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2006年12月25日
風の跫音 13
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『峠』『俄』
1
中村真一郎が『源氏物語』の現代語訳を評して言つた。「やはらかな言ひまはしの裏に潜んでゐる悪意が、標準語のやうな底の浅いことばでは表しきれない。例へば京ことばで訳してみたらどうだらうか」と。
これについて言へることは都会人の性根の悪さといふやつでせうね。いつたいに洗練された都市の社交においては遠回しな皮肉や悪意といふものが多用されるのであつて、うちつけに悪口を言つたりはしない。さういふのは不作法で野蛮だし、第一相手が怒つてしまふからだ(遠回しな皮肉なら面と向つて怒りにくいといふ事情がある)。『源氏物語』のやうな宮廷文化に取材した作品ともなればこの事情はいつそう濃厚になつて、女三宮だつて六条の御息所だつて面と向つて論難されたりはせずに、噂話や人物月旦の際に仄かなそして辛辣な皮肉で批評されるだけである。それに現代の標準語といふやつはせいぜい明治以来百数十年の伝統しかない上に、東京といふ田舎者の集合体のなかにおいて(この場合生粋の江戸つ子は除外する。明治は田舎出の官吏と書生の時代だつたから)形成されてきたことばだからかういふ都会性がないし、もちろんのこと遠回しな皮肉といふやうな高級な社交技術を用ゐることができるほど洗練されてもゐない。従つて『源氏物語』の現代語訳をやつても、そこらあたりの微細なところが表現しきれないのだと言へるだらう。中村真一郎の評はこの間の事情をさしてゐるのである。
考へてみれば遠回しな皮肉といふのは大変に難しい技術であつて、ある程度の文明の発達がなくては存在し得ないものなのであらう。「ひとつの文明がある点にまで発達するとそこにはモダニズムが生れる」といふのが中村真一郎の持説だつたが、まさしく遠回しな皮肉とそれを可能にする言語状況はモダニズムの産物にほかならない。自分に危難が及ばないやうに相手を批判する技術と言語。それは文明の発達によつて都市が生れ、社交とサロンが出現しなければ不要のものだからである。文明の未発達な段階での意志疎通ならば遠回しな皮肉など用ゐずに殴り合ふほうが好まれるだらうし、実際今でも幼児の世界ではしばしばその解決方法が見られるのだ。サロンのなかで仄かに悪意を表し、解る人だけに解つてもらふといふ態度はまさしく都市を構成する市民のものであり、文明そのものだと言ふことができるだらう。
そして明治維新以降の東京においてはこの『源氏物語』ふうの人づきあいの方法は廃れてしまつたために文明や都市性とはまつたく無縁になつてしまつたが、日本の古い都市においてはこの伝統がいまだに脈々と生きてゐる。例へばよく東京のひとが「京都の人間は陰険だ。面と向つてではなしに裏でこそこそ言ふ」と怒るのは面と向つて言はれてゐる仄かな皮肉に気づいてゐないからではないか。すなはち「京都といふ都会に対する東京といふ田舎」の構図がかういふ憤慨を生むのであらう。もちろんかういふ遠回しな皮肉の遣手は何も京都の人間に限つたことではなくて、金沢や、松江や、弘前のやうな古い城下町や、あるいは大阪のやうな土地においても同じことである。かういつた町はいづれも維新と近代化によつて都市性と洗練された文明を断絶することなく今日まで受継いできたがために、遠回しな皮肉といふ『源氏物語』の世界における社交技術がいまだに命脈を保つてゐるのにほかならない。
それではこれらの遠回しな皮肉に代表されるやうな都市における社交の精神とはどんなものであらうか。これについてはまづ第一に人間への興味といふことが挙げられると思ふ。何よりも身のまはりにゐる人間たちへの飽くなき興味があつてこそそれらを批判したり悪口を言つたりできるのであつて、救ひ難いほどの人間嫌ひでは社交にはならない。好きなものだからこそおぼろげな悪意に満ちた皮肉を言ふことができるのだ。心の底から嫌ひなものであるならば批評する気にもならないだらう。
第二には滑稽や諧謔の精神といふものが挙げられる。他人を批判するときその根底にあるものは相手のことを笑ひものにする明い精神構造であり、じめじめとした陰湿な批判は社交の場に相応しくはないものだらう。社交における皮肉はさらりと流して笑ひを取る程度の軽いものであるべきで、場所柄をわきまへずねちねちとやるのはもはや皮肉でも何でもないただの悪口となつてしまひ、笑ひからは遠ざかつてゆく。
人間への興味、人間に対する滑稽感、人間への愛。この三つこそが都市文明の中心であり、遠回しな皮肉といふ社交技術の根本に含まれてゐるのである。社交といふのは決して軽薄で底の浅いものではない。
2
さて日本の小説にかういつた都会性、社交性が欠落してゐることはしばしば言はれることであるが、ここにひとりの例外的な作家がゐると言へるだらう。司馬遼太郎その人にほかならない。この大阪生れの作家が歴史上の人物を見つめる目は社交に洗練された都会人のそれであり、遠回しな皮肉によつてやんはりと批判しながら、根本のところで先に挙げた三つの精神を抱いてゐるのである。
例を挙げるとすれば『俄』といふ作品。幕末の大坂を舞台に活躍した愉快な侠客を滑稽小説ふうに描いてゐるこの小説は司馬文学のなかでも特異な存在であるが、いくつかの点で筆者の都会人としての目を感じることができるだらう。例へば拷問にかけられても音を上げないのだけが売物である明石屋万吉についての「あまり威勢のよくない侠客」といふ筆者の評。これなどはまさしくやんはりとした皮肉(何しろ侠客といふのは威勢がいいのだけが取柄の職業だから)であり、しかも笑ひを誘ふやうな滑稽味がある。それはあたかも筆者が大阪の町角で「あのね、かういふやくざがをつてね、いくら拷問にかけられても音を上げないのが売物なんださうですよ。何だか威勢のよくないやくざですなあ」と遠回しな皮肉を用ゐつつ(そのくせ目には優しい光をたたえながら)さもおもしろさうに噂話をしてゐるかのごとく想像させるのだ。そして批評は皮肉だが司馬遼太郎は決して明石屋万吉といふ男が嫌ひなのではなく、むしろ満腔の好意を以てこの侠客を見つめてゐるのであり、万吉に対する筆者の興味と愛から生れた滑稽味がこの小説の全篇を通しての朗かな基調音の源泉となつてゐるのである。
このからつとした、明くて少し滑稽な人間の捉へ方こそが都会人の目である。そこにあるのは皮肉なものの見方ではあるが決して冷笑主義ではなく、人間への愛情に裏づけられた肯定的な人間観にほかならない。司馬遼太郎は「人生は空しい」といふ諸行無常ふうの悲観主義や、人間を悲劇の主人公のやうに捉へる悲愴主義を嫌ふ。彼にとつては「人間といふのはこんなに愚かで、恰好が悪くて、でも憎めない。楽しくておもしろくて興味のつきない対象だ」といふかはいた人間肯定主義こそがもつとも相応しいものであり、そこからすべての小説が生れるのである。そしてそれはどんな悲劇的な物語であつても変りはしない。
例へば『峠』を考へてみることにしよう。この小説は謙信の再来と言はれた越後長岡の仕置家老河井継之助が主人公で、幕末の風雲のなかで小藩には似合はぬ軍備を有した長岡藩がつひに一藩壊滅の悲劇を経験するに到るまでを描いて余すところがない。武装中立を意図しつつも成り行きから奥羽越列藩同盟に与さざるを得なくなり、官軍の攻撃を恐るべき火器と謀略によつて支へつつ、領内の庶民までを巻き込んだ一種の総力戦の最中に戦死した河井の墓はのちのち領民によつて鞭打たれたために幾度となく崩れたと言ふのだから、その激烈さが忍ばれる。
この小説のなかにあるのはまさしく悲劇そのものであると言へるだらう。その上さらに手の込んだことに、河井継之助といふ男の悲劇と長岡藩の悲劇が二重写しされるといふ構造になつてゐる。河井のやうな人間が長岡藩に生れたことが悲劇であり、また長岡藩のやうな小藩が河井を生んだことが悲劇であるのだ。それらふたつの悲劇性が共鳴し合ひ、豊かな叙情性を持つて読者に迫つてくるのがこの小説の優れた点であるだらう。しかしながら、奇妙なことに司馬遼太郎が河井を見る目は決して悲愴主義的なものではなく、主人公の持つ悲劇性への涙によつて曇つてゐるわけでもない。彼はじつに押へた筆致でこの悲劇の英雄にまつはる事実を綴り、ずいぶんとつきはなした態度で冷静に小説を書いてゐる。確かに結果として我々はこの小説のなかの河井をひどく悲劇的な人物として捉へるのだが、筆者の態度は「ああかはいさうな河井継之助よ」といふ思ひ入れたつぷりのものではなく、ごく冷静なものだと言へるだらう。いや幾分かの冷ややかな滑稽味を感じつつ主人公を見つめてゐるとさへ言へるかもしれない。例へば『吉原細見』へいちいち印をつける話、「銃剣千兵の堅陣を破る」といふ軸を眺めながら夢想にふける話、あるいは死の間際に火葬の用意をさせる話。いづれも悲劇性とは少し離れて、からつとしたそしていくらかの滑稽味を覚えさせる語り口ではないか。いや、例の遠回しな皮肉さへ感じられる。書斎で戦争を夢想してゐれば世話はない、といつたふうな。
これほどまでに悲劇的な人生を送つた男を題材にしてこんなに冷めた見方が可能なのは、筆者の都会性がなせる技に違ひない。「悲愴な人生? そんなのは本人の思ひ込みに周囲の単純な連中が同調してるだけに過ぎない。人生といふのはそれがどんなに悲劇的なものだつて、いくばくかの滑稽味のあるものなんだ」。かういつた冷めた見方こそ都会に生きる人間の感性であり、司馬遼太郎の人物観なのである。彼は悲劇のなかに喜劇性を見つけることを好み、河井の悲劇性にひたらうとするひとびとに対してやんはりと皮肉を言つてゐる。それがこの『峠』の語り口にほかならないのだが、読者の大半はそれに気づいてゐるかどうか。
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最終更新日 2006年12月25日 09時07分51秒
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