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新田義貞 謀反 の 事 付 天狗が越後勢を 催す事 新田義貞 高塒の使者を斬る 高塒は 義貞を討とうとする 義貞の 挙兵 こうした所に、新田太郎義貞は去りぬる三月十一日に先朝(先帝、後醍醐天皇)から綸旨を給わりたりしかば、千劒破(ちはや、大阪府南河内郡千早赤坂村。楠正成が籠る千剣破城がある)から虚病(嘘の病気)して本国に帰り、便宜(べんぎ、頼りのよい)の一族達を潜かに集めて謀反の計略を廻らしたのだ。 この様な企てが有るとは思いも寄らない相模入道は、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差し添えて京都に上らせ、畿内・西国の乱を静めるべしとて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野など六ッか国の勢をぞ催されける。 その兵粮の為にとて、近国の庄園に臨時の天役(てんやく、鎌倉時代以降、朝廷の大儀・造営などの時に臨時に賦税した雑税)を懸けられた。 中でも、新田庄世良田(にったのしょうせらだ)には有徳の者が多いとと言うので、出雲介親連(ちかつら)、黒沼彦四郎入道を使にして、六万貫を五日の内に沙汰すべしとて、堅く下知さられたので使は先ずかの所に臨んで、大勢を庄家(しょうけ、庄園事務を掌った家」に放ち入れて譴責(けんせき、責める)することは法に過ぎた(並々では無かった)のだ。 新田義貞はこれを聞きなされて、我が舘の辺を雑人(ぞうにん、身分の低い者、賎者)の馬の蹄に懸けさせたのは返す返すも無念である。 どうして見ながら我慢が出来ようか。と言ってあまたの人数を差し向けられ、忽ちに両使を生け捕って、出雲の介を禁縛(きんばく、縛る事)しておき、黒沼入道の頸を切り、同日の暮程には世良田の里中に懸けられたのだ。 相模入道はこの事を聞いて大いに怒って宣いける、当家が世を執って既に九代、海内は悉くその命に随わずということは更にない。然るに近代、遠境はややもすれば武命に随わず、近国は下知を軽んずる事は奇怪である。 剰(あまつさ)え、藩屏(はんぺい、垣の内、直轄の領地の中)の中にあって使節を誅戮(ちゅうりく、殺す)する条は罪科は軽くない。この時にもし緩々の沙汰を致すならば大逆の基となってしまうであろう、とて則ち武蔵・上野両国の勢に仰せて、新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討って参らすべしと下知なされた。 義貞はこれを聞いて、宗徒の一族達を集めて、ここ事は如何あるべきか、と評定ありけるに、異議様々で、一定(いちじょう)ではない。 或いは、沼田庄を要害にして利根河を前にして敵を待とう、と言う義もある。又、越後の国には大略、富家の一族が充満しているので、津張郡に打ち越えて上田山を伐り塞ぎ、勢を付けてから防ぐべきだなどと、異見が定まらず。 舎弟の脇屋次郎義助はしばらく思案してから、進み出でて申されける、弓矢の道は命を軽んじ名を重んじるを以て義としている。なかんずく相模の守は天下を取って百六十余年、今に至るまで武威が盛りに振るってその命を重んぜずという所はない。 されば仮令(たとえ)利根川を堺にして防ごうとも、運が尽きるならば叶うまい。又、越後の一族を頼みにしても人の意(こころ)は一定していないので、久しい謀は出来ない。さしたる事もしでかさぬ物故に、ここかしこに落ちて行き、新田の某(なにがし)こそ相模の守の使を切った咎で他国に逃げて討たれたなんどと、天下の人口に入らん(人の噂になる)事こそ残念である。 とても討ち死にする命を謀反人と言われて朝家の為に捨てるのは、無くなった後までも武勇は子孫の面目となり、武名は死後の名誉となるであろう。 先だって綸旨を下されたのは、何の用にあたるであろうか。各自が宣旨を額に当てて、運命を天に任せてただ一騎であろうとも国中に打って出て、義兵を挙げたならば勢も付き、やがて鎌倉を攻め落とす勢力が付かないならば、鎌倉を枕にして討ち死にするより他の事が出来ようか、と義を先として勇を宗として申されたので、当座の一族三十余人は皆この義に同じたのだ。 さればやがて事が漏れ出ない前に打ち立たんとて、同五月八日の卯の刻(午前六時)に生品(いくしな)の明神の御前にて旗を揚げ、綸旨を披いて三度これを拝し、笠懸野に打ち出でた。 相続く人々、氏族には大舘次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞光・舎弟四郎行義・岩松三郎經家・里美五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、これらを宗徒の兵として百五十騎には過ぎていなかった。 越後の国の一族等 来たり援ける者が相つぐ 二十万七千余騎 となる この勢ではどうかと思っている所に、その日の晩景に利根川の方から馬・物の具が爽やかに見えたる兵が二千騎ばかりが馬煙を立てて馳せ来った。 すはや、敵よと目に懸けて見れば敵にはあらずして、越後の国の一族で里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々であったのだ。 義貞は大いに悦んで、馬を抑えて(馬が前に進むのを抑えて)宣いけるのは、この事は兼ねてからその企てが有ったのでが、昨日今日とは告げてはいなかった。 俄かに思い立つ事があったので、告げ申さないでいたのではあるが、何として存ぜられたのであろうか。と、問いければ、大井田遠江守が鞍壺に畏まって申されけるには、勅諚に依って大儀を思し召し立たれし由を承り候わずば何にとして、斯様に馳せ参るべく候。 去りぬる五日の御使とて天狗山伏が一人、越後の国中を一日にして触れ廻り候間、夜を日に継いで馳せ参りて候。境を隔てたる者は、皆が明日の程には参着致すでありましょう。 他国に御出で候わばしばらくかの勢を御待ち候えかし。と、申して馬から下りて各々対面し色代(しきだい、挨拶)して、人馬の息を継がせなされている所に、後陣の越後並びに甲斐・信濃の源氏共が家々の旗を差連れて、その勢は五千余騎、夥しく見えて馳せ来る。 義貞・義助は斜めならず喜んで、これは偏に八幡大菩薩(八幡神に奉った称号。奈良時代以後に神仏混淆の結果で起こって称)の擁護によるものであろう。暫くも逗留すべからず、とて、同九日に武蔵の国に打ち越え給うに、紀五左衛門が足利殿の御子息の千壽王殿を具足し奉り、二百余騎にて馳せ着いたのだ。 これより上野・上総・常陸・武蔵の兵共はいまだ期(ご)せざるに(予期していないのに)集まり、催さざる馳せ来りて、その日の暮程に二十万七千余騎が兜を並べて控えたのだ。 されば四方八百里に余れる武蔵野に人馬が共に充満して、身をそばだてるに所なく、打ち囲んだる勢であるから、天に飛ぶ鳥も翔けることを得ず、地を走る獣も隠れようとしても場所がない。草の原から出る月は馬鞍の上にほのめきて(ちらちらと見えて)鎧の袖に傾いた。尾花の末を分ける風は旗の影をひらめかせ、幌の手(冑の上から馬の頭辺までかぶって矢を防ぐ道具で、絹・略式は布で作り、下方は垂れ流すか腰に結び付ける)が静まることがない。
2026年05月22日
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都合四百三十二人が同時に腹を切ったのであった。 その血はその身を浸して、死骸は庭に充満した。屠所の肉に異ならず。 かの、已亥(いがいの)年(つちのといのとし、唐の粛宗の乾元二年759、史思明・安禄山の将が燕王と称して、安慶緒・安禄山の長子を殺して范陽に帰り帝を僭称した時)に五千の貂錦(貂・てんの皮を冠に飾りとして付ける事)胡塵(野蛮人・ここは安禄山が立てる塵)に滅び、さんずいの童關の戦に百万の士卒が河に溺れたのもこれには過ぎないだろうと、哀れであることは目も当。てられず。言うにも言葉もないのだった。 主上・上皇は此の死人どもの有様を御覧ずるに、肝心が御身に添わず、ただ呆れてぞおわしましける。 主上・上皇は 五宮の為に 囚われ給う事 付けるたり 資名(すけな)卿 出家の事 光巌天皇等 官軍の手に移らせらる さる程に、五の宮の官軍共が主上と上皇を取り参らせて、その日先ず長光寺(ちょうこうじ、滋賀県近江八幡)に入れ奉り、三種(さんじゅの)神器並びに玄象(げんじょう、玄上とも書く、琵琶の名)・下濃(すそご、琵琶の名)・二間(ふたま、清涼殿の廂の間。天皇守護の祈祷をする僧がいつも伺候する場所)の御本尊(仏菩薩)に至るまで、自ら五宮の方に渡らせられた。 秦の子嬰(しえい、公子の嬰の意、始皇帝の孫。二世皇帝の兄扶蘇の子)が漢祖(沛公)の為に亡ぼされて、天子の璽符(じふ、天子の御印と割符)を首に懸けて(自殺をする意を表す)白馬・素車(そしゃ)に乗って車に只道(しどう)の傍らに至り給いし亡秦の時に異ならない。 日野資名 が 出家する 日野大納言資名卿は殊更に當今(とうぎん)に御奉公の寵臣であったが、如何なる憂き目を牟るだろうかと身を危ぶんで思われたので、その辺の辻堂に遊行の聖があった所におわして、出家すべき由を宣いければ聖はそのままに戒師となって是非なく髪を剃り落そうとしたが、資名卿は聖に向って、出家の際には何とやらん、四句の偈を唱える事があるとか聞いているが、と仰せられたのだがその聖はその文を知らなかったのであろう、汝是畜生發菩提心(にょぜちくしょうほつ」ぼだいしん)とぞ唱えられた。 三河の守友俊も同じく此処にて出家せんとて、既に髪を洗ったのだが、これを聞いて、命が惜しさに出家すると言っても、汝は是畜生であると唱え給うことの悲しさよ、と笑壺に入って笑われける。 天皇等は 官軍に警護されて 京都に入られた 因果 歴然 の 理 かくの如くに今まで付き纏い参らせた卿相雲客(殿上人)もこれかれと落ち留まって出家遁世をして退散してしまったので、今は主上・春宮・両上皇の御方々様にも、經顯(つねあき)・有光(ありみつ)卿の二人より他には供奉(ぐぶ)仕る人も無かった。 その外は皆、見慣れぬ敵に打ち囲まれて、怪しげなる網代輿に召されて、都に帰り上らせ給えば、見物の貴賤が岐(ちまた)に立って、あら、不思議や、去年先帝を笠置にて生捕り参らせて、隠岐の国に流し奉りしその報いが三年の内に来たりし浅ましさよ。 昨日は他州の愁いと聞いたけれども、今日は我が上の事と当たれりとは、斯様の事をや申すのにであろう。この君も又、如何なる配所へと遷されさせ給いて、宸襟を悩まされことであろうかと、心有る者も心なき者も見る人毎に因果歴然の理(ことわり)を感じ思いて、袖を濡らさぬ者とては無かったのだ。 千葉屋(ちはやの)城 寄せ手敗北の事 六波羅陥落 の報を聞き 千剣破城の寄せ手 南都の邦に 引き退く 死傷 多し さる程に、昨日の夜、六波羅が既に攻め落とされて、主上・上皇皆関東に落ちさせ給いぬと、翌日の午の刻(正午)に千葉屋に聞こえたので、城中では悦び勇んで、ただ籠(こ)の中の鳥が林に出でて遊ぶ喜びをなし、寄せ手は贄に赴く羊が駈られて廟に近づく如き思いをなす。 何様、一日も遅く引くならば、野伏はいよいよ勢いが重りて山中の道は難儀するであろうと言うので、十日の早旦に千葉屋の寄せ手の十万余騎は南都の方へと引いてゆく。 前(さき)には兼ねて野伏どもが充満している。 後からは敵が又急に追い懸る。 すべて大勢が引き立てたる時の癖であれば、弓矢を取り捨てて親子兄弟を離れて、我先にと逃げふためきたる(ばたばたして逃げる)程に、或いは道もない岩石の際に行き詰まりて腹を切り、或いは数千丈と深い谷の底に落ち入って、骨を微塵に打ち砕く者、幾千萬と言う数を知らない。 始め味方の勢を帰さじとて寄せ手の方から警護を据え、谷合の関、逆茂木も引き除けて通る人が無いので堰き落とされては馬に離れ、倒れては人に踏み殺されて二三里の間の山路を、数万の敵に追い立てられて一軍もしないで引いたので、今朝まで十万四騎と見えた寄せ手の勢が残り少なに討ちなされ、僅かに生きた軍勢も馬・物の具を捨てない者はいない。 されば今に至るまで、金剛山(こんごうせん、大阪府と奈良県との間に聳える金剛山脈の最高峰)麓、東條谷の路の辺には矢の孔、刀の疵がある白骨が収める人もいないので、苔に纏われて累々(るいるい、積み重なった様)たり。 されども宗徒の大将達は一人も道には討たれずに、生きたる甲斐はないのだが、その日の夜半ばかりに南都にこそ落ち着かれたのだ。 巻 の 十 千壽王殿 大藏谷に 落ちられる事 尊氏の二男千寿王 鎌倉を 落ちる 両使は京に上らんとして、途から引き返す 足利治部大夫尊氏が敵になったることは、道が遠いので飛脚はまだ到来していない。鎌倉ではかつてその沙汰もなかった。 かかりし所に、元弘三年五月二日の夜半に足利殿の二男千壽王殿が大藏谷を落ちて行方知れずになってしまった。 これによって鎌倉中の貴賤がすはや大事が出で来たるはとて騒動は斜めならず。京都の事は通が遠いので未だに分明の説も無く、毎事に心もとないとて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工(すはのもく)左衛門入道との両使で上京する所に六波羅の早馬が駿河の高橋にて行き会った。 名越殿は討たれ給いて、足利殿は敵になられた、と申しければ、さては鎌倉の事も心配であるよとて両使は取って返し、関東へと下ったのだ。 尊氏の長男竹若 浮島が原で両使に遇い 殺害される ここに高氏の長男の竹若殿は伊豆のお山におわしましけるが、伯父の宰相(参議の唐名)法印(法印大和尚の略。最高の僧位)良遍・稚児(寺院に仕える少年)・同宿(同じ宿坊の僧)が山伏の姿になって潜に上洛し給いけるが、浮島が原でかの両使にぞ行き合い給いける。 諏方・長崎は生捕り奉らんと思う所に、宰相法印は是非もなく馬上で腹を切り、道の端にぞ臥したのだった。 長崎は、さればこそ、内に野心のある人は外(ほか)に遁れる辞(詞)はない、とて、竹若殿を刺し殺し奉り、同。宿十三人の頭(くび)を刎ね、浮島が原に懸けてぞ通ったのだ
2026年05月20日
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蘭輿(らんよ、天子の乗る輿)が後に連なって、番馬の峠を越えようとした際に、数千の敵が道を中に挟んで、楯を一面に並べて矢先を揃えて待ち懸けていた。 糟谷は遥かにこれを見て、思うに當国・他国の悪党どもが、落人の物の具を剥ごうとして集まっているようだ。手痛く当たって捨てる程であるならば、命を惜しまずに戦う程の事もあるまいに。ただ一懸けに駈け散らして捨てよ、と言うままに、三十六騎の兵共が馬の鼻を並べて駆けたのだった。 一陣を固めていた野伏の五百余人は遥かの峰に捲り上げられて、二陣の勢に逃げ加わった。 糟谷は一陣の軍には打ち勝った。今はよも手に障る者はあるまじと、心安く思って朝霧が晴れゆくままに越えるべき末の山路を遥かに見渡したならば、錦の旗が一流れ峰の嵐に翻って兵は六千人程が要害を前に当てて待ち構えている。 糟谷は二陣の敵の大勢を見て、退屈して(呆れて)控えている。重ねて駆け破ろうとすると、人馬が共に疲れて、敵は険阻に支えている。相近づいて矢軍をしようとすると、矢種は皆射尽くして、敵は若干(いくばく、多く・多数・多大の意)の大勢である。 とにもかくにも叶わざるとも覚えなかったので、麓に辻堂があったので、皆が下降りして後陣を相待ちける。 宗秋 仲時に 説く 仲時は 番馬の宿で 佐々木時信 を待つ 越後守は前陣に軍が有ると聞いて、馬を速めて馳せ来り給う。糟谷三郎が越後の守に向って申した事には、弓矢取りが死すべき所で死なないのは恥を見ると申し習わしているのは理で候。我等は都にて討ち死にすべき者で候しが、一日の命を惜しみてこれまで落ち来て、今言う甲斐もない田夫野人の手にかかって屍を路径の露に曝すのは、非常に残念なる事に候。 敵はこの一所だけであれば、身命を捨てて打ち払っても通るべく候が、推量仕るに先ず土岐の一族は最初から謀反の張本であったが、折を得て美濃の国を通さんとぞ仕り候わんずらん。 吉良の一族も度々の召しに応じずに、遠江の国に城郭を構えて候と風聞候しかば、出合わぬことは候わじ。是等を敵に受けては退治する事は恐らく万騎の勢を以てしても叶うまい。 況や、我等は落人の身となって、人馬は共に疲れ、矢の一隻(いちせき、一筋)でもはかばかしく射る力もなくなりて候えば、いずくまでか落ち延び候や。 ただ、後陣の佐々木を御待候て近江の国に引き返し、暫くはさりぬるべからんずる城に立て籠って関東勢の上洛し候わんずるのを御待ち候えかし。と、申しければ、越後守仲時も、この義を存ずれども佐々木とても今は如何なる野心をか存ずらんと、頼み少なく覚えければ、進退に谷まって面々の意見を問い申さんと存ずる成り。 さらば、いか様この辻堂でしばらくは佇み、時信を待ってこそ評定あらめ、とて、五百余騎の兵共は皆辻堂の庭にぞ馬から下りて休息したのだ。 時信 降人 となって京都に 上る 佐々木判官宣時は一里ばかり引き下がって、三百余騎で打った(馬に乗って行く)のだが、如何なる天魔波旬の仕業にてかあるらん、六波羅殿は番馬の峠にて野伏共に取り籠められて一人も残らずに討たれ給いけりと、告げたのだ。 時信は、今はなすべき様はなくなってしまったぞ、と愛智河(えぢかわ)から引き返して降人(こうにん)となって京都に上ったのだ。 仲時 の 自害 宗秋は これに殉ずる 同時に切腹した 宗徒 の人々 越後の守仲時、暫くは時信を遅いと待ち給いけるが、待つ期過ぎて時移りければ、さては時信も早敵になりにけり。今はいずくへか引き返し、何処までか落ちたるならば爽やかに腹を切らんずる物をと中々に一途に心を取り定めて、気色は涼しくぞ見えた。 その時に軍勢共に向って宣(のたま)いけるは、武運が漸くに傾いて、当家の滅亡は近いと見給いけるが弓矢の名を重んじて日頃の好みを忘れずして、これまで付き纏い給いける志は中々申すに言葉はなかるべし。 その報謝の思いは深いと言えども、一家の運は既に尽きているので、何を以てかこれを報ずべき。今我は方々の為に自害をして、生前(しょうぜん)の芳恩を死後に報ぜんと存ずる成り。 仲時は不肖ではあるが、平氏の一類(一門、一族)の名を揚げる身であるから、敵共はさぞかし我が首を以て千戸侯にも(家千戸を領する大名に)してやると言って募るであろう。早く仲時の頸を取って源氏の手に渡し、咎を補って忠に備え給え。と、言い果てぬ言葉の下で鎧を脱いで押し膚脱ぎ、腹を掻き切って伏したのだ。 糟谷三郎宗秋がこれを見て、涙が鎧の袖にかかっているのを抑えて、宗秋こそは先ずは自害して冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるを。先立たれた事が口惜しいことだ。今生にては命の際の御先途を見果て参らせつる。冥途なればとて、見放し奉るべきではない。 暫くお待ち候え、死出の山の御伴を申し候わん、とて、越後守の鞆口まで腹に突き立てて置かれたる刀を取って己の腹に突き立てて、仲時の膝に抱き付いてうつ伏せにこそ臥したのだ。 これを始めて、佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・高橋黒羽左衛・孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田(すだ)七左衛門尉・同孫五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門・同七郎三郎・同藤次郎・中布利(なかぶり)五郎左衛門・石見(いわみ)彦三郎・武田下條(たけだげじょう)十郎・關屋八郎・同十郎・黒田新左衛門・同次郎左衛門・竹井(たけいの)太郎・同掃部(かもん)左衛門尉・寄藤(頼ふぢ)十郎兵衛・皆吉(みなぎり左京亮(すけ」・同勘解由七郎兵衛・小屋木七郎・塩屋右馬允(じょう)・同八郎・岩切(いわぎり)三郎左衛門・子息新左衛門・同四郎・浦上(うらかみ)八郎・岡田兵六兵衛・木工介(もくのすけ)入道・子息介三郎・吉井彦三郎・同四郎・壱岐孫三郎・窪(くぼの)二郎・糟谷弥次郎入道・同孫三郎入道・同六郎・同次郎・同伊賀三郎・同彦三郎入道・同大炊(おほゐ)次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋次郎左衛門尉・南和(なわの)五郎・同又五郎・原宗(はらむねの)左近将監入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平右馬三郎・御器所(ごきしょの)七郎・怒借屋(ぬかりや)彦三郎・西郡(にしこり)十郎・秋月二郎兵衛・半田(はんだ)彦三郎・平塚孫四郎・毎田(まいでん)三郎・花房六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫五郎・同孫四郎・足立源吾・三河孫六・廣田五郎左衛門・伊佐治部(いさじぶの)允・同孫八・同三郎・息男(そくなん)孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木隠岐判官・二階堂伊豫入道・石井中務(なかづかさの)丞・子息弥三郎・同四郎・海老名四郎・同與一・弘田(ひろた)八郎・覺井(さめがい)三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤六郎・同彦四郎・備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・同弥太郎・三嶋新三郎・同慎太郎・武田與三・満王野(みつわの、みをにや)藤左衛門・池守(いけもり)藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門・斎藤宮内(くないの)丞・子息竹丸・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前民部大夫・同七郎左衛門・田村中務入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記(しなののこうげき)・眞上(まかみの)彦三郎・子息三郎・陶山次郎・同小五郎・小宮山孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境(たかさか)孫三郎・塩屋弥次郎・庄左衛門四郎・藤田次郎・同七郎・金子(かねこの)十郎左衛門・眞壁三郎・江馬彦次郎・近部(こんべ)七郎・能登彦次郎・新野(にいのの)四郎・佐海(さみの)八郎三郎・藤里(ふぢさと)八郎三郎・藤里八郎・愛多義(あたぎ)中務允・子息弥次郎・これらを宗徒の者として恰も黄河が流れる如くである。
2026年05月18日
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中吉(なかぎり)の弥八がこれを聞いて、悪い奴ばらの振る舞いであるよ。いで、欲しがる物の具を取らせようぞ、と言うままに若党六騎が馬の鼻を並べて、懸りたりける。 欲心が熾盛(しじょう、激しい)なる野伏共は六騎の兵に懸け立てられ、蜘蛛の子を散らす如くに四角八方にぞ逃げ散る。 六騎の兵は六方に分かれて、逃げるのを追う事各数十町である。弥八は余りに長追いをしたので、野伏が二十余人返り合わせて、これを中に取り籠めた。 しかれども弥八は少しも怯まずに、その中の棟梁と見えたる敵に馳せ並べて、むずと組み、馬二匹の間にどうと落ちた。四五丈ばかり高い片岸の上から上に成り、下に成りして転んだが共に組みも離れもせずに深田の中に転び落ちにけり。 中吉は下になっているので挙げざまに一刀(ひとかたな)を刺さんとして腰の刀を探ったが、転ぶ時に抜けて落ちてしまったのか鞘だけがあって、刀はない。 上なる敵は中吉の胸板の上に乗り懸かって、鬢の髪を掴んで首を掻かんとしたところ、中吉は刀加えに(刀諸共)敵の小腕を丁(ちょう)と掬(にぎ)りすくめて(強く握る)、暫く聞き給え、申すべき事がある。御辺、今は決して我を恐れる必要なない。刀があればこそ、跳ね返して勝負を決しもしよう。又、続く味方も無いので落ち重なって我を扶ける者もいない。 されば御辺の手にかけて頸を取って出だされようともかつて首実検にも及ぶまい。高名(手柄、功名)にもならないぞ。我は六波羅の御雑色(鎌倉・室町時代に幕府の雑役に服した者)で六郎太郎と言う者で候が見知らぬ人はいないだろう。無用の下部の頸を取って罪を作り給わんよりは我が命を助けてたび候えかし。その悦びには六波羅殿の銭を隠して六千貫を埋めたる場所を知って候故に手引き申して御辺に所得させ奉らん、と言ったところ、誠とや思ったのか、抜いていた刀を鞘に差して下に居た中吉を引き起こして、命を助けただけではなくて、様々な引き出物(贈り物)をして、酒なんども勧めて京に連れて上ったので、弥八は六波羅の焼け跡に行き、正しく此処に埋められていたのであるが、早人が掘って取ってしまっているぞ。徳つけて奉らんと思ったのだが、耳のびく(耳朶)が薄く(運が悪い)おわしけると、欺いて空笑いをして引き返したのだ。 篠原の宿に 着御 梶井二品親王は 伊勢に赴かれ 更に 京都に帰られる 中吉は謀で運が開け、主上はその日に篠原の宿に御到着なされた。 ここで怪しげなる網代輿を尋ね出だして、徒歩立ちなる武士共は俄かに駕輿丁(かよちょう、貴人の駕輿を舁ぐ人夫)の如くになって御輿の前後をぞ仕った。 天台座主・梶井二品親王はこれまでお供申させ給いけるが、行く末とても道の程安く過ぎるとも覚えさせ給わぬので、いずくにても暫く立ち忍ぼうと思召して、御門徒に誰か候と御尋ねありけれども、去りぬる夜の路次(みちのほとり)の合戦に、或いは傷を蒙る留まって、或いは心変りして落ちてしまったのであろうか。 中納言僧都・經超(きょうちょう)、二位の寺主(てらじ、諸大寺・定額寺・じょうかくじなどの三綱、上座・寺主・都維那の一。一寺を知事する職位)浄勝の二人より外は供奉(ぐぶ)仕りたる出世(しゅっせ、清僧で、持仏堂の法事を勤める公家または公家の養子。出世者)・坊官(ぼうかん、門跡家の家司・けいし。妻帯歯黒で、門主に奉仕する僧。出世と同輩である)は一人もいない。と、申しければ、さては殊更長途の逆旅(逆は迎える、旅人を迎える旅舎だが、ここは旅のこと)叶うまじとてこれより引き別れて、伊勢の方にぞ赴かせ給う。 さらだに山立ち(山賊)が多い鈴鹿山である、飼っている馬に白い鞍を置いて召されたのは中々道の為に仇となるだろうと、馬を皆宿の主に賜りて、門主(もんじゅ、天台座主、ここは尊胤法親王)は長々と蹴垂れた長絹の御衣に檳榔(びんろう、棕櫚の葉で作った)の裏無しを召されて、經超僧都は衵(あこめ、男子が束帯・直垂姿・衣冠などの時に、単・ひとえの上、下襲の下に着た小袖)を重ねて着た黒衣に水晶の数珠を手に持って歩きかねている有様は、如何なる人もこれを見てはすはや。これこそは落人だと思わぬ者はあるべからず。 されども山王大師(円珍即ち智証大師の別号であるが、ここは山王権現・日吉神社言う。大師は仏の尊号であるから神を指すのはおかしいが、本地垂迹説に依る)の御加護にやよるのだろうか、道で行き遇う山路の樵(きこり)、野径の草刈、御手を引き、御腰を推して鈴鹿山を越し奉った。 さて、伊勢の神官鳴なる人をひたすらに頼みてありけるが、その神官は心有る身に難がるのも顧みずにとかく隠し置き参らせたので、此処に三十余日御忍びありて京都が少し静まったので、還御なして三四年の間は白毫院と言う所に御遁世の體で御坐ありける。 越後守仲時 已下 自害の事 官軍 先帝の 第五の宮を 奉戴して 六波羅税を 路に要撃する さるほどに、両六波羅は京都の合戦に打ち負けて、関東に落ちられる由が披露ありければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川(えちかわ)・小野・四十九院(しじゅうくいん)・摺針・番馬・さめがゐ)・柏原・その外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立ち、強盗、あぶれ者共が二三千人が一夜の内に馳せ集まって、先帝の第五の宮が御遁世の體で伊吹の麓に忍びて御坐あることを、大将に取り奉りて錦の御旗を差挙げて東山道(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八)第一の難所の番馬の宿の東である小山の峰に取り上り、崖の下に在る細道を中に挟んで待ちかけた。 先陣の糟谷宗秋 力 尽きる 夜が明けると、越後の守仲時は篠原の宿を立って、仙嗶(せんひつ、天子の車駕。行幸の行列)を重山の深きに促し奉る。 都を出た昨日までは供奉(ぐぶ)の兵は二千に余っていたが、次第に落ち散ってしまったのか今は僅かに七百騎にも足りないのだった。 もし後から追いかける事があれば、防ぎ矢を仕れ。とて、佐々木判官時信をば後陣に打たせられ(馬に乗って行かせ)、逆徒が道を塞ぐならば打ち散らして道を開けよ、とて糟谷三郎に先陣を打たせられた。
2026年05月14日
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道の程、事故もなく関東に着いたならば、やがて御迎えに人を参らすべし。もしまた、我等が道にて討たれたと聞いたならば、如何なる人にも相馴れて、松壽を人となして、心がついたならば僧にして我の後世を問わせ給え、と心細げに言い置いて涙を流して立ち給う。 北の方は越後守の鎧の袖を控え(抑え)て、どうして、そのようなうたてしき(薄情な)言葉で仰るのでしょう。この折節に幼き者などを引き具して知らぬ辺りにやすらう(休息する、立ち止まる)ならば誰が落人のその様方と思わないでしょうか。また日頃から知りたる人の傍らに立ち宿るならば、敵に探し出だされて、わが身の恥を見るだけではなく、幼き者の命さえも失うであろう事の悲しさよ。道にても思いの外の事があれば、そこにてこそ共に兎も角も成り果てましょう。頼む陰の無い木の下(もと)に世を秋風の露の間も捨て置き参らせては、長らえる心地も致しませぬ、と泣き悲しみ給いければ、越後守も心は猛(たけし)と言えども、流石に岩木のみではないので、慕う別れを捨てかねて遥かに時をぞ、移されたのだ。 昔、漢の高祖と楚の項羽と戦う事七十余度であったが、項羽は遂に高祖に囲まれて夜が明けたならば討ち死にしようとした際に、漢の兵が四面にして皆楚歌をするのを聞いて、項羽は即ち帳(垂れ幕)中に入り、その夫人の虞氏(ぐし)に向って別れを慕い悲しみを含み、みずから歌を作っていわく、 力は山を抜き 気は世を蓋う 時に利あらず 馬に隹(すい)は逝かず すい逝かず 如何にすべき 呉氏 呉氏 汝を如何せん と悲歌慷慨して項羽が涙を流したので、呉氏は悲しみに堪えかねて自ら剱の上に伏して、項羽に先だって死んだのだ。 項羽はあくる日の戦いに二十八騎を伴って漢の軍四十萬を懸け破り、自ら漢の将軍三人の頸を取り、討ち遺されたる兵に向って、我遂に漢の高祖の為に滅ばされぬることは軍の罪(戦いが拙い)にはあらず。天が我を亡ぼしたのだ。と、自ら運を計って遂に烏江(をうごう、中国華東区安徽省安慶道和県の東北の町。揚子江に通じる小運河に沿う)の辺にして自害したのだが、かくやと思い知られて涙を流さぬ武士はない。 南の方、左近将監時益(ときます)は行幸の御前を仕り、打ちけるが(馬に乗り進む)、馬に乗りながら北方越後守の中門際まで打ち寄せて、主上、早寮の御馬に召されて候に、などや長々しく打ち立ちなさらぬぞ。と、言い捨てて打ち出でければ、仲時は力なく鎧の袖に取り付いた北の方と幼い者を引き離して、縁側から馬に打ち乗り、北の門を東に打ち出で給えば、捨て置かれ給える人々は泣く泣く左右に分かれて、東の門から遁れ出で給う。 行く行く泣き悲しむ声を遥かに耳に留めて、離れもやらぬ悲しさに、落ち行く先の路暮れて馬に任せて歩ませ行く。 これを限りの別れとは互いに知らぬのが哀れであるよ。十四五町を打ち伸びて跡を顧みれば、早くも両六波羅の舘に火がかけられていて、一片の煙と焼き上げている。 北条時益 の戦死 糟谷七郎が これに殉ずる 五月闇の頃であるから、前後も見えずに暗いのに、苦集滅道(くずめぢ)の辺には野伏らが充満して十方から射る矢で左近将監時益は頸の骨を射られて、馬から逆様に落ちた。そしてその矢を抜けば忽ちに息が止まってしまった。 敵は何処に居るとも知れずに、懸け合わせて敵を討つ様もない。又、忍びて落ちる道もないので、朋輩に知らせて返し合わせるべき事も出来ない。ただ同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重んずるより他のことはないだろうと、思いければ、糟谷は泣く泣く主の頸を取って錦の直垂の袖に包み、道の傍らの田の中に深く隠して、則ち腹掻き切って主人の亡骸の上に重なって、抱きついてぞ伏したりける。 光巌天皇 六波羅を出御 流れ矢が 左の肱に 当たる 龍駕(天皇の乗り物)遥かに四宮河原を過ぎさせ給う所に、落人が通るぞ、打ちとどめて物の具を剥げ、と呼ばわる声が前後に聞こえて、矢を射る事雨が降るが如し。 かくては行く末とても如何あるべきとて、東宮を始め奉りて供奉の卿相雲客は方々に落ち散りなされていたので、今は僅かに日野大納言資名(すけな)・勧修寺中納言経顯(つねあき)・綾小路中納言重資(しげすけ)・禅林寺宰相有光ばかりが龍駕の前後には供奉(ぐぶ)されていた。 都を一片の暁の雲に隔てられて、思いを万里の東の道に傾けさせ給えば、剱閣(唐の玄宗皇帝が天宝十五年・756に安禄山の乱によって長安の都を出て蜀との境にある剱閣と言う険難な地を通り蜀に逃れたこと)の遠い昔に思し召し合わせられて、寿永の乱れたる世もかくてこそと叡襟を悩ましめ賜い、主上・上皇も御涙をさらにせきあえず。 五月の短夜が明けきらずに、逢坂の関のこちら側も暗いので杉の木陰に駒を留めて、暫くやすらい給う所に、何処から射たとも知れない流れ矢が主上の左の御肱に立ったのだ。 陶山備中守急いで馬から飛び降りて、矢を抜いて御肱を吸うが、流れる血が雪の肌に沁みて、見参らするに目も当たられず。 忝くも万乗の主、卑しき匹夫の矢先に傷をつけられて、神龍が忽ちに釣者の網にかかれる事は浅ましかりける世の中であるよ。 さる程に東雲漸くに明け初めて朝霧が僅かに残っているのに、北の山を見渡せば野伏共と覚えて、五六百人が程が楯を突き、鏃を支えて待ち懸けたのだ。 是を見て、面々は度を失って呆れたのだ。 中吉弥八 奇計を以て 野伏の襲来を退ける ここに備前国に住人で中吉(なかぎりの)弥八は行幸の御前に候けるが、敵近くに馬を駆け寄せて、忝くも一天の君、関東への臨幸がなるところに、何者であるからか斯様の狼藉をば仕るぞ。心有る者ならば、弓を伏せ、甲を脱いで通し奉りべきを、礼儀を知らぬ奴ばらなれば一々に召し取って頸を切り懸けて通るべしと、言った所、野伏共はからからと笑って、如何なる一天の君に渡らせ給え御運は既に尽きて、落ちさせ給わんずるを、通し参らせんとは申すまい。容易く通りたいと思召すならば、御伴の武士の馬・物の具を皆捨てさせて、御心安く落ちさせ給え。と、言いも果てぬのに同音に鬨をどっと作った。
2026年05月12日
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長宗の鎧の菱縫い、兜の吹き返しに立ったる矢は少々折り懸けて、高櫓の下につと走り入り、両金剛(密迹金剛と那羅延金剛と。仁王。如来の一切の秘密事迹を知り、五百の夜叉神を使役して仏法を守護する二神、共に全身を裸出して腰部だけに衣装を纏い、勇猛の相をなす。この二神の象を寺門の左右に置く。前者は口を開き、後者は口を閉じて、阿吽(あうん)の相を表す)の前に太刀を逆さまに突き、上口に且(うわくい、歯を食いしばり、下唇で上唇を食いしばる事)して立っているのは、何れを仁王、いずれを孫三郎とも分け兼ねた。 東寺・西八条・針・唐橋に控えている六波羅の兵一万余騎は木戸口の合戦は強いと騒いで、みなが一手になり当時の東門の脇から湿雲の雨を帯びて暮山から出たる様にまっしくらに打ち出でたる。 妻鹿も武部もすはや討たれてしまったと見えたので、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門らが相掛かりにかかって面も振らずに戦ったのだ。 あれ、討たすな殿ばら、とて赤松入道圓心、嫡子信濃守範資(のりすけ)・次男筑前守貞範・三男律師則祐・眞島・上月(こうづき)・菅家・衣笠の兵三千余騎が抜き連れてぞ懸ったのだ。 六波羅の勢一万余騎は七縦八横に(縦横無尽に)破られて、七條河原に追い出されてしまった。 六波羅勢 城に逃げ籠る 寄せたがこれを囲む 意気阻喪して 城を落ちる者が 多い 一陣が破れて、全党まったからざれば六波羅の勢は竹田の合戦にも打ち負けて、木幡(きはた)・伏見の戦にも負けて、落ちて行く兵は散りじりに六波羅の城に逃げ籠る。 勝ちに乗って逃げるのを追う四方の寄せ手の五万余騎は、皆が一所に寄せて五条の橋詰めから七条河原まで六波羅を包囲したのは幾千萬とも数を知らず。けれども東の一方を態と開いておいた。これは敵の心を一つにしないで、たやすく攻め落とす為の謀である。 千種頭中将忠顯朝臣、士卒に向って下知なされことには、この城は尋常の思いをなして延び延びに攻めれば千葉屋(千劒破城)を責めている北條勢が後攻めとしてここを責めると思われる。諸卒は心を一にして一時の間に攻め落すべし。と、下知なされたので、出雲・伯耆の兵共は雑車(ざつくるま、雑用に使う車)を二三百両取り集めて、轅(ながえ)と轅とを結い合わせて、その上に家を壊して山の如くに積み上げて、櫓の下に差し寄せて、一方の木戸を焼き破ったのだ。 ここに梶井の宮(尊胤法親王)の御門徒上林房・勝行房の同宿共は混甲(ひたかぶと)にて三百余人が地蔵堂の北門から、五条の橋詰めに打ち出でたので、坊門少将は殿の法印の兵共三千余騎は僅かの勢にまくり立てられて、河原三町を追い越される。 されども山徒はさすがに小勢であるから長追いしては悪かりなんとて、又もや城の中にぞ引きこもりたる。 六波羅に籠ったる軍勢は少ないけれどもその数は五万余騎に及んでいる。 この時にもし、志を一つにして同時に懸け出だすならば、引き立てたる寄せ手共は足を留めまいと思えたが、武家が滅ぶべき運の極めであろうか、日頃名を現わしていた剛の者と言えども勇まずに、無双強弓精兵と言われる者も弓を引かずして、ただ呆れているだけで、これかれにむら立って落ち支度の外は儀勢(見せかけの勇気。意気込み)もない。 名を惜しみ、家を重んずる武士共だにもかくの如しである。なんぞ況や主上・上皇を始め参らせて女院(皇室に属する女性で、上皇に準じた御待遇をお受けになる方々)・皇后・北政所(摂政・関白の夫人)・月卿(公家)・雲客(殿上人)・児(ちご)・女童(めのわらわ)女房達に至るまで軍と言う事は未だに目にも見給わぬ事であるから、鬨の声、矢叫びの音に懼れおののかせ給いて、こは、如何にすべしと消え入るばかりの御気色なれば、げにも理也と御痛ましいご様子を見せ参らするにつけても、両六波羅はいよいよ気を失って、惘然(ぼうぜん)の體なり。 今までは二心ない者と見えた兵であるが、このように城中が色めきたる様を見て、叶わないとや思ったのか夜に入りければ、木戸を開き逆茂木を越えて、我先にと落ちて行ったのだ。 義を知り、命を軽んじて、残り留まる兵は僅かに千騎にも足らずと見えたのだ。 主上・上皇 御沈落(ちんらく)の 事 糟谷宗秋 関東に 下ることを 両六波羅に勧める 六波羅 同意する ここに糟谷三郎宗秋が六波羅殿の前に来て申しけるは、味方の御勢は次第に落ちて今は千騎に足らぬ程になって候、この御勢にて大敵を防ぐことは叶うまいとこそ覚え候。 関東一方をば嫡はいまだ取り廻し候わねば、主上・上皇を取り奉りて、関東に御下り候て後に重ねて大軍を以て京都を攻められ候えかし。 佐々木判官時信が勢多の橋を警護して候を召し具されるならば、御勢も不足候まじ。時信が御伴候程ならば、近江の国においては手差す者は候まじ。 美濃・尾張・三河・遠江の国には御敵が有るとも承り候わねば、定めて無為にぞ候わんずらん。鎌倉に御着き候ならば、逆徒の退治は踝を廻らすべからず。先ずは思し召し立たれ候えかし。これ程に浅間(奥深くない、露わな事、感嘆粗略)な平城(ひらじろ)に主上・上皇を籠め参らせては名将が匹夫の切っ先に名を失い給わん事は口惜しく存知候ことにて候、と再三強いて申しければ両六波羅はげにもとや思召されけん、さらば先ず女院・皇后・北政所を始め参らせて面々の女性少なき人々を忍びやかに落して後に、心静かに一方を打ち破って落ちるべきでありましょう。と、評定があって、小串五郎兵衛尉を以てこの由を院・内(だい)に申されたりければ、国母(天皇の御母)・皇后・女院・北政所・内侍・女童・上臈女房達に至るまでが城中に籠っているのが恐ろしいので、思わぬ別れの悲しさも、後に如何になり行くのかも知らずに、徒歩裸足にて我先にと迷い出でなされた。 ただ金谷園裡(きんこくえんり、昔、晋の石崇がその別荘、金谷園で観花の宴を開き、詩を賦し、詩の出来ない者には罰として酒三杯を飲ましめた故事による)の春の花、一朝の嵐に誘われたて四方の霞に散り行きし、昔の夢に異ならないのだ。 北条仲時 と 北かとの別離 越後守仲時北の方(夫人、奥方)に向って申しけるは、日頃の間は、たとえ思いの外に都を去ることがあっても、いずくまでも伴い行かんと思いつれども、敵は東西に充ちて道を塞いだと聞いたので、心易く関東まで落ち延びるとも思えない。御事(おこと)は女性故に苦しくはない。松壽(しょうじゅ)は幼稚であるから、譬え敵が見つけてもだれの子とも恐らくは知られないだろう。 ただ今の程に、夜に紛れていずかたへなりとも忍び出で給い、片邊土の方にでも身を隠して、暫く世の静まるまで待ち給え。
2026年05月11日
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その勢いは一騎当千と見えたので、敵味方は互いに軍を止めて見物する。 此処に六波羅の勢の中から年の程は五十計(ばかり)である老武者で、黒糸の鎧に五枚甲の緒を締めて白栗毛の馬に、青房を懸けて乗ったるが、馬をしずしずと歩ませて、高声に名乗ったのは、その身は愚蒙(ぐもう、愚か)とは言えど多年奉行の数に加えられて、末席を汚す家であるから、人は定めて筆取りなんどと侮って、合わぬ(相手にならない)敵とぞ思い給う覧。 然りと言えども我が先祖を言えば、利仁(としひと)将軍(醍醐天皇の時代の人。藤原鎌足お後胤で鎮守府将軍藤原時長の嫡男。越前敦賀の住人有仁・ありひとぼ女婿。鎮守府将軍。下野高座山の群盗千余人を平定)の氏族として武略累葉(累代)の家業である。 今、某(それがし)十七代の末孫(ばっそん)にして、斎藤伊豫房玄基(げんき、斎藤元永の子)と言う者である。今日の合戦は敵味方の安非(あんぴ)であるから命を何のために惜しむべき。死に残る人が有れば我が忠戦を語って子孫に留めるべきだ。 と、言い捨てて互いに馬を懸け合わせ、鎧の袖と袖とを引き違えて、むず、と組んでどうと落ちた。設楽は力が勝っていたので、上になって斎藤の頸を掻いた。 斎藤は心早い者であるから、擧様(あげさま、下から上に突き上げながら)設楽を三刀刺した。いずれも剛の者であるから、死して後までも互いに引き組んだる手を放さない。共に刀を突き立てて同じ枕にこそ臥したのだ。 又、源氏の塵から紺の唐綾縅の鎧に、鍬形を打った兜の緒を締め、五尺余りの太刀を抜いて肩にかけて敵の前半町ばかりに馬を駆け寄せて、高声に名乗りけるは、八幡殿(太郎義家)よりこの方、源氏代々の侍(さぶらい)として流石に名は隠れないが、時に執りて名を知られなければ、然るべき敵には遭い難い。 是は足利殿の御内で大高(だいこうたまらぬ)二郎重成(しげなり)と申す者である。先日、度々の合戦で高名したりと聞こえる陶山備中守・河野對馬守はおわせぬか。出で合い給え。打ち物して人に見物させよう。と言う儘に手綱をかい繰り馬に白泡を噛ませて控えている。 陶山は東寺での戦が強いと言うので、俄かに八条に向ったので、この陣には居ない。河野對馬守ばかりが一陣に進んで(真っ先に進み)有りけるが、大高に声を掛けられて元来(もとより)堪らない懸け武者(自分では制止出来ない逸り気)であるからどうして少しでも躊躇う筈もなく、「通治・みちはるは此処に居るぞ」と言う儘に大高に組もうとして相近づく。 これを見て、河野對馬守の猶子(ゆうし、兄弟の子、又は養子。此処は養子)に七郎通遠(みちとお)と言う今年十六になりける若武者が、父を討たせまいと思ったのであろう、真っ先に馳せ塞がって大高の押し並べて、むずと組んだ。 大高は河野七郎の総角(あげまき)を掴んで宙に引っ提げ、己程の小者と組んで勝負はしないぞ、とて差し除けて鎧の笠印を見るとその文、傍折敷(そばおりしき、正方形を二つに組んだ紋所の中に三の字を書いた紋。折敷は四方に折り廻した縁を付けたへぎ製の角盆、又は隅切り盆で、食器を載せるのに用いる)に三文字を書いて着(つ)けていた。 さては、これも河野の子か甥などにてあるのだろうと打ち見て、片手打ちの下げ切りに諸膝懸けずに切り落とし(両膝を少しの障りも無く切り落として)、弓だけを三杖ばかり投げたのだ。 對馬守は最愛の有志を目の前で討たして、なじかは命を惜しむべし。 大高に組もうと諸鐙(もろあぶみ)を合わせて馳せ懸ける所に、河野の郎党どもがこれを見て、主を討たせまいと三百余騎にて喚きながら懸る。 源氏は又大高を討たせまいと一千余騎にて喚きて懸る。 源平が互いに入り乱れて、黒煙を立てて責め戦う。 官軍は多く討たれて、内野へはつと引いた。六波羅勢はそくばく(多く)を討たれて河原にさっと引けば、平氏は荒手を入れ替えて、ここを先途と戦う。 一条・二条を東西に追いつ、返しつ、七八度がほどぞ揉み合った(身をこすり合う様に接戦した)。 源平の両陣は諸共に、互いに命を惜しまないので、剛臆(剛胆と臆病)のいずれとも見えなかったが源氏は大勢であるから、平氏は遂に打ち負けて六波羅を指して引き退いた。 東寺方面の 合戦 妻鹿長宗 城の堀を 渡る 六波羅勢は 破れて 七条河原に 追い出される 東寺へは赤松入道圓心が三千余騎で寄せ懸った。楼門が近くなったので、信濃守範資(のりすけ)は鐙(あぶみ)を踏んばり、左右を顧みて、誰か居るか、あの木戸、逆茂木を引き破って捨てよかし、と下知したので、宇野・柏原・佐用・眞嶋などの逸り男の若者共三百余騎が馬を乗り捨てて走り寄り、城の構えを見渡せば西は羅城門の礎から東は七条河原辺まで五六、八九寸の琵琶の甲(五六寸から八九寸角の琵琶の腹にする材料)安郡(やすのこおり、滋賀県野洲・やす郡から出る木材)などを鐫(ほ)り貫いて、したたかに(頑丈に、しっかりと)塀を塗り、前には乱杙や逆茂木を引き懸けて、広さは三丈余りに堀を掘り、流水を引き入れている。 飛び浸らんとすれば、水の深さを知れない。渡ろうとしても橋を引いている。如何しようと案じ煩う所に播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗が馬から飛んで下りて、弓を差降ろして水の深さを探った所末(すえ)はず(弓の弦をかける上部の部分)が僅かに残った。さては吾丈は立つであろう思ったので五尺三寸の太刀を抜いて肩にかけ、貫(つらぬき、毛皮で作った沓)を脱いで投げ捨てて、かつはと飛び漬かったところ水は胸板の上にも揚がらず、跡に続いたる武部七郎がこれを見て、(堀は浅かったぞ」とて長(たけ)五尺ばかりである小男が是非もなく飛び入った所、水は甲を浸したのだ。 長宗がきっと見返って「わが総角に取り付いて上がれ」と言ったのに、武部七郎は妻鹿の鎧の上帯を踏んで肩に乗り上がり、一跳ね刎ねて向こうの岸に着いた。 妻鹿はからからと笑い、御辺は我を橋にして渡ったのか、いで、その塀を引き破って捨ててやろう、と言う儘に岸から上にずんと跳ねあがり、塀柱が四五寸余り見えているのに手を懸けて、えいやえいや、と引くと一二丈掘り挙げて山の如くである揚げ土が壁と共に崩れて、堀は平地となった。これを見て築垣(ついがき、築地と同じ。瓦屋根を置いた土塀)の上に三百余箇所かきならべて有る櫓から、指し攻め引き攻め射た矢が雨が降るよりもなお激しい。
2026年05月07日
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さては当家が尊崇の霊神にて御坐(おわし)ましけり。機感(こんき、凡夫の根機、よく神仏を感動すること)最も相応している。宜しきに従いて(よい機会であるから)一紙の願書を奉らばや。とければ、疋壇妙玄が鎧の引き合わせから矢立の硯を取り出して、筆を控えてこれを書いた。 その詞に曰く、敬白(うやまってもうす)、祈願の事、それおもんみるに八幡大菩薩は、聖代前列の宗廟、源家中興の霊神である。本地(ほんち、仏・菩薩が衆生済度の為に仮の姿をとって現れのに対してその真実身たる仏・菩薩を言う)内證(他の教示を待たずに自己の心証のよって宗教的な真理を体得する事)の月が十万億土(極楽)の天に高く懸って、垂迹(すいじゃく、本地の仏が衆生済度の為に神祇となって身を表す事)外融(げゆう、仏・菩薩が衆生済度の為に神通を現わして教え導く事)の光、明らかに七千余座(座は祭神の数。照り輝いて、七千余の祭神を覆う)の上に冠たり。縁に触れて化を分かつと言えども(仏縁によって徳化を区別するが)ついにいまだ非礼の奠(まつり)享け給わず。慈(あわれみ)を垂れて生を利すると言えども、偏に正直の頭に宿ることを期(ご)し賜う。 偉(おおい)なるかなその徳たること、世をこぞって誠を尽くすゆえんであるよ。ここに承久以来當棘(とうきょく、当家)累祖(るいそ、祖先代々)の家臣、平氏末裔の辺鄙をほしいままに四海の権柄を執りて、横(よこ)しまに九代の猛威を振るう。 あまつさえ今、聖主を西海の浪に遷して、貫頂(延暦寺の長、即ち大塔の宮)を南山(比叡山を北山と言うのに対して高野山を言う。ここは高野山を目指して十津川を放浪された事)の雲に苦しましめて悪逆の甚だしき事は前代未聞。これは朝敵の最たるもの。臣たる道に命を致さざらんや。又神敵の先であるよ。天たるの道は誅を下さないであろうか。 尊氏はいやしくも彼の積悪を見て、いまだ匪躬(ひきゅう、私一身の遺恨)を顧みる遑なく、まさに魚肉の薄いのを(尊氏自らを卑下している言葉)以て偏に刀俎の利(とき)に当てる(貧弱な身を以て威力有る北条氏と戦う)。義卒力を合わせ旅(たむろ、軍旅)を西南にはる。 上将(上将軍、前軍の首将)は鳩の峰(石清水八幡宮のある男山)に軍立ちをして下臣(尊氏自身の卑称)は篠村に軍する。共に瑞籬(みずかき)の影に在って同じく擁護(おうご)の懐に出る。函蓋(かんがい、箱と蓋・ふた)相應ず(彼と是が相会して同一体に帰する事)。 誅戮をどうして疑う必要があろうか。仰ぐ所は百王鎮護(百代の帝王をお守りくださる天照大御神の御約束)の神約である。勇んで石馬(石で刻んだ馬。社頭の高麗犬の類)の汗に懸ける。憑無所は累代帰依の家運である。奇を金鼠の嚙むに寄せる(唐の玄宗の時に、天竺の不空三蔵を尊崇して国師としたが、天宝中、西蕃が西涼府を囲んだ時に不空が示した奇瑞で、敵陣に金色の鼠があらわれて弓弩の弦を嚙み切ったこと)。 神は正に義戦にくみして霊威を輝かし、徳風(とくふう、君子が徳を以て小人を靡かせること)が風に加えて、敵を千里の外になびかし、神光は劒に代わって勝つことを一戦の中に得しめ給え。丹精(たんせい、赤心、真心)は誠に有り。玄鑒(げんかん、神仏の照覧)誤ることなかれ。 敬白(うやまいてもうす) 元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白 とぞ、読み上げたのだ。 文章は玉を綴りて詞は明きらかに、理は濃やかであるので神も定めて受納し御坐(おわし)ますらんと聞く人は皆信を凝らし、士卒は悉く頼みを懸け奉った。 足利殿が自ら筆を執って判を据え賜う。上差しの鏑一筋を副えて宝殿に納められければ、舎弟の直義(ただよし)朝臣を始めとして、吉良・石塔・仁木(にっき)・細川・今河・荒川・高(こう)・上杉、以下相従う人々、我も我もと上矢を一つづつ獻りける間、その箭が社壇に充ち満ちて、塚の如くに積みあがったのだ。 奇瑞があり 尊氏の軍勢 強大となる 夜が既に明けてしまったので、前陣は進んで後を待った。 大将は大江山の峠を打ち越え給いける際に、山鳩が一番(つがい)飛び来りて白旗の上に扁に羽翻(へんぼん、ひらひら)とした。 これは八幡大菩薩が立ち翔けって守らせ給う験(しるし)である。この鳩が飛んで行く通りに向うべし、と下知せられたので、旗差し(大将の旗を持つ騎馬兵)が馬を速めて鳩の跡を付いて行く程に、この鳩は閑に飛んで、大内(だいだい、大内裏、皇居)の旧跡、神祇官(じんぎかん、大宝令で定められた官庁。太政官の上に位し神祇の祭祀を掌り、諸国の官社を総管した)の前にある樗(おうち)の木に止まったのだ。 官軍はこの奇瑞に勇んで、内野(京都市上京区の西部。大内裏の跡)を指して馳せ向かう道すがら敵が五騎、十騎と旗を捲き甲を脱いで降参した。 足利殿は篠村をい出給いし時には、僅かに二万余騎有ったのが、右近馬場を過ぎた時にはその勢五万余騎に及んでいた。 六波羅攻め の事 六波羅勢は 三手に分かれて 官軍を責める さるほどに六波羅では、六万余騎を三手に分け、一手をば神祇官の前に控えさせて、足利殿を防がせられた。 一手をば東寺に差し向けられ、赤松(次郎入道圓心)を防がせられた。 一手をば伏見の上に向けて、千種(頭中将忠顯)殿が寄せられる竹田・伏見を支えられた。 巳の刻(午前十時)の始めから大手搦手同時に軍が始まって、馬煙が南北に靡いて、鬨の声が天地を響かせた。 内野方面 の 合戦 設樂五郎左衛門 と 斎藤玄基 との 一騎打ち 大高重成 河野通遠 を討つ 内野には陶山と河野とに宗徒の勇士二万騎を副えて向わされければ、官軍も左右(そう)なく駆け入らず敵も容易くは懸け出でずに両軍が互いに支えて、ただ矢軍にぞ時を移したのだ。 ここに官軍の中から、櫨匂い(はぜが紅葉した色。匂とは袖や草摺の上の方を濃くし、だんだん薄くなるように縅・おどし・鎧の札・さねを紐や革で結びつける事 たもの)の鎧に薄紫の母衣(ほろ、矢を防ぐために背負う具、布帛で作った嚢状のもの)を懸けた武者がただ一騎で敵の前に馬を駆け据えて、高声に名乗ったのは、その身は人の数ではないので名を知る人もいないであろう。是は足利殿の御内で設楽(しだら)五郎左衛門と申す者である。六波羅殿の御内に我と思わん人が有るならば懸け合わせて手柄の程を御覧ぜよ、と言うままに三尺五寸の太刀を抜いて、兜の真向に差しかざし、誠に矢所も少なく馬を控えたのだった。
2026年05月05日
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天皇の御悲嘆、 日吉 賀茂両社の 祭礼の 停止 それ、天子は四海を以て家となす、と言えり。その上、六波羅も都近い所なので、東洛渭川(鴨川)の行宮(あんきゅう)ではそれほどには御心を傷ましめられることではないのだが、この君御治天の後天下は遂に穏やかではなくて、あまつさえ百寮(あらゆる役所)は忽ちに外都の塵に交わりぬれば、これ偏に帝徳が天に背きぬる故であると、罪は一人に帰して主上は殊に歎き思召されて常は五更(午前四時。初更は午後八時、二時間ずつ距てて二更・三更・四更・五更と言う)の天に至るまで夜のおとど(夜の御殿、御寝所)にも入らせならずに、元老(年齢・官位の高い国家の功臣)智化(ちか、極めて智恵の働きがある)賢臣共を召されて、ただ堯舜(中国古昔の聖天子唐堯と虞舜)湯武(とうぶ、殷の成湯と周の武王)の旧い跡だけを御尋ねなされて、かつて怪力乱神の徒なる事はお聞き召されない。 卯月の十六日は中の申(さる、陰暦四月の中で二番目の申の日に当たる日)であるが日吉の祭礼も無く、国の御神(天孫降臨以前にこの国土に土着して一地方を治めた神)も浦さびて(心淋しく感じる)、御贄の錦鱗は徒に湖水の浪に撥辣(はつらつ、魚が元気よく飛び跳ねる様)たり。 十七日は中の酉であるが、賀茂の御生所(みあれ、ここは葵祭)もなければ、一条大路に人が清みて(しずま)り車を爭う所もない。銀面(唐鞍を飾る時に馬の面に飾る物)には空しく塵が積もって、雲珠(うんじゅ、普通にはウズと読み、唐鞍の尻がいの組違いに付ける宝珠の形をした飾り物を言う。葵祭りが行われないのでその時に使われる唐鞍なども使われずに塵に塗れている)は光を失っている。 祭は豊年にも増せず、凶年にも減ぜず、とこそ言って開闢以来闕如なく、両社の祭礼もこの時に初めて絶えたので、神慮もいかがかと測り難く、恐れあるべき事共ではある。 官軍が 京都に 寄せようとする 武家方 の 後悔 さて、官軍は五月七日に京の中に寄せて、合戦有るべしと定められければ、篠村・八幡・山崎の先陣の勢、宵から陣を取り寄せて、西は梅津・桂の里、南は竹田・伏見に篝を焼き、山陽・山陰の両道は既にかくの如くになった。 又、若狭路を経て高山寺(こうせんじ)の勢共が鞍馬路・高雄から寄せるとも聞こえた。 今は僅かに東山道(とうせんどう)だけが開けていたが、山門は矢張り野心を含んでいる最中であるので、瀬多(せた、滋賀県栗太郡勢多町。瀬田川の左岸にあり、琵琶湖に臨む。中山道から京都に至る要路に当たる)をも指し塞いだ様子である。 籠の中の鳥、網代の魚のようであり、漏れ出る方もないので、六波羅の兵共は上には勇める気色ではあるが、心は下に仰天している。 かの雲南万里(ヴェトナムの北に位置する高原)の軍(いくさ)では、各家に三丁(ちょう、壮年の男)があれば一人を選抜して兵としたと伝えている。 況やまた、千葉屋程の小城一つを攻めんとして諸国の軍勢が数を尽くして、向かわれたれどもその城は未だに落ちず、先に禍が既に蕭牆(しょうしょう、垣の内)から出ている。 義旗は忽ちに長安の西に近づいた。防がんとするに勢は少なくして、救わんとしても道は塞がれている。哀れ、兼ねてよりこうあるべしと知りたるならば、京中のへいをこうまでも間引かなかったであろうにと、両六波羅を始めとして後悔するのだが、甲斐はないのだ。 六波羅の舘を中心にして 城郭を築いた 太平記著者の 批評 かねがね、六波羅で議していたのは、今度、諸方の敵が牒(ちょう)じ合わせて大勢にて寄せるならば、平場での合戦だけでは叶わないだろう。要害を構えて、時々に馬の足を休めて兵の機を扶け敵が近づけば駆け出で駆け出でして戦うべしとて、六波羅の舘を中に込めて、河原面の七八町に堀を深く掘り、賀茂川を掛け入れたならば昆明池の春の水、西日を沈めて奫淪(いんりん、暗く沈んでいる)足るに異ならず。 残りの三方には、芝築地を高く築いて、櫓を掻き並べ逆茂木を繁く引いたので、城塩州(白氏文集に載っている)。受降城(敵の降参を受ける城の意であるが、実は防御のための城である)もこのようであったかと覚えて夥しい。 誠に城の構えは謀があるのに似ているが、智は長じたのではない。剱閣は山に尞(さかん)なりと言えどもこれに憑(よ)る者は蹶(つまず)く。非所以深根固草冠に帶也(ねをふかくしほぞをかためるゆえんにあらず)。洞庭雖浚負盧者北(どうていはふかしといえどもこれをたのむものはにぐ)、非所以愛人治國也(ひとをあいしくにをおさめるゆえんにあらざるなり)とかや。 今は既に天下が二つに分かれて、安危をこの一擧に懸けたる合戦であるから、米に良(かて)捨て舟を沈める謀をこそ致すべきであるのに、今日からはやがて後ろ足を踏んで僅かの小城に立て籠ろうと兼ねて心を使っている武略の程こそは、悲しける。 尊氏 願書を篠村の八幡宮に 籠められる事 尊氏は大軍を率して 篠村を出立つ 林の中に八幡宮の祠を見て 匹壇妙玄をして 願文を書かせ これを奉った さる程に、明ければ五月七日の寅の刻(午前四時)に足利治部大輔高氏朝臣は二万三千余騎を率(そつ)して篠村の宿を出発し給う。 夜がまだ深かったので、閑(しずか)に馬を打って、東西を見給う所に、篠村のやどの南に当たって陰森(いんしん)たる故柳疎槐(こりゅうそかい、古木の柳、古木で枝が透き幹があらわなえんじゅの木)の下に社壇が有ると覚える。焼き荒んでいる燎(にわび)の影がほのかであり、禰宜が袖を振る鈴の音が幽かに聞こえて神さびている。 如何なる社であるとは分からないが、戦場に赴く門出であるからとて馬から下りて甲を脱ぎ、叢祠(そうし、神を祠る小さなやしろ)の前に跪(ひざまづ)いて今日の合戦事故なく朝敵を退治する擁護の力を加え給え、と祈誓を凝らしてぞ坐(おわ」します。 その際に帰って来た巫(かんなぎ)に、この社は如何なる神を崇め奉るのかと、問いなされたところ、是は中頃に八幡(八幡宮の祭伸、主として応神天皇を祭る。弓矢の神)を遷し参らせてより以来、篠村の新八幡と申し候也、とぞ答え申したのだ。
2026年05月01日
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足利殿 大江山を 打ち越す事 尊氏は 戦わずして 丹波に 赴く 追手(正面)の合戦いは今朝の辰の刻(午前八時)から始まって、馬煙(馬が駆けてゆく時に立つ塵埃)が東西に靡き、鬨の声が天地を響かして攻め合ったのだが、搦手の大将足利殿は桂川の西の端に下り居て、酒盛りをしてぞおわしける。 かくて数刻を経て後に、大手の合戦に寄せ手が打ち負けて、大将が既に討たれぬと告げたりければ足利殿は、さらば、いざや山を越えよう。とて、各自が馬に打ち乗って山崎の方を遥かな他所に見捨てて、丹波持を西に篠村を指して馬を速められた。 中吉十郎等 尊氏の挙動を 怪しむ 尊氏の離反を知り 両六波羅が 落胆した ここに備前の国の住人中吉(なかぎり)十郎と、摂津の国の住人に奴可(ぬか)の四郎とは両陣の手合わせに依って搦手の勢の中に居たのだが、中吉十郎は大江山の麓で道よりも上手に馬を乗り上げて、奴可四郎を戦隊から呼び離して言ったことには、心得ぬ様かな、大手での合戦は火を散らして今朝の辰の刻から始まったのだが、搦手は芝居の長酒盛りにてそのままで終わってしまうだろう。 結句、名古屋殿は打たれ給いぬと聞こえければ、丹波路を指して馬を速め給うぞ。この人、如何様、野心を差し挟みぬと覚え候。そうである場合には我等はいずくまでか相従うべき。いざや、これより引き返して、六波羅殿にこの由を申さん、と言った所、奴可四郎は「いしく(よい、見事だ、けなげだ)も申しけり、我も事の體怪しくも存じながら、これも又如何なる配立(はいたて、手配り、配置)が有る覧ととかくに案じける間に、早今日の合戦には外れぬることこそ残念であるよ。 但し、この人は敵になったと知りながらただ引き返すのは、余りに言う甲斐がないと覚えるのでいざや、一矢を射てから帰らん」と言う儘に、中差しを取って打ち番え、轟(と泥)懸けて(馬蹄の音を高らかにかさに打って廻さん(敵の行く手に馬を廻さん)としたが、中吉(なかぎり)、如何なる事ぞ、御辺は物に狂ったか。我等僅かにニ三十騎であの大勢に掛け合って犬死にするのは本意であるか。鳴呼(おこ)の高名はせぬに如かず。ただ、事ゆえなくて引き返し、後の合戦の為に命を全うする事こそは忠義を存ずる者であると、後までの名を留めようではないか。と、再往制止したのでげのもと思ったのか、奴可四郎も中吉も大江山から馬を引き返して、六波羅へこそ打ち帰ったのだ。 彼等二人が馳せ参じて事の次第を申しければ、両六波羅は楯桙とも頼みにしていた名越尾張守は打たれてしまった。これぞ骨肉(親子・兄弟の如き血族)の如くであれば、さりとも二心はおわせじと水魚の思いを成していた足利殿でさえ敵になってしまったからには、憑む木の下に雨が漏るような心地がして心細いについても、今まで付き纏っていた兵に対しても又そうであろうかと心が置かれて不安であるよ。 足利殿 御篠村に 着御 則 国人(くにうど)が 馳せ参る 事 久下(くげ)時重 最も早く 尊氏の陣に 馳せ参る事 一番の家紋の由来 近国の勢が集まって 二万三千余騎となる さるほどに、足利殿が篠村に陣を取って近国の勢を催されけるに、当国の住人に久下弥三郎時重と言う者が二百五十騎で真っ先に馳せ参った。 その旗の紋は笠符(かさじるし)に皆一番と言う文字を書いていた。 足利殿はこれを御覧じて怪しく思しければ、高(こうの)右衛門尉師直(もろなお)を召されて、久下の者共が笠璽(しるし)に一番と言う字を書いているのは元来の家の文であるか、又はこれは一番に参ったと言う符(しるし)なのか。と、尋ねられ給えば、師直は畏まって、由緒ある文で御座いまする。彼の先祖は武蔵の国の住人久下二郎重光で、頼朝大将殿、土肥の杉山で御旗を揚げられた際に一番に馳せ参じて候けるを源頼朝殿が御感候て、若し我が天下を持ったならば、一番に恩賞を行うべしと仰せられて、自ら一番と言う文字を書いて与え候けるを、やがて家の紋になして候、と答え申しければ、さては、これが最初に参ったのは、当家の吉例であるぞ、と言って御賞玩は殊に甚だしかった。 元来、高山寺(こうせんじ)に立て籠った足立・荻野・小島・和田・位田(ゐんでん)・本庄・平定(ひらじょう)の者共ばかりこそ、今更に人の下風に立つべきにあらずとて丹波から若狭に打ち越えて北陸道から責め上ろうと企てた。 その外に、久下・長澤・志宇知・山内(やまのうち)・葦田(あしだ)・余田・酒井・波賀野・小山(をやま)・波々伯部(ははかべ)、その他に近国の者共が一人も残らずに馳せ参りたる。 篠村の勢も程も無く集まって、その数は既に二万三千余騎になっていた。 光巌天皇等 北六波羅に 移らせなされた 六波羅ではこれを聞いて、さては今度の合戦は、天下の安否(あんぴ)たるべし。もし、自然に打ち負ける事があれば、主上・上皇を取り奉って関東に下向し、鎌倉に都を立て、重ねて大軍を挙げて凶徒をば追討すべしと評定が有って、去る三月から北方の舘を御所に設え、院内(いんだい、院と内裏、即ち、上皇と光巌天皇)を行幸なし奉った。 梶井二品(にほん)親王は天台座主でいらせられたので、たとえ轉反(てんへん、世の中が移り替わっても)しても御身に於いては何の御怖畏も無きことであるが、当今の御連枝にて坐(ましま)せばしばしは玉體に近づけ参らせて、寶祚(皇位)の長久をも祈り申さんとにや、是も同じく六波羅に入らせなされた。 そかのみならず、国母(こくぼ、皇太后を言う称号。ここは光巌天皇の御母・広義門院)・皇后・女院・北の政所・三台(さんたい、星の名だが三公・太上大臣・左右大臣に象る)・九卿・中国の九卿に准えて、日本の公家を言う)木偏の塊棘(かいきょく、三台九卿の同義語を繰り返した語)・三家の臣(閑家・久我・花山院を英雄の三家と言う。一説に、閑院・花山院・中院を言う)・文武百司(文武に関するあらゆる役所の役人)の官・並びに竹園(皇族)門徒の大衆(たいしゅ)・北面以下諸家の侍・児「ちご、公家・武家・寺院で使われている少年)、女房達に至るまで我も我もと参り集いける間、京中は忽ちにさびかえり(ひっそりと全く静かになり)嵐の後の木の葉の如く己が様々に散り行くので、白河(京都の鴨川以東、東山との間の地域)はいつしか栄えて花一時の盛りを成した。 これも幾程の夢であろうか、移り変わる世の有様、今更に驚かされるのも理(ことわり)であるよ。
2026年04月29日
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尊氏 密使を船上山に遣わし 朝敵追討の 綸旨を 賜る かかる所に、足利殿は京着の翌日から伯耆の船上に密かに密使を参らせて、味方に参るべき由を申されたので、君は殊に叡感有りて、諸国の官軍を相催して朝敵を追討すべき由の綸旨をぞ成し下されける。 両六波羅も名越(なごや)尾張守も足利殿にかかる企てがあるとは思いも寄るべき事ではないから、日々に参会して、八幡・山崎を責められるべき内談評定で一々に真底を残さずに尽くされけるこそ儚い事であった。 大行の路はよく車を砕き、もしも人の心に比すれば平らかなる道である。巫夾の水はよく舟を覆す、もし人の心に比すれば、是は安らかなる流れである。人心の好悪は甚だ常ならず。(大行は険を以て有名な山の名。河南・山西二省の堺を南北に縦走する。大行の山は路が険難でよく旅人の車を砕くと言うけれども、もし人心の険難なのに比べれば平坦な道である。巫夾揚子江の上流である三峡の一つ。水流が迅急で往々舟を覆すと言うが、人心の険難さに比すれば、まだしも安流と言うべきである。人の愛憎の心は常に変じて定まらない。人心の険を山川の険に比した物) そうは言うけれども、足利殿は代々相州(そうしゅう、相模入道高塒)の恩を戴き、徳を担う(御蔭を蒙)って一家の繁昌は恐らくは天下の人は肩を並べるべくもなかった。 その上に、赤橋前相模守の縁になって君達が数多くい出来給いぬれば、この人はよも二心は持たないだろうと、相模入道はひたすらに頼みにしたのも道理である。 武家方 と 官軍 との部署 四月に十七日には八幡・山崎の合戦とかねてより定められて、名越尾張守が大手の大将として七千六百余騎を鳥羽の作道から向かわせられ、足利治部大輔高氏は搦手の大将として五千余騎、西岡(にしのおか)から向かわれた。 八幡・山崎の官軍がこれを聞いて、されば難所に出で合って不慮(不意)に戦いを決せしめよと、千種頭中将忠顯朝臣は、五百余騎で大渡の橋を打ち渡り赤井河原に控えられた。 結城九郎左衛門尉光近は三百余騎で狐河の辺に向った。 赤松入道圓心は三千余騎で淀・古河・久我畷の南北三か所に陣を張った。これ皆、強敵を取り拉ぐ氣が天を廻らし、地を傾けると言うとも、機を解き(心の働きを緩め)勢いを呑まれようとも、今上りの東国勢の一万余騎に対して対して戦うとは見えなかった。 足利殿は、兼ねて内通の仔細ありけれども、もしや謀りやし給う覧と、坊門の少将雅忠朝臣は寺戸と西岡の野伏共五六百人を狩り催して岩蔵辺りに向われた。 名越尾張守 の 武装 人目を眩ず さる程に、搦手の大将足利殿は、未明に京都を立ちなされたとの披露(知らせ)があったので、大手の大将名越尾張守は、さては早や、人に先を駆けられた。と、不安に思い、さしも深い久我畷の馬の足も立たない泥土の中に、馬を打ち入れて、我先にとぞ進みける。尾張守は元より気早の若武者であるから今度の合戦、人の耳目を驚かすようにして名を揚げようものをと、兼ねてありましの事であるからその日の馬・物の具・笠符に至るまで辺りを輝かして、立ち出でた。 花緞子の濃い紅に染めた鎧直垂れに、紫糸の鎧金物を繁く打ったものを隙間もなく着下して、白星の五枚甲の吹き返しに、日光・月光のに天子を金と銀とにて彫透かし打ったものを猪頸に着成し、当家累代重宝に鬼丸と言う金造りの丸鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を佩き添えて、高うすべの尾の矢三十六指したのを筈高に負成(おいな)し、黄瓦毛(黄色がちの河原毛・白馬で鬣が黒いもの)の馬の太く逞しいのに三本唐笠を金具・蒔絵に張り付ける金・銀・銅・鈴などの薄片で黒い漆地に磨き出したもの の鞍を置いて、厚房の革に秋(しりがい・馬の尾から鞍にかける組緒)の燃え立つばかりの物を懸けて、朝日の影に輝かして光渡って見えるのがややもすれば軍勢より先に立って進み出て、辺りを払って(威勢が立派な事)懸けられければ(馬を駆け進める)、馬・物の具の體軍立ちの様、今日の大手の大将はこれであろうと知らぬ敵は射なかった。 されば敵も自余の葉武者(はむしゃ、詰まらぬ武士)共にはめもかけずに、ここに開き合わせ、かしこに攻め合って是一人を討とうとしたけれども、鎧がよいので裏をかかする(裏まで射抜かさせる)矢もない。 打ち物達者(刀槍の名人)であるから近づく敵を切って落とす。その勢いが参然(さんぜん、群がりたつさま、盛んな様)たるに辟易して(恐れ退いて)官軍の数万の士卒は既に開き靡びいたと見えた。 佐用範家 尾張守を 射殺する 官軍の 勝利 ここに赤松の一族に佐用(さよ)左衛門三郎範家(のりいえ)とて強弓(つよゆみ)で矢継ぎ早で、野伏し軍(山野に潜伏して落ち武者を襲う軍)に心が利いて(気が利いて)卓宣公が秘した所をわが物と体得した兵がいた。 態と物の具を脱いで、徒歩立ちの射手となり、畔(くろ)を伝い藪をくぐってとある畔の蔭に隠れ臥して大将に近づき、一矢を狙らわんとぞ待ったりける。 尾張守は三方の敵を追いまくり、鬼丸に付いた血を笠符で押し拭い、扇を開き使って思う事もなげに控えている所を、範家が近ぢかと狙い寄って、引き詰めて丁と射た。 その矢は思う矢坪を違えずに尾張守の冑の真甲の外れ眉間の真ん中に当たって、脳を砕き骨を破って頸の骨のはずれに矢先が白く射出した。さしもの猛将ではあるが、この矢の一隻に弱って馬から真っ逆さまにどうと落ちた。 範家は胡籙(えびら、矢を盛って背負う道具)を叩いて矢呼び(矢を物に射当てた時に、その射手が上げる叫び声)をなし、寄せ手の大将名越尾張守を範家がただ一矢で射殺したるぞ、続けや、人々と呼ばわりければ、引き色(負け色、逃げ色)になっていた官軍共はこれで機を直し、三方から勝鬨を作って攻め合わせた。 尾張守の郎従七千余騎、師泥(秩序なく乱れた様)になって引いたのだが、或いは大将を打たせて何処にか帰るべきと引き返して、討ち死にするもあり、或いは深田に馬を馳せ込んでしまい叶わずに自害するもあり。 されば、狐河の端から鳥羽の今在家町まで、その道五十余町が間に死人が尺地も無く臥したのだ。
2026年04月28日
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高塒 足利尊氏の上洛を 促す 尊氏は妻 及び子息を質として 起請文を奉る 高塒は喜悦して 尊氏を餞(はなむけ)す その中に、足利治部大輔高氏は所労(病気)の事があって、起居がいまだ快からざるに、又上洛のその数に入って、催促が度々に及んだ。 足利殿はこの事に依って心中で憤り思ったのは、我は父の喪に居て三月を過ぎていないのに、悲嘆の涙がいまだに乾かず、又病気が身を侵して負薪(ふしん、自分の病気を謙遜して言う語。薪・たきぎを負う事も出来ない心配)の愁いが未だ止まない所に、征伐の役に随えとの催促があるのは遺恨である。 時移り、事が変じて、貴賤が位を変えると言えども、彼は北條四郎時政の末孫(ばっそん)である。人臣の身に下ってから年が久しい。吾は源家累葉(代々の一族)の族(やから)である。王氏(おうし、皇族。尊氏は清和天皇から十六代目、義家からは十代目)を出でて遠くはない。この理を知るならば一度は君臣の儀を存ずるべきであるのに、これまでの沙汰に及ぶのは、偏(ひとえ)に身の不肖に依る故である。所詮、重ねて上洛の催促を加えるよりは一家を尽くして上洛し、先帝の味方に参って六波羅を責め落し、家の安否を定めるべきであろう。と、心中に思い立たれたのだが、日とは更に知ることはなかった。 相模入道はこの様な事とは思い寄らずに、工藤左衛門の尉を使にたてて、御上洛の延引は心得られず、と一日に二度も責められた。 足利殿は反逆の企てを既に心中に思い定められていたので、却って異議を申さず、不日(すじつ、日ならず、近日)に上洛仕り候、と返答せられた。 則ち、夜を日に継いで打ち立て(出発)られけるは、御一族・郎従は申すに及ばず、女性・幼稚の君達までも残さずに皆上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道圓喜が怪しく思って、急ぎ相模入道の所に参って申したのは、誠にて候やらん、足利殿こそ、御台、君達まで皆引き具し参らせて、御上洛なされましたぞ。事の體怪しく存知候。斯様の時には御一門の疎かならぬ(近親者)にも御心を置かれ候べし。況や、源家の貴族として天下の権平を捨て給える事年久しいので、思召す事も候覧。異国より我が朝に至るまで、世が乱れたる時には覇王が諸侯を集めて牲(牲)を殺して血を啜り、二心がない事を盟(ちか)う。今の世の起請文がそれである。 或いは、その子を質に出し、野心の疑いを散ずる。木曾殿(義仲、源義賢の子)の御子(おんこ)、清水冠者を大将殿の方に出だされた。 斯様の例を存知候にも、如何様、足利殿の御子息と御台とを鎌倉に留め置かれて、一紙の起請文を書かせ参らせられるべしとこそ存知候、と申した所、相模入道はげにもとや思われたのか、やがて使者を以て申し遣わされた事には、東国は未だ世閑(静)であり、御心安く思われるでありましょう。幼きご子息をば皆鎌倉に留め置かれ参らせ候べし。次に、両家の體は一つであり、水魚の思いをなされ候上、赤橋相州(平氏、名は守時。越後の守久時の子、北條時政七代目の子孫。妹の登子が尊氏に嫁したので尊氏の義兄に当たる)ご縁に成り候。かれこれと何の不審もないけれども、諸人の疑いを散ぜん為にであるので、恐れながら一紙の誓言を留め置かれ候わんこと、公私につきてしかるべしと存じ候、とおおせた所、足利殿は鬱胸(うっきょう、心中の不快)が益々深くなったのだが、憤りを抑えて気色にも出だされず、これから御返事を申し上げるでありましょう、と使者を御帰しなされた。 その後に、舎弟兵部大輔殿を呼び参らせて、この事は如何あるべきであろうか、と意見を問うたところ、暫く案じてから申されたのは、今この一大事を思し召し立たれて事は、全く、御身の為ではありません。ただ天に代わって無道を誅し、君の御為に不義を退かんとする。その上、誓言は神も受けずとこそ申し習わしてこそ候。譬え偽って起請の言葉を載せられ候とも、仏神がどうして忠烈の志を守らせ給わざらん。就中(なかんずく)、御子息と御台所とを鎌倉に留め置き候事は大儀の中の小事であり、あながちに御心を煩わされるには及ばないでありましょう。君達はまだ御幼稚であられるので、自然の事(万一の時)がある場合には、その為に少々残し置かれる郎従共が、いずかたへ也と抱きかかえて隠し候わん。御台の御事は、又、赤橋殿とてもおわし候故に、何のお労しきことが候べし。 大行は細勤を顧みず(大事業を成そうとする者は、細かい慎みには頓着しない)とこそ申します。 これ等ほどの小事に猶予あるべきにあらず。兎も角も、相模入道の申すままに随って、その不振を散ぜしめ、御上洛候て後に、大儀の御計略を廻らされるべく候とこそ存じ候。と申されければ、足利殿はこの道理に服して、御子息の千壽王殿と御台所赤松相州の御妹とをば鎌倉に留め置き奉りて一紙の起請文を書いて相模入道に遣わされた。 相模入道はこれに不審を散じて喜悦の思いをなし、高氏を招請あって、様々に賞翫(褒めそやす)どもありけるが、御先祖累代の白旗がある。これは八幡殿より代々の家督に伝えられて執せられる重宝で候が、故頼朝卿の後室(身分の高い家の未亡人)、二位の禅尼が相伝して当家に今まで所持候ものである。 希代の重寶であるとは申せ、他家に於いては詮無きものであるよ。これを今度の饌送(はなむけ)に進ぜ候。この旗をささせて凶徒を急ぎ御退治候え。とて、錦の袋に入れながら、自らこれを贈呈したのだ。その外に乗り換えの御為だと言って飼育していた馬に白い鞍を置いて、十匹、白輻輪の鎧を十領、金作(こがねつくり)の太刀一つ副えて引き出物として贈られた。 尊氏 の 出発 足利殿の御兄弟・吉良・上杉・仁木(にっき)・細川・今河・荒河、以下一族三十二人、高家(こうけ、家柄の良い者、名族)の一類四十三人、都合その勢は三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ち、大手(城の表門)の大将と定められて、名越尾張守高家に三日先だって、四月十六日に京都に着き給う。 山崎攻め の 事 付 久我畷(なわて、田の間の径、あぜ道) 合戦の事 京都の武家方は 援軍が来たのを 悦ぶ 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝ったので、西国の敵は恐れるに足らないと侮りながらも、宗徒の勇士と頼まれた結城九郎左衛門尉、敵になって山崎の勢に加わった。 その外に、国々の勢共が五騎、十騎と或いは転送に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀って敵に属したので、宮方は負けても勢は益々重なって、武家は勝っても兵は日々に減じた。 かくては如何にあるべきと、世を危ぶむ人が多かったところに、足利・名越の両勢がまた雲霞の如くに上洛したので、いつしか人の心が入れ替わって、今は何事かあるべきと色(顔色)を直して勇み合ったのだ。
2026年04月24日
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千種(ちくさ)殿は小嶋に言い恥しめられて、しばしは峰の堂に居られたのだが、もしかすると敵が夜討ちを懸けて来るやもしれない、と言った言葉に驚かれて、益々臆病心が募ったのか、夜半過ぎ頃に宮(第四宮聖護院静尊)を御馬に乗せ奉りて葉室の前を筋違い(斜め)に、八幡を指してぞ落ちられける。 備後(びんごの)三郎はこのような事とは思いも寄らずに、夜深方に峯の堂を見遣れば、星の如くに見えていた篝火が次第に數消えて、所々に焼き捨てている。 これは、哀れ、大将が落ちさせ給いぬるかと怪しんで、事の様を見る為に葉室大路から峯の堂に上がる所に、荻野彦六朝忠と淨住寺の前で行き遇って、大将は既に昨夜の子の刻(午前零時)に落ちさせ給う間、力なく我らも丹波の方へと志して罷り下り候。いざ、御伴し御一緒致しましょう。と言った所、備後三郎は大いに怒って、かかる臆病者を大将と仰ぎ頼みけるこそ落度であった。さりながらも直接に事の様を見なくては後難もあるであろう。早、お通り候え。高徳はなにさま峯の堂に上って、宮の御迹を見奉り、追いつき奉るであろう。と言って、手の者をば麓に留めてただ独りで落ちて行く兵を掻き分け、掻き分けして、峰の堂にぞ上ったのだ。 大将がおわした本堂に入って見れば、よきもまあ、慌てて落ちたりと見えて、錦の御旗、鎧下垂れまでもが捨てられてある。 備後三郎は腹を立てて、哀れ、この大将は如何なる堀、崖にでも落ちて死んでしまうがよい。と、独り言して、暫くは堂の縁に歯嚙みをして立っていたが、今は、さこそ手の者共も待ちかねているだろう、と思ったので、錦の御旗だけを捲いて下人の持たせ、急ぎ淨住寺の前に走り下り、手の者打ち連れてうまを速めたので、追分の宿の辺りで荻野彦六に追いついた。 荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ちける勢が、篠村・稗田(ひえだ)辺に打ち集まって三千余騎がいたのを相伴い、路次の野伏共を追い払って、丹波の国高山寺(こうせんじ)の城にぞ立てこもったのだ。 谷の堂 炎上の事 京中の軍勢が谷堂に 火を放つ 千種頭中将は西山の陣を落ち給うと聞こえたので、翌日の四月九日、京中の軍勢が谷の堂・峯の堂以下(いげ)、浄住寺・松の尾・萬石大慈(まんこくおおち)・葉室・衣笠に乱入して仏閣・神殿を打ちこわし、僧坊民屋を追補(ついふ、取り上げ占領する事、没収)し、財宝を悉く運び取った後で在家に火をかけたので、時節に魔風が烈しく吹いて、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇を一時に灰燼となして仏像・神体・経論・聖教は忽ちにして寂滅の煙となって立ち上った。 谷堂(たにのどう) の 縁起 かの谷堂と申すのは、八幡殿(八幡太郎義家。義家は七歳で石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と言う。安倍貞任等が武威に感じて八幡太郎と名付けた)の嫡男對馬の守義親(よしちか)の嫡孫、延朗上人造立(ぞうりゅう)の霊地である。 この上人は幼稚の昔から武略累代の家を離れて、偏に寂寞無人(物淋しくひとの居らない室を占める事。俗塵を脱して仏門に入った事)の室を卜し給いし後に、戒定慧(禁慧・罪悪防止の戒め、禅定・静かに一心に考える事)、智慧の三學を兼備して、六根清浄の功徳を得給いしかば、法華読誦の窓の前には松尾の明神が列座して耳を傾け、真言秘密の扉(とぼそ)の中には、総角(そうかく、幼童の髪の形)の護法(護法童子のことで、仏法守護の為に使役させられる童子姿の鬼神)が手を束(つか)ねて奉仕(ぶし)し給う。 かかる有智高行の上人(しょうにん、知徳を具備して、専念仏道を修する僧の尊称)草創sられた砌であるから、五百余歳の星霜を経て末世澆漓(澆薄、世が末になって道徳が衰え、人情が浮薄となること)の今に至るまで智水の流れが清く、法灯は光明である。 三間四面(さんげんしめん)の輪藏(自在に旋転するように作られた一切経を蔵する庫)には転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られた。 奇樹怪石の池上には都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並べている。十二の欄干珠玉を天に捧げて五重の塔婆は金銀月を引く。恰も、極楽浄土の七寶荘厳の有様も、かくやと覚えるばかりである。 淨住寺 の 縁起 又、淨住寺と申すのは、戒法流布の地、律宗作業の砌(みぎり、場所)である。 釈尊が入寂の刻(きざ)み、金棺をまだ閉じない時に、捷疾鬼と言う鬼神が密かに雙林の下に近づいて御牙(犬歯)を一つ引き欠いて、これを取った。 四集の仏弟子は驚き見て、これを留めようとし給いけるが、片時の間に四万由旬を飛び越えて、須弥の半(なかば)四王天に逃げ上った。 韋駄天が追い攻め、奪い取ってこれを得、その後に漢土の道宣律師に与えられた。 そうしてから相承して我が朝に渡ったが、嵯峨天皇の御宇に始めてこの寺に安置し奉らる。大いなるかな大聖世尊滅後の二千三百余年の以後、仏肉(仏の神体、仏経が行われたのを言ったもの)猶留まりて、広く天下に流布する事あまねし。 武家滅亡の 前表 かかる異瑞奇特の大伽藍を咎なくして亡ぼしたのは、偏に武運の尽きるべき前表であるよと、人々は皆唇を翻したのだが、果たして幾程もあらずして、六波羅は皆番馬(ばんば、滋賀県の一駅)にて滅び、一類は悉く鎌倉にて失せぬる事ことそ不思議であるよ。 積悪の家には必ず餘殃(様々な禍)が有る、とはかようの事を申すのだと思わぬ人は無かったのだ。 巻 第 九 足利殿 御上洛の事 高塒 名越尾張守 以下 軍勢を催した 先朝は船上の御座ありて、討っ手を差し上らさせ、京都を攻められる由、六波羅の早馬が頻りに打って、事は既に難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道は大いに驚いて、さらば重ねて大勢を差し上させて、半ばは京都を警護し、宗徒は船上を責めるべしとの評定があって、名越尾張守を大将として外様の大名の二十人を催したのだ。
2026年04月23日
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あら、不思議、今日は仏生日(釈迦の誕生日)とて、心有るも心なきも灌仏の水に心を澄まし、供花(ぐげ)焼香に経を翻して、捨悪修善を事とする習いなのに、時日も多いのに齎日(さいじつ、精進・身を清め心を慎む すべき一定の日)にして合戦を始め、天魔波旬の道を学ぶ條は心得難しと人々は舌を翻した(非難した)。 さて、敵味方の士卒、源平が互いに交わっている。笠符(かさしるし)が無くては同士討ちもあるだろうと白絹を一尺づつ切って風と言う文字を書いて、鎧の袖に付けさせられた。 これは孔子の言葉に、君子の徳は風である。小人の徳は草せある。草に風を加える時には、靡かずと言う事はない、と言う心であろう。 六波羅では敵を西に待ちける故に、三条から九条まで大宮面(大宮通りに面したところ)に塀を塗り、櫓を掻いて射手を上げて、小路々々に兵を千騎二千騎と控えさせて魚鱗に進み、鶴翼に囲む様をぞ謀(はか)ったのだ。 寄せ手の大将は誰であるか、と問うと、前帝の第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顯の朝臣と聞こえければ、さては軍の成敗、心憎からず。源は同じ流れであるとは言え、江南の橘、江北に移されて、枳(からたち)となる習いである。弓馬の道を守る武家の輩と風月の才を事とする、朝廷の臣とが戦いを決すれば武家がかたずと言うことは有るべからず。と、各々が勇み進んで、七千余騎が大宮面に打ち寄せて、寄せ手は遅いぞと待ち懸けたのだ。 忠顯の軍勢 破れて引き退く 名和次郎 児島高徳の 力戦 さる程に、忠顯朝臣は神祇官の前に控えて兵を分け、上は大舎人から下は七条まで、小路毎に千余騎づつを差し向けて、責めさせなされた。 武士は要害を拵えて、射打ちを面に立て、馬武者を後ろに置いたので、敵の疼(ひる)むところを見ては駆け出で、懸け出でして追い立てたのだ。 官軍は二重三重に荒手を立てていたので、一陣が引けば二陣が入れ替わり、二陣が打ち負ければ三陣が入れ替わって人馬に息を継がせて、煙塵天を掠めて(砂塵が天を覆って)責め戦った。 官軍も武士も諸共に、義に依って命を軽んじ、名を惜しんで死を爭ったので味方を助けて進むのはあるが、敵に遇って退くのはなかったのだ。 かくては勝負は何時つくのか見えない所に、但馬・丹波の勢共の中から兼ねて京中に人を忍んで入れ置いたので、此処かしこに火をかけたのだ。 折節に風が烈しく吹いて猛煙が後ろに立ち覆いければ、一陣で支えていた武士共は大宮面を引き退いて、尚京中に控えていた。 六波羅はこれを聞いて、弱いであろうと思われる場所に向けようと用意の残し留めたのだ。 佐々木判官時信・隅田(すだ)・高橋・南部・下山・河野・陶山(すやま)・富樫・小早川等に五千騎を差し副えて、一条・二条の口に向けらる。この荒手に懸け合って但馬の守護太田三郎左衛門が打たれてしまった。 丹波の国の住人・荻野彦六と足立三郎は五百余騎にて四条油小路まで攻め入りたるに、備前の国の住人・薬師寺八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹・児玉の勢共、七百余騎が相支え合って戦ったのだが二条にてが破られると見えたので、荻野・足立も諸共に味方の負けと一緒に引き返した。 金持(かなぢ)三郎は七百騎にて七条東洞院まで責め云ったのだが、深手(重傷)を負って引きかねていたのを播磨の国の住人・肥塚(こいづか)の一族、三百余騎が中に取り籠めて、出し抜いて(他の軍勢の隙を伺って先んじ)生捕りにしてしまった。 丹波の国神池(みいけ)の衆徒は八十余騎で五条西の洞院まで責め入って、味方が引くのも知らずに戦ったのだ。それを備中の国の住人・庄(しょうの)三郎・真壁四郎、三百余騎で取り籠めて、一人も残さずに討ち果たした。 方々の寄せ手は、或いは打たれ、或いは破られて、皆が桂川の辺まで引いたのだが、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向かいたりける一条の寄せ手はいまだに引かずに、懸けつ返しつ時が移るまで戦ったのだ。 防ぐのは陶山と河野で、責めるのは名和と小嶋である。河野と小嶋は一族であり、名和と陶山とは知人である。 日頃の詞を恥じたのだろうか、後日の難を思ったのか、死しては尸を曝すとも、逃げて名をば失うまいと互いに命を惜しまずに喚き叫んで戦ったのだ。 大将の頭中将は内野まで引いたのであるが、一条の手がなお相支えて戦いが半ばであると聞こえたので、又神祇官の前に引き返して、使いを立て、小嶋と名和とを呼び返されたのだ。 彼等二人は陶山と河野とに向って、今日は既に日が暮れてしまった。後日にこそまた見参に入るであろう、と色代(しきだい、挨拶)して両陣共に引き別れておのおの東西に去りにけり。 忠顯 京都を退き 再挙を図らんとする 高徳がこれを諫めた 忠顯は遂に京都を落ちた 高徳は これに続いた 夕陽に及んで軍が散じたので、千種(ちくさ)殿は本陣の峯の堂に帰って、味方の手負い、討ち死にを註(しる)されるに七千人に余った。 その内に、宗と頼んでいた太田・金持の一族以下(いげ)数百人が打たれてしまっていた。よって一方の侍大将ともなるべき者とや思われたのか、小嶋備後三郎高徳を呼び寄せて、敗軍の士は力疲れて再び戦い難し。都に近い陣は都合が悪いと覚えるので、少し国境を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集め、又京都を攻めようと思うのだ。どう致すつもりであるか、と宣えば、小嶋三郎は聞きもあえずに、軍の勝負は鬨の運によることで候ゆえに、負けるのも必ずしも恥ではない。ただ引くまじき所を引き、懸けるべき所を駆けないのは大将の不覚とは申すのでありまする。いかなれば赤松入道は僅かに千余騎の勢を以て三箇度まで京都に攻め入り、叶わなければ引き退いて遂には八幡・山崎の陣を去らないのでありましょうか。 御勢がたとえ過半打たれて候えども、残る所の兵はまだ六波羅の勢よりは多いでありましょう。この御陣は後ろが深山であり、前は大河でありまする。敵がもし寄せて来たならば好む所の砦(好都合の要害堅固の城砦」でありましょうに。 あな、畏(かしこ)。この陣を引こうと思召す事はしかるべからず候。但しは、御方の疲れたる弊(ついえ)に乗って敵が夜討ちに寄せる事もあるかもしれませぬ。高徳は七条の橋爪に陣を取って相待ち候べし。御心安くある(信頼できる)兵共を四五百騎程、梅津・法輪に差し向けて警固なされて下さいませ、と申し置いて、即ち小嶋三郎高徳は三百余騎で七条の橋から西に陣を固めたのだ。
2026年04月22日
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島津は元から物馴れたる馬上の達者、矢継ぎ早の手利きであるから、少しも騒がずに、田中が進んで懸れば、あいの鞭を打って(敵が切りつける間に馬に鞭を打って)、押しもじりにはたと射る。 田中が妻手(めて、右手)に廻れば、弓手を越えて丁と射る。 西国名誉の打ち物の上手と北国無双の馬上の達者とが、追いつ、返しつ駆け違い、人混ぜもしないで戦いける。前代未聞の見物である。 さる程に、嶋津の矢種も尽きて、打ち物にならんとするのを見て、かくては叶わないとや思ったのか、朱雀の地蔵堂より北に控えたる小早河、二百騎にておめいて(叫んで)懸った所に田中の後ろにいた勢がぱっと引き退きければ、田中兄弟・頓宮(はやみ)父子、かれこれ四人の鎧の透間内冑に各自が矢を二三十筋、射立てられて太刀を逆さまについて皆立ち竦み(立ったままで動かず)にぞ死んだのだ。 見る人聞く人は皆、後までも惜しまない者はなかった。 美作国菅家の一族 有元兄弟の戦死 美作国(岡山県の管轄)の住人、管(かん)家の一族は三百余騎にて四条猪熊まで攻め入って、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸け合って(騎馬戦をして)時が移るまで戦ったのだが、後方の味方が引き退いた體を見て、元来引くまいと思っていたのか、又、向かう敵に後ろを見せまいと恥じたのか、 有元菅四郎佐弘(すけひろ)・同五郎佐光(すけみつ)・同又三郎佐吉(すけよし)兄弟の三騎が近づく敵に馳せ並べて引き組んで臥した。 佐弘は今朝の軍に膝口を切られて、力が弱ったのか、武田七郎に頸を掻き切られて、佐光は武田二郎の首を取った。佐吉は武田の郎党と刺し違えて共に死んだ。 敵の二人も共に兄弟、味方の二人も兄弟であるから、死に残ってもどうしようか、いざや、共に勝負をしようと、佐光と武田七郎とが持っていた頸を両方に投げ捨てて又もや引き組んで差し違えた。 これを見て、福光彦次郎佐長・殖月(うえつきの)彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦三郎種佐・鷹取彦二郎種佐が同時に馬を引き返してむず組んではどうと落ち、引き組んでは差し違え、二十七人の者が皆、一所にて討たれてしまったので、その陣の軍は破れてしまった。 妻鹿長宗の勇力 鎧武者を人磔に取る 播磨の国(兵庫県の管轄)の住人・妻鹿(めが)孫三郎長宗と申す者は薩摩氏長の末(子孫)で、力が人に勝れ、器量(きりょう、人物度量のことだが、ここは人品骨柄のこと)は世間を越えていた。 生年十二の春の頃から、好んで相撲を取ったのだが、日本六十余州の中には遂に片手にもかかる者はいなかった。人は類を以て集まる習いである故に、相伴う一族の十七人皆がこれ世の人には越えていた。 されば他人の手を交えずに一陣に進み、六条坊門大宮まで攻め入りたりけるが、東寺・竹田から勝ち戦をして帰った六波羅の勢三千余騎に取り巻かれて、十七人は打たれて孫三郎一人が残ったのだ。 生きていても甲斐の無い命であるが、君の御大事、これに限るまい。一人なりとも生き残って後に御用にこそ立ちたいものだと、独り言してからただ一騎西朱雀を指して引いたのだが、印具(いぐ)駿河守の勢五十余騎がこれを追いかけたのだ。 その中に、年の頃二十ばかりなる若武者がただ一騎で馳せ寄って、引いて帰る妻鹿孫三郎に組み付こうと近づき、鎧の袖に組み付いた所を、孫三郎はこれをものともせずに長い臂をさしのべて鎧の総角(鎧の胴の背の二枚目の板に環を打って付けた揚巻結びの太い組緒で房を大きく長くしたもの)を引っ掴んで宙に引っ提げて馬にのったままで三町ばかり行ったのだ。 この武者は然るべき者の子であろう。あれを討たすな、とて五十余騎の武者が後について追ったのだが孫三郎は尻目にかけてはったと睨み、敵も敵によるぞ。一騎だからとて我に近づいて過ちをするでない、欲しいのであればそれ、是を取らせよう、受け取れ、と言い、左の手に引っ提げた鎧武者を右手に持ち替えて、えいっと投げたところ追撃していた六騎の頭上を越えて深田の泥の中に姿が見えなくなるほどに打ち込んだ。 これを見て、五十騎の者共は同時に馬を引き返して遠足(素早く走る事)を出だしてぞ逃げたのだった。 赤松入道は殊更に、今日の軍に頼み切りたる一族の兵共、所々にて八百余騎が討たれたので、気が疲れ力が落ち果てて八幡・山崎にまた引き返したのだ。 主上 自ら令修金輪法 給事 付 千種殿 京合戦の事 船上山の皇居に於ける 御手法とその効験 京都での数箇度の合戦で、官軍は毎度打ち負けて、八幡・山崎の陣も既に小勢となってしまったと聞こえたので、主上は天下の安危は如何にあるかと宸襟を悩まされ、船上の皇居に壇を立てられて天子自ら金輪の法(金輪仏頂尊を本尊として、天変災異や所望産生の為に祈ること)を行わせ給う。 その七箇日に当たる日の夜に、三光天子(日天子・月天子・星天子のこと。一に三光天とも名付ける。即ち、日・月・星のこと)が光を並べて壇上に現じ給えば、御願は忽ちに成就するであろうと頼もしく思召されける。 千種忠顯 大軍を率いて 京都に入り 六波羅に推寄する 六波羅勢の 対陣 さらばやがて大将を差し上せて赤松入道に力を合わせ、六波羅を攻めるべしとて六条の少将忠顯朝臣を頭の中将として、山陽・山陰両道の兵の大将となして、京都に差し向けらる。 その勢が伯耆の国を立った時には僅かに千余騎と聞こえたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共が馳せ加わって、程も無く二十万七千余騎になりにける。 又、第六の若宮は、元弘の乱の始め、武家に囚われさせ給いて、但馬の国に流されさせ給いしをその国の守護・大田三郎左衛門尉が取り立て奉り給いて、近国の勢を相催し、則ち丹波の篠村に参会した。 大将の殿中将は斜めならず喜んで、則ち錦の御旗を立てて、この宮を上将軍と仰ぎ奉りて、軍勢催促の令旨を成し下されける。 四月二日に宮は篠村を御立ち成されて、西山の峯堂を御陣に召され、相従う二十万騎、谷の堂・葉室・萬石(まんこく)大路(おほみち)・松尾・桂里に居余って、半ばは野宿に充満した。 殿法印良忠は八幡に陣を取った。 赤松入道圓心は山崎に屯(たむろ、陣営)を張った。 その陣と千種殿の殿の陣との距離は僅かに五十町程なので、方々牒じ合わせてこそ京都に寄せらるべきであるのに、千種頭中将は吾軍の多いのを頼みにしたのか、密かに日を定めて、四月八日の卯の刻(午前六時)に六波羅へぞ寄せられた。
2026年04月21日
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山門、今は武家に志を通じているとは言え、又如何なる野心を存じているだろうか。油断すべきにあらずとて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿(ぬい)秀正に三千余騎を指し添えて糺(ただす)河原に向けられた。 去月十二日の合戦も、その方から勝ったので、吉例であると言うので河野と陶山とに五千騎を相副えて法性寺大路に差し向けられた。 富樫・林の一族・島津・小早河の両勢に国々の兵六千余騎を相副えて八条東寺辺に差し向けられた。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田(すだ)・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副えて、西七條口に向けられた。 自余の兵千余騎を悪手(あくて、まだ戦わない元気のよい軍隊として)残し、いまだ六波羅に並びいた。 その日の巳の刻(午前十時)から三方ながらに同時に軍を始めて、入れ替え入れ替え責め戦った。 寄せ手は騎馬の兵が少なくて徒歩立ちの射手が多いので、小路小路を塞ぎ、鏃を揃えて散々に射た。六波羅勢は徒歩立ちは少なくて騎馬の兵が多いので、駆け違い駆け違いして敵を中に取り籠めようとした。 孫氏(春秋時代の呉の兵法家)の千反(せんべん、千変万化)の謀(はかりごと)、呉氏(春秋戦国の兵法家)の八陣の法(陣立ての八つの形式。車箱・車軒・車輪・曲・鋭・直・卦・衡・鵝鸛)などは互いに知っている道であるから、共に破られず囲まれずに命を際の戦いにて、更に勝負も無かったのだ。 終日戦って、既に夕陽に及んだ時に、河野と陶山とが一手になって三百余騎が轡を並べて懸った所、木幡の寄せ手は足をもためずに、懸け立てられて宇治路を指して引き退いた。 陶山と河野は逃げる敵をば打ち捨てて、竹田河原を筋交いに鳥羽殿の北門打ちまわり作道へと駈け出して、東寺の前の寄せ手を取り籠めようとする。 作道の十八町に、充満している寄せ手れを見て、叶わないとや思ったのか、羅城門の西を横切って寺戸を指して引き返した。 小早河と島津安芸前司とは東寺の敵に向って、追いつ返しつ戦いけるが、己の陣の敵を陶山と河野に打ち払われて、味方が負けている事だと無念に思ったので、西の七條に寄せている敵に逢い、華やかなるひと軍をしよう、と言って、西八条を上って西朱雀へと出たのだった。 ここに赤松入道は屈強の兵をすぐって三千余騎にて控えているので、左右なく破られるべき様のなかった。されども島津・小早河が横合いに懸けるのを見て、戦い疲れたる六波羅勢は力を得て、三方から攻め合わせたので、赤松の勢は忽ちに開き靡いて三所に控えた。 赤松勢中の 四勇士 進んで敵を招く 島津安芸前司 父子 これと闘う 四勇士の 討ち死に ここに赤松の勢の中から兵が四人進み出て、数千騎が控えている中に是非なく打ちかかったのだ。その勢は決然として、あたかも樊噲・項羽が忿(いか)れる形のも過ぎていた。 近づくにしたがってこれを見れば、長(たけ)七尺ばかりの男で、髭を両方に生(お)い分けて眦(まなじり)が逆さに避けている者が、鎖(くさりかたびら、小さな鎖を繋ぎ合わせて襦袢のようにしたもの)の上に鎧を重ねて着て、大立挙げの脛当てに膝鎧を懸けて、龍頭の冑を猪頸(仰向けに、敵を恐れない事を示す)に着なして五尺余りの太刀を帯(は)き、八尺余りのかなさい(鉄撮)棒で八角形のものを手元の二尺ばかりに丸めて、実に軽そうに引っ提げている。 数千騎が控えている六波羅勢は、彼等四人の有様を見て、いまだ戦わざる先に三方に分かれて引き退いた。 敵を招いて彼等四人は大音声を挙げて名乗ったのは、備中の国の住人、頓宮(はやみ・とんぐう)又次郎入道・子息孫三郎(員利)・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と言う者である。我等父子兄弟は少年の昔より勅勘(ちょっかん、天子の御咎め)武敵(ぶてき、乱暴で法を犯す事。無法と同じ)の身となって山賊を業として一生を楽しんだ。 然るに今、幸いにこの乱が出来(しゅったい)して忝くも万乗の君の御味方に参じた。しかるを先度の合戦ではさしたる軍もせずに見方が負けしたることは、我らが恥と存ずる間今日においてはたとえ御味方が負けを引いて引いたとしても、我等は引くまいと思う。敵が強いとしてもそれにはよるまい。敵の中を破って通り、六波羅殿に直に対面申さんと存ずる。と、広言を吐いて仁王立ちにぞ立ったのだ。 島津安芸前司はこれを聞いて、子息二人と手の者に向って言ったのは、日頃に聞き及んだ西国一の大力とはこれである。彼等を討つことは大勢では叶うまい。御辺達は暫く外にて控えて、自余(それ以外)と戦うべし。我等父子三人が相近づいて、進んだり退いたりして敵を悩ましたならばどうして相手を討てない事があろうか。 たとえ力こそは強いとしても、身に矢を立て得ない事はないであろうよ。たとえ走る事が速いとしても馬にはよも追いつけないであろう。多年稽古の犬笠懸(犬追い物と笠懸・射場に高く綾藺笠を懸けて遠矢を射るもの)、今の用に立たないならば何時をか期(ご)するべし。 いで、いで、不思議のひと軍をして、人に見せてやろう、と言うままに、ただ三騎打ち抜けて四人の敵に相近づいた。 田中藤九郎はこれを見て、その名は未だ知らないが、猛(たけく)も思える志かな。同じくは御辺を生け捕って味方にして、軍をさせて見せようと、嘲笑って件の金棒を打ち振って閑に歩み近づいた。 島津も馬を静々(しずしず)と歩ませて寄り、矢頃(矢の当たる距離)になったので先ず、安芸前司が三人張りに十二束三伏(みつぶせ)を暫し狙いを定めてから丁と放った。その矢は過たずに田中の右の頬前を兜の菱縫いの板にかけて箆中(のなか)ばかりを射通したのだ。急所の痛手に弱って、さしもの大力ではあるが目が眩んで先には進めない。 舎弟の弥九郎が走り寄り、その矢を抜いて打ち捨て、君(後醍醐天皇)の御敵は六波羅である。兄の敵は御辺であるよ。余すまじ(皆殺しにするぞ)と言うままに兄の金棒を押っ取って振って懸れば頓宮父子はそれぞれに五尺二寸の太刀を引き側(そば)めて、小躍りして続いたのだ。
2026年04月17日
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その勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下(ふるとうげ)・八瀬・藪里・下松(さがりまつ)・赤山口(せきさんぐち)に支えて、前陣は既に法性寺・眞如堂(京都市左京区浄土町小山にある天台宗の極楽寺)につけば、後陣(ごじん)はいまだ山上・坂本に充満(じゅういつ)している。 甲冑に映じる朝日は電光が激するに異ならず。旌旗(せいき)を靡かす山風は龍蛇が動くのに相似ている。 山上と洛中との勢との多少を見合わせるに、武家の勢は十分の一にも及ばない。げにも、この勢にては容易く破り得る、と六波羅を見下ろした山法師達の心の程を思えば、大様(大雑把)ではあるが尤もなり。 衆徒は大敗して 山上に帰る 豪鑒(ごうかん)・豪仙の討ち死に さる程に、前陣の大衆はしばらくは法性寺につき、後陣の勢を待っていた所に六波羅勢が七千余騎で三方から押し寄せて、鬨をどっと作った。 大衆は鬨の声に驚いて、物の具・太刀よ・長刀よとひしめいて取る物も取り敢えずに僅かに千人余りにて法性寺の西門(さいもん)の前に出で合い、近づく敵に抜いてかかった。 武士は兼ねてから巧んだことであるから、敵が懸かる時には馬を馬を引き返してぱっと引き、敵が留まれば開き合わせて後ろに駆けまわる。 かくの如くに六、七度懸け悩ましける間、山徒は皆徒歩立ちである上に、重い鎧で肩を押さえつけられて次第に疲れたる様子に見えた。 武士は、これに利を得て射手を揃えて散々に射た。 大衆はこれに射たてられて平場での合戦は叶わないと思ったのか、またもや法性寺の中に引きこもろうとした所を、丹波の国の住人佐治(さちの)孫五郎と言う兵が西門の前に馬を横たえて、その頃にはかつてなかった五尺三寸の太刀を以て敵の三人をひっかける事もなく胴斬りにして、太刀が少し反り返ったのを門の扉に当てて推し直して、猶も敵を相待って西頭にして馬を控えさせた。 山徒はこれを見て、その勢いに辟易したのか、又、法性寺にも敵が有ると思ったのか、法性寺には入らずに西門の前を北に向かって、眞如堂の前の神楽岡の後ろを二つに分かれて、ただ山上へと引き返したのだ。 ここに、東塔の南谷の善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧が居た。味方の大勢に引き立てられて心ならず北白川を指して引いたのだが、豪鑒が豪仙を呼び止めて、軍の習いとして勝つ時もあり負ける時もある。鬨の運に依る事であるから恥にして恥ではない。 然りと言えども、今日の合戦の體は山門の恥辱であり、天下の嘲弄するところならん。いざや、御辺、相共に返し合わせて討ち死にして、二人の命を捨てて三塔の恥を雪(きよ)めん。と、言いければ、豪仙は、言うにや及ぶ、尤も庶幾(こいねがう)する所である。と、言って二人で踏みとどまり法性寺の北の門の前に立ち並び、大音声を挙げて名乗ったのは、これ程に引き立てたる(逃げ輿になった)大勢の中からただ二人が返し合わせるのを以て、三塔一の剛の者とは知るべし。その名をば定めて聞き及びつらん。東塔の南谷・善智房の同宿で、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られた者どもである。 我と思わん武士共は寄れや、打ち物して自余の輩(ともがら)に見物をさせようぞ。と、言うままに四尺余りの大長刀を水車に廻して躍りかかり、躍り懸かりして火花を散らしてぞ切ったのだ。 これを討ちとらんと相近づける武士共、多くは馬の足を薙ぎられ、兜の鉢を破られて、討たれてしまった。彼等二人は此処にて半時ばかり支えて戦ったのだが、続く大衆は一人もいない。 敵が雨が降る如くに射た矢で二人ながらに十余箇所じ傷を蒙って、今は所存はこれまでぞ(おもう所はこれが最後だ)、いざや、冥途まで同道しよう、と約束をして、鎧を脱ぎ捨てて押し膚を脱いで腹を十文字に掻き切って、同じ枕にこそ臥したのだ。 これを見る武士共は、あわれ、日本一の剛の者共かな。と、惜しまない者とてなかった。 前陣の軍が破れて引き返したので、後陣の大勢は軍場をさえ見ないで道から山門に引き返した。ただ、豪鑒と豪仙の振る舞いにこそ山門の名を揚げたのだ。 四月三日合戦の事 付 妻鹿(めが)孫三郎 勇力の事 山門の離反 官軍の兵数 減少する 去月(きょげつ)十二日に赤松は合戦に利なくして引き退いた後は、武家が常に勝ちに乗って、敵を討つこと数千人なりと言えども、四海はいまだ静かならず、あまつさえ山門がまた武家に敵して大嶽に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅に寄せるべしと聞こえたので、衆徒の心を取る為に武家から大庄十三か所の寄進が山門にあった。 その外に宗徒の衆徒に便宜(びんぎ)の地を一二か所充祈祷の為にとて恩賞を行われける。 さてこそ、衆議は心々になして、武家に心を寄せる衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は先途京都の合戦に或いは討たれ、或るは傷を蒙むる者が多かったので、その勢は大半を減じて、今は僅かに一万騎に足らざりけり。 官軍は二手に分かれて 武家を攻める 武家も軍を進めて 合戦する されども武家の軍立ち(軍勢の配置)、京都の形勢恐れるに足らずと見通していたので、七千余騎を二手に分けて、四月三日の卯の刻(午前六時)に又京に押し寄せたのだ。 その一方には殿法印良忠(りょうちゅう)・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田(とんだ)の判官の一党、並びに眞木・葛葉の溢れ者(無法者、ならず者)共を加えてその勢は都合三千余騎が伏見・木幡(きばた)に火をかけて、鳥羽・伏見から押し寄せた。 又、一方には赤松入道圓心を始めとして、宇野・柏原・佐用(さよ)・眞嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合その勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸けて、西の七条から押し寄せた。 両六波羅は度々の合戦で、打ち勝って兵が皆気を挙げている上に、その勢を数えると三万余騎に余る間、敵は既に近づいたと告げけれども、仰天の)気色もない。 六条河原に勢ぞろえをして閑(しずか)に手分けをせられたのだ。
2026年04月15日
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寄せ手の兵共はこれを見て、馬の鼻を並べて駈け散らそうとすれば、山が険しいので上り得ずに広い場所におびき出して打とうとすると、敵はこれを心得て懸らず。 よしや(ええ、ままよ)人々、はかばかしからぬ野伏共に目をかけて骨を折っては何かはせん。ここをば打ち捨てて山崎に打ち通れ。と、議して西岡(にしのおか)を南に打ち過ぎた所に、坊城左衛門が五十余騎で思いも寄らない日向明神の小松原から駆け出でて、大勢の中に切って入った。 敵を小勢と侮って真ん中に取り籠め余さないと戦う所に、田中・小寺・八木・神澤(かんざわ)等がここかしこから百騎二百騎と、思い思いに駆け出でて魚鱗に進み、鶴翼に囲まんとした。 これを見て狐河に控えたる勢の五百余騎、六波羅勢の跡を切ろうと縄手を伝い、道を横切って打ち廻るのを見て、京勢は叶わないと思ったのか、捨て鞭を打って引き返した。 片時(へんじ、暫時)の戦であるったから、京勢は多くを討たれてはいな)・深 田に陥って馬・物の具みな取る所も無く汚れたので、白昼に京中を打ち通るのに見物している人毎に、哀れ、さりとも陶山・河野を向けられたのであればこれ程に穢い負けは喫さなかったであろうにと、笑わぬ人はいなかったのだ。 されば京勢は此の度は討ち負けて、向かわないで京に残った河野と陶山の手柄の程が非常に高くなったのだ。 山徒 京都に寄せる 事 大塔の宮 山門を 語らわる 衆徒の決議 賛同 京都に合戦が始まって、官軍はややもすれば利を失う由、その聞こえありしかば、大塔の宮から牒使(牒状・回状まわしぶみを持ち廻る使い)を立てられて、山門の衆徒を語らわれた。 これに依って三月二十六日に一山(全山)の衆徒が大講堂の庭に会合して、それ、我が山は七社(滋賀県大津市坂本にある比叡山の守護神を日吉神社・山王神社と言い、その本宮・摂社・末社を合わせた二十一社を上中下に三区分して言う称)應化(おうけ、仏が人を救うために姿を変えて出現すること)の霊地として百王(百代の王)鎮護の潘籬(はんり、垣。皇室を守護するもの)となる。高祖大師(我が天台宗の開祖、伝教大師)が開基を占めた始めに、止観(天台宗で、散乱を止め明了の心を以て法を観照することの行を修する道場の雅称)の窓の前に天眞獨朗の夜の月を翫ぶと言えども、慈恵僧正(良源の謚号)が貫頂(天台座主の異称)たるの後に忍辱(にんにく、袈裟の異称)の衣の上に忽ちに魔障降伏の秋の霜を帯びる。然りしより(それ以来)このかた妖孼(ようげつ、災い)が天に現れる時は、則ち法威を振ってこれを払う。逆暴が国を乱す際には則ち神力を借りてこれを退ける。かるがゆえに神を山王と號する。すべからく非三非(山王の二字を仏法に当てて言うと、山の字は横の一点と縦の三点である。王の字は横の三点と縦の一点である。三蹄さんたい、蹄は真理の意。空蹄・仮蹄・中蹄、又は空蹄・色蹄・心蹄は一蹄であり、三の異を立てない。一蹄不思議の妙法であるが、しかも三蹄の実はおのずからに備わっている。例えば鏡と明と像の三つはその差はあるが、暫くも離れる時がない。三にもあらず、一にもあらず、これを非三非一の深理と言う。即ち、山王の二字に三蹄即是・三蹄は本来融通無一である事の理があるのを言う)の深理があるべし。山を比叡と言い、仏法王法が相比するべき所以である。しかるに今四海まさに乱れ、一人(天子)は安からず。武臣積悪のあまりに果たして天正に誅を下さんとする。その前兆は賢愚なきにあらず、共に世間の知る所となる。王事は脆(もろ)い事なし(帝王の事業は堅牢でなければならないから)、釈門(仏門、僧侶)たとい出塵の徒(世の中を捨てた者)となったとしてもこの時に如何ぞ報国の忠を尽くす事なからんや。早く武家合体の前非を翻して、朝廷扶危の忠膽を宜しく専らにすべし。と、詮議したところ三千一同に尤も尤もと同じて、院々谷々に帰り、則ち武家追討の外は他事がない。 六波羅勢の 発向と 対陣 山門は既に、来る二十八日に六波羅に寄せるべしと定めたので、末寺・末社の輩(やから)は申すに及ばず所縁(縁故)に随って近国の兵を集めた事は雲霞の如くである。 二十七日に、大宮(日吉・ひえ七社の一つ)の前で着倒を付けていた所、十万六千余騎と注した。 大衆(だいしゅう)の習いで、大逸り極まりなき所存であるから、この勢が京に寄せたならば六波羅はひとたまりもなく敗れてしまうであろう。 聞き落ちにぞせんずらんと(噂を聞いただけで逃げようとするだろう)思い侮って、八幡・山崎の味方にも牒(しめ)し合わせずに二十八日の卯の刻(午前六時)に、法性寺にて勢揃えあるべしと触れたりければ、物の具もせずに兵粮をもいまだ食べないで、或いは今路から向かい、或いは西坂から降り下る。 両六波羅はこれを聞いて、思うに、山徒がたとい大勢であるとは言えども騎馬の一人も有るべからず。こなたには馬上の射手を揃えて、三条河原に待ち承けさせて、懸け開き懸け合わせて弓手・妻手に追い物射に射たならば、山徒は心は勇とも徒歩立ちに力疲れて、重い鎧に肩を引かれて片時の間に疲れてしまうだろう。 これが小を以て大を砕き、弱(よわき)を以て剛を拉(ひし)ぐの行いである。とて、七千余騎を七手に分けて、三条河原の東西に陣を張り、待ちかけたのだ。 大衆はこうであるとは思いもかけずに、我先にと京へと入り、よいと思われる宿を取って財宝をも管領しようと志して、宿札(門などに掲げて、その人の宿であることを知らせる札)共を面々に二三十づつ持たせて、先ず法性寺へぞ集まった。
2026年04月14日
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西八条の寺の前を南に打ち出でければ、信濃の守貞範三百余騎、羅城門の前にある水の潺(せせらぎ、水の浅瀬)で馬の足を冷やし、敗軍の兵を集めようと、旗を打ち立てて控えたり。 則祐がこれを見つけて、諸鐙(もろあぶみ)を合わせて(両鐙を同時に使って、急いで)駆け入りければ、追いかけていた八騎の敵共、善き敵と見ていたものを遂に打ち漏らしてしまったぞ。癪なことであるよ。という声が聞こえて、馬の鼻を引き返したのだ。 暫くありければ、七条河原・西朱雀にて駈け散らされたる兵共、ここかしこから馳せ集まって、また千余騎になった。 赤松はその兵を東西の小路から進ませて、七条辺で又鬨の声をあげたところ、六波羅勢の七千余騎六条院を後ろに当て、追い返しつつ二時余りぞ責め合いたる。 かくては軍の勝負は何時あるべしとも覚えざる所に、河野と陶山の勢五百余騎が大宮を下りに打って出て、後ろを裏(つつま)んと廻りける勢いに後陣を破られて、寄せ手が若干討たれたので、赤松は僅かの勢になって、山崎を指して引き返したのだ。 河野、陶山の凱陣、臨時の宣下 敵の首を六条川原に 曝す 河野と陶山とは勝ちに乗じて作道の辺まで追いかけたのだが、赤松はややもすれば取って返さんとする勢いを見て、軍はこれまでである、そんなに長追いをするでない。とて、鳥羽殿の前から引き返し、生捕り二十余人、首を七十三取って切っ先に貫いて、朱になって(血まみれになって)六波羅へと馳せ参った。 主上は御簾を捲かせて叡覧なされた。 両六波羅は敷き皮に座して、これを検知した。両人の振る舞いはいつもの事であるが、殊更今夜の合戦に旁々(かたがた)手を下し、命を捨てる覚悟でなかったならば、叶わなかったであろうと見え候ぞ、と再三感じて賞玩された。 その夜にやがて臨時の宣下があって、河野九郎をば對馬の守になされて御剣を下され、陶山次郎を備中の守になされて、寮(馬領・めりょうで飼養した馬、馬寮とは御牧及び諸国の牧場から貢する官馬の調習・飼養及び供御の乗具などのことを掌った役所)の御馬を下されければ、これを見聞した武士達は、あわれ、弓矢の面目であるよ、と、或いは羨み、或いは嫉み、その名は天下に知られたのだ。 軍が散じて翌日に、隅田と高橋が京中を馳せ廻って、ここかしこの堀や溝い倒れていた手負いや死人共の首共を取り集めて、六条川原に懸け並べたのだが、その数は八百七十三あった。 敵はこれ程までは多く討たれなかったのだが、軍もしない六波羅勢共は「我は高名したり」と言おうとして洛中・邊土の在家人(ざいけにん、田舎家の人)の頸を似せ首にして様々の名を書きつけて出した頸どもが多く入っていたのだ。 その中には、赤松入道圓心と札を付けた首が五つあった。いずれも見知りたる人がないので同じようにぞ懸けたのだ。 京わらんべはこれを見て、首を借りたる人は利子を付けて返すべし、赤松入道は分身して、敵の尽きない相をしているぞ、口々にぞ笑ったのだ。 禁裏(きんり、宮中)・仙洞(せんとう、上皇の御所) 御修法の事 付 山崎合戦の事 諸社寺に於いて 祈禱を行うのだが 効験はなし この頃は四海が大いに乱れて、兵火が天を掠めた。 聖主(天子、ここは光巌天皇)扆(い、中国で玉座の後ろに立てた屏風で、斧の形を赤地の絹のに刺繍したもので、天子が諸侯に対面する時に用いた)を負いて春秋に安きときなし。武臣は矛を建てて旌旗閑日なし。これ法威を以て逆臣を鎮めなければ静謐その期あるべからずと、諸社諸寺に課して大法秘法をぞ修せられける。 梶井宮(尊胤法親王)は聖主の連枝(兄弟)、山門の座主にて御坐(おわ)しましければ禁裏に壇を立てて佛眼(息災の為に佛眼尊を本尊として修する法)の法を行わせ給う。 裏辻の慈什僧正は仙洞にて薬師の法を行われる。 武門また山門・南都・園城寺の衆徒の心を取り、霊鑑(神仏の霊妙な照覧)の加護を仰がん為に所々の荘園を寄進して、種々の神寶を奉り、祈願を致されしかども公家(朝廷)の政道正しからず、武家の積悪が禍を招いてしまったので、祈るとも神は非礼を承けず、語らえども人は利欲に耽らないのか、只日を追って国々から急を告げる事隙がなかった。 赤松は 中院貞能を立てて 聖護院宮と称す 六波羅と戦い これに勝つ 去る三月十二日の合戦に赤松は討ち負けて、山崎を指して落ちて行ったが、今は何事か有るべきとて油断なされたので、敗軍の兵がここかしこから馳せ集まり、程も無く大勢になぅたので、赤松は中院の中将貞能を取り立てて、聖護院の宮と號して、山崎・八幡に陣を取り、河尻(川口、鴨・桂・宇治・木津の諸川が合流して淀川となる地点で、此処を扼くすると水陸共に西国との交通を断ち得る)を差し塞ぎ、西国往反の道を打ちとどめた。 これによって洛中の商売は止められて、士卒は皆転漕(陸と海から兵糧を運ぶ事)の助けに苦しんだ。両六波羅がこれを聞いて、赤松一人に洛中を悩まされて今士卒を苦しめる事は安心ではない。さる十二日の合戦の體を見るに、敵はそれほどに大勢ではなかったのに、言う甲斐ない聞き怖じをして敵を辺境の間に差置くこそは、武家後代の恥辱である。 所詮は今度に於いては官軍を遮って敵陣に押し寄せ、八幡・山崎の両陣を攻め落とし、賊徒を河に追い嵌め、その首を取って六条の河原に曝すべし、と下知せられければ、四十八か所の篝、並びに在京人、その勢は五千余騎、五条河原に勢ぞろいして三月十五日の卯の刻に、山崎へとぞ向かったのだ。 この勢、始めは二手に分けていたが、久我縄手は路は細くて深田なので馬の駆け引きが自在には行かないだろうと、八条から一手になって桂川を渡り、河嶋の南を経て物集女(もずめ)・大原野の前から寄せたのだった。 赤松はこれを聞いて三千余騎を三手に分けた。一手には足軽の射手を選って五百余人、小塩山に廻した。一手をば野武士(落ち武者を脅迫して甲冑などを剝ぎ取った土民又は武士の集団)に騎馬の兵を少し交えて千余人を狐河の辺に控えさす。 一手をば専ら打ち物(打ち鍛えた武器、即ち槍や刀の類)の衆八百余騎を揃えて向日(むかうの)明神の後ろにある松原の陰に隠し置いた。 六波羅勢は敵がそこまで出で合っているとは思い寄らずに、そぞろに(何の気もなく)深入りして寺戸の在家(ざいけ、田舎家)に火をつけて、先駆け(先頭に立つ者)が既に向日(むかうの)明神の前をを打ち過ぎた所を、善峰(よしみね)・岩蔵(いわくら)の上から足軽の射手が一枚楯をてんでに引っ提げて麓まで降り下って散々に射た。
2026年04月13日
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資名(すけな)・資明(すけあきら)の二人が御前に参じて、官軍は戦いが弱くして逆徒が期せざるに洛中に襲い来り候。斯様にて御座候えば賊徒が差し違えて御所中にも乱入仕ると覚え候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅に行幸なされ候え。 と、申されければ、主上はやがて瑶輿(ようよ、玉で飾った意で、御輿)に召されて、二条川原から六波羅に臨幸なされた。 その後、堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下(以下)月卿雲客の二十余人が路次に参着して(臨幸の途中に追いついて)供奉(ぐぶ)し奉る。 これを聞き召し及んで、院・法王・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆が、六波羅迄御奉成る間、供奉の卿相雲客が軍勢の中に混じって警蹕(けいひつ、先払い)の声が頻りであるので、これさえ六波羅の仰天は一方ならず。 俄かに六波羅の北方を空けて、仙院・皇居となした。事の體は騒がしかりし有様である。 河野、陶山の軍勢が 蓮華王院の敵を破る やがて、両六波羅は七条河原に打ち立てて、近づく敵を相待った。 この大勢を見ては敵もさすがにあぐんで(嫌気がさす、うんざりする)や思いけん、ただ此処彼処に走り散って、火を懸け、鬨の声を挙げるだけで、同じ陣で控えている。 両六波羅はこれを見て、如何様、敵は小勢であると覚えるぞ、向かって追い散らせと、隅田(すだ)・高橋に三千余騎を相添えて八条口に差し向けられた。 河野九郎左衛門尉・陶山(すやま)次郎に二千余騎をさし副えて蓮華王院に向けられた。 陶山が河野に向って言ったことには、何ともない取り集め勢に交わって軍をすれば、なまじいに足手纏になり駆け引きも自由にはなるまい。いざや、六波羅殿から指し添えられた勢を八条河原に控えさせて、鬨の声を挙げさせ、我等は手勢を引きすぐって蓮華王院の東から敵の中に駆け入り、蜘手十文字に駆け破り、弓手妻手(ゆんでめて)に相付けて追い物(犬追い物、竹垣で方百メートルほどの馬場を囲い十二騎の武士が三手に分かれ、百五十匹の犬を追いかけて射る)射に射てくれよう、と言った所、河野は、もっともにて候、然るべし、と同じて、外様の勢の二千余騎を塩小路の道場前に差し置いて、河野の勢三百余騎と陶山の勢百五十余騎を引き分けて、蓮華王院の東に廻ったのだ。 相図の程になったので、八条河原の勢は鬨の声を挙げたのだが、敵はこれに立ち合わせんと馬を西頭に立てて、相待つ所に、陶山・河野四百余騎で思いも寄らぬ後ろから鬨をどっと作って、大勢の中に駆け入り、東西南北に駆け破って敵を一所に打ち寄せずに、追い立て追立責め戦った。 河野と陶山は一所に合っては両所に別れ、両所に分かれては又一所に合う。七八度程は揉みあったのだ。長途に疲れた徒歩立ちの武者は駿馬の兵に懸け悩まされて、討たれる者はその数を知らず。手負いを捨てて、道を横切り、散々になって引き返す。 陶山と河野は逃げる敵には目もくれず、西七条辺の合戦はどんな風であろうか、心もとなしとて又七条川原を筋違いに西に打って、七条大宮に控え、朱雀の方を見遣りければ、隅田(すだ)・高橋が三千余騎で、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎で懸け立てられ、馬の足を立て兼ねている(騎馬の陣容を整え兼ねている)。 河野がこれを見て、このままでは見方が討たれてしまうだろう。いざや、打ってかかろうぞ、と言ったのを、陶山が「しばらく」と制したのだ。その故は、この陣の軍は未だ雌雄を決しないのに力を合わせて味方を助けたとしても、隅田・高橋の口の悪さは、恐らくは自分達の手柄だと言うであろう。暫くはこのままで、事の成り行きを見てみよう。敵がたとえ勝ちに乗ったとしても何ほどの事があろうか。そう言って見物していたのだった。 西七条辺の寄せ手も 河野・陶山の為に破られ 引き退く さるほどに、隅田・高橋の大勢は小寺・衣笠の小勢に追い立てられ、返さんとするのだが叶わず、朱雀を上りに内野を指して引くのもある。七条を東に向かって逃げるのもある。馬に離れたる者は心ならずも返し合って闘い死ぬもあり。 陶山がこれを見て、余りに長居していては味方が弱ってしまい由無し。いざや、今は懸け合わせようぞ、と言えば、河野は「仔細には及ぶ(異議は全くない)」と言うままに、両勢を一手になして大勢の中に駆け入り、時が移るまで戦ったのだ。 四武の衝陣(四方の武者を同時に疾く敵陣に突貫させる兵法)守りの堅いのを砕いて、百戦の勇力は変に応じたので、寄せ手はこの陣でも軍に打ち負けて、寺戸を西に引き返したのだ。 赤松兄弟の奮戦 と赤松勢の敗北 筑前守貞範・律師則祐の兄弟は、最初に桂川を渡った際の合戦に、逃げる敵を追い立て、跡に続く味方がないのも知らずに、ただ主従の六騎だけで、竹田を上りに法性寺大路に懸け通り、六条川原に打ち出でて、六波羅の舘に駆け入らんとして待ったのだ。 東寺から寄った味方ははや打ち負けて、引き返しけりと覚えて、東西南北にてきより外はない。 さらば暫くは敵に紛れて味方を待たんと、六騎の人々は皆笠符をかなぐり捨て、一所に控えたる所に隅田・高橋が打ち廻って、如何様、赤松の勢共はなお味方に紛れてこの中にあると覚えるぞ。河を渡った敵であるから、馬・物の具が濡れていない物はない。 それを目印にして、組討ちに撃て。と、呼ばわったので、貞範も則祐もなかなか敵に紛れようとすれば都合が悪いだろうと、兄弟郎党の僅かに六騎で轡を並べわっと呼ばわって敵の二千騎の中に懸け入って、ここに名乗り、かしこに紛れて相戦ったのだ。 敵は、これ程の小勢とは思い寄るべきことではないから、東西南北に入り乱れて、同士討ちをうること数刻である。 大敵を謀るには勢いは久しくないので、郎党の四人はみな所々で討たれてしまった。 筑前守は押し隔てられて、則祐は只一騎になって、七条を西へ大宮を下りに落ち行く所に、印具(いぐ)尾張守の郎従の八騎が追いかけて、敵ながら優しく覚え候(立派だ、けなげだ)ものかな。誰人にておわするぞ、御名乗り候え。と、言った所、則祐は馬を閑(しずか)に打って(馬を御して)、身は不肖にて候えば名乗り申す事はあるべからずと存じ候。ただ頸を取って人に見せられ候え、と言うままに敵が近づけば打ち合わせて、敵が引けば馬を歩ませて二十余町の間を敵の八騎と打ち連れて心閑に落ちて行ったのだ。
2026年04月09日
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三月十二日の合戦の事 赤松勢が 京都に入る 六波羅勢の発向 六波羅ではかかる事とは夢にも知らず、摩耶の城には大勢を下したので、敵を攻め落とす事は日を過ごさないだろうと、心易く思っていた。 その左右を今か今かと待っていた所に、寄せ手が打ち負けて逃げ上る由を披露あって、実説はいまだ聞かず。何とあることやらんと、不審が端多い所に、三月十二日、申の刻(午後四時)ばかりに淀・赤井・山崎・西岡邊の三十余箇所に火を懸けた。 こは、何事ぞ、と問うに、西国の勢は既に三万で寄せて来た。とて、京中が上を下へと返して騒動する。 両六波羅は驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は摩耶の城から追い立てられ右往左往に逃げ隠れた。 その外は奉行・頭人(引き付け頭人、引き付け衆の首席)なんどと言われて肥え膨れていた者どもが馬に舁き乗られて四五百騎馳せ集まったけれども、皆ただ呆れ迷うばかりであり、さしたる義勢(気力、意気込み、見せかけの勇気)も無かったのだ。 六波羅の北の方(北丁の長官)、左将監仲時は事の軆を見ると、何様、居ながら京都にて敵を待つことは武略が足りない事に似ている。 洛外に、馳せ向かって防ぐべし。とて、両検断の隅田と高橋に在京の武士二万余騎を相添えて、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ差し向けられ、これはこの頃南風に雪が解けて河水が岸に余る時であるから、桂川を隔てて戦いを致さん謀である。 両陣は桂川を隔てて 対陣す 赤松則祐は川を渡す 六波羅勢の退却 さるほどに赤松円心は三千余騎を二手に分けて、久我縄手・西の七條から押し寄せた。 大手の勢は桂川の西の岸に打ちならんで、川向うなる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に家々の旗が翩翻(へんぽん、ひるがえる様)として城南の離宮の西門から作道・四塚(よつづか)・羅城門の東西、西の七條口まで支えて雲霞の如くに充満したのだ。 されどもこの勢は桂川を前にして防げと下知されている、その趣を守って川をば誰も越えなかったのだ。寄せ手は又、思いの外に敵が大勢であることを思惟して、左右なく打ちかかろうともしなかった。 只、両陣は川を隔てて矢軍にぞ時をぞ移したのだ。 中にも、帥律師則祐は馬を踏み離して、徒歩立ちになり、矢を束ね解いて、押し寛げ、一枚楯の陰から引き攻め、引き攻め、散々に射ったのだが、矢軍だけでは勝負は決しようがない、と独り言を言って脱ぎ置いた鎧を肩にかけて、兜の緒を締め、馬の腹帯を固めて、只一騎で岸から下に打ち下ろして手縄をかいくり渡らんとした。 父の入道が遥かにこれを見て、馬を打ち寄せて、面に塞がって制したのは、昔、佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡ったのは、兼ねて澪印を立てて案内を見置き、敵の無勢(ぶせい)を目に掛けて先を懸けた(先駆け、先に立って敵陣に攻め込む)ものだ。川上の雪が消えて、水が勝り、渕瀬も見えない大河を嘗て案内も知らずに渡るならば、渡れるものであろうか。たとえ馬が強くして渡ることを得たとしても、あの大勢の中にただ一騎で駆け入ったならば、討たれずと言う事は有るべからず。 天下の安危は必ずしもこの一戦に限るべからず。暫く命を全うして、君の御代(ごよ)を待たんとする心はないのか。と、再三、強いて止めた所、則祐は馬を立て直して抜いていた太刀を収めて、申したのは、味方と敵と對揚(匹敵)すべき程の勢にてだに候ならば、我と手を下さずとも、運を合戦の勝負に任せて見候べきを、味方は僅かに三千余騎、敵はこれに百倍している。 急に戦いを決しないならば、敵に無勢の程を見透かさてしまったならば、戦うと言えども利はあるまいと思われまする。されば太公の兵道の詞(ことば)に、兵勝之術、密察敵人之機、而速乗其利、疾撃其不意、と言っている。是以我困兵、敗敵強陣の謀(はかりごと)にて候わぬや。と、言い捨てて駿馬に鞭を進め、みなぎりて流れる瀬枕(川の早瀬の波が物に激して水面より高くなった所。川底を寝床と見ると、その所は枕に当たるから言う)に逆波を立てながら泳がせたのだ。 これを見て、飽間黒羽左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相模・宇野能登守國頼の五騎が続いて颯と打ち入った。 宇野と伊東は馬が強いので真一文字に流れを切って渡る。木寺相模は逆巻く波に馬を放されて兜の手反(てへん、兜の頂上の辺り)だけが僅かに浮かんで見えていたが、浪の上を泳いだのだろう、或いは水の底を潜ったのか人よりも先に渡りついて、川の向こうの流れ洲に鎧の滴らせてぞ立ったのだ。 彼等五人の振る舞いを見て、尋常(よのつね)ならぬ者とや思いけん、六波羅の二万余騎は人馬が東西に辟易して敢えて駆け合わせようとする者はない。 あまつさえ楯の端がしどろになって色めき渡るのを見て、先駆けの味方を打たすな、続けや、とて、信濃守範資・筑前守貞範が真っ先に進めば、佐用・上月の兵三千余騎の兵共が一度に颯と打ち入って馬筏で流れを堰き上げたので、逆水が岸に余り、流れが十方に分かれて元の淵瀬は中々に陸地を行くが如し。 三千余騎の戸は向こうの岸に打ちあがり、死を一挙の中に軽くしようと進み勇める勢いを見て、六波羅勢は叶わないと思ったのか、いまだ戦わぬ前(さき)に楯を棄て、旗を引いて、作道を北へ東寺を指して引くもあり、竹田川原を上って法性寺大路へ落ちるのもある。その道の二三十町の間は捨てられた物の具が地に満ちて、馬蹄の塵に埋没した。 京中の 合戦 さる程に、西七條の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京の中に攻め入ったと見えて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたのだ。 又、八条、九条の間にも戦いがあると覚えて、汗馬東西に馳せ違い、鬨の声が天地を響かせた。 只、大三災が一時に起こり、世界が悉く劫火の為に焼け失うかと疑われる。 京中の合戦は、夜半ばかりのことであるから、目指すとも知れない暗い夜に鬨の声がここかしこに聞こえて、勢の多少も、軍建ての様も見分けられないので、何処へ、何を目指して軍をなすべきとも覚えずに、京中の勢は先ずただ六条川原に馳せ集まって、呆れたるていで控えている。 持明院殿 行幸 六波羅 の事 光巌天皇 六波羅に 臨幸 日野中納言資名(すけな)・同左大弁宰相資明(すけあきら)の二名が同車して、内裏に参り給いければ、東西南北四方の門が徒に開いて、警護の武士は一人もいない。 主上が南殿に出御なされて、誰にて候ぞ、と御尋ねであったが、衛府諸司の官、蘭臺金馬(らんだいきんめ、弁官の唐名)の司もどへか行ってしまい、勾當(こうとう、掌侍・内侍司の三等官四人の中の首位の者)の内侍と上童の二人の外は御前に侯する者は無かった。
2026年04月08日
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この山に登るのに、七曲りとて険しく細い道がある。 この所に至りて、寄せ手は矢を射られて少し勢いを挫かれ、上り兼ねてそのままの状態を保っている間に、赤松律師則祐(そうゆう)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰の二人が南の尾崎に下降(おりくだ)って矢種を惜しまずに散々に射ったので、寄せ手は少し勢いをそがれて互いに人を楯になして、その陰に隠れようと、敗色が見え隠れしている。 その気配を見て取り、赤松入道の子息・信濃守範資(のりすけ)・筑前守貞範(さだのり)。佐用(さよ)・上月(こうつき)・小寺・頓宮(とみや、とんぐう)の一党五百余人、峰(きっさき)を揃えて大山が崩れるが如くに二の尾から打ち出たので、寄せ手は後から引き立てて、返せ、と言うけれども、耳にも聞き入れず、我先にと引いた。 その道は、或いは深田にして馬の蹄が膝を過ぎ、或いは荊棘が生い茂って行く先はいよいよ狭いので、返さんとするも叶わず、防がんとするも便りがない。 されば城の麓から武庫河(むこがわ)の西の縁(はた)まで道の三里の間は、人馬がいやが上にも重なり死して、行人は路を去り敢えず、向かう時に七千余騎と聞こえた六波羅の勢は僅かに千余騎にだにも足らずに足らずに引き返しければ、京中で六波羅の周章斜めならず、然りと言えども敵は近国から起こって属順(つきしたが)った勢はそれほどには多いとは聞こえないので、たとえ一度や二度勝ちに乗る事があっても、何ほどの事があるべき。と、敵の分限を推し計って引けども機(き、心の働き)を失わない。 六波羅勢は 再び摩耶山に向う 赤松父子 危難に遇い 僅かに遁れる かかる所に、備前の国の地頭・御家人も大略が敵になったと聞こえていたので、摩耶城に勢が重ならない先に討っ手を下せと言って、同(おなじき)二十八日、又一万余騎の勢を指し下された。 赤松入道はこれを聞いて、勝ち戦の利は謀を不意に出て、大敵の気を凌いで須臾に(忽ちに)変化して先んずるに如かず。とて、三千余騎を率っして摩耶の城を出て久々智(くくち)・酒部に陣を取って待ち懸けた。 三月十日に六波羅勢は既に瀬河(大阪府)に着いたと聞こえたので、合戦は明日になるだろうと赤松は少し油断をして、ひと村雨が過ぎる程を物の具の露を干そうとして、僅かなる在家に込み入って雨の晴れ間を待っている間に、尼崎から船を止めて上がった阿波の小笠原、三千余騎で押し寄せたのだ。 赤松は僅かに五十余騎で大勢の中に駆け入り、面も振らずに(一心に、まっしぐらに)戦ったのだが、大敵を凌ぐのに叶わないので四十七騎は討たれ、父子の六騎だけになってしまった。 六騎の兵は皆、揆(しるし、軍隊の印に兜の前、或いは後ろに付けた小旗)をかなぐり捨て、大勢の中に颯と交わり懸かりければ、敵はこれを知らないのであろうか、又、天運にかかったのか、いずれも恙無くして、味方の勢の小屋野の宿の西に三千余騎にて控えたるその中に、馳せ入って虎口に死を遁れたのであった。 六波羅勢は昨日の戦で敵の勇鋭を見ると、小勢とは言えども欺きがたいと思っていたので、瀬河の宿に控えて進み得ない。 赤松勢が 六波羅勢を 破る 赤松は又、敗軍の勢を集めて遅れたる勢を待ち調える為に、軍を仕掛けないで互いに陣を隔てていまだに雌雄を決しようとしない。 丁壯(士卒)そぞろに軍旅(戦争)に就くならば敵に気を奪われるだろうと、同十一日に赤松は三千余騎で敵の陣に押し寄せて、先ず事の軆(てい)を伺い見るに、瀬河の宿の東西に家々の旗二三百流れが梢の風に翻って、その勢は二三萬騎もあるかと疑われる。 味方をこれに合わせて見れば、相手の百に対して一二にも比べることは出来ないと見えるが、戦わなくては勝つ道はないので、ひとえに唯討ち死にと志して、筑前の守貞範・佐用兵庫の助範家・宇野能登守國頼・中山五郎左衛門尉光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰は、郎党共と七期にて竹の陰から南の山に打ち上がって進み出たのだ。 敵はこれを見て、楯の端が少し動いてかかるのかと思えばそうではなくて、色めきたる(敗色が表われた)気色に見えたので、七騎の人々は馬から飛び降りて、竹が一叢繁っている所を間に合わせの楯にとって、差し攻め、引き攻め(矢を弓弦にしっかりとつがえては十分に引き絞り)散々に(したたかに)射たのだった。 瀬川の宿の南北三十余町に沓(くつ)の子を打ったる様に(沓の底に打った鋲、多くの人が立ち並ぶ様に譬える)控えている敵であるから、どうして狙いが外れるであろうか、外れる筈がない。矢頃(矢を射る距離)に近い敵二十五騎が真っ逆さまに打ち落されたので、矢面にいる人を楯にして、馬を射させまいと陣容を整え兼ねた。 平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共は、すはや、敵は色めきたるは(敗色があらわれたぞよ)と、箙(えびら、矢を盛って背に負う道具)を叩き、勝鬨を作って七百余騎が轡(くつばみ、馬のくつわ、金属製の具で、馬の口に含ませて馬を御するのに使用する)を並べてぞ駆けたのだ。 大軍が靡く癖であるから、六波羅勢は前軍が返っても後陣が続かない。行く先は狭まいぞ、閑(しずか)に引け、と言っても耳には入らず、子は親を棄て、郎党は主を知らず。我先にと落ち行くのでその勢の大半が討たれて僅かに京へと帰ったのだ。 赤松の勢が 六波羅勢を 追う 赤松は、手負い・生捕りの頸三百余、縮河原に切り懸けさせて、又摩耶の城に引き返そうとしたのだが、圓心の子息帥律師則祐(そくゆう)が進み出て申したのは、軍の利は勝ちに乗じて逃げるのを追うのには如かず。今度、寄せ手の名字を聞くに、京都の勢は数を尽くして向かって候なる。 この勢共は今四五日は、長度の負け戦に草臥れて、人馬共に物の役に立つはずもありませんでしょう。臆病神が醒めない先に、続いて責めるのならば、などかは六波羅を一戦の中に攻め落さないでいられましょうか。 これ、太公(周代の斉の始祖、太公望呂尚。武王を助けて殷を滅し、天下を平定した)の兵書に出ていて、子房(しぼう、漢の高祖に仕えた張良。字は子房。一老父・黄石公から兵法の書を与えられた)が心底に秘めていた所ではありませんでしょうか。と、言った所、諸人が皆この義に同じて、その夜やがて宿川原を立って、路次(ろし)の在家(道筋の田舎家)に火を懸け、その光を手松(たいまつ)にして逃げる敵に追い縋って、責め上ったのだ。
2026年04月07日
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一日の内に兵粮を五千余石を運んだのだ。 その後、家中の財宝を悉く人民百姓に与えて、己の館に火をかけて、その勢は百五十騎にて船上に馳せ参り、皇居を警護仕る。 長年の一族で、名和の七郎と言う者、武勇の謀があったので、白布五百反(たん)あったのを旗に拵え、松の葉を焼いて煙にふすべ、近国の武士共の家々の紋を描いて、この木の本、かしこの峯にぞ立て置いたのだ。この旗共が峰の嵐に吹かれて、陣々に翻った様は山中に大勢が充満していると見えて夥しい。 船上(ふなのうえ)の 合戦の事 佐々木清高等が 船上山を 攻める さるほどに、同じく二十九日に隠岐判官・佐々木弾正左衛門がその勢三千余騎にて南北から押し寄せたのだ。 この舟上と申すのは北は大山(だいせん)に続き岨立ち、三方は地が下がって峰にかかっている白雲が腰に廻っている。 似赤に拵えた城であるから、まだ堀の一所も掘らず、塀の一重も塗らず、ただ大木の少々を所々に切り倒して逆茂木に引き、坊舎(僧の住む家)の甍(いらか)を破って、掻き楯として並べただけである。 寄せ手の三千余騎は坂中まで駆け上がって、城中をきっと見上げたれば、松柏が生い繁って、非常に深い木陰に軍勢の多少は知らね共、家々の旗が四五百流れ、雲に翻り、日に映じて見えたのだ。 さては早や、近国の勢共が悉く馳せ参じていたのか。 この勢ばかりでは攻め難いとや思ったのか、寄せ手が皆心に危ぶんで、進み得ず、城中の勢共は敵に勢の分際を見せまいと、木陰にぬはれ(ここかしと隠れ)伏して時々射手を出して遠矢を射させて日を暮らす。 寄せ手敗北する 清高の末路 かかる所に、一方の寄せ手なりける佐々木弾左衛門尉は遥かの麓に控えていたのだが、いずかたより射れるとも知れぬ遠矢に右の眼を射抜かれて、矢庭に伏して死んでしまった。 これに依りて、その手の兵五百余騎は色を失いて軍をもせず。 佐渡前司は八百余騎で搦手に向っていたが、俄かに旗を巻き甲を脱いで降参した。 隠岐判官は猶、斯様の事も知らずに、搦手の勢は定めて今は責め近づいているだろうと心得て、一の木戸口に支えて、新手を入れ替え入れ替えして時が移るまで攻めたのだ。 日は既に西山に隠れなんとしける時に、俄かに天が書き曇り、風が吹き雨が降ることは車軸(車の太い心棒の様な垂直に降る雨」の如くである。雷が鳴ることは山を崩すかと感じられる。 寄せ手はこれに怖じわなないて、ここかしこの木陰に立ち寄りて群がりいたる所に、名和又太郎長年、舎弟の太郎左衛門長重、小次郎長生(ながかた)が射手を左右に進めて、散々に射させ、敵の楯の端が揺るぐ所を得たりや賢しと刀を抜き連れて打ってかかった。 大手の寄せ手千余騎は谷底にみなまくり(追い払われて)落されて、己の太刀・長刀に貫かれて命を落す者数を知らず。 隠岐判官ばかりが辛くも命を助かって、小舟一艘に取り乗り、本国に逃げ帰ったのだが国人は何時の間にか心変わりをして、津々浦々を堅め防ぎける間、風に任せ波に随いて越前の敦賀に漂い寄ったのだが、幾程もなくして六波羅が没落の時に、江州(ごうしゅう、近江国)番馬(旧中山道の一駅)の辻堂で腹をかき切って失せたのだ。 世は澆季(ぎょうき、道徳や風俗が軽薄になった末世の時代)に成ったとは言え、天理はまだ残っていたのか、余りに君を悩まし続けた隠岐判官が三十余日の間に滅び果てて、首を軍門の幢(はたほこ、小さな旗を上に付けた鉾)に懸けられたのは不思議であるよ。 諸国の軍勢が船上山に 馳せ集まる 主上は隠岐の国から還幸なって、船上に御座有ると聞こえしかば、国々の兵共が馳せ参る事は引きも切らず。 先ず一番に、出雲守護塩谷判官高貞、富士名(佐々木の分家)の判官と打ち連れて千余騎で馳せ参る。その後、浅山二郎が八百余騎、金持(かねぢ)の一党が三百余騎、大山衆徒七百余騎、凡て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に弓矢に携わる程の者が参らぬ者はなかったのである。 これのみならず、石見(いはみ)の国には澤・三角の一族、安芸の国に熊谷・小早川(こばいわ)、美作(みまさか)の国には菅家の一族・江見・方賀(はが)・渋谷・南三郷(さんごう)、備後の国では江田・廣澤・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後の二郎範長・知間の二郎近經・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞・小嶋・中吉(なかぎり)・美濃権の介・和氣弥次郎季經・石生(おしこ)彦三郎、この他に四国・九州の兵までも聞き伝え、聞き伝えして我先にと馳せ参じたので、その勢は舟上山に居余りて、四方の麓の二三里は木の下、草の陰までもひとがいない所はなかった。 巻 第 八 摩耶 合戦 の事に付き 酒部・瀬河 合戦の事 佐々木時信、常陸前司時知、摩耶山に向かい 破れて京都に帰る 先帝は既に船上に着御なり、隠岐判官清高は合戦に打ち負けた後、近国の武士ども皆馳せ参る由、出雲・伯耆の早馬が頻並(しきなみ)に打って、六波羅に告げたので、事は既に珍事に及びぬと聞く人は色を失った。 これにつけても、京近い所に、敵の足を止めさせては叶うまい。 先ずは摂津の国の摩耶の城に押し寄せて、赤松を退治すべしとて、佐々木判官時信・常陸の前司時知に四十八か所の篝、在京人、並びに三井寺法師三百余人を相添えて、以上五千余騎を摩耶城に向かわせた。 その勢、閏二月五日に京都を立って、同(おなじき)十一日の卯の刻(午前六時)に摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林から攻めたのだ。 赤松入道はこれを見て、態と敵を難所におびき寄せる為に、足軽の射手一二百人を麓に降ろして、遠矢を少々射させてから、城に引きあがったのだ。 寄せ手は勝ちに乗じて五千余騎、さしも険しい南の坂を人馬に息もつがせずに揉みに揉んでぞ上がったのだ。
2026年04月03日
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ここで時を打つ皷の声を聞けば、夜はまだ五更(午前四時から六時までを五更と言う)その初め(四時頃)である。 この道の案内者を仕った男は、甲斐甲斐しく湊中を走り回って、伯耆の国に漕ぎ戻る商人の舟が有ったのを、兎角に語らいて、主上を屋形の中に乗せ参らせ、その後で暇を申して止まったのだ。 この男は実にただ人にはあらずして、君御一統(天下を平定する)の御時に、尤も忠賞あるべしと国中を尋ねられたのだが、我こそはそれにて候と申す者は遂に現れ出なかったのだ。 佐々木清高の追跡 危難を遁れて 名和湊に御着 夜も既に明けたので、舟人は纜(ともづな)を解いて順風に帆を揚げて、湊の外に漕ぎ出した。 船頭は主上の御有様を見奉りて、ただ人にては渡らせ賜わじとや思ったのか、館の前に畏まって申したのは、かようの時に御舟を仕り候は我らが生涯の面目にて候。何処の国の浦に寄せよと御諚あらばそれに随いて、御舟の梶をば仕り候べし。と、申して、実に他事もなげな気色である。 忠顯朝臣はこの言葉を聞き給いて、隠しては中々に悪しかるべしと思われたのであろうか、この船頭を近くに呼び寄せて、これ程に推し当てられては何をか隠すべき。屋形の中に御座あるのは日本国の主(あるじ)、忝くも十善の君にて入らせ給う。 汝らも定めて聞き及んでいるであろうが、去年より隠岐判官の舘に押し込められて御座有られたが忠顯が盗み出だし参らせたのだ。 出雲・伯耆の間に何処であっても適当と思われる泊りに、急いで御舟を着けて降ろし参らせよ。御運が開けたならば、必ず汝らを侍に申しなさせて、所領一所の主となさせるであろう。と、仰せられければ船頭は実に悦ばし気なる気色にて、取り舵(船主を左に向ける時の梶の切り方」・面梶(右に向けるときの梶の取り方)を取り合わせて、片帆(帆を片法に寄せて斜めに風を受ける事)にかけてぞ馳せたのだ。 今は海上二三十里も過ぎたかと思われる所に、同じ追い風に帆を懸けてる舟が十ッ艘ばかり、出雲・伯耆を指して馳せ来る。 筑紫舟(九州方面に航海する舟)か商人舟(あきんどが用いて商品を運搬する舟)かとみれど、そうではなくて隠岐判官清高が主上を追い奉る舟である。 船頭はこれを見て、かくては叶い候まじ、此処に御隠れ候え、と申して主上と忠顯朝臣を船底に御座所を移し参らせて、その上にあひ物(塩魚類の総称)と言って干した魚が入った俵を積みて、水手(すいしゅ、船頭)・舵取り(かんどり、櫓や櫂で船を漕ぐ人)がその上に立ち並び、櫓をぞ押したのだ。 さるほどに追っ手の舟一艘、御座舟(主上の居ます舟)に追いついて、屋形の中に乗り移り、ここかしこと探したが、見出だし奉らず。 さては、この舟には召されなかったようだ。もしや、怪しい舟は通らなかったか、と問いけるに、船頭は、今夜の子(ね」の刻(午後十二時)ばかりに千波(ちぶり)湊を出で候つる舟にこそ京上臈と思しくて、冠とやらん着た人と、立て烏帽子を着た人と、二人を乗せ給いける。その船は今は五六里も先立ち候つらん、と申しければ、さては疑いも無き事である、早く舟を押せ、と言って帆を引き梶を直せば、この舟はやがて隔たったのだ。 いまはこうと心安く覚えて、跡の浪路を顧みれば、又、一里ばかり下がって追っ手の舟が百余艘が御座船を目に掛けて、鳥が飛ぶかのように追いかけた。 船頭はこれを見て、帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡ろうと声を帆に挙げて(帆を高く上げるように声を張り上げて)押したけれども、時節に風が弛(たゆ)み塩向けて(潮の流れが舟の進む方向と逆に流れて)御舟は更に進まない。水手・舵取りはどうしようかと慌て騒いでいる間に、主上は船を底から御出でなされて、膚の御守りから仏舎利を一粒取出させ給いて、御畳紙の上に乗せて浪の上にぞ浮かべられた。 龍神がこれにぞ納受なされたのか、海上は俄かに風が変わって御座船を東に送り、追っ手の舟を西に吹き戻した。 さてこそ主上は虎口の難を御遁れ有りて、御舟は伯耆の国名和湊に倒着したのだ。 勅使を 名和長年に派遣 長年の決意 主上を奉戴して 船上山に籠る 六条少将忠顯朝臣ただ一人が先ず船から下り給いて、この辺には如何なる者か弓矢を執って人に知られているかと問いなされたところ、道行く人が立ちやすらいて、この辺には名和又太郎長年と申す者が、その身は指して名のある武士で候わねども、家が冨み一族が広くして心嵩(こころがさ、思慮に富む事)有る者で候、とぞ語ったのだ。 忠顯朝臣はよくよくその仔細を尋ね聞いて、やがて勅使を立てて仰せられけるのは、主所は隠岐判官の舘を御遁れ有って今この湊に御座有る。長年の武勇を兼ねて上聞に達せし間、御頼み有るべき由を仰せ出でられける。御依頼に応じるか否か、速やかに勅答申すべし、と仰せられたのだ。名和又太郎は折節に一族共を呼び集めて酒を飲んでいたのだが、この由を聞いて案じ煩いたる気色であり、兎も角申し得ざるのを、舎弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、申しけるは、古より今に至るまで人が望む所は名と利とのふたつでありまする。我等は忝くも十善の君に頼まれ参らせて、屍(壁ね)を軍門に曝すとも名を後代に残さん事は生前(しょうぜん)の思い出で、死後の名誉足るべし。ただ一筋に思い定めさせ給うより外の義あるべしとも存じ候わず、と申しければ、又太郎を始めとして一座に候ける一族共の二十余人、皆がこの義に同じたのだ。 さらばやがて合戦の用意候べし。定めて追っ手も跡から懸かって候らん。長年は主上の御迎えに参ってただに船上山に入れ参らせん。かたがたは直ぐに出発して、船上(ふねのうえ)に御参候べし。と、言い捨てて、鎧を一縮して(鎧を着ること)走り出た。一族の五人も腹巻を取って投げかけ投げかけして皆が高紐(たかしぼ)を締めて、共に御迎えにぞ参じたのだ。 俄かの事で御輿なども無かったので、長重が着ていた鎧の上に荒薦を巻いて、主上を負い参らせ鳥が飛ぶが如くに舟上(ふなのうえ、船上山の上にある家)に入れ奉る。 長年は近辺の在家(田舎の家)に人を廻して、思う事があって、舟上に兵粮を上げる事がある。我が倉の内にある所の米穀を、一荷を持って運び来らん者には銭を五百づつ取らすべし。と、触れたりける間、十方から人夫が五六千人が出で来たりて、我劣らじと持ち送ったのだ。
2026年04月02日
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河野謀反の事 土居、得能 宮方となり、長門探題を破り 四国を風靡する 六波羅探題では、一方の打手にはと頼まれた宇都宮は、千剱破(ちはや)の城に向いつ、西国の勢は伊東に支えられて、上り得ず、今は四国勢を摩耶の城へと向かうべしと、評定せられける所に後の二月四日、伊豫の国から早馬を立てて、土居二郎・得能弥三郎が宮方となって機を挙げ、當国の勢を相付けて土佐の国へと打ち越した所に、去月十二日に長門の探題・上野介時直(ときなお)が兵船(いくさぶね)三百余艘にて当国に推し渡り、星岡(ほしがおか、愛媛県にある)にて合戦を致す所に、長門・周防の勢が一戦に打ち負けて、死人・手負いの者はその数を知らず。 あまつさえ、時直父子は行き方が知れない云々。 其れより後には、四国の勢は悉くに土居・得能に属する間、その勢は既に六千余騎、宇多津(うたつ、香川県の坂出市と丸亀市との間にある)・今治(いまばり)の湊に舟を揃え、ただ今責め上らんとぞ企て候。御用心あるべしと、告げたのだ。 先帝 船上臨幸の事 佐々木清高の警護 佐々木義綱 島からの 出御を勧Sめる 義綱 出雲に赴き、帰らず 御所を忍び出でらる 畿内の軍がまだ静かにならないのに、また四国・西国が日を追って乱れたので、ひとの心は皆薄氷を踏んで、国が危うい事は深淵に臨むが如きである。 そもそも天下がかくの如くに乱れるのは、偏に先帝(後醍醐天皇)の宸襟(しんきん、天皇の御心、叡慮)から事が起こっている。 もし逆徒(北条氏に対して反逆する人々)が北條氏の警護の武士と入れ違いに、島に入り込んで先帝を奪い取り奉らんとする可能性もあるので、相構えてよくよく警固仕るべしと隠岐判官の許に下知せられたので、判官は近国の地頭・御家人を催して日番・夜回り隙もなく宮門を閉じて警固し奉る。 閏の二月下旬じは佐々木富士名(なの)判官の番であり、中門(宸殿・正殿と外門の間の門)の警護であったけれど、いかが思いけん、哀れ、この君を取り奉りて謀反を起こさばやと思う心がついたのだ。されども、申し入れるべき便りも無くて案じ煩いける所に、ある夜にお前から官女を以て御盃を下されたのだ。 判官はこれを給わって、良き便りであると思いければ密かにその官女に付けて申したのは、上様には未だ知ろし召し候わずや、楠兵衛正成は金剛山に城を構えて立てこもり候所に、東国勢が百万余騎で上洛して、去りぬる二月の始めから、責め戦うと言えども城は剛(つよ)くして寄せ手は既に引き色になって候。又、備前では伊東大和二郎、三石と申す所に城を構えて、山陽道を差し塞ぎ候。 播磨では、赤松入道圓心が宮の令旨を給わりて、摂津の国まで攻め上り、兵庫の摩耶と申す所に陣を取って候。その勢は既に三千余騎、京を縮め地を略し、勢いを近国に振るって候。 四国では河野の一族に、土居二郎、得能弥三郎、が味方に参って旗を揚げ候所に、長門の探題・上野介時直、彼に打ち負けて、行方が知れずに落ち行きし後には、四国の勢は悉く土居・得能に属し候間、既に大船を揃えて此処へ御迎えに参り候とも聞こえ候。 先ず、京都を責めるべきとも披露しておりまする。 御聖運は既に開けるべき時はもう参っておりまする。義綱が登板の間に、忍びやかに御出で候いて千波(ちぶり、隠岐の最南端)の湊から御舟に召されて、出雲・伯耆の間、何れの浦にも風に任せて御舟を寄せられ、しかるべき適当と思われる武士を御頼み候て暫くお待ち候え。義綱は恐れながら責め参らせん為に罷り向う体にて、やがて御味方に参り候。とぞ、奏し申しける。 官女がこの由を申し入れければ、主上はなおも彼が偽って申すのではないかと思召されて、義綱の志の程をよくよく御覧ぜられるために、かの官女を義綱に下されたのだ。 判官は面目身に余りて覚えける上に、最愛又甚だしければ、いよいよ忠烈の心を表しける。 さらば、汝、先ず出雲の国に越して、同心すべき一族を語らいて御迎えに参れ、と仰せ下されける程に義綱は則ち出雲に渡って、塩冶(えんや)判官(近江判官真清の子、高貞)を語らったのだが塩冶はどう思ったのか、義綱を部屋に閉じ込めて置いて、隠岐の国には帰さないのだ。 主上はしばらくは義綱を御待ち在りけるが、余りに事が滞ったので、ただ運に任せて御出であらんと思召して、或る夜の宵の闇の紛れに三位殿の御局の御産が近づいたとて御所を御出である由にて、主上はその御輿に召され、六条の少将忠顯朝臣ばかりを召し具して密かに御所を御出でありける。 この體にては人が怪しみ申すべき上に、駕輿丁(御輿を舁く者)もいなかったので、御輿を止められて忝くも十善の君(天子)みずからが玉蹠を草鞋の塵に汚して、みずから泥土の地を踏ませ給いけるこそ浅ましけれ(御気の毒で見苦しい)。 千波湊に御到着 商人船にて 出帆せらる 頃は三月二十三日の事であるから、月待ちの程の暗い夜に、そことも知れない遠い野の道を案内も分からずに迷いながら歩るかせなさるので、今は遥かに来たものであるよと思召されたので、後にある山は滝の響きがほのかに聞こえる程である。 もしや後を追って来る者もあるだろうかと、恐ろしく思召されたので、一足でも前にと御心ばかりは進めども、何時ならわせ賜わぬ道(過去にも、将来にも習う事がない道程)であるから、夢路を辿る心地がして、ただ一所にばかりお休み成されているので、こは、如何にせんと思い煩い、忠顯朝臣は御手を引き、御腰を押しして、今宵はどうにでもして湊近くまで心を遣りなさるのだが、心身共に疲れ果てて、野径の露に徘徊する(うろつき回る)。 夜がいたく更けにければ、里遠からぬ鐘の声が月に和して聞こえるので、それを道しるべにして尋ね寄って、忠顯朝臣が或る家の門をたたいて申しけるは、千波(ちぶり)の湊へはどのように行けばよいだろうか、と聞いた所、内から怪しげなる男が一人出で向って、主上の御有様を見参らせけるが心なき田夫野人ではあるが、何となく痛ましく思い参らせたのか、千波湊にはここから僅かに五十町程ではあるが道は南北に分かれて、如何様お迷いなされるであろうと存じ候えば、御道しるべを仕り候わん、と申して、主上を軽々と背負い参らせて、程も無く千破港にぞ着きにける。
2026年03月31日
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船田入道は 謀を以て 大塔宮の令旨を 拝戴する 義貞は本国に 下る その翌日、舟田は己の若党を三十余人程、野伏の姿に身支度をさせて、、夜中に葛城(かつらぎ)峰に上らせて、わが身を落ちて行く勢の真似をして、朝まだきの霞隠れに、追いつ返しつ半時ほど味方同士の軍をしたのだった。 宇多・内の郡の野伏共がこれを見て、、味方の野伏であると心得て、力を合わせる為に他所の峰から降り合って、近づいた所を舟田の勢の中に取り籠めて、十一人まで生捕ったのだ。 舟田はこの生捕り達を解き放って、密かに申したのは、今、汝等をたばかって搦め取りたる事全く誅せん為ではない。新田殿が本国に帰り、御旗を揚げようと致して居るが、令旨がなくては叶うまじく候ので、汝等に大塔の宮の御座所を尋ね問う為に、召し取ったのだ。 命が惜しいのであれば案内して、こなたの使いを連れて宮の御座ある所に参れ、と申しければ、野伏共は大いに悦んで、その御意にて候わばいと安かりける事にて候。この中に一人暫く暇を給わり候え、令旨を申し出でて参らせ候わん。と、申して残りの十人をば留め置いて一人が宮の御方へと参ったのだ。 今や、今やと相待つ所に、一日経って令旨を捧げて来たのだ。 開いてこれを見ると、令旨ではなくて、綸旨(りんじ、天皇が下にたいして言われる言葉)の文章で書かれていた。 その詞に曰く、綸言を蒙りていわく、化を敷き、万国に理するは明君の徳である。亂を治めて四海を鎮めるは武臣の節(みさお)である。項年(年来)の際(あいだ)高塒法師の一類は朝権をないがしろにして恣(ほしいっま)に逆威を振い、積悪の至り、天誅は既に顕れている。ここに累年の宸襟を休めん為に、まさに一挙の義兵を起こさんとする。叡感は最も深くして抽賞(他に勝れた褒美)何ぞ浅からん。早く関東征伐の策を廻らして、天下の静謐の功を致すべし。綸旨はかくの如し。よって執達は件(件)の如し。元弘三年二月十一日、左少将、新田小太郎殿。 綸旨の文章、家の眉目(びもく、面目)に備えるに値する有難い綸言であるから、義貞は斜めならずに悦び、その翌日から虚病(きょびょう、病気と偽り)して急ぎ本国へと下られける。 紀清の両党 千剣破城の寄せ手に 加わる 山を掘り崩さん事を 企てる 宗との軍をしつべき勢共はとのかくに事を寄せて、国へ帰ったのだ。 兵糧運送の道は絶えて、千剣破(ちはや)の寄せ手、意外に気を失っている由が聞こえたので、また六波羅から宇都宮公綱をぞ下された。 紀清(下野宇都宮神社に奉仕した紀氏、清原氏の子孫で宇都宮氏に従属する。伝説によれば、頼朝の時に、清原氏が絶えて、紀高俊が両党の旗頭となり、芳賀氏と芳賀氏と称した。宇都宮の系図に依れば、清原氏である芳賀氏、及び、紀氏である益子・ましこ氏と婚姻を結んでいる)の両党、千余騎、寄せ手に加わって、いまだ屈していない新手であるから、やがて堀の際迄攻め上って、夜昼共に少しも引退しなかったので、十余日までぞ攻めたのだ。 この時にぞ、堀の際の鹿垣・逆茂木が皆引き破られて、城も少し防ぎ兼ねたる體にぞ見えたりける。 されども、紀清の者とても班足王(インド神話に出て来る摩且掲陀・まかだ国の王。その父が雌獅子と交わって生んだと伝える。足に斑紋があったので、班足と言われた。性獰猛で飛行自在、王位に就いて後も好んで人肉を喰い、遂には羅刹・らせつの国に入って鬼王となったと言う)の身を借りていないから天を翔ける事も出来ない。 龍伯公(竜伯国の大人は身長が三十六丈、一万八千歳もいきて初めて死ぬと言うが、釣りをしては亀を六匹合わせて、これを背負って飛行すると言う)の力を得てはいないので、山をも劈(つんざ)き難し。あまりに仕方がなかったのだろう、面に居る兵には軍をさせて後ろなる者は手に手に鋤・鍬を以て、山を掘り崩さんとぞ企てたのだ。 げにも大手の櫓をば夜昼三日の間に念なく(楽に)掘り崩してしまった。 諸人がこれを見て、唯始めから軍を止めて、掘った方がよかったのに、と後悔して我も我もと掘ったのだが、周りが一里に余る大山であるから、左右なく堀ずせるとは見えなかった。 赤松 蜂起の事 赤松円心 山陽、山陰 を塞ぐ さるほどに、楠が城が強くして、京都は無勢なりと聞こえたので、赤松次郎入道圓心は播磨の国苔縄の城から打って出て、山陽・山陰の両道を差し塞ぎ、山里(やまのさと)・梨原の間に陣を取った。 伊東大和次郎、赤松に加担する ここに備前・備中・備後・安藝・周防の勢共、六波羅の催促に依って上洛した。 三石(みついし)の宿に打ち集まって、山里の勢を打ち払って通ろうとしたのだが、赤松筑前守(円心の次男)が舟坂山で支えて、宗との敵二十四人を生け捕ったのだった。 しかれども赤松はこれを討たせないで、情深く相交わったのだ。それで伊東次郎入道はこれを恩に感じて、忽ちに武家与力の志しを変じて、官軍に合体の思いをなしたので、先ずは己の舘の上にある三石山に城郭を構えて、やがては熊山に取り上りて義兵を挙げたので、備前の守護加冶源二郎左衛門は一戦に利を失って、兒嶋(こじま)を指して落ちて行く。 これからは西国の路が愈々塞がって、中国での動乱は斜めならず。 赤松は軍を勧め、摩耶山に城郭を構える 西国から上洛する勢をば、伊東(大和二郎惟群)に支えさせて、後ろは思い(心配)がないので、赤松はやがて高田兵庫助の城を責め落して、片時も足を休めず、山陰道を目指して責め上った。 路地の軍勢が馳せ加わって、程なく七千余騎になったのだ。 この勢で六波羅を攻め落とす事は案の内(おもった通りになる事)ではあるが、もしも戦いで理を失う事があれば、引き退いて暫く人馬をも休めん為に、兵庫の北に当たって、摩耶と言う山寺がある所に先ず城郭を構えて、敵を二十里の間に縮めたのだ。
2026年03月30日
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名越 叔父甥 賽の目を爭って 闘い死す 是より後はいよいよ、合戦を止めたる間、諸国の軍勢は徒に城を守り上げていたるだけで、爲るわざはひとつも無かった。 ここに、どのような者が読んだのであろうか、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前に立ったのだ。 他所にのみ 見てや止みなん 葛城の たかまの山の 峰の楠 軍も無くてそぞろに向い居たる徒然に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城どもを呼び寄せて、様々な遊びをぞせられたり。 名越遠江入道と同じく、兵庫助とは伯父と甥にておわしけるが、共に一方の大将であり、責め口近くに陣どって、役所を並べてぞおわしける。 或時に、遊君の前で双六を打っていたが、賽の目を論じていささか詞の違いが生じたのか、伯父と甥が二人が突き違えて死なれける。両人の郎従者どもは何の意趣もないのに、刺し違え、刺し違えて、片時の間に死する者が二百余人に及んだ。 城の中からこれを見て、十善の君(天子)に敵をし奉る天罰により、自滅する人々の有様を見よ。とぞ笑ったのだ。誠にこれはただ事ではない。 天魔(常に正法を害し、智恵・善根を喪失させるもの欲界の頂上、第六天の主、また一に波旬とも言う)波旬の所業かと覚えて浅ましかりし珍事である。 寄せ手 梯子を作って 城中に入らんとして 焼死す 同じく元弘三年(1333年)三月四日、関東から飛脚が到来して、軍を止めて徒に日を送ることはしかるべからず。と、下知したので、宗との大将達で評所があり、味方の向かい陣と敵の城の間に高く切り立てた堀に橋を渡し、城へ打って入らんとぞ巧んだのだ。 この為に京都から番匠(ばんしょう、一般の大工の称)を五百余人召し下して、厚みが五六寸から八九寸の材木を集めて、広さが一丈五尺、長さ二十丈余りに架け橋を作らせたのだ。 梯を既に作り出したので、大縄を二三千筋付けて車木をもって巻き立て、城の切り崖の上に倒し懸けたのだ。 魯般(ろはん、魯の国の公輪般の事で、楚王が宋を攻める時に、楚の為に雲梯(雲に届く程高くなる仕掛けの梯を作ったという)が雲の梯(かけはし)もこの様であったかと巧みである。 やがて、心が逸り勇む兵共が五六千人が橋の上を渡り、我先にと進んだのだった。 あわや、この城はただ今打ち落とされるだろうと見えた際に、楠は兼ねて用意をしていたのであろう、投げ松明の先に火を付けて、橋の上に薪を積んだように投げ集めて、水弾き(ポンプ)で油を瀧が流れるように懸けた。火は橋桁に焼き付いて渓風が炎を吹き敷いたのだ。 なまじに渡りかけていた兵共は、前に進もうとすれば、猛火が盛んに燃えて身を焦がす。帰ろうとすれば後陣の大勢が前の難儀をも知らずに支えている。 側に飛び降りようとすれば、谷は深く巌が聳え立っている。肝を冷やしてどうしようかと身を揉んで押し合っている間に、橋桁が中から燃え折れて谷底へどうと落ちたので、数千(すせん)の兵共は同時に猛火の中に落ち重なって、一人も残らずに焼け死んでしまった。 その有様はひとえに八大地獄の罪人が刀山剱樹に貫かれ、猛火鉄湯に身を焦がすのもこのようであろうと思い知らされたのだ。 寄せ手は 次第に 遁走する さるほどに、吉野・十津河・宇田・内部の野伏共、大塔の宮の命を含んで、相集まること七千余人、この峯が彼処の谷に立ち隠れて、千劒破(千早)の寄せ手共の往来の路を差し塞ぐ。 これに依って、諸国の兵の兵糧は忽ちに尽き、人馬共に疲れてしまったので、轉漕(てんそう、兵粮を水陸から運送する事、陸から人馬で運ぶのを転、海から舟筏で運ぶのを漕と言う)に耐えかねて百騎・二百騎が引いて帰るところを案内者の野伏共が所々の要所要所に待ち受けて打ちとどめたので日々夜々に討たれる者は数を知らず。 稀有にして命ばかりは助かる者は、馬・物の具を棄て、衣装をはぎとられて裸であるから、或いは破れたる蓑を身に纏い、膚(はだえ)だけを隠し、或いは草の葉を腰に巻いて恥をあらわした落人共、毎日に引きも切らずに十方に逃げ散る。 前代未聞の恥辱である。 されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は皆この時に至りて失ったのだ。 名越遠江入道、同(おなじき)兵庫助の二人は詮無く口論して、共に詞に賜いぬ。その外の軍勢共親が討たれれば、子は髻(もとどり)を切って僧の姿になって失せ、主が傷を蒙れば、郎従が助けて引き帰えしたので始めは八十萬騎と聞こえたのが、今は僅かに十万余騎になってしまったのだ。 新田義貞(にったよしさだ)賜綸旨(りんし、蔵人が勅命を奉じて書い手出す公文 書)事 新田義貞が心中を執事の船田入道に語る 上野の国の住人新田の小太郎義貞と申すのは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家である。しかれども平氏(へいじ)が世を執って四海が皆その威に服する時節であったから、仕方なく関東の催促に随って金剛山の搦手に向われたのだ。 ここに如何なる所存が出てきたのであろうか、或る時に執事(主家の事務を執行する者)新田入道義昌(よしまさ)を近づけて宣いけるは、古(いにしえ)より源平の両家が朝家に仕え、平氏が世を乱す時は源氏がこれを鎮め、源氏が上を侵す日は平氏がこれを治めた。 義貞は不肖なりと言えども、当家の門木偏の眉(もんび、首領、棟梁)として譜代弓矢の名を汚してしまった。 しかるに今相模入道の行迹を見るに、滅亡は遠くにはない。吾、本国に帰って義兵を挙げ、先朝(後醍醐天皇)の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らなくては叶うまい。 どうにかして大塔宮の令旨(りょうじ、皇太子・三宮・女院・親王などが出される書)を給わってこの素懐を達すべし、と問い給いければ、舟田入道は畏まって、大塔宮はこの辺の林の中に忍んで御座候なれば、義昌、方便を廻らして、急いで令旨を申し出候べしと、事安げに了承申して己の役所に帰ったのだ。
2026年03月27日
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楠は元来、勇気智謀共に相兼ねたる者であるから、この城拵える始めに用水の便りを見た所、五所の秘水とて、峰を通る山伏が秘して汲む水がこの峯にはあって、滴たる事一夜に五斛(石と同じ)ばかりである。この水は如何なる旱(ひでり)にも干ることはないので、形の如くに人の口中を潤すことは間違いがないのであるが、合戦の最中には或いは火矢を消す為に、又喉の渇くことが繁ければ、この水だけでは不足するであろうと、大いなる木を以て水舟(水桶)をニ三百造らせて、水を湛えて置いたのだ。 又、数百か所作り並べたる役所の軒に継樋を懸けて、雨が降れば雨だれを少しも余さずに、舟(水槽)に受け入れて、舟の底には赤土を沈めて、水の性を損じないように拵えさせたのだ。 この水を以てたとえ五六十日雨が降らなくとも必ず持ちこたえるに相違はなかった。その中にどうして雨が降らない事があろうか。と、料簡したる智慮こそは浅くはないのだ。 されば、城よりは谷水を汲もうともしなかったので、水を防いでいた兵共は夜毎に機を詰め(心を張り詰め)て今や今やと待ち懸けけるが、始めのことこそありけれ後には次第次第に心が怠り、機が緩んで、この水を汲まないのだと用心の軆少し無沙汰にぞなりにける。 楠はこれを見済まして、屈強の射手を揃えて、二三百人を夜に紛れて城から降ろして、まだ東雲が明け果てない霞隠れから押し寄せて、水辺に攻めていた者共のニ三十余人を切り伏せて、透間も無く切ってかかったので、名越越前守は堪えかねて、元の陣へと引かれたのだ。 寄せ手の数萬の兵はこれを見て、渡り合わせんとひしめいたが、谷を隔て、尾を隔てた道であるからたやすく駆せ合わせる兵もいない。 とかくしけるその間に、捨て置かれたる旗や大幕なんどを取り持たせて、楠の勢は閑(しずか)に城の中にぞ引き入りける。 正成 分捕った旗・幕を以て 時有を辱める 時有の軍勢は城の下に迫り 大木に圧死する その翌日に城の大手に、三本の唐傘の紋を書いた旗と、同じき文の幕とを引いて、これこそは皆名越殿から賜り候つる御旗にて候ぞや。御文が付いて候間、他人の為には無用にて候。御中(みうち)の人々はこれへお入り候て召され候かし。と、言って、同音のどっと笑いければ、天下の武士共がこれを見て、あわれ、名越殿の不覚である、と口々に言わない者はない。 名越一家の人々はこれを聞いて、安からぬことに思ったので、當手の軍勢共は一人も残らず城の木戸を枕にして、討ち死にをせよ、とぞ下知されたのだ。 これに依って彼手の兵の五千余人、思い切って討つとも射るともを用いずに、乗り越え、乗り越え城の逆茂木を一重引き破って、切岸の下まで攻めたりける。 されども岸は高く切り立っているので矢永に思えども登り得ず、ただ徒に城を睨み、怒りを抑えて息継ぎ居たる。 この時に城の中から、切岸の上に横たえて置いた大木十ばかり、切って落としたのだ。将棋倒しをする如くに寄せ手の四五百人、押しに討たれて死んだのだ。 これに違わんとしどろになって騒ぐ所に、十方の櫓から指落としを思う様に射たので、五千余人の兵共は残り少なに討たれて、その日の軍は果てにけり。誠に志の程は猛かったのだが、但し、でかしたる事も無くて、若干討たれてしまったので、あわれ、辱の上の損である、と、諸人の口ずさみは矢張りやまない。 尋常ならぬ戦いの様を見て、寄せ手も侮りにくくや思ったのか、今は始めのように勇み進んで、攻めんとする者もなかった。 寄せ手は 軍を止めて 食攻めにす 連歌などの遊びに日を過ごす 藁人形の奇計 長崎四郎左衛門尉がこのありさまを見て、この城を力責めにすることは人がうたれるばかりであり、その功はなり難い。ただ取り巻いて、食(じき)責め(兵糧攻め)にせよ、と下知して、軍をやめられければ徒然(とぜん、退屈、つれづれ)に皆が堪えかねて、花の下の連歌師共を京都から呼び下し、一万句の連歌をぞ始めたのだ。 その初日の発句をば、長崎九郎左衛門師宗、 先懸けて かつ色見せよ 山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門の尉が、 嵐や 花の敵なるやんとぞ付けたのだ。誠に両句共に詞の縁が巧みで、句の體は優であるが、味方をば花に成し、敵を嵐に譬えたので、禁忌なりける表事かなと後にぞ思い知られける。 大将の下知に随って、軍勢が皆軍を止めてしまったので、慰める方法が無かったからか、或いは碁・双六を打ちて日を過ごし、或いは百服茶・褒貶の歌合わせなどを弄び、夜を明かす。 これによって城中の兵達は中々悩まされた心地がして、心を遣る方もなかったのだ。 少し程経て後に、正成は、いで、さらば、又寄せ手をたばかりて居眠りを醒ましてやろう。とて、芥を以て等身大の人形を二三十作って、甲冑(かっちゅう)を着せて兵仗(ぶき)を持たせて夜中に城の麓に立ち置き、前には畳楯をつき並べてその後ろには選りぬいた兵を五百人を交えて、夜がほのぼのと明ける霞の下で、同時に鬨の声をどっと挙げたのだ。 四方の寄せ手は鬨の声を聞いて、すはや、城の中から打ち出でたるぞ。是こそは敵の運が尽きた所の死に物狂いだ、とて、我先にとぞ攻め合わせける。 城の兵は兼ねて巧んだことであるから、矢軍を少しばかりしてから大勢を相近づけて、人形だけを木隠れに残して置いて、兵は次第次第に城の上にと引き上げた。 寄せ手は人形を實(まこと)の兵とぞ心得て、これを撃とうと相集まった。 正成は所存の如くに敵をたばかり近づけて、大石を四五十程を一度にぱっと発したのだ。 一所に集まった敵の三百余人は矢庭に打ち殺されて半死半生の者は五百余人に及んだ。 軍がはててこれを見れば、哀れ、大剛の者かなと見え一足も引かなかった兵は、皆人では無くて藁で作った人形であったのだ。これを討とうとして相集まって石に打たれ矢に当たって死んだのは高名ではない。 又しれを危ぶんで進み得なかったのも臆病の程が顧みられて、言う甲斐もない。唯、とにもかくにも万人の物笑いにぞなりにける。
2026年03月26日
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これ程に言う甲斐のない御所存で、天下の大事を思し召し立たされた事はうたてなり。はや、その物の具を脱がせ給え。と、申して、御鎧の上帯を解き奉れば、宮、げにもとや思召されたのか、御物の具・鎧直垂迄脱ぎ変えさせ給いて、我がもしも生きながらえたならば、汝の後生をともらうであろう。共に敵の手にかかるならば、冥途までも同じ岐(ちまた)に伴うであろう。と、仰せられて、御泪を流させ給いながら、勝手の明神の御前を南に向かって落とさせ給わば、義光は二の木戸の高櫓の上に上り、遥かに見送り奉りて、宮の御後影がかすかに隔たり給いぬるを見て、今はこうと思いければ櫓のさまの板を切り落として、身をあらわにして、大音声を挙げて名乗りをあげた。 天照太御神の御子孫、神武天皇から九十五代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子、一品兵部卿親王尊仁(そんにん、尊運の誤りか、ここは俗名の護良とあるべきである)、逆臣の為に滅ばされて恨みを泉下に報ぜん為に、ただ今自害を致す。その有様を見置いて、汝等が武運が忽ちに尽きて腹を切る際の手本に致せ。 と、言うままに鎧を脱いで櫓から下に投げ落として、錦の鎧下垂れの袴ばかりに煉り貫の二小袖を押し膚脱いで、白く清げなる膚に刀を突き立てて左の脇から右の側腹(脇腹)まで一文字に掻き切って、腸(はらわた)を掴んで櫓の板に投げつけ、太刀を口に咥えてうつぶせになりてぞ伏せたのだった。 大手・搦手の寄せ手はこれを見て、すはや、大塔の宮が御自害なされたぞ。吾こそ先に御頸を給わらん、とて、四方の囲みを解いて一所に集まった。 その間に宮は、刺し違えて、天の河へぞ落ちなされたのだった。 南から廻った吉野の執行(しつぎょう)の勢五百余騎、多年の案内者であるから道を横切り、かさに回りて(相手を威圧する勢いで)、打ち留め奉らんと取り込める(包囲する)。 村上彦四郎義光の子息、兵衛蔵人義隆は、父が自害した時に、共に腹を切ろうとして二の木戸迄馳せ来ったのではあるが、父が大いに諫めて、父子の義はさることではあるが、しばらく生きて宮の先途を見届け参らせよ。と、庭訓を遺したので、力なく暫くの命を延べて、宮の御伴にぞ候いける。 落ち行く道の軍(いくさ)、事は既に急であり討ち死にしなければ、宮は落ち得させ給わぬと覚えければ、義隆ただ一人が踏みとどまって、追ってかかる敵の馬の諸膝を薙いでは切り据え、平頸を切っては刎ね落させて、九折(つづらおり)の細道に五百余騎の敵を相受けて、半時ばかりを支えたのだ。 義隆、節(節義)、石の如きとは言え共、その身は金鉄ではないので、敵が取り巻いて射た矢に既に十余箇所に傷を受けていた。 死ぬるまではやはり敵の手にはかかりたくはないと思ったのか、小竹の一村がある中に走り入って、腹をかき切って死んだのだ。 村上父子が敵を防ぎ、討ち死にしたその間に、宮は虎口に死を御遁れありて高野山へぞ落ちさせ給いぬ。 宮 高野山の隠れる 道薀 これを求む 出羽入道々薀は、村上が宮の御真似をして腹を切ったのを真実(まんまこと)と心得て、その首を取って京都に上せ、六波羅の実検に晒した所、ありもあらぬ者の首であると申す。 獄門に曝すまでもなくて、九原(きゅうげん、元、中国の墓地)の苔に埋もれたのだ。 道薀が吉野の域を攻め落したのは、専一の忠戦ではるが、大塔の宮を打ち漏らしたので、なお安からず思ってやがて高野山に押し寄せて、大塔の陣を取って、宮の御在所を求めたけれども、一山の衆徒は皆心を合わせて宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨は甲斐がなくて、千劒破(ちはや)の城へぞ向かったのだ。 千劒破城 軍の事 大軍が千劒破の城を囲む 千劒破城(大阪の東南、南河内郡千早赤阪村金剛山にあった城。金剛山の城とも言う)の寄せ手は前の戦で関東から向かった八十萬騎(ぎ)に、さらに赤坂の勢や吉野の勢が馳せ加わって、百万騎の余ったので、城の四方の四五里の間は見物相撲の場の如くに打ち囲んで、尺寸の地も無く充満していた。 旌旗が風に翻って靡く気色は秋の野の尾花の末よりも繁く、剱戟が日に映じて耀く有様は、暁の霜が枯草に布せるが如くである。 大軍が近づく所には山勢がこれが為に動き、鬨の声が震わせる中には坤軸(地軸)須庾に挫けた。 この勢いにも恐れずに、僅かに千人に足りない小勢で以て誰を頼み、何を待つともなく城中に堪えて防ぎ戦った楠の心の程ぞ不敵であるよ。 正成 寄せ手を 悩ます この城、東西には谷が深く切れて、人が上がるべき様もない。南北には金剛山に続いて、しかも峰が絶えている。 されども高さは二町程で、周りは一里に足りない小城であるから、何ほどの事があるだろうと寄せ手はこれを見侮って、初めの一両日の間は向い陣(敵陣に対して構えた陣)をも張らずに、責め支度をも用意せずに、我先にと城の木戸口の辺まで槍をかづき連れ立って、上って来たのだ。 城中の者共は少しも騒がずに、静まりかえり、高櫓の上から大石を投げかけ投げかけして、楯の板を微塵に打ち砕いて、漂う(慌て落ち着かぬ様)所を差し詰め差し詰めして矢を射たので、両方の板から転び落ちて、落ち重なり手負いになり、死を追いたす者は一日の間に五六千人に及んだ。 長崎四郎左衛門尉は軍奉行であったから、手負い死人の実検をしたところ、執筆(しつひつ、書記、右筆とも言う。戦争の時その他で諸事を記録する役)の十二人が夜昼に筆も置かずに注した。さてこそ、今から後は大将の御許しなくては合戦をする輩は却って罪科に行うべしと、触れられたので、軍勢は暫く軍を止めて、先ず己の陣々を構えたのだ。 金沢右馬之助の謀 名越時有 城兵が水を汲むのを待つ 正成の水に対する用意 有時の軍勢が敗走する ここに赤坂の大将金澤有時右馬助、大佛奥州に向って宣(のたま)いけるは、前日に赤坂を攻め落した事は全く士卒の高名ではない。城中の構えを推し出だして、水を止めて候しに依って敵は程も無く降参し候。これを以てこの城を見候に、これほど僅かな山の頂に川水があるとも覚えず。又挙げ水などを他所の山から懸けるべき便りも候わぬのに、城中に水が沢山にあるように見えるのは如何様、東の山の麓に流れ来る谷水を夜々に汲むかと覚え候。哀れ、宗徒の人々一両人に仰せつけられてこの水を汲ませぬように御計らい候え。と、申しければ、両大将(まえの大仏奥州を指す)、この義然るべく覚え候とて、名越越前の守を大将として、その勢三千余騎を指し分けて、水の辺に陣を取らせ、城から人が降りぬべき道々に逆茂木を懸けて待ち懸けた。
2026年03月24日
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城 落ちず 同(おなじき)十八日の卯の刻(午前六時)に両陣が互いに矢合わせをして、入れ替え入れ替え責め戦う。 官軍は物馴れた案内者であるから、此処の詰まり(道の行き詰まり)彼処の難所に走り散って、責め合わせ開き合わせて散々に射た。 寄せ手は生死不知の坂東武者であるから、親子が討たれても顧みず、主従が滅んでも物の数とせずに乗り越え、乗り越えして責め近づく。 夜昼、七日の間、息をも継がずに相戦う。城中の勢三百余人が打たれたので、寄せ手も八百余人が討たれたのだ。 況(いわん)や、矢に当たり石に打たれて生死の際(あいだ)を知らない重傷者は、幾千萬とも数を知らず、血は草介を染め、尸(かばね)は賂徑(ろけい、小道)に横たわる。 されども、城の體が少しも弱らないので、寄せ手の兵は退屈(草臥れる、だれる)して見えたのだ。 吉野の執行者・菊丸の謀 城兵の敗北 ここに、この山の案内者とて一方に向われたりける吉野の執行岩菊丸は、己の手の者を呼び寄せて申しける、東條の大将・金澤右馬助殿は既に赤坂の城を攻め落して金剛山に向われたりと聞こえる。当山の事、我ら案内者たるに依って、一方を承って向いたる甲斐もなく、責め落す事なくて数日を送ったのは遺恨である。 つらつらと事の様を案ずるに、この城を大手から責めれば人のみ討たれて、落とす事はあり難し。推量するに、城の後ろの山・金峯山(きんぶせん、奈良県の吉野山の最高峰)には険しさを頼んで敵はそれほどに兵を置いているとは覚えない。 物馴れていると思われる足軽の兵を百五十人を選抜して徒歩立ちとして、夜に紛れて金峯山から忍び込み、愛染寶塔の上で夜がほのぼのと明ける際に、鬨の声を挙げよ。 城の兵は鬨の音に驚いて、度を失う時に大手(表門)搦手(裏門)の三方から攻め上って城を攻め落して宮を生け捕りにし奉るべし。とぞ、下知したのだった。 さらばとて、案内を知った百五十人を選りすぐって、その日の暮方から金峯山に廻らせて、岩を伝い谷を登る。 案の如く、山が険しいのを頼んでいるのか、ただここかしこの梢に旗ばかりを結わい付けて置いて、守るべき兵は一人もいない。 百五十余人の兵が思いの儘に忍び込んで、木の下岩の陰に弓矢を臥せて、兜を枕にして夜が明けるのを待ったのだ。 相図の頃になったので、大手の五万余騎三方から押し寄せて責め上った。 吉野の大衆(だいしゅ、大勢の僧徒、ここは蔵王堂の僧徒)責め口に下りあって防ぎ戦う。寄せ手も城の中も互いに命を惜しまずに戦う。 追いのぼせ、追い下して火を散らしてぞ戦いける。 こうしている所に金峯山(きんぷせん)から廻った搦手の兵(つわもの)百五十人が、愛染寶塔(あいぜんほうどう)から降り下って、在所在所(ここかしこ、至る所)に火を懸けて鬨の声を挙げたのだった。 吉野の大衆は前後の敵を防ぎ兼ねて、或いは自ら腹を掻き切り、猛火の中に走り入って死ぬ者もあり。或いは向かう敵に相んで、刺し違えて共に死ぬ者もいる。思い思いに討ち死みしたので大手の堀の一重は死人で埋まって平地になってしまった。 大塔の宮 最後の御酒宴 本寺相模の舞 村上義光 宮に代わって討ち死にする さるほどに、搦手の兵は思いも寄らずに勝手の明神の前から押し寄せて、宮が御坐ありける蔵王堂に打ちかかりける間、大塔の宮は今は遁れぬ所なりと思し召し切って、赤地の錦の鎧直垂に火威しのまだ巳の刻(午前十時の事だが、鬨の真ん中である正午よりも早い時刻と言う意味で、まだ新しい事)なるを隙間もなく召されて、龍頭の兜の緒を締め、白く栴檀を磨いた脛当てに三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に差し挟み、宮に劣らぬ兵を前後左右に二十余人を立て、敵が靉(むらだ)つて控えたる中に走り懸かり、東西を払い、南北に追い廻し、黒煙を立てて切って廻らせ給うに、寄せ手は大勢であるとは言えども僅かの小勢に切り立てられて、木の葉が風に散る如くに四方の谷に颯(さっ)と引いた。 敵が引けば、宮は蔵王堂の大庭(広場)に並み居させ給いて、大幕を打ち上げて最後の御酒宴があった。 宮の御鎧に立ちと頃の矢が七筋、御頬先、二の御腕に二か所に突かれさせ給いて血が流れる事は瀧の如くである。 然れども、立ったる矢を抜かれず、流れる血をも拭わず、敷き皮の上に立ちながら、大盃を三度傾けさせ給えば、木寺相模は四尺三寸の太刀の鋒(きっさき)に敵の頸をさし貫いて、宮の御前に畏まり、戈金偏の延(小矛・ちいさなほこ)劒戟(けんげき、剣と両側に枝の出たほこ。すなわち劒の意味)を振ることは電光の如くである。 盤石巌を飛ばす事は春の雨に相同じ。 然りとは言えども、天帝の身には近づかないで、修羅は彼の為に破られる。と、囃子を揚げて舞った有様は、漢・楚が鴻門に会した際に、楚の項伯(こうはく)と項荘とが剣を抜いて舞ったのだが、樊噲(はんかい)が庭に立ちながら、惟幕(いばく、陣屋)を掲げて項王を睨んだ勢いも、かくやと覚えるばかりである。 大手での合戦、事が急であると覚えて、敵味方の鬨の声相混じりて聞こえけるが、げにもその戦いに自ずから相当たることが多いと覚えて、村上彦四郎義光は鎧に立った矢十六筋、枯野に残る冬草が風に臥した如くに折り懸けて、宮の前に参りて申しけるは、大手の一の木戸言う甲斐も無く攻め破られ候間、二の木戸に支えて、数刻相戦いける所に、御所中の酒宴の声がすさまじく聞こえ候つるについて、かくはん参りつる。 敵は既に笠に取り上って、御味方は気が疲れて候なれば、この城にて功を立てる事、今は叶わじと覚え候。 未だ敵の勢を他所に回し候わぬ前に、一方から打ち破って一歩(ひとまど、一歩でも)落ちて御覧有るべしと存じ候。但し、後に残り留まり戦う兵が無くては御所が落ちさえ給う者なりと心得て、敵がどこまで続きて追いかけ参らせんと覚え候えば、恐れある事で候が、召されて候錦の御鎧下垂れと御物の具とを下したまいて、御諱(いみな)を犯して、敵を欺き御命に代わり参らせんと申しければ、宮は、どうしてそのような事があってよい物か。死ぬならば一所にこそ、兎も角ならめ。と仰せられける。それに対して、義光は言葉を荒らかにして、かかる浅ましき仰せ事が御座いましょうか。 漢の高祖が栄陽に囲まれた時に、紀信は高祖の真似をして、楚を欺かんと乞いし際に、高祖はこれを赦し成されましたぞ。
2026年03月23日
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城中の水を 絶つ 城兵は困却する 此処に播磨の国の住人、吉川八郎と申す者、大将の前に来て申しける、この城の為体(ていたらく)は力責めにし候は左右(そう)なく落ちるべからず候。 楠はこの一両年の間、和泉・河内を管領して若干(いくばく)の兵糧を取り入れて候なれば、兵糧も左右なく尽きないでありましょう。 つらつらと思案を廻らし候に、この城、三方は谷が深くして地には続いていない。一方は平地でしかも山は遠く隔たっている。されば、いずくに水あるべしとも見えないので、火矢を射るならば水弾き(ポンプの類)にて打ち消す筈です。 今の頃は雨がふることも候わぬに、これほどまでに水が沢山に候成はいかさま南の山の奥から地の底に樋を臥せて、水を懸け入れていると覚えそうろう。哀れ、人夫を集めて山の腰(麓に近い所)を掘り切らせ御覧候え。と、申した所、大将は、げにもとて人夫を集めて、城に続いた山の尾(裾の延びた所)一文字に掘り切りて見れば、案の如くに地の底に二丈余りの下に樋を臥せて傍に石を畳み、上には眞木(最良の檜)の瓦(樋の上にかぶせる蓋)を臥せて、水を十町余り他から懸けていたのだ。 この揚げ水を止められてからは。城中に水が乏しくなり、軍勢口中の乾きが忍びがたくなり、四五日程は草葉に置いた朝の露を嘗め、夜気に潤った地に身を当てて、雨を待ったのだが雨は降らない。 寄せ手はこれに利を得て、隙なく火矢を射たので大手(城の表門)の櫓を一つ焼き落としたのだ。 城中の兵は水を飲まずに十二日になったので、今は精力も尽き果てて、防ぐべき方便もなくなってしまった。 死にたる者は再び帰る事はない。さあ、どのようにしても結局は死ぬに決まっている命である。各々、力がいまだ落ちてしまわない前に、打ち出でて、敵と刺し違え、思うように討ち死にしようと、城の木戸を開いて同時に打ち出そうとするのを、城の本人(城主)平野将監(近衛府の第三等官)入道が高櫓から走り下りて、袖を控えて言ったのは、暫くは粗忽(軽率)の事をするでない。今はこれほどに力尽き咽が乾いて疲れてしまったので、思う(理想の)敵と相逢うことは有難い。名もなき人の中間(侍と小者の中間にあって仕えた雑兵、召使の者)・下部(しもべ、雑役に使われる兵卒)共に生捕られて恥を晒す事は心憂く思われよう。 つらつら事の様を案ずるに、吉野・金剛山(こんごうせん)の城は未だに相支えて勝負を決せず。西国の乱がいまだに鎮まらないのに、今降人(降参人)になって出た者を殺せば、多の人が見て懲りて降参しないだろうからと、見て懲り懼れさせないようにと降参人を殺すようなことは有る筈もない。とても叶わない我等であるから、暫くことを謀って降人となり、命を全うして時が至る時を待つべし。と、言えば、諸卒が皆この義に同じて、その日の討ち死にを止めたのだった。 城兵、寄せ手に降る 六波羅に送られて斬られる さるほどに、次の日、軍の最中に、平野入道は高櫓に上って、大将の御方に申すべき仔細が候。暫く合戦を止めて、聞し召し候え。と、言った所、大将渋谷十郎を以て事の様を尋ねるに、平野は木戸口に出で合って、楠は和泉・河内の両国を威を振い候いし刻みに、一旦の難を遁れる為に心ならずも御敵に属(しょく、付き従う)して候。 この仔細を京都に参じ候て申し入れ候わんと仕り候所に、既に大勢を以て押しかけられ申し候間弓矢取る身の習いにて候えば、一矢仕りたるに候。 その罪科をだに御免あるべきに候わば、頸を伸べて降人に参ずべく候。もし叶うまじとの御定(御諚、御仰せ)にて候わば力なく一矢仕りて尸(かばね)を陣中に曝すべく候。この様を具に申され候え。と言った所、大将・阿曾治時は大いに喜んで、本領安堵のの御教書(旧領の地は取り上げることなく、そのまま賜ると言う将軍家から下された文書)を成し、殊に功が有る者には則ち恩賞を与える沙汰を申すべき由を返答して、合戦を止められた。 城中に籠っていた二百八十二人、明日に死ぬであろう命を知らずに、水に渇した堪えがたさに皆が降人になって出て来たのだ。 長崎九郎左衛門がこれを受け取って、先ず降人の法であるからとて、物の具・太刀・刀(長刀も短刀も、刀は平安時代には日用道具の今のこがたなの類を言った。たちとは違い元来武器ではなかったが源平時代には補助の武器として、腰にさされ刀身も延びたようだ。しかし、室町時代でもまだ徳川時代のかたなの観念ではなく、鍔の無い護身用程度の物だった)を奪い取り、高手・小手に縛(いまし)めて六波羅へぞ渡したのだ。 降人の輩は、こうなるのであればただ討ち死にをするべきであったと後悔したが、その甲斐はなくて、日を経て京都に着いたならば六波羅に戒め置いて、合戦の事始めであるから軍神に祭りて血祭に上げて、人に見懲らさせよとて六条河原に引き出して、一人も残らずに首を刎ねて、獄門に晒したのだ。 これを聞いて、吉野・金剛山に籠っていた兵共は、いよいよ獅子の歯噛みをして、降人に出ようと思う者はいなかったのだ。 罪を緩くするのは将の謀である。と、言う事を知らなかっいた六波羅の成敗を、皆人毎におしなべて悪しかりけると申したが、幾程もなく悉く滅びてしまったのは不思議であるよ。 情けは人の為ならず、余りに奢りを極めては、雅意(我意の当て字、我儘)に任せて振舞えば武運も早く尽きるのだった。 因果の道理を知るならば、心にあるべき事共である。 巻 第 七 吉野城 軍の事 二階堂道薀が吉野城を攻める 元弘三年正月十二日、二階堂出羽入道薀が六万余騎の勢で大塔の宮が籠らせ給える吉野の城に押し寄せた。 菜摘河(吉野川の上流)の川淀から城の方を見上げたならば、峰には白旗・赤旗・錦の旗が深山おろしに吹き靡かされて雲か花かと怪しまれる。 麓には数千の官軍、兜の星を輝かせ、鎧の袖を連ねて、錦繡をした地のようである。峰が高くして道は細い。山は険しくして苔はなめらかである。 されば、幾十万の勢で責めたとしても容易く落ちるとは見えなかった。
2026年03月18日
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本間の子息資忠、父の跡を追い、赤坂城に 向い 戦死する これまで付き従って、最後の十念を勤めた聖(ひじり)、二人の首を乞い得て、天王寺に持って帰り本間の子息源内兵衛資忠に始めからの有様を語った。 資忠は父の首を一目見て一言をも出ださずに、ただ涙に咽んでいたのだが、如何に思ったのか鎧を肩に投げかけて、馬に鞍を置いてただ独り打ち出でんとした。 聖は怪しみ思って、鎧の袖を引き留め、これはそも、如何なることにて候ぞ。御親父もこの合戦で先駆けして名を天下の人に知られようと思い召しなされて、父子共に打ち連れてこそ向かわれ候なれども、命をば相模殿に奉り、恩賞をば子孫の栄花の為に残さんと思し召したる故に、人よりは先に討ち死に成されたのでございましょう。 しかるに思いをこめ給える所もなく、又敵陣に駆け入って父子共に討ち死になされたならば、誰がその跡を継ぎ、誰がその恩賞を蒙るべきであしょうか。子孫が無窮に栄えるのを以て父祖の孝行を顕す道と申すものです。御悲嘆の余りに是非なく死を共にせんと思召されるのは理(ことわり)ではありますが、暫く止まらせ給え。 と、堅く制したところ、資忠は涙を抑えて、力なく着た鎧を脱いだのだった。 聖は、さては静止の言葉に拘わったと嬉しく思い、本間の頸を小袖に包み、葬礼の為に辺りなる越えたその間に、資忠は今は止める人がないので、則ち打ち出でて、先ずは上宮太子の御前に参り、今生の栄燿は今日を限りの命であるから、祈る所ではない。唯、大悲の弘誓の誠があるのであれば父にて候所の討ち死に仕り候戦場の同じ苔の下に、埋もれて九品安養の同じ臺(うてな)に生まれる身にならさせ給えと、泣く泣く祈念を凝らして、涙と共に立ち出でたのだ。 石の鳥居を過ぎる際にふと見れば、我が父と共に討ち死にした人見四郎入道が書付けた歌があった。 これぞ誠に後世までの物語に留め置きける事よと思えば、右の小指を喰い切って、その血を以て一首を側に書き添えて、赤坂の城に向いける。 城近く成った所で馬から下りて、弓を脇にさしはさんで城戸(きど)を叩き、城中の人々に申すべきことあり。と、呼ばわりける。 やや暫くして、兵が二人櫓の小間(さま)から顔を差し出して、誰人にて御渡り候や。と、問いければ、これは今朝にこの城に向って討ち死にして候いつる本間九郎資貞の嫡子、源内兵衛資忠と申す者にて候、人の親が子を憶う哀れみは、心の闇に迷う習いにて候間、共に討ち死にする事の悲しさに我に知らせずしてただ一人討ち死にしけるに候。 相伴う者が無くて中有の闇に迷うであろう。そこそと思いやられ候えば同じく討ち死に仕りて、亡きあと迄父に孝道を尽くし候わばやと存じて、只一騎相向かいて候。城の大将にこの由を申され候て木戸を開かれ候え。 父が討ち死にの所にて、同じく命を止めて、その望みを達し候わん。と、慇懃に事を乞い、涙に咽んで立っている。 一の木戸を固めている兵、五十余人がその志孝行にして、相向かう所優しく哀れなるを感じて、則ち木戸を開き、逆茂木を引き除けたので、資忠は馬に打ち乗り、城中に駆け入って五十余人の敵を相手に、火を散らしてぞ撃ち合いける。 遂に父が打たれたその跡で、太刀を口に含んでうつぶせになり、倒れて、貫かれてこそ失せにける。惜しいかな、父の資貞は無双の弓矢取りにて国の為に要須(ようしゅゆ、必要)であった。又、子息の資忠はためしなき忠孝の勇士であり、家の為に栄名(えいめい、光栄ある名誉、ほまれ)がある。 人見は年老いて齢が傾いていたが、義を知って命(運命)を思う事時と共に消息する。(時が遷り替わる様に、時に応じて行う。天地盈虚、与時消息。易経、豊の卦) この三人は同時に討ち死にしたと聞こえたので、歎かない人はいなかった。 上宮太子の御前の石の鳥居に題した人見等の和歌 既にさきがけの兵共、ぬけぬけに赤坂城に向って討ち死にした由を披露されたので、大将は則ち天王寺を打ち立って馳せ向かいけるが、上宮太子の御前にて馬から下り、石の鳥居を見給えば、 花咲かぬ 老い木櫻 朽ちぬとも その名は苔の 下に隠れじと、一首の歌を書いて、その次に、武蔵の国の住人、人見四郎恩阿、生年七十三、正慶(しょうきょう)二年二月二日、赤坂の城に向って武恩を報じる為に討ち死にしおわんぬ。とぞ、書いてあった。又、右の柱を見れば、 まてしばし 子を思う闇に 迷ふらん 六(むつ)の街(ちまた)(六道の道股、則ち冥途で地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界に行き別れる道)の 道しるべせん(父上よ、子を思う愛情の為に冥途で、道に迷うでありましょう。私が案内するので暫くお待ちください)と書いて、相模の国の住人、本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年(しょうねん)十八歳、正慶二年仲春二日、父の死骸を枕にして、同戦場に命を止めおわんぬ。とぞ、書いてある。 父子の恩義、君臣の忠貞がこの二種の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆(黄色い土の堆いひと盛り)の下に埋もれるとも、名はとどめて清雲九天(青空)の上に高し。 されば今に至るまで、石碑の上に消え残れる三十一字(短歌)を見る人は、感涙を流さぬはなかりける。 阿曾弾正少弼 赤坂城を攻める 城は落ちない さるほどに、阿曾弾正少弼は八万余騎を率して赤坂に押し寄せ、城の四方二十余町を雲霞の如くに取り巻いて、先ず鬨の声をぞ挙げたのだ。 その音は山を動かし、地を震わせたので、蒼涯(青空の果て)も忽ちに裂けるかと思われた。 この城は三方が岸が高く、屏風を立てたる如くである。 南の方だけが、平地に続いて堀を広く深く掘り切って、岸の額に塀を塗り、その上に櫓を掻き並べてあるので如何なる怪力早業であっても、たやすく責める方策もない。 されども寄せ手が大勢なので、思い侮り、楯に外れ、矢面に進んで保里の中に走り下りて、切岸を上がろうとする所で塀の中から屈強の射手共が鏃を支えて、思う様に射たので、軍の度毎に手負い死人が五百人、六百人と射出さないことはなかった。 これにも痛まずに、荒手を入れ替え入れ替えして十三日までぞ攻めたのだ。 されども、城中は少しも弱る様子がない。
2026年03月17日
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わが身はその次に纐纈(こうけつ、飛鳥・奈良時代に行われた絞り染めの名)の鎧直垂に精好の大口(おおくち、大口袴。束帯の時に表袴の下にはいた。紅の生絹・平絹・張絹などで製し裾の口が大きく広いもの。武家時代には直垂・水干の下に持ちいた)を張らせ、紫下濃(紫すそご)の鎧に、白星の五枚甲に八龍を金で打ち付けたのを猪頸(いくび)に(仰向けに)着成し、銀(しろがね)のみがきを付けて(銀めっきに磨きをかけて)脛当てに金造りの太刀を二振り佩いて、一部黒(一戸クロ)と言って五尺三寸あった坂東一の名馬に、塩干潟(しおひがた)の捨て小舟を金貝(かながい)に磨った鞍を置き、山吹色の厚房を懸けて、三十六本差した白磨りの銀筈の大中黒の矢に、本滋藤(もとしげどう)の弓の眞中(まんなか)を握って、小路を狭しと歩ませたのだ。 片小手に腹当てをして、諸具足した中間が五百余人、二行に列を引いて、馬の前後に随う。静かに路次を歩んだのだ。 その後、四五町引き下がって、思い思いに鎧したる兵が十万余騎、兜の星を輝かせて、鎧の袖を重ねて、沓の子を打ちたるが如く(沓底に釘を打ったように)道の五六里を支えたのだ。 その勢いは決然として、天地を響かせ、山川を動かすばかりである。 この外に、外様の大名五千騎・三千騎が隊伍を引き分け、引き分けして昼夜に十三日まで引きも切らずに向かったのだ。 我が朝は申すに及ばず、唐土・天竺・太元(たいげん、蒙古第五代のフビライが中国の南宋を亡ぼして建てた国、元)・南蛮(中国南方の野蛮人)も未だこれ程の大軍を起こすことは有難かったと思わぬ人はいなかった。 赤坂合戦の事 付けたり 人見・本間の抜け駆けの事 阿曾弾正少弼 赤坂城に向かい 天王寺に逗留する さるほどに、赤坂の城に向った大将、阿曾弾正少弼は後陣の勢を待ち調える為に、天王寺に両日逗留して、同二月二日の午の刻に矢合わせが有るだろうと、抜け駆けの輩は罪科にするべき由をぞ触れられたのだ。 人見が先駆けして 遂に本間に会う 共に赤坂城に赴き 討ち死にする ここに武蔵の国の住人、人見四郎入道恩阿と言う者がいた。 この恩阿が本間九郎資貞に向って申したことには、味方の軍勢は雲霞の如くであるから、敵陣を攻め落す事は疑いがない。但し、事の様を案ずるに、関東が天下を治めて権を執ることは既に七代に余るに及んでいる。 天道は盈を缺く理は遁れる術もない。その上に、臣として君を流し奉る積悪、あに、身を滅ぼさざらんや。某は不肖の身とは申せども、武恩を蒙って齢既に七旬(七十歳)に余っている。 今日より後にさしたる思い出も無き身である。そぞろに長生きして武運が傾くのを見るのは老後の恨み、臨終の障りともなりぬべく思われるので、明日の合戦の先駆けして一番に討ち死にし、その名を末代にに残さんと存ずる成り、と。そう語った。 本間は心中では、げにもとは思いながら、枝葉の事を申すものかな。これ程である打ち囲みの軍にそぞろなる先駆けして討ち死にしたるとて、さして高名とも言われないだろう。されば某は人並みに振舞うつもりである。と言ったところ、人見は世にも無興げにて、本堂の方に行ったのだが、本間は怪しんで人を付けて見させたところ、矢立を取り出して、石の鳥居に何事かは知らないが一筆書付けて、己の宿にぞ帰ったのだ。 本間九郎、さればこそこの者に一定明日の先駆けをせられると心赦しがなかったので、まだ宵から打ち立って、ただ一騎東條を指して向かったのだ。 石川々原で夜を明かすと、朝霧の晴れ間から、南の方を見たところ紺唐綾威(こんからあやおど)しの鎧に白母衣を掛けて鹿毛(かげ)なる馬に乗りたる武者が一騎、赤坂城に向いける。 何者であるかと馬を引き寄せて相手を見れば、人見入道であった。 人見が本間を見て言ったのは、夜部(やべ、昨日の夜)宣いたる事を誠と思い立るならば、孫ほどの人には出し抜かれたくはないでありましょう。と、打ち笑いながら頻りに馬を進めたのだ。 本間は跡に続いて、今は互いに先を争うに及ばず。一所にて尸を晒し、冥途までも同道致しましょうぞ。と、言った所、人見は、申すにや及ばず、と返事して、後になり先になりして物語して行きけるが、赤坂城が近くなったので、二人の者共が馬の鼻を並べて駆けあがり、塀の際迄打ち寄せて鐙(鐙)を踏ん張り弓杖を突いて、大音声を挙げて名乗りける。 武蔵の国の住人、人見四郎入道恩阿、年が積もって七十三歳、相模の国の住人・本間九郎資貞、生年、三十七歳、鎌倉を出でしより、軍の先陣を駆けて屍を戦場に曝さん事を存じて相向かった。 我と思わん人々は出合いて手並みの程を御覧ぜよ。と、声々に呼ばわって城を睨んで控えたり。 城中の者共はこれを見て、これぞとよ、坂東武者の風情とは、これはただ、熊谷・平山の一の谷での先駆けを伝え聞いて、羨ましく思った者共であろう。 後を見るに、続く武者はいない。また、それ程の大名とも見えない。溢れ者の不敵武者に跳りあって命を失ってはどうしようもないぞ。ただ置いて、事の様を見てみよう。とて、東西で鳴りを潜めて返事もしない。 人見は腹を立てて、早旦から向かって名乗っても、城から矢の一つをも射出さないのは、臆病の至りか。敵を侮るのか。いで、その義ならば、手柄の程を見せて呉れようぞ。とて、馬から飛び降りて堀の上に有る細橋をさらさらと走り渡り、二人の者共、出でし塀の脇に引き添って、木戸を切り落とさんとしたので、城中は是に騒いで、土小間(つちざま、土で築き上げた障壁に拵えた小さな窓)や櫓の上から雨が降る如くに射った矢が二人の者共の鎧に蓑毛の様に立ったのだ。 本間も人見も元から討ち死にするつもりで思い立ったことなので、どうして一足でも引くだろうか。命を限りに二人共に一所で討たれてしまった。
2026年03月14日
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紀文に対する 正成の解釈 正成は不思議に思って、よくよく思案してこの文を考えるに、先帝は既に人王の始めから九十五代に当たり給えり。 天下が一度乱れて主は安からず。と、あるのはこれは今の時であろうか。東魚が来りて四海を呑む、とは逆臣の相模入道の一類であろう。西鳥が東漁を喰らう、とあるのは関東を亡ぼす人が有るのだろう。日、西天に没(い)る、とは先帝が隠岐の国に移されなされた事であろう。 三百七十余箇日とは、明年の春の頃にこの君隠岐の国から還幸なりて、再び帝位に就かせ給うことであるだろう、と文の心を明らかに勘(かんが)えると、天下の反覆久しくはないと、頼もしく覚えたのだ。それでい金造りの太刀一振りを、この老僧に与えてこの書をば元の秘府に納めさせけり。 太平記著者の 批評 後に思い合わせるに、正成が勘得た所は更に一事も違っていない。 これ誠の大権聖者が末代を鑑みて記し置き給えることであるから、文質三統(文質とは、夏は忠を尚び、殷は質を尚び、周は文を尚んだこと。一説に、殷は質を尚び、周は文を尚んだと言う如くに文と質が王朝の革命に随って循環して用いられる。礼制改制の原理となったものを言う。三統とは夏の人統・建寅の月を正月とし服色は黒を尚ぶ。黒統とも言う、殷の地統・建丑の月を正月として服色は赤を尚ぶ。赤統とも言う、の事で、これまた王朝の革命と共に循環して用いられたと言う)の礼変に少しも違わなかったのは、不思議なりし言偏の繊文(しんもん、未来を予告する文)であるよ。 赤松入道圓心 賜大塔の宮の令旨 の事 圓心の家系 人物 令旨により兵を挙げ 武威を振う その頃に播磨の国の住人、村上天皇第七御子・具平親王六代の苗裔、従三位季房の末孫(ばっそん)で、赤松次郎入道圓心とて弓矢取って無双の勇士があった。 元来がその心は闊如(かつじょ、心が大きくて小事にの関わらないこと)として人の下風(したて)に立つ事を思わなかったので、この時に絶えていたのを継ぎ廃れてたるを興して名を顕し、忠を抜き出ようと思っていたが、この二三年大塔の宮に付き纏い随い奉りて、吉野十津川の艱難を經ける圓心の子息律師則祐(そくゆう)、令旨を捧げて来たのだ。 披鸞すれば、不日に義兵を挙げ、軍勢を率いて、朝敵を誅罰せしむべし。その功が有るに於いては恩賞を宜しく請うに依るべしの由が載せられていた。 委細事書き十七箇條の恩裁(おんさい、恩賞・功を誉めて金品を恵み給う事。裁定・恩賞を取り捌き金ること)が添えられている。 條々いずれも御家の面目、世が所望する事であるから、圓心は斜めならずに喜んで、先ず當国の佐用庄苔縄(さようのしょうこけなわ)の山に城を構えて、与力の輩を相招いた。 その威は次第に近国に振るったので、国中の兵(つわもの)共が馳せ集まって程なくその勢は一千余騎になったのだ。 ただ秦の世が既に傾かんとする衰微に加わって、楚の陳勝の異蒼頭(奴僕)にして大澤(だいたく)に起こったのに異ならず。 やがて杉坂・山の里の二か所に関を据えて、山陽・山陰の両道を差し塞いだ。 これからは西国の道が止まって、国々の勢が上洛することが出来なくなった。 関東の大勢が 上洛の事 関東より上洛の人々 諸国七道の軍勢 京都の内外に充満する さる程に、畿内西国の凶徒が比を追って蜂起する由が、六波羅から早馬を立てて関東に注進され、相模入道は大いに驚いてさらば討っ手を差し遣わせと、相模の守の一族、その他東の八箇国の中でしかるべき大名共を催し立て、上させたのだ。 先ず一族には、阿曾弾正少弼(しょうひつ)・名越(なごやの)遠江入道・大佛前陸奥守貞直・同(おなじき)武蔵左近将監・伊具(いぐの)右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇津宮三河守・小山(おやま)判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城(じょうの)太宰大貮入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊藤常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉・これらを始めとして、宗との大名百三十二人、都合その勢は三十万七千余騎、九月二十日に鎌倉を発って、十月八日には先陣が京都に着いたので、後陣は足柄・箱根に支えていた。 これのみならず、河野九郎が四国の勢を率っして大船三百余艘にて尼崎からあがって、下京に着き、厚東入道・大内介・安藝の熊谷、周防・長門の勢を引き具して兵船二百余艘で、兵庫からやがて西の京に着いた。 甲斐。信濃の源氏七千余騎が中山道を経て、東山に到着した。 江馬越前守。淡河(あいかわ)右京亮(うきょうのすけ)、北陸道七箇国の勢を率して三万余騎で東坂本を経て上京(かみきょう)に着く。 総じて諸国七道の軍勢が我も我もと馳せ上りける間、京白川の家に居余り、醍醐・小栗栖(をぐるす)・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中までもが軍勢が宿らぬ所はなかぅたのだ。 日本は小国であるとは言え、これ程に人が多かったのかと、驚くばかりであるよ。 八十万騎を吉野・赤坂・金剛山に向わせる 長崎悪四郎左衛門の行装が 人の目を驚かせた さる程に、元弘三年の正月、晦日から諸国の軍勢が八十萬騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山(こんごうせん)の三っつの城に向かわせたのだ。 先ず吉野へは二階堂出羽入道々薀(どううん)を大将として、態と他の勢を交えず、二万七千余騎にて上道・下通・中道から三手になって相向かう。 赤坂には阿曾弾正少弼を大将として、その勢は二十万騎、奈良路からこそ向かわれたのだ。 中にも長崎悪四郎左衛門尉は別して侍大将を承りて、大手に向ったのだが、わざと己の勢の程を人に知らせようと思ったのか、一日引き下がってから向かったのだ。その行装は人の目を驚かした。 先ず旗差し、その次に逞しい馬に厚い房を懸けて、一様の鎧を着た兵を八百余騎、二町ばかり先に立てて、馬を静めて打たせたのだ。
2026年03月12日
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夜は既に暁天に及べり。 適は定めて近づいたらん。いざ、いらっしゃい。とて、楠は天王寺を立ったので、和田・湯浅も諸共に打ち連れてぞ引いたのだ。 夜が明けたので、宇都宮は七百余騎の勢で天王寺に押し寄せて、古宇都(こうづ)の在家に火を懸け鬨の声をあげたけれども、敵がいないので出合わない。 我等を騙しているのであろう。この辺りは馬の足立てが悪く、道が狭いので、駆け入る敵に中を割られるな。後ろを包まれないようにしようぞ。と、下知して起清両党が馬の足を揃えて、天王寺の東西の口から駆け入りて、二三度まで駆け入り駆け入り、しけれども、敵は一人も無かったので、焼捨てたる篝に燈火が残って、夜はほのぼのと明けたのだ。 宇都宮は戦わぬ先に一勝したような心地がして、本堂の前で馬より下りて、上宮太子(聖徳太子の異称。上宮に住んだので言う。用明天皇の第一皇子)を伏し拝み奉り、これ偏に武力の致すところにあらず、ただ一切ことごとくが神明仏陀の擁護にかかっていると、信心を傾けて歓喜の思いをなしたのだ。 やがて京都に早馬を立てて、天王寺の敵をば即時に追い落として候、と申したりければ、両六波羅を始めとして御内・外様の諸軍勢に至るまで、宇都宮の今度の振る舞い抜群であると、誉めぬ人も無かった。 宇都宮は天王寺の敵を容易く追い散らしたる心地がして、一面目は有ったる体であるが、やがて続いて敵の陣に攻め入らん事も無勢であるから叶わず、又誠の軍を一度もしないで引き返すのもさすがに不本意であるから、進退窮まったる所に四五日をへたる後に、和田・楠、和泉・河内の野伏(のぶし)どもを四五千人かき集めて、しかるべき兵を二三百騎差し添えて天王寺辺に遠篝火を焼かせたのだ。 すはや、敵こそ打ち出でたりと騒動して、更け行くままにこれを見れば、秋篠(奈良市秋篠朝、きぬた・霧の名所として古来の歌枕。西行法師の歌、秋篠や外山の里やしぐるらん生駒の嶽にくものかかれる」や外山の里、生駒の嶽に見える火は晴れたる夜の星よりもしげく、藻塩草志城津(しぎつ)の浦、住吉・難波の里に焼く篝は漁舟に燃やす漁火(いさりび)の波を焼くかと怪しまれる。 すべて大和・河内・紀伊国にありとある所の山々、浦々に篝火を焼かぬ所はなかった。その勢は幾万騎あるだろうかと推量しても夥(おびただ)しい。 かくの如くする事両三夜に及び、次第に相近づけばいよいよ東西南北四維(しゆい、四隅)上下に充満して闇夜を昼に替えたのだ。 宇都宮はこれを見て、敵が寄せて来たならばひと軍をして雌雄を一時に決しようと覚悟して、馬の鞍をも休めず、鎧の上帯も解かずに待ち懸けたのだが、軍はなくして、敵が取り廻す勢いに勇気が疲れ、武力が弛んで、哀れ引き退かんとの心がついた。 かかる所に、紀清両党の輩も、我等が僅かな小勢にてこの大敵に当たる事は始終(結局、ついには)如何にと覚え候。先日、当所の敵を事ゆえなく追い落として候が、一面目にして帰洛候え。と申せば、諸人が皆この儀に同じて、七月二十七日の夜半頃に宇都宮は天王寺を引いて帰洛したので、翌日の早旦に楠が入れ替わった。 誠に宇都宮と楠が相戦って勝負を決したならば、両虎二龍の戦いとして、いずれも死を共にしたであろう。 されば互いにそれを考えたのであろう、一度は楠が引いて謀を千里の外に廻らし、一度は宇都宮が退いて名を一戦の後に失わず。これ皆智謀が深く、慮り遠い両将であった故である。と、誉めない人はいなかったのだ。 正成の軍勢 漸く 強大になる さるほどに、楠兵衛正成は天王寺に打ち出でて、威猛を逞しくすると言えども、民屋にも煩いをかけずに、士卒に礼を厚くしたので、近国は申すに及ばず、しんにゅうの叚壌遠境(かじょうえんきょう、遥かに遠い土地)の人牧(じんぼく、人民を養い治める義で、人主だが、此処は地方の豪族)までもがこれを聞き伝えて、馳せ加わったので、その勢力は次第に強大にして今は京都よりも勢いが強く、討っ手を左右なく下されることは叶い難く見えたのだ。 正成 天王寺の未来記を 披見の事 正成 住吉に参詣し 天王寺に詣で 未来記を見る 元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣して、神馬(しんめ)三疋、これを献じた。 翌日に天王寺に詣でて白鞍を置いた馬、白輻輪(銀でr鍔や鞘のへりを蔽い飾った太刀)、鎧一両を副えて引き参らす(贈呈した)。 これは大般若経転読(字句を略して経文を読む事)の御布施である。 啓白事おわって、宿老の寺僧が巻数(かんじゅ、経供養に読誦した経巻の数・目録を記した文書)を捧げて参った。 楠は直ぐに対面して、申した事には、正成は不肖の身として、この一大事(後醍醐天皇に御味方する事)を思い立ってことは涯分(がいぶん、自分の身の程、身分に相応したこと)を計らざるに似ているが、勅命が軽くない礼儀を存知ていたので、身命の危うきを忘れたのだ。 然るに両度の合戦でいささか勝ちに乗じて、諸国のへいが招かないのに馳せ加わった。これは天が時を与え、仏神擁護のまなじりを巡らされるかと覚え候。 誠やらん、傳え承れば、上宮太子は当初、百王安危を考えて、日本一州の未来記を書き置かれ給いきと。拝見がもし苦しからず候えば今の時に当たり候わん巻だけでも一見したく候と、言いければ、宿老の寺僧が答えていわく、太子が守屋の逆臣を討って、始めてこの寺を建て、仏法を弘め候し後に神代から始めて持統天皇の御宇(ぎょう)に至るまでを記されたる書三十巻を前代𦾔事本記とて、卜部の宿祢がこれを相伝して有職(ゆうしょく)の家を立て候。その外に又一巻の秘書を留められて候。 これは持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を記されて候。これをば人が容易く披見する事は候ねども、別儀を以て密かに見参に入れ申し候。とて、即ち秘府(ひふ、他人に見せぬ大切な品物をしまう倉)の銀鑰(ぎんやく、銀の錠前。銀製のかぎ」を開いて金軸の書一巻を取り出した。 正成が悦んですなわちこれを披覧するに、不思議の記文一段があった。 その文に曰く、人王九十五代に当たって、天下が一乱して、主は安からず、この時に東魚が来って四海を呑み、日は西天に没して、三百七十余箇日、西鳥が来って東魚を喰らう。その後は海内一つに帰することは三年。獣遍の弥獣遍の侯(みこう、猿)の如き者が天下を掠めること三十余年、大凶が変じて一元に帰す云々。
2026年03月11日
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渡部の橋の合戦 正成の勝利 さるほどに、明ければ五月二十一日に六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合わせ渡部の橋まで打ち臨んで、川向うに控えたる敵の勢を見渡せば、僅かにニ三百騎には過ぎず、あまつさえ痩せたる馬に縄手綱を懸けたる体の武者共である。 隅田と高橋が人混ぜもせずに端から下りて真一文字にぞ渡しける。 五千余騎の兵はこれを見て、我先にと馬を進めて、或い橋の上を歩ませ、或いは河瀬を渡して、向の岸に駆け上がる。 楠の勢はこれを見て、遠矢を少し射捨てて、一戦もせずに天王寺の方に引き退いた。 六波羅の勢がこれを見て、勝ちに乗り人馬の息をも継がせずに、天王寺の北の在家まで揉みに揉んでぞ追いかけたのだ。 楠は思う様に敵の人馬を疲れさせて、二千騎を二手に分けて、一手は天王寺の東から敵を弓手に請けて駆け出した。一手は西門の石の鳥居から魚鱗(先を細く、中を太くして敵陣を突破する隊形)懸かりに駆けだした。 一手は住吉の松の陰から駈け出した。 鶴翼(鶴が翼を広げたように陣を張る横隊の陣法)に立って開き合わす。 六波羅の勢を見合わせれば、對揚(たいよう、匹敵)すべき迄もない大勢であるが、陣の張り様がしどろ(秩序なく乱れて)であり却って小勢(こぜい)に囲まれぬべく見えた。 隅田と高橋はこれを見て、敵は後ろに大勢を隠して騙しているぞ。この辺は馬の脚立ちが悪く、都合が悪いぞ。広い場所に敵をおびき出して勢の分際を見極めて、懸け合い懸け合い勝負を決せよ、と下知したところ、五千余騎の兵共は敵に後ろを切られない先にと渡部の橋を指してぞ、引き退いた。 楠の勢はこれに利を得て、三方から勝鬨を作って、追いかけた。 橋近くになった際に、隅田・高橋はこれを見て、敵は大勢ではない。ここで返し合わせなければ大河が後ろにあって具合が悪い。返せや、兵共、と馬の足を立て直し立て直しして下知したのだが、大勢が引き立てたことなので一返しも返さずに、ただ我先にと橋の危ういのも言わず馳せ集まった間、人馬共に押し落されて水に溺れる者は数を知らず。 或いは淵瀬も知らずに渡し懸かって死ぬ者もある。或いは岸から馬を馳せ倒して、そのまま討たれる者もいる。ただ、馬、物の具を脱ぎ捨てて逃げ延びようとする者はあるが、返し合わせて戦おうとする者はいなかった。 然れば五千余騎の兵共は残り少なに打ちならされて、ほうほう京へぞ上りける。 その翌日に、何者がしたのであろうか、六条河原に高札を立て一首の歌を書いたのだ、 渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん 京わらんべの癖であるから、此の落書を歌に作って歌い、或いは語り伝えて笑いける間、隅田(すだ)・高橋は面目を失い、しばらくは出仕を留め、虚病(きょびょう)してぞいたのだった。 両六波羅、宇都宮治郎大輔をして 楠勢に向わしむ 両六波羅はこれを聞いて、安からぬ事に思いければ、重ねて寄せようと議せられた。 その頃、京都が余りに無勢であるとて関東より上られたる、宇都宮治郎大輔(じぶのたゆう)を呼び寄せて評定ありける。 合戦の習い、運によって雌雄が変わることは古から無きにあらず。しかれどもこの度南方での戦が負けた事は、偏に将の計(はかりごと)の拙(つたな)さに由(よ)っている。又、師卒が臆病であるからだ。世間の嘲り口を塞ぐには所がない。 中に就いて、仲時が罷り上りし後に、重ねての御上洛の事は、凶徒蜂起したならば、御向いあって静謐候との為である。今の如くであれば、敗軍の兵を駆け集めて、何度攻勢をかけてもはかばかしい合戦が出来るとも思えない。 暫くは天下の一大事、この時に候ければ御向かい候て御退治候えかし。と、宣えば、宇都宮は辞退の気色なくして、申したのは、大軍が既に利を失って後に、小勢にて罷り向い候事は如何と存じ候が、関東を罷り出でし始めより、斯様の御大事に遇い命を軽くすることを存知候。 今の自分、必ずしも合戦の勝負を見る所にては候ねば、一人にて候とも先ずは罷り向って一合戦仕り、難儀が及び候時には重ねて御勢を申し候わめ。と、誠に思い定めたる躰にて帰ったのだ。 宇都宮が一人で武命を含んで大敵に向う事は、命を惜しむべきではないので、態と宿所には帰らずに六波羅から直ぐに七月十九日の御前に都を出て、天王寺へと下りける。 東寺辺までは主従で僅かに十四五騎程と見えたが、洛中にあらゆる所の手者共が馳せ加わって、四塚(四塚)・作道では五百余騎にぞなっていた。 路地に行き会う者をば権門・勢家を言わず、乗り馬を奪い、人夫を懸け立てて通ったので行旅の往反路を曲げて、閭里(ろり、閭は里の門、村里)の民屋は戸を閉じている。 その夜は柱松(はしらもと)に陣を取り、明けるのを待った。その志は一人も生きて帰らんとは思わなかった。 正成・宇都宮 両将の駆け引き 天王寺に於ける両軍の交替 さるほどに河内の国の住人和田孫三郎がこの由を聞いて、楠の前に来て言ったことには、先日の合戦に負け腹を立て、京から宇都宮を向けて候と聞き及びました。今夜、既に柱松に着いて候がその勢は僅かに六七百騎には過ぎないと聞こえて候。 先に隅田・高橋が五千余騎で向かって候しだに、我等は僅かな小勢で追い散らして候いしかし。その上に今度は味方が勝ちに乗じて大勢でありまする。敵は機を失って小勢でありまするぞ。 宇都宮がたとえ武勇の達人でも、何ほどのことが候べき。今夜に逆寄せにして、打ち散らして捨ててしまいましょう。と、言ったのを、楠が暫く思案してから言ったことには、合戦の勝負は必ずしも大勢小勢に依らない。ただ士卒の志を一つにするか否かにある。 されば大敵を見ては欺き、小勢を見ては怖れよ。と申す事はこれである。 先ず思案するに、先途の軍に大勢が打ち負けて引き下がった跡に、宇都宮一人が相向かう志は一人たりとも生きて帰ろうと思う者はいないであろうよ。 その上に、宇都宮は坂東一の弓矢取りである。紀請(紀氏は下野宇都の宮神社に奉仕した。清原氏の子孫で、宇都宮氏に従属する。伝説によれば、頼朝の時に、清原氏が絶え、紀高俊両党の旗頭となり芳賀氏を称した。宇都宮系図に拠れば清原氏である芳賀氏及び紀氏である益子・ましこ氏と婚姻を結んでいる)両党の兵は元から戦場に臨んで命を棄てる事、塵芥よりも尚軽いとする。 その兵七百騎が志を一つにして戦いに臨めば、當手(味方)の兵に譬え退く考えがなくとも、大半は必ず討たれてしまうだろう。 天下の事は全く今般の軍に依るべからず。行く末遥かの合戦に多くない味方を初度の戦で失うのは後日の戦に誰が力を合わせるべき。 良将は戦わずして勝つ。という事が候故に、正成においては明日わざとこの陣を退いて敵に一面目あるように思わせて、四五日を経て後に方々の峯に篝を焼き、一蒸し蒸すならば坂東武者の習い、程なく気疲れして、いやいや、長居しては悪いであろう。人面目有ったのだからいでや、引き返さんと言わぬ者はいないであろう。されば懸かるのも引くのも折による、とはかようの事を申すのである。
2026年03月10日
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哀れ、古ならば錦帳に装いを籠めて(錦の垂れ幕に美しく整えた姿を閉じ込め)、紗窓(しゃそう、薄絹を張った窓)に美しい身を隠し、左右に侍女はその数を知らず、辺りを輝かしてい付きかしずき奉りてあるべきに、何時しか引き換えたる内密の忍びの御籠りであるから、都が近くても事問い交わす人もいない。 ただ一夜、松の嵐に御夢を覚まされて、主を忘れない梅の香に昔の春を思召し出だすにも、昌泰(しょうたい)の年(醍醐天皇の年号)の末に、荒人神(霊験あらたかな神の意で、特に住吉の神や北野の神に言う)とならせられた心つくしの御旅宿までも、今は君の御恩に準えて、又は御身の歎きに思し召し知られるのだった。 哀れの色の数々に、御念珠を暫く止められて、御泪の内にかくばかり、 忘れずは 神も哀れと 思い知れ 心づくしの 古(いにしへ)の旅(心を悩ます九州への昔の旅をないなら、神も今の後醍醐天皇や私の立場を思い知って下さい」 と、作歌遊ばされて、少しまどろまれたその夜の御夢に、衣冠を正しくした老翁で、年齢は八十有余である者が左の手に梅の花を一枝持ち、右の手には鳩の杖をつき、いと苦し気なる躰で御局が寝ている枕の辺りに立ったのだ。 御夢心地に思しけるには、笹の小笹の一節も、問う人もない都の外の蓬生(よもぎゅう)に、怪しや、誰人であるか道を踏み迷って佇んでいるのでしょうと、御尋ねありければ、この老翁は世にも哀れなる気色にて言い出だせる詞もなく、持ちたる梅の花を差し置いて立ち帰ったのだ。 不思議であると思召して、御覧なされると一首の歌を短冊書いてある。 廻り来て ついにすむべき 月影の しばし陰(かげ)るを なに歎くらん(日数がめぐれば終には澄むべき月の光が、しばらく陰るのを嘆く必要はない。即ち、時が来れば、再び天下を治め給うであろうから歎く必要はない」 御夢が醒めて、御歌の心を案じなさると、君は遂には還幸なって、雲の上に住ませ給う瑞夢なりと、頼もしく思しけり。 誠に、かの聖庿(庿は廟の古字。中国で孔子の廟を聖廟と言うが、此処は菅原道真の廟)と申し奉るのは大慈大悲の本地(ほんぢ)、天満天神の垂迹にて渡らせ給えば、一度歩みを運ぶ人は二世の悉地を成就し、僅かに御名を唱える輩(ともがら)は万事の所願を満足する。 況や、千行萬行の紅涙を滴らせ尽くして、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給えば、懇誠は暗に(見えない所で)通じて感應忽ちに告げあり。 世は既に澆季(ぎょうき、道徳や風俗が軽薄に悪くなった時代)に及ぶと言えども、信心に誠がある場合には霊鑑(れいかん、神仏の霊妙な照覧)新(あらた)なり(著しい)と愈々(いよいよ)頼もしく思召しける。 楠出張天王寺の事 付けたり 隅田・高橋 並びに 宇都宮の事 時益 仲時 両六波羅に補せられて 上洛 元弘二年三月五日、左近将監時益(ときます)、越後の守仲時、両六波羅に補せられて関東から上洛した。 この三四年は常盤駿河守範貞(のりさだ)一人として両六波羅の成敗(成務)を司っていたが、堅く辞し申しけるに依ったのだ。 正成が挙兵 湯浅定仏の城を陥落する 楠兵衛正成は、去年赤坂の城で自害して、焼け死にたる真似をして落ちたのだが、それを誠と心得て武家から、その跡に湯浅孫六入道定佛を地頭に据え置きたりければ、今は河内の国においては殊なる事はあるまいと、心安く思っていた所が、同(おなじき)四月三日に楠は五百余騎を率して俄かに湯浅の城に押し寄せて、息をも継がせずに攻め戦った。 城の中に兵粮の備えが乏しかったのか、湯浅の所領の紀伊の国の阿瀬河から人夫五六百人に兵粮を持たせて、夜中(やちゅう)に城に入れようとする由を、楠はほのかに聞いて、兵を道の切所(要害の所)に差し遣わして悉くこれを奪い取り、その俵に物の具を入れ替えて、馬に負わせ人夫に持たせて、兵を二三百人を兵士の様に出で立たせ、城中に入ろうとした。 楠の勢はこれを追い散らす真似をして、追いつ返しつ同士軍(味方同士での合戦)をして見せた。 湯浅入道はこれを見て、我が兵粮を入れる兵共が楠の勢と戦っているぞと心得て、城中から打ち出でてそぞろなる(何の因縁もない)敵の兵共を城中に引き入れてしまつた。 楠の勢共は思いの儘に城中に入り済まして、俵の中から物の具共を取り出だして、ひしひしと固めて即ち鬨の声をぞ挙げたのだ。 城の外の勢は、同時に木戸を破り、塀を乗り越えて責め入りける間、湯浅入道は内外の敵に取り込められて戦う様もなかったので、忽ちに頸を伸べて(斬首を覚悟の)降人(こうにん)に出た。 正成 軍を渡部の橋の南に勧め 隅田、高橋と対陣する 楠はその勢いを併せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢になったので、五月十七日に先ず住吉・天王寺辺へ打って出でて、渡部(わたなべ)の橋よりも南に陣を取る。 然る間、和泉・河内の早馬を敷き並べを打って、楠が既に京に攻め上る由を告げたので、洛中の騒ぎは斜めならず、武士は東西に馳せ散って、貴賤上下が周章(あわて)る事は極まりなし。 かかりければ両六波羅には畿内近国の勢が雲霞の如く、馳せ集まりて、楠が今や責め上ると待ちけれども敢えてその義もなかったので、聞くにも似ずに楠は小勢なのであろう。 こちらから押し寄せて、打ち散らさんとて、隅田(すだ)高橋を両六波羅の奉行として四十八か所の篝、並びに在京人、畿内近国の勢を併せて天王寺に差し向けられた。 その勢は都合五千余騎、同(おなじき)二十日に京都を立って、尼崎・神崎・柱松(はしらもと)の辺に陣取って遠篝を焚いてその夜を遅しと待ち明かす。 楠はこれを聞いて、二千余騎を三手に分けて宗との勢をば住吉・天王寺の隠して、僅かに三百騎ばかりを渡部(わたなべ)の橋の南に控えさせて、大篝二三か所に焚かせて相向かった。 これは態と敵に橋を渡させて、水の深みに追い嵌めて雌雄を一時に決しよう為であった。
2026年03月07日
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さればとて、此処に留まるべきではないと、行かれると思う所まで行ってみようと、宮を先に立てて三十余人の兵共、路を問い問いして山路をぞ、越えて行った。 既に中津河の峠を越えようとなされたところで、向かいの山の嶺に玉置の勢とおぼしき五六百人程がひた兜に鎧って、楯を前に進め、射手を左右に分けて、鬨の声を挙げたのだ。 宮はこれを御覧じて、玉顔(ぎょくがん)殊に厳かに打ち笑ませ給いて、御手の者共に向って、矢種が有る限りは防ぎ矢を射よ。心静かに自害して、名を万代に遺すべし。 但し。おのおの相構えて、吾より先に腹を切ることはあってはならない。吾が既に自害したならば面の皮を剥ぎ、耳鼻を切って、誰の首とも分からぬようにし成して、棄てるべし。 その故は、我が首をもしも獄門に懸けて曝すならば、天下に味方の志を存ぜる者は、力を失い、武家はいよいよ恐れる所はなくなるであろう。 死せる孔明は生ける仲達を走らしむ、(蜀の諸葛亮・孔明が魏の司馬懿・仲達と五丈が原で対陣中に死んだので、部下の楊儀が蜀軍を整えて帰ろうとした時、仲達は孔明の死を聞いて追撃したが、蜀軍は旗を返し鼓を鳴らしてこれに向う姿勢を示したから、仲達は孔明が未だ死なずと驚いて退いたと言う故事)と言う事がある。 されば死して後までも、威を天下に残すのを以て、良将とする。今はとても遁れぬ所ぞ。相構えて卑怯な振る舞いをするではない。敵に笑われるな。と、仰せられければ、御伴の兵共は、何ゆえに穢びたる行為を致そうか。と、申して、御前に立ち、敵の大勢で攻め上った坂の中頃まで下り向う。その勢は僅かに三十二人、これ皆一騎当千の兵(つわもの)とは言えども、敵五百余騎に撃ち合って戦うべき様も無かった。 野長瀬兄弟が 宮を 救う 寄せ手は楯を雌羽(めんどりば、雌が羽を重ねて畳む如くに重ねて並べる事)に付き並べて、楯を頭上にかぶって攻め上り、防ぐ兵は打ち物の鞘を外して、相懸かりに近づくと所に、北の峯から赤旗三流れ、松の嵐に翻して、その勢六百騎が程、駆け出でたり。 その勢次第に近づくままに三手(三隊)に分けて鬨の声を挙げて、玉置(たまぎ)の庄司に相向かう。 真っ先に進んだ武者が大音声を挙げて、紀伊の国の住人・野長瀬(のながせの)六郎、同じく七郎その勢三千余騎にて大塔の宮の御迎えに参る所に、忝くもこの君に對(むか)い参らせて、弓を引き楯を並べる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るのは僻目か。 ただ今滅ぶべき武家の逆命(ぎゃくめい、暴虐な命令)に従って即時に運を開かせ給うべき親王に敵対申しては、一天下の間、いずれのところにか身を置かんとする。 天罰は遠くない、これを鎮める事こそは我らが一戦の内にある。余すな、漏らすな、皆殺しにせよ。と、おめき叫んでぞ懸ったのだ。 これを見て玉置の勢の五百余騎は叶わないと思ったのであろう、楯を棄て旗を巻いて忽ちに四角八方に逃げ散じた。 宮の御感 北野天神の霊験 その後、野長瀬兄弟は甲を脱ぎ、弓を脇に挟んで遥かに畏まった。 宮の御前近くに召されて、山中の体たらく、大儀の計略叶い難かる間、大和・河内の方へ打ち出して勢力をつけるために、進発せしめる所に、玉置庄司のただ今の挙動(ふるまい)、當手(とうて、大塔の宮の手下の兵)の兵、万死の内に一生も得難しと思いつるに、不慮の扶け遭う事は天運が猶頼みあるに似たり。 そもそもこの事をどうして知って此の戦場に駆け合わせて、逆徒の大軍を靡かしたのであるか、と御尋ねあったので、野長瀬は畏まって申しける。 昨日の昼頃に、年十四五程に候し童子で名をば老松(おいまつ)と言うと名乗って、大塔の宮は明日に十津河を御出であって小原にお通りあられるが、一定(きっと)道にて難に合わせ給いぬと覚えるぞ。志あるものは急いでお迎えに参れ、と触れ廻り候つる間、御遣いぞと思いて参りました。とぞ申しける。 宮、この事を御思案あるに、ただ事に非ずと、思召し合わせて即ち開きて、御覧遊ばすと、北野天神の御神体を金銅にて鋳参らせたる、その御眷属、老松の明神の御神体が遍身から汗をかいて御足には土がついているのが不思議である。 さては、佳運が神慮に叶えり。逆徒の退治は何の疑いもないぞ。とて、それより宮は槇野上野房(こうずけのぼう)聖賢が拵えた槇野の城にお入りありけるが、是も猶分内(地域内)が狭ければ悪いであろうと御思案ありて、吉野の大衆を語らわせなされて、安善寶塔を城郭に構えて、岩を切り通す吉野河を前に当てて、三千余騎を従えて立てこもられたと聞こえた。 巻 第 六 民部卿 三位局 御夢想の事 後醍醐天皇方の旧臣 宮女の悲嘆 それ年光が止まらざることは奔箭(ほんせん、走る矢)下流の水の如し。哀楽互いに替わることは紅栄黄落樹(春には赤い花が咲き、秋には葉が黄ばみ落ちる)のに似ている。 しかれば、この世の中の有様、ただ夢とや言わん、幻とや言わん。憂喜共に感じれば、袂の露を催す事今に始まらずと言えど、去年(さるとし)九月に笠置城が破れ、先帝が隠岐の国に遷されさせ給いし後は、百司(はくし)の旧臣が悲しみを抱いて所々に籠居し、三千の宮女は涙を流して面々に臥し沈みなされている有様は、誠に憂き世の中の習いとは言いながら、殊更に哀れに聞こえるのは民部卿三位局に留めている。 民部卿三位局 北野神社に祈り 示現を蒙る それを如何にと申すに、先朝(先帝)の御寵愛浅からざる上に、大塔宮の御母堂にて渡らせ給うので傍(かた)えの女房・后は花のあたりの深山木が色香もなげな風情であるよ。 然るを世間が静かならざりし後は、萬に引き換えたる(全く様子が違った)九重の内の御住居も定まらず、荒れのみ勝る波の上に舟を流した海女の様な心地がして、寄る方もない御思いの上に打ち添えて、君は西海の帰らぬ浪に浮き沈み、涙は隙ない御袖の気色と承りしかば、空しく万里の暁の空に思いを傾け、宮は又南山の路なき雲に踏み迷わせなさえて、狂浮(あこがれ)たる御住居と聞こえるが、書を三春(春の三か月)の暮の雁に託すことは出来ない。 彼と言い、是と言い、ひとかたならぬ御なげきに青絲の髪疎かにして、何時の間に老いは来たのだろうかと怪しまれ、紅玉の膚(はだえ)は消えて、今日を限りの命ともがなと思召しける御悲しみの遣る方なさに年頃の御祈りの師とも、御読経・御撫で物などを奉りける北野の社僧の坊に御坐しまして一七日参籠の御志ある旨を仰せられければ、この折節、武家の間にも憚りも無くはなかったが、日頃の御恩も重く、今程の御有様も御痛わしければ情なしは如何と思われて、拝殿の傍らに僅かなる一間を拵えて、尋常の青女房などが参籠したる体にて置き奉りける。
2026年03月05日
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芋瀬は宮をば我が舘に入らせなされないで、側なる御堂に置き奉り、使者を以て申し上げたのは、三山の別当定遍は武命(武家・北條氏の命令)を含んで隠謀(おんぼう)与党の輩(ともがら)をば関東に注進仕る事にて候えば、この道から左右(そう)なく通し参らせることは後の罪科陳謝するに拠所あるべからず候、さりながら宮を留め参らせる事はその恐れ候えば、御伴の人々の中に名字(名字)さりぬべからんずる(相当に知られた)人を一両人賜って、武家に召し渡し候か。しからずんば、御紋の旗を給わって合戦仕った証拠はこれですと、武家に申すべく候。 この二つの間、いずれも叶わぬとの御意にて候らわば力なく(余儀、仕方なく)一矢仕る所存でござる。と、誠にまた余儀もなげに申し入れたりける。 宮は此の事、いずれも難儀なりと思し召されて、敢えてお返事も無かったのだが、赤松律師則祐(そくゆう)が進み出て申しけるは、危うきを見て命を致す(危難に臨んで、その生を惜しまず、一命を擲って主君の為に尽くす)のは士卒の守る所に候。 されば紀信(きしん、漢の高祖が楚の兵に囲まれた時に、高祖と偽り名乗って降参して高祖をのがれしめ、みずからは焼き殺された人)は詐(いつわっ)て敵に下り、魏豹(ぎひょう、漢の高祖の命により滎陽・けいようを守り、楚人に囲まれ、遂に殺された人)は留まって城を守った。 これは皆主の命(いのち)に代わり名を留めた人ではないだろうか。とてもかくても彼の所存が解けて御所(ごしょ、貴人の住所だが、ここは大塔の宮を指す)を通し参らせ申すならば、則祐が御大事に替わりて罷り出でん事は、仔細あるまじき事であるよ。と、申した所、平賀三郎はこれを聞いて、末坐(ばつざ)の意見は卒爾の儀ではあるけれども、この艱苦(かんく)の中に付き纏い奉りたる人は、一人たりと言えど上(かみ)の御為には股肱(ここう)耳目よりも捨てがたく思召され候べし。中に芋瀬庄司が申す所はげにももだし難く候間、その易きにつけて御旗ばかりを下されるべく候わんに、何の煩いが候べき。 戦場に馬・物の具を棄て、太刀・刀を落して敵に拾われることはそれほどの恥とも思われません。ただ、彼が申し請ける旨に任せて、御旗を下され候えかし。と、申しければ、宮もげにと思召して、月日を金銀で打ち付けた錦の御旗を芋瀬庄司にぞ下されたのだ。 かくて、宮は遥かに行き過ぎさせ給いぬ。 暫くあってから、村上彦四郎義光(よしてる)は遥かの跡に下がり、宮に追いつき参らせんと急ぎけるが芋瀬庄司がはしなくも道にて行き会ったのだ。 芋瀬の下人が持っていた旗を見れば、宮の御旗である。村上が怪しんで、事の次第を問えば、しかじかの由を語った。 村上、これはそも、何事ぞや。忝くも四海の主にて御坐(おわしま)す天子の御子が朝敵を追討の為に御門出ある路次に参り会って、汝が程の大凡外(だいぼんげ、身分の無い奴ら)の奴ばらが左様の事を仕るべき様やる、と言って、則ち御旗を引き奪って取り、あまつさえ旗を持っていた芋瀬の下人の大の男を掴んで、四五丈ばかりも投げ出したのだ。 その怪力は比類ないのに怖じたのであろう、芋瀬庄司は一言も返事をしなかった。 村上はみずから御旗を肩に掛けて、程も無く宮に追いつき奉る。 義光(よしてる)は御前に跪(ひざまづ)いてこの様を申しければ、宮は誠に嬉し気に微笑まれて、則祐の忠は孟施舎(古の勇者)が義を守り、平賀の智は陳丞相(漢の高祖の謀臣陳平、丞相は大臣」の謀を得た。義光の勇は北宮黒と幼(よう)の勢いを凌いだ。この三傑を以てて我は天下を治め尽くさんぞと仰せられたのは忝い事でありまする。 玉置の庄司 宮を阻む 片岡八郎の 討ち死に 庄司の軍勢が 宮を包囲する その夜は、椎柴垣の隙露わなる山がつの庵に御枕を傾けさせ給いて、明ければ小原(をばら)へと志して、薪を負った山人と行き会い、道の様をお尋ねなされた。 心なき樵夫までがさすが見知り参らせてあったのか、薪を下し、地に跪いてこれより小原にお通りなされる道には、玉木(たまぎ)の庄司殿とて無二の武家方がおわしまし候。 この人を御語らい候わではどのような大勢でもその前をば御通り候わぬと覚え候。恐れある申し事では候が先ず人を一人二人お使いに遣わされ、かの人の御所存を聞き召され候えかし、とぞ申しける。 宮はつくづくと聞し召して、芻草冠に曉(すうぎょう、草刈)の詞までも捨てず、と言うのはこれだ。げにも樵夫はそうであろうと思われるぞ、とて、片岡八郎・矢田彦七の二人を召して、玉置庄司許に遣わされて、この道をお通りあるべし。道を警固した上で木戸を開き、逆茂木を引き除けさせよとぞ仰せられける。 玉置庄司は御使いに出で合いて、事の由を聞いて、無返事にて内に入ったのだが、やがて若党・中間どもに物の具させ、馬に鞍を置き、事の體(亭)は騒がしげに見えけらば、二人の御使い、いや、いや、この事は叶うまじかりけり。さらば、急ぎ走り帰りてこの由を申さん、とて足早に帰りければ、玉置の若党共五六十人が取り太刀ばかりで追いかけた。 二人の者は立ち止まって、小松が二三本あった陰から躍り出て、真っ先に進んで来た武者の馬の諸膝を薙いで、刎ね落させ、返す太刀で首を打ち落とし、反り返った太刀で押し直してぞ立ったりける。 後に続いて追いける者共、これを見て敢えて近づく者は一人もいない。ただ、遠矢で射すくめている。 片岡八郎は矢を二筋射付けられて、今は助かり難いと思ったので、や、殿、矢田殿、我はとても手負いたれば、ここにて討ち死にするであろう。御辺は急ぎ宮の御許に走り参りて、この由を申して一先ずも落とし参らせよと、再往(さいおう、再三)強いて言いければ、矢田も一緒にて討ち死にしようと思ったけれども、げにも宮に告げ申さざらんは却って不忠であるから、力なくただ今打ち死にする朋輩を見捨てて帰る心の中は推量されて哀れであるよ。 矢田は遥かに行き伸びて跡を顧みれば、片岡八郎ははや討たれたと見えて、頸を太刀の鋒(切っ先)に貫いて持っている武士がいる。 矢田は急いで走り返り、この由を宮に申しければ、さては遁れぬ道に行き迫った。運の窮達は歎くに詞がないぞ。とて、御伴の人々に至るまで中々騒ぐ気色もなかったのだ。
2026年03月04日
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宮は病者が臥した所に御入りありて、御加持あり。 千手陀羅尼を二三反(べん)高らかに遊ばされて、御念珠を押し揉ませ給いければ、病者は自ずから口走って様々な事を言った。 誠に明王の縛にかけられたる體(てい)で、足手を縮めて戦(おのの)き、五体に汗を流して、物の怪は忽ちにして去って仕舞ったので、病者は直ぐに平癒した。 主の夫は斜めならずに悦び、我には貯えたる物がないので、別の引き出物までは叶い候まじ。まげて(無理にでも)十余日これに御逗留候いて、御足を休めさせ給え。さっきの山伏が粗忽に耐えられずに(行き届かぬ待遇に耐えられずに)お逃げになってしまわれぬよう、恐れながらこれを御質に給わらん、とて面々の笈共に取り合わせて皆内にぞ置きたりける。 お供の人々、上にはその気色を顕さずと言えども、下には皆嬉しく思う事限りなし。 このようにして十余日を過ごさせ給う。 或る夜に家主の兵衛尉が客殿に出て、薪などを燃やして四方山の話などをしたついでに申したのは、皆さん方は定めて御聞き及びでもございましょうが、本当でありましょうか、大塔の宮は京都を落ちさせ給いて熊野の方に赴かせ給い候なる。 三山の別当(熊野三山、本宮・新宮・那智の長官)定遍(じょうへん)僧都は無二の武家方で候なれば熊野辺にお忍びあるのはなり難く、覚え候。哀れ、この里に御入り遊ばせかし。所こそ分内(そこと定めた領分、又は場所の内)は狭く候えども、四方は皆険阻であり十里や二十里の中では鳥でさえ翔け難い所で候。 その上に人の心は偽りがなく、弓矢を執ることは世に越えておりまする。 されば平家の嫡孫の維盛と申す人も、我等が先祖を頼んでこの所に隠れ、遂に源氏の世に恙無く候と承り候と語った所、宮は誠に嬉し気に思召したる御気色顕れて、もしも大塔の宮などが此処に御頼みあって入って来たとすれば、頼りにならせ給うおつもりでありましょうか、と御問いなさると、戸野兵衛は、申すまでもございません。身は不肖では御座いまするが、某(それがし)一人だにかかる事ぞと申したならば、鹿瀬(しかがせ)・蕪坂(蕪坂)・湯浅・阿瀬川(あぜがわ)小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津川(なかつがわ)・吉野の十八郷の者までも、手出しをする者は御座いますまいとぞ、申しける。 その時に宮は木寺相模にきと御目を合わされたので、木寺はこの兵衛の側に居寄り、今は何をか隠し申さん、その先達の御坊こそは大塔の宮であらせられる。と言ったところ、この兵衛は猶も不審げで、彼これの顔をつくづくと見守っている。 片岡八郎、矢田彦七、あら、熱や、とて頭巾を脱いで傍に差し置いた。誠の山伏ではないので月代(さかやき)の跡がくっきりとして隠れようもない。 兵衛はこれを見て、げにも山伏にてはあらざりけり。畏くも(よくぞ)この事を申された。あな、浅ましや。この程の振る舞いをさぞや尾籠(びろう、無礼)とぞ思し召し候わん。と、以ての外に踊りて、首(こうべ)を地に着け、手をつかねて畳から下に下りて蹲踞した。 俄かに黒木の御所を作り、宮を入れ参らせ、守護し奉り、四方の山々に関を据え、道を斬り塞いで用心厳しく見えたのである。 これも猶、大儀の計略叶い難しとて、叔父竹原八郎入道の息女を夜のおとどに召されて微覚えは他に異なる。 さてこそ家主(あるじ)の入道も益々志を傾け、近辺の郷民共も帰服したる様子で、却って武士を軽蔑したのだ。 戸津川をご出発 錦旗を芋瀬庄司に与え 敵地を脱せらる 村上義光 錦旗を奪い返す さるほどに熊野の別当定遍がこの事を聞いて、十津河に寄せる事はたとえ十万騎があったとしても適い難し。ただ、その辺の郷民共の欲心を勧めて、宮を他所に誘(おび)き出だし奉らんと、相謀って道路の辻に札を立てて書いたのは、大塔の宮を討ち奉らん者には非職・凡下を言わず(官職にない人でも、平民でも。誰でも)に伊勢の車間の庄を恩賞に充て行うべき由を関東の御教書これあり。その上に、定遍が先ず三日の中に六万貫を与えるであろう。 御内(みうち)伺候の人(お側つかえの人)、御手(おんて、部下)の人を討ちたらん者には、五百貫、降任に出でたらん輩(ともがら)には三百貫、いずれもその日の内に沙汰して与えるであろう。と定めて、奥に起請文(天地の神に誓って)の詞を載せて厳密の法を出したのだ。 それ、移木(いぼく、木を移す事。秦の商鞅が新法を施く前に先ず民をして政府を信ぜしめる手段として三丈の木を市の南門に立て、これを北門に移す者に五十金を与えようと布告して、約の如く実行した故事)の信は約を堅くする為に、献芹(けんきん、詰まらぬ野菜を奉る。人に物を贈る時の謙辞)の賂(まいない)は志を奪わん為のものであるから、欲心強盛(よくしんごうじょう)の八庄司(熊野八個の庄の庄司。荘司と書く、荘園の領主の命を受けて荘園内の雑務を行った)共はこの札を見るよりいつしか心が変じ、色替わって怪しき振舞どもにぞ聞こえける。 宮は、この様であっては此処での御住まい、始終あしかりけん。吉野の方へでも出て行った方がよいであろうか、と仰せられたのを、竹原入道は「どのような事がございましょうや)と、強いて止め申しければ、彼の心を挫き落胆させる事もさすがにお出来なさらずに、恭久の中で月日を送らせなされた。 結句、竹原入道の子供さえ、父の命に背いて宮を討ち奉らんとする企てがあると聞いたので、宮は密かに十津河も出でさせ給いて、高野の方へと赴きける。 その道、小原・芋瀬・中津川と言う敵陣の難所を経て通じる路であるから、中々敵を打ち頼みてみばやと思召され、先ず芋瀬の庄司が許に入らせ給いけり。
2026年03月02日
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熊野に向われる 道行文 切目の王子の示現 戸津川に御到着 かくては南都辺の御隠れ家は暫くも適い難ければ、則、般若寺を御出でありて、熊野の方へと落ちさせ給う。 御供の衆には、光林坊玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵坊・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎・彼此以上の九人。 宮を始め奉りて、御供の者までもが皆柿の衣に笈をかけて、頭巾を眉まで責めて、その中の年長者を先達として作り立て、田舎山伏が熊野詣でをする體(てい)にぞ見せたのだ。 この君、元から龍楼鳳闕(りゅうろうほうけつ、王宮と宮門。皇居)の内に人とならせられたので、華軒香車(かけんこうしゃ、立派な車)の外を出でさせたまわざれば、長途の御歩行は定めて叶わせたまわじと兼ねて御供の人々は心苦しく思いけるが、案に相違して何時習わせ給いし御事ではないけれども、怪しげなる単皮(たび、皮製の足袋)・脚巾(はばき、脚絆)・草鞋(わらじ)を召して少しも草臥れたる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉幣、宿々(やどやど)の御勤め怠りなさらないので、路次に行き合いたる道者(仏道修行者)も勤修(ごんじゅ、修行)を積んだ先達も見咎める事も無かった。 由良の湊をも渡せば、沖を漕ぐ舟の梶を絶え浦の濵木綿(はまゆう)幾重とも知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊(き)の路の遠山目と少々(はるばると)、藤代の松の根を洗うようにかかる磯の浪、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(他所)に見て、月に磨ける(月の光に照らし出されて美しい)玉津島光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習いであうのに、雨を含める孤村の樹、夕べを送る遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切り目の王子(五体王子神社。熊野神社の末社の第一)に着いたのだ。 その夜は、叢祀(そうし、茂みの中にあるほこら)の露に御袖を片敷いて通夜(よもすがら)祈り申させ給うたのは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明らかに、分段同居(ぶんだんどうご、人や畜などというように分断・区別ある世界で、かつ同居土・凡夫と聖者が同じく居住する世界。即ち、この衆生界、娑婆)の闇を照らせば、逆臣(げきしん)忽ちに滅んで、朝廷は再び輝く事を得させしめ給え。 傳え承る、両所権現(熊野の本宮と新宮)は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の應作(おうさ、諸仏・諸神・諸菩薩が様々に応現する作用)である。 我が君はその苗裔として、朝日が忽ちに浮雲の為に隠されて冥闇たり。あに、傷まざらんや。玄鑒(げんかん)空しきに似たり(神仏の御照覧が今はないかの如くだ)。 神もし神たらば、君はけだし君たらざらん。と、五体を大地に投じて一心に誠を致してぞ、祈り申させ給う。丹誠(たんぜい)無二の御勤め、感応がどうしてないだろうと、神慮も暗に計られた。 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈があったので、御肘を曲げて枕として、しばらく御まどろみなされた御夢で、髷(びんずら)を結った童子が一人来りて、熊野三山の間は猶も人の心が不和であって大儀がなり難い。これより十津川の方にお渡りなさえて時が至るのをお待ち候え。 両所権現から案内者として付け参らせられ候えば、御道しるべを仕るべき候。と、申すと御覧ぜられた御夢は則ち醒めたのだ。 これは権現の御告げであると頼もしく思召されたので、未明に御悦びの御幣を捧げて、やがて十津河を尋ねて分け入らせ給いける。 その道の程、三十余里の間には絶えて人里も無かったので、或いは高尾の雲に枕をそばだて、苔の筵に袖を敷いて、或いは岩を漏れる水に渇を忍んで、くちたる橋に肝を消す。 山路にはもともと雨は無くて、空翠(くうすい、深山の木立の翠の間に立ち籠める山気)山気が湿り気をおび常に衣を潤す。 向上と見上げれば、萬仭の青壁は劔に削り、直下と見下ろせば千丈の碧潭を藍に染めている。 数日の間、このように険難を経させ給いて、御身もくたびれ果てなされて、流れる汗が水の如く御足は欠け損じて草鞋は皆血に染まっている。 御伴の人々も、その身は鉄石ではないので、皆飢え疲れ果ててはかばかしく歩く事も得ない。が、宮の御腰を押し、御手を引いて道の程十三日で十津河に着かせ給いける。 戸野兵衛 竹原八郎の 忠勤 宮をば、とある辻堂(路傍に建ててある仏堂)の内に据え奉りて、御伴の人々は在家(田舎家)に行きて、熊野参詣の山伏共が道に迷って来た由を言った所、在家の者共は哀れを垂れて、粟の飯、橡の粥を取り出だして、その飢えを相扶けたのだ。 宮にもこれらを進め参らせて、二三日は過ぎた。 これでは結局どうしたらよいのか分からなかったので、光林坊玄尊、とある在家の、これはさもあるべき人ならんと思しき所に行って、童部(わらんべ)がいたので家の主の名を問えば、これは竹原八郎入道殿の甥で戸野の兵衛殿と申す人の許であると言ったので、さてはこれこそは弓矢を取って去る者と聞き及ぶ者であるよ。 如何にもして、これを頼みにしようと思ったので、門の中に入って事の様を見聞くと、内に病者があると覚えて、哀れ、尊からん山伏が出現して欲しい物だ。祈らせ参らせんと、言う声がした。 玄尊はすはや、究土偏なしの境(究竟)の事こそあれと思いければ、声を高らかに挙げて、是は三重の瀧に七日打たれ、那智に千日籠って三十三か所の巡礼の為に、罷り出でたる山伏共、路を踏み迷ってこの里に出でて候、一夜の宿を貸し一日の飢えをも休めたまえ、と言ったりければ、内より怪しげなる下女が一人い出合い、これこそは、然るべき仏神の御計らいと覚え候。これの主の女房が物の怪に病(やま)せ給い候。祈って治療して下さり給え、とと申したので、玄尊は、我等は夫(ぶ、平の)山伏で候間、叶うまじ。あれに見え候辻堂に足を休めておられる先達こそは効験(こうげん、祈祷の効き目)第一の人にて候。この様を申すならば仔細は候わじ、わけなく祈って下さろう。 そう申すと、女は大いに喜んで、さらばその先達の御坊をこれへ入れ参らせ候え、と言って、悦び合えることは限りもなし。 玄尊は走り帰ってこの由を申しければ、宮を始め奉りてお供の人々も皆かの舘に入らせ給う。
2026年02月27日
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熊野に向われる 道行文 切目の王子の示現 戸津川に御到着 かくては南都辺の御隠れ家は暫くも適い難ければ、則、般若寺を御出でありて、熊野の方へと落ちさせ給う。 御供の衆には、光林坊玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵坊・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎・彼此以上の九人。 宮を始め奉りて、御供の者までもが皆柿の衣に笈をかけて、頭巾を眉まで責めて、その中の年長者を先達として作り立て、田舎山伏が熊野詣でをする體(てい)にぞ見せたのだ。 この君、元から龍楼鳳闕(りゅうろうほうけつ、王宮と宮門。皇居)の内に人とならせられたので、華軒香車(かけんこうしゃ、立派な車)の外を出でさせたまわざれば、長途の御歩行は定めて叶わせたまわじと兼ねて御供の人々は心苦しく思いけるが、案に相違して何時習わせ給いし御事ではないけれども、怪しげなる単皮(たび、皮製の足袋)・脚巾(はばき、脚絆)・草鞋(わらじ)を召して少しも草臥れたる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉幣、宿々(やどやど)の御勤め怠りなさらないので、路次に行き合いたる道者(仏道修行者)も勤修(ごんじゅ、修行)を積んだ先達も見咎める事も無かった。 由良の湊をも渡せば、沖を漕ぐ舟の梶を絶え浦の濵木綿(はまゆう)幾重とも知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊(き)の路の遠山目と少々(はるばると)、藤代の松の根を洗うようにかかる磯の浪、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(他所)に見て、月に磨ける(月の光に照らし出されて美しい)玉津島光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習いであうのに、雨を含める孤村の樹、夕べを送る遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切り目の王子(五体王子神社。熊野神社の末社の第一)に着いたのだ。 その夜は、叢祀(そうし、茂みの中にあるほこら)の露に御袖を片敷いて通夜(よもすがら)祈り申させ給うたのは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明らかに、分段同居(ぶんだんどうご、人や畜などというように分断・区別ある世界で、かつ同居土・凡夫と聖者が同じく居住する世界。即ち、この衆生界、娑婆)の闇を照らせば、逆臣(げきしん)忽ちに滅んで、朝廷は再び輝く事を得させしめ給え。 傳え承る、両所権現(熊野の本宮と新宮)は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の應作(おうさ、諸仏・諸神・諸菩薩が様々に応現する作用)である。 我が君はその苗裔として、朝日が忽ちに浮雲の為に隠されて冥闇たり。あに、傷まざらんや。玄鑒(げんかん)空しきに似たり(神仏の御照覧が今はないかの如くだ)。 神もし神たらば、君はけだし君たらざらん。と、五体を大地に投じて一心に誠を致してぞ、祈り申させ給う。丹誠(たんぜい)無二の御勤め、感応がどうしてないだろうと、神慮も暗に計られた。 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈があったので、御肘を曲げて枕として、しばらく御まどろみなされた御夢で、髷(びんずら)を結った童子が一人来りて、熊野三山の間は猶も人の心が不和であって大儀がなり難い。これより十津川の方にお渡りなさえて時が至るのをお待ち候え。 両所権現から案内者として付け参らせられ候えば、御道しるべを仕るべき候。と、申すと御覧ぜられた御夢は則ち醒めたのだ。 これは権現の御告げであると頼もしく思召されたので、未明に御悦びの御幣を捧げて、やがて十津河を尋ねて分け入らせ給いける。 その道の程、三十余里の間には絶えて人里も無かったので、或いは高尾の雲に枕をそばだて、苔の筵に袖を敷いて、或いは岩を漏れる水に渇を忍んで、くちたる橋に肝を消す。 山路にはもともと雨は無くて、空翠(くうすい、深山の木立の翠の間に立ち籠める山気)山気が湿り気をおび常に衣を潤す。 向上と見上げれば、萬仭の青壁は劔に削り、直下と見下ろせば千丈の碧潭を藍に染めている。 数日の間、このように険難を経させ給いて、御身もくたびれ果てなされて、流れる汗が水の如く御足は欠け損じて草鞋は皆血に染まっている。 御伴の人々も、その身は鉄石ではないので、皆飢え疲れ果ててはかばかしく歩く事も得ない。が、宮の御腰を押し、御手を引いて道の程十三日で十津河に着かせ給いける。 戸野兵衛 竹原八郎の 忠勤 宮をば、とある辻堂(路傍に建ててある仏堂)の内に据え奉りて、御伴の人々は在家(田舎家)に行きて、熊野参詣の山伏共が道に迷って来た由を言った所、在家の者共は哀れを垂れて、粟の飯、橡の粥を取り出だして、その飢えを相扶けたのだ。 宮にもこれらを進め参らせて、二三日は過ぎた。 これでは結局どうしたらよいのか分からなかったので、光林坊玄尊、とある在家の、これはさもあるべき人ならんと思しき所に行って、童部(わらんべ)がいたので家の主の名を問えば、これは竹原八郎入道殿の甥で戸野の兵衛殿と申す人の許であると言ったので、さてはこれこそは弓矢を取って去る者と聞き及ぶ者であるよ。 如何にもして、これを頼みにしようと思ったので、門の中に入って事の様を見聞くと、内に病者があると覚えて、哀れ、尊からん山伏が出現して欲しい物だ。祈らせ参らせんと、言う声がした。 玄尊はすはや、究土偏なしの境(究竟)の事こそあれと思いければ、声を高らかに挙げて、是は三重の瀧に七日打たれ、那智に千日籠って三十三か所の巡礼の為に、罷り出でたる山伏共、路を踏み迷ってこの里に出でて候、一夜の宿を貸し一日の飢えをも休めたまえ、と言ったりければ、内より怪しげなる下女が一人い出合い、これこそは、然るべき仏神の御計らいと覚え候。これの主の女房が物の怪に病(やま)せ給い候。祈って治療して下さり給え、とと申したので、玄尊は、我等は夫(ぶ、平の)山伏で候間、叶うまじ。あれに見え候辻堂に足を休めておられる先達こそは効験(こうげん、祈祷の効き目)第一の人にて候。この様を申すならば仔細は候わじ、わけなく祈って下さろう。 そう申すと、女は大いに喜んで、さらばその先達の御坊をこれへ入れ参らせ候え、と言って、悦び合えることは限りもなし。 玄尊は走り帰ってこの由を申しければ、宮を始め奉りてお供の人々も皆かの舘に入らせ給う。
2026年02月27日
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その費えは甚だ多い。 輿に乗せて路次を過ぎる日は、道を急ぐ行人も馬から下りてこれに跪き、農を勤める里民も夫に取られてこれを舁き、かくの如く賞玩が軽くなかったので、肉に飽き錦を着た奇犬が鎌倉中に充満して、四五千匹に及んだ。 月に十二度を犬合わせの日とて定められしかば、一族大名御内外様の人々、或いは堂上に坐を連ね、或いは庭前に膝を屈して見物する。 時に両陣の犬共を一二百疋(ひき)づつ放して合わせたりければ、入り違い、追い合わせて、上になり下になって、噛み合う声が天にまで響き、地を動かす。 心なきひとはこれを見て、あら面白や、ただ戦いに雌雄を決する事ならずと思い、智ある人はこれを聞いて、あな忌々しや、偏に郊原(こうげん、のはら)に尸(かばね)を爭うに似ていると悲しむ。 見聞の准える所、耳目が異なると言えども、(今見たり聞いたりすることは、事実上の人間の闘争死亡とは違うが、見聞の似たものを例に取って考えれば、悉く人間の闘争と死亡とを前兆するものであって、呆れた行為である。 時政 参籠 榎嶋の事 北条氏が九代を保った理由 時は既にさんずいの堯季(ぎょうき、人情の薄い末世)に及んで、武家が天下の権を執ること源平両家の間に落ちて度々に及んでいる。 然れども、天道は必ず盈(みちる)を缺く故に、或いは一代にして滅び、或いは一世をも待たずに失せてしまう。 今、相模入道の一家は天下を保つことは既に九代に及んでいる。この事には故がある。 江島霊験譚 三鱗形の家紋の由来 昔、鎌倉草創の始めに、北條四郎時政が榎嶋に参籠して子孫の繁昌を祈願した。三七日(二十一日目」に当たる夜に、赤い袴に柳裏(柳色・青くて白ばんだ色の裏地を付けた衣)を着た女房で、端厳美麗なるが時政の前に来て、告げて言うには、汝の前生は箱根法師(箱根権現に仕える僧)であった。六十六部の法華経を書写して、全国六十六か国の霊地に奉納したる善根により、再びこの地に生まれる事を得た。 されば子孫は長く日本の主となって栄花に誇るであろう。但し、その挙動に違う所が有れば七代を過ぎる事はないだろう。吾の言う所に不審があるならば、国々に納めた霊地を見よ、と言い捨てて帰り給う。その姿を見れば、あれほどに厳めしくあった女房が忽ちに伏し長二十丈ばかりの大蛇となって海中に入ったのだ。 その跡を見ると、大きな鱗を三っつ残していた。時政は所願が成就したと悦んで、則その鱗を取って旗の文(もん)に押したのだ。今の三鱗形の文がこれである。 その後、弁財天の御示現に任せて国々の霊地に人を遣わして法華経奉納の所を見させたところ、俗名の時政を法師の名に替えて奉納筒の上に大法師時政と書いてあるのが不思議である。 されば、相模入道が七代を過ぎて天下を保っているのも江嶋の弁財天が御利生(ごりしょう)、又は過去の善因(善根と同じ)に感じられたものあるよ。 今の高塒禅門は既に七代を過ぎて、九代に及んでいる。されば滅びる時が到来して、かかる不思議の振る舞いをもなされるのかと覚えける。 大塔宮 熊野落ちの事 按察法眼好専 宮を般若寺に攻める 経箱に隠れ 危難を遁れさせらる 大塔二品親王は笠置の城の安否を聞き召されん為に暫く南都の般若寺に忍びで御座有りけるが、笠置の城は既に落ちて、主上は囚われさせ給いぬと聞こえしかば、虎の尾を踏む恐れ(危険を冒す譬え)が御身の上に迫り、天地は広いとは言え御身を隠すべきところはない。 日月は明らかではあるが長夜(冥途の闇)に迷っている心地がして、昼は野原の草に隠れ、露に臥して鶉の床(すなわち、叢・くさむら)に御涙を爭う。 夜は、孤村(人里離れた村)の辻に佇み、人を咎める里の犬に御心を悩まされ、何処であっても御心が安かるべき所がないので、暫しの間だけでも安心できる場所があればよいと思し召されている所に、一乗院(奈良の興福寺の内にある)の候人(そうろうびち、門迹家に仕えた僧形妻帯の侍者)按察法眼好専(こうせん)がどのようにして聞いたのか、五百余騎を率っして未明に般若寺にぞ寄せたりける。 折節、宮についていた人が一人もなかったので、一防ぎ防いで落ちさせ給うべき様もない上に、隙間もなく兵が寺内に既に打ち入っているので、紛れて御出でなさるべき方法もない。 さらばよし自害をしようと思召して、すでに推し膚を脱ぎなされたが、事が叶わなかった期(ご)に臨んで、腹を切ることは非常に簡単だ。 もしやと思し召し返して、仏殿の方を御覧なさると人が読みかけて置いた大般若経の唐櫃が三つある。二つの櫃はいまだ蓋を開けず、一つは御経を半分ほど取り出して、蓋をもしていない。この蓋を開いた櫃の中に御身を縮めて臥せさせたまいて、その上にお経を引きかずいて隠形(いんぎょう、身を隠す呪文。摩利支天経にある、真言秘密修法の一つとして行う)の呪(じゅ)を御心の中で唱えてぞ坐(おわ)しける。もしも探し出せれたならば、直ぐに突き立てようと氷のような刀を抜いて御腹にさし当てて、兵がこの中であると言う一言をお待ちなさる御心の中は、推量するのも猶浅かるべし。 さる程に兵は仏殿に乱れ入って、仏壇の下、天上の上まで余すところもなく探したが、余りに求め兼ねて、この様な物が怪しいぞと、あの大般若経の櫃を開いて見よとて、蓋をした櫃を二つ開いて御経を取り出し、底を翻して見たのだが、いない。 蓋を開いてある櫃は見るまでもないとて兵が皆寺中を出で去った。 宮は不思議の御命を継がせ給い、夢に道を行く心地がして、猶も櫃の中におわしましけるが、もし兵が再び立ち帰り委しく探す事も有るかも知れないと、御思案あって、前に兵が探した櫃に移り変わっておわしましけり。 案の如く兵共が仏殿に立ち帰り、前には蓋が開いていたのを見なかったが、覚束ないぞ。そう言ってお経を皆引き移して見たのだが、からからと打ち笑って、大般若経の唐櫃の中をよくよく探したれば、大塔の宮はいらせらないで大唐の玄奘三蔵がおわしたぞ、と戯れければ皆一同に笑って、門外へと出てしまった。 これは偏に、摩利支天の冥應(みょうおう、神仏が祈願に応じて守護すること)、又は十六善神の擁護(おうご)に依る命であると、信心肝に銘じ、感涙はお袖を潤したのだ。
2026年02月25日
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就中(なかんずく)、武家がかくの如くに許容の上は、賢息二人の流罪もいかでか赦免の沙汰がないであろうか。 それ、伯夷・叔斉は飢えて何の益があったか。 許由・巣父(きょゆう送付)は逃れて用いるに足らず。 そもそも身を隠して長く来葉の一跡を絶つ。朝に仕えて前祖の無窮(ぶきゅう)を遠く輝かさんと、是非得失はいずれの所にかあらん。鳥獣と群(ぐん)を同じくするのは孔子の取らざる所なりと、資明興は理を尽くして責められければ、宣房卿は顔色誠に屈服して、罪を以て生(しょう)を棄てる時は、則ち古賢は夕べに改めてこの勧めに違う。辱を忍んで、苟も全うする時は、則ち詩人なんの顔(かんばせ)あぅてこの謗りを犯すであろうか。と、魏の曹子建が詩を献じた表(議論や祝辞などの意味を書き表して君主に上げる書)に書いたのも理(ことわり)とこそ存ずるとて、遂に参仕(さんじ)の勅答を申されたのだ。 中堂の新常灯が消える事 山鳩が新常灯を消し、鼬(いたち)に食い殺された その頃、都鄙(とひ)の間に希代(きたい)の不思議共が多かった。 山門の根本中堂の内陣に山鳩が一番(ひとつがい)飛び来って、新常灯の油錠(あぶらつき、油皿)の中に飛び込んで騒ぎ立てている間に、燈明が忽ちに消えてしまった。 この山鳩は堂中が暗いので行き方に迷って、仏壇の上で翼を垂れていた所、承塵(しょうじん、鴨居の上または敷居の下に横に長く渡した木)の方から、その色は朱をさしたる如き鼬が一匹走り出てこの鳩をふたつながら食い殺して姿を消した。 そもそもこの常灯と申すのは、先帝が山門にお成りなされた際に、古に桓武天皇が自ら掲げさせなされた常灯に準えて、御手づから百ニ十筋の燈心を束ねて御油錠(おんあぶらつき)に油を入れて、ご自身で掻き立てなされた燈明であったのだ。 これは偏(ひとえ)に皇統の無窮を輝かさん為の御願、兼ねては六趣の群類の溟暗を照らす、慧光法燈の明らかなのに思し召し準えて、始め置かれてた常燈であるから、未来永劫に消える事はない筈なのに山鳩が飛来して打ち消したのは不思議であるよ。それを鼬が食い殺したのも不思議である。 相模入道 田楽を弄び 併せて 闘犬の事 高塒 新座・本座の田楽を愛玩する またこの頃に洛中で田楽を弄ぶ事が盛んであり、貴賤がこぞって着した(執着した、熱中した)。 相模入道がこの事を聞き及び、新座・本座(田楽の家元の名。京の白川田楽を本座、その他の流派を新座と言う)の田楽を呼び下して、日夜朝暮に弄ぶ事は他事なかった。 入興の余りに、宗との大名連に田楽法師を一人づつ預けて、装束を飾らせたのだ。これは誰がし殿の田楽、彼は誰がし殿の田楽、なんどと言って金銀宝玉を逞しくして、陵羅錦繡を飾った。 宴に臨んで、一曲を奏すれば、相模入道を始めとして一族大名、吾劣らじと垂直(したたれ)・大口(大口袴)を解(と)いで投げ出す。 これを集めて積むに、山の如し。その費え(費用)は幾千万とも知らず。 ヨウレボシの怪異、儒者仲範の批判 ある夜に一獻があったのだが、相模入道は数杯を傾けて、酔いに和(か)して(なごんで)立って舞う事がやや久しい。若輩の興を勧める舞でもてなし、又狂者の言葉を巧みにする戯れにもあらず。 四十有余の古入道、酔狂のあまりに舞を蒙のであるから、風情が有るとも覚えなかったのだが、何処から来たとも知れない新座・本座の田楽共が十四人、忽然として座席に列してぞ舞歌いける。その興は甚だ尋常を越えていた。 暫くしてから拍子(元は楽器の類で、木で作り、笏のような形であった)を替えて歌う声を聞けば、天王寺のやよヨウレボシとぞ、拍子ける。 或る官女がこの声を聴いて、余りの面白さに障子(ふすま、唐紙)を開けてこれを見ると、新座・本座の田楽共と見えた者は一人(いちにん)も人間ではなかった。或るものは嘴が鉤(かぎ)のようで鳶のようなるものがいる。或る者は身に翼があって、その形は山伏のようなものもある。 異類・異形の化け物共が姿を人に変じたものである。官女はこれを見て、余りに不思議に思ったので、人を走らせて城入道(じょうにゅうどう、秋田城介安達時頼。宗顯の子。高塒の外祖父)に知らせた。 入道は取る物も取り敢えずに太刀を取って、その酒宴の席に臨んだ。中門を荒らかに歩みける足音を聞いて化け物はかき消すように姿を消した。相模入道は前後も知らずに酔い臥している。 燈火を掲げさせて遊宴の座席を見ると、誠に天狗が集まったと覚えて、踏み汚した座敷の上には禽獣の足跡が多い。 城入道は暫く虚空を睨んで立っていたが、敢えて眼(まなこ)を遮る物もいない。 やや久しくして相模入道が驚き目覚めて、起きたのだが、立心偏に罔然(ぼうぜん)として更に知る所なし。 後日に、南家の儒者・刑部少輔仲範(中の利)がこのことを伝え聞いて、天下が正に乱れようとする時に妖霊星と言う悪星(あくしょう)が下って、災いを為すと言う。 聖徳太子がみずから日本一州(全国)の未来記を留められた。されば、あの妖怪が天王寺の妖霊星と謳ったのが怪しい。 如何様、天王寺辺から天下の動乱が出てきて、国家が敗亡すると覚える。哀れ、国主が得を治め、武家が徳を施して妖を消す謀を致されよかし。と、言ったのだが果たして、思い知られる世になってしまった。 かの仲範、実に未然の凶を鑑みた博覧の程こそ有難けれ。 高塒 闘犬に 沈溺する 相模入道はこのような妖怪にも驚かず、益々、奇物を愛することは止む時がない。 或る時に、庭前に犬どもが集まって嚙み合うのを見て、この禅門(仏門に入った男。禅尼に対する。此処は相模入道高時を指す)面白いものと見て、これを愛することは骨髄に入った。 即ち、諸国に相触れて、或いは正税((しょうぜい、税金、年貢)・官物(かんぶつ、官の所有物として募って、犬を尋ねて、或いは権門・高家に仰いでこれを求めける間に、国々の守護・国司、所々の一族大名が十ッ匹、二十匹と飼い立てて、鎌倉に引き参らす。 これを飼うのに魚鳥を以ってして、これを維持するのに金銀を以てする。その費えは甚だ多かった。
2026年02月23日
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日が暮れれば芦岸の煙に船を繋ぎ、明ければ松江(すんごう)の風に帆を揚げて、浪路に日を重ねれば都を御出でありて後二十六日と申すのに、御船は隠岐の国に着いたのだ。 佐々木隠岐の判官貞清は府の嶋と言う所に、黒木の御所を作って皇居とした。 玉扆(ぎょくい、王座)に咫尺して召し使われる人には、六条少将忠顯、頭大夫行房、女房には三位(さんみ)殿の御局だけである。 昔の玉楼金殿に引き換えて、憂き節茂き竹椽(たるき、屋根を支える為に家の棟から軒に渡す材)、涙隙ない松の垣、一夜も隔てる程も無くて耐え忍ぶ御心地もなく、鶏人(けいじん、中国周の制度で、鶏冠型の帽子をかぶり時刻を知らせる人)が暁を唱える声、警護の武士が番(宿直者が定刻に時々氏名を奏する声)を催す声ばかりが御枕の上に近いので夜のおとどに入らせられても露まどろみなさらない。 萩戸(はぎのと、清涼殿の室の名で夜の御殿の北。障子に萩が描いてあった)を開ける夜明けを待って、朝まつりごとはなけれども巫山(ぶざん、男女の情交が細やかな事。楚の懐王が夢で巫山・四川省にある)の神女と契った故事)雲雨が御夢に入らせられる時にも、まことに暁ごとの御勤め、北辰(ほくしん、北極星のことだが、ここは天御中主・あめのみなかぬしの神を指す)の御拝も怠らず、今年は如何なる年であるからか、百官が罪なくして愁いの泪(なんだ)を配所の月に滴(しただ)らせ、一人(いちじん、天子)位を易えて宸襟を他郷の風に悩まし給うのであろうか。 天地開闢以来このかた、かかる不思議を聞かず。されば天にかかる日月も誰の為に明らかなることを恥じざらん。 心なき草木もこれを悲しんで、花開く事を忘れるであろう。 巻 第 五 持明院殿 御即位の事 光巌天皇の御即位 当今奉公の 人々 元弘二年三月、二十二日に、後伏見院の第一御子(おんこ)、御年十九にして天子の位に就き給う。御母は竹内左大臣公衡(きんひら)の御娘、後には廣義門院と申せし御事である。 同(同じ木)年十月二十八日に、河原の御祓いがあって十一月十三日に、大嘗会を遂げ行われた。 関白は鷹司の左大臣冬教(ふゆのり)公、別當は日野中納言資名(すけな)の卿にてぞおわしける。 いつしか當今奉公の人々は皆一時に望みを達して、門前に市をなし、堂上は花の如し。 中にも、梶井二品親王は天台座主ならせ給いて、大塔・梨本・の両門跡を併せて、御管領(ごかんりょう、支配領有)有りければ、御門徒の大衆が群集して御拝堂(座主が登山して中堂の本尊に礼拝する事)の儀式は厳重である。 しかのみならず、御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹にお移りあって、東寺一流の法水を湛えて北極(天子)万歳の聖運を祈り給う。 これ皆、後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝(御兄弟)である。 宣房卿 二君に奉公 の事 光巌天皇、日野資明を使いとして 万里小路宣房を召される 宣房の返答と参仕 萬里小路(までのこうじ)大納言宣房卿は元来(もとより)前朝旧労(古くから功労のあるお気に入りの臣)であられる上に、子息の藤房・季房(すえふさ)が笠置の城で生け捕られ、遠流されてしまったので、父の宣房卿も罪科深い人であるべきなのを、賢才の聞こえが有ると言うので関東は別儀を以てその罪を宥め、当今に召し仕わせらるべき由を奏し申したのだ。 これに依って、日野中納言資明卿を勅使としてこの旨を仰せ下されければ、宣房卿は勅使に対して申されたのは、臣は不肖の身であるとは言えども、多年奉公の労を以て君の恩寵を蒙り、官禄が共に進んで、あまつさえ政道輔佐の名を汚す。 君に仕えるの礼、その罪あるに値する。厳顔を犯して、道を以て諫め言偏の爭う。三度諫して入れられざる時は身を奉じて以て退く、匡正の忠があって阿順(あじゅん、おもねり随う)の従はない。これが良臣の節である。 もしも諫めるべきを見て諫めざるは、これを尸位(しい、尸は空しく位にあってその実がない事。禄盗人)と言う、退くべきを見て退かざるをこれを懐寵(かいちょう、君寵を頼む意、官を辞するべきであるのに、その地位に恋々たること)と言う。 懐寵と尸位とは国の奸人(かんじん、悪人)であると、言った。 君に今不義の行いがあったならば、武臣の為に辱め賜えり。これはあらかじめ知らざる所によって諫言を献ぜずと言えども。世人あに罪なきことを許せるや。 なかんずく、長子二人が遠流の罪に処せられ、我は既に七旬の齢(七十歳)に傾いている。後栄(後日の繁栄)は誰の為に期(ご)せん。前非を何でまた恥じないでいようか。二君の朝(ちょう)に仕えて、辱を衰労の後に抱かんよりは、伯夷(はくい)の行いを学んで、飢えを首陽の下に忍ぶのにはしかない。と、涙を流して宣いければ、資明卿は感涙を抑えかねて暫くは言をも宣わず、ややあってから宣いけるには、忠臣は必ずしも主を選ばず。仕えて治まるべきかを見るだけである。と、言った。 されば、百里奚は再び秦の穆公に仕えて、永く覇業を致さしめ、管夷吾は翻って斉の桓公を佐(たす)けて、九(ここのたび)諸侯を朝せしむ。 主以て鉤(かご)を射るの罪を言う事ない。世皆皮を鬻(ひさ)ぐ恥を如何ともせずと、言っている。
2026年02月19日
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忠臣が諫めを納れるけれども、呉王はかつて用い給わざりしかば、余りに諫め兼ねて、ままよ、身を殺して危うきを助けようと思ったのか、伍子胥は又或時に、ただ今新たに砥(と)から出た(研ぎ立ての)青蛇(剣の名)を持ってまいりたり。 抜いて呉王の前に拉(とりひし)いで申したのは、臣はこの剣を研ぐこと邪を退け、敵を払うためであります。つらつらと国が傾くこうとするその基を尋ねると、みな西施から出ている。これに過ぎる敵はあるべからず。願わくは西施の首を刎ねて社稷の危うきを助けん、と。 そう言って、牙を噛んで立ったのだが、忠言は耳に逆らう時に、君は非を犯さずと言う事がないので、呉王は大いに怒って伍子胥を誅しようとした。 伍子胥は敢えてこれを悲しまず、爭い諫めて節に死するのは、これは臣下の則(のり)である。我は正に越の兵の手で死ぬよりはむしろ君王の手で死ぬことは恨みの中の喜びです。但し、君王臣の忠諌に怒り吾に死を賜うこと、これは既に君を棄てたのでありまする。 君は越王の為に亡ぼされて、刑剹の罪に伏さんことは三年を過ぎないでありましょう。願わんに臣の両眼をくり抜いて呉の東門に掛けられ、その後に首を刎ねられよ。一双の眼(まなこ)がまだ涸れない前(さき)に、君は勾践に滅ぼされて死刑に赴くのを見て、一笑を快くしよう。と、申したところが、呉王は益々忿って、即ち伍子胥を誅せられ、その両眼を穿って呉の東門の幡(はたほこ)の上に掛けられた。 范蠡 呉王を撃って これを殺す この後では、君が悪を積めども臣は口をつぐみ、万人は目を以てした(目配せして非難した)。 范蠡はこれを聞いて、時は既に到来した。と悦び、自ら二十万騎(ぎ)の兵を率っして、呉国に押し寄せたのだ。 呉王の夫差は折節晋国が呉に背いたと聞いて、晋国に向った隙であっあので、防ぐ兵は一人も無かった。 范蠡は先ず西施を取り返して、越王の宮に帰し入れ奉り、姑蘇臺を焼き払った。 斉・楚の両国(りょうごく)も越王に志を通じさせたので、三十万騎(ぎ)を出して范蠡に力を戮(あわ)せた。 呉王はこれを聞いて、先ず晋国との軍をさしおいて、呉国に引き返し、越に戦いを挑もうとすると前には呉・越・斉・楚の兵が雲霞の如くに待ち懸けた。 後ろには又、晋国の兵が勝ちに乗じて追いかけた。呉王は大敵に前後を挟まれて、逃れるべき方もなくて死を軽んじて戦う事三日三夜、范蠡は新手を入れ替えて息をつがせずに攻めたので、呉の兵は僅かに三百騎になってしまった。 呉王は自らあい当たる事、三十二か度、夜半に囲みを解いて六十七騎を従えて姑蘇山に取り上り、越王に使者を立てて曰く、君王、昔、会稽山に苦しみし時に、臣夫差がこれを助けた。願うのは、吾は今より後は越の下臣となって君王の玉足偏の沚(ぎょくし、御足)を戴きましょう。君がもしも会稽山の恩を忘れないのであれば、臣の今日の死を救い給え、と、言葉を卑しくし、礼を厚くして降参することを請われたのだ。 越王はこれを聞いて、古の自分の思いに今人(こんじん)の悲しみはさこそと思い知りなされているので、呉王を殺すに忍びずにその死を救おうと思われた。 范蠡はこれを聞いて、越王の御前に参りて面を犯し(面前も憚らずに)、申したのは、木偏に可(か)を伐るのにその則(のり)は遠からず(木偏の可は斧の柄、木を伐るのに現在もちいている斧の柄が手本である、則ち手本は身近にある)。会稽の古は天が越を呉に与えたり。 然るを越王は取ることなくして忽ちにこの害に遇えり。今却って天は越に呉を与えたり。取ることがなければ越は又この様な害に遇うであろう。 君臣共に肺肝を砕いて呉を謀る事二十一年、一朝にして棄てる事あに悲しからざらんや。君が非を行って時に顧みざるは臣の忠である。と、言って、呉王の使者がまだ帰らない前(さき)に范蠡みずからが攻め皷を打って兵を勧め、遂に呉王を生け捕って軍門の前に引き出した。 呉王は既に面縛(めんばく、手を背で縛られて、面を前に向ける事)せられて、呉の東門を過ぎる時に、忠臣伍子胥の諫めに依って、首を刎ねられるときに籏鉾の上に掛けた一双の眼(まなこ)h三年(みとせ)まで涸れずにあったのだが、その眦(まなじり)が明らかに開いて笑う気色であるのを呉王はさすがにこれに相まみえるのが恥ずかしく思われたのか、袖を顔に押し当てて首を低(た)れて過ぎ給う。数万の兵はこれを見て、涙を流さない者はいなかった。 即ち呉王を典獄の官に下されて、会稽山の麓で遂に首を刎ね奉る。 古来より俗の諺に曰く、会稽の恥を雪(きよ)めるとはこの事を言うのであろう。 范蠡は 万戸侯たることを辞して、五湖に遁(のが)れる これより越王は呉を併合しただけではなくて、晋・楚・斉・秦を平(たいら」げて、覇者(はしゃ、徳に依らずに武力で政治をとる諸侯の頭)となったので、その功を賞して范蠡を満戸侯(ばんここう、一万の戸数の在る土地を有する大名)封(ほう)じようとしたが、范蠡はかつてその禄を承けずに、大名の下には久しく居るべからず、功なり名を遂げるは身退くのは天の道である、と言って遂に姓名を替えて、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばわりて五湖(ごこ、江蘇・浙江の二省にまたがる太湖)に身を隠し、世を遁れてぞ居たりける。 釣りをして芦花の岸に宿すれば、半蓑(はんさ)に雪を止めて(蘆の花が雪の如く蓑の半面を彩り、歌って楓葉の陰を過ぎれば、孤舟に秋を載せたり。一蓬の月、満頃(ばんきょう)の天、紅塵の外に遊び、白頭の翁となったのだ。 高徳(たけのり)はこの事を思い准えて、一句の詩に千般(せんぱん)の思いを述べ、密かに叡聞に達したのだ。 天皇 隠岐の国に 御到着、配所における御動静 太平記著者の 批評 されほどに先帝は、出雲の三尾(みを)の湊に十余日間御逗留なされてから、順風になったので、舟人共が纜(ともづな)を解いて、御艤(みふなよそい)して、兵船三百余艘を前後左右に漕ぎ並べて、萬里の雲に寄り添って進む。 時に滄海沈沈として(青海原が静かに暮れてゆき)日は西北の浪に没して、雲山しんにゅうの超々(雲や山が遥かで)として月が東南の天に出ると漁舟の帰るのが見えて、一灯が柳岸に幽かである。
2026年02月18日
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句践の帰国 西施を呉王に獻ず 西施と句践との別離 越王は既に車の轅を廻らして、越の国に帰り給う所に、蛙がその数を知らざるほどに車の前に跳び来った。句践はこれを見て、これは勇士を得て素懐(兼ねてからの目的)を達する瑞相であるとして、車から降りてこれを拝し給う。 かくて越の国に帰って、住來故宮(すみよしこきゅう)を見給うと、いつしか三年で荒れ果て、梟(ふくろう)が松桂の枝に鳴き、狐は蘭菊の叢に隠れて住む。 払う人が無くて、閑庭(静かな庭)に落葉が満ちていて蕭蕭(しょうしょう、淋しい様)たり。 越王は死を免れて、帰り給いぬと聞いて、范蠡は王子の王喜と石輿を王宮に入れ奉った。 越王の后に西施と言う美人がいた。容色が世に勝れて、嬋娟(せんけん、美好貌、美しいこと)類が無かったので、越王は殊に寵愛が甚だしくて、暫くも傍を離し給わざる。 越王が呉二囚われた間はその難を遁れる為に身を側によけて隠居しておられたが、越王が帰りなされたと聞いて、即ち後宮に返り参りなされた。 年の三年は待ちわびて、堪えぬ思いに沈みなされておられたので、髪も梳らずに膚の色艶も衰えた御姿は、この上もなく気品が高く、梨花一枝が春雨に綻びた如くで、譬えようもなく美しい。 公卿(こうけい)・大夫・文武百司(はくし)がここ、彼処から馳せ参じて集まった。 軽軒(けいけん、軽くて迅速な車)紫陌塵(しはくのちり)に馳せ、冠珮(かんぱい、冠や玉の帯び物)丹土に犀(たんさい、丹朱で地を塗った階上の庭、宮庭を言う)の月にさざめいて、堂上堂下再び開く花の如くである。 こうした折に、呉国から使者が着た。越王が驚いて范蠡に事の仔細を問わしめた所、使者が答えて曰く、我が君呉王大王淫を好み、色を重んじて、美人を尋ねて給う事は天下に編まねし。 しかれども、未だ西施が如き顔色を見ず。越王は会稽山の囲みを出る時に、一言の約があった。早くかの西施を呉の後宮にかしづき入れ奉り、后妃の位に備えようとの使いである、 越王はこれを御聞きなされて、我呉王の夫差の陣に下って、恥を忘れて石琳を嘗めて命を助かったことは、全く国を保ち身を栄えさせよう為ではなかった。ただ西施と偕老の契りを結ぼうとの思いであった。 生前に一度別れて、死して後に再会を期(ご)すならば萬乗の国(天子の国)を保っても、何に成ろうか。さればたとえ呉越の會盟が破れて、再び我呉王の夫差の為に擒(とりこ)になったとしても、西施を他国に送ることはあるべからずと、宣いける。 范蠡が涙を流して申した事には、誠に君が展轉(てんてん、伏しまろび物を思う事)の思いを計るに臣は悲しまざるに非ずと言えども、今西施を惜しみ給えば、呉越の軍は再び敗れて、呉王は又兵を発するでありましょう。 そうなれば、越の国を呉に合わされるだけではなく、西施をも奪われるでありましょう。社稷をも傾けられるでありましょう。臣がつらつらと計るに、呉王が淫を好み色に迷う事は甚だしい。 西施が呉の後宮に入る程であれば、呉王は彼女に迷って政治を失う事は疑いない事でありましょう。 国は費え(衰弱する)民が離反するに及んだ際に、兵を挙げて呉を攻めるならば、勝つことを立ちどころに得るでありましょう。 これは子孫が万歳に及んで夫人(天子の妾、夫は扶けるで良人を助ける人の義)連理の御契(おんちぎり)は久しかるべき道となるでありましょうと、一度は泣き、一度は諫めて、理を尽くして申しければ、越王は理に折れて西施を呉国に送られたのだ。 西施は小鹿の角の束の間も別れてあるべき物かはと、思う仲を割けられて、未だ幼(いとき)ない太子王喜と石輿(おうせきよ)を言い知らず思い置きて、習わない旅に出で成されたので、別れを慕う涙さえしばしの程も止め兼ねて、袂が乾く隙もない。 越王はまた、これが最後の別れになるだろうと、堪えぬ思いに臥し沈んで、其方の空を遥々と詠め遣りなされると、遅々たる暮山の雲は益々涙を誘って、雨の如くに流れ落ち、空しい床に一人寝て夢でもせめては相逢いたいと枕をそばだてて臥しなされると、添う甲斐もない俤に仕方も無く歎きなされるのもげに理(ことわり)である。 呉王は西施の色に迷い 国が乱れる 呉子胥の 忠死 かの西施と申すのは天下第一の美人である。装いを為して一度微笑めば百(もも)の媚は君の眼(まなこ)を迷わせ、次第に宮中の地上には花がないのかと疑いだす。美しく艶のある姿を隠してちらりと見ると、千態のあでやかな姿が人の心を蕩かして本心を失わせ、忽ちに雲間に月を失うかと怪しまれる。 されば一度宮中に入り、君の傍らに侍るようになると呉王の心は浮かれて、夜は夜もすがら淫樂をのみ嗜み、世の政(まつりごと)をお聞きなさらず、昼は尽日遊宴だけを事として、国の危ういのも顧みずに金殿雲を差しはさんで、四辺百里の間、山河を枕の間に見下ろして、西施が宴する夢の中に興を催そうとなさる。 輦路(れんろ、天子の通る道)に花がない春の日には麝(じゃ、麝と言う獣の腹部に塊状のものがあって香気を貯える)臍(せい)を埋めて履(くつ)を匂わし、行宮(天子が都の外にいる時の居所」に月の無い夏の夜には、蛍火(けいか)を集めて燭(ともしび)に易えた。 淫乱は日を重ね、更に止む時がなかった。上が荒(須佐)み下が廃れる。 佞臣はおもねって諫めず、呉王は万事を酔って忘れたが如し。 呉子胥がこれを見て諫めて呉王に申し上げた事には、君は見ないのでしょうか、殷の紂王が妲妃(だっき)に迷い世を乱し、周の幽王は褒似(ほうじ)を愛して国を傾けた事を。君今、西施を淫し給う事はこれらに過ぎておられる。国の傾敗(けいはい、衰え敗れること)は遠くにはありません。願わくは、君、これを止め給え。と、巌顔(げんがん、厳格な顔)を侵して諫め申したのだが、呉王は敢えてお聞きにならない。 或る時に、又呉王が西施の為に宴を催おそうと群臣を召して、南殿の花に酔う事を勧めている所に伍子胥が威儀を正しくして参ったのだが、さしも玉を敷き、金をちりばめた瑶階(ようかい、美しい階段」を上るとと言うので、その裾を高く掲げたのはまるで水を渡る時の如くである。 その様子が怪しいので問うと、伍子胥が答えて申したのは、この姑蘇臺は越王によって滅ぼされて草深く、露深い地となることは遠くにはない。臣がもしも命を長らえてそれまでいたならば、すんで来た昔の跡だと言って尋ねて見る際に、さこそは袖から余る荊棘(けいきょく、茨)の露もさんずいの襄々(じょうじょう、露があまねく置く様)として深いだろうと行く末の秋を想像して身を習わそうと裳裾を掲げているのだと、申した。
2026年02月17日
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臣、平生将軍と交わりを結ぶ事、膠漆(こうしつ、膠と漆、友情が厚いこと事に譬える)よりも堅い。生前の芳恩はただこの事の為にあり。 将軍早くこの事を、呉王に奏して、臣の胸中の安否を存命の裏に知らしめ給え。と、一度は怒り、一度は歎き、言葉を尽くして申しければ、太宰喜否は顔色誠に解けて、事以て難じず、我必ず越王の罪をば申し宥めるであろう。とて、やがて呉王の陣へと参った。 太宰喜と否は呉王の玉座に近づき、事の仔細を奏したところ、呉王は大いに怒って、そもそも呉と越とが国を爭い、兵をあげる事は今日だけの事ではないぞよ。然るに、句践運が極まって呉の虜となった。これは天が予に与えたものではないか。汝は是を知りながら句践の命をいた。と、喜ばぬ人もなかった。 越王は既に降旗を建てられたので、会稽の囲みを解いて呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰った、 句践 姑蘇城に 禁獄される、范蠡 魚書を送る 句践は即ち、太子王喜に石與をば大夫種に付けて本国に帰し遣わして、わが身は白馬素車(白い馬の白木の車、一切の飾りがない、人を弔い、叉神に祈り罪の赦しを乞う時などに用いる)に乗って、璽糸偏の授(天子の印とそれを帯びる組紐)を懸けて、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に下り給う。 そうではあるが、呉王はそれでも心赦しは無かったのであろう、君子は刑人には近づかないと言って句践に面を見せ給わず、あまつさえ句践を天獄の官(役人)に預けて、一日に行く事は一駅駆けさせて呉の姑蘇城(呉の都城、姑蘇山の側に夫差の父閾盧が三百丈の高台を築かせて姑蘇台と言う)に入らせた。 その有様を見る人は、涙が懸からない袖はない。 日を経て姑蘇城にお着きなされたので、即座に木偏の丑械(手かせ足かせ)を入れて、土の牢に入れ奉る。 夜明け、日暮共に月日の光を見なさらないので、一生を溟暗の中に向って歳月の遷り易わりをも知り給わねば泪が浮かぶ床の上、さこそは露も深かったであろう。 さる程に范蠡は、越の国にあって、この事を聞くにつけても恨みは骨髄に達して、忍び難く、哀れ如何なることをしてでも越王の命を助け、本国に帰らしめたい、と諸共に謀を廻らして会稽山の恥を雪(きよ)めようと、肺肝を砕いて思ったので、身を疲れさせて形を替え、竹冠に責(あじか、竹・葦などで編んだ籠、土・草・野菜などを入れて運搬する)に魚(うお)を入れて自ら是を担い、魚を売る商人の真似をして、呉国に行ったのだ。 姑蘇城の辺に安らい、句践がいらっしゃる所を尋ねた所、ある人が委しく教え知らせてくれた。范蠡は嬉しく思って、かの獄の辺(ほとり)に言った所、禁門の警護は隙が無くて一行の書を魚の腹に入れて獄の中へぞ投げ入れた。 句践は怪しく思われて、魚の腹を開いて御覧なされると、 西伯囚羊の下に久里 重耳走翟 皆以為王覇 莫死許敵(殷の紂王が崇侯虎の讒により西伯・周の文王を美里で捕らえたが、西伯の臣が美女・奇物等を献じたので西伯は許され、遂に王業を為した。故に、君よ、死を敵に許しなさるな)と、書かれている。 筆の勢い、文章の体はまがうべきも無く范蠡の仕業と見給いければ、彼はまだ憂き世に長らえて、我がために肺肝を尽くしていると、その志を哀れとも、叉頼もしいとも覚えたので、一日片時も生きるのが憂しとかこたれていたわが身であったが、命が却って惜しいと思われたのだった。 句践は 石琳(せきりん、腎臓、又は膀胱に砂石が生ずる病)を嘗め 国に帰ることを許された かかるところに、呉王の夫差が俄かに石琳という病を受けて、心身がとこしなえに悩乱して、巫覡(ぶげき、神に仕え、舞楽を奏して神おろしを行う人。男を覡・おかんなぎ、女を巫・めかんなぎと言う)が祈ったが共に験がなかった。医師が治療したが治らない。 露命(儚い命)が既に危うく見えた時に、他国から名医が来りて申しけるには、 御病気は実に重いのですが、医師の術が及ばないわけではありません。石琳の味を嘗めて、五味の味を知らせる人が有れば容易く療治を奉るべしとぞ、申しける。 さらば、誰かこの石琳を嘗めて、その味わいを知らせる人が有れば容易く療治奉るべしと、問えば左右の近臣が相顧みて、これを嘗める者は更になかった。 句践はこれを伝え聞いて、泪を抑えながら宣わく、我は会稽の囲みに遇った際に罰せられるべきなのを、今に命を助け置かれて天下の赦しを待つ事、ひとえに君王の慈彗の下に心の厚恩である。いま我これを以て報じなければいつの日を期(ご)そうか。と言って、潜に是を取りて嘗め、その味わいを医師に伝えられた。 医師は味わいを聞いて治療を加え、呉王の病は忽ちに平癒した。 呉王は大いに喜んで、人に心が有ってわが命を助けた。我にどうしてこれに謝する心がないだろうか。越王を牢から出しただけではなく、あまつさえ越の国を返し与えて、本国に返り去るべしとぞ宣下された。 ここに呉王の臣・伍子胥と申す者、呉王を諫めて申しけるは、天が与えたるを取らざるは却ってその咎を得る、と言った。 この時に、越の地を取らずに句践を返し遣わされた事は、千里の野辺に虎を放つが如し。禍は近くにあるべしと申しけるが、呉王はこれを御聞きなされずに、遂に句践を本国に帰されたのだった。
2026年02月13日
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頃は二月上旬の事なので、余寒がまだ激しくて、河水は氷に連なっている。 兵は手が凍えて弓が引けない。馬は雪に泥(なづ)んで懸け引きも自由ではない。 されども越王は責鼓(せきこ、敵に攻めかかる合図に鳴らす皷)を打って兵を前にと進ませた。 越の兵は我先にと矕(くつばみ、馬の口輪)を並べて駆け入ったのだ。 呉国の兵は兼ねてより敵を難所に誘(おび)き入れて、中に取り込めて討とうと議していた事なので、わざと一軍(ひといくさ)もせずに夫椒縣(ふしょうけん)の陣を引き退いて会稽山に引きこもった。 越の兵は勝ちに乗じて、逃げるのを追撃すること三十余里、四隊の陣を一陣に合わせて、左右を顧みずに馬の息が切れる程に、思い思いに追いかけたのだ。 日が既に昏なんとするに、呉兵の二十万騎が思う図に敵を難所におびき入れて、四方の山から打ち出でて越王の句践を中に取り込めて、人も漏らさないと責め戦う。 越の兵は今朝の軍に遠駈けをして人馬共に疲れた上に、無勢である。呉の大勢に囲まれて、一所に打ち寄って控えたのだ。 進んで前なる敵にかからんとすれば、敵は険阻に支えて鏃(やじり)を調えて待ち懸けている。 引き返して、後ろにいる敵を払おうとすると敵は大勢で越兵は疲労した。進退がここに谷(きわ)まって敗亡は既に極まった。 されども越王句践は堅(かたき)を破り、利(時)を摧(くだ)くことは項王(こうおう)の勢いを呑み(楚王項羽の蓋世の気を一飲みにする程の勢いで)にする程に気力に溢れ、范會(はんかい、漢の高祖の勇臣)の勇にも過ぎたので、大勢の中に駈け行って十文字に懸け破り、巴の字に追い廻らした。 一所に合って三つ所に別れ、四方を払って八面に当たる。傾刻(けいこく、暫時の間)に変化して百度戦うと言えども、越王は遂に打ち負けて、七万余騎が討たれてしまった。 句践は堪えかねて会稽山に打ち上り、越の兵を数えたところが打ち遺された兵は僅かに三万余騎である。それも半ばは手を負い、悉く箭は尽きて、鉾先は折れている。 勝負を呉越に伺って、いまだどちらにも味方しない隣国の諸侯は多くが呉王の方に馳せ加わりければ、呉の兵はますます数を増やして三十万騎、会稽山の四面を囲む事は稲麻竹葦(とうまちくい、大勢が群がり寄せる形容)如し。 越王は帷幕の内に入り、兵を集めて宣いけるは、我は運命が既に尽きて、今この囲みに遇っている。これは全く軍の咎ではない。天が我を亡ぼしたのだ。そうであるから我は明日、士と共に敵の囲みを出て、呉王の陣に懸け入り、尸(かばね)を軍門に晒し、恨みを再生(再びこの世に生まれる事)に報ずる覚悟である。と言い、越の重器(宝物)を集めて悉く焼き捨てようとした。又、王喜に石輿(おうせきよ)とて今年八歳になり給う最愛の太子は越王に随って同じくこの陣に座(おわし)けるを呼び寄せ奉りて、汝は未だ幼稚ではあるので、わが死に遅れて敵に捕らわれ、憂き目に遭う事も心憂くあるだろう。 もし又我が敵に捕らわれて、我が汝より先にたつならば、生前の思いは忍び難い。如かず、汝を先立てて心安く思い切り、明日の戦で討ち死にして九泉の苔の下、三途の露の底までも父子の恩愛を捨てまいと思うのだ。 と言い、左の袖で涙をぬぐい、右の手に剣を引っ提げて、太子に自害を勧め賜った時に、越王の左将軍に大夫種と言う者がいた。 越王の御前に進み出て申したのは、生を全くして命を待つ(自然の死を待つ)ことは遠くして難し。死を軽くして節に随う事は近くして易し(死を軽んじて義務を守ることは卑近で容易でる)。君暫く越の重器を焼棄て、太子を殺す事を止め給え。 臣は不敏ではるが、呉王を欺いて君王の死を救い、本国に帰して再び大軍を起こし、この恥を濯がんと思う。今この山を囲んで一陣を張る呉の上将軍の太宰喜と否(だざいひ)は私の古くからの友人でありまする。久しく相馴れて彼の心を察してみたのですが、これは真に血気の勇者であえると言えども、飽くまでその心に欲があって後の禍を顧みず、又、かの呉王夫差の行跡(こうせき、行動、振舞)を語るのを聞いた所、智は浅くして、謀(はかりごと)は短く、色に淫して道に暗い。 君臣共に欺くに安い所であるよ。そもそも今越の軍は利がなくて、呉の為に囲こまれてしまったことも君が范蠡の諫めを用い給わざりし故ではありませんか。願わくば君王、臣の尺寸の謀を許されて、敗軍数万の死を救い給え、と諫め申しければ、越王は理に折れて、敗軍の将は再び謀(はか)らずと言った。今から後の事は凡てを大夫種に任せるべしと宣いて、重器を焼かれることを御やめになった。そして太子の自害をも止められた。 大夫種は則ち君の命を請けて、兜を脱ぎ旗を巻いて、会稽山から馳せ下り、越王は勢いが尽きて呉の軍門に降る、と呼ばわりければ呉の兵三十萬騎は皆勝鬨の声を挙げて万歳を唱えた。 大夫種は則呉の轅門(えんもん、軍門、陣営の門)に入って、君王の倍臣(ばいしん、陪の当て字で臣の臣)越句践の従者・小臣の種が謹んで呉の上将軍の下執事に属(しょく)す(つき従う、服従する)と言って膝行頓首して(膝で這って歩き、首を地に着ける)太宰喜と否(ひ)の前に平服した。 太宰喜と否は床の上に座して帷幕を挙げさせて大夫種に謁(えっ)した。 大夫種は敢えて平視せず、面を低(た)れ涙を流して申しける。寡君(かくん、私の主君、徳が少ない意、謙遜して言う)句践は運が極まり、勢いが尽きて呉の兵に囲まれてしまいました。よって今小臣種をして、越王長く呉王の臣となり一畝(ぽ、田地の面積の単位。古くは六尺四方を歩と言い、百歩を畝と言った。僅かばかりの地の民を一畝の民と言う)の民とならん事を請(こ)わしむ。願わくは先日の罪を許され、今日の死を助け給え。 将軍がもし句践の死を救いなさるならば越の国を呉王に献じて、湯沐地(とうもくち、沐浴の料に備える地、領地)となし、その重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいそう、拭き掃除)の為の妾に致し、一日の歡娯の備えるでありましょう。 もしもそれ、望む所を叶えないで句践を罰するのであれば、越の重機を焼却して、士卒の心を一つにして呉王の堅陣に懸け入り軍門に屍を止める覚悟です。
2026年02月12日
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警固の武士共、朝(あした)にこれを見付けて、何事をか如何なる者が書いたのであろうか、とて読みかねて、則ち上聞(じょうぶん)に達したのだ。 主上はやがて詩の意味を御悟りなされて龍願殊に御快く笑わせたまえども、武士共は敢えてその来歴を知らず思い咎める事もなかった。 詩の来歴 呉越両国の爭い そもそもこの詩の心は、昔異朝に呉越と言って並んだ二つの国があった。この二つの国の諸侯皆王道を行わず、覇業を務めとしていたので、呉は越を伐(う)って取ろうとし、越は呉を亡ぼして併合しようとした。 このように相争う事が累年に及んだ。呉越が互いに勝負を易(か)えたので、親の敵となり子の仇となって共に天を戴くことを恥じた。 越王句践 范蠡の諌を聞かずに 呉国を撃つ 周の季(すえ)の世に当たって、呉国の主をば呉王夫差(ふさ)と言い、越国の主を越王句践と申された。 或時にこの句践が范蠡と言う大臣を召されて宣いけるには、呉はこれ父祖の敵である。我いまだこれを撃たないで徒に年を送っている事、嘲りを天下の人から受けているだけではなくて、かねては父祖の尸(かばね、屍)を九泉(きゅうせん、墓場)の苔の下に辱めている恨みが有る。 しかれば我今国の兵(つわもの)を召し集めて、自らが呉国に打ち越えて呉王の夫差を亡ぼし、父祖の恨みを散ぜんと思う。汝は暫くこの国に留まって社稷(しゃしょく、社は土地の神、稷は穀物の神、君主が居城を建てる時にこの二神を王宮の右に祭り、宗廟を左に祭る。転じて宗廟または国家の意味に用いる)を守るべしと宣いける。 范蠡が諫めて申したのは、臣が密かに事の仔細を計りけるに、今の越の力を以って呉を亡ぼそうとするのは非常に難しいことでありましょう。その故は、まず両国の兵を数えると呉は二十万、越は僅かに十万騎でありまする。 誠に小は以って大に敵しないでありましょう。これが呉が越を亡ぼし難いひとつであります。次には、時を以って計るに春夏は陽の時で(萬物が発生の時で)忠賞を行い、秋冬は陰の時で、刑罰を専らにする。 時は今、春の始めであり、これは征伐を行う時ではありません。これが呉を亡ぼし難い理由の二つ目です。次に、賢人の帰する所はすなわちその国の強さでありまする。臣が聞く所では、呉王夫差の臣下に伍子胥(ごししょ)と言う者がおります。智が深くて人を懐け、慮(おもんぱか)り遠くして主を諫める。彼が呉国にいる間は呉国を亡ぼす事は難しく、これが理由の三つ目でありまする。麒麟(きりん、中国で聖人が出現する前に姿を現すと言う想像上の動物)は角に肉が有って猛き形を現さず。潜龍は三冬(さんとう、冬の三か月、孟冬・陰暦十月、仲冬・陰暦十一月、季冬・陰暦十二月)に蟄(ちっ、隠れる)して一陽来復(いちようらいふく、陰暦十一月。冬至の日を言うがここでは冬が去り春が来る義)の天を待つ。 君が呉越を合わせられ、中国に臨んで南面(天子の位について)にして孤称(孤とは徳がないことで、諸侯が臣下に対する自称。帝王となる意)しようと言うのであれば、暫くは兵を伏せて、武を隠し、時を待ち給うべきでありましょう、と申した所が、その時に越王が大いに怒って宣いける。 礼記(らいき、儒教の最も基本的な教典である経書のひとつで、周礼・しゅらい儀礼・ぎらいとあわせて三礼・さんらいと言う)に父の讎(あだ、敵)とは共に天を戴かずと言っている。我は既に壮年に及んでいる。が、呉を亡ぼさずにいる。共に日月の光を戴くのは人が辱める所ではないだろうか。 これを以て兵を集める所に、汝は三つの不可を挙げて我を止める事、その義一つも道に叶わず。先ず兵の多少を数えて戦いを致すべからずんば、越は誠に呉に対しがたい。 しかれども、軍の勝負は必ずしも勢の多少には依らない。ただ時の運に依る。又は将の謀に依るあろう。されば呉と越が戦う事が度々に及び、雌雄は度毎に易(か)わっている。これは汝が皆知る所である。今更にどうして越の小勢を以って呉の大敵に戦う事は叶わないと我を諫めるのであるか。汝の武略が足りない所の一つである。次に、時節を以って軍の勝負を計るのであれば、天下の人は皆時を知っているぞ。誰が軍に勝たないだろうか。 もし春夏が陽の時で、罰を行わないというのであれば、殷の湯王(とうおう)が桀(けつ)を討ったのは春である。周の武王が紂(ちゅう)を討ったのも春だ。周の武王が紂を討ったのも春である。されば天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かずと言っている。 しかるに汝は今、征伐を行う時では無いと我を諫めている。これは汝に知慮の淺い所の二、次に、呉国に伍子胥なる者が有る間は、呉を亡ぼす事は叶わないと言うのは、我遂に父祖の敵を討って恨みを泉下に報ずることはあるべからず。 ただ徒に伍子胥が死ぬことを待っていれば死生に命あり、又は老小前後する。伍子胥と我といずれを先とするか。この理を弁えずに、我は征伐を止めるべきであるか。これが汝の愚の三である。 そもそも我、多日(たじつ)に及んで兵を召す事は定めて呉国にも聞こえているであろう。事が遅滞して却って呉王に寄せられるならば、悔いた所で益が有る筈はない。先んずればすなわち人を制し、遅れる時には人に制せられる、と言う。事は既に決している、しばらくも止むべからず。 と言って、越王は十一月二月の上旬に句践自らが十万余騎の兵を率いて、呉国へと寄せられた。 呉王の夫差はこれを聞いて、小敵をば欺くべからず。とて、自ら二十萬騎の兵を率して呉と越の境の夫木偏の升県(ふしょうけん)と言う所へと馳せ向かい、後ろに会稽山を当て、前には大河を隔てて陣を取った。 わざと敵を計る為に三万余騎を出して、十七万騎の兵を後ろの山蔭に深く隠して置いたのだ。 越王句践は 会稽山に囲まれて 呉王に下る さるほどに越王は夫木偏の升県に打ち望んで呉の兵を見た所、その勢は僅かに二三萬騎には過ぎないと思われて、所々に馬を控えている。 呉王がこれを見て思ったのは、相手に似ずに小勢である。と侮って十万余騎の兵を同時に馬を川水に打ち入らせて、馬筏(いかだ)を組んで打ち渡した。
2026年02月10日
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