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アンスカ国文学会


2006年12月13日
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 高田屋嘉兵衛といふ人物ほど数奇な運命をたどつた人も珍しからう。淡路の貧家に生れて苦労の末に北前船の船頭になつたといふあたりまでは、確かに立志伝中の人物ではあるがさほどに数奇とするには足らない。波瀾万丈と呼べるのはここからで、蝦夷地での航海中にロシア船に拿捕されてシベリアまで連れてゆかれ、極寒の地で数年を経た後に平和裡に日本に帰つてきた。それもただ帰つてきただけはなくて、拿捕されたロシア船の船長と友情を育み、さらには日露の間にあつて民間外交を担はうとしたのだから驚くべき人物である。
 かういふ人物こそ近代精神の典型的な具現者であると言ふことができるだらう。嘉兵衛を取巻く運命はどう考へても数奇で悲惨なものでしかないのだが、この頭の大きい船頭はちつとも悲嘆に暮れようとはしない。例へば『菜の花の沖』のなかでは、拿捕されたとき「数人を人質として連行するから人選をせよ」といふ命令が船長である彼に下るのだが、その瞬間に嘉兵衛は自分がロシアにゆくことを決心し、かつ両国の架橋にならうといふことまで心に決めてしまふ。その間彼が運命を嘆く描写はほとんどないと言つてよく、逆にこれは両国修好のための絶好の機会だと明く考へる嘉兵衛の姿だけがやけにからつとした筆で描かれてゐる。この男はどこまでも楽天的で、朗らかで、何よりも運命に対して能動的なのにほかならない。運命を悲まず、不条理を恨まず、ただそれらを已往の出来事として乾いた態度で受入れ、それよりもこれからどうするかにのみ感心が向いてゐるのだ。自分の目の前に立ちはだかる運命に対して敢然と立向ひ、状況に流されることなく、それよりも自ら状況を生み出さうとしてゆく。運命に対して能動的なのが高田屋嘉兵衛といふ男なのである。
 かういふ人物は中世の人間ではないだらう。中世的人間といふのは『源氏物語』の夕顔のやうに状況に流される子供のやうに無力な悲劇の主人公のことであり、運命に対して受動的にしか生きてゆけないひとびとのことである。近代精神はさういふものではない。爆発的な経済の発展のなかに生きることを余儀なくされる近代人にとつて、運命に流されることは恥辱であり、その才能を武器にして自らに牙をむく周囲の状況をねぢ伏せつつ歩んでゆくことこそが理想だつた。中世社会が根本的に流動の少い固定した共同体社会であつたのに対して、近代人が生きるのは見ず知らずの人間が集まる都市社会であり、そこでは中世の平穏をうち破るやうな動的な世界が展開してゐる。そのなかにあつて運命に従順なだけの人間は生きてゆくことはできないのであり、自ら進む道を切り開くほどの気概と才能がなければ近代人失格であるとさへ言へるだらう。運命に対してどこまでも能動的な嘉兵衛の精神こそは近代そのものであり、江戸時代の近代性を象徴する肖像なのである。例へば嘉兵衛の立場にゐたのがひとりの中世人だつたとしたらどうであらうか。この状況下において日露修好の架橋にならうと考へ、運命を悲観することなく異国の虜囚となる覚悟がつくとはとても思へない。我が天命を恨みつつごく従順な人質となつてロシアへ連行されてゆく、といふのが穏当な想像であり、そこに「どうして自分ばかりが」といふ恨み節の文学を見出すことはできても、『菜の花の沖』のやうな理想と希望に満たされた文学を発見するのはまづ不可能に違ひないだらう。ここにあるのは間違ひなく江戸時代といふ名の近代であり、嘉兵衛は一身を以てその時代状況を具現化する存在にほかならないのである。近代の精神、近代の人格。それこそがこの小説の主人公にほかならないのだ。
 司馬遼太郎の愛するのは嘉兵衛に代表される近代人たちにほかならない。自らを取囲む動的な運命に対して敢然と立向ひ、能動的に生きようとする人間たちこそが彼の小説における主人公であり、夕顔のやうな中世的人間像はその好みではないのである。そしてそれは何も『菜の花の沖』に限つたことではなくて、竜馬も、高杉晋作も、西郷も、信長も、秀吉も、すべてが状況と運命に対して戦ひを挑んだ人間にほかならないのだ。司馬作品に登場する人物たちは、誰ひとりとして運命をあきらめない。それが悲運であれ、幸運であれ、自らが運命の主人公となり、行く手を切り開く能動的な人生の所有者たちであると言ふことができるだらう。

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 あの問答をしたとき、空蝉が好きだと答へた彼女は今どうしてゐるだらうか。じつに大人つぽい風情のある人だつた。それも運命に流されることのない意志の強さを持つ、近代人としての風情を。
 なぜか『源氏物語』ではなくて『菜の花の沖』を読むたびに彼女のことを思ひ出す。あるいは夕顔と嘉兵衛の対比のせいかもしれない。





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最終更新日  2006年12月18日 09時07分03秒
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