、いつまでも、沈み込んでいて、肝心の愛の精神を扼殺してくれるな、この一時の倦怠と悲しみが陸地を分け隔てる海のようであればよい、契ったばかりの二人が毎日岸辺に立つのは、新鮮な新たな愛が戻ってくるのを見て、一層幸福に浸りたいからだ。この時期をふたりの間の冬と呼んでも良い、苦労はつきないけれどそれだけに夏は、一層楽しかろう、幾重にも望ましくて、なお一層素晴らしい…。
2024年08月06日
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第三十九聯、ああ、ああ、ああ、君よ、私の優れた所の一切である君よ、君よ、私は慎みを失わずにどれだけ君の美徳を賞賛讃仰できるだろうか、慎みなどいらぬ抑制などは必要ないことなのだけれども…、私が自分自身を褒めたたえた所で、私に何の得があるというのだろうか、ベターハーフたる君を当然の如くに賞賛するだけにしか過ぎない、私が君を、この世の至宝を当然のこととして褒めたたえたとして、それは自分を褒めたことでしかない。だからこそ、二人は別々に別れて生きようではないか、君、この深い、真実の愛情から一つの物と言う呼び名を取り除けようではないか、私はこの別れによって君一人だけが受ける資格のあるものを、君に対する絶対的な賞賛を、捧げることが出来ようからね、ああ、別離よ、死ぬよりも辛い別離よ、本当ならこれはどれほどに辛く悲しい苦しみとなるか。実際にはそうはならないので、この苦い閑暇が我々に甘い許しを与え、甘美な甘い思い出に浸りながら時を過ごさせてくれるから。それが時間と気の塞ぎとを欺いて、心を楽しませて呉れるからだ、また、遠くに居る人を私の詩歌の中では正当に誉めちぎり、一人を孤独ではなくて、温かな二人にしてくれるからだよ、そうだろう、君、愛おしい素晴らしい君よ、ああ…。そして遠くに居る人を私の詩の中では褒め讃えて、別々に分かれている一人をそれぞれに二人にする術を我々に教えてくれるのだ。 そして第四十聯、愛する者よ、君よ、私の全てよ、私の愛情も、恋人も、いっさいがっさいを奪うがよい、奪うが良い、私の愛も恋人もだ、それで試みに質ねるのだが、これまでよりも物持になったのだろうか、どうなのかね、今さらに真の愛情と呼ぶ程の物は私はもう持ち合わせてはいない、愛する君よ、心の底から敬愛もする君よ、君が僕から奪い取る前から私の真の愛情は全部が全部、君の物だった、もし、私を愛しているから私の愛人の愛を受け入れたのなら、私の女と君がベッドを共にしたと言って、君を咎めるわけにも行くまいよ、だがしかし、嫌いなものを無理して味わった挙句にこの忠実な下僕でもある私を残酷に裏切るのならば、咎められても当たり前だ、君よ、この上もなく優しい酷薄な盗人よ、君よ、ああ、君よ、君は乏しい私の財産の一切合財を酷くも掠め取ったけれども、それでも私は君の行為を許す、憎悪が危害を加えるのはこちらも予期し我慢する覚悟をしていたが、愛の裏切りに実際に耐え抜くのは、愛する者にとっては予想以上に辛く厳しい、ねえ、君、色好みの美男子さんよ、君はどんな種類の悪さをしでかしても良く映るのだ、だから、せいぜい酷い仕打ちで私をとことん殺せ、完膚なきまでに叩き潰せ、が、君、君もよく承知しているように二人は終生敵にはならない、そう、心底から愛し合っているから、運命の相手同士だから…。 どうやら美青年は詩人を手酷く裏切り、恋人の女を手に入れてしまったようだ。けれども、詩人は言葉の上では兎も角も、実際には微動だにせずに彼への殉愛に撤しようとしている。とにかくこの青年は人類史上で最高に素晴らしい人間なのだ、彼のすることはすべてが神によって許されている、人間に許せないはずもないのだ。私などは、光源氏を想像すればそんなに難しくもなくイメージを膨らませることが可能だが、普通に神に近い理想的な人物と単純に考えていればよいので、詩人がプライドも見栄も何もかも捨てて青年への盲目的な愛に、献身的な純情に殉じようとしている健気さを無邪気に信じさえすればよいのだ。詩人とは大人でありながら心は純情可憐な子供と何ら変わらない無垢なお人だと理解すれば事足りるのだった。 第四十一聯、時折、私が君の心のそばを離れている隙に、気随気ままな放蕩に引きずり込まれてちょいとした過ちを犯すのは、君の美貌と若さには誠に似つかわしいこと、君は何処へ行っても常に誘惑の手が付きまとっているのだからね、しかも君は無類に優しいから相手の口説きに落ちやすい、君は度外れに美しく魅力的だから社交場の中心的存在にならないわけがない、女はもちろんのこと男たちだって盛りのついた獣同様に奮い立ち、攻撃を仕掛けてくる、それに男子たるもの女から攻撃を仕掛けられて、据え膳宜しく、おめおめと引き下がれようか、ああ、でも君、君、私の席とも称すべき、あの女性には手をつけては欲しくなかった、君の美と若さを一寸叱りつける余裕を示してもらいたいところだったが、出来てしまったのだからもう泣き言を言っても後の祭りだ、社交場での狼たちは血気に逸って君を引きずりまわし、挙句には、二重の意味で君の心の誠を、真実を破らせずには置かないのだからね、先ず最初は君のたぐいまれな美貌が女達の欲情を誘惑して彼女達の真を無残に破り、次いで、君の美貌は私の心臓と心を破り、裏切って君の真実を完全に破壊しさるのだ、実に、ああ、君よ…。 青年は残酷無残にも詩人の情人を寝盗り、詩人のハートを破壊し去った。事実であるが、事実ではない。これしきのことでは詩人の強靭な精神はびくともしない。詩人は静かに身体全体の痛みに耐え、自己の心の真実に想いを凝らすだけだ。 第四十二聯では、君よ、最愛のわが宝よ、君が私の大切な彼女を手に入れたのが、私の悲しみの全てではない、まあ、それは、私は心から彼女を愛したとはいえるけれども、彼女が君を物にしたこと、これが私の第一の嘆きなのさ。この方がずっと骨身にこたえる愛の損失だと言える。ええいっツ、愛の犯罪者達め、それでも私は君をこう弁明してやろう、君は私の彼女への真剣な愛を知悉しているが故に彼女を愛するのだと、また、彼女の方でも同様に、私を思う故に私を意図的に欺き、わが最愛の友が自分を味見するのを敢えて許すのである。たとえ私が君を、君という掛け替えのない愛人を失っても、この損失は私の女の得に必ずなるのだよ、君、そして私が彼女を失ったとしても、君、我が最愛の友がその失せ物を手にするのだ、即ち、私が大切な物二つを同時に失ったとしても、その二つが互を見つけ合い手を取り合うのだ、二人は手を取り合って私に重い十字架を担わせてくれるわけだ。だが、しかし、此処にも歓びはあるのだよ、詰まり私とわが友とは一心同体なのだから、ああ、甘美な幻惑よ、いやまさに真実そのものなのだが、結論を言えば、わが麗しの情婦は結局私一人を愛しているのだよ、まさに、君、そうだろうじゃないか、君、君…。 第四十三聯では、私の両目はぴたりと閉じている時に、最も良くものを見ている、昼日なかは、物を見るとしても碌に対象を捉えてはいないのだ、しかし眠ると、私の視線は夢の中で君の有難い姿を見出して、闇の中でも明るさを取り戻しては、はっきりと暗黒に焦点を定める、するとどうだろう、君の幻影が夜の暗闇を明るく照らし出すわけなのだよ。この幻影の本体である君が、昼よりもなお明るい光を放っては、明るく眩しい昼間に姿を現してくれたら、どんなにか楽しかろう、何しろ君の影は見えぬ眼にもこんなにも光り輝くのだからね。真夜中に、深い深い眠りの中で、見えぬ眼に、その美しく虚ろな影が出現するのなら、再度言おうか、まっ昼間に君を見たならば私の眼はどんなにか幸せな思いをすることだろう、君を現実に見るまでは、私の眼には昼も夜と同じことであり、又、夢が君の香しい姿を見せてくれるのなら、漆黒の夜も光眩しい昼間も同然なのだからね。 続いて第四十四聯、この私の肉体と言う重い物質が思考のように軽ければ、酷く邪魔っけな道のりも私の足を止めはしないだろう、そうであれば、私は君からどんなに遠く離れていても、どんなに僻遠の土地からでも、私は即座に君のいる場所へやって行くだろうに。たとえ、この足が君から隔たること遥かに遠い、地の果てに立っていようとも、そんなことは問題にもならない、身の軽い思考は、行こうと思う土地を思い浮かべると、海も大地もたちどころに飛び越えるのだからね、だが、私は思考ではないから、そう自覚すると急に心が滅入ってしまう、懐かしい君と離れても、何百里を跳びこすわけにもいかないのだ、ああ、残念無念、私の肉体は大方が土と水で組成されているから、ただ嘆きながら時のご機嫌をうかがうしかない、請願人が強大な権力者に媚びへつらうように。でも、この鈍い二元素にかけて言うが、頂戴するのはただ悲しい涙だけで、この二元素の嘆きの印、悲しみの涙…。 詩人の嘆きは極めて人間的だ、精神的には自由自在を我が物とし得ている天才も、うつしみの鈍重な肉体の檻に閉じ込められている囚人も同然で、おまけに賤しい身分という首枷までつけられている。言葉の自由は現実の桎梏をよう克服し得ない、平凡人も変わらないし、貴族や王侯と言えどもその点ではあまり変わらないのだ。人間である歓びは、人間である悲しみと背中合わせの関係にある。古代の日本では、天人や天上界の女人と交わったとしても、相手は最後には清浄なる本来の場所に帰ってしまうと言う、諦念のようなものがあった。この世は憂きもの、不浄なる人間世界といった固定観念があって、異世界への止むことのない憧れが根底にあった。大空を自由に行き来している鳥達への憧れもあって、涯てしない大空への夢想は限りなく膨らんでいたようである。私などは古代の日本列島は周囲を清浄極まりない美しい海に囲まれた理想境と理解しているのですが、人々の生活も質素ではあっても麗しいものであったに相違ないと勝手に決め込んでいるのですが…、詩人の住んでいた英国は十六七世紀ですから、日本でも戦乱の時代を迎えてますから人間を美化ばかりして済ますわけにもいきませんね。 念の為につけくわえておきますが、私個人は理想的な人間など求めてはいませんで、ごくごく当たり前の普通人が大好きでして、大抵の人間は嫌いではなくて、好きです。これも他人との比較ではなくて、個人的な見解ですが、私ほど人間関係で恵まれている者はいないと考えています。その頂点には女王様の如き 悦子 が君臨しており、友人知人が皆人間臭くて面白みがあり、興味深い人が大勢いましたし、現在も人間関係では極めて恵まれており、浅草の観音様を始め神仏の御加護のお陰で幸せな生活を送ることができており、このソネットの味読も猛暑の夏には絶好の消夏法として役立っており、実に有り難くて感謝の極みなのであります。 第四十五聯、他の二つの元素、つまり、軽い空気と浄めの火だが、私が何処に居ようとも両方ともに君と一緒にいる。一つは私の思考だし、もう一つは私の欲望だ、この二つが私と君の間を行ったり来たりして、目まぐるしく往復するのだよ。だから、この身の、軽い二つの元素が優しい愛の使者として君のもとに出かけてしまうと、四大(土、水、火、空気)からなるわが生命は残りの二つだけになり、黒い胆汁に圧迫されて死のもとへ降りていくのだ、しかし、あの速やかな使者たちが君のもとから帰ると、四大の配合は正常なものに戻り、生命が新たに蘇る。所で、この使者達だが、たった今帰ってきて君が元気で暮らしていることを教えてくれた。そう聞けば勿論私は嬉しいのだが、その喜びも長くは持たない、またも彼らを使いに出して、すぐに悲しく憂鬱な気持に陥ってしまう。 第四十六聯、君の姿という獲物をどう分配するか、私の眼と心は命懸けで争っている、眼は心に君の素敵な絵を見せまいとする、心は眼に、見る権利を勝手に使わせまいとする、心は、君を中に収めてあると申し立て、ここは透明な眼も入り込めぬ私室だと言う、しかし、相手方はその言い分を否定して、君の美しい姿は我が内にあると言う。この所有権を決めるために、思考の群れが陪審に選ばれる、すべて心に仕える者達だ、さて彼らの判決により輝く眼の取り分と、細やかな心の分け前が、こう決められた、即ち、私の眼の取り分は君の外側の姿、私の心の所有分は君の内なる心の愛情、と。
2024年08月02日
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紫の 帯の結びも 解きも見ず もとなや妹に 戀ひ渡りなむ(― 女の紫の帯の結びも解いてもみずに、どうにもならずに妹を想い続けることであろうか)高麗錦(こまにしき) 紐の結びも 解き放(さ)けず 齋(いは)ひて待てど しるし無きかも(― 高麗錦の紐の結びも解き放たずに、潔斎をして待っているけれども、その験がないことだ)紫の わが下紐(したひも)の 色に出でず 戀ひもかも痩せむ 逢ふよしもなみ(― 顔色に出さずに恋に悩んで痩せることであろうか、逢う手段もなくて)何故(なにゆゑ)か 思はずあらむ 紐の緒の 心に入りて 戀しきものを(― どうしてあなたのことを思わずにいられましょう、心に染みて恋しいものを)眞澄鏡(まそかがみ) 見ませわが背子(せこ) わが形見 もたらむ時に 逢はざらめやも(―真澄の鏡を私だと思って御覧下さい、わが背子よ、私の形見のこの鏡を持っておられたら、またお逢い出来ないということは御座いますまい)眞澄鏡 直目(ただめ)に君を 見てばこそ 命にむかふ わが戀止(や)まめ(― 直接あなたを見たならばこそ命懸けの私の恋も鎮まるでしょうけれども)眞澄鏡 見飽かぬ妹に 逢はずして 月の經ぬれば 生けるともなし(― 見飽きることのない妹に逢わずに幾月も経ったので、生きていないも同然です)祝部(はふり)らが 齋(いは)ふ三諸(みもろ)の 眞澄鏡(まそかがみ) 懸けてそ偲(しの)ふ 逢う人ごとに(― 私は逢う人ごとにあなたの事を口にのぼせて、偲んでいます)針はあれど 妹し無ければ 着けめやと われを煩(なやま)し 絶ゆる紐の緒(― 針はあっても妹がいないから付けることはできないであろうか、切れては私を悩ます紐の緒です)高麗劔(こまつるぎ) 己(な)が心から 外(よそ)のみに 見つつや君を 戀渡りなむ(― 私の性分で、あなたをただ傍から見ているだけで、しかも恋い続けることでしょう)劔刀(つるぎたち) 名の惜しけくも われは無し このころの間(ま)の 戀の繁きに(― 私はもう名の惜しいこともありません、この頃はもう恋しさが余りにもしきりなので)梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)はし知らず しかれども まさかは君に 寄りにしものを(― 将来のことは分かりません、しかし今は、あなたにしっかりと寄り添っていますものを)梓弓 引きみゆるへみ 思ひ見て すでに心は 寄りにしものを(― 梓弓を引いてみたり緩めてみたりするように、色々と考えてあなたに靡いたのですから)梓弓 ひきてゆるへぬ 大夫(ますらを)や 戀といふものを 忍びかねてむ(― 梓弓を引いて弛めもしない男一匹が、恋などというものをどうして堪える事ができないのだろう)梓弓 末の中ころ 不通(ふど)めりし 君には逢ひぬ 嘆きは息(や)めむ(― 中頃打ち絶えて通っておいでにならなかったあなたに、再びお逢いできました。もう嘆くのはやめましょう)今さらに 何しか思はむ 梓弓 引きみゆるへみ 寄りにしものを(― 今更どうして悩みましょう、梓弓を引いてみ、弛めてみするようにして、いろいろ考えてあなたに靡いたのですから)少女(をとめ)らが 績麻(うみを)の絡垜(たたり) 打麻懸(うちそか)け 績(う)む時無しに 戀渡るかも(― 少女達が麻を糸にすると言うので、台の上に棒を立てた道具のタタリに打った麻をかけてうむ・つむぐ そのウムではないが、倦む時無しに私はあなたを恋しています)たらちねの 母が養(か)ふ蠶(こ)の 繭隠(まよこも)り いぶせくもあるか 妹(いも)に逢はずして(― 母が飼っている蚕が繭にこもるように、心持が晴れないことである。妹に逢う折がなくて)玉襷(たまたすき) 懸けねば苦し 懸けたれば 續(つ)ぎて見まくの 欲(ほ)しき君かも(―口に出して名前をお呼びしないと苦しくて、お呼びすると、その夜にはお逢いしたいあなたです)紫の し色(み)の蘰(かずら)の はなやかに 今日見る人に 後戀ひむかも(― ムラサキ草でそめたカズラのように、花やかに美しいと見たあの人に、あとで恋することであろうか)玉かづら 懸けぬ時無く 戀ふれども 何しか妹に 逢う時も無し(― 心にかけない時はなくいつも恋しく思っているのに、どうして妹に逢う時がないのだろうか)逢ふよしの 出で來るまでは 疉薦(たたみこも) 重ね編(あ)む數 夢(いめ)にし見えむ(― 恋しい人に逢うきっかけが出来るまでは、畳薦を重ねて編む数ほど、幾度も妹が夢に見えることだろう)白香(しらか)付(つ)く 木綿(ゆふ)は花物(はなもの) 言(こと)こそは 何時(いつ)のまさかも 常(つね)忘らえね(― あなたの美しいお言葉こそ何時も忘れることができずにおりますが、美しいシラカ・麻やこうぞの類を細かく裂いて白髪のようにして神事に使うもの をつける木綿花は移ろいやすい物と申します)石上(いそのかみ) 布留(ふる)の高橋 高高(たかたか)に 妹が待つらむ 夜そ更けにける(― 今か今かときっと妹が心待ちにしているであろうに、夜は更けてしまった)湊入(みなといり)の 葦別小船(あしわけをぶね) 障(さはり)多み いも來(こ)むわれを よどむと思ふな(― さしさわることが多くて、すぐに行こうと思って行けない私を、妹よ、心がさめたのだと思わないでおくれ)水を多み 高田(あげ)に種蒔(ま)き 稗(ひえ)を多み 擇擢(えら)ゆる業(なり)そ わが獨り寝(ぬ)る(― 高田には水が多いので種を蒔くと稗が多く出る。そこでよくない穂はよりとって捨てられる。畑仕事と同じです、私は独りで寝ています)魂合(たまあ)はば 相寝(ね)むものを 小山田の 鹿猪田(ししだ)禁(も)る如(ごと) 母し守(も)らすも(― 心が合うなら一緒に寝ましょうものを、山田のシシ田を監視するように、母が守っています)春日野(かすがの)に 照れる夕日の 外(よそ)のみに 君を相見て 今そ悔しき(― 春日野に照っている夕日のように、縁のないもと傍からあなたを見ていたことが、今になってつくづく後悔されます)あしひきの 山より出(い)づる 月待つと 人には言ひて 妹(いも)待つわれを(― 山から出る月を待っているのですと人には言って、逢う約束をした妹を待っている私です)夕月夜(ゆふづくよ) 暁闇(あかときやみ)の おぼぼしく 見し人ゆゑに 戀ひ渡るかも(―はっきりと見た人ではないのに、私はこんなに恋い続けています)ひさかたの 天(あま)つみ空に 照る月の 失(う)せなむ日こそ わが戀止(や)まめ(― 大空に照る月が失せてしまう日にこそ私の恋は止むであろうが、失せる時などないから、私の恋は止む時がない)望(もち)の日に さし出づる月の 高高(たかたか)に 君を坐(いま)せて 何をか思はむ(― 十五夜の月を望むように待ち焦がれていたあなたに、ここにこうしておいでいただいて、他に何の思うことがありましょう。全く満足です)月夜(つくよ)よみ 門に出で立ち 足占(あうら)して ゆく時さへや 妹に逢はざらむ(― 月がよいので足占・右足と左足のどちらが先に目標に着くかで吉凶を定める占い をして逢いに行っても妹に逢えないのだろうか)ぬばたまの 夜渡る月の 清(さや)けくは よく見てましを 君が姿を(― 夜空を渡る月が澄んでいたならあなたのお姿をよく見たでしょうに)あしひきの 山を木高(こだか)み 夕月を 何時(いつ)かと君を 待つが苦しさ(― 何時あなたが見えるかとお待ちすることの苦しさよ)橡(つるばみ)の 衣(きぬ)解(と)き洗ひ 眞土山(まつちやま) 本(もと)つ人には なほ如(し)かずけり(― ツルバミの衣を解いて洗ってまた打つと言う、マツチ山、その名から連想されるモトツヒト、元から馴染んだ妻に勝るものはないなあ)佐保川の 川波立たず 静けくも 君に副(たぐ)ひて 明日さえもがも(― あなたのおそばにいて静かな気持で明日もまた過ごしたいものです)吾妹子(わぎもこ)に 衣(ころも)春日(かすが)の 宜寸(よしき)川 縁(よし)もあらぬか 妹が目を見む(― 何か方法がないものか、妹の姿を見たいものだ)との曇(ぐも)り 雨降る川の さざれ波 間(ま)無くも君は 思ほゆるかも(― 一面に曇って雨降る川の小波が止むときなく立つように、絶えずあなたが思われることです)吾妹子(わぎもこ)や 吾(あ)を忘らすな 石上(いそのかみ) 袖布留(ふる)川の 絶えむと思へや(― 吾妹子よ、私を忘れないで。石上の布留川の水が絶えないように、私たちの仲は絶えることがないと思っています)三輪山(みわやま)の 山下響(とよ)み 行く川の 水脈(みを)し絶えずは 後もわが妻(― 三輪山の麓を水音高く流れていく初瀬川の水脈が絶えないように、絶えず私を思ってくれるならば、あなたはいつまでも私の妻です)神(かみ)の如(ごと) 聞ゆる瀧(たき)の 白波の 面(おも)知(し)る君が 見えぬこのころ(― お顔をよく存じ上げているなたなのに、この頃お見えになりませんね)山川(やまがは)の 瀧(たぎ)に益(まさ)れる 戀すとそ 人知りにける 間(ま)なくし思へば(― 山川の激しい流れにも勝る激しい恋をしていると人々が知ってしまった、いつも物思いをしているので)あしひきの 山川(やまがは)水の 音に出でず 人の子ゆゑに 戀ひ渡るかも(― 山川の水音のようにはっきりとは言葉に出さず、私は想い続けることである。あの娘は人のものだのに)高(こ)せにある 能登瀬(のとせ)の川の 後も逢はむ 妹(いも)にはわれは 今にあらずとも(― 妹には後にでも逢おう、今、人々の反対を押し切ってではなくて)洗ひ衣(きぬ) 取替(とりかひ)川(かは)の 川淀の まどろむ心 思ひかねつも(― あなたのところへ通わずにいる気持を、じっとこらえていることは、到底出来ません)斑鳩(いかるが)の 因可(よるか)の池の 宜しくも 君を言はねば 思ひそわがする(― 世間の人があなたのことをよく言わないので、私は心配しています)隠沼(こもりぬ)の 下ゆは戀ひむ いちしろく 人の知るべく 嘆きせめやも(― 心の中では思っていよう、はっきり人目につくように嘆息などをするものか)
2024年08月01日
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私が安らかに死を迎える日が来ても、君が私よりも生きながらえてくれて、死神という非人が私の骸に土を被せても、ふとした拍子に私が嘗て君をこよなく愛して捧げた詩歌を読み直す時が来たら、それがどれほどに拙くて、粗雑だったとしても、当代を代表する優れた詩人達の大層進歩した技に比べて、仮に誰彼からも追い越されて、打ち負かされていようとも、詩詞そのものの価値からではなくて、私の比類なく大きな愛情の故に廃棄などせずに、取っておいて呉れたまえ。技量や詩想が詩才豊かな者達の影に隠されてしまったとしても、ああ、君よ、我が最愛の恋人よ、こう思いやってくれたなら嬉しいのだが、詰まり、私の愛しい友人の詩心がこの進歩の時代とともに成長してくれていたら、彼の自分への愛情はこれよりも高貴な作品を生み出し、もっと華やかできらびやかな作品と肩を並べて歩んだであろう、と。だが、彼は既になくて、詩人たちは進歩して止まない、彼等の詩は文体を愛でて、彼の詩は愛を愛でて読もう、と。 以上が三十二聯です。シェークスピアのこのへりくだった謙遜の言葉は文字通りには謙遜であって謙遜ではない、非常な自己への確固たる自信が透けて大きく顔をのぞかせている。エセ詩人たちだけが世にはびこっているのは彼の時代だけでははなくて、いつの時代でも大同小異なので、人類史上に傑出した大天才が自己を正当に評価できない筈もなく、ごく一般的で平凡な措辞を使用して、さりげなくさらりと言ってのけているところが、彼らしい言い回しと私には心にくく感じられてならない。 第三十三聯、私はこれまでに何度となく見てきている、光眩い朝が王者に相応しい眼差しを投げ掛けて山脈の峰々を励まし、金色の光の箭を送り緑の牧場に挨拶の接吻を贈り、天空の錬金術を以て鉛色の流れを金色に変えるのを。だが、やがては真っ黒な不吉な雲が湧き上がって、醜悪なちぎれ雲となり、清浄な天の顔を覆い、戸惑っている世間から美々しい玉顔を押し隠すと、その汚辱を濯ぎもせずに、姿を見せる事もなく、こっそりと西への旅路を急ぐのを、私は見てきた。私の太陽たる友人もこれと同じで、ある日の早朝に眩いばかりの光を放って私の顔に輝いた、だが、何としたことであるか、私のものであったのはほんの一時間ほどであった、今は天の雲が彼を私から隠してしまった、だからと言って、私の強い揺るぎない愛情はいささかも彼を蔑むことはない、天の太陽が曇るのならば、この世の太陽だって輝きを失うのは必定なのだ。 批評家などの注釈によれば、詩人とその愛人たる青年との間に何か強い葛藤が生じて、これに続く数聯がその事件を廻っての連作と言う緊密さを有しているものらしい。 第三十四聯、何故に君は、素晴らしい一日が始まると言って、外套も着せずに旅に送り出しておきながら、黒雲を放って道中の半ばで私を捕らえさせて、その美々しい姿を瘴気(しょうき)の中に隠したのか、雲の間からちょいと覗いて、嵐に打たれた私の顔の雨水を乾かすと言うのでは、とても十分とは言えまい。傷は治すけれども、傷痕までは直さないなどとは、誰だってそんな軟膏を褒めるわけにはいかない、また、君の後悔が私の生々しい苦痛の薬になるわけでもない、たとい君が悔いたところで私が大変な損をしたことにはかわりはないさ。人を傷つけてから悲しんだところで、ひどい目に合わされて受難の十字架を負う者には、たいして慰めにはならない。ああ、だが、だが、君の愛が流すこの涙はさながら大粒の真珠だ、これはまさに値打ちもので、どのような非行でも贖(あがな)ってあまりある…。 所で、劇とは、ドラマとは、芝居とは何だろうか? シェークスピアは劇作の大大天才であった。端的に言ってその本質は「人間的である」ことにあるだろう。人間は自然に生きていると同時に、自己の生き方を含めた人間のあり方を自覚して楽しみたいと言う欲求に駆られる存在でもある。人間にとって一番の興味の対象は自己自身なのだ。劇、芝居は一種の儀式として自己を見つめ、自己を分析して、また客観的に自分を眺めて楽しむ娯楽でもあった。劇的とは人間的と同義語である。自分はあんなにも滑稽であり、時にはあれほどまでに正義感に燃え、殺人を犯し、人妻を誘惑し、王位を簒奪もする。賤しくも有り同時に高貴で清浄でもある、何て矛盾に満ちてバカバカしく、時には神にも等しく尊貴なのであろうか。プライドを無闇と気にかけるかと思えば、なんの理由もなく下卑て犬畜生にも劣る下賤な行為にも走る。一体、自分とは、人間とは何者なのであろうか…。詩人は、劇作家は、こうした人間的な好奇心からスタートして途轍もなく切り立った嶮峻なる山の高みへと至る。そこからの眺望がどのようなものであったかは、彼の創作した作品を鑑賞すればある程度までは理解可能だ。 このソネットでは、詩人と愛人兼友人たる美青年と、詩人の愛人と、黒の貴婦人と呼ばれる高級娼婦めいた謎の女性が主たる登場人物であるが、これはさながら下界の世俗社会を象徴する人物グループとも言え、そこに展開するドラマティックな葛藤・心理的衝突は人間界の縮図とも解釈できよう。この長編ソネットで詩人が目論んでいるのはフィクションだけでは描ききれなかった人間劇の発展系を現実の只中に別個に構築しようという、ある種壮大な計画の実践遂行なのであって、シェークスピアは並々ならぬ野望でこの冒険に果敢に挑戦し、見事に成功を収めている。私はいささか先走り過ぎてしまったようですが、これまでに誰もが実現できていない自由翻訳の代替物として、私は素人の立場から自由自在に視点を変えたり、玄人には難しい解釈を持ち込んだり、巨大な建築物に様々な視点からアプローチを試みて、傑作の傑作たる所以を殆ど詩や劇などにも関心を持っていなかった人々にも、改めて注目して頂くきっかけになればと、しかしながら私の関心は自分自身が半歩でも、四分の一歩でも大詩人の傑作世界に近づきたいが為のお気楽な道楽仕事を、心ゆくまで楽しむ所存なのです。世のため人の為を一応は標榜しながらも、元はしっかりと取っている、結構、お人好しだけではない酷暑の格好の消夏法でもあるわけですね、実際のところ。散文でさえ、意味は二の次で、言葉の調子、抑揚、リズム、高低など音の流れ等が主としたものであるわけで、韻律や詩歌は尚の事複雑多岐を極める世界ですから、どうぞ皆様方も悠長に構えて人間の言葉を堪能する一端として、このソネットの下手な解説を斜め読みなりしていただき、詩一般への関心と興味を深めて頂けたなら、これに過ぎる幸せはありません。 第三十五聯ですが、もうこれ以上君が行った事柄を悲しむのはよしたまえ、美しい薔薇には必ず鋭いトゲがあるし、清澄透明な泉にも泥の底が控えている。大空に輝く日や月にさえそれを翳らせる日蝕や月蝕があるのだ。こよなく美しい花のつぼみにも忌まわしい虫が潜んでいる。人は誰でも過ちを犯すもの、この私だってその例外ではいられない、君の罪を他と引き比べては正当な行為なりだなどと認知し、君の軽率な罪を言い繕って、私自信を堕落させている始末、何故なら君の罪を殊更に軽く判定して見過ごそうとするのだからね。その上に、君の官能の罪悪を助けようとてとっときの分別を呼び入れ、この君の敵である者を君の弁護人に仕立て上げ、私自身を相手に法に則って訴訟騒動を起こそうという始末なのだよ、私の大きな愛情と激しい憎しみとはさながらに内乱状態にあるのだからね。私から酷(むご)くも奪い取る優しい盗賊がいれば、私はすぐさまその共犯者にならずにはいられないのだよ。 全体の趣旨は、相手の罪を庇うように見せかけて、その実、痛烈な皮肉、恨み言を述べるもので、こういう屈折したレトリックはこの後でもしばしば使われる。 第三十六聯、私達ふたりの愛が目出度く合体して、一つになったとしても、私達二人はやはり個別の二人で変わりないことを認めよう、だから君、私の身に付きまとっている特有の汚名に関しては、当然に君の手を借りずに私一人が背負わなければいけないのだ、気にしないでいて呉れたまえ、私達の二つの愛には一つきりの目標しかないが、私達の人生には二人を絶対的に裂く忌まわしい距離、高級貴族と一介の座付き作者たる実に賤しい身分の差、がある、この事実はひとつになった愛の働きを変えたりはしないが、愛情の喜びの盃から楽しい時間を掠め取るくらいの悪さはするだろう、私はこれからは二度と君に挨拶などはすまい、この嘆かわしい罪が君に恥をかかせたりしてはいけないのでね、だからお願いする、君も人前では私に優しい素振りを見せないでくれ、君の名誉ある名前に疵をつけたりしてはいけないからね、どうか、そんな真似はやめてくれ、私は心の底から君を愛しているのだから、君自身だけでなくて、君の輝かしい名声も我が物にしたいのだ。 続いて第三十七聯、耄碌して老いさらばえた父親が、活気にあふれる我が子の若々しい振舞いを見て喜びを覚えるように、私も運命の女神に手酷く憎まれて、足萎えになりはしたが、君の優れた人柄と誠実な心に慰めを見出している。美と家柄と、富と知恵と、このいずれかが、又はこの全てが、或いはこれを超えるものが、君の美徳の最高主権者となり王座を占めようとも、この豊饒な徳の宝に私は自分の愛を接木するのだ。そうなればもう、私は足萎え、貧乏人、卑賎の身のどれでもない。こうした幻影が堅固な実体を作り出してくれるから、私は君の豊かさにすっかり堪能してあらゆる栄光に與りながら生きることになる、それゆえに最善の物が全て君に備わることを私は願うのだ、そう望みさえすれば私はもう十倍も幸福になるのだからね。 第三十八聯、私が信奉する詩の女神が題材に事欠くはずもない、何しろモデルとしては最高の君が現に生きていて、君という格好の美しい主題を私の主題に注ぎ込んでくれるのだから、これは、そこらへんのヘボ詩歌の中で、使用させるには勿体なさ過ぎる。ああ、ああ、君よ、私の詩の中で読むにたるものが目に止まったならば、その時は君自身に礼を述べてくれたまえよ、君自身が私の想像力に光明を与えてくれるのに、その君に対して黙りこくって何も書けない者などいるものか、いやしないさ、君は第十番目のムーサイになり、へぼ詩人達が呼びかける昔の九人の詩神達よりも十倍多い御利益を授けてくれ。そうして、君に祈りを授ける者にはこれからも長くこの世に残る不朽の名詩を産ませてやってくれ。私のか弱い詩神が気難しい当世人を楽しませるのなら、苦労したのは私であっても、賞賛を受けるべきなのは、君なのだ、そう、君なのだからね。
2024年07月30日
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悔(くや)しくも 老いにけるかも わが背子が 求むる乳母に 行かましものを(― 残念にも年をとってしまったことだ。若ければわが背子が求める乳母として行こうものを)うらぶれて 離(か)れにし袖を また纏(ま)かば 過ぎにし戀い 亂れ來(こ)むかも(― 恋する心もしおれて、離れ離れになってしまった恋人の袖をまた枕にしたならば、過ぎ去った思いがまた狂い乱れてくるであろうか)おのがしし 人死(しに)すらし 妹(いも)に戀ひ 日にけに 痩(や)せぬ 人に知らえず(― 人それぞれにその人らしい死に方をするものらしい。私は妹を恋して日益しに痩せてしまった、人に知らせることもせずに)夕夕(よひよひ)に わが立ち待つに けだしくも 君來まさずは 苦しかるべし(― 毎日日が暮れると私は門のところに立って待っていますのに、もしもあなたがお見えにならない時には、さぞ苦しいことでしょうね)生(い)ける代に 戀といふものを 相見ねば 戀の中にも われそ苦しき(― 生きているこの世で恋というものの正体が分からないので、恋の只中にいて私は苦しい)思ひつつ をれば苦しも ぬばたまの 夜になりなば われこそ行かめ(― あなたを思いながらお待ちしていると苦しくて耐えられません。夜になったならば私こそあなたのところに参りましょうに)心には 燃(も)えて思へど うつせみの 人目を繁み 妹に逢はぬかも(― 心の中では燃えて思い続けているけれど、世間の人の目が多いので、妹に逢えないことであるよ)相思はず 君はまさめど 片戀に われはそ戀ふる 君が姿に(― あなたは私など思わずにおいででしょうが、私は片思いをして、あなたのお姿をお慕い申しておりまする)味(あぢ)さはふ 目は飽かざらね 携(たづさは)り 言問(ことど)はなくも 苦しかりけり(― 目だけ見合わすことはいつもありながら、手を取り合って言葉を交わすことが出来ない事は苦しいこととつくずく思います)あらたまの 年の緒長く 何時(いつ)までか わが戀ひ居(を)らむ 命知らずて(― 年月長く何時まで私は恋に苦しんでいることであろう、命に限りがあることを知らずに)今は吾(あ)は 死なむとわが背 戀すれば 一夜一日も安けもなし(― 今はもう私は死にそうです、わが背よ、恋い焦がていると一日一夜も安らかな日はありません)白栲(しろたへ)の 袖折り反(かへ)し 戀ふればか 妹が姿の 夢(いめ)にし見ゆる(― 白栲の袖を折り返して寝て、妹が私を恋しているからか、その姿が夢に見えることよ)人言(ひとこと)を 繁みこちたみ わが背子(せこ)を 目には見れども 逢うよしも無し(― 他人の噂がうるさいので、わが背子を目には見るけれども逢う手段がない)戀ふといへば 薄きことなり 然れども われは忘れじ 戀は死ぬとも(― 恋と言えば何でもないことのようであるが、私はあなたを忘れまい。恋焦がれて死んでしまおうとも)なかなかに 死なば安けむ 出づる日の 入る別(わき)知らぬ われし苦しも(― いっそ死んだならば安楽だろう、恋の思いに心みだれて、昇る太陽が何時沈むのかも分からない私は、全く苦しい)思ひ遣る たどきもわれは 今は無し 妹に逢はずて 年の經ぬれば(― 気持を晴らす手段も今はもはやない、妹に逢わずに年が経ってしまったので)わが背子に 戀ふとにし あらし緑児(みどりこ)の 夜泣きをしつつ 寝ねかてなくは(― 小児のような夜泣きをして眠れないのは、わが背子を恋しているということらしい)わが命の 長く欲(ほ)しけく 偽りを 好(よ)くする人を 執(とら)ふばかりを(― 私の生命がどうか長くあって欲しい、当てにならないことを巧みに言う人を、捕まえることが出来るほどに)人言を 繁みと妹に 逢はずして 心の内に 戀ふるこのころ(― 他人の噂があれこれと煩いので、妹に逢わずに、心の中であれこれと思うこの頃である)玉梓(たまづさ)の 君が使を 待ちし夜の 名残(なごり)そ今も 寝(い)ねぬ夜の多き(― あなたの使を待っていた夜の名残で、それが習慣になって、今も眠れない夜が多いことです)玉鉾(たまほこ)の 道に行き合ひて 外目(よそめ)にも 見ればよき子を 何時(いつ)とか待たむ(― 道で行きあったときに、傍から見ても可愛い子だが、何時になったら当てにして待っていようか)思ふにし 餘(あま)りにしかば 爲方(すべ)を無み われは言ひてき 忌(い)むべきものを(― 思い余って、するすべもなく、私は恋人の名を呼んでしまった。口にすべきではなかったものを)明日(あす)の日は 其の門行かむ 出でて見よ 戀ひたる姿 あまた著(しる)けむ(― 明日はあなたの家の門の前を通りましょう、出て御覧なさい、私の恋にやつれた姿がはっきりと分かるでしょう)うたて異(け)に 心いぶせし 事計(ことはかり) よくせよわが背子(せこ) 逢へる時だに(― ますます変に気持が塞ぎます。わが背子よ、せめてお逢いしたいときだけでも事を上手く運んでください)吾妹子(わぎもこ)が 夜戸出(よとで)の姿 見てしより 心空なり 地(つち)は踏めども(―吾妹子が夜、珍しく戸口に出て立った姿を見てから、私の心は上の空です。地は踏んでいるけれども)海石榴(つば)市(いち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも(― 海石榴市のいくつにも道に分かれた辻で地を踏み鳴らして踊って、結びあった紐を、今解くには惜しいことだ)おのが餘の 衰へぬれば 白栲(しろたへ)の 袖のなれにし 君をしそ思ふ(― 私ももはや衰える年齢になったので、昔慣れ親しんでいたあなたのことを思います) 女から男への歌君に戀ひ わが泣く涙 白栲の 袖さへひちて 爲(せ)む爲方(すべ)もなし(― あなたを恋して私が泣く涙は白栲の袖まで濡れてどうにもなりません)今よりは 逢はじとすれや 白栲の わが衣手(ころもで)の 乾(ふ)る時もなし(― もう逢うまいとなさるわけではないでしょうに、白栲の私の袖は涙で乾く時もありません)夢(いめ)かと心はまとふ 月數多(まねく)離(か)れにし 君が言(こと)の通へば(― 夢ではないかと私の心はとまどいます、幾月も打ち絶えていたあなたから手紙をいただきましたから)あらたまの 年月かねて ぬばたまの 夢(いめ)にそ見ゆる 君が姿は(― 長い年月の間、あなたのお姿は私の夢に見えております)今よりは 戀ふとも妹に 逢はめやも 床(とこ)の邉(べ)さらず 夢(いめ)に見えこそ(― 今からは恋しく思っても妹に会うことが出来ようか、どうか床のべを去らずに夢に現れてください)人の見て 言とがめせぬ 夢にだに 止(や)まず見えこそ わが戀息(や)まむ(― 人が見て咎め立てすることもない夢にだけでも絶えず現れて下さい、そうすれば私の恋の心も鎮まるでしょう)現(うつつ)には 言(こと)は絶えたり 夢(いめ)にだに 續(つ)ぎて見えこそ 直(ただ)に逢ふまでに(― 現実には言葉の行き来は絶えてしまいました、せめて夢にだけにでも引き続き現れて下さい、縁あって直接にお逢いするまでは)うつせみの 現(うつ)し心も われは無し 妹も相見ずて 年の經ぬれば(― 人間の理性ある心も私はなくしてしまった。妹に逢わないで年が経ってしまったので)うつせみの 常の言葉と 思へども 繼(つ)ぎてし聞けば 心はまとふ(― あなたの言葉は世間でよく聞くお言葉だとは思いますが、何度もお聞きすると心は本当かと戸惑います)白栲(しろたへ)の 袖並(な)めず寝(ぬ)る ぬばたまの 今夜(こよひ)ははやも あけば明けなむ(― 白栲の袖を並べずに独りで寝る今夜は早く明けるのならば明けてほしい)白栲の 手本(てもと)寛(ゆた)けく 人の寝(ぬ)る 味寝(うまい)は寝(ね)ずや 戀ひわたりなむ(― 白栲の袖のたもとをくつろげて、他の人はぐっすり眠るのだが、私は眠れずにこのまま恋に悩み続けることであろうか)かくのみに ありける君を 衣(きぬ)にあらば 下にも着むと わが思へりける(― こういうお気持であったあなたを、着物なならば一番下に着ようと思っていたのです)橡(つるばみ)の 袷(あはせ)の衣(ころも) 裏にせば われ強(し)ひめやも 君が來(き)まさぬ(― ドングリ色の袷の衣を裏返しに着るように、あなたの気持がこちらに向かないならば、無理にとは申しませんが、あなたのおいでにならないことは、まあ)紅(くれなゐ)の 薄染衣(うすそめころも) 淺らかに 相見し人に 戀ふる頃かも(― 逢って気にも止めなかった人が、妙に恋しいこの頃である)年の經ば 見つつ偲(しの)へと 妹が言ひし 衣の縫目(ぬひめ) 見れば悲しも(― もし今度の旅が長年に渡るようならば、見て私を思い出して下さい、そう言った妹の言葉が衣の縫い目を見ると思い出されて、恋しいことだ)橡の 一重(ひとへ)の衣(ころも) うらもなく あるらむ兒ゆゑ 戀ひわたるかも(― あの子は単純で何の屈託もないのであろうが、私は恋しさにあれこれと悩んでいることであるよ)解衣(とききぬ)の 思ひ亂れて 戀ふれども 何の故そと 問ふひともなし(― 私は解衣が乱れるように思い乱れて恋に苦しんでいるけれども、どうしたのだと尋ねてくれる人もいない)桃花褐(つきそめ)の 淺(あさ)らの衣 淺らかに 思ひて妹に 逢はむものかも(― 浅い気持ちで妹に逢うでしょうか、逢いはしません)大君(おほきみ)の 塩焼く海人(あま)の 藤衣(ふじころも) なれはすれども いやめずらしき(― 大君の塩を焼く海人の藤衣がナレるように、馴れはしても恋しい人にはいよいよ逢いたいものです)赤絹(あかきぬ)の 純裏(ひつら)の衣 長く欲(ほ)り わが思ふ君が 見えぬ頃かも(― 交わりが長くあれと思うあなたがお見えにならないこの頃です)眞玉つく 遠近(をちこち)かねて 結びつる わが下紐(したひも)の 解くる日あらめや(― 今から将来にかけて変わらない事を固く言い交わして、結んだこの下紐が、解けてしまう日があるでしょうか)
2024年07月29日
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第二十五聯、運命という星のめぐりに恵まれている者達には、その公の栄誉や、華やかな肩書きを自慢させておけばよいさ、彼等はそれが唯一の生きがいなのだからね。私は生憎と運命の回り合わせでそのような栄達や名誉などとは無縁な存在だ、思いがけなくもこの世で最高の光栄に浴し享受し得ている、偉大なる王侯の寵臣達が美しい葉を広げるのは、太陽の日差しを豊かに受けた金盞花(キンセンカ)の様なものにしか過ぎない、いずれはその華やかな姿も隠れ、埋もれてしまう、玉顔が曇れば栄光の最中にいたとしても早晩は没落してしまうのだからね。武勲の誉れ高い百戦錬磨の老練な戦士が、百千の輝かしい勝利を収めた後で、一度でも敗北すれば忽ちに完全に栄誉の序列から外されてしまい、辛苦の挙句に立てた手柄などみんな忘れられてしまう、とすれば、愛し愛されている私などは、幸福そのものではないか、この至福の愛から外れることも、外されることもないのだからね。支配と服従の関係ではなくて、愛する主体と愛される主体が同列の資格を持って並び立っているのだから。 此処で詩人は、支配と服従を事とする君臣の関係の脆弱性と脆さを指摘して、青年との愛情が完全に成就して安定している恋愛関係とを比較して、静謐でさえある相思相愛の仲をさり気なく述べている。この辺の呼吸を読み取らなければこの類稀なる長編詩を味読する壺を外してしまうことになってしまい、山あり谷ありの対比のバランスを、その絶妙さを見失ってしまいかねない。美しい青年と詩人との恋は既に安定期に入っており、その恋愛関係は永遠であるかの如き様相を呈している。そう明瞭には表現されてはいないけれども、一瞬は永遠であり、久遠は束の間なのである。 シェークスピアの傑作十四行詩の連作であることを常に念頭に置いて読み味わうのが肝要なので、それさえ忘れなければ間違いなくこのソネットの精髄を味わい得ないはずのないこと。余計なことは考えないで、真の詩人が巧みに表現している、或いは表現の裏に含みとして暗示している言外の表現されていない 表現 を読み損なわないように丹念に読み進めば、われわれは間違いなく美酒に酔うことが約束されている。詩の醍醐味を心ゆくまで飲み干したいものですね。 第二十六聯、所で、君よ、わが愛の対象である君主様よ、君の人柄が余りにも立派だから、その故に私は自ら進んで臣下としての当然の礼をとり、衷心からの忠誠の誠を捧げている。そして、その君主たる君に向けてこのような書状での口上を進呈するのは、私の二つとはない忠誠の心を示す為であり、持ち前の文才をひけらかそうが為ではないのだよ。私の忠誠心は特別に大きいのだが、あいにく知恵の方が貧弱で、相応しい表現の言葉が出てこない始末、それでご覧の如くにハダカも同然の恰好をしている。君が親切に目をかけてくれて、この丸裸の奴を心に留めていてくれると嬉しいのだがね、どれであるかは知らないのだが、私の人生の幸福な旅を導く星がいずれは吉相を帯びて、この上もなく有難い光を私に注ぎ、今は襤褸をまとっている愛情にまっとうな着物を着せて、君主たる君に見てもらうに相応しい姿にしてくれるに違いない。そうなれば、君を愛していることも公然と、大威張りで口にできる、それまでは君に公認されないような場所には私は顔を出さないでいるつもりなのさ。 第二十七聯、私は急な旅に出て、くたびれ果てて寝床に急ぐ、長い旅路で疲れた肉体を、手足を休めるために、ベッドにつくのだ、所が、それからが大変なことになる、頭の中、脳髄の旅が自然に始まり、肉体の仕事が終わっているのに、心が、精神が活発に働き出し活動を止めないのだよ、詰まり私の魂は今いる場所を勝手に抜け出しては、御熱心にも愛する、敬愛する御主人様たる君の許へと巡礼を始めているだ、イマジネーションの世界での楽しい旅が展開する、私の想像力が垂れ下がってくる目蓋を大きく見開かせ、盲者が見ているであろう様な真の闇を見詰めさせるのだ。ただ、私の魂、意識、心、精神が作り出す架空の視力が、この視力のない眼に君の美しく香しい姿を浮き上がらせてくれるのだ。それは恐ろしい夜の中に宝石のごとく神々しく浮かび、黒い夜を宇宙一の美人に変え、その老いた皺だらけの顔を瑞々しく若返らせる、ねえ、君、こんな風であるから、昼間は旅のために手足が休まらず、夜は君を思って心が、心臓が休まらない私なのだよ。 詩人は書いてはいないのだが、旅で手足を忙しく働かせている昼でも、彼は心を、精神を、魂を働かせて恋人を脳裏に描き、恋焦がれてることに変わりはない、詰まりは、全身全霊を捧げ尽くして美青年を想い、恋焦がれている、当然に命懸けで。私、古屋克征は万葉集の現代語訳をしているが万葉人も恋の想いに心を焦がし、命など失っても構わない、などと、恋の苦しみ、即ち恋情の歓喜を逆説的に表白してやまないのですが、古今東西、人のこの世での想いの大半は恋人をやるせなく思いやる恋心に尽きていると感じる今日この頃です。 恋愛の成就はそのままでハッピーエンドには至らない、そこからが本当の恋の苦しみが、歓喜が始まるわけで、悲恋も得恋も同じ地獄の苦しみを内部に包含しているなどと、知った風な事は言うまいと自戒したのですが、私のような幸福長者を吹聴している者でも、最愛の妻に先立たれて茫然自失して今日に至っているが、今でさえ ただに逢う ことを夢想してやまないのですから、恋は死んでも終わらない、実際の話が。 それにつけても、遊びをせんとや 生まれけん、と歌った言葉が忘れられません、遊びの、人生の遊びの頂点には恋愛があって、人は誰も恋を、愛を夢見て明日を生きるのでありましょう。私の敬愛する能村庸一氏は「仕事を、時代劇をプロデュースすることを、玩具にした」と豪語されましたが、仕事が対象であれ、異性が対象であれ、熱愛しなければ事は始まらないわけで、恋愛は人間であることの一番の証なのでありましょう。子供は自然に遊びを覚え、大人は自ずから恋愛に目覚める。それがどのような喜びや悲しみ、苦痛をもたらそうと私たちは猪突猛進して恋愛と言う激烈な嵐に突き進むしか他に生きるすべを知らないのですね。 恋愛を、恋を熱病の一種として忌み嫌おうと、恋に恋する清純な乙女の如くに神聖視しようとも、その実態は実行者の受け止め方次第で様々、色々に変化してさながら百面相の如き様相を呈するであろうことは想像に難くないのであります。 第二十八聯ですが、かくして遂に休息の恩恵にあずかれぬ私は、どうして元気溌剌として帰還出来ようか、昼の苦しみが夜に癒される健全な状態ではなくて、昼は夜に、夜はまた昼に攻め苛まれる、昼と夜がそれっぞれに互いの統治に敵対しているくせに、私を悩ませる目的の為には仲良く手を握って、昼は労役を課し、夜は嘆きの言葉を吐かせるのだよ、君からは遠ざかる一方の旅なのだが、目的地が何処になるのか、と。私は昼の機嫌をとって愛する君の話をする、彼は光り輝いているから太陽が雲に隠されたとしても、昼よ、お前の面目はたとうよ、と。また同様に黒い顔の夜にもお世辞を使って、煌く夜空の星々が消えたとしても、最愛の彼が夕空を輝かせてくれるさ、と言ってね。だが、しかし、昼は日毎に私の悲しみを長引かせ、夜は夜毎に、悲しみの長さを尚更に辛くする。 第二十九聯では、幸運の女神にも世の人々にも見捨てられて、私はただひとり劇団の座付き作者たる賤しい地位と言う実に惨めな身の上を日頃嘆いているが、益(やく)もない叫び声を上げたりしているのだが、元より聞く耳など持たない天を悩まし、つくずくと我と我が身を眺めては、己の生まれきたった運命を呪いに呪い、先行きの見込みに恵まれたあの人のようになりたいとか、美貌が欲しい、優れた友人に与りたいものだ、果てはあの男の学職を求め、彼の男子の豊かな才能を望み、周囲の誰彼を羨んでは私の一番に秀でた長所さえ、もっとも飽きたりなくなってしまう、まるでこの世での羨望地獄の亡者ではないか、しかしながら、こんな通俗極まりない思いで自分自身に愛想が尽きかけると、幸いなことに私は、恋人よ、世界一の美貌を誇る君の事を思う。するとどうだ、わが暗かった心は、夜明け方に暗黒の大地から舞い上がる、揚雲雀さながらに天上の門口で優雅に讃歌を歌いだすのだ、君の美しい愛を心に思い描くときに、素晴らしい地上の富を授けられるから、たとえ富強を誇る王侯貴族とだってその身分を取り替えるのはお断りだと、忽ちに奢り高ぶり傲岸不遜になってしまうのだよ、君、君。 詩人は強烈な自己嫌悪に駆られながらも、美青年との恋の成就故に辛うじてこの世に命を、希望の光を、生きる勇気を、活力を与えられ、明日へと生命をつなぐかに見える。シェークスピアの豊かな天分を以てしてさえみすぼらしく、貧弱な現実、私などは現実は元来が貧弱なのであり、酸欠状態の不満足極まりない不毛地帯なのだなどと、先走ってしまいそうになるのですが、王侯貴族に勝る素晴らしい地位などは、この俗世界には有り得ない。それが万人の認めるこの世での現実というものである。詩人は天才という翼に乗って広大無辺の天上界を自由気ままに飛翔して、神々にも勝る自由と喜びを恣にする。天界と地上とを存分に行き来して、我が世の春を謳歌する。これ以上の豪華絢爛は想像すら出来ないだろう、これ以上の華麗さも、これ以上の満足も人間としては考えられない、だが…。 第三十聯では、優しさと静寂に囲繞された心の想いという「法廷」に、既に過ぎ去った思い出の数々を召喚してみると、私が求めていた数々の物が欠けているのに嘆息を漏らし、古い悲しみを思い、貴重な人生の時間がただ虚しく徒らに過ぎたのを、新たに嘆く。さらには死の向こうに去った大切この上ない友達を忍び、普段は滅多に泣かぬ眼にも涙を溢れさせる。とうの昔に帳面上から消してしまっていた愛の苦しみを、また思い浮かべて泣き、多くの消えていった貴重な物達の損失を思い浮かべては嘆き、また同時に、私は往にし昔の悲しみを思って悲嘆にくれ、暗澹たる気持で苦痛のひとつひとつを数え上げてみる、既に嘆き終えた悲嘆を淋しく精算して、もう支払いが済んでいるのに、改めて支払いなおす…、しかし、愛する友よ、そんな時に君を憶うと全ての損失は埋め合わされ、悲しみが終わるのだ。 第三十一聯、もう見かけることもなくなり、死んだと思っていた人々の心を全て収めて、君の胸は貴重なものとなった、そこを統治するものは愛、貴重で優しい愛の特性のすべて、そして、墓場に埋められた筈の友人達の全部である、切なくも、敬虔なる愛の心が、この私の眼からどれほどか神聖な哀悼の涙を流させたことだろう、涙は死者が受ける権利なのだから。その彼等が今は、ただ場所を移して君の中に隠れているとしか思えないのだ、君は埋葬された愛の数々が現に生きている墓なのだよ、そこには嘗ての友人達の記念品も飾られいる。死した友人達は私が過去に与えた分を全部、君に与えたのだ、だから、多くの人の取り分が今は君ひとりの物になった、私の愛した人達の姿が君の中に見える、君は彼等の全てだから、私の全てをひっくるめて全部所有しているのだ。
2024年07月26日
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里近く 家や居(を)るべき このわが目 人目をしつつ 戀の繁けく(― 里近くに住むものではありませんね、人目を気にしながら恋心は募るばかりです)何時(いつ)はなも 戀ひずありとは あらねども うたてこのころ 戀し繁しも(― 何時の日何時の時も、恋しく思わないということはないけれども、この頃ますます恋心が激しいのです)ぬばたまの 寝ての夕(ゆうべ)の 物思(ものもひ)に 割(さ)けにし胸は 息(や)む時もなし(― 共に寝た翌日の夕方、またお会いしたくて張り裂けてしまった胸は、、何時までも収まる時がありません)み空行く 名の惜しけくも われは無し 逢はぬ日まねく 年の經ぬれば(― 大空を高く行くような立派な名などは私は惜しくはない。恋人に会わない日が多いままで年が経て行くので)現(うつつ)にも 今も見てしか 夢(いめ)のみに 手本(たもと)纏(ま)き寝(ぬ)と 見れば苦しも(― 現実に今妹に逢いたい、妹と寝ると夢にだけ見るのは苦しい)立ちて居(ゐ)て 為方(すべ)のたどきも 今は無し 妹に逢はずて 月の經ぬれば(― 立っても坐っても、何とも心持を落ち着けようがありません、妹に逢わないで月日が経ってしまったから)逢はずして 戀ひわたるとも 忘れめや いや日にけには 思ひ益(ま)すとも(― お逢いせずに恋しく思っていることはあっても、あなたを忘れることはありません。いよいよ日増しに恋しさは増しますけれども)外目(そとめ)にも 君が姿を 見てばこそ わが戀止(や)まめ 命死なずは(― よそながらでもあなたの姿を見たら、それでこそ私の恋の気持は鎮まるでしょうに、もしそれまでに恋の苦しさで命が絶えることがなければ)戀ひつつも 今日はあらめど 玉匣(たまくしげ) 明(あ)けなむ明日(あす)を いかに暮さむ(― 今日は恋しく思いながらもこのままいられるだろうが、明けての明日をどう暮らそうか)さ夜ふけて 妹(いも)を思ひて出(で) 敷栲(しきたへ)の 枕もそよに 嘆きつるかも(―夜更けて妹を思い出し、枕も動いて音を立てるほどにため息をついてしまった)人言(ひとごと)は まこと言痛(こちた)く なりぬとも 彼處(そこ)に障(さは)らむ われにあらなくに(― 人の噂はあれこれとうるさくなったけれども、そうなってもそれに妨げられる私ではありません)立ちて居(ゐ)て たどきも知らず わが心 天(あま)つ空なり 土は踏めども(― 立っても坐っても物に手がつかず、私の心は上の空です。足は土を踏んでいるのですが)世の中の 人の言葉と 思ほすな まことそ戀ひし 逢はぬ日を多み(― 世の月並みな言葉と思いくださるな、本当に恋しかったのです。お逢いしない日が多くて)いで如何(いか)に ここだく戀ふる 吾妹子(わぎもこ)が 逢はじと言へる こともあらなくに(― どうして私はこんなにひどく恋しいのか、吾妹子が、もう会わないと言ったわけでもないのに)ぬばたまの 夜を長みかも わが背子(せこ)が 夢(いめ)に夢にし 見えかへるらむ(― わが背子が幾度も幾度も夢に繰り返し現れるのは、夜が長いからであろうか)あらたまの 年の緒長く かく戀ひば まことわが命 全(また)からめやも(― 年月長くこう恋に苦しんでいたら、本当に私の命は危ういだろう)思ひ遣(や)る 爲方(すべ)のたどきも われは無し 逢はずてまねく 月の經ぬれば(― 心を慰める何の方法も私にはない、恋しい人に逢わずに多くの月が経過したので)朝(あした)去(ゆ)きて 夕(ゆうべ)は來ます 君ゆゑに ゆゆしくも吾(あ)は 嘆きつるかも(― 朝はお帰りになって、夕方にはおいでになるあなたですのに、ゆゆしくも私はため息をついてしまいました)聞きしより 物を思へば わが胸は 破(わ)れてくだけて 利心(とごころ)もなし(― 恋人の噂を耳にしてから、心配なので私の胸は割れて砕けて、確かな心もすっかり失せてしまった)人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 吾妹子(わぎもこ)に 去(い)にし月より いまだ逢はぬかも(― 人の噂があれこれとやかましいので、吾妹子に先月から一度も会っていない)うたがたも 言ひつつもあるか われならば 地(つち)には落(ふ)らず 空に消(け)なまし(― きっと、こう言っているのだなあ、私なら地に降りたりせずに空中で消えたでしょうに、と) 状況がよく分からにので、確実な解釈は困難である。如何(いか)ならむ 日の時にかも 吾妹子が 裳引(もびき)の姿 朝に日(け)に見む(― 何時になったら吾妹子の美しい裳を引いて歩く姿を、朝に昼に、見ることが出来るであろうか)獨り居て 戀ふれば苦し 玉襷(たまたすき) かけず忘れむ 事計(ことはかり)もが(― 独りいて恋しく思っているのは苦しい、心に懸けずに忘れてしまう方法がないだろうか)なかなかに 默然(もだ)もあらましを あづきなく 相見始(そ)めても われは戀ふるか(―いっそ何もしないでいれば良かった、逢いそめてしまって私はどうにもならず、恋の虜になっていることだなあ)吾妹子が 笑(ゑま)ひ眉引(まよひき) 面影に かかりてもとな 思ほゆるかも(― 吾妹子の笑顔と眉とが面影に立って、目の前にしきりにちらちらとして仕方がない)あかねさす 日の暮れぬれば 爲方(すべ)を無み 千遍(ちたび)嘆きて 戀つつそ居る(― 日が暮れていくと、するすべもないので、千遍も溜息をついてあなたを恋しく思いこがれています)わが戀は 夜晝(よるひる)別(わ)かず 百重なす 情(こころ)し思へば いたも爲方(すべ)なし(― 私の恋心は夜と昼の区別もなく、しきりに相手を思っているので、何ともするすべがない)いとのきて 薄き眉根(まよね)を いたづらに 掻(か)かしめつつも 逢はぬ人かも(― 特別に薄い眉をいたずらに掻かせておいて逢って下さらないあなたですね)戀ひ戀ひて 後も逢はむと慰(なぐさ)もる 心しなくては 生きてあらめやも(― 恋い続けていつかはお逢い出来ようと自ら慰める心がなかったら、どうして生きていることができましょうか)いくばくも 生(い)けらじ命を 戀ひつつそ われは息(いき)づく 人に知らえず(― この生命はいくらでも生きるものではないだろうに、恋に苦しみながら私は溜息をついている。その人に知らせずに)他國(ひとくに)に 結婚(よばひ)に行きて 大刀(たち)が緒も いまだ解かねば さ夜(よ)そ明けにける(― 遠い部落まで女に会いに行って大刀の緒もまだ解いていないのに、夜が明けてしまった)大夫(ますらを)の 聰(さと)き心も 今は無し 戀の奴(やつこ)に われは死ぬべし(― 大夫たる理性も今はない、恋の奴隷として私は死ぬに相違ない)常斯(か)くし 戀ふれば苦し 暫(しまし)くも 心やすめむ 事計(ことはかり)せよ(― いつもこうして恋しているのは苦しいから、しばらくの間でも心を安んじる方法を講じてください)おぼろかに われし思はば 人妻に ありとふ妹に 戀つつあらめや(― なまなかに私が思っているのなら、既に他人の妻である妹を、私は恋し続けているだろうか)心には 千重に百重に 思へれど 人目を多み 妹に逢はぬかも(― 心の中では千重にも百重にも思っているけれども、人目が多いので妹に逢わずに機会を待っているのです)人目多み 眼こそ忍ぶれ 少くも 心のうちに わが思はなくに(― 人目が多いので、お会いすることは控えておりますが、決して、心の中で少ししか思っていないのではありません)人の見て 言咎(こととが)めせぬ 夢(いめ)にわれ 今夜(こよひ)至らむ 屋戸(やど)閉(さ)すなゆめ(― 人が見ても咎め立てしない夢の中で、今夜あなたの家に行きましょう。必ず家の戸を閉めないでおいて下さい)いつまでに 生(い)かむ命そ おぼろかに 戀ひつつあらずは 死なむ勝(まさ)れり(― 何時まで生きる生命であろうか、なまなかに恋に苦しんでいないで、死んでしまう方がましだ)愛(うつく)しと 思ふ吾妹(わぎも)を 夢(いめ)に見て 起(お)きて探るに 無きがさぶしさ(― 可愛いと思う妹を夢に見て、目覚めて闇を探っても、誰もいないのが寂しい)妹と言はば 無禮(なめ)し恐(かしこ)し しかすがに 懸(か)けまく欲しき 言(こと)にあるかも(― あなたを妹と呼んでは無礼だし、勿体ない。しかし、その言葉は口に出して言いたい言葉ですね)たまかつま 逢はむといふは 誰(たれ)なるか 逢へる時さえ 面隠(おもかく)しする(― 逢いたいと言うのは誰なのですか、せっかく逢っている時までも顔を隠したりして)現(うつつ)にか 妹が來ませる 夢(いめ)にかも われか惑(まと)へる 戀の繁きに(― 現実に妹が来たのであろうか、それとも夢で私が戸惑ったのであろうか。あまりに恋心がしきりなので)大方は 何かも戀ひむ 言擧(ことあげ)せず 妹に寄り寝む 年は近きを(― 普通ならばどうして恋に苦しむことがあろう、あれこれ言わずに妹に寄り添って寝る年は近いのだから)二人して 結びし紐を 一人して われは解き見じ 直(ただ)に逢うまでは(― 二人で結んだ下紐を私は一人では解かないつもりです。あなたに直接に会うまでは)死なむ命 此(ここ)は思はじ ただしくも 妹に逢はざる 事をしそ思ふ(― きっと死ぬ命、このことは心にかけますまい、ただしかし、妹に逢わないことだけが心にかかっています)手弱女(たわやめ)は 同じ情(こころ)に 暫(しまし)くも 止(や)む時も無く 見てむとそ思ふ(― たおやかな女である私は、あなたと同じ気持で、しばらくも止む時もなく、あなたを見たいと思っています)夕さらば 君に逢はむと 思へこそ 日の暮るらくも 嬉しかりけり(― 夕方になったらあなたにお会いできると思うからこそ、日の暮れていくのが嬉しいのに)直(ただ)今日も 君には逢はめど 人言(ひとごと)を 繁み逢はずて 戀ひ渡るかも(― 今日すぐにでもあなたにお逢いしたいけれど、人の噂がうるさいのでお逢いせずに恋しく想い続けておりまする)世のなかに 戀繁けむと 思はねば 君が手本(たもと)を 纏(ま)かぬ夜もありき(― 恋心がこんなに激しいものとは知らなかったので、あなたの袂を枕にしない夜もあったのです)緑児(みどりこ)の 爲こそ乳母(おも)は 求むといへ 乳飲(ちの)めや君が 乳母求むらむ(― 幼児の為にこそ乳母を探し求めると言うけれど、あなたは乳を飲む筈もないのに、どうして乳母を探し求めるのでしょうか)
2024年07月24日
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第十九聯、あらゆる物を喰らい尽くす獰猛極まりない時間よ、その獅子の如き牙をすり減らしてしまえ、大地に彼自身の愛しい子供達を食らわせてしまえ、獰猛な虎の顎(あぎと)からその鋭い牙を抜き取ってしまえ。永遠の命を忝くする不死鳥を生きたままで焼いて料理してしまえ、俊足で駆け過ぎながら四季を楽しくも悲しくも変幻自在に変化させるがよかろう、足の速い時間よ、この広大な世界や様々な儚い美にすき放題に片端から手をつけてもよいが、ただ一つ注文があるだ。この世で最も忌まわしい罪悪だけは犯してはいけない、そう、この世で最も美しい、愛する者の涼やかな額にお前の忌まわしい醜悪な刻印を刻んではだめだ、その奇っ怪至極なペンで以て線を書き付けるなどはもってのほかだ。あの美青年だけは、後世の人々に残す美の規範だと考えてくれたまえよ、頼む。酷薄な時よ、お前が瞬時に過ぎ去る際にも手をつけないでおいてくれ。しかしながら、時よ、暴虐非道の暴君よ、私の声になど耳をかさないだろう、私にも考えがある、老いさらばえた醜い時よ、時間よ、お前がどのような勝手し放題を続けようとも、私は私の美の偶像を最後まで守り通して見せよう、わが恋人は、美の青年たる彼は私の詩の中では永遠に若さを保ち続けるのだよ、お前がどのような事を仕掛けようとも。 第二十聯、君の美しい顔は自然という女神が彼女自身で描き上げた美しい女の顔だが、私の詩的な情念を司る、男の恋人なのだよ、君は、確かに。女性の特性である優しい心根はあるが、不実な女どもの習いでもある軽薄な移り気などは、ついぞ預かり知らない。ああ、君の眼は太陽同様に明るく健康な光を放ち、女達などよりもずっと魅惑に満ちた光を投げかけ、見詰める相手を忽ちに金色に染めて魅惑してしまう、絶対にあちこちに不実で淫らな流し目などはくれたりしない。見た目の姿かたちはさながらに男なのだが、全ての美々しく香しい形を内側に蔵している。それ故に、その容貌が男達の眼を奪い、女達の魂を蕩(とろ)かし迷わせる、実際、君は最初は女神自身の似姿として女として創られた、しかし自然は君を創造している最中(さなか)に恋に落ちてしまい、余計な物をくっつけて、私から君を奪ってしまったのだ、私には零(ゼロ)でしかない一物をくっつけて。だが、自然という女神は女性としての楽しみの為に君を造ったので、私としての楽しみは君の愛情なのだよ、君、ああ、君、君、そして愛の実践と実習こそが女達の宝物となるのだよ。 詩人は、シェークスピアは美青年を独り占めになどするつもりはない、恋のライバルは美の女神のヴィーナスその人なのだ、現実に俗界の女性達との通常の結婚を最初から推奨してもいた。しかし、何たる奢り高ぶり、であろうか。人間の身でありながら、神を、女神を相手にしようとするなどとは……。彼は、自分を神の一族であると認定しているのである。彼が熾烈な情欲に身を焦がしていても、彼の詩想の中で表現され描かれる青年像は飽くまでも清浄であり天上の美に近い。清浄無垢な愛情の交換こそ、詩人の狙っている真の プラトニックラブ なのでありました。彼は、詩人は、彼の描く青年像こそ男女の生別を超越した真実の愛情の理想像であることをソネットを創作する以前に確信していた、私にはそうとしか思われない。 私はシェークスピアの戯曲を通じてその天才を窺い知り、ソネットの魅力を十分に理解したいものと様々に努力したけれども、隔靴掻痒どころか、二階から目薬を挿すかの如き歯がゆさで足踏みしていた時期がありました。今回も、不十分で、満足な成果を挙げられる見通しなどたってはいなかったのですが、兎に角、シェークスピアのソネットへのオマージュとして拙いながらも原文へのアプローチとして、意味だけではなくて、雰囲気だけでも嗅ぎ分けようと悪戦苦闘してみているわけですが、私としてはベストの消夏法とも考えて実行している次第です。どうぞ、応援していただけたら、これに勝る幸せはありません。 第二十一聯、私の流儀は世間一般でもてはやされている詩人達とは相違している、彼等のは実に醜悪で俗っぽい厚塗りの所謂「美人」をモデルにして絵を描いているし、大仰にも天空全体を文章の彩として使用しては、自己の鑽仰する俗悪な恋人を語るに際して、全世界にある美の数々を比喩として引き合いに出し、太陽と月、大地や海洋から採掘される宝石類や、四月の早咲きの花、更にはこの巨大な天球と言う空間が抱えているあらゆる珍奇な品々を用いては、ド派手な比喩を組み立てて、無理矢理にもこじつけて見せるのだからね。ああ、私に言わせれば、真実の愛を捧げて、書くときも真実のみを言わせてもらおうか。つまり、こうなるのだが、私の恋人たる美青年は夜空にかかる、あの黄金の星々ほどには明るく輝きはしないが、兎に角、どのような人にも負けない美しさは持っている、実態とかけ離れた誇張法が好きな者には自由に振舞わせるにしくはない、私は愛する恋人を故意に売り立てる意図はないので、有りもしない能書きも並べ立てたりはしない。 第二十二聯、花ざかりの青春が君と一体である限りは、私の見る自惚れ鏡がどう言おうとも、私は老人だとは思わない、しかし、君の顔にもしも時間が刻む無残な皺を見る時が到来したならば、私は観念するつもりではいる、死に神が私の一生に決着をつける時も近いと。即ち、君を衣装のように美しく包み込んでいる美麗さは、そのままで私の心、精神、魂を覆い込む見事な衣装そのものなのだ、何しろ美の精髄は君の胸に生々しく生きているのだからね、あたかも君の心が僕の心臓が、若々しく鼓動をし続ける胸の中で確実に生きているのだから、と言う事は、私だけが先に老いるなどという馬鹿な現象が起きるはずもないのだ。ああ、君よ、愛する、敬愛する恋人よ、よくよく自身の身体をいたわってやって呉れ給え、私自身も勿論、自分のためにではなくて心から愛する君の為にこそ十分に気をつけよう、私の心はしっかりと君の大切な心を抱いて離さないのだから渾身の力を以て、気をつけて世話をしようよ。優しく老練な乳母が大切にして預かっている乳飲み子を愛育するが如くに、君がもし、私を刺殺して君の心を取り戻そうとしたって手遅れなのだ、言うまでもないことだね、我々が愛をちぎった際に君の心の全部を余すところもなく全部を僕にくれてしまった以上は、返還する条件等は金輪際ないのだからね、君、君…。 此処で、恋人と互の心を交換するという表現は当時の詩的な慣習であり、詩人はそれに従って表現しているに過ぎないのだが、相手の青年が一時の激情に駆られて軽はずみな行為をしてしまったことを後悔して、刃傷沙汰を起こすのではないかと懸念する心根は、不安に常に苛まれている得恋者特有の心情を有りの侭に吐露しているだけで、極ありふれた心境である。私には身丈にあった得恋は素直に理解できても、神とも仰ぐ対象を無事に獲得し得た恋の一時的な勝利者の、その後での心の揺らめき動揺、不安、猜疑心などなど、地獄の如き心のざわめきは想像するだけで精神に異常を来たしそうで、実際にはそんな勇気も、敢闘精神も持ち得ない。恋の勝利者になどなりようもない事で、フィクションですら十分すぎるほどに衝撃が大きすぎる。 屁理屈を述べれば、私などは自分の心でさえ十分に理解できていないし、まして恋人の不可解な心理などとんと理解が及ばない、混乱に動揺を加えてノミの心臓に好んで大打撃を加えるなどという暴挙を敢えてする勇気などは持ち合わせていない。しかし、恋愛などという異常心理にはそれが特別に必要であり、そう言う道具立てがなくては成立しない特別な、精神世界なのでありましょう。私には生来、恋に恋する等といった小粋に見える世界は無縁の無粋ものでありまして、素敵だなとと感じた瞬間に本能的にその女性から距離を置こうとする傾向があって、前世ではさぞかし無謀なドン・キホーテ的な恋の冒険で大怪我をした無意識下の恐怖感がそうさせていたのか、最愛の妻悦子との出会いに至るまでに、それこそ大過なく過ごせたのは神仏のご加護の賜物と後から気づいては、遅まきながらも感謝しているような次第でして、大詩人のソネットの世界で擬似的に相思相愛の恋人を体験して、稀有な大恋愛を追体験するのもまた一興であろうと、例年にない酷暑の時期を比較的にしのぎやすく過ごそうと目論んでいて、目下のところそれが成功している感じなので、誠に有り難い事と心の中で感謝をしながらこのように拙い文章を綴っている次第なのでした。 扨、二十三聯ですが、こう始まる、素人丸出しの未熟な演技者が舞台上に出現すると、恐怖心に煽られてしまって自分の役柄をすっかり忘れてしまうものだ、熱しやすいヘボ役者がむやみやたらに興奮すると、勢いだけが先走ってしまい、気持が負けてしまう、私はそんなウブで舞台慣れしていない素人の役者そのものなので、自分に自信が持てないものだから、恋人を脳裏に思い浮かべると愛の儀式の口上を型どおりに述べたてるのを失念してしまう。自分の愛情の力という重圧に押しししがれて、自己の愛の重さに心が自然に萎えてしまうらしい、そうであるからこそ、わが創作する詩は自ずから語らんとする胸の内を、言葉巧みに伝える無言の使者であってほしい、そうすれば、より多くを巧みに言いなす多弁な舌よりも、更に見事に私の愛情を過不足なく訴え、愛の報いをもとめるだろうからね。さあ、君よ、私の沈黙の愛が書いたものを存分に読み取って呉れたまえ、耳ではなくて、目で聴くことこそ愛の世界が生んだ素晴らしい知恵なのだ。 第二十四聯、例えば私の眼が画家を演じて、君の素晴らしい容姿を我が画布の中に描くとしようか、私の肉体全体がこの傑作を枠組みとして支えている、この絵は特殊な遠近画法を使用したもので、史上最高の画家の手になる作品なのだ。君の真の肖像の真価を伺い知るには、この画家を通して彼の技法を知らなくてはいけない、このこの世の至宝とも称すべき絵は常に私の心の画房に掲げられており、その窓には君の眼と言うガラスが嵌っている、其処では目と目がどんなに互を支えあっているか、点検してもらいたい。私の目が君の姿を描き、君の目は私のために私の胸の明かり取りの窓となり、その窓を通して大空の太陽が楽しげに覗き込み、室内に居る君を見つめると言う次第なのさ。だが残念ながら目には芸術の芸を引き立てる肝心な技術が欠如している、と言う事は、見たものだけを描くだけで、対象の心が読めないのだよ。
2024年07月23日
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倭(やまと)の室原(むろふ)の 毛桃本(もと)繁(しげ)く 言ひてしものを 成らずは止(や)まじ(― 大和の室原の毛桃の幹の繁く立つように、繁く言葉をかけたのだから、きっと実がならずに終わることはないでしょう)眞葛(まくず)延(は)ふ 小野の淺茅(あさぢ)を 心ゆも 人引かめやも わが無(な)けなくに(― クズの這っている野の浅茅を人が引き抜くように、他人が心の底からあなたの気持を引いてしまうということがあるでしょうか)三島菅(みしますげ) いまだ苗なれ 時待たば 着ずやなりなむ 三島菅笠(すががさ)(― 三島の菅はまだ苗ですが、伸びるまで待っていたら、私が着ることができなくなるでしょうか。三島菅の笠を。あの子はまだ子供だが、成人するまで待っていたら、あの子を手に入れることが出来なくなるだろうか)み吉野(よしの)の 水隈(みぐま)が菅(すげ)を 編まなくに 刈りのみ刈りて 亂りてむとや(― 吉野の川の流れの曲がり入った所の菅を笠に編んだりしないのに、刈るだけ刈って、菅を乱そうというのでしょうか。私を妻としては下さらないのに私の気持だけをさらって、後は乱したままになさろうというのでしょうか)川上(かはかみ)に 洗ふ若菜の 流れ來て 妹(いも)があたりの 瀬にこそよらめ(― 川上で洗う若菜のように流れてきて、妹のいるあたりの瀬に流れ寄りたいのだけれど)斯(か)くしてや なほや守らむ 大荒木(おほあらき)の 浮田(うきた)の社(もり)の 標(しめ)にあらなくに(― こうして逢えないあの女をなお見守っていかなければならないのであろうか、私はあの大荒木の浮田の社の標でもないのに)幾多(いくばく)も 降らぬ雨ゆゑ わが背子(せこ)が 御名(みな)の幾許(ここだく) 瀧(たぎ)もとどろに(― たいして降りもしない雨だのに、私達はたいして逢いもしないのに、わが背子の評判はまるで激流がどうどうと流れていくように、大きく広まってしまった)わが背子(せこ)が 朝明(あさけ)の姿 よく見ずて 今日の間(あひだ)を 戀ひ暮らすかも(― わが背子が朝お帰りになる姿をよく見ずに、今日一日恋しく思い暮らしています)わが心 乏(とも)しみ思へば 新夜(あらたよ)の 一夜(ひとよ)もおちず 夢(いめ)に見えこそ(― お逢いできないで満ち足りずにいるのですから、どうか来る夜毎に、一晩も欠かさず夢に現れて下さい)愛(いつく)しみ わが思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手に巻かずして(― 可愛いと私が思う妹を抱くこともせずに、行きずりの人が見るように、見ていることが出来ようか。そんなことは出来ない)このころの 眠(い)の寝(ね)らえぬは 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 寝まく欲(ほ)れこそ(― この頃眠れないのは、あなたの手を枕にして寝たいからです)忘るやと 物語(ものがた)りして 心やり 過(す)ぐせど過ぎず なほ戀ひにけり(― 苦しい恋を忘れるかと人と物語をして気持を紛らわし、時を過ごそうとするけれども、恋の気持は消え去らず、一層恋しいことです)夜(よる)も寝(ね)ず 安くもあらず 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)も脱(ぬ)かじ 直(ただ)に逢うまでに(― 夜も眠れず心の安らぎもない。白栲の衣も脱ぐまい、直にお逢いするまでは)後も逢はむ 吾(わ)にな戀ひそと 妹は言へど 戀ふる間(あひだ)に 年は經(へ)につつ(― 後にでも逢いましょう、私への恋に苦しみなさいますなと妹は言うけれども、恋しく思っている間に年は経ってしまう)直(ただ)に逢はず あるは諾(うべ)なり 夢(いめ)にだに 何しか人の 言(こと)の繁けむ(― 直接逢わずにいるのは、もっともなことですが、せめてゆったりと逢いたいと思う夢の中でさえ、どうして人がうるさく噂するのでしょう)ぬばたまの その夢(いめ)にだに 見え繼ぐや 袖乾(ふ)る日無く われは戀ふるを(― せめてその夢にだけでも現れるでしょうか、涙で濡れる袖が乾く日もなく私は恋い慕っているのに)現(うつつ)には 直(ただ)には逢はぬ 夢(いめ)にだに 逢ふと見えこそ わが戀ふらくに((― 現実には直に逢えないけれど、せめて夢で逢えるように現れて下さい。私が恋に苦しむ時に)人に見ゆる 表(うへ)は結びて 人の見ぬ 裏紐(したひも)あけて 戀ふる日そ多き(― 人に見える表面の紐は結んで、人の見ない下紐はほどいて、あなたを恋しく思う日が多うございます)人言(ひとごと)の 繁(しげ)かる時は 吾妹子(わぎもこ)し 衣(きぬ)にありせば 下に着ましを(― 人の噂のあれこれとうるさい時は、吾妹子が衣であったら肌につけて人の目につかずに着ようものを)眞珠(またま)つく 遠(をち)をしかねて 思へこそ 一重衣(ひとへころも)を 一人着て寝(ぬ)れ(― 将来のことを考えるからこそ、今は辛抱して、一重衣を私は着て寝ているのに)白栲(しろたへ)の わが紐の緒の 絶えぬ間に 戀結びせむ 逢はむ日までに(― 白栲の私の下紐の緒が切れないうちに、それで恋結びをしよう、再び逢う日まで恋を結び止めておくために)新墾(にひばり)の 今作る路(みち) さやかにも 聞きてけるかも 妹が上のこと(― 新しく土地を切り開いて今作っている路がくっきりと見えるように、はっきりと妹の噂を聞いて心をときめかしたことである)山代(やましろ)の 石田(いはた)の社(もり)に 心おそく 手向(たむけ)したれや 妹に逢い難き(― 山代の石田の社に、気持を込めずに弊を奉ったからであろうか、妹に逢いたいと思っても逢えないことよ)菅(すが)の根の ねもごろに 照る日にも 乾(ひ)めやわが袖 妹に逢はずして(― すみずみまでも照る陽の光によってさえ、涙に濡れた袖は乾きはしない。妹に逢わずには)妹に戀ひ 寝(い)ねぬ朝(あした)に 吹く風は 妹にし觸(ふ)れば われさへに觸れ(― 妹を思って眠れなかった夜明けに吹く風よ、もし妹に触れてきたのなら、私にも触れておくれ)飛鳥川(あすかがは) 高川(たかかは)避(よ)かし 越え來しを まこと今夜(こよひ)は 明けずも行かぬか(― 飛鳥川の水かさが増しているので、それを避けて遠回りをして来たのだから、本当に今夜は夜が明けないでいないものかなあ)八釣川(やつりがは) 水底(みなそこ)絶えず 行く水の 續(つ)ぎてそ戀ふる この年頃(としころ)を(― 八釣川の水底を絶えることなく流れる水のように、いつもいつも恋しく思う、この幾年かを)磯の上に 生(お)ふる小松の 名を惜しみ 人に知られえず 戀ひ渡るかも(― お名前の傷つくことを惜しんで、人に知らせず恋しく想い続けています)山川(やまがは)の 水陰(みかげ)に生(お)ふる山菅(やますげ)の 止(や)まずも妹(いも)は思ほゆるかも(― 止むことがなく、妹の事が思われる)淺葉野(あさはの)に 立ち神(かむ)さぶる 菅(すが)の根の ねもころ誰(たれ)ゆゑ わが戀ひなくに(― 浅葉野に立ってものさびている菅の根のようにこまやかに、あなた以外の誰かに恋心を抱いたりは、私は致しませんのに)わが背子(せこ)を 今か今かと 待ち居(を)るに 夜の更けぬれば 嘆きつるかも(― わが背子が今見えるか今見えるかとお待ちしているうちに夜も更けてしまったので、嘆いております)玉くしろ 纏(ま)き寝(ぬ)る妹も あらばこそ 夜の長きも 嬉しかるべき(― 手を枕にして共に寝る妹がいてこそ、はじめて夜の長いのも嬉しいのでしょうが。妹がいないので嬉しくない)人妻に 言ふは誰(た)が言(こと) さ衣(ごろも)の この紐解(と)けと 言ふは誰が言(― 人妻である私にあれこれ言うのはどなたのお言葉、この紐を解けとあれこれ言うのはどなたのお言葉)斯(か)くばかり 戀ひむものそと 知らませば その夜は寛(ゆた)に あらましものを(― これほど恋しく思うものだと知っていたら、あの夜は、もっとゆっくりしているのだった)戀ひつつも 後も逢はむと 思へこそ 己(おの)が命を 長く欲(ほ)りすれ(― 今は恋に苦しんでいても後には逢えるだろうと思えばこそ、自分の命も長くあれと思うものを)今は吾(わ)は 死なむよ吾妹(わぎも) 逢はずして 思ひ渡れば 安けくもなし(― もう私は死にそうです、吾妹子よ。お逢いせずに思い続けていると、全く何の安らぎもありません)わが背子(せこ)が 來(こ)むと語りし 夜は過ぎぬ しゑやさらさら しこり來(こ)めやも(― わが背子が来ようと語った夜は過ぎてしまった、ああ、今更、間違っても訪ねては来ないでしょうね)人言(ひとこと)の 讒(よこ)すを聞きて 玉鉾(たまほこ)の 道にも逢はじと 言ひてし吾妹(― 人の枉げた噂を聞いて、道でさえ私に逢うまいと言った吾妹よ)逢はなくも 憂しと思うへば いや益(ま)しに 人言繁く 聞え來(く)るかも(― お見えがないので辛いと思っている折に、いよいよ何かとあなたについての人の噂が聞こえてくることです)里人も 語り繼ぐがね よしゑやし 戀ひても死なむ 誰(た)が名ならめや(― 里人も語り継ぐでしょうが、ええままよ、焦がれ死に死んでしまいましょう。もし私の評判が立っても構いません、大切なのはあなたの評判だけなのですから)たしかなる 使を無みと 情(こころ)をそ 使に遣(や)りし 夢(いめ)に見えきや(― 確かな使いがいないからと私の気持を使としてそちらへやりました。それがあなたの夢に見えたでしょうか)天地(あめつち)に 少し至らぬ 大夫(ますらを)と 思ひしわれや 雄心も無き(― 天地の広大さには少しだけ及ばないほどの大夫と思っていた私も、今は男らしい強い心もないことだ)
2024年07月20日
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第十聯です、君よ、恥を知り給え、恥を。青年貴族として、恥を知っていると言うのなら、君が君以外の誰かを熱愛しているなどと出鱈目を言うのはよしたまえよ、事実でない言葉を潔く撤回するべきなのだ、自分自身に対してさえこんなにも向う見ずで破廉恥な君よ。周囲の誰彼となくみんなから愛されているのだと主張したければ、最後までそう言い張ればいいさ、しかし私は明言しておこう、君と言う非情で極め付きのエゴイストのナルキッサスは自己以外のだれも愛していないのは明々白々なのだよ、君は何か凄まじい憎悪と怨念に取り付かれてでもいるいるかのごとくに、誰もかつて試みたことのない残虐非道な謀反を自分自身に企んでいる始末。その本当に華麗で美々しい肉体と言う家屋を破壊し尽くそうと実行中なのだ、本来なら、その肉体に対して手入れをし更なる完成を目論まなくてはいけない筈なのにだよ。ああ、ああ、君よ、壮麗なる肉体美とそれにふさわしい内実とを兼ね備えた見事な造形の極みよ、どうかお願いだから、その蕪雑な不似合いな態度を改めてはくれないだろうか、どうだろう、私も自らの態度を改もしよう、どうかお願いなのだよ、優しく優美な愛情でなくて、醜悪な憎悪が美しい肉体に宿ってよいわけがないのだ、君は生来の外見通りのこの上もなく優しく、温和で、誠実な魂で、精神で、心でいてほしい、それが無理だと言うのなら、せめては自分自身に対しては素直で、親切な優しさを示して欲しいのだよ、君、君、ああ、君、本当に私を心から尊敬して敬ってくれているのなら、どうかお願いなのだ、もうひとりの君を作るように努力して呉れ給え、君の子供達や君自身の中でその輝かしい美が何時までも生き続けて、光彩を放ち続けるように、お願いなのだよ。 これは美の女神ヴィーナス以上の素晴らしい対象に最大級の賛辞を捧げているわけで、決して誇張なのではない、美辞麗句をいくら連ねたところで人類史上に類例をみない造化の極みの人間美に言葉の錬金術師である詩人が自己の言葉の貧弱さに嘆く暇もあらばこそ、言外に対象の青年の言語を絶した素晴らしさをほのめかすことで、そのトータルな美の高みを示唆して見せてくれている。現実には、誰にもそのように見えているわけではなくて、詩人にだけは誰にも見通すことが出来ないこの世ならぬ真実の美を見極めて、表現しようと言語の、ボキャブラリーの限界まで行き尽くしてしまっている。その只ならない様相が、言外ににじみ出てきている有様を、私は辛うじて読み取ることで、シェークスピアの天才を改めて仰ぎ見る思いなのです。 次は第十一聯、青年よ、君は、老いさらばえるのと同じ速度で成長を遂げている、君が頒ち与えるであろう種から、君の子供を儲けてね。そして若い時に与えた若々しい新鮮な血を、青春から決然と決別する際に我が子と呼びうるのです。そうなってこそ、智慧と美と、子孫とが本当の意味で生きるのだ、そうしなければ、愚かしい行為と老齢と、冷たい破滅しかないのだ。この世の人々がその気になってしまえば、人類は死に絶えてしまうだろう、六十年もしないうちに全世界は滅んでしまうに相違ない。自然造化が繁殖用に作ったのではない者達、おぞましく、醜悪で、粗野そのものの奴らなどは勝手に死なせてしまえばよい。自然と言う造化の匠は最上の資質を授けた者に同時に強壮この上ない力も与えるものだ。だからこそ、青年よ、君は、君こそはその持てる豊かな力を惜しみなく他に与え、恵み、育てなくてはいけないのだよ。神が、自然が君をして 刻印用 に作ったのは沢山の複製が欲しかったからだ、原型のままで死なせる為ではないのだ。此処で詩人が口を極めて美をたたえ、醜悪を唾棄する言辞を弄しているのは、己の恋の成就を願うあまりの勇み足的な表現だった。極めて限定的な文脈の中での表現ですから、シェークスピアは人間を差別的に見て、美的な人をよしとして、逆に醜悪な人を排除しようというような人間観を固定的に持っているわけではないのです、念の為に彼の代わりに言い訳をしておきます。 それで第十二聯です、時を告げる時計の音をひとつひとつ数え、輝かしく勇壮な太陽が醜くて暗い闇の中に没する時に、我々は盛りを過ぎた菫の花を眺め、その黒い巻き毛がすべて白銀で覆われるのを見るとき、かつては家畜の群れを暑熱から遮り守ってやった大樹が、哀れにも緑の葉を剥ぎ取られて裸になってしまうのを見る時に、夏に収穫された大麦が各所で束ねられて、紐で括られ、白い剛いヒゲを晒して手押し車で運ばれて行く。そんな風景を眺めながら私は君の事を脳裏に思い描くのだ、そしてこんな風に考える、君も時という非情な荒廃をもたらす魔手を逃れる事はできない、優しいもの、美しいものも時と共にやがては衰退して、他の美が代わって峙つのを横目に見ながら、同じ速さで死に向かうのだ、と。無情の時の神が君をこの世からひっさらって駆け去るときに彼の魔の大釜を防ぎ、立ち向かうのは子孫しかいないのだ、と。 そして第十三聯です、ああ、君よ、君、君が今のままでいられたなら、どんなによいだろうか、だが、愛する者よ、君に向かって当たり前の理屈を説き聞かせて何になろうか、この世で束の間の儚い生を終えれば、君は私の愛する、また周囲の誰もが無条件で信奉する素晴らしい君ではなくなってしまうのだ、ああ、君はかけがえのない君自身を永遠に失うのだ、ああ、君よ、君は程なく訪れるこの終焉に備えて、その美を誰かに頒ち与えておくべきなのだ、絶対に、そうすれば、そうするだけで、今は期限付きで借りているその美しさを期限なしで、何時までも手中にしておくことが可能なのだ。君の美しい子供達がその美質を継承すれば、君は死後でさえ今のままの君でいられるのだからね。こんなにも壮麗な建築物を朽ちるのに任せる莫迦がいようか、一家の主としてしっかりと経営すれば、冬の厳しい日に激しい嵐が吹きすさんでも、死の神という恐ろしい魔性の物の怪が永遠の寒気を送り込んで猛威を振るおうとも、万物を非情に枯らせてしまっても、この家は立派に維持管理していくことが出来るというのに。ああ、愛する者よ、現にいるのは無邪気な浪費家だけだ、君には、父親がいたのだから、息子にもそう言わせておあげなさいよ。 次は第十四聯ですが、私は星を見て吉凶を判断する占星術師の真似はしない、それでも私は一応、占星術の心得はあるのです、ただしそれは、吉兆や凶兆を告げるとか、疫病や飢饉、季節の塩梅を予言するものではない、又、一分刻みに運勢を占い、何時何分には雷が鳴り、雨が降り、風が吹くのを言い当てるのは不得手だし、しばしば天に現れる予兆を見て、国王の運勢はつつがなし、などと言うことも出来ない。ただ出来ることはと言えば、青年よ、君の眼を見て運勢を占うだけなのだ、私は君の両目と言う二つの恒星にこんな予言を読み取るのだよ、つまり、君が今の意固地な態度を捨てて子孫の繁栄を思うのであれば、真実と美とは共に栄えるであろうと言うこと、そうしないのなら君についてはこう予言しておこう、君の死は真実と美の破滅であり、終焉である、と。 第十六聯、所で、君は何故更に有効な手段を用いて、時間という最も残虐な暴君と矛を交え、私の不毛で拙い詩歌などよりももっともっと気のきいたやり方で、無様な衰退に向かうに相違ない自分の身を守ろうとはしないのだろうか、これは私が解せないだけではなくて君の周囲の誰もが不審に感じている所だ、何度も言うが、君は幸福この上もない日々の頂点に立っている、それは紛れようもない事実なのだが、君の周辺にはまだ種を蒔かれていない多くの処女の庭園が、君の血の通う美しい花を咲かせたいものと、慎ましく願っているのだよ。天才の描く君の肖像画などよりもずっと君に似ている活きた花をだ、彼女と結婚すれば子供等という血の通った肖像が君の生命を蘇らせてくれるだろうに、当代切っての画筆とか、私の拙いペンなどは、内面の豊富な価値にしろ、外見の豊饒な美にしろ、到底、生きてあるがままの君の真実の姿を人の目に伝えることが出来はしない。早く結婚して、相手に君自身を与えるのが、その麗しの真実を永遠に保つ秘訣であり、最上の道なのだからね。君は、自分の技で自己を描いて、生きねばいけないのだよ、君…。詩人は、シェークスピアは謙遜しているのではない、結婚による聖なる生殖以外では青年の現に生きてある美のあり方を後世に伝える術はないので、それを有りの侭に表現しているわけで、人工的な表現の極致は造化の神の自然な営みには遠く及ばない事を、熟知しているだけなのであります。 第十八聯に進みましょう、君を我々にとって最も望ましい夏の一日に比べてみようか、勿論、君はイギリスの夏よりももっと美しく、もっと穏やかで好ましいのだが、五月の季節が愛おしむ花のいじらしい蕾を時に荒々しい風が揺さぶり、夏という短期契約の期待する時期はあっという間に過ぎ去ってしまう、天空の日輪も時には灼熱の眩しすぎる光を放つけれどの、その黄金の顔ばせが邪魔な雲に隠れる事だって珍しくはないのだ。全ての美しいものはやがて、美を失って朽ちてしまう、偶然や自然の推移が美しい飾りを無残にも剥ぎ取ってしまう。しかし、君が古来から詩人達が誇らかに自賛している 不滅の詩 の詩歌の中で時と合体するならば、君と言う永遠の素晴らしい夏は移ろったり、消滅したりはしないのだ。今、君が手にしているその誇らしい美しさを失うことはない。醜悪な死に神が、奴は俺様の影を踏んで歩いているのだ、などとうそぶくこともないのだよ、人が息をして、眼が物を見得る限りは、私のこの詩は生きつづけるのだ、敢えて言おう、永遠に。更にはこの詩が君に貴重な命を与え続けるのだよ。 シェークスピアはとうとう本音を漏らした。彼は本当は絶対的な自信を己の表現に抱いていた。結婚による子供だって、俯瞰すれば、ほんの束の間の出来事にしか過ぎない。詩は、文章表現は永遠不滅なんだ、彼は古代ギリシャ以来の詩人達の伝統を受けて、そう高らかに宣言する。詩人は神にも等しい存在なのだが、それはその素晴らしく美しい作品によって担保される。
2024年07月19日
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今度は第五聯です、誰しもが注視している君の容貌と姿形を繊細にして超絶した技で作り上げた時間と言う名の匠は、同じ超絶技巧を駆使して同じ対象に暴虐非道の振る舞いに及び、至宝と称すべき逸物を容赦なく木っ端微塵に粉砕してしまう。挙句に、休むことを知らない時間と言う業師は酷暑の夏を誘って極寒の死の冬へと追い込み、死滅させてしまう。樹液は苛烈な霜に凍りつき、瑞々しかった緑の葉も全部落としてしまう、美しい物はすべて雪に覆われ、見渡す限り地獄の様相を呈するに至る、その時までに真夏の美しく芳しい花から蒸留した香水を獲得しておかなければ、言ってみればガラスの瓶の中に液体の囚人を多数留めておかないと、美が作り成す物も美そのものも、全てが略奪され尽くしてしまうわけなのだよ、実のところ、その後では荒涼とした無味乾燥な風景だけが剥き出しにされ、美的な要素はかけらさえ残されはしないのだ。しかし、そうなる前に花を蒸留しておけば、仮に冬に直面しても失うのは表面の物だけで、実態は永遠に美々しく芳(かぐわ)しく生き続ける事が可能なのだ。こんな理屈を私が今更に口を酸っぱくして述べるのも野暮なのだがね。 そして第六聯は、冬というざらざらとした無骨な手が君の馥郁として緑豊かな夏を醜く変形させてしまう前に、御自分の美を蒸留してしまうのです、何処かにあるガラスの瓶に香しい馥郁たる香水を注入しておやりなさいな、デリケートな美の形質が腐らないうちに、どのような手段であっても取り敢えず美質を仕込んでおくのが賢いのですよ。高額な利息をせしめても、支払い人の女性が喜び幸福を感じるなら、そのような高利の商売は神も国も禁じてはいないのですよ。つまりは君一人の為になるだけではなくて、公共の福利に裨益することは間違いのないところなのです、私の言わんとすることは明々白々、もうひとり君を増やすことを奨めているのです、真心を込めて当然過ぎる行為を、男子たるものの本分を果たすべきと理の当然の理屈にもならない道理を懇切に諭しているわけなのですね。この商売で、阿漕にも十倍の利益を獲得したとしたとしても君は誰からも責められたりはせずに、逆に称賛される筈のことなのですね。十倍の利息とは十倍の幸せを意味するだけ、仮に君に子供が十人できて君の姿を十倍に増やすなら、君は今よりも十倍は幸福になる、間違いなく。そうであれば、たとえ死ぬ時が来たとしても死神には何も出来ない道理さ、何故って、君は子孫の中に貴重な遺産を全部残しているのだから、泰然自若としていられるではないか。どうか莫迦な意地を張るのはよして、周囲の常識的な忠言に素直に従うのです。いずれにしても君は余りにも美し過ぎるので、死の獲物にしてしまうのは、蛆虫を後継にするのは惜しい。 続いて、第七聯ですが、見てごらんなさいな、東の空に壮麗偉大なる日輪が赤々と燃える頭をもたげると、下界に住まうひとりひとりの眼が、今日また新しく姿を現したその偉容に敬意を払い、神聖この上ない天の王者にじっと視線を向けて、礼儀を尽くすのです。更には、峻険な丘陵を上り詰めて、中年期に達した時にもなお、屈強な若者の面影を失わぬ勇姿を見れば、下界の俗世に住む人々の眼差しはやはりその美しさを讃美して、黄金の光を放つ旅の姿を見守るのですが、然るに、天空の頂上を経て疲労した手で火の車を操作して弱々しい老人の如くに、眩い昼の世界からよろめくように降りてくると、それまでは恭しげであったのが人々は老いさらばえた王者の惨めな姿から目をそらし、そっぽを向いてしまう。君だって同じことさ、絶頂の昼の時期を過ぎてしまえば結婚して子供を持たぬ限りは、見とる人もなく哀れに死ぬ事になる定めなのだよ。光、太陽、息子、キリストなどの連想の中で若者は神たるキリストに準えられて崇高な尊崇の対象として祭り上げられる。年配者の詩人はこの明眸皓歯の美青年を最高級に賛美してやまないのだ。しかし情欲のほとばしりは隠しようもなく、女性との結婚の勧めは、自分を恋愛の相手にしても構わないとの暗黙の了解を前提ともしている。清濁併せ呑む現実主義者でありながら、同時に無類の理想主義者でもある詩人。シェークスピアの面目躍如たるものを感じさせてあまりあるものがある。彼は、醜いは美しい、正しいは悪である、と喝破している稀に見る合理精神の権化のような極めて醒めた、物事の裏面まで見透してしまう情熱家だったことを忘れないようにしよう。その彼が自己の性欲を表面にこそ出さないが美青年を間接的に口説き自分の愛人に仕立て上げようとラブレターの代わりにモノしているのがこのソネットなのだ。これは写し書きされて友人知人の間に読み継がれて忽ち評判となった。まるで紫式部の源氏物語が宮廷サロンでたちまちにして大評判になり大勢の読者に読まれた現象に酷似している。 第八聯です、聴くに心地よい音楽を、若者よ、君は何故にそのように憂い顔で聞くのであろうか、甘美さは元来が甘美とは争わぬもの、歓楽はおしなべて歓楽を飲み尽くしてやまないもの、訊ねようか、そもそも心の底から楽しめない対象を君は何ゆえに熱愛するのでしょうか。そしてまた何ゆえに君は厭わしい物を欣快のごとくに自身に承知させるのでしょう。結びつき、睦みあい、絶妙な階調を調べる完璧この上ない協和音が君の耳には不快と響くならば、その音達は妙なるトレモロを伴いながら君を叱っているのだろう、君は例外的に一人だけで自分が演じなければならない重要な役柄を無視して顧みないのだからね。一つの弦がもう一つの弦の優しい夫となりお互いに調和しながら各自が玄妙な音階を奏で合う様子を見てごらんなさい。それはさながら幸福この上ない家族のようだ、父親と子供と、幸せこの上ない母親が期せずして一体融合して、見事なひとつの調べを歌い上げているようではないか。多くの響きでありながらも渾然一体となり一つにしか聞こえない、この無言の歌が君に告げるのだよ、独り身は零に帰してしまうのだ、と。成人した者は異性と結婚して子供を産み、家族を構成してこそ意味を持つ。単身でいるのは神の摂理に反する行為である。背徳的な存在なのだ。このごくごく平凡にしてまっとうな主張を年配の男は青年に力説して倦まない。何故か、彼を熱愛しているから。愛が結婚を促すのは男女間の自然な姿であるが、これは同性間の関係性の中で主張されている。青年はあたかも光源氏ででもあるかのように、全てにおいて優秀な美質だけの完璧な若者なのだ。音楽はもとより、全ての教養において欠ける点もなく、異性には勿論、同性からも全面的に讃美される。一点の非の打ち所もない。彼は当然に物質的にも非常に恵まれている、現在の生活にも、将来の展望においても悲観する要素など欠片もないのだ。この点は、私が殊更に持ち出している光源氏と同様でありながら決定的に相違している所だ。源氏は世界中で一番恵まれていながら、人類史上で稀にみる不幸な人間だった。このソネットで描かれる若者は一点の翳りをも見せない。ただ、詩人が、年配者が人間であれば免れない運命的な「不幸の可能性」を指摘しているだけなのだ。彼は成人に達して性欲の捌け口を自慰行為と同性愛に耽ることで解決している模様なのだが、異性との肉体的な接触にしても、その気になりさえすれば売春婦であれ、身近な例えば小間使との接触で容易に得られるのであるから、何の不便も感じないで済むわけである。結婚などは煩わしいだけで何らの便宜ももたらさない、そう自然に考えてもむしろ当然であろう。シェークスピアの強引な説得は初めから無理筋なのであって、この世間智や人間知に長けた人物が忘れている筈もないない事。むしろ、美青年に向けた己の熾烈極まりない性欲の為に一時的に盲目になっている醜い自己を強調する手段として利用しているのでありましょう。彼は己の性欲の強さに戸惑っているように見せて、冷静沈着なのだ。劇の作者も人生上では一個のヘボ役者であることを百も承知なのだ。人生を生きる上では人間知などは糞の役にも立たないことを弁えている。そこが逆に面白い。ソネットを書く動因であり、周囲の友人知己がこのソネットに異常な関心を示した要因でもあろうか。 さてさて、第九聯です、年配者はなおも青年を説き伏せようと力説する、君が独身を通して一生を終えようと図るのは、君の将来の妻を未亡人にして泣かせるのが怖いからなのだろうか、ああ、ああ、君がもしも子供を作らずに死んでしまうならば、世間中が夫に死なれた妻のように嘆き悲しむに相違ないよ。世間が君の未亡人になり、君がその類まれな美質を引き継いだ似姿を後に残してくれなかったと言って、泣き暮すことになるだろう。世間にありふれた未亡人ならば夫が残してくれた子供の目を見て、在りし日の夫の姿を偲ぶことが可能なのにね。いいかい、よく聞き給えよ、世に言う金銭の浪費家が現世でいくら浪費したとしても、金は所有者を換えるだけで人々はいつでもその金を使うことができる。しかし人間に備わった美はわけが違う、浪費された美質は完全にこの世から消えてしまうのだ。また、美を使わずに取っておいてもやはり世間は美を滅して喪失してしまうのだ。自分自身に対してこんな恥知らずの殺人を犯す人間が、他人を優しく愛する気持など心に持っているわけがないのだよ、君、そうじゃないかね。 私、古屋克征の場合には、自分の子供をこの世に残すというか、この世に呼び出すことに関して躊躇する気持が強かった。生まれてしまったので死にきれずにこの世に留まり、神のご加護でよき配偶者に恵まれたのではありましたが、十分に満足してはいたとは言え、この世は八苦の娑婆であります、生まれる前から可愛いに間違いないない我が子を、わざわざ呼び出さなくてもよいのではないか、正直、そんな気持でいましたので、そのまま妻に伝えたのですが、妻は悦子は、直ぐには私の考えを理解できなかったようです。そう言われてみれば、成る程、そうかも知れませんが今幸せなのですから、子供だって幸せにならないはずもなく、云々かんぬん、結局彼女に押し切られる形で男の子を二人儲けたわけですが、成人してから息子に尋ねたところ、生まれてきて「本当によかった」と笑顔で答えられた時には本当にほっとしたものです。
2024年07月17日
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水潜(くく)る 玉にまじれる 磯貝の 片戀のみに 年は經につつ(― 水の底の玉に混じっている一枚貝の磯貝ように、片恋のみしているうちに年は経っていく)住吉(すみのえ)の 磯に寄るとふ うつせ貝(かひ) 實なき言(こと)以(も)ち われ戀ひめやも(― あなたの実のない、真実のない言葉によって、あなたを恋したりは致しません)伊勢の白水郎(あま)の 朝(あさ)な夕(ゆう)なに 潜(かづ)くとふ 鰒(あはび)の貝の 片思(かたもひ)にして(― 私の恋は伊勢の海人が朝夕に水に潜って取るというアワビの一枚貝のように片思いなのです)人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉(うづら)鳴く 人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ(― 人の噂が喧しいからとて、あなたを鶉の鳴くような人目に立たない古びた家でお逢いしてお帰ししました)暁(あかとき)と 鶏(かけ)は鳴くなり よしゑやし 獨り寝(ぬ)る夜は 明けば明けぬとも(― もう暁だと鶏は鳴くのが聞こえる。君は来まさず、私一人寝る夜は、ええ、明けるなら明けようとも構わない)大海(おほうみ)の 荒磯(ありそ)の渚鳥(すどり) 朝な朝な 見まく欲(ほ)しきを 見えぬ君かも(― 大海の荒磯の渚の鳥を毎朝見るように、朝な朝なお顔を見たいと思うのに、お出でにならないわが君ですこと)思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を(― 恋しいあなたのことを思っていたけれども、心が乱れて、じっと思い続けていることが出来ませんでした、長い、長いこの一晩中) 或る本の歌=あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長長(ながなが)し夜を獨りかも寝む(― 山鳥の尾の、しだり尾の様に長い、長い夜を一人で寝るのであろうか)里中に 鳴くなる鶏(かけ)の 呼び立てて いたくは鳴かぬ 隠妻(こもりづま)はも(― 里の中で鳴く鶏のように声を立ててひどくは泣かず、こらえている愛しい隠妻、ああ)高山に たかべさ渡り 高高(たかたか)に わが待つ君を 待ち出(で)てむかも(― 高山にコガモ・我が国にいる鴨類のうちで最小のもの、猟鳥として知られている、背中に模様がある が渡って高々と飛ぶように、高々と背伸びをしてあなたをお待ちしていると、現れてくださるでしょうか)伊勢の海ゆ 鳴き來(く)る鶴(たづ)の 音(おと)どろも 君が聞(きこ)さば われ戀ひめやも(― 伊勢の海から鳴いて飛んで来る鶴の鳴き立てる声のように、はっきりしたお声をあなたが聞かせて下さるなら、私は何で恋しく思うことがありましょうか)吾妹子(わぎもこ)に 戀ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮寝(うきね)の 安けくもなき(― 吾妹子を思い慕っているからであろうか、沖に住む鴨の浮寝の落ち着かないように、私は安らかな思いがしない)明けぬべく 千鳥數(しば)鳴く 白栲(しろたへ)の 君が手枕(たまくら) いまだ飽(あ)かなくに(― 夜が明けてしまいそうだと千鳥がしきりに鳴いている。わが君の手枕にまだ、すっかり満足したというわけでもないのに) ( これからは問答体の形式で、二首でひと組である )眉根(まよね)掻き 鼻(はな)ひ紐解け 待てりやも 何時(いつ)かも見むと 戀ひ來(こ)しわれを(― 眉を掻き、くしゃみをし、紐も解けて待っていましたか、何時逢えるかしら、早く逢いたいと恋しくて来た私を)今日なれば 鼻(はな)ひ鼻(はな)ひし 眉痒(かゆ)み 思ひしことは 君にしありけり(― くしゃみをしたり、眉が痒かったのは今日になってみると、あなたのせいだったと分かりました)音のみを 聞きてや戀ひむ 眞澄鏡(まそかがみ) 直目(ただめ)に逢ひて 戀ひまくもいたく(― 評判だけを聞いて恋しく思うでしょうか、それなのに私はこんなにも恋しい。だから、直接逢えばひどく恋しく思うことでしょう)この言(こと)を 聞かむとならし 眞澄鏡 照れる月夜(つくよ)も 闇のみに見つ(― あなたのこの嬉しい明るいお言葉を聞きたいというわけでしょうか、夜空に皓々と照る月さえ闇と見えたのです)吾妹子(わぎもこ)に 戀ひて為方(すべ)なみ 白栲(しろたへ)の 袖反(かへ)ししは 夢(いめ)に見えきや(― 吾妹子が恋しくて仕方がないので、袖を折り返して寝たのは夢に見えたでしょうか)わが背子(せこ)が 袖反す夜の 夢ならし まことも君に 逢へりし如し(― わが背子が袖を折り返してお寝になった夜の夢でしょう。真実にあなたにお逢いしたように思われました)わが戀は 慰めかねつ ま日(け)長く 夢(いめ)に見えずて 年の經ぬれば(― 私の恋は慰め鎮めることが出来ません。ずーっとあなたが夢に見えずに長く年を経ましたから)ま日(け)長く 夢にも見えず 絶えぬとも わが片戀は 止(や)む時もあらじ(― ずっと長らく夢にも見えず絶えてしまっても、私の片思いは止む時もありますまい)うらぶれて 物な思ほし 天雲(あまくも)の たゆたふ心 わが思はなくに(― 憂いしおれて物思いなどなさいますな、私は断じて揺らいだ気持など持ってはおりませんので)うらぶれて 物は思はじ 水無瀬川(みなせがは) ありても水は ゆくといふものを(― 私はうらぶれて物思いなど致しますまい。水無瀬川にも時が経てば水が流れると言うことですからね)杜若(かきつばた) 咲く沼(ぬ)の菅(すげ)を 笠に縫ひ 着む日を待つに 年そ經にける(―カキツバタが咲く沼の菅を笠に縫ってかぶる日を待っているうちに、年が経ってしまった。結婚できないで徒らに年月が経過してしまったよ)おし照(て)る 難波菅笠(なにはすがかさ) 置き古(ふる)し 後は誰(た)が着む 笠ならなくに(― 置き古したならば、後で誰かがかぶるような、そんな菅笠では私はないのです)斯(か)くだにも 妹(いも)を待ちなむ さ夜更(ふ)けて 出で來(こ)し月の 傾(かたぶ)くまでに(― せめてこうしてでも妹を待ちましょう、夜更けてやっとさし登ってきた月が傾くまでも)木の間(ま)より 移ろふ月の 影を惜しみ 徘徊(たちもとほ)るに さ夜更けにける(― 木の間を移っていく月が惜しくって歩き回っているうちに、気が付くと夜が更けていたのでした)栲領巾(たくひれ)の 白濱波の 寄りも肯(あ)へず 荒(あら)ぶる妹に 戀ひつつそ居(を)る(― 近寄ることもできない程に私を疎んじている妹を、恋しく思っています)かへらまに 君こそわれに 栲領巾の 白濱波の 寄る時も無き(― 何を仰言いますか、逆にあなたこそ私にちっとも近寄って来る時もないではありませんか)思ふ人 來(こ)むと知りせば 八重葎(やへむぐら) おほへる庭に 珠敷(し)かましを(― あなたさまがおいでにならろうと知ってしましたならば、八重葎の茂った庭に玉を敷きましたものを)玉敷ける 家を何せむ 八重葎 おほへる小屋(をや)も 妹とし居(を)らば(― 玉を敷いた家も何にしよう、八重葎の覆い繁った小屋でも、妹といれば何もいらない)斯(か)くしつつ あり慰めて 玉の緒の 絶えて別れば 為方(すべ)なかるべし(― こうしていつも自分の心を慰めていますが、あなたと絶えて別れてしまったならばどうしようもないでしょう)紅(くれなゐ)の 花にしあらば 衣手(ころもで)に 染めつけ持ちて 行くべく思ほゆ(― もしあなたが紅の花であったなら袖に染付けて持って行きたく思われます)紅(くれなゐ)の 濃染(こそめ)の衣(きぬ)を 下に着ば 人の見らくに にほい出でむかも(― 紅の濃染の衣を下に着たならば人が見た時に、色が表に透けてほのかに見えるだろうか。美しいあの人・女に逢ったならば隠してもやがて人に知られてしまうだろうか)衣(ころも)しも 多くあらなむ 取り易(か)へて 着なばや君が 面(おも)忘れてあらむ(― 衣だけは沢山欲しいもので、取り替えて着たならば、気がまぎれてあなたの顔を忘れていられるでしょうか)梓弓(あづさゆみ) 弓束(ゆつか)巻きかへ 中見さし 更に引くとも 君がまにまに(― 梓弓の弓束を巻きかえ中途で引くことを止めて、更に引くように、一旦中途で絶えながら、改めて私の心を引いたりなさっても、それでも私はあなたの思いのままにいたします)みさご居(ゐ)る 渚(す)に坐(ゐ)る船の 夕潮を 待つらむよりは われこそ益(まさ)れ(― ミサゴのいる渚に擱坐・カクザ、浅瀬に乗り上げる している船は夕潮がさして来るのを今頃は待っているのだろう、その待ち遠しさよりも一層切実にあなたをお待ちしておりますのに)山川(やまがは)に 筌(うへ)をして 伏(ふ)せて守(も)りあへず 年の八歳(やとせ)を わが竊(ぬす)まひし(― 山川に筌・魚を捕らえる竹であんだ筒、流れに仕掛けて魚がその中に入るのを捕らえる を伏せておいても番をしきれないで、私は八年もの間、ひそかに娘と逢っていた)葦鴨(あしがも)の 多集(すだ)く池水 溢(あふ)るとも 儲溝(まけみぞ)の方(へ)に われ越えめやも(― 葦鴨が多く集まって騒いでいる池の水が溢れると、かねて用意の溝の方に流れていくけれども、私はそのようには別の人に心を移したりはしないつもりです)
2024年07月16日
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中世のイタリアに発するソネット(十四行詩)の詩法で書かれた甘美豊麗な詩篇。154篇から成り英国文学中で最高のソネット文学と評されるものですが、私は例によって原文への橋渡し役を務めるわけですが、今回はそれ以前に、私自身が原作を骨の髄まで味わい尽くしてみたい欲求に駆られて専門家が様々な翻訳を試みておられることを承知で、無謀にも兎に角トライしてみようとのお遊びでもあるわけです。上手く遊べるかどうかはともかくも、私は乗りかかった船ですので、存分にエンジョイしてみたいと考えています。その結果で、原詩に直接当たってみようと思われるお方が一人でも出たならば、それに過ぎる幸福はありません。 最も麗しい人から、それが男であれ女であれ、子孫が増大し、繁栄することを我々は望むものです、そうすれば美の頂点に象徴的に君臨している薔薇が枯れることはないはずです。年配者から順に死に絶えて時は過ぎゆくもの、それがこの世の慣いであるが、素晴らしい後継者はその父母の記憶を明瞭に留めるもの、しかし君はその流麗極まりない美貌を無意に帰そうとしているかのように、豊饒潤沢の庭に貧窮をもたらそうとしているかのように無軌道に振舞っている、無頼の敵は君自身なので、君は自分自身に対して余りにも過酷非情すぎる暴君なのだ、ああ、どうしてそうも情なしでいられるのか、君が例えば東洋の光源氏を彷彿とさせる貴公子然して振る舞えば世間はこぞって称賛の的と褒めたたえずにはおかないでしょうに、正に到来する青春の只中に驕れる勝利者の中の誉、まだ蕾ではあっても輝かしい未来を全て包含して余りある存在。自覚のない若い欲張り屋ではあっても、出し惜しみながらも浪費して顧みない君よ、どうかこの世を憐れんでくれたまえよ、さもないと、大食漢との影口を言われるやもしれないよ、世間の人々の当然の分け前を一人占めして墓場まで持って行ってしまう勢いなんだからね。 ざっと、こんな風に意味的には第一聯は構成されている。年配の男性が年下の男に強烈な愛情の告白をする前触れの様な言辞は詩としては異例中の異例なのですね、シェークスピア自身がフィクションだけではなくて自己の赤裸々な情欲を曝け出す告白文学でもあった。私、古屋克征には同性愛の趣味はなくて誇張にもせよ同性に性欲を感じた経験がないので、これから展開される同性愛的な部分に関しては理解が行き届かなくても、想像でそれを補い、詩人の極めて劇的な構成を十分に堪能してみるつもりでおります。 次は第二聯です、四十年の厳しい歳月が君の今は美々しい容貌に見るも無残な塹壕を掘り出してしまうことは必定、例えばかぐや姫伝説の絶世の美女であっても、下界では男達からもてはやされて尊重されても、天上界では一介の罪人にしか過ぎない。それと同様に、老醜を晒す晩年には襤褸にも劣る無価値なものとして唾棄され、打ち打擲さえされる時期を迎えざるを得ないのだよ、聡明この上もない君の事だからこのような年配者の諭しなど無論必要とはしないことを私は、百も承知している。しかもなお耄碌爺いさながらに繰り言めいて更に言い募り、君からの強い拒絶を回避できないでいるのは、その類まれな美と知と魂との魅惑に私の心は痺れに痺れ、腰も立たないほどに行かれてしまっているから…、それはともあれ、嘗てのあの美貌は知的武装は何処へ行ってしまったのだと聞かれた時に、君は君らしく何と答えるつもりなのだろうか。この醜く落ち窪んだ眼窩の中に、皺だらけ染みだらけの顔の中に消えてしまったなどと、通常人が老いさらばえた際に答えるような愚かな言葉は聞きたくもない。しかし、この聡明な子供が自分の後継者なのだ、私の輝かしい遺産の全てを引き継いでいてくれる、御覧なさいな、よく御理解頂けますでしょう、そう君は誇らしく答えて欲しいのですよ、老いた君自身の身内には冷たい血液が回遊しているけれども、暖かく快適な血液が体内を駆け巡っていると自他共に納得出来るようになってもらいたいのですよ。或る注釈によれば若者は男色や自瀆行為に耽っていて通常の結婚を回避する様な日常を送っていて、両親達に苦労の種を与え続けていたのではあるまいか、と説明している。この辺は私などには直ぐに解り易く納得できる事柄ではないのですが、そう言うケースも場合によってはあろうかと、今は軽く受け止めておこうと思うのです。私などは女性、特に年上の女性に対する憧れが強く働いていましたので、それに若年の頃には特別に肉体的な魅惑にチャームされて異性と肉体的な接触を強く持とうなどとは特別には考えたこともなかった。プラトニック・ラブを殊更に賛美賞賛する嗜好も持ち合わせてはいなかった。世に言うロリータ・コンプレックスもなかった。セーラー服を着た美少女に殊更にチャームされることもなかった。年上の女性への無条件の憧れは誰もが抱くマザコンの一種だと私などは思っていました。社会に出て仕事のパートナーに好意と尊敬の念を抱いて「プラトニック・ラブ」めいた感情を抱いたし、人から嫉妬混じりの揶揄でホモ関係なのではないかなどと陰口を叩かれた経験もありましたが、概して人間関係には恵まれていて、妻には夢にも思っていなかった「素晴らしい美人」を得ることになった。それも彼女の方から一方的に惚れ込んできて。この辺の経緯に関しては幾度となく私のブログで書いてきていますので、諄くは申しませんが、私は古風と言うか、女性を口説くことが出来ない「不能者」でして、それにも関わらずに女性関係でも他者との比較は出来ませんが、比較的に恵まれている方と自分では感じています。私は母親とも、妹とも、そして関係性が薄かった姉とも、非常に良好な人間関係を維持できておりまして、その上に、信じられないような配偶者の出現で完璧な女性関係を成立させられて、ただただ只管、神に感謝するだけなのです。つまり女性関係で苦労した経験は皆無なのですが、言ってみれば、女性は必ずしも美的な男性をのみ求めてはいないのだと首肯させられます。私は自分では努力して生きて来たと考えるのですが、それはとりわけ私が努力家だったからではなく、努力しなければ生きられなかったからなので、努力とは私にとっては極めて自然に振舞うことを意味していたわけですね。 扨、第三聯ですが、鏡を御覧なさいな、その鏡に映った顔に語るのです、さあ、今こそ新しい美しい顔を製造する時が来たのだ、その類まれな瑞々しい美貌を今再生しておかなければ、君は世間を欺き、誰か可憐なる乙女が母親になる幸福を奪い不幸にしてしまうでしょう。まだ処女であって君を夫して不満に感じる美女が何処に一体いるだろうか、自己愛が異常に強くて子孫を残すことに乗り気ではなくて、自分を愛情の墓場にしてしまう、そんな愚かな青年がこの世にいて良いものだろうか、君は母上の自惚れ鏡であり、彼女は君の麗しい鏡なのだ、彼女の素晴らしかった美の四月を呼び戻して差し上げなさい、その如くに君は老年のしわくちゃの眼という霞んだ窓を通して過去の絶頂期を振り返ることも許されている。しかし世間から忘れ去られる老齡期を望むのであれば、たった一人で生き、姿を永遠に消してしまうがよいでしょうよ…。年上の男、詩人のシェークスピアは美青年に結婚を勧める。自分の熾烈な愛欲は胸に秘めて、年長者らしく諄々と諭し子孫を後世に残すことの大切さを説く。この辺は私には余り興味を感じないところであり、創造主の神ではないのだから後世の事は後世が自ずからに解決する問題ではないかと、思うだけです。私には固定した美人の観念がありません。ある時に強くチャームされた女性が出現して、その人を改めて見直して見た時に「美しい」と感じるわけであって、あらかじめ美の観念が掲げられていてそれに合わせるように美なる人を探す、或いは求める。そういう順序にはなりようもない。例えば、妻悦子を「美人」だなどと形容したのですが、初めから彼女は美人として私の前にいたわけではない。結婚して、改めて彼女の素晴らしさに惚れ込んで、彼女を愛する妻として眺めた際に美人だと判定した。そういう次第なのです。つまりは、路傍の人は美人であっても敢えて美人とは判定しないのですね。 第四聯です、生来の浪費家である好男子君、どう言う積りで君は自分自身のためにのみ美的な遺産を使い果たそうとしているのだろうか、自然と言う女神は遺産をただでくれるのではなくて、貸し付けるのだ。そんなことは私が言うまでもなく君だって先刻承知していることさ、だがね、美の女神は自分が気前がいいので貸し手には気前のいい人間を選別するわけさ、ところが君という白皙の黒眸子の吝嗇青年は、他者に与えよとて頒かたれた豊かな財産を抱え込んで、自分だけと取引して他所に目を向けようとはしないのだろうか…、実際呆れるほどに利殖が下手な高利貸しと君を悪罵しなければいけないらしい、そもそも君には豊富な美という財産を殖やそうなどと言う気持は最初から露ほどもないらしい、私は自分の形容が見当違いであることを自ら認めないわけにはいかない、けれども、暗喩的に君を非難すれば、莫大な大金を湯水の如くに投入しているのに利益は皆無のようだとしか表現のしようが見つからない。君はディーラーとしては極めて視野が狭く、自分自身としか商売をしようとしないらしい、短期的にはそれも許される事だが、長期で人生を俯瞰すれば君の極端な個人主義的商法(?)は実に割に合わない莫迦げた行為だと知れる、やがて時が経過して自然がこの世から去れと命令を下した時に、君はどのようにして君自身の人生の総決算を締めくくるつもりなのだろうか、言うまでもなく君の美質は他に投資しなければ君と一緒に墓場に消えるしかない宿命、繰り返し言っているように投資しておけばそれが遺産の執行人となるのだけれどね。自慰や男色行為は子孫を遺す正当な行為ではない事は君も百も承知しているわけだけれど、正規の結婚をして子供を産んでおけば周囲の大勢を安心させ、幸福にさせる道であるのに、君は好んでその通常人の進む道を選ぼうとはしないのだ。私が何故にこんなにも執拗に当たり前の結婚を君に進めるのは、自分の過去を深く悔いている為でもあるのだが、それはいずれ詳しく語る日も来るでありましょうよ。 ウイリアム・シェークスピア(1564ー1616)はイングランドの劇作家であり詩人、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により最も優れているとされる英文学の作家です。
2024年07月15日
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吾妹子(わぎもこ)に 逢はなく久し うまし物(もの) 安倍橘(あべたちばな)の 蘿(こけ)生(む)すまでに(― 妹に逢わず時がたった。安倍橘に苔がはえる程までに)あぢの住む 渚沙(すさ)の入江の 荒磯松(ありそまつ) 吾(あ)を待つ兒らは ただひとりのみ(― アジガモの住む渚沙の入江の荒磯の一本松のように、私を待つ少女はあなただけです)吾妹子を 聞き都賀野邊(つがのべ)の しなひ合歡木(ねぶ) 吾(あ)は隠(しの)び得ず 間(ま)無(な)くし思へば(― 私は絶え間なく恋しく思っているので、気持を人に隠すことができない)波の間ゆ 見ゆる小島の 濱(はま)久木(ひさき) 久しくなりぬ 君に逢はずして(― あなたにお逢いせずに久しくなりました)朝柏(あさかしは) 閏八川邊(うるはかはべ)の 小竹(しの)の芽(め)の 偲(しの)ひて寝(ぬ)れば 夢(いめ)に見えけり(― 恋人を心に思って寝たので夢にその姿が見えた)淺茅原(あさぢはら) 刈り標(しめ)さして 空言(むなこと)も 寄さえし君が 言(こと)をし待たむ(― 根も葉もない噂にでも、深い仲だと言い立てられたあなたからのお言葉を待ちましょう)鴨頭草(つきくさ)の 假れる命に ある人を いかにか知りてか 後も逢はむとふ(― ツキクサのように仮りの命の人間であるのに、その命をどう考えて、後で逢おうなどと言っているのだろう) 大君の 御笠に縫へる 有馬菅(ありますげ) ありつつ見れど 事なき吾妹(わぎも)(― ずっと見ていても何の非の打ちどころもない吾妹よ)菅(すが)の根の ねもころ妹(いも)に 戀ふるにし 大夫心(ますらをこころ) 思ほえぬかも(― ねんごろに妹を恋しているので、男子たるしっかりした心もなくなってしまった)わが屋戸(やど)の 穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)採(つ)み生(おほ)し 實になるまでに 君をし待たむ(― わが家の穂タデの古い幹を摘んで、新しいのをはやし、それが実になるまでも、あなたをお待ちします)あしひきの 山澤(やまさは)惠具(えぐ)を 採(つ)みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責むとも(― せめて、山の沢のエグを採みに行く日だけでも逢って下さい。母はたとい責めましょうとも)奥山の 石本菅(いはもとすげ)の 根深くも 思ほゆるかも わが思妻(おもひづま)は(― 奥山の石のもとの菅の根のように深く、心にしみて思われることである、私の心を寄せる妻は)蘆垣(あしかき)の 中(なか)の似兒草(にこぐさ) にこよかに われと笑(ゑ)まして 人に知らゆな(― にこやかに私とお笑いになって、人に知られなさいますな)紅(くれなゐ)の 淺葉(あさは)の野らに 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も 吾(わ)を忘らすな(― 束の間も私をお忘れなさいますな)妹がため 命遺(のこ)せり 刈薦(かりこも)の 思ひ亂れて 死ぬべきものを(― 妹の為に命を残しておきました、刈り薦の乱れるように、心が乱れて死にそうでしたのに)吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつあらずは 刈薦の 思ひ亂れて しぬべきものを(― 吾妹子を恋しく思っていずに、ああ、刈薦のように心みだれて死ぬべきであるのに…)三島江の 入江の薦(こも)を かりにこそ われをば君は 思ひたりけれ(― あなたは私を真実の愛ではない、かりそめの心で思っておいでだったのに、私は本当に愛されていたと思っていたのでした)あしひきの 山橘の色に出て わが戀ひなむを 人目(ひとめ)難(かた)みすな(― 私は藪コウジが色づくように恋の気持を顔色に出してしまうでしょうから、あなたも人目などをはばかったりなさいますな)蘆鶴(あしたづ)の さわく入江の 白菅(しらすげ)の 知らせむためと言痛(こちた)かるかも(― 世間の人に知らせようとて、ひどく噂を立てることだなあ)わが背子に わが戀ふらくは 夏草の 刈り除(そ)くれども 生(お)ひ及(し)く如し(― わが背子と私の恋することは、あたかも夏草が刈りとっても次々と伸びてくるようなものです)道の邊の いつしば原の いつもいつも 人の許さば 言(こと)をし待たむ(― 何時でも、あなたが許すと言う言葉をお待ちします)吾妹子(わぎもこ)が 袖をたのみて 眞野の浦の 小菅(こすげ)の笠を 着ずて來にけり(― 吾妹子の着物の袖で隠してもらうことを頼みにして真野の浦の小菅で編んだ笠をかぶらずに来てしまった)さす竹の 節隠(よごも)りてあれ わが背子が 吾許(わがり)し來(こ)ずは われ戀ひめやも(― どうか家に籠っていてください。あなたが私のところにいらっしゃらなかったら、私はこんなに恋に苦しみはしないのです)神名火(かむなび)の 淺小竹原(あさじのはら)の うつくしみ わが思う君が 聲の著(しる)けく(― 神名火の浅小竹原のように私が愛しく思う方のお声がはっきりと聞こえます)山高み 谷邊にはへる 玉葛(たまかづら)絶(た)ゆる時なく 見むよしもがな(― 山が高いので谷辺を這っている玉葛が絶えないように、絶えるときなくあなたにお逢いする手立てが欲しい)道の邊の 草を冬野に 履(ふ)み枯らし われ立ち待つと 妹に告げこそ(― 道の辺の草を冬の野のように踏み枯らすほどに長い間、私は立って待っているとどうか妹に告げてください)畳薦(たたみこも) へだて編む數 通(かよ)はさば 道のしば草 生(お)ひざらましを(― 畳こもを、隔てをおいて繰り返し繰り返し編んで行くように、しばしばお通いになれば道の芝草は生えなかったでしょうに)水底(まなそこ)に 生(お)ふる玉藻の 生ひ出でず よしこのころは 斯(か)くて通はむ(― 水底に生える玉藻が水の上には伸びないように、表面には出ずに人目にはつかないで、ままよ、自分はこのまま忍んで通うことにしよう)海原(うなはら)の 沖つ縄苔(なはのり) うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも(― 海原の沖に生えている縄苔のように、心もなよやかにうち靡いて、あなたが恋しく思われることよ)紫(むらさき)の 名高の浦の 靡き藻(も)の 心は妹(いも)に 寄りにしものを(― 名高の浦の靡き藻のように私の心はすっかり妹になびきよってしまったものを)海(わた)の底 沖を深めて 生(お)ふる藻の もとも今こそ 戀はすべなき(― 今こそ私の恋の心は最も激しく燃えて、何とも止める術がない)さ寝(ぬ)がには 誰(たれ)とも寝(ね)めど 沖つ藻の 靡きし君が 言(こと)待つわれを(―一緒に寝ると言うだけなら誰とでも寝るのでしょうが、沖の藻のように靡き寄ったあなたのお言葉をお待ちしている私なのです)吾妹子(わぎもこ)が 如何(いか)にとも吾(わ)を 思はねば 含(ふふ)める花の 穂に咲きぬべし(― 吾妹子が私を何とも思っていないのに、私は花の蕾が開くように、私の恋心をあらわしてしまいそうである)隠(こも)りには 戀ひて死ぬとも 御苑生(みそのふ)の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でめやも(― 人知れずに焦がれ死にしようとも、お庭の鶏冠草の花のように色にあらわすことは致しません)咲く花は 過(す)ぐる時あれど わが戀ふる 心のうちは 止(や)む時もなし(― 美しく咲く花には盛りの時があってやがては枯れてしまうけれど、私の恋心にはそれがなくて、止むときがないのです)山吹の にほへる妹が 朱華色(はねずいろ)の 赤裳の姿 夢(いめ)に見えつつ(― 山吹のように美しい妹のハネズ色の赤裳の姿が夢に見えて)天地(あめつち)の 寄り合ひの極(きはみ) 玉の緒の 絶えじと思ふ 妹があたり見つ(― 天地が寄り合う時まで、永久に仲を絶つまいと思う妹の家のあたりを眺めたことである)生(いき)の緒に 思へば苦し 玉の緒の 絶えて亂れな 知らば知るとも(― 命を懸けて恋しているので苦しい。いっそ玉の緒が切れて乱れるように、心乱れてしまいたい。人が知るなら知ろうとも)玉の緒の 絶えたる戀の 亂れなば 死なまくのみそ またも逢はずして(― 仲の絶えた恋に心が乱れて収まらないならば、もはや死のうと思うばかりです。もう逢ったりはしないで)玉の緒の くくり寄せつつ 末終(つひ)に ゆきは分れず 同じ緒にあらじ(― 今はたやすく逢えないけれども、玉の緒を括り寄せれば、玉はついには離れ離れにならずに同じ緒に並ぶように私達も、末は一緒になりましょう)片絲みち 貫(ぬ)きたる 玉の緒を弱み 亂れやしなむ 人の知るべく(― 片糸で貫いた玉は緒が弱いので、切れて乱れるが、そのように私は心乱れるであろうか、人が気づくほどに)玉の緒の うつし心や年月の 行き易(かは)るまで 妹に逢はざらむ(― 正気でいて、年月の移りかわるまで妹に逢わずにいられるだろうか、いられないだろ)玉の緒の 間(あいだ)も置かず 見まく欲(ほ)り わが思う妹は 家遠くして「― 絶えず逢いたいと思う妹は、家が遠くて)隠處(こもりづ)の 澤たづみにある 石根(いはね)ゆも 通して思ふ 君に逢はまく(― 人目につかない沢タズミ・沢に湧く水にある大きい岩ですら、一筋に貫くほどにひたすらあなたにお逢いしたいとひたすら思っています)紀の國の 飽等の濱の 忘れ貝 われは忘れじ 年は經ぬとも(― あなたを忘れまい。たとい年は経とうとも)
2024年07月11日
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(へスターのセリフの続き)私がしますわ、ねえ、フレディー、最後にひとつだけ私のためにして欲しい事があるのです。ここへ来て、あなた自身でこのカバンを持って行ってください。さよならを言うだけ、それだけなの。誓って何も害はありませんよ、いいえ、誓います、誓いますよ。約束もしましょうよ、最も聖なる言葉で名誉にかけて…、あなたを引き止めたりは致しません、話だってしないでしょう、それをあなたが望まないならば、あなたはただ、カバンを持っていけば良いのです、もう一度お会いしたい、それだけなの、フレディー、信用してよ、信じて、お願いですから、フレディー、電話を切らないで…、どうか…、(彼女は呆然として受話器を見てから、元に戻す。一瞬それを見詰めてから明瞭に、もう一度ダイアルし直そうかと迷い、それが役に立たないことを悟る。彼女はゆっくりとドアーの所に行き、錠に鍵を差し、もう一度開錠する、身振りでフィリップに自由にお行きなさいと示す)フィリップ (もじもじして)貴女はツウィードコートについた何か言いましたが…。ヘスター そうでしたか、ああ、そうです。それはあそこのドアーに吊るしてあります。(フィリップは寝室に入る、スーツケースを持って。へスターは、一人残されて、暖炉の方へよろめくように進む、彼女はガスの点火栓を見下ろす、フィリップがコートを腕に載せて再び姿を現した)フィリップ (ドアーに向かいながら)それでは、お休みなさい。ヘスター お休みなさい、ウエルチさん。ああ、所で、あなたの奥さんがとても御心配なさっていらっしゃるでしょうから、一度顔をお見せになってから外出なさるほうが宜しいでしょうよ。フィリップ はい、そうします。(真心を込めて)独りで、大丈夫でしょうかね、つまり、今夜は馬鹿な真似はしないでしょうかね。昨夜の事から学習したはずですよね。ヘスター はい、私はちゃんと学習しましたわ。フィリップ 大変お気の毒に思いますよ、実際の話が…。ヘスター 有難う。フィリップ 思うに、彼は自分で荷物を取りに来るべきでしたね。ヘスター そうですね。フィリップ 仮に当然、彼は此処へやってきて貴女が彼を行かせまいと制止するのを嫌ったのを僕は理解しています。でも、それでも、貴女があの神聖な、真心込めた名誉の言葉を彼に与えたのですから…。(へスターはそれまでフィリップを見てはいなかったが、ゆっくりと彼の方を向いた)ヘスター あなたの精神的な価値への理解にいくらかの貢献をしたのでしょうか、ウエルチさん、私は先ほどの神聖で厳粛な名誉の言葉をほんの少しも守ろうなどとは思ってはいなかったんです。もしフレディーが今夜此処へ来たら、私は彼を留めたはずなのです、彼はその事を完全に理解しているのです、だから彼は来なかったのですよ。(フィリップは衝撃を受けて、黙って彼女を見詰めている。ヘスターは彼を見上げる)ヘスター 貴方は今、私が今の言葉を父親に言ったらそんな表情をするだろう様な、そんな顔つきをなさっていらっしゃるわ。父は精神的な価値を信じていて、しかも、肉体的な価値を少しも認めようとしない。(間)バッグを今フレディーに届けて上げてくださいな。あなたはタクシー代を持っているでしょうか。フィリップ はい、有難う。(ドアーの所で)ひょっとして、何か貴女からのメッセージの様な類のものはありますか…。(間)ヘスター (静かに)私の愛情を。(フィリップは頷き、行く。ヘスターはその後でドアーを閉め、一瞬の沈黙の後で彼女は静かに窓の所に動き、窓を閉めた。それから彼女はバッグを探って硬貨を見つけようとした。見つからなかったので、彼女はテーブルの方を向き、そこにフレディーが投げ出してあったシリング硬貨を見た。それを手にして、彼女はガスメーターに歩き、コインを挿入した音を観客は聞く。彼女は表のドアーの方を向き、鍵を閉めた。それから彼女は敷物を注意深くドアーの床に立てかけた。振り向いて、空のアスピリンの瓶を拾い、それを見て、それを下に置いた。それから彼女はポケットからミラーから受け取った錠剤を取り出してテーブルからコップを取り、台所へ行き、再び姿を現した、コップには水が一杯に入っている。彼女の呼吸は今は切れ切れになって切迫しており、まるで身体的な拷問でも受けているかのように。彼女の動きは今は緩慢である。ドアーでノックの音がする。彼女が錠剤を口に入れようとした瞬間を捉えたように) (性急に)はい…、何方ですか?ミラー (外で)ミラーです。ヘスター どんな用事でしょうか、私はこれから寝るところなのです。ミラー (外で)お目にかかりたいのです。ヘスター 朝ではいけないのですか…。ミラー (外で)はい、そうです。(ヘスターは我慢できないようにドアーの所に行く。敷物を引っ張ってソファーの場所に投げ出した。彼女が鍵を開けるとミラーが入ってきた) (鍵を指で指し示して)邪魔されないように決意したのですね。ヘスター 私は通常、夜には鍵を閉めています。ミラー 昨夜、そうしなかったのは幸運でした。ヘスター (コップの水を示して)頂いた錠剤を飲もうとしていたのです。ミラー そのようですな。ヘスター これは十分に効き目があるのでしょうか、ドクター。効き目がなかった場合にはもう二三錠頂けますでしょうか。(ミラーは答えないで、敷物をソファの上に置き直した。それから、ヘスターに見詰められながら、ゆっくりとガスストーブへと足を運び、ふと足を軽く蹴って栓を回した。シュッというガス漏れの音、彼は栓を蹴って閉めた)私は、頂けないかと…。ミラー 聞こえましたよ。答えは、いいえ、です。ヘスター 何故でしょうか。ミラー 私は過去に警察に十分捜査を受けた経験があるのです、自殺未遂者に眠り薬を与えたと今非難されたくはないのですよ。(彼は手を差し伸べる)ヘスター 貴方は想像力を逞しくなさり過ぎではないでしょうか、ドクター。ミラー いいえ、その薬を返してください。ヘスター 何故ですか。ミラー 表玄関に敷物を立てかけるならば、明かりを消してからにしたほうが賢明でしょう。ヘスター (ヒステリックになって)何故、貴方は私を見張っていたりするのでしょうか、何故、私をほっておいて下さらないのですか。ミラー 私は貴女に生きるか死ぬかの決断を迫ったりはしません。その選択は貴女のものです、それを決定するに足る十分な勇気をお持ちとお見受けいたしております。ヘスター (絶望的な叫びで)勇気、ですって。ミラー ああ、そうです。死へ自分を貶めるには勇気が必要です。殆どの自殺は死への逃亡です。貴女は生きるのは無意味だと考えて死のうとしているのです。それは本当でしょうかね。ヘスター (凶暴に)何が真実かなど、私には分かりません。私の分かるのはただ、今日以後人生と向き合うことなど出来ないという事だけですわ。ミラー 人生と直面するのはそんなにも困難なことなのでしょうかね、ほとんどの人がそれを上手くやっているように見えますが…。ヘスター 希望もなくて誰が生きられるでしょうか。ミラー 全く簡単なことです、希望を持たずに生きるとは、絶望せずに生きることを意味していますよ。ヘスター それは単なる言葉です。ミラー 言葉は、貴女の精神がしっかりとつかみさえすれば、手助けしてくれるのです。(彼は乱暴に彼女を自分に振り向かせて、厳しい調子で)貴女のフレディーはあなたを捨てたのです、彼は決して戻っては来ないでしょう。この世では決して、決して…。(一語一語で彼女は肉体的に殴られでもしたように意気消沈する)ヘスター (乱暴に)解っています、分かって…。それにまともに向き合えないのです。ミラー (残酷な力で)いいえ、出来ますよ。この言葉は、断じてダメです、それと直面して、人生と向き合うことは出来るのです。希望を乗り越えなさい、それが、あなたのただ一つの生きるチャンスなのです。ヘスター 希望の向こうには、何があるのですか。ミラー 人生です、それを信じなくてはいけませんよ。本当なのです、分かっているのです。 (ヘスターの嵐の涙が次第に収まっていく、彼女は頭を上げてミラーを見た)ヘスター (とうとう言う)貴方はまだ生きる事に何かの目的を見つけられているのですね。ミラー どんな目的でしょうか。ヘスター 病院で仕事を持っていらっしゃる。ミラー 私にとっての唯一の生きる目的は、ただそれを生きることなのです。病院での私の仕事はそれを手助けしてくれている。それで全てです。もしも貴女が見れば、貴女自身に手助けとなる何かを見つけるかもしれませんよ。ヘスター どんな手助けでしょうか。ミラー 貴女もお仕事を持たれていたのではありませんか、(身振りで絵画を示す)ヘスター ああ、あれね。(疲れたように)絵画を通じての逃げ道はありませんわ。ミラー あれでは駄目なら、こちらでは…。(別の絵を示す身振りをする)多分、あれを通してでは…、(初期の絵画を指さした)私は芸術の玄人ではありませんが、ここには才能のヒラメキが在る。一瞬の輝きではあっても、それに息を吹きかければ、炎となるかもしれない。大きな炎ではなくても世界を明るく照らすかも知れませんよ、ああ、そうではない、私はそんな事を言いたいのではなかった、が、この世界は暗すぎるので、ちょっとした輝きですら、歓迎すべきなのですよ。(彼は彼女にコップの水を渡した。彼女はそれを飲む。それから彼は絵の方を向いて)私はあの絵を買いたいのです。(へスターはその絵を取り留めもなく一瞬見詰めて、力なく立ち上がると絵のところへ行き、その絵を彼に手渡した。彼は微笑む)幾らですか。ヘスター 贈り物ですわ。(ミラーは頭を振る、依然として微笑みながら。彼は財布を取り出すと二ポンド紙幣を取り出した。ヘスターは頭を振った。ミラーはそれをテーブルの上に置いた)ミラー さてと、私はこれをテーブルの上に置いて、おいとましましょう。これは私に支払える金額であって、この絵の価値ではありません。貴女はそれを売らないと決めてしまっておられるが、領収書を封筒に入れて私宛に送ってください。私は了解して、感謝します。お休みなさい。ヘスター お休みなさい、ドクター。ミラー (振り返って)ドクターは止めてくださいな、お願いです。ヘスター お休みなさい、友よ。ミラー 私は貴女がそう言ってくださるのを願っていました。ヘスター (静かに)どうして、そんな風にお思いになられたのでしょうかしら。ミラー (も、静かに)私は貴女の確証を得たいと望んでいるのですよ、明日の朝までには…。ヘスター あなたを助けるために、私に何か選択をさせようと望んでおられるのでしょうか。ミラー (微笑みながら)私は、確かに新しく発見した友人を失うとすれば、悲しみを感じる権利を獲得してしまったのです、殊更に、貴女のごとく好感が持てて尊敬すべき人であれば、格別ですからね。ヘスター (厳しく)尊敬ですか…。ミラー そうです、尊敬です。ヘスター どうか、そんなにも私に対して親切になさらないで下さいな。(彼は彼女に急いで近づくとその肩を抱いた)ミラー 聴いてくださいな、世界が貴女を見るように貴女が自身を見ることは、とても勇気のいることかも知れない、それは同時に、非常に馬鹿げたことでもある。何故に貴女は神経症患者の様に世間が貴女を見ている見解をそんなにも簡単に受け入れてしまうのでしょうか。変に生きるよりは死んだほうが増しなのです。世間にどんな権利があって判断するのでしょう…。貴女を判断するとは、貴女と同等の感受性を持たなくてはいけないはずですね。そして、誰にそんな能力があると言うのですか、千人に一人もいないでしょう。貴女お一人がどう感じるかを知っているのです。しかも貴女だけが、その戦いが不平等であることを承知されている、その意志がこれからも戦うことを止めないでしょう。ヘスター 私は努力したが失敗した、それが、全罪人の言い訳なのですね。ミラー 正しくそれをした時に、単なる口実になるのです。ヘスター それは人々に判決を免れさせるでしょうか。ミラー はい、もし判事の判断が公平であれば、犯罪者への憎しみで盲目になっていなければ。貴女は自分への憎悪で盲目になっているのですが。ヘスター もしあなたが一つの情状酌量するべき状況を見つけて下されば、たった一つの理由を、何故私が自分をほんの少しでも、尊敬すべきだと考える手掛かりでも…。 (ドアーが突然に開けられて、フレディーが敷居の所に姿をあらわした)フレディー 今日は。ヘスター 今日は。(間)ミラー (へスターに)その理由を、貴女自身で見つけるべきです。(彼はへスターの手に触れて、フレディーに頷くと、部屋を出た)フレディー 僕は何か、邪魔をしてしまったのかな。ヘスター いいえ、全然。フレディー 彼は見たところ全くいい男だ、老ミラー。ヘスター そう、いい人だわ。バックを取りに来たのね。フレディー そう。ヘスター あの青年がカバンを持っていったわ・フレディー ああ、彼はエンジェルに置いていくだろう。大丈夫、受け取れるよ。ヘスター お入りなさいな、フレディー。ドアーの所で立っていないで。(彼はのろのろと中に入る)気分はどんななの、今は。フレディー 大丈夫だよ。ヘスター 来てくれて有難う。フレディー あの青年を使いに出すべきではなかったよ。ヘスター 食べ物は、宜しいの。フレディー うん、ベルベデーレで少し食べたのだ。君はどうなの。ヘスター ああ、私は後で何か食べるわ。(少し間がある。フレディーはまだ不安そうに彼女を見守っている)正確には、何時リオに出発するのですか。フレディー 木曜だ、話したはずだが。ヘスター ええ、そうね、勿論。船でなの。フレディー いや、飛行機だ。ヘスター ああ、そうですね、当然ね。アゾレス航空ですね。フレディー いや、ロンドンだ、ウエスト・アフリカからナタル経由で。ヘスター ワクワクするわね。フレディー ああ、分からないよ。ああ、ところで借用料なのだが、僕のゴルフクラブその他の、それの世話は老エルトン夫人にまかせているのだ。ヘスター それを必要なんですか。フレディー いいや、必要ない。ヘスター 今夜、残りの荷物をまとめるつもりよ。そして朝にチェアリング・クロスへ送るつもり。フレディー 急がないで。(間)これから何をするつもりなのだい、ヘス。ヘスター まだ決めていないのよ、フレディー。少し此処に座っていようと思うの。フレディー 僕はビルの家に手紙を投函したよ。彼は多分やってくるだろう。ヘスター もう、やって来たわ。フレディー それで、君は…。ヘスター 何でもなかった。フレディー 済まなかったよ。ヘスター 大丈夫よ、何でもないことよ。フレディー うん、そうだろうね。僕には分からないよ。君は絵の方は続けるつもりでいるのかなあ。ヘスター はい、そのつもりです。実際に私は美術学校に通うつもりでさえいるの。又、最初から始めるつもりなの。フレディー いい考えだね、再開するのに遅すぎることはないよ。人はそう言っているね。ヘスター ええ、そうね。(長い間がある、フレディーはヘスターが何かを言うのを待っている感じだ。が、彼女は依然として立って彼を見ている)フレディー (遂に)あのね…。ヘスター (明瞭で、穏やかな声で)さよなら、フレディー。(間)フレディー (口ごもりながら)さよなら、ヘス。(彼はドアーの方へ動く。彼女はまだ動かない。彼は振り向いて、彼女が何か言うのを待っている。彼女は無言だ。彼は突然彼女に歩み寄った)全てのことを感謝するよ。ヘスター 私もよ。(彼は彼女にキスする。彼女は彼の抱擁を無反応で受け止める)フレディー 僕は君を失って寂しく感じるだろうよ、ヘス。(直ぐに彼は彼女を手放し、ドアーの所に行く。そして振り向くと、かすかに狼狽えた訴えの素振りである)ヘスター (高らかに、明瞭に)さようなら。 (フレディーは振り向くと、のろのろと外へ出た。ドアーが閉まる。へスターは身動きせずに立っている、彼女の顔は無表情である。それから彼女は素早く部屋を横切り、スーツケースに到着した。それは寝室のドアーの棚に置かれていた。F.T.ペイジと表示されたスーツケースを椅子の上に置き、表面のドアーの横に釘に掛けてある衣類を掻き集めに行く。彼女はこれらの品物を一つ一つ片付けながら彼女の固まっていた表情が次第に崩れていく。彼女は彼の雨外套に顔を埋めて、そのままで暫く居る。それから、それらをソファに投げ出す。光が彼女の目を痛めるようだ。彼女は読書灯以外は消して、暖炉に行き、ガスを点火した。しばらくそこに立っていて、火がオレンジから赤に変化するのを見詰めている。彼女はソファに戻り、彼のスカーフ類を折りたたんでいる。静かに幕が降りる。
2024年07月09日
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しなが鳥 猪名山響(とよ)に 行く水の 名のみ縁(よ)さえし 隠妻(こもりづま)はも(― 猪名山を響かせて流れていく水のように、評判ばかり高く立てられて恋しく思い続けていることであろうか)吾妹子(わぎもこ)に わが戀ふらくは 水ならば しがらみ越えて 行くべく思ほゆ(― 吾妹子に対する私の恋は、川の水なら柵すらも越えていく程です)犬上(いぬかみ)の 鳥籠(とこ)の山にある 不知也(いあや)川(がは) 不知(いさ)とを聞((き)こせ わが名告(の)らすな(― さあ、知らないと仰言い、決して私の名を仰っしゃいますな)奥山の 木の葉(は)隠(かく)れる 行く水の 音聞きしより 常忘らえず(― 奥山の木の隠れに流れる水の音を聞くように、あなたの評判を聞いてから、いつも忘れることができません)言(こと)とくは 中は淀ませ 水無(みな)し川(がは) 絶ゆといふことを 有りこすなゆめ(― 人の噂が激しいなら今のところはちょっと行き来をお止めなさいませ。しかし、水無し川の水が絶えるように、仲が決して絶えることはなさらないでください)明日香川(あすかがは) 行く瀬を速み 早けむと 待つらむ妹を この日暮らしつ(― 早く来るだろうと妹が待っているだろうに、行けずにこの日を暮らしてしまった)もののふの 八十氏川(やそうぢがは)の 早き瀬に 立ち得ぬ戀も われはするかも(― 宇治川の早瀬で立っていようとしても流されるように、私は恋心に押し流されそうです) 別解:宇治川の激流の中に立っていても、私はあなたを忘れることができない。神名火(かむなび)の 打廻(うちみ)の崎の 石淵(いはふち)の 隠(こも)りてのみや わが戀ひ居(を)らむ(― 神が下りてくる社・神名火の打廻の崎の岩で囲まれた淵のように、私は人目を忍んで恋しつづけることでありましょう)高山ゆ 出で來る水の 岩に触れ 破(わ)れてそ思ふ 妹に逢はぬ夜は(― 高山から流れて来る水が岩に触れて砕けるように、心も砕けて恋しく思う、妹に逢わない夜は)朝東風(あさこち)に 井堤(ゐで)越(こ)す波の 外目(よそめ)にも 逢はぬものゆゑ 瀧(たぎ)もとどろに(― 外目にもひと目も逢いはしないのに、滝の水が落ちるほどに噂が立って)高山の 石本(いはもと)激(たぎ)ち ゆく水の 音には立てじ 戀ひて死ぬとも(― 高山の岩のもとを激しく流れていく水が音を立てるように、はっきりあらわして噂を立てられることはすまい。たとい恋の苦しさに死のうとも)隠沼(こもりぬ)の 下(した)に戀ふれば 飽(あ)き足(た)らず 人に語りつ 忌(い)むべきものを(― 心の中で思っているだけでは飽き足らずに、人に私の恋を話してしまった。忌み憚ることであるのに)水鳥の 鴨の住む池の 下樋無み いぶせき君を 今日見つるかも(― 鴨の住む池に下樋がなくて水が滞るように、逢いたい心が鬱屈していたけれども、あなたに今日お逢いしてすっかり胸が晴れました)玉藻刈る 井出(ゐで)のしがらみ 薄みかも 戀の淀める わが心かも(― 私の恋がスラスラと進まないのは、相手の情が薄いからだろうか、それとも私の心柄なのであろうか)吾妹子(わぎもこ)が 笠の借手(かりて)の 和蹔野(わざみの)に われは入りぬと 妹に告げこそ(― わざみ野に私は入ったと、妹に告げてください)數多(あまた)あらぬ 名をしも惜しみ 埋木(うもれぎ)の 下(した)ゆそ戀ふる 行方(ゆくへ)知らずて(― 二つも三つもあるわけではない自分の名を失うのを惜しんで、私は埋れ木のように人知れず恋しく思っています。成り行きは分からないままに)秋風の 千江の浦廻(うらみ)の 木積(こつみ)なす 心は依りぬ 後(にち)は知らねど(― 秋風の吹く千江の浦廻の木屑が岸に寄るように、私の心はあなたによってしまいました)白細砂(しらさなご) 三津の黄土(はぬふ)の 色に出(い)でて いはなくのみそ わが戀ふらくは(― 表だって言わないだけです、私の恋していることは)風吹吹かぬ 浦に波立つ 無き名をも われは負へるか 逢ふとはなしに(― 風の吹かない浦で波が立つように、何もないのに私は噂を立てられた。恋人に逢うというのではなく。 別解:私は女だから仕方がないと思って)菅島(すがしま)の 夏身の浦に 寄する波 間(あいだ)も置きて わが思わなくに(― 私はあなたを始終思っているのに)淡海(あふみ)の海 奥(おき)つ島山 奥まへて わが思ふ妹(いも)が 言(こと)の繁けく(―行末かけて私が大切に思っている妹に対して、人の噂があれこれと多くて心配である)霰(あられ)降り 遠つ大浦に 寄する波 よしも寄すとも 憎からなくに(― たとい、あの人と噂を立てられても私はあの人を憎くはないのだから、かまいはしない)紀の海の 名高(なたか)の浦に 寄せる波 音高きかも 逢はぬ子故に(― 人の噂の高いことだなあ、逢いもしないあの子なのに)牛窓(うしまど)の 波の潮騒(しおさゐ) 島響(とよ)み 寄さえし君は 逢はずかもあらむ(― 大きな噂を立てられたわが君は、私に逢ってくださらないのであろうか)沖つ波 邊波(へなみ)の 來(き)寄(よ)る 左太(さだ)の浦の この時(さだ)過ぎて 後戀ひむかも(― この良い時期が過ぎてしまって、後で恋しく思うだろうか)白波の 來寄(きよ)する島の 荒磯(あらそ)にも あらましものを 戀ひつつあらずは(― 白波の寄せてくる島の荒磯ででもあればよかった。こんなに恋しく思っていずに。荒磯には波だけでも寄せてくるが、私には何も寄せてこない)潮満(み)てば 水沫(みなわ)に浮かぶ 細砂(まなご)にも われは生(い)けるか 戀は死なずて(― 潮が満ちてくると水の沫に浮かぶ細砂のように、はかなく私は生きていることだ。恋に苦しんで死にもしないで)住吉(すみのえ)の 岸の浦廻(うらみ)に しく波の しばしば妹を 見む縁(よし)もがも(―住吉の岸の浦廻に次から次へと押し寄せてくる波のように、しばしばあの子に逢う手段が欲しい)風をいたみ 甚振(いたぶ)る波の 間(あひだ)無く わが思ふ君は 相思ふらむか(― 風が激しいのでひどく立つ波の間がないように、間無く私が心を寄せているわが君は、今頃私を思っていて下さるだろうか)大伴の 三津の白波 間(あひだ)無(な)く わが戀ふらくを 人の知らなく(― 大伴の三津の白波のように絶え間なく私が恋い慕っているのを、あの人は知らないことよ)大船の たゆたふ海に 碇下(いかりおろ)し 如何(いか)にせばかも わが戀止(や)まむ(― 大船の揺れるのを錨を下ろして鎮めるけれど、どうすれば私の恋心は収まるだろうか)みさご居(ゐ)る 沖の荒磯(ありそ)に 寄する波 行方(ゆくへ)も知らず わが戀ふらくは(― みさごのいる沖の荒磯に寄せる波のように、私の恋は行方も分からないことであるよ)大船の艫(とも)にも 舳(へ)にも 寄する波 寄すとわれは 君がまにまに(― 私達の噂を立てようとも私は、わが君の思いのままにいたします)大海に 立つらむ波は 間(あいだ)あらめ 君に戀ふらく 止(や)む時も無し(― 大海に立つという波は間があるでしょうが、わが君に対する恋は止むときがありません)志賀(しか)の海人(あま)の 火氣(けぶり)焼き立てて 焼く塩の 辛(から)き戀をも われはするかも(― 志賀の海人が煙を立てて焼く塩のように辛い恋、つらい恋をしています)なかなかに 君に戀ひずは 比良(ひら)の浦の 白水郎(あま)ならましを 玉藻刈りつつ(―なまじっか君に恋せずに、いっそ比良の浦の海人になればよかった)鱸(すずき)取る 海人の燈火(ともしび) 外(よそ)にだに 見ぬ人ゆゑに 戀ふるこのころ(― スズキを釣る海人の灯火のように、外目にすらも見ない人だのに、私はその人を恋しく思うこの頃である)湊入(みなといり)の 葦分小舟(あしわけをぶね) 障(さはり)多み わが戀ふ君に 逢はぬ頃かも(― 港に入る葦分け小舟が障りが多いように、障害が多くて、恋しいわが君に御逢いできないこの頃です)には清(きよ)み 沖へ漕(こ)ぎ出(づ)る 海人舟(あまぶね)の 楫(かじ)取る間(ま)無き 戀もするかな(― 海面が綺麗なので、沖へ漕ぎ出す海人舟が櫓を暇なく漕ぐように、絶え間なく恋心が湧いてくることである)あぢかまの 塩津(しほつ)を指して 漕ぐ船の 名は告(の)りてしを 逢はざらめやも(― あなたに私の名を申しましたのに、どうしてお逢いせずにいられましょうか)大船に 葦荷(あしに)刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも(― 大船に葦荷を刈って積んでいっぱいになっているように、妹は私の心いっぱいになっていることだ)驛路(はゆまぢ)に 引舟渡し 直乗(ただのり)に 妹は心に 乗りにけるかも(― 駅に通じる道で曳舟を引っ張って真っ直ぐに渡っていくように、妹は私の心に一筋に乗っていることだ)
2024年07月08日
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コリアー 私はただ次の事を理解しているだけなのだよ、結婚式の時よりももっと君を愛しているのだよ。ヘスター (静かに)あなたは結婚式の時は私を愛してなどはいなかったわ、ビル。そして今も私を愛してなどはいないし、これからだってそうでしょうよ。コリアー ヘスター…。ヘスター 私は単なる名誉の所有物でしかなかったし、今は更に一回盗まれたから更に価値が上がった所有物と化したのよ。それだけのことよ。コリアー (傷付いて)君は何を言っているのだろうか。ヘスター (仰天してしまい)あなたが私を無理に強いてそう言わせたのよ、ビル。私があなたを傷つけて楽しんでいると思うでしょうね、よりによってあなたを選んで。多分、あなたはもう行ったほうがいいわ、そして別の機会にお話をしましょうよ、お互いがもっと冷静になれた時に。コリアー いや、今、もっと話し合う必要があるよ。君は言ったよ、私が結婚した時に君を愛していなかったと。ヘスター 私には解っていたことです。コリアー それでは何故、僕は君と結婚したと思うのかね、何故、君は結婚を申し出たのだろうか。ヘスター (途中で遮って)分かります、ビル、分かりますわ。私に最悪の伴侶だったなどと思い出させる必要はないのですよ、私は常にその事を意識していたのです。ああ、私はあなたが私を愛していたから私と結婚した事を否定したりはしませんよ。あなたの考えている愛情でね。そして私の方も、私の考える愛情で以てね。問題なのは、その両者が食い違っている事なのよ、分かるでしょう、ビル。私にはもっとあなたに与えられる物があるのですよ、もっとたくさんの物、あなたが望みさえすればの話ですがね。コリアー どうして君はそんな事を言うのだろうか。私は君の愛情を、分かっているはずなのだが…。ヘスター いいえ、ビル。あなたは単に愛情ある妻を望んでいただけなのよ。世界がまるで違っているのですよ。 (間)コリアー 君に想像できるのだろうか、君のスタディオと仕事との哀切な物語を私に信じろとでも言うのだろうかね。私には君が将来をどのように視覚化しているのか、正確には理解できない。(ヘスターは黙っている)君はフレディーを決して手放さないだろう、ヘスター。君には出来ないのさ、(ヘスターはまだ黙っている、懇願するように)ヘスター、君よ、君の言う私と私の君への感情は正しいようだが、私は君の唯一の人生のチャンスを提案したいのだよ。何故受け取ることが出来ないのだろうか、結局は、兎に角上手く幸福に運んでいたじゃあないかね、かつては。ヘスター はい、そうでしたわ。とても幸福にね。コリアー それで、どうなるのかな…。(ヘスターは答えない。コリアーはへスターを抱いてキスした。彼女は彼を邪魔しない、が、無反応である。しばらくしてから、彼は彼女を手放した)ヘスター お分かりでしょうが、私は違う人間になっているの。(間) もう、行ったほうがいいでしょう、(コリアーは彼女から視線をはずし、部屋の中を見回す) (堪えきれずに)私は、大丈夫ですわ。(コリアーは頷いて、ドアーの所に行く)コリアー 君は依然として離婚を欲しているのだろうかね。ヘスター はい、ビル。それが最善だと思うの。コリアー 話し合うべきことが沢山にある、事務的な事柄だが。ヘスター はい、そうでしょうね。コリアー 当面のお金は必要ないのだろうかね。ヘスター お願いよ、ビル。コリアー さようなら、それでは…。ヘスター さようなら。(彼は彼女を困惑した面持ちで、酷く面倒そうに見た。彼は最後の訴えをしようと考慮するように見える。ヘスターは彼の視線を避ける。コリアーは肩をすくめてから去る。ヘスターは独りで取り残された。ワインをひとすすりする。彼女が腰を下ろそうと動き始めた時に、ドアの鍵が回される音がした。彼女は急いで振り向いた。彼女は急いで台所と仕切られた場所に移動して、表面のドアーから見えないようにした。ドアーが開いてフィリップ・ウエルチがこっそりと姿を現した。彼女は奥まった場所を離れて出てきた)ヘスター フレディーなの…。(フィリップは急に向きを変えた。彼は非常に狼狽している)フィリップ ああ。ヘスター どうやって入ったのですか。フィリップ フレディーなんですよ、彼が鍵を貸してくれて、彼は自分のスーツケースを持ってきてくれと、彼はその中に全部の洗顔道具を入れているのだそうで、明瞭に、今夜それが必要だと言うのですよ。ヘスター 彼は今夜何処に行くつもりなのでしょうか。フィリップ (工合が悪そうに)知りません。ヘスター 彼は今、何処なんです。フィリップ あのォ、あの場所は何というのか…。ヘスター 何処ですか。フィリップ ウエストエンドの何処かです。ヘスター ギリシャ通りですか。フィリップ 分かりません。 (間)ヘスター 分かりました、彼とはどのくらい一緒にいたのですか。フィリップ 九時からです。ヘスター そして、三時間あれば随分と色々の事を話したでしょうね、特に彼が酔っている時には。フィリップ 彼は酔っていませんでしたよ。少なくとも彼の言うことはまともでした。ヘスター (厳しく)本当ですか…。フィリップ (少しばかり年配めいた口調で)コリアー夫人、少し申し上げても宜しいでしょうか。ペイジはとても僕に対して率直でした。実に率直そのもので、彼の打明話を誘ったわけではないのですがね、それで僕は全体の事情を把握したわけです、お分かりですか、それで僕はこの瞬間にあなたが感じているに相違ない事を理解できるのですよ。ヘスター そうなのですか、ウエルチさん。フィリップ 僕は恋愛をしていましたよ、ご承知でしょうが。事実、一年前には結婚で破局を迎える寸前でした、僕がある娘に夢中になってしまいましてね、実際ひどいタイプの相手だった、全く破滅的でしたね、自分が愛している誰かを諦めるのはどんなことなのかを知ったと言う訳ですよ。それで、これは実に僭越至極なことなおですが…。ヘスター いいえ。フィリップ (勇気づけられて)さて、こう思うわけなんです、ある種、あなたが努めて鉄で武装してあなた方お二人にとって最善の道を進まれる事を希望するのです。大変だ、それは厳しい道でしょう、でも僕はよく覚えているのです、その娘は、女優でしたが、彼女は有名だったりはしませんでしたが、僕は一人きりである日、座って考えたのです、自分に言ったのですよ、ご覧よ、肉体的には彼女は君が望んでいる世界で全てであろう、他方では、彼女は何なのだ。何でもないぞ、そこで僕にできたことは彼女に手紙を書く事だった。そしてそれから僕は二週間ほど一人きりで旅に出た、そして勿論、地獄を味わいましたが、次第に精神状態が鮮明になってきた。そして戻った時には僕は森を抜け出していたのです。ヘスター 喜ばしいことですわ。どちらに行かれたのですか。フィリップ ライム・レジスです。ヘスター とても綺麗な場所ですね。私も知っています。フィリップ 勿論、あなたのためにはイタリアとか南フランスとか言った場所の方がより良いでしょうがね。ヘスター 何故にライム・レジスより良いのでしょうかね。フィリップ 完全に雰囲気を変える為です、よい気候、誰もあなたを知らない、多くの時間を使って考え尽くす、そして、僕が思うに、あなたは正直に考えをまとめれば、全てが実に些細な事柄だったと容易に気付くはずですよ。釣り合いの取れた考え方をする時にです。詰まりは、お説教好きとか何とかになろうとしないで、この人生で勘定に入れなければいけないのは精神的な価値なのですよね、肉体的な側面は実際には大して重要ではないわけですね。客観的に言って、そう御思いになりませんか。ヘスター (重々しく)客感的言えばですね。(退室を指示するのを諦めて)さて、とてもご親切にウエルチさん、こうした助言を下さって、とても感謝しています。フィリップ いいえ、どう致しまして。その事で僕を叱りつけたりなさらなかったので嬉しいのです。分かりますか、ペイジは僕に全部の事情をすっかり話して、僕は非常に興味を掻き立てられたのです、何故ならば、こういった事柄は人間性に光を当てることになりますからね。ヘスター はい、そう思います。フィリップ カバンを受け取っても宜しいでしょうか。ヘスター ドアの向こう側に置いてあります。(フィリップは寝室に入る。そしてスーツケースを手にして直ぐ姿を現した)何処へ、フレディーはあなたにそのカバンを持ってきてほしいと依頼したのですか。駅とかその他の場所でしょうか、それとも、ホワイト・エンジェル迄でしょうか。フィリップ ホワイト・エンジェルまで…、(突然に言いやめた) (間) (大人しく)ホワイト・エンジェルに彼は来るのです。ヘスター (静かに)そのカバンを下に置いてくださらない、そして、行ってくださいな。フィリップ それは出来かねます、彼に私が持っていくと約束したのですから。分かりました、お休みなさい。(彼はドアに向かう。ヘスターがその前に立って、急いで鍵を回した。彼女は鍵を取り外してポケットにいれた。次に電話に向かっていき、そこで電話帳をめくる)ヘスター 私はこのメロドラマティックな身振りをお詫びいたします。でも、少しだけあなたを足止めしなければならないのです。(彼女は電話番号を回し始めた)長くはお留めしませんよ、クラレット瓶に残りがありますので、良かったらどうぞ。フィリップ (体を固くして)ねえ、僕は実際の所…。ヘスター どうぞお座りくださいな。あなたは今人間性の素晴らしい研究を再開できるのです。(彼女は番号を回し続ける。フィリップは立って彼女を見守っている) もしもし、ホワイト・エンジェルですか、ペイジ氏はいますでしょうか、(声を高めて)ペイジ氏です、そうです、ああ、彼は…、ジャクソン夫人、いいえ、ジャクソン、はい、(フィリップに)向こうでは音がとてもうるさいのです、(間)もしもし…、あなた、ヘスターです、電話を切らないで、口喧嘩はしないわ、約束します、約束するわよ。私はただ仕事のことを知りたいだけよ、それだけ。(声を高めて)その仕事…、相手の人には会ったのですか。ああ、それは良かったわ、分かります、良かったです、どのくらい直ぐにですか、それの後直ぐになの…、ああ、フレディー、いいえ、ごめんなさいね、そんな風に言うのを聞いているだけよ、それだけよ。(声を高めて)そう言うのを聞いているだけよ…、ねえ、あなたのカバンのお使いは此処に居るわ、あなたが三日間欲しかった物の半分も入ってはいない、出発するまで何処にいるのですか…、いいえ、それで結構よ、言わなくてもいいの、言いたくないのなら、私はただ、地方なのか、町なのかを言いたかっただけよ、さあ、思ってみてよ、フランネルのシャツはカバンに入っている、それで、次はツイード製の服が必要なのね、分かります、残りの品についてはどうしましょうかね、ああ、何時それを郵送したのですか…、私が明日受け取ればいいわけね、それで……、チャーリング・クロスの衣類室…、分かりました、はい。
2024年07月05日
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ちはやぶる 神の齊垣(いかき)も 超えぬべし 今はわが名の 惜しけくも無し(― 神社の神聖な齊垣でさえも超えてしまいそうです、恋心の苦しさで。私はもう名も何も、惜しくはありません)夕月夜(ゆふづくよ) 暁闇(あかときやみ)の 朝影に わが身はなりぬ 汝(な)を思ひかねに(― 朝影のようにやせ細ってしまったよ、お前を思うに耐えかねて)月しあれば 明(あ)くらむ別(わき)も 知らずして 寝(ね)てわが來(こ)しを 人見けむかも(― 月が出ていたので、外では夜も明けたかどうかも分からずに、寝過ごして帰ってきた私を、人が見ただろうか)妹(いも)が目の 見まく欲(ほ)しけく 夕闇の 木(こ)の葉(は)隠(ごも)れる 月待つ如し(― 妹の顔を見たいのは、ちょうど夕闇の木の葉に隠れて出て来ない月を待つようなものです)眞袖もち 床(とこ)うち拂ひ 君待つと 居(を)りし間(あひだ)に 月かたぶきぬ(― 両袖で床を打ち払って、わが君をお待ちする積りで坐っておりますうちに、月が傾いてしまいました)二上(ふたがみ)に 隠らふ月の 惜しけども 妹が手本(てもと)を 離(か)るるこのころ(― 二上山に隠れる月のように惜しいけれども、妹の袂を離れているこのころです)わが背子が ふり放(さ)け見つつ 嘆くらむ 清き月夜(つくよ)に 雲なたなびき(― わが背子が振り仰いで見遣りながら今でも嘆いているであろうこの清い月に、雲よ、かからないでおくれ)眞澄鏡(まそかがみ) 清き月夜(つくよ)の 移(うつ)りなば 思ひは止(や)まず 戀こそ益(ま)さめ(― 清く照る月が空を渡っていったなら、恋しい人に対する我が思いはやまず、恋しさは一層勝るであろうに)今夜(こよひ)の有明の 月夜(つくよ)ありつつも 君をおきては 待つ人もなし(― 私にとってあなた以外には誰もお待ちする人はなかったし、これからもないのです)この山の 嶺に近しと わが見つる 月の空(そら)なる 戀もするかも(― この山の嶺に近いなあと私が見たあの月が手に取れないように、憧れるだけの中空な恋をすることだ)ぬばたまの 夜渡る月の 移(ゆつ)りなば さらにや妹(いも)にわが恋ひ居(を)らむ(― 夜空を渡っていく月が移って行ったら、今よりも一層激しく妹を恋しく想い続けるでしょうね)朽網山(くたみやま) 夕居(ゐ)る雲の 薄れ行かば われは戀ひむな 君が目を欲(ほ)り(―たくみ山に夕方かかっている雲が薄れていったならば、私は恋しく思うであろう。わが君の顔を見たくて)君が着る 三笠の山に 居(ゐ)る雲の 立てば纘(つ)がるる 戀もするかな(― 三笠の山にかかっている雲が消え失せると直ぐ、かかって絶えないように、止むときもない恋をすることであるよ)ひさかたの 天(あめ)飛ぶ雲に ありてしか 君を相見む おつる日なしに(― 天を飛ぶ雲であったならばなあ、あなたをかかさずに見ることができるように)佐保の内ゆ 嵐の風の 吹きぬれば 還(かへ)るさ知らに 嘆く夜そ多き(― 佐保の地内を嵐の風が激しく吹くので、いつ帰ったらよいのかわからなくて、嘆く夜が多いことです)愛(は)しきやし 吹かぬ風ゆゑ 玉匣(たまくしげ) 開(あ)けてさ寝にし われそ悔(くや)しき(― ああ、心を寄せて下さるのではなかったのに。おいでを待って、戸を開けて寝た私の愚かさが後悔される)窓越しに 月おし照りて あしひきの 嵐吹く夜は 君をしそ思ふ(― 窓越しに月が照って山の嵐の吹く夜は、わが君の事を思う)川千鳥 住む澤の上(へ)に 立つ霧の いちしろけむな 相言ひ始(そ)めたば(― 川千鳥の住む沢の上に立つ白い霧がはっきりと見えるように、人目に立つことだろうな。互いに逢い始めたならば)わが背子(せこ)が 使を待つと 笠も着ず 出でつつそ見し 雨の降らくに(― わが背子の使を待つとて、笠もかぶらずに戸外に出てみたことである。雨の降るのに)韓衣(からころも) 君に打ち着せ 見まく欲り 戀ひそ暮らしし 雨の降る日を(― 外国風の洒落た着物をわが君に着せてみたいと思い、雨の降る一日を、君を恋いつつ暮らしたことである)彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の小屋(をや)に こさめ降り 床(とこ)さへ濡れぬ 身に副(そ)へ吾妹(わぎも)(― あっちの赤土の所の小屋は、小雨が降って床までが濡れてしまった。私の身に寄り添いなさい吾妹よ)笠無(な)みと 人には言ひて 雨障(あまつつ)み 留(とま)りし君が 姿し思ほゆ(― 笠がないからと人には言って雨に降込められて帰らずにいたわが君の姿が、今も目の前に見える)妹(いも)が門(かど) 行き過ぎかねつ ひさかたの 雨の降らぬか 其(そ)を因(よし)にせむ(― 妹の家の門の前を通り過ぎることができない。雨でも降らないかなあ。それを口実にして立ち寄ろうものを)夕占(ゆうけ)問(と)ふ わが袖に置く 白露を 君に見せむと 取れば消(け)につつ(― 夕占をする私の袖に置く白露をあなたに見せようと手に取れば消えてしまった)櫻麻(さくらを)の 苧原(をふ)の下草 露しあれば 明(あか)してい行け 母は知るとも(―桜麻の麻原の下草は露に濡れていますから、私の家で夜を明かしておいでなさいな、母が気づこうとも)待ちかねて 内には入らじ 白栲(しろたへ)の わが衣手(ころもで)に 露は置きぬとも(― あなたのおいでを待ちきれずに内に入ることは致しますまい。白栲の私の袖にたとい露は置こうとも)朝露の 消(け)やすき わが身老いぬとも また若(を)ちかへり 君をし待たむ(― 朝露のように消えやすいわが身は、たとい年老いようとも、再び若返ってわが君をお待ちしましょう)白栲の わが衣手に 露は置き 妹は逢はさず たゆたひにして(― 私の袖に露は置くけれども妹は逢ってくれない、気持が揺れていて)かにかくに 物は思はじ 朝露の わが身一つは 君がまにまに(― あれこれと物思いは致しますまい。朝露のように儚い私の身一つは、どうぞあなたのお心のままに)夕凝(ゆふこ)りの 霜置きにけり 朝戸(あさと)出(で)に はなはだ践(ふ)みて 人に知らゆな(― 夕方凝った霜が庭に置いています。朝家を出る時にひどく踏み乱して、あなたのおいでを人に知られなさいますな)斯(か)くばかり 戀ひつつあらずは 朝に日(け)に 妹(いも)が履(ふ)むらむ 地(つち)にあらましを(― こんなに恋の思いに苦しんでいずに、いっそ朝に昼に妹が踏んでいる土になればよかったのに)あしひきの 山鳥の尾の 一峯(ひとを)越え 一目見し兒に 戀ふべきものか(― たった一目見ただけの児を、こんなにも恋しく思うべきであろうか)吾妹子(わぎもこ)に 逢う縁(よし)を無み 駿河(するが)なる 不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の 燃えつつかあらむ(― 吾妹子に逢うきっかけがないので、駿河の国の不尽の高嶺のように心の中で燃え続けていくことであろうか)荒熊の 住むといふ山の 師歯迫山(しはせやま) 責(せ)めて問ふとも 汝(な)が名(な)は告(の)らじ(― 人が責め立てて訊きただしても、決してあなたの名は申しますまい)妹が名も わが名も立たば 惜しみこそ 布士(ふじ)の高嶺(たかね)の 燃えつつ渡れ(― 妹も私も、名を汚しては惜しいと思うからこそ、心の中では不尽の高嶺のように燃えつつも外には現さずに焦がれ続けているのに、私に誠意が無いように責めるとは)行きて見て 來(く)れば戀しき 朝香潟(あさかがた) 山越(ご)しに置きて 寝(い)ねかてぬるかも(― 恋しい人のいる朝香潟を山越しにおいて、私は眠れない)安太人(あだひと)の 魚梁(やな)うち 渡す瀬を速み 心は思うへど 直(ただ)に逢はぬかも(― 安太人が魚梁を打つ瀬の流れが激しいように、周囲の状況が厳しいので心では思っているが直接逢えないことである)玉かぎる 石垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りには 伏して死ぬとも 汝(な)が名は告らじ(― 家にこもったまま人知れず倒れふして死のうとも、あなたの名は人に打ち明けはしません)飛鳥川(あすかがは) 水行き増(まさ)り いや日けに 戀の増(まさ)らば ありかつましじ(― 飛鳥川の水が増して行くように日増しに恋心が募ったなら、とてもいられないことであろう)眞薦(まこも)刈る 大野川原(おほのかはら)の 水隠(みこも)りに 戀ひ來(こ)し妹(いも)が紐解くわれは(― 密かに慕い続けてきた妹の紐を今解くことである、私は)あしひきの 山下響(とよ)みゆく水の 時ともなくも 戀ひ渡るかも(― 山下を響かせて流れていく水の時を定めないように、いつも恋しく想い続けております)愛(は)しきやし 逢はぬ君ゆゑ 徒(いたづら)に 此の川の瀬に 玉裳ぬらしつ(― ああ、逢ってくださらないあなたですのに、虚しく私はこの川の瀬で玉裳を濡らしてしまいました)泊瀬川(はつせかは) 速み早瀬を 掬(むす)び上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも(― 泊瀬川の流れが速いので、私に代わって早瀬の水を手に結んで、もっと欲しいかと私に優しく訊ねたわが君、ああ、今はもういないのだ)青山の 石垣沼(いはかきぬま)の 水隠(みこも)りに 戀ひや渡らむ 逢ふ縁(よし)を無み(― 青山の石で囲われた沼が水で隠れるように、隠れ忍んで想い続けることであろうか。逢う手立てがなくて)
2024年07月04日
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ヘスター 彼がその事をあなたに話したのですか。エルトン夫人 いいえ、あなた。彼が此処に移り住んでだ後で、彼宛の手紙が来たのですよ、カルト・ミラー医学博士と書かれた。そして、それからその事件を覚えています、それについてとても多くの記事が書かれていましたよ。勿論、私は彼にその事を私が知っている事は言いませんでしたが彼は推測していたみたいでして、私が、彼がいつも部屋を小奇麗に保っていると話している時に、彼がこう言ったのですよ、そうですね、エルトン夫人、部屋を小奇麗にする習慣は私は刑務所で覚えたのですよ。そう言った事を。その時だけですね、彼が事件について触れたのは。その後直ぐに彼は私の夫を診察してくれるようになったのでっす。人々が彼をどんなに酷く扱ったかは言語に絶しますよ。ああゆうお人が競馬の予想屋をしていることを想像してくださいな、あなたには面白くもない無駄話でしょうがね。ヘスター 彼は何故あんな仕事を引き受けたのでしょうか。エルトン夫人 乞食には選択の余地は与えられていませんよ。もしも彼の患者の一人が彼を可哀想と情けを掛けた、それが予想屋だった。そう、彼は食わなければいけなかった。とにもかくにも、彼のあのカバンに何が入っているかお教えしますよ、もし本当にあなたが知りたいと望むのでしたらね。彼は毎夜、小児麻痺の病院に行って働いているのです、無料奉仕です、当然に。彼の以前の専門だった、明らかにその種の施設で働いていた…。ヘスター 医療関係簿への登録は出来ないのでしょね。エルトン夫人 ええ、ダメでしょうね。望みはありませんよ。そう言わざると得ないでしょうね。あなたは人というものがどんな物か、そして、彼がした事は、そうですね、人々が容易に許す種類の事柄ではないのよ。そう思うわ。ヘスター でも、貴女はそれを許した、そうでしょう、エルトン夫人。エルトン夫人 ああ、そうね。私はこの場所で余りにも多くの事柄に遭遇して、肝を潰したりさせられた。一つの世界を形成するくらいの種類の体験、結局ね。十一号室にあるひと組の男女が以前に住んでいたの、(彼女は突然に止める)彼が階段の上にいるのが聞こえるわ。(彼女はドアーを開ける。ミラーが階段を下りてくる)下に降りて、夫を準備させましょうか。ミラー お願いします。エルトン夫人 申し訳ありませんが、ペイジ夫人に眠り薬を差し上げて頂けませんか。ミラー 私もそう考えていました。エルトン夫人 結構ですわ、(ヘスターに)それでは、お休みなさい。もし何か用件がありましたら電話してくださいね、私はいずれにしても夫と一緒に明け方まで起きていますので。(彼女は去る。ミラーは部屋に入ってきて、ポケットからビンを取り出した。二錠の錠剤を取り出して、へスターに渡した)ヘスター 有難う、ドクター。(彼女は錠剤をテーブルの上に置いた)ミラー 私はそう呼ばないようにお願いしましたよ。ヘスター 忘れておりました、御免なさい。ミラー 直ぐにお休みになられますか。ヘスター もうじきに…。ミラー (行こうとして向きを変えた)あまり、時間を伸ばさないようにしてください。ヘスター 誰もが今夜は私を気遣って下さいますわ。ミラー びっくりなさいましたか。声が階段を伝って聞こえるのです、この家では。ヘスター フレディーと私ですか。(ミラーが頷いた)皆が我々の声を聞いた、と思います。尊敬すべき住人の全てが肘を付き合って相手の注意を促し、言うのです、あの呑んだくれのボーイフレンドは彼女を見捨ててしまった。良くしてやればいいものを。ミラー 私はそうは言いませんでした。しかも、私は尊敬すべき住人でもありませんし。ヘスター (単純に)私はどうしたらよいのでしょうか。ミラー 私があなたにお教え出来るなどと、どうして思われるのですか。ヘスター かつてあなたはガスストーブにどのくらいまで近づきましたか。(間、ミラーは突然に彼女から離れた)ミラー エルトン夫人、は…。(彼はへスターの方に向き直った。唐突に)ミラー あなたは私の助言を求めましたね。この錠剤を飲んで、今夜は眠りなさい。朝には、生き続けるのです。 (ドアーの所でノックの音がする。へスターが開ける。コリアーが外に立っている。彼は晩餐用の服装である)ヘスター ビル。コリアー 私はお詫びをするつもりはない。私は君に会う必要があった。(彼は室内に入って来ながらミラーを見た)ミラー (へスターに)はい、これが私があなたに与えうる最良の特別な助言です。お休みなさい。 (彼はコリアーに頷くと、外に出た。コリアーはヘスターに手に持っていた開封した手紙を手渡す、ヘスターはその封筒の筆跡を見て息を鋭く吸い込んだ。彼女はそれを急いで読みきった)ヘスター 何時届いたのですか。コリアー 分からない。二十分程前に発見されたのだ。推測するに、彼はベルを鳴らさずに投函したものらしい。(ヘスターは呆然として手紙を再読した)ヘスター (疲れたように)はい、そのようですね。(彼女は手紙を返す)コリアー 何時なんだね。ヘスター 今日の午後、あなたが帰ったあとです。コリアー 理由は何なのかね。ヘスター 昨夜起きた事ですわ、それで彼は今日の午後へべれけに酩酊して。彼は言ったのです、私たちはお互いにとって死だって。コリアー 酒に真実有り、だね。ヘスター そう言った時彼はひどく酔っていたわ。コリアー 私が思っていた以上に彼の理解力は優れていたわけだね。彼はこれから何をするつもりなのだろうか。ヘスター 彼は南米でテスト・パイロットの仕事を引き受けていたのです。コリアー 成程、(手紙を見て)このフレイズが好きなのだが、御迷惑をおかけして申し訳もありません。そこには帝国空軍の控えめに言う素敵な響きがあるね。(彼は手紙を破りクズ籠に投げ入れた) (暫く間があって)非常に気の毒だと思うよ、ヘスター。ヘスター (彼に背を見せて)大丈夫ですわ、思うに、何時かは起こるべきことだったんです。コリアー 君がこの瞬間に感じているべき感情について微かな暗示を、私は得ているのだがね。ヘスター (振り向いて、強く、明るく)ああ、私はそれを克服してしまうわよ、想像するに。あなたはとても素敵だわ、何処にいらしてたんですか。コリアー 自宅だよ、何人か客を呼んで夕食をしていたのだ。ヘスター 何方を、ですか…。コリアー オリーブとプレストン夫妻、アメリカ人の判事とその妻。ヘスター オリーブはスタイルは良いのですか。コリアー 素敵だよ、彼女は一つとても面白い事を言った。ヘスター 何と言ったのかしらね。コリアー いいや、忘れたよ。ああ、思い出した、今思い出すと、そんなには面白くもないね。彼女一流の言い方なのだが、アメリカ人の判事は怒っているキューピッドの顔をしているって。ヘスター 怒っているキューピッドですって。私、彼女がそう言っているのが目に見える…、(笑い始めて、その冗談がもたらす必然以上に長く笑い続けた)怒ったキューピッドですって…。(笑いが急にすすり泣きに変わり、ソファのクッションに顔を埋めた、絶望的に、自分の感情を抑制できないで。コリアーは彼女の横に腰を下ろした)コリアー ヘスター、頼む。私に何か君を手助けできる何かを言えれば良いのだがね。(彼は彼女の頭を撫でる) (ヘスターは次第に自己を取り戻すのに成功しつつある)私はこの瞬間に些細な慰めでしかないと承知しているのだが、これが最善なんだよ、君自身が悪い相性について語っていた。(ヘスターは目を拭って、返事をしない。コリアーは部屋を見回した)ヘスター それを言ったことは謝ります、そう言わざるを得なかったんです…。コリアー 実際、君はこの部屋に独りで取り残されてはいけないよ。ヘスター 私は、大丈夫ですわ。コリアー 私には、そうは思えないが。今夜此処を離れるべきだと思うのだがね。ヘスター 今夜ですか…。コリアー 君は昨夜此処に独りでいたのだよね、確か。ヘスター 私、何処に行ったらよいのかしら。コリアー そうだね、私には非常に仮説的な提案しか出来ないのだけれども、実際、彼が手紙で提案していた事なのだが…。ヘスター いいえ、ビル。それは不可能だわ。コリアー 君は今日の午後に私が君に話したことをこんなにも早く忘れてしまうのだね。ヘスター (声が次第に上ずる)止めてよ、ビル、お願いよ、(彼は彼女の声の緊張の調子で鎮められた。彼女は立ち上がり、少し不安定に、食器棚の所に行く)少し、お酒を召し上がりませんか。コリアー いいね。ヘスター おや、まあ、フレディーがウイスキーを全部飲んでしまっことをすっかり忘れてしまったわ。コリアー 構わないさ。ヘスター ちょっと待ってくださいな、此処にあります。(彼女はワインの瓶を持ってくる)クラレット・ワインです。昨夜はコルクを開けなかったんです。地方の酒屋から取り寄せたのです。あなたの厳しい舌に合うか分かりませんがね。コリアー 美味しいと思うがね。(彼は栓を開ける) (彼女は彼に二つのグラスを渡した。彼は両方にワインを注いだ)さてと、何に乾杯しようかね。ヘスター 将来に、しましょうよ。コリアー 我々の未来に幸あれと。ヘスター (重々しく)いいえ、ビル。単に、未来に。(二人は黙って飲む)これで、大丈夫よ。コリアー 非常に良いね。(もう一間あって)それで、未来はどんなだろうね。ヘスター まだ考えていないわ。コリアー どうあるべきだと思うのかね。ヘスター 他の場所を探せるまでは此処に居続けようと思うの。私努力してスタディオを持ちたいのです…、そして一生懸命に働きたい。私の絵を売れれば、職を得られるし。コリアー どんな種類の職かね。ヘスター 私に出来る何かがあるに違いないと思う。コリアー (静かに)それで、君は残りの人生を独りで生活していく考えなのだろうかね。ヘスター 私はまだ何も熟慮してはいないのよ、ビル。私はまだ熟考出来るような気分ではないの。コリアー それならばだが、私は君に全く限定した未来を思い描いてもらいたいのだがね。ヘスター (怒って)ビル、お願いよ、私はお願いしたのよ…。コリアー (同様に怒って)ヘスター、神に誓ってお願いだよ、君に提案していることを自覚してはくれないだろうか。ヘスター そして、私がその申し出をどんなにか拒絶しづらいかを思ってくださいな。コリアー それでは、何故拒絶する必要があるのだろうか。ヘスター そうする必要があるからです。あなたの妻としてあなたの所に戻るなんて、出来ない事ですわ、もうあなたの妻ではないのですからね。
2024年07月02日
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紅(くれなゐ)の 八塩(やしほ)の衣(ころも) 朝な朝な 馴(な)れはしれでも いやめづらしも(― 紅で幾度も染めた衣に、毎朝毎朝、馴れてはいるが、いよいよ身につけたいと思われる)紅の 濃染(こそめ)の衣(ころも) 色深く 染(し)みにしかばか 忘れるかねつる(― 紅の濃染めの衣が色濃く染まっているように、思う人に深く馴染んだからであろうか、私は忘れかねている)逢はなくに 夕占(ゆうけ)を問ふと 幣(ぬさ)に置く わが衣手(ころもで)は 又そ續(つ)ぐべき(― 恋しい人に会うことができないから夕占、夕方に道を通る人の言葉などから吉凶を占う をするというので、袖を切って幣に置くために、私は一旦切った衣の袖をまた、継合わせなければならない)古衣(ふるころも) 打棄(うちつ)る人(ひと)は秋風の 立ち來る時に もの思ふものそ(― 着馴れた古い着物を棄てる人は秋風の立って来る時に物思いをするものですよ。慣れ親しんだ妻を捨てるような人は、若い盛りを過ぎてから苦労をするものですよ)はね蘰(かづら) 今する妹がうら若み 笑(ゑ)みみ いかりみ着(つ)けし紐解く(― 鳥の羽を蘰にしたものをつけたばかりの妹は、まだ年がいかないので、微笑んだり怒ったりして、着物の紐を解くことだ)古(いにしへ)の 倭文機織(しつはたおび)を 結び垂れ 誰(たれ)とふ人も 君には益(ま)さじ(― 古来の文織りの帯を結び垂らす、それではないが、誰であっても、どの様な人であったとしてもあなたに勝る人はいないと思います)逢はずとも われは怨みじ この枕 われと思ひて 枕(ま)きてさ寝ませ(― お逢いしなくとも私は恨みますまい。この枕を私と思って、枕にしてお休みなさいまし)結(ゆ)へる紐 解(と)かむ日遠み 敷栲(しきたへ)の わが木枕(きまくら)は 蘿(こけ)生(む)しにけり(― 結んだ紐を解いて共に寝る日が遠い先なので、私の木の枕には苔が生えてしまった)ぬばたまの 黒髪敷きて 長き夜を 手枕(たまくら)の上(へ)に 妹待つらむか(― この長い夜を黒髪を敷き、手枕をして妹は私を待っているであろうか)眞澄鏡(まそかがみ) 直(ただ)にし妹を 相見ずば わが戀止(や)まじ 年は經ぬとも(― じかに妹に逢わずには、私の恋の苦しさは止まないであろう。年は過ぎようとも)眞澄鏡 手に取り持ちて 朝な朝な 見る時さえや 戀の繁けむ(― 真澄の鏡を手に持って毎朝見るように、あなたと毎朝顔を合わせてさえも恋心は中々鎮まらないでしょう)里遠み 戀ひわびにけり 眞澄鏡 面影去らず 夢(いめ)に見えこそ(― 里が遠いので久しく逢えず、恋に悩んで気力もなくなってしまいました。どうか面影がいつも夢に見えますように)劔刀(つるぎたち) 身に佩(は)き副(そ)ふる 大夫(ますらを)や 戀とふものを 忍びけねてむ(― 剣刀を身につけている男子たるものが、恋というものを堪えることができないのであろうか)劔刀 諸刃(もろは)の上に 行き觸れて 死にかも死なむ 戀つつあらずは(― 剣刀の諸刃にぶつかってひと思いに死のうか。こんなに恋に苦しんでいずに)うち鼻ひ 鼻をそひつる 剱刀 身に副ふ妹し 思ひけらしも(― 突然くしゃみをした、いつも私の身に添う妹が私を思っているらしい)梓弓(あづさゆみ) 末の原野(はらの)に 鷹狩(とがり)する 君が弓弦(ゆづる)の 絶えむと思へや(― 末の原や野で鷹狩りをするあなたの弓弦のように、あなたと私の仲が切れようなどは思いましょうか)葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓 荒木にも 憑(たの)めや君が わが名告(の)りけむ(― 葛城のそつひこ・仁徳天皇の皇后の磐之媛の父親で、武内宿禰の子供 の使う有名な強い新木の真弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、私の名を人におもらしになられたのでしょうか)梓弓 引きみ弛(ゆる)へみ 來(こ)ずは來(こ)ばそ 其(そ)を何(な)ど來(こ)ずは 來(こ)ば其(そ)を(― 梓弓を引いたり緩めたりするように、気を揉ませて、来ないなら来ないのだし、来るなら来るのだ。それをどうしてやきもきしているのだろうか)時守(ときもり)の 打ち鳴(な)す鼓 數(よ)みみれば 時にはなりぬ 逢はなくも怪し(― 時守の打ち鳴らす鼓の数を数えてみると、逢う時になった。それなのに逢わないのはおかしい) 時守(ときもり)とは時刻を知らせる役人のこと。陰陽寮に属し、漏刻師に率いられ時刻によって鐘楼を打ち鳴らす役。燈(ともしび)の 影にかがよふ うつせみの 妹(いも)が笑(ゑ)まひし 面影に見ゆ(― 灯火の影にちらちらとする現実の妹の微笑みが、今、面影に浮かんで見える)玉鉾(たまほこ)の 道行き疲れ 稲筵(いなむしろ) しきても君を 見むよしもがも(― 繰り返して、あなたに逢う手立てが欲しい)小墾田(をはりだ)の 板田の橋の 壊(こぼ)れなば 桁(けた)より行かむ な戀そ吾妹(わぎも)(― 小墾田の橋が壊れたならば、その橋桁を渡っていきましょう、あんまり胸を痛めなさるな、吾妹よ)宮材(みやき)引く 泉の杣(そま)に 立つ民の 息(いこ)ふ時無く 戀ひわたるかも(― 宮殿造営の用材を取る山城の泉の地の、杣に立つ民が休む時が無いように、休む時もなく恋し続けることである)住吉(すみのえ)の 津守(つもり)網引(あびき)の 泛子(うけ)の緒(を)の 浮(うか)れて行かむ 戀つつあらずは(― 住吉の津の番人がする網引きのウキの緒のように、浮いて漂っていこうか、恋に苦しんでいずに)東細布を 空ゆ延(ひ)き越(こ)し 遠みこそ 目言(めこと)離(か)るらめ 絶(た)ゆと隔てや(― 遠くにいるからこそ逢わないでいるけれど、仲を絶とうとて長く逢わずにいるのではない) *東細布は不明。布を遠くまで引き伸ばして、の意の序で逢う事も語る事もないだろうが…、と続く。かにかくに 物は思はじ 飛騨人(ひだひと)の 打つ墨縄の ただ一道(ひとみち)に(― あれこれと物思いはすまい、飛騨の工匠の打つ墨縄のように、ただ一途に信じよう)あしひきの 山田守る翁(をぢ)が 置く蚊火(かひ)の 下焦(したこが)れのみ わが戀ひ居る(を)らく(― 山田を守る老翁の置く蚊火が下の方でいぶっているように、私は人知れずに心の中で燃えて、恋に苦しんでいることだ)そぎ板以(も)ち 葺(ふ)ける板目の 合はざらば 如何にせむとか わが寝始(そ)めけむ(―私はあなたと共寝を始めてしまったが、もしあなたが将来私に逢ってくださらないばあいにはどうする積りだったのだろう)難波人(なにはひと) 葦火(あしひ)焚(た)く屋の 煤(す)にしてあれど 己(おの)が妻こそ常めづらしき(― 難波の人が葦で火を焚く家のように、すすけてはいるけれど、自分の妻こそはいつも珍しく、いいものだ)妹が髪 上竹葉野(あげたけはの)の 放(はな)ち駒(こま) 荒びにけらし 逢はなく思へば(― あの人の気持がすさんで離れてしまったらしい。こんなに逢わずにいることから考えると)馬の音の とどともすれば 松蔭に 出でてそ見るつる けだし君かと(― 馬の足音がドドと聞こえたので松の陰に出て見たことです。もしやわが君かと思って)君に戀ひ 寝(い)ねぬ朝明(あさけ)に 誰(た)が乗れる 馬の足音(あのと)そ われに聞かする(― わが君を恋うて眠れなかった朝なのに、誰の乗った馬の足音なのだ、私に聞かせて思いを募らせるのは)紅(くれなゐ)の 裾引く道を 中に置きて われや通はむ 君や來まさねむ(― 紅の裾を引いて歩く道を中にして、私が通っていこうかしら、それともわが君がおいでになられるかしら)天(あま)飛ぶや 輕の社(やしろ)の 齊槻(いはひつき) 幾世まであらむ 隠妻(こもりづま)そも(― いつまでこうして人目を憚っている妻なのであろうか) 第三句までは四句にかかる序で、意味には直接関係ないのであるが、韻文では意味は二の次で、全体の調べ、どのように恋の感情を表白するのか、作者の腕、技巧の見せ所なのだ。仇や疎かには愛妻を思ってはいない作者の真摯な気持が、天飛ぶ……、と発声させる、この辺の呼吸を読み取ることが歌を理解するポイントとなる。神名火(かむなひ)に 神籬(ひもろき)立てて 齊(いは)へども 人の心は 守(まも)り敢(あ)へぬもの(― 神域にヒモロキ・上代に神の降下するのを待つ場所として作るもの を立てて守っているように、どんな潔斎をしても人間の心は守り遂せるものではない)天雲(あまくも)の 八重雲隠(かく)れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ(― 天雲の八重雲に隠れて鳴る神の音だけが聞こえるように、あの方の評判だけを聞いて、お会いできずにいるのだろうか)爭へば 神も悪(にく)まず よしゑやし よそふる君が 悪(にく)からなくに(― 言い争ったりすると神様もお憎みになる。いいさ、噂の立てられているあのお方が憎いわけでもないのだから)夜並(よなら)べて 君を來ませと ちはやぶる 神の社(やしろ)を 祈(の)まぬ日はなし(―毎夜君が来てくださいますようにと神の社に祈らない日はありません)靈(たま)ぢはふ 神もわれをば打棄(うつ)てこそ しゑや命の 惜しけくも無し(― いつも私を御護り下さる神様も、今は私を打ち捨てて下さい、えい、命なんか惜しくもありません)吾妹子(わぎもこ)に またも逢はむと ちはやぶる 神の社を祈まぬ 日は無し(― 吾妹子にまたも逢いたいと、神の社に祈らない日はありません)
2024年07月01日
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フレディー いいや、御免、ヘス。へスター そんなに残酷にしないでよ、フレディー。どうしてそんなに残酷にするのよ。フレディー ヘス、これは我々にとって最後のチャンスなんだ。これを逃したら、もうおしまいだよ。お互いが、お互いにとって死なんだ。君と僕とが。へスター それは本当じゃないわ。フレディー 本当さ、君。そして君はその事を僕よりもずっと前から知っていた。僕はまるで木偶の坊だから、それが問題の元だった、もっと前に決着をつけるべきだったんだし、それを君は知っていた。それは、我々の頭に忌まわしい火の文字で書き込まれていた、君と僕は、お互いにとって死を意味する、と。(へスターは堪えようもなく泣いている。フレディーは彼女のところへ来て靴を手にとった)へスター まだ磨き終えていないのよ。フレディー 大丈夫さ、(靴をはく)御免よ、ヘス。ああ、神よ、申し訳ない。どうか、泣かないでくれよ。それが僕にどんな打撃を与えているか、知らないのだよ。へスター 今は駄目、ちょっとだけ、少し待ってね、フレディー。(彼は靴を履き終えると彼女に背を見せて、自分のシャツの袖で目を拭った)へスター (彼の所に行き)あなたの所持品は此処にあるわ。ひとまとめにするだけよ…。フレディー 郵送しようと思う。へスター あなたは夕食には戻ると約束したわ。フレディー 知っている。それに関しては謝るよ。(彼女にキスすると、急いでドアーの所へ行く)へスター (狂ったかのように)でも、そんな風に約束を破っちゃいけないわ、フレディー。ダメよ、夕食には戻ってらっしゃいな、フレディー。私、議論なんかしない、誓うわよ。そして、それからもしもその後で…、去っていくのなら…。(フレディーは外に出る。彼女はドアーの所へ彼の後を追う)フレディー、戻って、行かないで、今夜、私を一人にしないでよ、今夜は、今夜だけは私を一人にはしないでちょうだいな。(彼女は彼の後を追って行く。幕が閉まる) 第 三 幕場面 同じ 幕が上がるとへスターが腰を下ろしている。動かずに、緊張して、両目をじっと凝らして前の対象を凝視している。かなり長い間があって、電話が鳴る。へスターの反応は彼女が今経験している神経の緊張を明瞭に示している。彼女は受話器に手を伸ばし、手を降ろす、それから立ち上がって電話の近くに寄り、数回呼び鈴が鳴るのを待ってから受話器を手にとった)へスター もしもし、ああ、いいえ、彼は今外出しています、残念ですが、はい、そうですね、どなた様でしょうか、ああ、はい、今晩は。彼の戻る時間は正確には分かりません。今は、何時でしょうかしら、十一時十分…、もうそんな時間でしたか、ああ、いいえ、眠ってはいませんでした、ただ読書をしていたのですが、はい、間もなく戻るはずなのですがね…、ゴルフの件ですか、はい、彼から電話させましょう、彼はそちらの電話番号を知っているのでしょうかしら…、はい、良くわかりました。お休みなさい。(彼女は受話器を元に戻した。暫くそれを見つめたままで立っている。しばらくしてから、彼女は衝動的に手を伸ばして受話器を手に取ろうとして、手を伸ばしたままで、絶望したように手を下ろした。彼女は向きを変えて、また前の椅子に戻り、最初の様に前を見詰めている。ドアーの所でノックの音がする。彼女が開けると、エルトン夫人がいる。エルトン夫人 今晩は。へスター はい、エルトン夫人。エルトン夫人 ちょっとお伺いして御様子を見てみようと思ったのです。ペイジ氏は在宅ですか。へスター いいえ。エルトン夫人 暖炉に火をつけないのですか、急に寒くなりましたからね。へスター はい、大丈夫です。エルトン夫人 まあまあ、カーテンも閉めないでいらしたのですね。(半分開いているドアーをノックしてアン。ウエルチが探るように頭をのぞかせた)アン あら、失礼します。へスター 今晩は。アン 今晩は、ペイジ夫人。ひょっとしたらフィリップがこちらにお邪魔しているかと思ったものですからね…。ヘスター フィリップ、ああ、ご主人でしたね。いいえ、いらしてはおりません。アン 多分、ペイジ氏は帰宅されていると思ったのです、それで…。ヘスター (興奮して)彼はご主人と一緒なのですか。アン はい、そう思うのです。ヘスター 何処にいるのでしょうか。アン そうですね、分かりません。私は二人とは一緒に行きたくはなかったのですよ、仕事があったので。でも、二時間ほど前に出かけたので、今は…。ヘスター (アンに)どのようにしてあなたは二人と会ったのですか。アン 私どもはベルベデーレの店で夕食をとっていたのです、そしてペイジ氏がバーにいて、私達のテーブルに来たのですよ。ヘスター そうでしたか。アン 私達は殆ど彼の存在に気付かなかったのですよ、それで、ご主人はとても素敵で、友好的で、一緒に歓談したいと申し出られたのです。それから彼は私達二人にブランディーをご馳走して下さり、その後で、フィリップに新規開店のクラブにちょっと寄ってみないかと誘ったのです。ヘスター どの、新しいクラブですか。アン 名前はよく覚えていないのです。ヘスター 彼はどんな様子でしたか。アン どういう意味でしょうかね。ヘスター 酔っていましたか。アン そうですね、そんな風には感じられませんでしたが。もちろん、二時間前の状態ですがね。フィリップは全くの素面でしたから、当然に、大丈夫だと思われます。ただ、その…、全く馬鹿らしい事なのですがね、私一人残されて、気分を害したのです。ヘスター (微かに笑って)はい、分かりますわ、ウエルチ夫人。理解できます。でも、心配はご無用です、ご主人は間もなく戻られるでしょうから。アン ああ、そうですね。そう期待しております。もし彼がこちらに参りましたら、直ぐに帰るようにしてくださいな、お願いいたします。ヘスター はい、そういたします。さようなら。アン お休みなさい。(彼女は去る)ヘスター エルトン夫人、あなたは新しいクラブの名前を覚えていますか。エルトン夫人 いいえ、覚えていません。御免なさいね、あなた。ヘスター 私はカードが来ていた筈、確か、(急に)カラスの塒、だった。(彼女は電話帳の所に行き探し始めた)エルトン夫人 そうでしたね、そんな風な名前でしたね。(彼女はへスターを同情するようにへスターが名前を見つけてダイアルし始めたのを見守っている)ヘスター もしもし、ペイジ氏はそちらに行ってますでしょうか、ペイジ氏です…、はい、そうです、はい、ああ、そうですか、どのくらい前ですか…、三十分、分かりました。彼が何処に行ったか分かりませんか、分からない、いいえ、大丈夫ですわ、もし、彼が戻ってきたら、家内から電話があったと伝えてくださいな…、(狂気じみて)いいえ、電話を切らないでね、従業員さん、彼には何も言わなくて結構です、何も言わないで下さい…、そうです、その通りです、さようなら。(ヘスターは電話を切る。エルトン夫人は頭を振った)エルトン夫人 私にはまるで理解できないわ、どうしてそんな風な事が出来るのか、あんな出来事が起こった夜にあなたをひりにして外出するなんて…。ヘスター (唐突に)エルトン夫人、お仕事があったのでは?エルトン夫人 (静かに)はい、あなた。沢山ありますわ。(彼女はドアーの所に行く)ヘスター (急いで)ごめんなさいね、意地悪を言ったのではありませんよ。エルトン夫人 (向きを変えて)ああ、ご心配には及びませんよ。あなたが意地悪であるはずがありませんよ。そんな人ではありませんからね。あなたは私の秘蔵っ子なの、私の大好きな住人よ。ヘスター 私が、ですか。エルトン夫人 (頷きながら)悲しいわね、良い人よりも素敵な人を選ぶのが人と言うものでしょう、如何…。(彼女がドアーを開けたままなので、ミラーがコートを着て、ドアーの外にいるのが分かる。彼はやや大きな革の荷物を運んでいる)ああ、今晩は、ミラーさん。お仕事から早く戻られたのですね。ミラー はい。(ヘスターに)ご機嫌は如何ですか、今夜は…。ヘスター とても快調です、有難う。いつもこんなに遅くまで仕事なさっているのですか。ミラー 時々です。ヘスター その恐ろしい様な様子をしたバッグに何を入れていらっしゃるのでしょう。ミラー 何でもないです、全然、何でも。(彼は階段の方に歩いていく)エルトン夫人 ああ、ミラーさん、お尋ねしたくはなかったのですが、今夜家の亭主を診察しては下さらないでしょうかね。彼は加減が悪いのです。ミラー 五分程で戻ってきましょう。エルトン夫人 とても感謝致しますわ。有難う存じます。(彼は階段を登っていく)彼にあのカバンの事を訊いたりしないほうがよかったのですよ、あなた、彼は言うのを嫌っているのです。ヘスター (茫然としている)御免なさい、そんなには知りたかったわけではないのです。ただ、お愛想のつもりでしたのよ。(彼女は電話を見詰めている)エルトン夫人 私なら、今夜はあの機器を使わないでしょうよ。ヘスター 多分あなたは正しいわ、(腰を降ろす)エルトン夫人 何故、お休みにならないの。私が何か素敵な温かい飲み物を持ってきましょう。(ヘスターは頭を振った)それとも、ミラー医師に眠り薬をあなた用に調合して頂きましょうか。ヘスター 彼は医者なのですか、当然のことでしょうが。エルトン夫人 そうね、医者でした。ヘスター 分かります、彼は何か問題に巻き込まれたとか。エルトン夫人 どうしてそれを…。ヘスター 同類意識でしょうかしら、思うに。エルトン夫人 そうなの、彼はかつてトラブルに巻き込まれてしまった。(ヘスターが頷く)私がお話したなどとは言わないでくださいね。哀れなミラーさん、お気の毒に思うのですよ。人々に知られるのを恥じているのです…。
2024年06月28日
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フレディー やはり、そうじゃないかと思った。ここへ来る人間で大きな黒のロールスに乗っているのは大勢はいないや。へスター ミラーは何処かしら。フレディー ミラーだって…。へスター クラブで彼に会わなかった。フレディー 僕はクラブには行かなかっよ。(コリアーに)あれは同じ運転手だね。コリアー そうだね。へスター ビルは誰かが私の事故を電話したので見に来てくれたの。フレディー 成程ね、(コリアーに)あなたは、彼女の事故について聞かれたのですね。コリアー そうだ。フレディー あなたは彼女の誕生日を忘れたことがありますか。コリアー いいや。フレディー そうですか、僕はあなたが物忘れしやすいタイプだと思ったのですがね、今は判事でしたか。コリアー そうだね。フレディー しこたま金を貯め込んでいる。コリアー ある程度の額はね。フレディー まだヘスを愛していますか。へスター (鋭く)彼の言うことに耳を傾けないでよ、ビル。彼は酔っている。フレディー、寝室で横になったらどうなの。フレディー 僕は恐喝されているのだ、あなたはこんな風に脅されたことはないでしょうね。へスター フレディー、お願いだから行儀よくしてくださいな。フレディー 僕は今、行儀が悪いのかね。僕は今、判事さんに簡単な質問をしているだけなのだが。答えを単に訊きたいだけなのさ。しかも、思うに大したことじゃあない。 (彼は寝室に入り、観客は鍵が締められるのを聞く)へスター ごめんなさいね、ビル。コリアー 大丈夫だよ。へスター もう、行かれたほうがいいでしょう。コリアー そうだね。(彼は帽子とコートの方へ動き、それを手に取る。そして、不安げに躊躇っている。へスターは彼を見ずに、寝室のドアーを見ている)その質問に対する答えは、イエスだがね。へスター (理解できないで)何ですって。コリアー ペイジが今私にした質問の答えだが、イエスなのだよ。へスター ビル、お願いですから…。コリアー 済まない、(寝室を指差して)君は、本当に上手くあしらうことができるのかね。へスター ええ、神懸けて、そうよ。これは何でもないこと。コリアー 彼は少し変わったね、様子が違ってしまった。へスター 彼は最近調子が良くないの。コリアー そうかね、(彼は腕を伸ばす)それでは、さようなら。へスター 申し訳ないですね、済まないと思うわよ。もっと何か言わなくてはならないことがあるかしらね。コリアー そうは思わない。(彼は彼女に笑いかけた) (へスターは突然に彼の頬の下にキスする)へスター さようなら、ビル。(彼は彼女にほほ笑みかけてから、行く。へスターは彼の去った後でドアーを閉める。そして、素早く寝室のドアーの所に行き、ノックする)へスター (叫ぶ)フレディー、中に入れて、ねえ。(返事はない。再びノックする)フレディー、子供じみたことはしないでよ、中に入れて。(返事はない。へスターはドアーから離れてタバコの所に行く。彼女がタバコに火をつけている間にフレディーが寝室から姿を現した。彼は青のスーツに着替えている)まあ、フレディー、とても素敵だわ、何処かへ出掛けるのかしら。フレディー うん。へスター 何処へ。フレディー 仕事のことで人に会うのだよ。へスター どんな人なの。フレディー ロペスだよ、彼にさっき電話したんだよ。へスター ロペスですって。フレディー 昼食を一緒にした南米人だよ。へスター ああ、そうでしたね。忘れていたわ。それで、上手く行きそうですか。フレディー 大丈夫だろうね。へスター ああ、良かったわ。仕事を得られるのね。フレディー うん、そう思うよ。彼は実に公平な申し出をしている。勿論、彼の上司の裁量次第だがね。へスター ちょっと私に点検させてね。(彼女は彼を点検する)まあ、あなた、シャツを変えるべきですよ。フレディー 清潔なのを持っていないのだよ。へスター いいえ、あるわよ。洗濯屋は今週遅れているわ、私、明日、洗っておくわね。フレディー そうか、余りよくないかな。へスター いいえ、悪くはないわ。靴は磨かなくては。フレディー 少しこすっておくよ。へスター いいえ、お脱ぎなさいよ。私が磨くわよ。(彼女は台所に行く)あなたは靴磨きを上手にやって顔にまで磨き粉を跳ね上げる、まったく、どうやるのでしょうかね。(彼女は台所に消える。フレディーは靴を脱ぐ。へスターはブラシと磨き粉の缶を持って戻ってくる。彼女は靴を彼から受け取り、磨き始める。長い沈黙がある)仕事は、何なのですか。フレディー (口ごもりながら)それなのだが、君に言わなくてはと思っていたのだよ。(へスターは素早い視線を彼に向けた)へスター ねえ、フレディー。知りたいのですけど。フレディー ねえ、ヘス。今、ちょっと話さなければならないことがあるのだけれど…。そう簡単な事でもないのだけれど、途中で邪魔をしないで欲しいのだ、気にしないで。君はいつでも議論で僕を言い負かすから、そして、僕が心の中で事態を整理して、それがまたこんがらかったりしないようにしたいのさ。へスター 御免なさいね、フレディー。直ぐに阻止しなければならないの。この午後にしたあなたの振る舞いで、どうして心の中を綺麗に整理できるのですか。フレディー 今は大丈夫だよ、ヘス。僕はブラック珈琲を一杯飲んだからね、その後で少し歩いた。自分のしていることを承知しているよ。へスター それで、あなたはこれから何をするつもりなのですか。フレディー 南米でのテストパイロットの仕事を受けるつもりなのだ。へスター テストパイロットですって…。でも、あなたは百回ももうその仕事には決して戻らないと言っていたじゃありませんか。カナダでの衝突事故の後で、あなたは神経も判断力も残ってはいないと私に話したわよ。フレディー 勘は戻るだろう、カナダでは少し飲みすぎていたのだよ。分かっているだろう。へスター ええ、分かっているわ。それで尋問の法廷はその事を知っていた。そのロペスはそれを知っているのですか。フレディー いいや、当然に知らないよ。彼は訊きもしなかったよ。僕の神経と判断力については心配ないよ、ヘス。一二ヶ月操縦桿を握って禁酒すれば、僕はまた元のエースだよ、ベテランの死神との賭け師だよ。へスター (鋭く)そのロイヤル航空の方言を使わないでくださいな。(少し優しく)気にしないでね、これはとても重要なのよ…。フレディー そう、重要だ。へスター 南米の何処なの。フレディー リオの近くだ。へスター 分かったわ。(彼女は靴を機械的に磨き続ける)所で、何時出発するのですか。フレディー まだわからないのだよ。へスター 分からないですって。フレディー 君と僕とではない、それを君に話そうとしていたのだが。僕ひとりで行くつもりなのだ。(へスターは靴を下に置く、フレディーを見詰めながら)へスター (遂に)何故なの、フレディー。フレディー 操縦室に入るには、一人になる必要があるのだよ。へスター (殆どささやき声で)そうなの…。フレディー ああ、忌々しいや。それは本当の理由じゃない。聞いてくれよ、ヘス、どうか。(彼が自暴自棄で言葉を探るように室内をあちらこちらと歩き回っている間、沈黙がある。へスターは彼を見守っている)君はいつも言っていたね、僕は本当は君を愛してはいないのだと。そう、君の感性からすれば、そうなのだよ。でも、僕に言わせれば、僕がこれまでに人生で感じた事のないない非常に良い感情を君に感じているんだよ。これからも、そうだろうと思う。それが君と最初の場所に行った理由だし、それがずっと君と一緒にいた理由なのだし、それで、今君から離別していく理由なのだよ。へスター (とうとう)それでは何か用意されたスピーチみたいだわよ、フレディー。フレディー そうだね。少しは準備していたよ、散歩しながらも考えていた。でも、それでも本当なのだ、ヘス。僕は君が物事を成り行きに任せるのを、とても好きなのだよ。あの手紙は酷く衝撃だったよ。僕は君がしばしば不幸だと感じているのを知っていたし、僕もしばしば憂鬱だったよ。でも、僕には手がかりが掴めなかった、我々の感情の相違が、どれほどに君を傷つけていたかについて。どんな男にとっても、人生で最愛の女性を自殺に追いやった事実を知ってしまった今、何事もなかったかのように暮らして行くのは大変な事だよね。へスター (低い声で)あなたの私からの別離が、私を自殺行為から遠ざけるとでも思っているのですか。フレディー (単純に)それは、僕が冒さなければならない危険だね。僕ら二人が直面しなければならない危険だよ。(間)へスター フレディー、あなたはそんな風には私を世話する必要はないのよ。フレディー 驚かないでくれ、ヘス。御免よ、これが正直なところだよ。へスター あなたは自分を完全に理解しているわ、午前中とは全く違う気分でね。フレディー いいや、違うよ、ヘス。今度はね、それに、午前中には僕は此処にはいないだろうから。へスター 何処に行くのですか。フレディー 分からない、何処かだが…。今夜は外出するよ。へスター だめよ、フレディー、駄目。フレディー その方がいいのだ、僕は君の議論を恐れているのだから。(情熱的に)これが、正しいのだよ、君。分かっているのさ、君の口達者が僕に物事を混乱させるのだ、そして僕は茫然自失してしまう。へスター いいえ、フレディー。そうはしないつもりよ。約束する、そうしないと。今夜はここにいて下さいな、今夜は。
2024年06月27日
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言(こと)言えば 耳にたやすし 少くも 心のうちに わが思はなくに(― 言葉に出して言えば耳には大したことには聞こえませんが、心の中では深くあなたのことを思っているのです)あづきなく 何の狂言(たはこと) 今更に 小童(わらは)言(こと)する 老人(おいひと)にして(― 自分の気持をどうにもできず、どうしてこんな狂った言葉を今更、子供のように口走るのか年寄りであるのに) このままで今の私の心境になりますね…。相見ては いく久(ひさ)さにも あらなくに 年月の如(ごと) 思ほゆるかも(― 顔を合わせてからたいして長い時間もたっていないのに、幾年幾月も経ったように思われることです)大夫(ますらを)と 思へるわれを かくばかり 戀せしむるは あしくはありけり(― 立派な男子と思っている私をこれほど恋に苦しませるのは良くないことです」かくしつつ わが待つしるし あらぬかも 世の人皆の 常ならなくに(― こうして私が思う人を待つ甲斐があって、逢うことができるといいな。世の人は皆、無常なもので、何時逢えなくなるのかも知れないのだから)人言(ひとこと)を 繁みと君に 玉梓(たまづさ)の 使も遣(や)らず 忘ると思ふな(― 人の噂がうるさいのであなたに使もあげませんが、忘れていると思わないで下さい)大原の 古(ふ)りにし郷に 妹(いも)を置きて われ寝(い)ねかねつ 夢(いめ)に見えこそ(― 古びた大原の里に妹を置いて、私は眠れません。せめて夢に現れて下さい)夕されば 君來まさむと 待ちし夜の なごりそ今も 寝(い)ねかてにする(― 夕方になるとあなたがおいでになるだろうと、お待ちしていた夜々の名残なのです。お見えにならなくなった今も、眠りにつくことが出来ないのは)相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢(いめ)にも見えず 祈誓(うけ)ひて寝(ぬ)れど(― あなたは私を思ってはくれないようですね。ウケヒをして寝ても夢にもお見えになりません)石根(いはね)踏み 夜道行かじと 思へれど 妹によりては 忍びかねつも(― 岩を踏んで夜道を行ったりはすまいと思っていたけれど、愛しい妹のことなので辛抱しきれなくなって出かけて来た)人言の 繁き間(ま)守(も)ると 逢はずあらば 終(つひ)にや子らが 面(おも)忘れなむ(―甚だしい人の噂の隙を見て逢おうと、互いに逢わずにいたらば、ついには愛しい子の顔を忘れるだろう)戀ひ死なむ 後は何せむ わが命 生(い)ける日にこそ 見まく欲(ほ)りすれ(― 焦がれ死にに死んでしまった後では何にもならない。命がある間にお逢いしたいと思っておりまするのに)敷栲(しきたへ)の 枕動きて 寝(い)ねらえず 物思ふ此夕(こよひ) 早も明けぬかも(―枕が動いて、いや、輾転反則して一晩中眠れない今夜は、早く明ければよいのだが)行かぬ吾(わ)を 來(こ)むとか夜(よる)も 門(かど)閉(さ)さず あはれ吾妹子(わぎもこ)待つちつつあらむ(― 行かない私を、来るだろうと、夜も門を閉めずに、ああ、今頃、吾妹子は待っているだろうか)夢(いめ)にだに 何かも見えぬ 見ゆれども われかも迷(まと)ふ 戀の繁きに(― 夢にだけでもどうして見えないのだろうか、見えても私の目がくるめいて見えないのか。あまりの恋の激しさに)慰(なぐさ)もる 心は無しに 斯(か)くのみし 戀ひや渡らむ 月に日にけに(― 心は少しも慰められずに、こんな風に恋し続けるであろうか、月に日に苦しい思いは増すばかりで)いかにして 忘れむものそ 吾妹子(わぎもこ)に 戀はまされど 忘らえなくに(― どうしたら忘れるだろう、吾妹子に対して恋の思いは募るばかりで、忘れることは出来ないが)遠くあれど 君にそ戀ふる 玉鉾(たまほこ)の 里人(さとびと)皆に われ戀ひめやも(― 遠く離れているけれども、私が恋しているのはあなたです。里人の誰にでも私が恋したりしましょうか)験(しるし)なき 戀をもするか 夕されば 人の手まきて 寝(ぬ)らむ兒ゆゑに(― 私は、しがいのない恋をするものだなあ。日が暮れていけば人の手枕をして寝ていると思われるあの子なのに)百世しも 千代しも生きて あらめやも わが思ふ妹(いも)を 置きて嘆かふ(― 人間は百年も千年も生きているものではない。その短い命でもって、私の思う妹をただうちおいていつも嘆いてばかりいることだなあ)現(うつつ)にも 夢(いめ)にもわれは 思はざりき 古(ふ)りたる君に 此處(ここ)に逢はむとは(― 正気ででも、又夢の中ででも、私は思いませんでした、昔馴染みのあなたに此処でお逢い出来るとは)黒髪の 白(しら)くるまでと 思へれば よしこのころは 戀ひつつあらむ(― 黒髪が白くなるまで変わるまいと堅く誓った私の心持を、今解き緩めて、あなたに背いたりいたしましょうか)心をし 君に奉(まつ)ると 思へれば よしこのころは 戀ひつつあらむ(― 心さえもあなたに差し上げたいと思っているのですから、いいですわ、お逢い出来なくても、ずっと恋しく想い続けておりましょう)思ひ出でて 哭(ね)には泣くとも いちしろく 人の知るべく 嘆かすなゆめ(― 私を思い出してしのびねに泣くとも、はっきりと人が知るほどにため息をついたりなさいますな、決して)玉鉾の 道行きぶるに 思はぬに 妹を相見て 戀ふる頃かも(― 道すがらに思いがけなく妹に出逢って、恋しく思うこのごろです)人目多み 常斯(か)くのみし 候(さもら)はば いづれの時か わが戀ひざらむ(― 人目が多くていつもこんな風に待ってばかりいたら、何時、私が恋に苦しまずにいられる時があろうか)敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)離(か)れて 吾(わ)を待つと あるらむ子らは 面影に見ゆ(― 互いに離れていて、私を待っていると思われる愛しい子の姿は、目の前にありありと見える)妹(いも)が袖 別れし日より 白栲(しろたへ)の 衣片敷き 戀ひつつそ寝(ぬ)る(― 妹の袖と別れた日から私は白栲の袖を一人敷いて恋しく思いつつ寝ています)白栲の 袖はまゆひぬ 吾妹子(わぎもこ)が 家のあたりを 止まず振りにし(― 白栲の袖は織り糸が緩んでしまった、吾妹子の家のあたりに向かって止まっずに振ったところが)ぬばたまの わが黒髪を 引きぬらし 亂れてさらに 戀ひわたるかも(― 私の黒髪をひきほどき、その髪が乱れるように心も乱れて、さらに恋し続けています)今さらに 君が手枕(たまくら) まき寝(ね)めや わが紐の緒の 解けつつもとな(― いまさらにあなたの手枕をして寝ることもありますまいに、私の紐の緒がほどけて仕方がありません)白栲の 袖に触れてよ わが背子(せこ)に わが戀ふらくは 止(や)む時もなし(― 白栲のお袖に触れて以来、わが背子への恋慕は止むときがありません)夕卜(ゆうけ)にも 占(うら)にも告(の)れる 今夜(こよひ)だに 來まさぬ君を 何時とか待たむ(― 夕方の道でする占い、夕卜にも、占にもお告げのあった今夜すらもおいでにならないあなたを、おいでになるのは何時とお待ちしたらよいのでしょうか)眉根(まゆね)掻(か)き 下(した)いふかしみ 思へるに 古人(いにしへひと)を 相見つるかも(― 眉を書いて、はてな本当に逢えるのかしらと思っていた妹の姿を、今日見たことである)敷栲(しきたへ)の 枕をまきて 妹と吾(わ)と 寝(ぬ)る夜は無くて 年そ經にける(― 枕をともにして妹とわれと寝る夜はなくて、年を経たことである)奥山の 眞木の板戸を 音速(はや)み 妹があたりの 霜の上に寝(ね)ぬ(― 真木で作った板戸を叩く音が激しいからと思って、叩くのを止めて、妹の家のあたりの霜の上に寝て明かした)あしひきの 山櫻戸を 開(あ)け置きて わが待つ君を 誰か留(とど)むる(― 山桜の戸を開けておいて私が待っている君を誰が引き止めているのだろう)月夜(つくよ)よみ 妹に逢はむと 直道(ただぢ)から われは來れども 夜そ更けにける(―月が美しいので妹に逢おうと、まっすぐの道をひたすらにやって来たけれど、夜が更けてしまったなあ)朝影に わが身は成りぬ 韓衣(からころも) 裾の合はずて 久しくなれば(― 朝の影のように私は痩せてしまった、妹に逢わないで時が久しくなったので)解衣(とききぬ)の 思ひ亂れて 戀ふれども 何のゆゑそと 問ふ人もなし(― こんなに恋に苦しんで心も乱れているのに、どういうわけで苦しんでいるのだと聞いてくれる人もない)摺衣(すりころも) 着(け)リと夢(いめ)見(み)つ 現(うつつ)には 誰(たれ)しの人の 言か繁けむ(― 摺り衣を着たという夢を見た。現実には誰との噂が立つことであろうか) 衣を着た夢は、人との関係を生ずるという俗信があったのであろうか。志賀(しか)の白水郎(あま) 塩焼衣(しほやきころも) 穢(な)れぬれど 戀といふものは 忘れかねつも(― 志賀の海人の塩焼き衣のように、ナレはしたが、恋というものは忘れることのできないものだ)
2024年06月26日
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(ドアーでノックの音がする。へスターが行ってドアーを開ける。コリアーが敷居の所に居る。彼は中に入って来る)へスター 早かったですね。コリアー そうだね、私は法廷から直行したのだ。ミラー 私はちょうどおいとまするところでした、ウイリアム卿。私にはペイジ夫人の為に用達をしなければならない事があるのです。ああ。そうでした、私はこれを投函しようとしていたのでした。(ミラーは封筒をポケットから取り出して、コリアーに渡す) (ミラーは出て行く)へスター 私はあなたに電話して、フレディーが予想外に早く帰宅した事を伝えようとしていたのですが、今は彼は外出しています。(封筒を指差して)それは何かしら、領収書でしょうか。コリアー そうだと思う。(彼は封筒を開けて五ポンドの小切手を取り出した)これは侮辱しているようなものだ、彼は裏書している、「擬似職業的な奉仕に対しての謝礼として、K Miller。」と。 (へスターはコリアーが小切手をカバンに入れるのを微笑んで見ている) そう、笑いは私に向けられている。彼が話していた用事とは何なのだい。へスター 大したことではないわ。お茶を約束していたでしょう。コリアー お茶は結構だよ。数分でも貴重だよ、私は君に台所でお湯を沸かすのに浪費しないでもらいたいのだ。ほんのわずかな間でもここにいて貰えれば有難いのだよ。へスター はい、ビル、そう思うわよ。コリアー 私はたった今ペイジを見たよ。へスター 彼はあなたを見たのですか。コリアー いいや、私は車の中にいて、この通りに入る際だった。私は新聞紙を顔のところに上げていた。彼は多分私に気づかなかったろう。その上に、彼は明らかに酔っ払っていた。へスター 何故、そう思うのですか。コリアー 彼の通りを下っていく様が千鳥足だった。へスター (明るく)それはフレディーじゃあないみたいですよ、ビル。彼はこのアパートをちょっと前に出たばかりですからね。コリアー (非難する様に)へスター…、(テーブルの上のグラスを指差して)へスター 彼は友人とお酒をづっと飲んでいたのよ。(コリアーは屑入れから頭を覗かせていた空のウイスキー瓶をつまみ上げた)へスター (怒って)実際に、ビル。判事さんだって想像力を逞しく出来るわね。(彼女は例のボトルを手にして、食器戸棚に片付けた)コリアー どのくらいの時間続いていたのかね。へスター 何がですか。コリアー 昔は、彼はアルコール類には殆ど手を触れなかったんだが。へスター (短く)そうでしたかしら。覚えていないわ。コリアー 勿論、君は覚えているよ。彼はサニングデールでは酒を決して飲まなかった。彼はよく言っていたよ、パイロットとしての判断力によくないからだと。へスター (静かに)そうね、とても結構よ、ビル。ここ十か月間で彼が酒に溺れてしまったとしたら、それは私なのよ、そんな風に彼を追いやったのは。コリアー (同じように静かに)そして彼が君を自殺に追いやった。へスター 愛情よ、ビル、それが全てなの…、分かるでしょう、あなたの愛するジェーン・オースチンやアンソニー・トロロープで読んだ事よ。愛情、それは天上から優しい露となって降される。いいえ、それは間違いでしょう、分かっているわ、雨の後の日光の如くに心なごませる…、でしたね。コリアー むしろ、不幸なシェークスピアからの引用だね。続けてみたまえよ。へスター 出来ないわ、忘れてしまったわ。コリアー 愛情は雨上がりの太陽光の如くに心を和ませる、そして欲望の効果は太陽の後の嵐。へスター 太陽の後の嵐、ですか…。それは全くぴったりと来るわね、私がフレディーに感じている全ての感情みたいだわね。コリアー ありのままの事実だね、へスター。へスター (怒って)ああ、神さま、ビル、あなたは本当に思うのですか、私がフレディーに感じている在りの侭の事実をあなたに話せるとでも。今の私は非常に明晰な精神状態だわ、余りにも鮮明なの、私はこれまでに聞かされて来たの、私の頭だけが巻き込まれているのならば…、でも、ビル、在りのままの事実ね、その中で、私がフレディーに感じている事を、私も、あなたも、誰にも説明できないわよ。余りにも大きくて錯綜しているから小さな小包やレッテルを貼った欲望なんかで簡単にまとめ上げることなど出来ない相談よ。欲望は人生の全部なんかじゃない。そして死についても、同じように感じるわ。それにラベルを貼る、もし、可能ならば…。(突然に振り向いて)おや、まあ。フレディーが全部のウイスキーを飲んでしまうなんて願わなかったのに。コリアー 外に出てみないかい。へスター いいえ、私は家に留まって、発展を期待するわ。コリアー どんな発展をだい…。へスター ああ、全く大きな変化が自ずからに姿を現し易いの、フレディーが荒れ狂うときに…。(彼女は腰を掛ける、コリアーに背を向けて。彼女を見つめている間に暫く間がある)コリアー (遂に)あの夏に、我々は何だってサニングデールを選んだんだろう。へスター (窓の所で)あなたの考えだった。ゴルフがしたいと。コリアー 君は乗り気ではなかった、そう記憶している。君は海の方を希望していたね。へスター (気のない感じで)ええ。 (間)コリアー 君は彼との最初の出会いを明確には説明してくれてはいないね。へスター ええ、そうね。(又、彼女が話し始めるまでに間がある。話している間、彼女はコリアーを見ない。まるで、独り言を言うかのように)あなた達が大統領杯をプレイしている日だった。コリアー ああ、覚えているよ。へスター 私はあのゴルフクラブにあなたを呼びに行ったのよ、ヘンダーソン夫妻の家でのパーティに行こうとして。あなたはまだプレイ中だった、フレディーが一人きりで居た。彼はプレイを途中で投げ出して不機嫌だった。彼とは何度か会ったことがあった、でも、殆ど彼に注意を払わなかった、私は彼を特別にハンサムとも思わなかったし、そのR.A.F訛りが私を少し苛立たしくさせていた、と記憶するの。時代錯誤の様子だった、私の人生でも。コリアー 彼はわざとやっていたのだよ、思うに。へスター いいえ、彼の人生が1940年で終わっていたからそうしたの。彼は1940年を熱愛しているのよ。そう言った感じなの、彼は王立航空を退いてからまるで不幸だった。(しばらく間を置いてから)それで、あなたは長いことプレイにかまけていた。コリアー そう、我々は混戦だったんだ、プレイがね。記憶によると。へスター それで私とフレディーはベランダに一時間近くいたの。ある理由があって、彼はとても正直に話した、自分自身に感動的にね。彼は自分の未来にひどく心配していた、自分の人生が方向性や目的が無くて、あなたを羨ましい、輝かしい弁護士であるので…、などなど。コリアー それは彼としては立派だね。へスター 彼はとても誠実だったわ。それから突然に、彼は私の腕に手を置いて、とても保守的な言葉を囁いた、あなたの経歴の他にも色々とあなたが羨ましいと言う事について。私は笑ったし、彼も笑い返した。あたかも、罪を犯した少年のようにね。彼は言った、仕事のことだけじゃあないのさ、分かるでしょう、正直の所、あなたは僕がコレまでに会った女性の中で一番に魅力的な人だ、そいう類の事を。実際のところで、私はあまり真面目には彼の話を聞いてはいなかった。何故って、あの僅かな時間に、あれだけ密着して笑い合い、希望を持てなかった、何らの希望も全く。(間)コリアー その夜だったね、君がロンドンに次の週末には戻りたくないと言い張ったのは。覚えているのでは。へスター ええ。コリアー 君はサニングデールにも戻りたくないと、次の週末も…。へスター ええ。コリアー 何時なのかね、正確には…。へスター 九月でした。覚えていらっしゃるかしら、私が彼と一緒に劇を観にロンドンに行ったのを。コリアー しかし、クラブハウスでの面会は六月のことだった。へスター 六月二十四日です。コリアー (静かに)この二ヶ月の間に、君は何故その事を僕に話さなかったのだね。へスター もし話したとしてもあなたは何と言ったでしょう。コリアー 今言おう、君が愛していると言う男は、君よりも道徳的にも知的にも遥かに劣っているし、兎に角、絶対的に何も君とは共通点を持っていない、と。君が蒙っている物は通常のと言うよりは卑劣な逆上そのものなのだよ、直ちに通常の平静さに戻る意志の努力を傾注するのが平明で単純な義務なのだと思う。(へスターは静かに頷く。間がある)それで、君はなんと答えるのだね。へスター あなたの意見に同意致します。それでも、何も変わりません。(彼女は腕時計を見る)コリアー(とうとう)我々に子供が出来ていたら、どんなに違っていただろうか。へスター (一間あってから)現実の事で私たちいっぱいじゃありません、ビル。コリアー 思うに、子供がいても何も違わないという意味なのかい。へスター それでは私が言った事ではないわ。コリアー こう考えるのは幻想的だって、あの忌々しい別荘を貸した私の決断が引き起こした結果を考えるのはね。へスター その様な考えで御自分を痛めつけるのは良くないわ、ビル。フレディーと私はいずれにしても出会っていたのよ。もう行くべき時間じゃないのですか。コリアー (皮肉に)君は相性を信じているのだね。へスター (単純に)フレディーと私が出会ったのは運命だったの、そう信じているわ。コリアー それが現実化してみると、何と邪悪な運命なんだろう。へスター 良い相性もあれば、悪い相性もあるでしょう。私の贈り物を忘れないでね、大分苦労をして荷作りしたのですからね。(彼女は包装のところに行ってそれを手に取る。玄関の鍵が突然に開けられて、バタンと開けられた。フレディーが姿を現した。彼はしばらく敷居の所に立ってコリアーからへスターへと視線を移した。それから中に入り、後ろ手でドアーを閉めた。彼はしばし酔を覚ましているかに見える)
2024年06月25日
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振分(ふりわけ)の 髪を短み 青草を 髪にたくらむ 妹をしそ思ふ(― 童女が左右に振り分けている髪が短いので、青草を髪に添えて結いあげているであろう妹を恋しく思う)徘徊(たもとほ)り 往箕の里に 妹を置きて 心空なり 土は踏(ふ)めども(― ゆきみの里に妹を置いて、心も浮ついてしまっています。大地は踏んでいるのですが)若草の 新手枕(にひたまくら)を 枕(ま)き初(そ)めて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに(― 若草のような妻とはじめて手枕をかわしそめて、何で一夜でも間を置くことが出来ようか)わが戀ふる 事を語らひ 慰めむ 君が使を 待ちやかねてむ(― あなたを恋しく思うさまを語ってせめて心を慰めたいと思うのですが、そのあなたの使も、いくら待っても待ち付ける事が出来ないのでしょうか)現(うつつ)には 逢ふ縁(よし)もなし 夢にだに 間無(まな)く見え君 戀に死ぬべし(― 現実の世界ではお逢いする手がかりすらもありません。せめて夢にだけでも間を置かず現れて下さい、わが君よ。恋の苦しさで死にそうです)誰(た)そ彼(かれ)と 問はば答へむ 爲方(すべ)を無み 君が使を 歸しつるかも(― あれは誰ですかと訊かれたら答えるすべがないので、ゆっくり話もせずに、あなたの使を返してしまいました)思はぬに 到らば妹が嬉しみと 笑(ゑ)まむ眉引(まよひき) 思ほゆるかな(― 思いがけない時妹の家に着いたならば、嬉しさに吾妹子がにっこり笑うであろう。その眉引の様が今から思いやられる)かくばかり 戀ひむものそと 思はねば 妹が手本(たもと)を 纏(ま)かぬ夜もありき(― これほどに恋に苦しむだろうとは思わなかったので、妹の袖を枕にしない夜があった)かくだにも われは戀なむ 玉梓(たまづさ)の 君が使を 待ちやかねてむ(― せめてこうしてあなたを恋い続けて行きましょう。私はあなたの使をいくら待っても待ち付けることが出来ないでしょうか)妹に戀ひ わが泣く涙 敷栲(しきたへ)の 木枕(こまくら)通(とほ)り 袖さへ濡れぬ(― 妹恋しくて私が泣く涙が木枕を通して、袖まで濡れてしまった)立ちて思ひ 居(ゐ)てもそ思ふ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾(すそ)引き 去(い)にし姿を(― 立っては思い、坐っても思う。紅の赤い裳裾を引いて去った妹の姿を)思ふにし 餘りにしかば 爲方(すべ)を無み 出でてそ行きし その門(かど)を見に(― 恋しい思いに耐えかねたので、何ともしようがなく出かけて行った。恋人の家の門を見に)情(こころ)には 千遍(ちへ)しくしくに 思へども 使を遣(や)らむ 爲方(すべ)の知らなく(― 心の内には千度も思い思いしているけれども、使のやりようも分からなくて)夢のみに 見るすら幾許(ここだ) 戀ふる吾(あ)は 現(うつつ)に見てば まして如何にあらむ(― 夢だけに見るのですらこんなに恋しく思う私は、現実に逢ったらましてどんなでしょうか)相見ては 面隠さるる ものからに 纘ぎて見まくの 欲(ほ)しき君かも(― 逢えば決まりが悪くておのずと顔を隠してしまうくせに、引き続いて逢いたいあなたです)朝戸(あさと)を早くな開けそ 味さはふ 目が欲(ほ)る君が 今夜(こよひ)來ませる(― 朝の戸を早く開けないで下さい。お逢いしたいと思う君が、今夜はおいでになっていますから)玉垂(たまたれ)の 小簀(をす)の垂簾(たれす)を 行きかてに 寝(い)は寝(な)さずとも 君は通はせ(― 小簀の玉簾があって通れずに、共寝をすることが出来なくても、わが君はどうか通ってきてください)たらちねの 母に申(まを)さな 君もわれも 逢ふとはなしに 年そ經ぬべき(― 母に話しましょう。このままではあなたも私も逢う事ができなくて年がたってしまうでしょう)愛(うつく)しと 思へりけらし 莫(な)忘れと 結びし紐の 解くらく思へば(― 妻が私を恋しく思っているらしい。忘れてはいけないと言って結んでくれた下紐が、自然に解けてしまうところを見ると)昨日見て 今日こそ隔(へだ)て 吾妹子(わぎもこ)が 幾許(ここだく)繼ぎて 見まくし欲しも(― 昨日逢って、今日だけ離れて逢えずにいるのに、吾妹子に、こんなにも逢いたい)人も無き 古(ふ)りにし郷(さと)に ある人を 愍(めぐ)くや君が 戀に死なする(― 人もいない古るびた里にひっそり住んでいるものを、可哀想にもあなたは、焦がれ死をさせるおつもりなのですか)人言(ひとごと)の しげき間(ま)守(も)りて 逢ふともや さらにわが上(へ)に 言(こと)の繁けむ(― 人の噂が繁く立つその隙間を伺って、あなたとお逢いしたとしても、更に我々の上には噂が立つでしょう)里人(さとびと)の 言縁妻(ことよせつま)を 荒垣(あらかき)の 外(ほか)にやわが見む 憎くあらなくに(― 里人が私の妻だと噂しているあの人を、遠くで見ることであろうか、憎からず思っているのに)人眼(ひとめ)守(も)る 君がまにまに われさへに 夙(つと)に起きつつ 裳(も)の裾(すそ)濡れぬ(― 人目を憚って朝早く出て行くあなたとともに、私まで起きたので、裳の裾が濡れてしまった)ぬばたまの 妹(いも)が黒髪 今夜(こよひ)もか わが無き床(とこ)に 靡けて寝(ぬ)らむ(― 今夜も、私がいない床で最愛の妻はあの美しい黒髪を艶かしくなびかせて寝ていることであろうよ)花ぐはし 葦垣(あしかき)越(ご)しに ただ一目 相見し兒ゆゑ 千遍(ちたび)嘆きつ(― 葦の垣根越しにたった一目見ただけの乙女なのに、私は千度も嘆いたことであるよ)色に出でて 戀ひば人見て 知りぬべし 情(こころ)のうちの 隠妻(こもりづま)はも(― 顔色に出して恋すれば人が見て知ってしまうだろう、人目を忍ぶ恋しい思い妻は、ああ)相見ては 戀慰むと 人は言へど 見て後にそも 戀まさりける(― 逢えば恋心が慰むと人は言うけれども、逢って後にこそ、恋心は益々募るものだなあ)おぼろかに われし思はば 斯(か)くばかり 難き御門(みかど)を 退(まか)り出(で)めやも(― 我々の間をいい加減なものだと思うならば、これほどに厳しい宮廷からの退出を、私が敢えてするでしょうか)思ふらむ 其の人なれや ぬばたまの 夜毎(よごと)に君が 夢(いめ)にし見ゆる(― 私を思って下さる人でしょうか、そうではありますまいに、夜毎にあなたは私の夢に見えることです) 夢に見えるのは、相手が自分を思ってくれているからだとする、俗信があったようです。かくのみし 戀ひば死ぬべみ たらちねの 母にも告げつ 止(や)まず通はせ(― こんない恋していると死にそうですから、母にも話しました。いつも通っておいでください)大夫(ますらを)は 友の騒(さわ)きに 慰(なぐさ)もる 心もあらめ われそ苦しき(― 男の人は友達との付き合いの騒ぎに慰められることもあるでしょうが、そういうこともない私は気も晴れないで苦しい心持です)偽(いつはり)も 似つきてそ爲(す)る 何時(いつ)よりか 見ぬ人戀ふと 人の死(しに)せし(― 私を恋して死にそうだと言われますが、偽りも本当らしくするものです。一度も逢いもしない人に恋焦がれて死ぬなどということが、何時から始まったのでしょうか)情(こころ)さえ 奉(まつ)れる君に 何をかも 言はず言ひしと わがぬすまはむ(― 心まで差し上げているあなたに、何をまあ、言わないとか言ったとか、私がごまかしを申しましょうか)面忘(おもわす)れ だに得爲(えす)やと 手握(たにぎ)りて 打てども懲(こ)りず 戀といふ奴(やつこ)(― せめて恋人の顔を忘れることだけでも出来るかと、手を握って打ってもさっぱり懲りもしない。恋という奴は)めづらしき 君を見むとこそ 左手(ひだりて)の 弓執(と)る方の 眉根(まよね)掻きつれ(― 稀にしか会えないあなたを見たいと思ってこそ、弓をとる左手の方の眉を掻いたのですが、お会いできなくて残念です) 眉が痒いのは思う人に会える前兆だとする俗信があったので、君に会う呪いとして眉を掻いたのだ。人間守(ひとまも)り 葦垣(あしかき)越しに 吾妹子(わぎもこ)を 相見しからに 言(こと)そさだ多き(― 人のいない間を見て、葦の垣根越しに吾妹子と会っただけで、人の噂の実に多いことだ)今だにも 目(め)な乏(とも)しめそ 相見ずて 戀ひむ年月 久しけまくに(― 今だけでも思う存分に顔を見せてください。お逢い出来ずに恋しく思う年月が長く続くでしょうから)朝寝髪 われは梳(けづ)らじ 愛(うつく)しき 君が手枕(たまくら) 触(ふ)れてしものを(― 朝寝髪を私は梳りますまい。枕にしたいと愛しいあなたの手が触れたのですから)早行きて 何時しか君を 相見むと 思ひし情(こころ) 今そ和(な)ぎぬる(― 早く行ってあなたに会いたいと思った気持が、やっと今鎮まった)面形(おもかた)の 忘れてあらば あづきなく 男(をのこ)じものや 戀ひつつ居(を)らむ(― 顔形を忘れていられるものなら、男子たるものが己を抑えきれずに恋に苦しんでいようか)
2024年06月24日
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(フレディーはコートを取りに行く。ドアーをノックする音がする。フレディーが行ってドアーを開ける。ミラーが外に居る)ミラー 失礼します、ペイジ夫人は御在宅ですか。フレディー いいえ、今はおりません。あなたは、ミラー氏でしたね。ミラー そうです。そして、あなたはペイジ氏ですね。フレディー そうです、どうぞ中へ。お話したいのです。ミラー 有難う。フレディー 今朝方、あなたが私の妻を診察してくださったのでしたね。ミラー そうです、私がペイジ夫人を診療しました。フレディー (紹介して)こちらがジャッキー・ジャクソンです、ミラーさん。 (二人は互いに頷き合う) (ミラーに)酒を一杯如何ですか。ミラー 有難う。フレディー どのくらいまで彼女はあなたに話したのでしょうか、僕は知りたいのですが。エルトン夫人はあなたが彼女と二人きりでいたと言ってましたので。(ジャッキーを指し示して)彼のことは気にしないでください、彼は事情を全部知っていますので。ミラー 彼女は何も言っていません。フレディー 何故自殺しようとしたかについてを、何も。ミラー 何も。(フレディーは酒を渡す)フレディー あなたは彼女の行為の理由を知っている。ミラー いいや。フレディー 何なら、僕がお話しましょうか。ジャッキー (遮って)いいや、フレディー…。フレディー 僕が彼女の誕生日を忘れたので、自殺を図ったんです。ミラー そうですか。フレディー 驚かれてはいないようですね。ミラー はい、別に…。その種のことではないかとは思っていましたが。フレディー 余りにも些細すぎること。ミラー 死を実施する欲求を誘発する、極めて些細な物など、ありませんよ。フレディー でも、誕生日を忘れること…。ミラー そう、それは些細な事ですね。フレディー 謎かけ人、この人は。分かりました、それじゃあ真実の理由は。その瑣末の背後にあるのは何か。ミラー それを私に語る必要はないでしょう。フレディー どうしてでしょうか、それは…。ミラー あなた自身なのでしょう、思うに。フレディー それでは僕は呪わしい殺人者になってしまう。ミラー (慇懃に)一人の、擬似殺人者。ジャッキー (遮って)さてさて、そんな事まで言わなくっても…。フレディー 黙れよ、ジャッキー。僕は殺人犯と言われてもいいんだ。ジャッキー でも、彼は事実を何も知らないのだよ。フレディー 事実だって…、一体全体、事実が何の関係があるのだい。肝心なのは、事実の背後にある何かなのだよ、そうでしょう、ミラーさん。ミラー そうです。フレディー そして、事実の後ろにいるのが僕なのだ。ミラー そう想像します。フレディー 殺人犯などとは、可哀想な僕さ。(ミラーは頷く)大丈夫です、友よ、そこで、あなたが僕の立場にいたら何をしますか。ミラー それは実に愚かな質問ですね。自然は私に自殺に至る愛情を鼓舞する能力を与えてくれてはいないのですから。フレディー 幸運ではないのですか。ミラー はい、私は幸運ですね。フレディー そして、自殺に至る愛情を鼓舞する能力を有する僕は、どうしたらよいのでしょうか。ミラー 愛情を全部拒むべきでしょうね、言うならば。(間がある。フレディーはウイスキーボトルの方を向く)フレディー もう一杯いかがでしょうか。神のお陰で、此処にはボトルがあります。(彼は残りの数滴をミラーのグラスに注いだ)ミラー 有難う。フレディー あなたが今仰った事柄は全部くだらないことですね。ミラー 多分はそうでしょう。この紳士が既に指摘されているように、私は事実を何も知らないのです。フレディー 事実の一つは、この人物は何らの意図も持ってはいない、人生のこの時節に、呪われた隠遁場所に入ろうとするような。ミラー はい、そう思いますね。フレディー あなたはひどく正しい、そうなんですよ、あなた。さてと、この議論を続けてあの新しいクラブが四時に店を開くまで時を稼ぎましょうや。ジャッキー ねえ、フレディー、僕はそろそろ帰らなくてはならない。リッツが心配し始めているだろうからね。フレディー (皮肉に)リッツが心配するだろう。(ジャッキーに手を振って)幸福に結婚している男の人物像だ、ミラーさん。そういう男は確実に帰宅するし、愛する妻がガスの前で横たわっていたりするのを発見したりはしないのさ。(へスターが入って来る。絵は小奇麗に包装されている。彼女はそれを角に置く)へスター (ミラーに)おや、今日は。ミラー これは奥さん。ジャッキー 僕はちょうど帰るところだったのだよ、ヘス。へスター 行かなくていけないの。ジャッキー そうなんだよ、残念だけど。君はこの部屋から我々を外に出さなければいけないのだったね、確か。へスター (哀願するように)そう、でも、フレディーを連れて行っていただきたいの。ジャッキー それが出来ないのだよ、ヘス。僕は来客を予定しているのでね。フレディー 不運だね、君。哀れな、可愛いフレディーちゃんには看護人はいないのだよ。(彼はコートを着ようとするが、少し難しそうだ、ミラーが手助けする)良かったよ、ミラー氏が仕事の手伝いに此処に居てくれてね。ミラー 私にはやらなくてはならない仕事があるのですよ。フレディー 仕事?どのような仕事ですか、他の人々の愛情問題を治療することなのですか。ミラー いいえ、セント・リーガー競馬レイスの最新の賭け率表を郵送するのです。フレディー あなたは予想屋なのですか。ミラー そうです。フレディー 僕には全く予想も出来なかった。馬のメイク・シィフトの賭け率はいくらですか。ミラー 百対七の率ですね。フレディー 僕ならば、五十対三十ですね。つまり、あなたが僕を客として扱ってくれるのなら。(ミラーは手帳を取り出してメモする)ミラー 私の経営者にあなたの名前を申請しておきます。フレディー あなたが経営者なのではないのですか。ミラー いいえ、私は何人かの助手の一人です。ジャッキー (ドアーの所で)さてと、元気でな、フレディー。「ミラーに)さようなら。へスター リッツに宜しくね。フレディー 僕からは別に何も伝えないでいいよ、ジャッキー。皆の話から押して、それは致命的だからね。ジャッキー さようなら。へスター (ジャッキーに)さようなら。(ジャッキーは去った。へスターはドアーの所でフレディーを待っている。そこへ行く途中で彼はテーブルで足を止め、ボトルを手にしてクズ籠にそれを入れた)フレディー ちょっと片付けものをしている。(ドアーのところへ歩く)へスター (困惑を隠しながら)フレディー…、あなたが外出すべきなのかどうか、私はわからないの、フレディー。フレディー 君は僕が外出するのを望んでいると思ったが。君の顧客が…。へスター エルトン夫人が彼にメッセージを渡してくれるでしょう。彼はまた別の時間に戻ってくるでしょう。寝室でゆっくりと休憩なさったらいかが。フレディー いいや、僕はいい子ちゃんだからね。僕は行けと言われたら、行くさ…。(彼はポケットを探る。ミラーに対して)済まないが、一シリング貸してくれませんか。(ミラーは一シリング取り出して彼に渡す。フレディーはそれをテーブルの上に投げおいて)どうも、僕は夕飯には遅れている。(彼は出て行く。へスターは踊り場まで出て、彼が階段を下りていくのを見守っている。酔っ払ってはいるが、前の場面でのように彼の足は着実に体を支えている。へスターは振り返って部屋の中に戻る)へスター (急を要する風に)彼が何処に行くか分かりますか。ミラー 道を下った所の新しいクラブでしょう。へスター あなたは現職を実際に仕事しているのですか、それとも単なる口実なのですか。ミラー 目下、仕事をしています。へスター おや、まあ。(彼女は気遣わしげに窓際に移動した)ミラー 彼は自分ひとりで、私と一緒よりもより幸福を感じているでしょう。へスター 何故、そう仰るでしょうか。ミラー 私は彼の良心の化身になってしまったみたいなのですよ。へスター (鋭く)彼の良心ですって…。貴方は彼の中に、私が見失っているものを発見してしまったみたいですのね。ミラー 恋は盲目と人は言うではありませんか。へスター 人々は恋する者の欠点を論います、その美点ではなくて。そして、私の眼は盲目ではありませんの、非常に鮮明に見えます。ミラー そうでしょうとも。とても良く見えるでしょうね。(へスターは彼を見る)目を見開いたままで人を熱愛すると時に、人生は非常に困難になりますね。へスター 耐え難い程にまで、ですね。ミラー 私は、困難と言いましたよ。へスター 私は彼を一人にして置きたくないのです。ミラー 大変に結構ですね、喜んで手助け致しましょう。へスター 大変に有難うございます、ミラーさん。とても感謝致しますわ。ミラー どう致しまして、(絵を指差して)あなたが描かれたのですか。へスター はい。ミラー 私はただあの絵が他の手法とは全然違っているので、お尋ねしたに過ぎません。へスター あれを物したのは十七歳の時でした。ミラー 実に!(仔細に絵を眺める)興味深いですね。美術学校には通よわれたのですか。へスター いいえ。ミラー 繊細さと同時に新鮮さがありますね、それが感動的なのです。へスター フレディーの所へ急いで行ってくださいな、とても心配なのです。
2024年06月21日
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ジャッキー (フレディーの手にある手紙を指差して)それは、君にもう何かの手がかりを与えないのかい。フレディー 兎に角、読んでみたまえよ。ジャッキー いいや、止めておこう。フレディー 不機嫌なのかね…。ジャッキー そうだね、その種の物は、少しばかり、個人的だからなあ。フレディー 極め付きの個人情報さ、もし、法廷で検死人に依って読み上げられでもしたらね。ジャッキー そうなのさ、きっと。フレディー そうだと、君は思っている。分かったよ。僕が検死人で、君が傍聴人さ。さあ、聴きたまえ、(読み上げる)愛するあなた、一寸前に、アスピリンを服用する前に、あなたに言いたい事を正確に知っていたのです。私は心の中で何度となく全体を復唱していたのです、それはいっでも最も雄弁であり、高貴で、よく構成されているものです。さて、この感動的で素敵な言葉は手紙の中にはないでしょう。思うに、それは、今度こそ実際に自殺するつもりでいるからだと、承知しているのです。ジャッキー (極めて不快そうに)さあ、君、もうやめろよ。ヘスの心情を知って、実際残りは聞きたくないよ…。フレディー 君は残りを聞かなくてもいいさ、僕はこれを誰かに読んで聞かせたいのだよ。ジャッキー だって、それは君に宛てたもので、ほかの誰にでもないだろう。フレディー その通りだよ、勿論、例の悪名高い日曜日の新聞紙の読者を除いてはだが。聴けよ、畜生め。(読み上げる)私は知っているわ、午前中にこの手紙を読む時、あなたがかつて私に抱いた諸々の感情が、永遠にあなたから出て行ってしまうでしょう、と。可哀想なフレディー、最愛の哀れなるフレディー、ごめんなさいね、本当よ。(ジャッキーに向けて、嘲笑するように)悪いな、分かったよ。ここに君の手がかりがある。(読み上げる)あなたは理由を知りたいでしょう、それで、私は出来るだけあなたの気持に添うように解りやすく説明しましょう、何故って理解すれば許して下さるでしょうから。でも、これから私がすることを理解するのは、私が現在感じているもののほんの一部分を感じるに過ぎないでしょう。私のあなたへの理解は無効になってしまう。あなたが過失を犯したわけではないことは受け止めてくださいね、実際、そうじゃないのよフレディー、それは信じて。あなたがあなたであることは必然だし、私も私である以外には有り様がないようにね…。過失があったとすれば、どの様な神であれ、私達二人を偶然に出合わせた事を天国で散々笑っておいて手放した事に帰着するでしょうからね。 (へスターが静かに入って来る。ジャッキーは彼女を見て、気づかないでいるフレディーに合図をした)悪筆を許してね、多分、薬が効き始めているみたいなの…。へスター (冷静な声で)今日は、ジャッキー。ジャッキー 今日は。へスター お元気ですか。ジャッキー すこぶる元気だよ、有難う、ヘス。へスター 午後中は何処にいたのですか。ジャッキー (困惑しきっている)フレディーとは一緒じゃなかった。家にいたのだが、電話があって一寸話に来ないかって。へスター そうなのね、(フレディーに)あなたは何処にいらしたの、フレディー。フレディー 色々な場所さ。へスター その大部分の所へは行ってみた。フレディー そうだろうと思うよ。へスター その手紙を頂けるかしら。フレディー 何故。へスター 元々は私に帰属する物だわ。フレディー それに関しては二通りの見方がある。封筒には僕の宛名が書かれているよ。へスター 未配達の手紙は、私は主張するけど、送り主に属すると。(軽く)お願いよ。 (へスターは立って手を差し伸べた、フレディーにむかって。彼は手紙を手渡し、彼女から離れるように動いた。几帳面に手紙を破り、屑入れに投げ入れた。それからウイスキー瓶を手に取ると食器棚のところへ行く)フレディー 何をしているのかね。へスター 後片付けをしているの。フレディー それは僕のボトルだよ、支払いは僕がしたんだ。(彼はボトルを彼女から取り上げて、テーブルの上に置いた)へスター (ジャッキーに気安く)昨日は良いゲームを楽しんだそうね、ジャッキー。ジャッキー うん、有難う。へスター フレディーがあなたを負かしたそうね。彼は上手くやっているに違いないわね。ジャッキー ハンディキャップなしさ、それは凄いことなんだよ。ねえ、ヘス、もう力の限りに頑張らなくては駄目なんだよ。へスター いいえ、程々にね。フレディーはもう直ぐ外出する予定なの。あなたも一緒に行って下さることを私は期待してるの。(フレディーに)ねえ、あなた、五時には外に行くことを忘れてはいないでしょうね。フレディー うん、覚えている。今何時だろうか。へスター もうそろそろだわ。(彼女は夫に贈呈した絵の方に行く。そしてそれを壁から外した)フレディー そして、当然、君は尊敬する君の芸術愛好者には現在の僕を会わせたくはないのだね。へスター あなたの現在の状態などについては私は何も知らないわ、フレディー。私は今朝、外出していて欲しいと頼んだのよ。フレディー (彼女が今抱えている絵を指差して)それを贈呈してしまうのだね。へスター そうよ。包装しようと思うの。フレディー この僕をどうやって売り込むつもりなんだろうか。へスター (ドアーの所で、輝くように笑って)買いたいと望む物なら何でもよ。 (へスターは絵を持って外に出る)フレディー (ドアーの所で嘲笑して)はっ、はっ!ジャッキー (心配そうに)ねえ、フレディー、君々。行って彼女と話し合うべきだと思うのだがなあ。僕は姿を消すよ。フレディー 僕は彼女とは十分に話し合う機会を持ったよ。僕は呪われた全生涯を彼女と話し合ったさ、君はこのまま居たまえよ。(自分のグラスに酒を注ぐ)ジャッキー ゆっくり飲み給え、スコッチをね。フレディー 僕は君に話したよ。必要なんだ、素晴らしい忘却がね。ジャッキー ねえ、フレディー、友よ。無礼であろうとは望んでいないが、多分、君はこの事を少しばかり劇的に解釈しすぎていやしないかな。フレディー 自己劇化だって、劇的に解釈しているのは彼女のほうだよ。あの冷静で、穏やかな、落ち着いた、たった今の行動、君が見た。あの劇的な振る舞いは…、彼女は楽しんでいるんだよ。僕は単に自分が惨めに感じるから、酒を二三杯引っ掛けているって寸法だ。ジャッキー 僕は、彼女が正確には幸福感を感じているとは思えないね、君がどんな風にたった今の行動を表現したとしてもだ。フレディー 思うに、彼女がリッツで僕が君だったら、君は妻を優しく抱擁して慰安するだろうがね。ジャッキー 思うに、それについて彼女と話すだろうね。問題が何なのか、それを正すために僕に何ができるかについてね。フレディー その効用は一体全体何なのかね。君はあの手紙を訊いた。哀れなフレディー、あなたはあなたで居るしかない、彼女はそれを明確に指摘していたのだよ、僕はその小さな問題を正すのにどうすればよいと期待されているのだろうか。無関係な事だと言う振りをするのだろうかか、それは多少とも助けになるのだろうか。ジャッキー 多少の罪のない嘘がね…。フレディー バカを言うなよ。幾つかの罪のない嘘だって。君きみ、まともな事を口にしろよ。彼女がそんな風に簡単に馬鹿にできると思うかい。君はこれを日々日報などの人生相談で女性が問題にする類の問題だとでも思っているのかな。ちょっとした家庭の問題で、親切な言葉と愛情ある助言で正されるような。ヘスは昨夜自殺を図ったんだよ。ジャッキー (悲しげに呟く)済まないが、君、僕の理解を超えているよ。フレディー 君が理解できないだって、そんな事はないはずだよ。僕の理解も届かないや。僕の関知しない特異な感情さ。おお、神よ、僕は他の人々の感情などに巻き込まれるのを毛嫌いしているのだ。僕が生涯で避けようと努力している物のひとつなのだよ。しかしそれでもなお、しつこく僕に付きまとい続けている。いつもなのだよ。(ひと間置いてから)君は覚えているだろう、戦時中のドットを。僕は何度か彼女を小艦隊に連れて行った。ジャッキー うん、僕は彼女が好きだったよ。とても面白かったなあ…。フレディー 非常に面白かった、僕の護身用のリボルバーにちょっかいを出し始めるまではね。ジャッキー そんなことが彼女にあったのかい。フレディー そうなんだが、彼女は自分も、僕も、他の誰をも傷つけてはいない。それでもなお、その後では面白さには少しばかり苦味が生じたよ。そして、それからね…、(一息吐いた)問題じゃあない、余りにも過大な感情の渦だ。ひどくドデカイやつさ、忌々しいよ。ジャッキー 運命の人、的なそれかい。フレディー (静かに)そんなには面白くはない。ヘスは僕が感情の欠片も持っていないって言うのだが、多分正しいだろうよ、が、僕は内面に彼女を傷つける何物かを持っているのだろう…、現在彼女を傷つけているのだからね、現に。ほかの人々に惨めな思いをさせるのを楽しんではいないのだがね。僕は呪わしいサディストではない。僕のような人間は決してよく耳を傾けて聞いては貰えないのだ。我々は幾つもの粗雑な名前で呼ばれている、そして誰も特殊な事情があることを考慮してはくれない、しかし、こんな風に見るんだよ、ジャッキー、二人の人間を例に挙げる、例えば「A]と「B」さ。A は B をを愛して、B は A を愛してはいない、或いは、少なくとも同じようにはね、彼はそうしたいのだが、ただ出来ないのだよ。彼の柄ではないからだ。さて、B は愛されたいとは頼まなかった、彼は完全に普通の男であって、親切で、お人好し、良き友、多分はそう言って差し支えなければ良き夫でもあった…、これが僕の特徴さ。彼には満たすことのできない要求がなされた、もし彼が努力すれば、人を騙すことになる。人を騙すのは誰も手助けしない。そして、彼が正直に努力しないでいると…、そう、誰もが彼は人間のクズで非情きわまりない奴と決め付ける。そして検死人達はひどい追加の条項を付け加えることだろうよ。つまりはだ…、何処にいるのだね、君。(彼はグラスの酒を飲み切る)さあさ、直ぐに出かけよう。
2024年06月20日
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皇祖(すめろき)の 神の御門(みかど)を 懼(かしこ)みと 侍従(さもら)ふ時に 逢へる君かも(― 天皇の御殿に恐れ多いと謹んでお仕えしている時に、お目にかかったあなたは、まあ)眞澄鏡 見とも言はめや 玉かぎる 石垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りたる妻(― お前に会っても、それを何で人に言おう。人目を憚っている可愛い妻よ) 二首でひと組の歌赤駒の 足掻(あかき)速(はや)けば 雲居にも 隠り行かむぞ 袖枕(ま)け吾妹(― 赤駒の足掻きが早いので、私は遠くの雲の彼方に隠れていくであろう。それゆえ、今、私の袖を枕にしなさい、吾妹よ)隠口(こもりく)の 豊泊瀬道(とよはつせぢ)は 常滑(とこなめ)の 恐(かしこ)き道そ 戀ふらくはゆめ(― 泊瀬の道は常滑、水苔でいつもすべすべしている所 のある恐ろしい道です。恋に気を取られて危ない目にあわないように、気をおつけあそばせ)味酒(うまさけ)の 三諸(みもろ)の山に 立つ月の 見が欲(ほ)し 君が馬の音(おと)そ爲(す)る(― 三諸の山に登る月が見たいように、お逢いしたいわが君の馬の足音が聞こえる) 以上の三首でひと組雷神(なるかみ)の 少し動(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ(― 雷が少し鳴って曇ってきて、雨が降らないかなあ。そうしたら、我が君を引き留めように)雷神の すこし動みて 降らずとも われは留(とま)らむ 妹(いも)し留(とど)めば(― 雷が少しなって曇ったりしなくても、私はとどまろう。もし吾妹子が私を引き止めさえしなければ) 以上の二首でひと組敷栲の 枕動きて 夜も寝ず 思ふ人には 後も逢はむかも(― 枕が動いて夜寝られずに私が恋焦がれる人には、後で必ず会えるでしょうね)敷栲の 枕に人は 言問(ことど)ふや 其の枕には 苔生(む)しにたり(― 枕に対してあなたは語らいをするのですか、その枕はあなたが久しく見えないので苔が生えていますよ) 以上二首はひと組たらちねの 母に障(さや)らば いたづらに 汝(いまし)もわれも 事成るべしや(― お母さんに憚っていたら結局何も出来ず、あなたも私も、万事上手くいかないでしょうね。ですから、思い切って前に進みましょう)吾妹子が われを送ると 白栲(しろたへ)の 袖漬(ひ)つまでに 泣きし思ほゆ(― 吾妹子が私を見送ると言うので、白栲の袖が濡れるまでに泣いた姿が思い出される)奥山の 眞木の板戸を 押し開き しゑや出で來ね 後は何せむ(― 真木の板戸を押し開いてええ、もう出ておいでなさいな。後では何になりましょうや) 男の歌刈薦(かりこも)の 一重を敷きて さ寝(ぬ)れども 君とし寝(ぬ)れば 寒けくもなし(―刈薦・刈ったこも、ムシロに編んで敷物に使う のムシロ一重を敷いて寝るけれども、あなたと寝れば寒いこともありません)杜若(かきつはた) 丹(に)つらふ君を ゆくりなく 思ひ出(い)でつつ 嘆きつるかも(― かきつばた・アヤメ科の宿根草木、池沼や水辺に生え、夏に普通紫碧色の大きな花が咲く のように美しい顔立ちのわが君を、ひょっと思い出しては嘆息したことです)恨(うらめ)しと 思ひて背なは ありしかば 外(よそ)のみそ見し 心は思へど(― わが背子は気にいらないような様子をしておいででしたので、遠くからばかり見ておりました。心の中ではお慕いしていたのでっすけれども)さ丹(に)つらふ 色には出でね 少くも 心のうちに わが思はなくに(― 顔色には出しませんが、心の中では深く思っているのです)わが背子(せこ)に 直(ただ)に逢はばこそ 名は立ため 言(こと)の通(かよひ)に 何(なに)そ其(そこ)ゆゑ(― わが背子に直接お会いすればこそ、あれこれ噂が立つこともあるでしょうが、言葉だけの行き来で、何ということでしょうか。こんなにも噂されるなんて…)ねもころに 片思(かたもひ)すれか この頃の わが心神(こころど)の 生けるともなき(―あれこれと思わぬ隈もなく片思いしているせいか、この頃の私の気持は生きている心地も致しません)待つらむに 到らば妹が 嬉しみと 笑(ゑ)まむ姿を 行きて早見む(― 今頃待っているだろうが、着いたならば妹が嬉しくて微笑む姿を早く行って見よう)誰(たれ)そこの わが屋戸(やど)に來(き)喚(よ)ぶ たらちねの 母にころはえ 物思ふわれを(― 誰ですか、私の家の戸口に来て呼ぶのは。母に叱られて塞いでいる私なのに)さ寝(ね)ぬ夜は 千夜(ちよ)もありとも わが背子が 思ひ悔ゆべき 心は持たじ(― 一緒に寝ない夜はたとい千夜もあろうとも、わが背子が後悔なさるような心持は、私は持ちますまい)家人(いへひと)は 路(みち)もしみみに 通へども わが待つ妹(いも)が 使來(こ)ぬかも(― 家の使用人は道一杯に往来しているけれども、私が心を寄せる妹の使いは来ないなあ)あらたまの 伎倍(きへ)が竹垣(たかがき) 編目(あみめ)ゆも 妹し見えなば われ戀ひめやも(― 麁玉郡の伎倍の地の竹垣の編目の、ほんのわずかな隙間からでも妹が見えたならば、何で私が恋に苦しむことがあろうか)わが背子(せこ)が その名告(の)らじと たまあきはる 命は棄てつ 忘れたまふな(― 私の恋しい方の、その名は人に言うまいと、命をも捨ててかかっています。どうか私をお忘れにならないで下さい) ―― 一通りの意味は分かるのですが、と言う事は、もしかしたらこの歌だけではなくて古代人の恋心全般に関して私は何か大事なことを理解しきれないで、ここまで来てしまったような、後悔と言うか、残念な気持が残ってしまうのをどうすることも出来ずにいます。恋しい人、片思いであれ、両思いであれ、恋人の名を周囲の人に知られることを何故そんなにもタブー視する必要があるのか、まるで理解できないのです。母親、や将来の仮想敵めいた恋のライバルを恐れる気遣いはある程度は分かるのです。命を懸けてでも恋の相手の名前を口には出すまいとする健気な心事がぴんと来ない。これはこの歌の作者だけの極めて個人的な心的な傾向ではどうもないようなのでありまする。古代人一般に共通する恋に対する気持の偏り、乃至は、恐怖心のようなものが存在するとしか、私には思われない。私の恋愛観と言いますか、恋愛の理解は生命欲・生殖慾の発露が恋ごころの始まりだとすると、その相手を自分だけの心の中にしまいこんで周囲の誰にも内緒にしたい、少なくとも恋が成就して晴れて結ばれる。恋人との心の絆だけでなくて、肉体も安定して結ばれる日が来るまで、自分だけの秘密にして置きたい。そう思うのは極めて自然でありましょう。私だけでなくて誰もが恋に落ちた時には、そんな風に無意識にではあっても思うでありましょう。実のところ、私は恋心を余り理解していない。つまり、恋愛などと言う病気に罹るのに「憧れ」に似た渇望を若年の頃に抱いてもいた。けれども、その正体を知るにはあまりにも知識不足であり、恋に関する和歌などで一部分理解を促されたりもしているのですが、つまりは、人間理解の重要な一手段であることは分かっていても、理解が及ぶのはほんの僅かな部分でしかなくて、遂には死ぬまで理解不足のままで終わるのでありましょう、多分は…。どなたか、私に恋愛のイロハについて手ほどきしてくださる方がいらっしゃると、非常に幸いなのですが。これは、無いものねだりなのぐでしょうね。自分の身内から、恋は理解するものではなくて、実地に体験するもの、との声が聞こえてきました。だなたか、私に恋の手ほどきをしてくださる親切心をお持ちの方がいらっしゃれば、至急に御連絡下さい。期待せずに、お待ち致しております。凡(おぼ)ならば 誰(た)が見むとかも ぬばたまの わが黒髪を 靡(なび)けて居(を)らむ(― なみなみに思っているのならば、あなた以外の誰に見せようと言うので、私の美しい黒髪をなびかせておりましょうか。あなただけの為なのですよ)面忘(おもわす)れ 如何(いか)なる人の 爲(す)るものそ われは爲(し)かねつ 繼(つ)ぎてし思へば(― お顔を忘れる面忘れなど、どのような人がするのでしょうかねえ、私にはとても出来ません。絶えず心をお寄せしておりますから)相思はぬ 人のゆゑにか あらたまの 年の緒(を)長く わが戀ひ居(を)らむ(― 私の心に応えてもくれないお人であるのに、私は年月長く、恋し続けることでありましょう)おぼろかの 心は思はじ わがゆゑに 人に事痛(こちた)く 言はえしものを(― 私は通り一遍の心は抱きますまい。私のことがもとで、人々にあれこれと言い立てられなさったのだもの)息の緒に 妹(いも)をし思へば 年月の 行くらむ別(わき)も 思ほえぬかも(― 命をかけて妹を恋しているので、年月の流れていくけじめもつかないことです)たらちねの 母に知らえず わが持てる 心はよしゑ 君がまにまに(― 母にも知らせず私が懐いている心は、ええ、もう決まっています。どうぞあなたのお思いのままに…)獨(ひと)り寝(ぬ)と 薦(こも)朽ちめやも 綾席(あやむしろ) 緒になるまでに 君をし待たむ(― 二人で寝れば薦が朽ちるかも知れないが、独りで寝て薦が朽ちることはありますまい。綾の蓆が編み糸ばかりになるまで、長く私はあなたをお待ち致しましょう)相見ては 千歳(ちとせ)や去(い)ぬる 否(いな)をかも われや然(しか)思ふ 君待ちがてに(― お会いしてから千年も経ったろうか。いや、違うだろうか。私がそう思うだけなのか、あなたをお待ちし切れずに)
2024年06月19日
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第 ニ 幕場面 一幕に同じ。同じ日のおよそ夕方の五時頃。フレディーが肘掛け椅子に寝そべっている。これは前のシーンでのことと同様である。一方で友人のジャッキー・ジャクソンがもう片方の椅子に腰を掛けている。テーブルの上にはウイスキーボトルが一本置かれている。炭酸水もある。二人はグラスを手にしている。フレディー (少し傷ついた様子で)全くバカバカしい話しさ、君。僕は彼女の誕生日を忘れただけなのだよ。 (ジャッキーは同情の声を出した。フレディーは不機嫌そうにもういっぱいウイスキーを呷った)おお、神よ。もしだよ、妻の誕生日を忘れた夫が帰宅して、自殺の遺書が待っていたらどう思うかね。寡婦の列が此処から英国スコットランドの最北端の地まで伸びるという寸法だ。ジャッキー もっと遠くまでだろう、友よ。フレディー もうだめだよ。ジャッキー そうだね、最北端から折り返して、ロンドンの演芸場までくるかもね、もしかしたら。フレディー (怒って)黙れ、ジャッキー。面白くないや。僕は君に助けと忠告を求めたので、陳腐な警句の洪水を垂れ流すことを頼んじゃいない。ジャッキー 済まない、フレディー。ただ、君の言い方が道化じみているのだよ。君を怯えさせているのは冗談じゃあないのだろう。フレディー そうじゃあないと、言っただろう。(フレディーは立ち上がり、友に補充のウイスキーを注ぐべく手を差し伸べた)ジャッキー ああ、有難う、君。フレディー 僕はマダム・エルトンからすっかり話を聞いたのだ。妻はガス自殺を図ったのさ、もし彼女が一シリングでも所持していたら、自殺は成就していたのだ。(彼は二つのグラスに惜しげもなく追加のウイスキーを注いだ)ジャッキー それは、彼女が大まじで実行しようとしたのじゃないことを示しているよ。(フレディーからグラスを受け取り)ああ、有難うよ、乾杯。フレディー 君の想像力は枯渇してしまったのかい。君が自殺しようと言う精神状態の時に、ガスメーターの状況まで考慮するだろうか。ジャッキー (賢明そうに)ああ、するね。フレディー それが飛行機の機体支持部を下に降ろすのを忘れたために、三台のスピッツ戦闘機を破損してしまったことのある男の言うことかね。ジャッキー それは違うよ。僕は自殺しようなんて思わなかったよ。フレディー その一歩手前までは行ったのさ…。ジャッキー (自制心を示して)尋問の法廷では、厳格に定義されなければいけない…。フレディー ああ、黙れよ、ジャッキー。僕らはもっと有意義な事柄について話をすべきなのだ。ジャッキー そう、君の方が始めたのさ。僕が言ったことの全ては、ガスメーターについてだよ。フレディー 僕は君がガスメーターについて語ったのは承知しているよ。が、間違っているよ。僕は事件全体について深く考え続けているのだが、その結論は、彼女は昨夜決然として自殺を決行しようとした。ジャッキー それも、君が彼女の誕生日を忘れていたからなのだね。それは僕が妻のリィツに関して我慢している不機嫌の種類なのだが。フレディー 分かる、実は、僕は完全に打ちのめされてしまったんだよ。ジャッキー 理解できるよ。フレディー (爆発的に)ああ、神よ、女性たちは終わってしまうのか。ジャッキー (同情的に頷いて)彼女は今何処にいるのかなあ。フレディー 外で僕を探している、心配しなくていいのだ。(ジャッキーのグラスを又取ろうとする)ジャッキー もう結構だよ。(フレディーは自分のグラスにウイスキーを注ぎ足しながら話す)フレディー 彼女は入浴していたんだよ。遺書を読んだ後で僕はマダム・エルトンのところへ駆け下りて、その後で逃げ出したのさ。僕は急いで一杯引っ掛ける必要があった。彼女と離れたあとでもしもヘスの所に行って膝を屈して、君の誕生日を忘れていて済まなかったよ、もう二度とは君の誕生日を忘れない、そう言う罪は決して犯さないと約束する、だから君もガス自殺など二度としないでくれたまえ、よく考えて欲しいのだ、などと言ったりしたら…。詰まりは、全部が痴呆の所業じゃないかね。ジャッキー 他にも何かあるだろうよ。フレディー 他には何もないよ。ジャッキー (確かめるように)他の女性関係では。フレディー それは決してないよ。ジャッキー 最近、口論が絶えなかったとか…。フレディー いいや、ここ数ヶ月は以前よりもずっといまくいっていたと思っているぐらいだからね。ジャッキー (明らかにリッツを思い出しながら)こっちは口論がいくつかあったがね。フレディー 実に取るに足らない些細なものならあるが、最初の頃にあった凄まじい喧嘩は皆無だったよ。ジャッキー それは何についての口論だったんだい。フレディー (慰さめがたく)普通のことさ。 (ジャッキーはフレディーが話を続けるのを待っている) (爆発的に)畜生め、ジャッキー。君は僕を知っている。僕はいつも嫌なロメオ役を演じるなんて出来ないよ。ジャッキー 誰が出来るかなあ。誰だって出来ないよ。フレディー 彼女によれば全人類はダメなんだよ、兎に角も、男の部分はね。ジャッキー 彼女はそれについて何を知っているのかね。フレディー 何も知りはしないよ。牧師の娘で、オックスフォードに住み、結婚を申し込んだ最初の男と結婚し、色目を使った男と恋に落ちた。(少し間を開けて)やれやれ、僕も彼女に恋してしまったんだ、勿論だよ。いつもそうだったし、これからもそうだろうがね。しかし、そう、全ての事柄の節制、それが僕のモットーだった。(テーブルのところで)もう一杯どうかね。ジャッキー ほんのちょっぴりだけ。フレディー (自分のグラスに注ぐ)僕はその点で、良心に何ら疚しいことはないよ。僕は今までに自分をよく見せようとしたことはないよ。彼女は自分がどんな結婚をしようとしていたのかを知っていた。ジャッキー 彼女を動転させたのは結婚問題だと思うのかい。フレディー いいや、吃驚仰天したのは僕のほうで、彼女じゃない。個人的にはあの離婚を待てないのさ。こんな人目を忍ぶ暮らし方が僕をダメにするのだよ。ジャッキー 彼女をもダメにしている。詰まりは、牧師の娘としてはだが。フレディー 彼女は一年前にその塀は飛び越えてしまっているよ。僕の方が待つことを要求されているのだ。彼女じゃないよ。それが我々を炎上させる最初のものなのだ。(彼は思い入れたっぷりにウイスキーを啜る。考えに耽って)ああ、神よ、全く不公平だよ、もし昨夜、彼女がうまく自殺を為遂げていたら、皆が何と言うと思う。僕が幸せな結婚をぶち壊し、ヘスを自殺に追い込んだってね…。僕は残虐な殺人者と見られてしまったろうよ。その事を彼女は考えたろうか、誰が僕が君に話したような事を信じるだろうか。ジャッキー (無意識の皮肉を以て)君を知る誰もが信じるさ。フレディー そう、でもこれは前振りにしか過ぎない、ゴシップ記事をセンセーショナルに書き立てる「世界のニュース」に面白おかしく書き立てられるのだよ、ジャッキー、それを考えてくれたまえ、しかも、それが法廷で読み上げられるのだよ。(手紙を誇示して)えっ、みんなからリンチされる前にこれを手に入れられたのは幸運だったよ。検死官は忌々しい追って書きを加えたに相違ないのさ。今日僕はリッツで昼食を考えていたのだが、僕はもう二度とレストランなどには行けなかっただろうよ、変に頷きあったり、指さしたりされるのでね。ジャッキー そう、分かるよ。所で、外出してロペスと昼食を取るのはどうかなあ…。フレディー (激怒して)話題を変えないでくれたまえ、君。それとも、もし僕がこの話で君を退屈させているのなら、そう言いたまえよ、そうすれば僕は天気の話でもするよ。ジャッキー 済まない、僕は単にロペスが君に何かを申し出なかったかどうかを、知りたかっただけなんだ。それだけさ、ヘスの話を続けたまえ。フレディー (口ごもりながら)忌々しいや。これが僕を気落ちさせるのだよ。御免、ジャッキー。貴様に食ってかかるつもりはなかった。ジャッキー 分かっているよ。フレディー ロペスだって…、そう、彼は僕に仕事の口を提供してくれたよ。ジャッキー そいつは良かった。フレディー (膨れ面で)テスト・パイロットだ、南アメリカで。ジャッキー おや、まあ。君は南米には行かないだろうと思うが。フレディー 僕はテスト・パイロットとしては、何処にも行きたくないよ。ジャッキー 君は最優秀なテスト・パイロットだって評判だけど。フレディー そうだった、一年前にはね。以来、事情が少しばかり変わったのさ。(自分のグラスを指差して)こいつが原因で、医者が神経と判断力を厳密に検査するべきだと命じたのだ。その上に、僕はもう老とる過ぎるのだ。君は二十五歳でテニスプレイヤーを止めた。僕は一週間と持たないのだよ。僕は事務系の仕事をしたいので、航空関係ではないのだ。僕はずっと空を飛んで生活してきた。(立ち上がってもう一杯飲もうとする)君は、どう…。ジャッキー いいや、結構だ。君はそうすべきだと思うのかい。フレディー 僕はそうすべきだと思う。何故だい、僕は酔っているかな。ジャッキー いいや、午前の大半をその手紙にかかずりあっていたようだからね。フレディー そして、夕方の大半をそれで持ち切りになるだろうよ。これを忘れてしまうまで(手紙を示して)、存在すら忘れるまでとり憑かれているだろうなあ。 (ウイスキーを呷り、椅子にどっかりと腰を下ろした。言葉や態度は酔ってはいないのだが、これ以後は彼は常習飲酒者の野卑さと興奮状態を見せ始める)
2024年06月17日
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わが背子に わが戀ひ居(を)れば わが屋戸(やど)の 草さへ思ひ うらぶれにけり(― わが背子を恋しく思っていると、庭先の草さえもが、思いに沈んでしょんぼりしているのだった)淺茅原(あさぢはら) 小野(をの)に標(しめ)結(ゆ)ひふ 空言(むなこと)も いかなりといひて 君をし待たむ(― 浅茅原に標を結っても虚しいように、虚しい嘘にしても人には何だと言ってあなたをお待ちしていましょうか)路(みち)の邉(べ)の 草深百合(くさふかゆり)の 後(ゆり)ととふ 妹が命を われ知らめやも(― 道の辺の草深百合の名のように、そのユリではないけれども、後(ゆり)でと言う妹の命を私は知ろうか、知りはしない。だから、早く会いたい)湖葦(みなとあし)に 交(まじ)れる草の 知草(しりくさ)の 人みな知りぬ わが下思(したおもひ)(― 水門の葦に混じっている知草、その名のように皆が知ってしまった、私が隠していた恋を)山萵苣(やまちさ)の 白露しげみ うらぶるる 心も深く わが戀止(や)まず(― 山ヂサ・山に生えているチサ、初夏に房状の白い花をつける が白露の重さにうなだれるように、打しおれる気持も深く、私の恋は止むことがない)湖(みなと)にさ根延(は)ふ 小菅(こすげ)忍びずて 君に戀つつ ありかてぬかも(― 水門の辺りに根を張っている菅の根が、外に現れるように、心に秘めておくことができずに、あなたが恋しくて耐え難いことです)山城の 泉の小菅 おしなみに 妹が心を わが思はなくに(― 山城の泉の里の小菅が押しなびいているようにオシナミニ、普通には妹のことを思ってはいません)見渡しの 三室(みむろ)の山の 巖菅(いはほすげ) ねのころわれは 片思(かたもひ)そする(― 向こうに見える三室の山の岩菅の根が細かいように、心細かに私は片思いをしています)菅(すが)の根の ねもころ君が 結びてし さが紐の緒を 解く人はあらじ(― 菅の根のようにねもころに、心を込めてあなたが結んで下さった私の下紐を解く人はいません)山菅(やますげ)の 亂れ戀ひのみ 爲(せ)しめつつ 逢はぬ妹かも 年は經につつ(― 山菅の根の乱れているように心乱れた恋をさせるばかりで、逢ってはくれない妹であるなあ)わが屋戸(やど)の 軒のしだ草 生(お)ひたれど 戀忘草 見れど生(お)ひなく(― わが家の入口の軒のシダ草は大きくなったけれど、恋忘草は見てもまだ生えないことだ)打つ田には 稗(ひえ)は數多(あまた)に ありといへど 擇(え)らえしわれそ 夜(よ)をひとり寝(ぬ)る(― 耕した田にはひえは数多くあるのだが、その中から選り捨てられた私は、夜淋しく一人寝ることだ)あしひきの 名に負ふ山菅(やますげ) 押しふせて 君し結ばば 逢はざらめやも(― 有名な山菅を押し伏せて結ぶように、あなたが強いて縁を結ぼうとするなら、どうして私と縁が結べないはずがありましょうか)秋柏(あきかしわ) 潤和川(うるわかは)邉(べ)の 小竹(しの)の芽の 人には逢はね 君にあへなく(― 潤和川の川辺の小竹の芽が人目につかないように、他の人に顔を合わせないのですが、あなたに対しては、逢わずにいることができません)さね葛(かづら) のちも逢はむと 夢(いめ)のみに 祈誓(うけ)ひわたりて 年は經につつ(― 将来会えるかしらと、夢でウケヒつづけるばかりで、年は経ってしまうことだ)路の邉(べ)の 壱師(いちし)の花の いちしろく 人皆知りぬ わが戀妻を(― 道のほとりのイチシの花のようにはっきりと、人は皆知ってしまった、私の恋しい妻を)大野らに たどきも知らず 標結(しめゆ)ひて ありそかねつる わが戀ふらくは(― 広い野原に様子もわからずシメを結うような不確かな約束をして、私は不安でじっとしてはいられません、恋心のために)水底(みなそこ)に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 戀ふるこのころ(― 水底に生え伸びている玉藻がなびくように、心はあなたになびいて恋しいこの頃です)敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)離(か)れて 玉藻なす 靡きか寝(ね)らむ 吾(わ)を待ちがてに(― 私の袖を離れて吾妹子は、玉藻のようになびきつつ淋しく寝ているであろう。私を待っていても会えなくて)君來(こ)ずは 形見にせむと わが二人 植ゑし松の木 君を待ち出(い)でむ(― もしあなたが来なければ形見にしようと我々二人で植えた松の木は、マツの名の通りにあなたを待ってきっと逢うことを果たすでしょう)袖振らば 見ゆべきかぎり われはあれど その松が枝(え)に 隠(かく)れたりける(― 別れの袖を振ったならば、ぎりぎり一杯で見えそうなところに私はいるのだが、そこの松に隠れてしまって相手が見えない) 別れていく男の歌とも、見送る女のものとも、二通りに解釈できる。血沼(ちぬ)の海の 濱邊の小松 根深めて われ戀ひわたる 人の子ゆゑに(― チヌの海の浜辺の小松は根が深いが、そのように私は深く思い続けるであろう、人妻であるのに)奈良山の 小松が末(うれ)の うれむぞは わが思ふ妹(いも)に 逢はず止(や)みなむ(― どうして私の思う妹に会わずに止むことがあろうか)磯の上に 立てるむろの樹 ねもころに 何か深めて 思ひ始(そ)めけむ(― どうしてこんなにも心に深く恋心を抱き始めたのであろうか)橘の下(もと)に吾(わ)を立て 下枝(しづえ)取り 成らむや君と 問ひし子らはも(― 橘の木の下に私を立たせ、下枝を取り、この実がなるように私の恋がうまくいくでしょうかと訊いた子は、今どうしているだろうなあ)天雲(あまくも)に 翼(はね)うちつけて 飛ぶ鶴(たづ)の たづたづしかも 君坐(いま)さねば(― ああ頼りなくて心もとない。あなたがおいでにならないので)妹(いも)に戀ひ 寝(い)ねぬ朝明(あさけ)に 鴛鴦(をしどり)の ここゆ渡るは 妹が使か(― 妹が恋しくて寝られなかった朝、オシドリがここを渡っていくのは妹の使だろうか)思ふにし 餘りにしかば にほ鳥の なづさひ來(こ)しを 人見けむかも(― 心に余って何ともしようがなかったので、足を濡らしてやって来たのを、人が見ただろうか)高山の 峯行くししの 友を多み 袖振らず來(き)つ 忘ると思ふな(― 高山の峯を行くシシが連れが多いように、連れ立つ人が多かったので袖を振らずに来たのです。忘れたと思わないで下さい)大船に 眞楫(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 漕ぐ間(ほと)も ここだく戀し 年にあらば如何(いか)に(― 大船に櫓を揃えて漕ぐ、つかの間もこんなに甚だしく恋しい。これが一年間も会わずにいるのだったらどんなだろう)たらちねの 母が養(か)ふ蠶(こ)の 繭(まよ)隠(こも)り 隠れる妹を 見むよしもがも(― 母が飼っている蚕が繭に隠れるように、篭って人に会わない妹に、会う手立てが欲しい)肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結(ゆ)へる 染木綿(しめゆふ)の 染(し)みにしこころわれ忘れめや(― あなたに深く染みついた心を私は忘れようか、忘れはしない)隼人(はやひと)の 名に負(お)ふ夜聲 いちしろく わが名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(― 隼人の有名な夜声がはっきり聞こえるように、はっきりと私の名を申しました。この上は妻として信頼してください)劔(つるぎ)刀(たち) 諸刃(もろは)の利(と)きに 足踏(ふ)みて 死なば死ぬとも 君に依りなむ(― 両刃の鋭い剣刀を足で踏んで死ぬように、たとい死ぬなら死のうともあなたに寄り添います)吾妹子に 戀ひし渡れば 剱刀(つるぎたち) 名の惜しけくも 思ひかねつも(― 吾妹子に恋い続けているので、たとい評判が立っても、名の惜しいことも考えていられません)朝(あさ)づく日 向(むか)ふ黄楊櫛(つげくし) 舊(ふ)りぬれど 何しか君が 見れど飽かざらむ(― 二人は随分と古い仲だけれど、どうして貴方は見れども飽きないのでしょうか)里遠み 戀ひうらぶれぬ 眞澄鏡(まそかがみ) 床(とこ)の邉(へ)去らず 夢(いめ)に見えこそ(― 里が遠いので恋しさに萎れてしまいました。どうか、床の辺を去らないで夢に現れて下さいな)眞澄鏡(ますかがみ) 手にとりもちて 朝な朝な 見れども君は 飽くこともなし(― 真澄の鏡を手に取って持って、毎朝毎朝見ても見飽きないように、いつ見ても見飽きないあなたです)夕されば 床(とこ)の邉(へ)去らぬ 黄楊枕(つげまくら) 何しか汝(なれ)が 主(ぬし)まちがたし(― 夕方になると床の辺を離れない黄楊の枕よ、どうしてお前は、お前の主を待ち付けることが出来ないのか)解衣(とききぬ)の 戀ひ亂れつつ 浮沙(うきまなご) 生きてもわれは あり渡るかも(― 解き衣が乱れるように恋心に乱れ、水に浮く浮き沙・すな のように儚く生きて、私は命を長らえています)梓弓(あづさゆみ) 引きて許さず あらませば 斯(か)かる戀には 逢はざらましを(― もし心を許さなかったら、今頃こんな苦しい恋には遭わなかったであろう)言霊(ことたま)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)問ふ 占(うら)正(まさ)に告(の)る 妹はあひ寄らむ(― 言語の働く巷で夕占・夕方に人の行き来をする街角に立って人の言語で吉凶を占うこと をして問うてみると、占にまさしくあらわれた、妹は私に寄るだろうと) 玉鉾(たまほこ)の 路行占(みちゆきうら)に うらなへば 妹は寄らむと われに告(の)りつる(― 道を行く人の言葉で占うと、妹は私に逢うだろうとのお告げであった)
2024年06月14日
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