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ふと手に取った映画雑誌で、「映画俳優ベスト100」のような企画をしてました。 ショックだったのは、女優の第一位がオードリー・ヘップバーンだったこと(男はジョニー・デップ)。……撰に入っているの俳優の大半が現役なのは、読者投票という性格上、仕方がない。どっちかといえば人気投票に近いのも、仕方がない。でも、オードリー・ヘップバーン。 同じヘップバーンだって、キャサリン・ヘップバーンならわからないこともありません。アカデミー主演賞四回という前人未到の記録を打ちたてた名優です(男女、主演助演ともに四回はキャサリン・ヘップバーンのみ)。じゅうぶんにリストのいちばん最初に名前があがる資格はあると思うんだけどなあ。 美人という基準で選ぶなら――キャサリン・ヘップバーンの顔もぼくは好きなんですけどね。特に中年になってからがいい――、イングリッド・バーグマンでもいいはずで、彼女が三十何位というのはおかしい。そもそもオードリーは、フレッド・アステアと撮ったミュージカルの題名が「funny face」(邦題『パリの恋人』)だったくらいで、ハリウッドの古典的な基準からすれば美人の部類には入らないはずです。 映画女優らしさという点を強調するなら、グレタ・ガルボを落としてはいけない。かつて「神聖ガルボ帝国」とまで言われた大女優なのに、このリストには名前すら入ってませんでした。オーラという点では、彼女はほかの女優を圧倒してると思うんだけどなあ。 しかし、それではなぜオードリーが一位なのか。 たぶんそれは、彼女が神話化された存在だからでしょう。もはやわれわれにとってオードリー・ヘップバーンという女優は、『ローマの休日』がどうの(あんまり演技うまくない)、『ティファニーで朝食を』がどうの(化粧が変)、『パリの恋人』がどうの(バレエ・ダンサー志望だったのにこの程度しか踊れないの?)、という段階にはない。みんな、映画を一本も見ていなくたって、オードリーという神話を知っている。逆にいえば、彼女が出演した映画がどんな愚作ばっかりだとしても、もはやそんなこととは関係ない世界で、オードリーというひとつのキャラクターが成立してしまっているのです。 たとえば、日本人になじみのふかいキャラクターに「西行」というのがある。風狂漂泊の歌人というイメージがわれわれのなかで確乎として成りたってしまっているけれど、そのじつ西行の歌を読んだことのある人なんてほとんどいない。しかしそれにもかかわらず西行というキャラクターには高い人気がある。業平とか、義経というのも、これと同じようなものでしょう。 つまり、作品をつくりだす人というのとは別な次元において、その人の存在そのものがひとつの作品である人、というのがある。キャサリン・ヘップバーンは前者であり、オードリー・ヘップバーンは後者であって、しかしつねに作品よりも神話のほうが長持ちする。あるいはアウラをまといつづける。 そのことは、リストに入っていた故人の名前を挙げてみれば明白です。バーグマンのほかには、オードリー、マリリン・モンロー、グレース・ケリーの三人だけ。彼女たちが、ハリウッドという舞台において、その神話を手に入れることのできた女神であることは、おそらくだれしもが否定しないところでしょう。……映画女優としては二流だったこととともに。
2007年04月12日
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さて、六四三番の詞書のなかにあらわれた情報のなかでも、ことにわれわれの興味を引くのは、「名は小鹿と曰ふなり」という部分です。 小鹿はヲシカと訓むのでしょうか。これほど古い時代の女の人で、名前がはっきりわかっているという例はめずらしい。紀郎女というのは、あくまでも呼名です。この類の名前であれば、『万葉集』にも、あるいはそれ以降の文献にも、いくつか例が見られるところですが、ここで言う「名」はおそらく本名のことでしょう。 『万葉集』巻一の巻頭にある雄略天皇の長歌に 籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 名告ら さね(1・1)という一節があります。若菜を摘む乙女に天皇が求婚する。そのとき「家聞かな 名告らさね」、つまり「その家の名を聞こう、名を告げさせよう」と男の側から歌いかける。 家の名を名のり、あるいは名を名のることは、特別な意味を持つ行為であったのでしょう。古代の人々は今のわれわれのように、かんたんには相手に名を告げなかった。ふだんは紀郎女のような通称で用を足して、ほんとうの名はよほどしたしくなった人――たとえばみずからのもとへ通ってくる男――にしか教えなかったのです。 それでも男には、家居のほかに世間での生活がありますから、親しい相手でなくとも名を告げる機会がないでもない。官人として朝廷に出仕すれば、書類や名簿によっていやでもみずからの名前を紙の上に書き、あるいは声にあげて読むことになります。ところが女の人には家庭の生活しかないがために、「名告ら」す相手も、機会もごくかぎられたものになる。文献の上に、古い時代の女の人の名があらわれないのはそのためでしょう。 もっとも、ここにあらわれる「小鹿」を、名ではなく、紀郎女のような通称の一種ととらえる説もあります。しかし、それではいくつか疑問が残る。 まず『万葉集』では、女の人の通称を注に示すとき、「名」ではなく「字」(あざな)という言葉を使っています。たとえば 夏の雑歌、藤原夫人の歌一首〈明日香清御原宮の御宇の天皇の夫人なり。字は大原大刀 自と曰ふ。即ち新田部皇子の母なり。〉(8・1465・詞書)というふうに。「刀自」は一家の主婦を尊称する呼びかたですから、「大原大刀自」は通称であることがはっきりしています。一方で「名」とした例は、 藤原朝臣八束の梅の歌二首〈八束が後の名は真楯。房前が第三子なり〉(3・398・詞書) 丹比真人の歌一首〈名は闕けたり〉(8・1609・詞書)のように(「闕」は「欠」と同義)、ほんとうの名、「名告らせね」の名を指したものがほとんどですから、『万葉』の書式に統一性があると考えるなら「名曰小鹿也」も本名を言ったものととらえるのが自然でしょう。 いらつめさんのお父さんが鹿人(カヒトもしくはシカヒトと訓むのか)であるという点も、こうした推測の傍証になります。たとえば大伴家持の弟が書持という名前だったように、奈良時代も末のほうになってくると、兄弟や親子で名の一文字を共有するという習慣が見られるようになります。鹿人さんの娘だから、小鹿さん。おそらくそんな手順でついた名前なのでしょう。鹿人というのは名であって通称ではありませんから、そこから一字もらったとすれば、小鹿というのも通称ではないと考えられる。 それに、「紀郎女怨恨歌三首〈鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〉」という詞書の収められた『万葉集』巻四は、大伴家持が最終的に筆を入れて現在のかたちになった巻と思しいことも、興味を引きます。いらつめさんの歌は、おそらく彼女から直接もらったメモか、あるいは家持が口づたえを書きとったのを保管しておいて、巻四を編むときに詞書だけ書き足したものでしょう。つまり「名曰小鹿也」を記したのは家持自身である可能性が高い。 ……と、すれば、家持はいらつめさんの名を知っていたことになります。同じく家持が編んだ巻八に「名は闕けたり」(名を聞きもらした)とする詞書があることからすれば、彼は必ずしも『万葉集』に作者の名を記すことに熱心だったわけではない。わかる人の分は書いたし、わからない人については不明と書くのが基本的な方針で、つまり作者の名がわからないからといって本人に問いあわせることまではしなかった。要するに、家持はもともといらつめさんが小鹿という名であることを知っていた。 先にも言ったように、この当時、特に女の人の名を、親兄弟でない男が知っているということは、それが彼女と恋愛や結婚の関係にある相手であるということを意味しています。名前を教えるということは、それほどに大事なことであった。いらつめさんの名を知っていた家持は、おそらく彼女の年下の恋人だったのでしょう。『万葉集』の註釈のなかには、いらつめさんと家持の贈答歌に戯れめいたものが多いこと、いらつめさんが一度結婚していたこと、二人の年が離れていることなどを理由に、恋歌の往来はあったものの、実際には二人が恋人どうしではなかったとする説を採るものもありますが、ぼくはそうは考えません。 麗々と「名は小鹿と曰ふなり」なんて詞書に書いている以上、家持はほんとうにいらつめさんの恋人だったに違いない。
2007年04月09日
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『失われた時を求めて』の第二編「花咲く乙女たちのかげに」のなかに、語手〈私〉が、祖母のさまざまな好みを説明するくだりがあるのですが、そこにルービンシュタインの名前が出てきます。 祖母はルービンシュタインがミス・タッチをした演奏を聴くと喜んだ、と〈私〉は語ります。彼のお祖母さんは、音楽にかぎらず、すべてが完璧にととのえられているものよりも、どこか無造作な感じを残したシックさを好んだらしい。ルービンシュタインのミス・タッチは、その象徴的な例です。 ルービンシュタインは一八八七年の生れですから(ちなみにプルーストは一八七一年生れ)、「花咲く乙女たちのかげに」が出版された一九一九年には三十二歳。プルーストは右を〈祖母〉の回想めいた口調で書いていますから、おそらくルビンシュタインが二十代か、もしかした十代だったころの話でしょう。 ご存知のように二十代のルービンシュタインは、一方でその技量を高く評価されながら、他方では演奏会ごとのむらが大きく、ミス・タッチの多いピアニストでした。ホロビッツの正確なテクニックに脅威を感じ、数年間コンサートを断って練習に没頭したというのは有名な話です。 わたしたちはふつう、ミス・タッチを「してはいけないもの」「あってはならないもの」と考えます。ピアニストは、できれば楽譜に書いてあるとおりの音符を弾いたほうがいい。そして、そのことはおそらく、プルーストも、語手の〈祖母〉も、あるいはまたルービンシュタイン自身も、決して否定はしないでしょう。 しかし、それではなぜ〈祖母〉はルービンシュタインのミス・タッチを愛したのか。 もちろんひとつには、プルーストが小説のなかで書いている、あまりにも完全なものを醜く感じるという美意識を理由として挙げることができるでしょう。わたしたち日本人にとっては、『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」以来、ごくなじみの深い考えかたですが、おそらく「花咲く乙女たちのかげに」が出版された一九一九年のフランス社会においては、この美意識はかなり洗練された、あるいは通ぶったものの見方として受けとめられたに違いありません。その清新さに、プルーストの独特なまなざしがあります。 けれども、それだけではありません。わざわざルービンシュタインを名指ししたところに、ぼくはもうすこし深いものを考えてみることができるのではないかと思います。 「してはいけないもの」をしてしまい、「あってはならないもの」が存在してしまうのは、それが、今、ここで進行しているものであるからです。たとえばレコードに録音したショパンのポロネーズは、絶対にミス・タッチをしない。固定されていない、生成の場に立会っている作品であればこそ、われわれはミス・タッチのような「してはいけないもの」「あってはならないもの」に出逢える。 時間というものに関するプルーストの基本的な発想は、まさにこれと共通します。彼は、「現在によって振返られる過去」といった、固定した時間、始りと終りを区切った、どこで何がおこるかをすでに知らされている時間というものを扱いません。プルーストにおける時間は、つねに生起し、流れてゆく存在です。今、ここに、わたしがいるということだけがたしかにわかっていて、しかしそれがどこからやってきて、どこへ向かうのかについては、だれも教えることができない。未知の前に立つスリルが、プルーストの時間にはあふれています。 いささかややこしい話に立ちいりました。ルービンシュタインのミス・タッチに話を戻しましょう。 披露宴というのは花嫁花婿を褒めるためにある場ですから、こういうことを言うにはいささかふさわしくないかもしれませんが、Mさんご本人も――いささか自虐的に――認めていらっしゃることですから、遠慮をせずに申しあげますが、ピアニストとしてのMさんは、あきらかにルービンシュタイン型です。しかも、二十代の。……つまり、言いかえれば、やたらとミス・タッチをする。 しかし、もしここにプルーストがいたとすれば、じつにそのミス・タッチにこそ、人間が生きているということの意味があるのではないかと言うに違いありません。 いかにMさんであろうとも、CDのなかでミス・タッチをすることはない。彼がミス・タッチするのは、どこへゆくかわからない、どこから来たのかわからない、〈今〉という時間のなかで孤独に音をつむぎだしてゆくからです。ミス・タッチは、もとよりだれしも望むところではありませんが、しかし同時に何かが生まれてゆくスリルの証拠でもある。Mさんが懸命に生きて、ピアノを弾き、そしてそれをわたしたち聴衆の一人ひとりが同じように生きて、聴いていればこそ、ミス・タッチというものが存在するのです。CDのような固定された時間のなかでは、このスリルを味うことができない。――だから、〈祖母〉はルービンシュタインのミス・タッチを大切なものとして喜んだのでしょう。 ミス・タッチにこそ、人間が生きていることの意味がある。 結婚というのも、人が生きいるからこそ成りたつという意味では、似たようなものです。人が生きることは、ピアニストがソナタを弾くのと同じようなものでありまして、いくら気をつけていたってミス・タッチのようなものが生れてくる。ことに伴侶を得て、二人で生活を築いてゆくのであればなおさらのことでしょう。お互いに気持がすれちがうこともあれば、二人で力をあわせてさまざまな難事に立ちむかわなくてはならないこともあります。 しかし、Mさん、Cさんには、ぜひともそのミス・タッチを楽しんでいただきたい。ミス・タッチ「も」楽しむのではなくて、ミス・タッチ「をこそ」楽しんでいただきたい。ミス・タッチには、生きることの喜びがつまっています。生きているからこそ味える楽しさがあります。われわれが、Mさんのコンサートで、ミス・タッチを耳にするときのように。 ……どうも年寄の話は説教くさくなってしまって恐縮ですが、Mさん、Cさん、本日はまことにおめでとうございます。どうぞ末永くお幸に。
2007年04月07日
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いらつめ(郎女、女郎)は、ふるい昔、若い女の人を指して呼んだ言葉でした。紀郎女は、紀の家のお嬢さん。もっともお嬢さんといっても、万葉集のなかに登場する彼女はどうやら二十歳を越しているようですから、女郎という呼びかたはこのころ、身分のある家の女の人への敬称に転じていたのでしょう。 彼女が生きたのは、おそらく大宝から天平にかけてのころ(701年~748年)。万葉集に収められている歌のなかでは、もっとも晩い時期(第四期と呼ばれる時代)にあたります。当時の女の人の例にもれず、生没年ははっきりわかりません。名前も同様。ただ、たまたま第四期の代表的な歌人であった大伴家持と恋をして、贈答した歌のいくつかが家持の手控えを経由して万葉集に収められたために(万葉集の最終段階における編纂に、家持は深くかかわっています)、いくつか伝記的な事項をわれわれは知ることができます。 万葉集に採られた彼女の歌の詞書には、次のような註がついています。 紀郎女怨恨歌三首〈鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〉(4・643・詞書) 紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首〈女郎名曰小鹿也〉(4・762・詞書) 紀女郎裹物贈友歌一首〈女郎名曰小鹿也〉(4・782・詞書) 紀女郎歌一首〈名曰小鹿也〉(8・1452・詞書)後の三つは、六四三番の内容を抄して書いたものでしょう。六四三番の註の部分を訓読すると 鹿人大夫の女、 名は小鹿と曰ふなり。 安貴王の妻なり。まず「鹿人大夫の女」というくだりですが、幸にも万葉集には紀鹿人、つまり彼女のお父さんの歌が採られています。 典鑄正・紀朝臣鹿人、衛門大尉・大伴宿禰稲公が跡見の 庄に至りてよめる歌、一首 射目立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾は持ち去なむ奈良人のた め(8・1549)鹿人が大伴稲公の別荘に呼ばれて、「この丘のあたりに咲いている撫子を、奈良の家に留守番している者のために手折って帰ろうと思います」と詠んだ歌ですが、稲公は家持の叔父にあたる人で、このころから紀家と大伴家には往き来があったものと見えます。おそらく郎女さんと家持が知りあったのも、そうした両家の交友を通してのことなのではないでしょうか。 もうひとつ、この鹿人の歌は「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」(山上憶良・3・337)式の宴の歌で、おそらく奈良に残してきた妻を詠んだものと思われますが、だとすればもしかするとこの「奈良人」は郎女さんのお母さんかもしれない(もちろん、そうでない可能性も充分にあるのですが)。史料には郎女さんのお母さんについては何も記述がありませんから、この一首は彼女の家族を考えるうえでなかなか重要です。 次に「安貴王の妻なり」という記述。安貴王は志貴皇子の孫(一説に川島皇子の孫)、春日王の子にあたります。志貴皇子も川島皇子も、ともに天智天皇の子で、この系統の皇族は壬申の乱以降、傍流に位置していました。安貴王の伝はよくわからないところが多いのですが、万葉集に歌が四首入っています。なかに三〇六番は、養老二年(718年)、元正天皇に従って旅中に伊勢国で詠んだことが記されていますので、ここからすれば、生年はおそらく大宝初年(700年ごろ)を遡ることはないでしょう。妻となった郎女さんも、年齢にそれほど大きな差がなかったと考えれば、おおよそ大宝初年に生れ、養老年間(717年~724年)の前半、十六七歳くらいで彼と結婚したと想像されます。 ところが、この旦那さまが後に事件を起します。養老年間の末ごろ、采女と通じて都を追われるということがあったらしい。万葉集巻八の五三四、五三五番の二首は、このとき王が詠んだ作ですが、その左註にこう記してあります。 右は、安貴王、因幡八上釆女を娶り、係念極て甚しく、愛情尤も盛なり。 時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に退却く。是に王の意、悼び悲しびて、 聊か此歌を作る、と。「因幡八上釆女」は、因幡国の八上から奉られた采女ということでしょう。采女の制度は、天皇が側妾を介して国々の地霊を受け、支配の霊力を身につけるという古代信仰から起ったものです。天皇の支配に服した国は、からなず乙女を選んでこれを奉る。それゆえ采女は決して天皇以外に逢うてはならぬものとされていました。天智天皇から采女を賜って、藤原鎌足が「我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり」(2・95)と詠んだのは有名な話ですが、それほど「安見児」(采女)は「皆人の得かてにす」る(自分のものにしにくい)ものだったのです。 「娶り」を、妻に迎えた、すなわち、采女の役を終えた乙女を天皇が安貴王に下げたとする説もありますが、おそらくそうではないでしょう。「娶り」は密通を婉曲に言うた表現で、だからこそ「勅して不敬の罪に断じ」という重々しい処断がなされた。「本郷に退却く」は、領地か、あるいは一族の出自の地に追放されたことを指すと思われます。
2007年04月04日
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紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首戯奴(わけ)がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥えませ 万葉集巻八にある紀女郎の歌。「戯奴」は相手を戯れて呼ぶ言いかた。「すまに」は休めることなくいそがしく。「茅花」は茅(ちがや)の穂のことで、晩春のころに花穂をつけ、食用になります。 贈った相手、大伴家持は、言うまでもなく、後期万葉を代表する歌人です。女の人によくもてたらしい。しかも、年上の女の人に。紀女郎の生年ははっきりわかりませんが「神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも」(年を取っているからというだけで、嫌というわけではないのです。ただこうした後に、さびしく思うようなことがあったら、と思うと……)という歌を家持に贈っているところを見ると、十歳か二十歳の年齢差はあったことはたしかでしょう。 二人の恋は万葉に伝えるところが少なすぎて、あまりよくわかりません。ただ家持が紀女郎とよほどに親しいあいだがらであったことは、この歌を見てもわかります。年上の女の人から「戯奴」と呼ばれるような関係が、ふたりのあいだにはあったのでしょう。「我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ」式の言いかたは、万葉の恋歌によく見られるものです。だから、二人はほんとうに恋仲であったともいえるし、あるいは恋歌めかして戯れの歌を詠んだとも言えるのですが、ここはやはり姉と弟のような恋があったと考えてみたいような気がします。戯れめかして言いまぎらわしてみる余裕が、二人の恋にはあった。「食して肥えませ」などはその典型です。 あるいは、戯れめかさなくては気持の落ちつきどころを失ってしまいそうな、女の人のこころ――年下の恋人を持ったということで――が、この歌のなかにあらわれていると考えることができるのかもしれません。しかし、もうすこしのびやかなものを、ぼくは二人のあいだに見たいと思う。のびのびと恋をし、愛し、愛されて、だからこそじゃれあうような恋歌を応酬できる間柄です。 一首はまず恋歌のパロディであるけれども、その下に紀女郎のやさしい恋心が透いて見えていて、そのあかるいかろやかさと思いもかけず澄んだ情感が、二つながら韻律のうちを満たしてゆきます。
2007年04月03日
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尾張連の歌二首〈名は闕けたり〉打ちなびき春来たるらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば 『万葉集』巻八。 作者の尾張連については、よくわかりません。この歌、同じく『万葉集』の巻十に第二句を「春さり来らし」としたかたちで収められていますが、そこでは作者名不詳。『風雅集』『古今六帖』にもよみ人しらずとして採ってあります。もともと民謡のようなかたちで流布していたものを家持が採録したのかもしれず、何かの席で尾張連がこの歌を歌ったのをおもしろく思って書きとどめたために「尾張連の歌」という詞書を付したのかもしれません。家持もよく知らない人だったことは「名は闕けたり」と名前を書きおとしているところからもあきらか。 初句を「打ちなびく」と読む訓もありますが(原文「打靡」)、連体形にして枕詞ふうに扱うと途端に歌の調子が低いものになります。連用形に読んで、峰の彼方から、しだいしだいに春がやってくるさまを言ったものと考えるほうがいいでしょう。 「山の際」は、「山際」と言うても同じことですが、山と空との接する稜線のことです。古代の人々は、これを魂が往来し、異界からものの来る神聖な道であると考えていました。遠いところから、ふしぎなちからを持って春というものがやって来、峰づいたいに花を咲かせてゆく。桜という言葉はありませんが、いかにも桜のしずかに澄んだたたずまいにふさわしい表現です。 もちろんこの歌を、あかるく、無邪気で、素朴な歌と見てもいい。しかし「山の際」という言葉に着目して、うすぐらい万葉びとの心の奥処からただようようにうかびあがってきた詩として一首を読めば、そこにはまた違った味いがあります。さみしく、清らかに、どこまでも澄んだ、ほそみの歌の、はるかなはるかな祖先として、これを見ることもできるのです。
2007年04月02日
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なんとなく勢いで、 もうひとつブログはじめちゃいました。 いつ挫折するか、 お楽しみに。 http://lacan.jugem.jp/
2007年04月01日
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夕花を 永福門院 花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり 『風雅集』という鎌倉時代の勅撰集に収められている歌です。 勅撰集は八番目の『新古今集』(鎌倉初期)まで読めば上出来というもので、その後室町初期までのあいだに編まれた十三集については、かの折口信夫でさえ(いや、折口信夫だからこそ、なのか)「天から劫火が降りくだって整理をつけてほしい」と言ったほど文学的感興に乏しいものですが、そのなかで十四番目の『玉葉集』と十七番目の『風雅集』だけは特別、というのが、これもまた折口以来の定説です。 この二集は京極派と呼ばれた歌人たちが撰したものです。定家の曾孫にあたる京極為兼が主導し、彼の使えた伏見院の宮廷に、ごく私的なかたちでおこったこの新たな歌風は、和歌の常識からあまりにかけはなれていたために、当代の主流歌人からも、あるいは後世からも、長らく異端視されてきましたが、その実際は、冒頭にかかげた永福門院の一首のように、ほそみをきわめてさみしく澄んだ作風で、中世の美意識をあざやかに体現するものでした。 永福門院は伏見院の中宮。西園寺実兼の子として生れ、十八歳で入内。子はなかったが、伏見院崩御の後も、花園院(伏見院の子)、光厳院(孫)ら、後期の京極派の中心をなす歌人たちをよく教導し、一三四二年に七十二歳で亡くなりました。 「夕づく日」は夕日のこと(「影」は光を言います)。それだけ註せば、あとは何もつけたすことのない歌です。伏見院には「花のうへの暮れゆく空にひびき来て声に色ある入相の鐘」(風雅集)という歌があり(「入相の鐘」は晩鐘)、初句はここから影響を受けたのかもしれません。 この歌には永福門院の特色がよくあらわれています。ひとつは「夕づく日」という古語(この当時にあって、すでにこれはいくらか古めかしい言葉でした)を歌のしらべのなかに違和感なく溶けこませていること。京極派は『万葉集』に学んで、古語を積極的に歌のなかに取入れましたが、その多くはこなれない、荒っぽい詠みくちで、このことが他派の歌人からの批判の対象ともなりました。しかし永福門院に限って言えば、そうした京極派の通弊から免れたところがあります。言葉の選びかたに独特な感覚があったのでしょう。 ふたつめは「しばしうつろふ」「入るともなしに影消えにけり」というように、自然のうつろいに目をとめて、しかもそれを繊細に描きだそうとする態度を持っていること。特に永福門院のそれは、ぼんやりと眺めているのではなく、対象に心をひそめてするどく見守るがゆえに、ふと見過ごしてしまうようなかすかなゆらめきを、歌のなかに定着させてゆくところが独自であるといえるでしょう。夕日影がすこしずつ色をうつろわせながら、やがて消入ってゆく、そのやさしくも繊細な表情に目をとめているところが、彼女の詠作のおもしろさです。 みっつめは、ふたつめといささかの脈絡を持つものでありますが、彼女の対象を見つめるまなざしが、ほそく、さみしく、澄みとおっていること。そこに何らかの悲しさがあるわけではないのに、心をひそめて対象に徹するがゆえに、言うに言われないものさびしさが歌のうちから匂ってくるところに、この歌の、あるいは永福門院のよさがあります。彼女の歌を見ていると、人のこころは決して硬く、固定したものでないということを知らされます。硬く、固定してないがゆえに、たゆたい、ゆれうごく、その自由さと不安さが、観察のなかにものさみしい情感を匂いたたせるのではないでしょうか。 この一首、ふつうは満開の桜によそえて解される歌です。『風雅集』の配列からいっても、それが正しいことは言うまでもないのですが、しかしぼくは、七分か六分、まだ咲きそめたころのかたさを持った桜の「花の上」と読むのが好きで、いつもこの時期になるとふと思いだします。
2007年03月31日
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3『峠』と『俄』に共通するもの。それは遠回しな皮肉を言ひながら主人公の人生に滑稽味を発見するといふ筆者の態度にほかならない。そしてさらに言へば、そのちよつと斜に構へた人物観の裏側に見え隠れする人間に対して司馬遼太郎が抱く興味と愛情である。 そのやうな態度によつて書かれたこれらの小説を読むとき我々がしばしば感じるのは、ごく人間好きな人が他人の噂話をして楽しんでゐるといふ雰囲気であらう。人間が好きだから人間を書く。それもただ好意的に描くのではなくて都会人ふうの遠回しな皮肉を効かせた人間観による観察に基くものであり、その深いところに「人間はちよつとをかし味のある存在だ」といふ考へ方に裏づけられた人間肯定主義がある。そしてそこから滑稽味(巧まざる滑稽さをも含む)によつて歴史や人生を捉へる態度が生じてくるのだ。それゆゑに彼の扱ふ人物はいつでもいくばくかの滑稽味を伴つてゐて筆者のからつとした視点から描かれてゐるのであらう。 人間の喜劇性。これこそ司馬遼太郎が追求してやまないものであつた。「あの人あんなことしてをかしいね。でも好きだな、ああいふ人間」といふのが彼の根本的な態度である。さういつた彼の前にあつては、人間を劇的存在として捉へ、やたらと悲愴ぶつたり(例へば「悲劇の英雄、河井継之助」のやうな)、歴史の無常を訴へたりするやり方はひどくつまらないものにしか感じられないと言へるだらう。それよりも都会人特有の喜劇性によつて人間を見る態度を全面に打出した『峠』や『俄』のやうな筆法のほうが遥かに興味をそそられるのである。知的なおもしろ味があつて、からりと乾いてゐて、大時代めいた悲壮感がない。その代りに人間の滑稽さがある。そしてこの喜劇性をとことん追求したのが『俄』であり、逆に悲劇性のなかに喜劇性を求めようとしたのが『峠』にほかならない。 そこで冒頭の話に戻るのだが、かうした司馬遼太郎の人物観は、中村真一郎の言つた『源氏』における遠回しな悪意と共通するものなのである。『源氏物語』が女房たちの噂話といふ形式で書かれてゐるのは周知の事実であるが、この古代小説を貫く語り手たちの態度は一にも二にも人間への興味にほかならない。娯楽の少い平安時代においては人間への興味を噂話によつて埋めるのが最大の閑つぶしであつたらうことは想像に難くないし、第一人間への興味がなければこんな長い噂語を語つたり聞いたり記録したりする女房が存在するはずがなく、従つて女房の噂話といふ形式が成立しなくなつて『源氏』はもつと別な様子の作品になつてしまふではないか。さういつたものがあればこそ「いづれの御代にか」と物語が語られ始め、登場人物たちがやはらかな悪意によつて皮肉られるのである。さう、ときには幾分かの滑稽味を帯びながら。 これは司馬遼太郎が河井継之助や明石屋万吉を見つめるときの精神とひとつのものであると言ふことができるだらう。双方とも文明がある極みに達した都市社会のなかで人間への飽くなき興味が噂話といふ形式によつて流露し、人間を知的で批判的な(あるいは喜劇的とさへ言つてもいいやうな)態度によつて捉へるといふ点において、『源氏』と司馬遼太郎は一致してゐるのである。彼らにとつては、悲劇性によつてのみ人間を捉へる方法など田舎廻りの芝居みたいに泥臭くてとてもつきあひきれないのだ。何しろ都会人なのだから。そしてさういふ態度の奥にあるのはいづれも「人間といふのは誰でも滑稽な存在で、英雄でも凡人でもをかしな一面があるものなのだ。だから人間といふのは皆まとめて素晴しい存在なのではないか」といふ人間肯定主義であると言へるだらう(もしも悲劇性から人間を捉へるとすれば英雄だけが優れてゐることになつてしまふもの)。 4 近ごろまた『源氏』ばやりだと聞く。高い本がよく売れてゐるらしいし、紫の上、末摘花などといふ名前を知つてゐる若い女の子も珍しくなくなつた。そして司馬遼太郎のほうも相変らず広く読まれてをり、当節はやりの俳優によつて映画も作られてゐる。だとしたら私たちの社会はずいぶん知的で、文明的で、都会的で、かつは人間肯定主義ふうになつたといふことなのだらうか(いや、これは断じて遠回しな皮肉などではありませんが)。
2006年12月25日
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悲劇性と喜劇性 『峠』『俄』 1 中村真一郎が『源氏物語』の現代語訳を評して言つた。「やはらかな言ひまはしの裏に潜んでゐる悪意が、標準語のやうな底の浅いことばでは表しきれない。例へば京ことばで訳してみたらどうだらうか」と。 これについて言へることは都会人の性根の悪さといふやつでせうね。いつたいに洗練された都市の社交においては遠回しな皮肉や悪意といふものが多用されるのであつて、うちつけに悪口を言つたりはしない。さういふのは不作法で野蛮だし、第一相手が怒つてしまふからだ(遠回しな皮肉なら面と向つて怒りにくいといふ事情がある)。『源氏物語』のやうな宮廷文化に取材した作品ともなればこの事情はいつそう濃厚になつて、女三宮だつて六条の御息所だつて面と向つて論難されたりはせずに、噂話や人物月旦の際に仄かなそして辛辣な皮肉で批評されるだけである。それに現代の標準語といふやつはせいぜい明治以来百数十年の伝統しかない上に、東京といふ田舎者の集合体のなかにおいて(この場合生粋の江戸つ子は除外する。明治は田舎出の官吏と書生の時代だつたから)形成されてきたことばだからかういふ都会性がないし、もちろんのこと遠回しな皮肉といふやうな高級な社交技術を用ゐることができるほど洗練されてもゐない。従つて『源氏物語』の現代語訳をやつても、そこらあたりの微細なところが表現しきれないのだと言へるだらう。中村真一郎の評はこの間の事情をさしてゐるのである。 考へてみれば遠回しな皮肉といふのは大変に難しい技術であつて、ある程度の文明の発達がなくては存在し得ないものなのであらう。「ひとつの文明がある点にまで発達するとそこにはモダニズムが生れる」といふのが中村真一郎の持説だつたが、まさしく遠回しな皮肉とそれを可能にする言語状況はモダニズムの産物にほかならない。自分に危難が及ばないやうに相手を批判する技術と言語。それは文明の発達によつて都市が生れ、社交とサロンが出現しなければ不要のものだからである。文明の未発達な段階での意志疎通ならば遠回しな皮肉など用ゐずに殴り合ふほうが好まれるだらうし、実際今でも幼児の世界ではしばしばその解決方法が見られるのだ。サロンのなかで仄かに悪意を表し、解る人だけに解つてもらふといふ態度はまさしく都市を構成する市民のものであり、文明そのものだと言ふことができるだらう。 そして明治維新以降の東京においてはこの『源氏物語』ふうの人づきあいの方法は廃れてしまつたために文明や都市性とはまつたく無縁になつてしまつたが、日本の古い都市においてはこの伝統がいまだに脈々と生きてゐる。例へばよく東京のひとが「京都の人間は陰険だ。面と向つてではなしに裏でこそこそ言ふ」と怒るのは面と向つて言はれてゐる仄かな皮肉に気づいてゐないからではないか。すなはち「京都といふ都会に対する東京といふ田舎」の構図がかういふ憤慨を生むのであらう。もちろんかういふ遠回しな皮肉の遣手は何も京都の人間に限つたことではなくて、金沢や、松江や、弘前のやうな古い城下町や、あるいは大阪のやうな土地においても同じことである。かういつた町はいづれも維新と近代化によつて都市性と洗練された文明を断絶することなく今日まで受継いできたがために、遠回しな皮肉といふ『源氏物語』の世界における社交技術がいまだに命脈を保つてゐるのにほかならない。 それではこれらの遠回しな皮肉に代表されるやうな都市における社交の精神とはどんなものであらうか。これについてはまづ第一に人間への興味といふことが挙げられると思ふ。何よりも身のまはりにゐる人間たちへの飽くなき興味があつてこそそれらを批判したり悪口を言つたりできるのであつて、救ひ難いほどの人間嫌ひでは社交にはならない。好きなものだからこそおぼろげな悪意に満ちた皮肉を言ふことができるのだ。心の底から嫌ひなものであるならば批評する気にもならないだらう。 第二には滑稽や諧謔の精神といふものが挙げられる。他人を批判するときその根底にあるものは相手のことを笑ひものにする明い精神構造であり、じめじめとした陰湿な批判は社交の場に相応しくはないものだらう。社交における皮肉はさらりと流して笑ひを取る程度の軽いものであるべきで、場所柄をわきまへずねちねちとやるのはもはや皮肉でも何でもないただの悪口となつてしまひ、笑ひからは遠ざかつてゆく。 さらに第三としては人間に対する愛、あるいは人間肯定主義。これは第二と矛盾するやうであつてさうではない。「ああ莫迦なやつだなあ」といふ皮肉の深いところに「まあ、さういふのがいいところでもあるのだが」といふ人間への愛がなければ、それは嫌味な冷笑主義になつてしまふ。これもまた健全な社交のなかでは退けられて然るべきものなのである。 人間への興味、人間に対する滑稽感、人間への愛。この三つこそが都市文明の中心であり、遠回しな皮肉といふ社交技術の根本に含まれてゐるのである。社交といふのは決して軽薄で底の浅いものではない。 2 さて日本の小説にかういつた都会性、社交性が欠落してゐることはしばしば言はれることであるが、ここにひとりの例外的な作家がゐると言へるだらう。司馬遼太郎その人にほかならない。この大阪生れの作家が歴史上の人物を見つめる目は社交に洗練された都会人のそれであり、遠回しな皮肉によつてやんはりと批判しながら、根本のところで先に挙げた三つの精神を抱いてゐるのである。 例を挙げるとすれば『俄』といふ作品。幕末の大坂を舞台に活躍した愉快な侠客を滑稽小説ふうに描いてゐるこの小説は司馬文学のなかでも特異な存在であるが、いくつかの点で筆者の都会人としての目を感じることができるだらう。例へば拷問にかけられても音を上げないのだけが売物である明石屋万吉についての「あまり威勢のよくない侠客」といふ筆者の評。これなどはまさしくやんはりとした皮肉(何しろ侠客といふのは威勢がいいのだけが取柄の職業だから)であり、しかも笑ひを誘ふやうな滑稽味がある。それはあたかも筆者が大阪の町角で「あのね、かういふやくざがをつてね、いくら拷問にかけられても音を上げないのが売物なんださうですよ。何だか威勢のよくないやくざですなあ」と遠回しな皮肉を用ゐつつ(そのくせ目には優しい光をたたえながら)さもおもしろさうに噂話をしてゐるかのごとく想像させるのだ。そして批評は皮肉だが司馬遼太郎は決して明石屋万吉といふ男が嫌ひなのではなく、むしろ満腔の好意を以てこの侠客を見つめてゐるのであり、万吉に対する筆者の興味と愛から生れた滑稽味がこの小説の全篇を通しての朗かな基調音の源泉となつてゐるのである。 このからつとした、明くて少し滑稽な人間の捉へ方こそが都会人の目である。そこにあるのは皮肉なものの見方ではあるが決して冷笑主義ではなく、人間への愛情に裏づけられた肯定的な人間観にほかならない。司馬遼太郎は「人生は空しい」といふ諸行無常ふうの悲観主義や、人間を悲劇の主人公のやうに捉へる悲愴主義を嫌ふ。彼にとつては「人間といふのはこんなに愚かで、恰好が悪くて、でも憎めない。楽しくておもしろくて興味のつきない対象だ」といふかはいた人間肯定主義こそがもつとも相応しいものであり、そこからすべての小説が生れるのである。そしてそれはどんな悲劇的な物語であつても変りはしない。 例へば『峠』を考へてみることにしよう。この小説は謙信の再来と言はれた越後長岡の仕置家老河井継之助が主人公で、幕末の風雲のなかで小藩には似合はぬ軍備を有した長岡藩がつひに一藩壊滅の悲劇を経験するに到るまでを描いて余すところがない。武装中立を意図しつつも成り行きから奥羽越列藩同盟に与さざるを得なくなり、官軍の攻撃を恐るべき火器と謀略によつて支へつつ、領内の庶民までを巻き込んだ一種の総力戦の最中に戦死した河井の墓はのちのち領民によつて鞭打たれたために幾度となく崩れたと言ふのだから、その激烈さが忍ばれる。 この小説のなかにあるのはまさしく悲劇そのものであると言へるだらう。その上さらに手の込んだことに、河井継之助といふ男の悲劇と長岡藩の悲劇が二重写しされるといふ構造になつてゐる。河井のやうな人間が長岡藩に生れたことが悲劇であり、また長岡藩のやうな小藩が河井を生んだことが悲劇であるのだ。それらふたつの悲劇性が共鳴し合ひ、豊かな叙情性を持つて読者に迫つてくるのがこの小説の優れた点であるだらう。しかしながら、奇妙なことに司馬遼太郎が河井を見る目は決して悲愴主義的なものではなく、主人公の持つ悲劇性への涙によつて曇つてゐるわけでもない。彼はじつに押へた筆致でこの悲劇の英雄にまつはる事実を綴り、ずいぶんとつきはなした態度で冷静に小説を書いてゐる。確かに結果として我々はこの小説のなかの河井をひどく悲劇的な人物として捉へるのだが、筆者の態度は「ああかはいさうな河井継之助よ」といふ思ひ入れたつぷりのものではなく、ごく冷静なものだと言へるだらう。いや幾分かの冷ややかな滑稽味を感じつつ主人公を見つめてゐるとさへ言へるかもしれない。例へば『吉原細見』へいちいち印をつける話、「銃剣千兵の堅陣を破る」といふ軸を眺めながら夢想にふける話、あるいは死の間際に火葬の用意をさせる話。いづれも悲劇性とは少し離れて、からつとしたそしていくらかの滑稽味を覚えさせる語り口ではないか。いや、例の遠回しな皮肉さへ感じられる。書斎で戦争を夢想してゐれば世話はない、といつたふうな。 これほどまでに悲劇的な人生を送つた男を題材にしてこんなに冷めた見方が可能なのは、筆者の都会性がなせる技に違ひない。「悲愴な人生? そんなのは本人の思ひ込みに周囲の単純な連中が同調してるだけに過ぎない。人生といふのはそれがどんなに悲劇的なものだつて、いくばくかの滑稽味のあるものなんだ」。かういつた冷めた見方こそ都会に生きる人間の感性であり、司馬遼太郎の人物観なのである。彼は悲劇のなかに喜劇性を見つけることを好み、河井の悲劇性にひたらうとするひとびとに対してやんはりと皮肉を言つてゐる。それがこの『峠』の語り口にほかならないのだが、読者の大半はそれに気づいてゐるかどうか。
2006年12月25日
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3 この小説のなかに描かれてゐるものは何なのだらう。『ひとびとの跫音』。その題名が指し示してゐるやうに、ここにあるものはごく平凡な市井のひとびとが歩んでゆく跫音であると言へないだらうか。決して劇的な存在などではなくて、生涯と言ふよりは日常を生きたと表現するのが相応しいやうなひとびとが、人生といふ道程を歩んでゆく跫音。あるいはその人格の持つてゐる風韻と言つてもいい。このなかで語られてゐるのはさういふものである。 そして先に述べたやうに歴史とは人生の群れであり、我々の無知を補ふために過去の人生に学ぶための装置、あるいはそこから今我々が生きてゆくための勇気を得るための機構だとすれば、『ひとびとの跫音』のなかで触れられてゐる数多くのひとびとの風韻こそ歴史といふものに相違あるまい。読者がこの小説を手にするとき目にするのは一陣の涼風のやうにさはやかな人間の風韻であり、そこから「世の中にはこんなに素晴しい人間がゐたのか」といふ感銘を受けるのである。そしてそれを一服の清涼剤のやうにして心に染みこませて、これから我々が生きてゆく上での糧にしてゆくのだ。むろん糧にすると言つても、「人間は、忠三郎のやうな賢愚定かならざる大度の君子人にあらざるべからず」といつたふうな道学的な読み方のことを指してゐるのではない。それはごく控へめに、しかしながら充分雄弁に人生の叡智と勇気を語りかけ、ささやかではあるが読者を幸福な気持へと誘つてくれるのである。「ああ、かういふいい人がゐたといふことを知つただけでも、人間として生きてゆくことが嬉しく感ぜられる」、さういふ気分になることにほかならない。そしてそれこそが歴史の効用なのではないだらうか。 正岡忠三郎やぬやま・ひろしといつた人格から湧きおこる涼風。それらをしつかりと書き留め、記録しようといふ司馬遼太郎の態度こそ、未来の人間に対して歴史を伝へようとする史家のそれにほかならないのである。繰り返しにはなるが、歴史とは年号や、記号的な人名、過去の事実の羅列ではない。それは大きな時のうねりのなかに捉へられた人生の群れであり、我々が生きてゆく上での叡智と勇気を得るための見本市なのだ。あるいは人間の資料室であると言ふこともできるだらう。いづれにしろ歴史とは、今生きてゐる我々に関りあひつつ影響を与へ、有機的に結びついてこそ歴史なのである。それが人間の見本市、あるいは資料室である限り、入口を閉ざして(無味乾燥ないはゆる歴史と称するものの仮面をかけて)ゐては何の意味も持たない。後世に生きるひとびとが歴史のなかに含まれる人間と触れあつてこそ、はじめて意味を持ち得るのだ。しかしそれでは過去の人間が我々と有機的に結びつく場合、もつとも媒介として相応しいのは何か。これこそすなはち、その人間が持つてゐる風韻である。正岡忠三郎やぬやま・ひろしのやうに何の劇的な事績をも持たない歴史上の人間であつたとしても読者に感銘を与へるのは、その人間が成し遂げたことではなくその人間がどんな人物であつたかによつて我々が影響を受けるからにほかならない。 司馬遼太郎はこの間の事情をよく知つてゐたからこそ、彼らのやうなごく普通の市井人を取上げたのである。竜馬や信長の劇的な人生によつて生きる勇気を奮ひ起し、進むべき道筋を照らすのは決して間違つた行為ではない。しかしさういふ人物たちだけが後世に影響を与へ得る歴史といふものなかと考へるのならばそれは大いなる誤りであつて、例へば正岡忠三郎やぬやま・ひろしのやうなひとびともまた彼らと何ら変るところのない歴史そのものにほかならないだらう。『ひとびとの跫音』の登場人物たちは、歴史上の事績といふ点においては竜馬や信長とは比較にはならないが、人間的な風韻といふ面においては決してひけを取りはしないのだから。静かな跫音を立てながら人生を歩んでいつたかうしたひとびとを前にするとき司馬遼太郎自身が感じた人間の風韻。「こんな人間が世の中にはゐるのか」といふ思ひ。そしてそれを一個の人間が私有するのは忍びないといふ意識。この小説のすべてはそこから始るのである。 時間とは忘却にほかならない。それが自然の理であるからだ。そして人間がその自然の理に逆つてまでも歴史といふ記録を残さうとするのは「こんな素晴しい人間のことを忘れ去つてしまふのは惜しい。きちんと後世に伝へれば人類に人生上の叡智と勇気を与へてくれるかけがへのない財産になるはずだ」といふ考へからであり、自分が感銘を受けた人間の風韻を後世に伝へたいと思ふからであるだらう。さういふ意味において、この小説は歴史そのものにほかならないのだ。ここにあるのは、歴史であり、人間の風韻であり、そしてひとびとの跫音である。
2006年12月24日
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風 韻 『ひとびとの跫音』 1 人間はどうして歴史を綴るのか。 それは我々があまりに無知だからである。いつたい人間が何ほどのことを知つてゐると言へるだらう。眼前に展開する世界の半ばさへ理解してはゐないのではないか。ひとりの人間が経験し得ることがらは限られてゐるし、ましてやそこから得ることのできる知識はほんの一握のものでしかない。それはこの広大な世界のうちのごく一部分でしかないのである。 あるいはかう言ふこともできるだらう。人間が経験的知によつてのみ生きるものだとすれば、今まで出逢つたこともないやうな事態を目の前にしたとき我々はどうするのか。歴史を繙くに違ひあるまい。ひとりの人間はあまりに卑小な存在であり、そしてそれゆゑにほかの人間の経験を知ることによつて無知を補ふ必要がある。歴史とはそのために存在するものにほかならない。 すなはち歴史とは膨大な量の人生なのではないか。年号でも、記号的な人名でも、あるいは無味乾燥な資料の山でもなく、過去の人間たちが経験してきた人生そのもののことなのである。それらの人生のなかから、遥かな後世に生きてゐる我々が何事かを学ぶことなのである。あるいはそれらに学ぶことが不可能であるにしても、過去にさういふふうな人生があつたのだと脳裡に思ひ浮べることによつて、生きてゆくための勇気を得ることなのである。すなはち過去に存在した無数の人生と我々の人格の間に交はされる有機的な共鳴が歴史なのだ。 しかしながら世の中の考へ方はしばしばこれと対立する。彼らは言ふ、「歴史とは事実である。人生といふやうな甘つたれた非科学的なものではなくて、事実の積み重ねによつて形作られるものにほかならない」。これは正しい態度なのだらうか。……私はさうは思はない。もし歴史が彼らの言ふやうなものだとしたら、三葉虫や兜蟹や恐竜もまた歴史であり、昨日雨が降つたのも三十年前の今日雷が鳴つたのも歴史であるといふことになるだらう。何しろそれらはいづれも歴とした事実であり、過去の出来事なのだから。しかし実際にはさういふものを歴史だとは言はない。それはこのやうなものたちが我々の無知を埋めるためのよすがとはならないからではないか。歴史とは人生の見本市なのだ。我々はその無知によつて行き詰つたとき、必ずこの見本市に立戻つてもつとも相応しい典型を選び出し、実際の人生に生かすことができるやうになつてゐるのであり、逆に言へば歴史とは常にさういふことが可能なものでなくてはならないのである。 それゆゑに歴史とは人生を記録することであり、もつと端的に言へば人間を記録することにほかならない。人間がいかに生きたかといふことが歴史における主題であり、ひとりの人間の人生を前にして「かういふ生き方をした人間がゐたといふことを後代に伝へたい」といふところから歴史は始るのではないか。そしてさういふ意味においては司馬遼太郎の小説はまさしく歴史そのものであつたと言ふことができるであらう。『竜馬がゆく』にしても『国盗り物語』にしても、竜馬や道三、信長の人生を前にした筆者の感動(さういふ言ひ方が大袈裟にすぎるといふのならばそれらの人生への共鳴、と言つてもよい)から始り、生き生きとした人生を描いた作品にほかならない。そこにあるのはすべて漢の典型(文化勲章受章の際に自作を評したことば)であつて、ひとつひとつの人生が持つてゐる雰囲気まで描き出した物語なのである。 ひとりの人間の生き方、運命への態度が好きで好きでたまならない。司馬遼太郎の小説はそこから始る。かういふ人間がゐたことをひとりでも多くのひとに知つてもらいたい、こんな素晴しい生き方をした人間の人生を参考にしてほしい、といふ気分。あるいは生きる上での参考にならないとしても、さういつた人間がかつてこの地上に存在したことを知つてゐるだけで爽快になるでせうといふ思ひ。さういつたものが彼に筆を執らせるのに違ひない。そしてそのために司馬作品はいづれもあれほどに史実に厳密なのであり、種々の挿話を好むのであらう。 風韻、と言つてもいいかもしれない。司馬遼太郎が書きたいのはある人間の持つてゐる風韻なのである。その風韻が後代の人間にどれほどの勇気と叡智を与へるかを知りつくしてゐるからこそ、彼は小説のなかでこれほど執拗に人間を扱ふのに違ひなからう。歴史といふものを過去の人生に学ぶための装置であるとすれば人間の持つ風韻こそが時間軸を越えて香気を放つ存在であり、過去の人生をもつとも象徴的に表すものにほかならない。すなはち人間の風韻を描くといふことはそのまま人生を描くことであり、さらに言へば我々の現前に歴史を展開するといふことなのだ。そしてこの三つを同時に満たしてゐるのが司馬遼太郎の作品なのである。 2 司馬遼太郎の最高傑作と言へば、私などは『ひとびとの跫音』だと思ふ。さぞかし異論の多からうことだらうが、作品の構成、筋立といつた内容的な面から、品格とか香気といふやうな抽象的なものまで含めてこれに匹敵する司馬作品があるだらうか。ない、としか考へられないのだ。確かに世間ではずいぶん地味な一作で、相当司馬遼太郎を読んでゐる人でも題名さへ知らないといふことがある。しかしながら実際のところ、もの狂しいくらゐに読者を惹きつけてやまない作品であることは疑へない事実にほかならない。 ここで私は強力な味方を紹介することができるだらう。藤沢周平が司馬遼太郎没後の特集雑誌に寄せた『遠くて近いひと』といふ随想である。このなかで『蝉しぐれ』の作家は、遅読癖のために長篇の多い司馬作品はあまり読めなかつたが、そのなかで非常に感心した作品としてこの小説の名を挙げてゐるのだ。これから先ほかの作品を読まないままでも『ひとびとの跫音』一作を読んだだけで後悔はしない、とまで言ひ切る傾倒ぶりで、『ひとびとの跫音』贔屓の人間にとつては心強いことこの上もない。彼によれば、この作品はごく普通のひとびとを取上げて忘れがたいやうな印象感を残すことに成功した作品であり、そしてさういつた特徴は司馬遼太郎の丹念な考証といくばくかの想像、人間好きの性向によつて築き上げられたものだと言ふ。いかにも藤沢周平らしい視点からの綿密な作品評であり、彼の読み巧者ぶり(世間では書き巧者ぶりばかりが先に立つてゐるのだが)が判る一文で、私としては我が意を得たりといふ感じである。『ひとびとの跫音』の主人公は正岡忠三郎といふまつたく無名の人物にほかならない。正岡子規の養子である彼を中心として、ぬやま・ひろしや富永太郎といつた周囲のひとびとを随想ふうに描きながら物語は進んでゆき、最後に司馬遼太郎自身が監修者として加つた『子規全集』が発刊され、忠三郎が没して終幕を迎へる。小説のなかで筆者自身が言つてゐるやうに、子規から『子規全集』までがこの作品の時間的な舞台であり、その間に登場する有名無名のひとびと(どちらかと言へば無名の人のほうが多い)が一篇の空間的な広りを担当してゐると言ふことができるだらう。これと言つた筋がない随想ふうの小説に見せかけて、その実は正岡忠三郎を軸に据ゑた人間群像を描いてゐるのにほかならないのだ。 しかし『ひとびとの跫音』といふ小説が佳品たるゆゑんはひとりその点にのみあるものではないことは言ふまでもないであるだらう。それよりも、この二巻本のすごさは取上げた人間たちに存するのである。藤沢周平の言ふ通り正岡忠三郎といふ人をはじめとしてこの小説に出入りするひとびとはすべてごく普通の、平凡な生活人であり、例へば竜馬や信長のやうな劇的な生涯を送つた人間ではない。しかしながら彼らの生き方は厳然たる存在感を持つて作品のなかに屹立し、我々に与へる感銘といふ点においては竜馬や信長と同等、いやそれ以上でさへあるのだ。例へば忠三郎といふ人を見ると、彼は何を成し遂げた人でもない。ただ温良な君子人として深酒をしつつ生涯を送つた普通の市井人に過ぎないのに、なぜかその人生は我々を惹きつけて止まないのである。ぬやま・ひろしにしても同じであるだらう。彼は詩と音楽をこよなく愛した革命家ではあるものの人生の後半において共産党を除名され、歴史的に何をしたといふほどのことはない。ただ優れた詩を幾篇か残しただけのことであり、ほかの司馬作品の主人公たちのやうに劇的な人生の持主といふわけではないのである。しかしそれがどうだらう、『ひとびとの跫音』のなかで見る彼の姿はじつに生き生きと輝き、読者をして感動せしめずにはおかないのだ。 歴史小説を書くのならばもちろん波乱の一生を送つた人間のほうがやりやすいに決つてゐるだらう。何の藝もなく生涯を追ふだけで話になるからである。しかしながらここで筆者は敢へてごく普通の人間を取上げてその人生を描きつつ、しかも竜馬や信長のやうな人生が読者に与へる感銘以上のものを紡ぎだしてゐるのだ。劇的ではないにも関らず嫋々と流れ出す人生の風韻。それは決して声高にではないが、しかししつかりと読者の耳に届く仕組になつてゐて、そこにまた佳篇の佳篇たるゆゑんもあるのではないだらうか。『ひとびとの跫音』といふのはさういふ不思議な魅力のある小説なのである。
2006年12月23日
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3 しかし以上のやうな司馬遼太郎評に対して「歴史をいたづらに卑近な存在に引きずり下すだけではないのか」といふ反対意見があるだらう。逸話による歴史理解といふのは結局のところひとつの情報を巡つての象徴的人物認識にほかならず、常に誤解を伴ふ畏れがつきまとふ。なぜなら逸話といふのはあたかも似顔絵に似てゐて、その人物の特徴的な性格を誇張するやうな構造になつてゐるために決して写実的なものではないからである。 それゆゑに確かにこのやうな司馬遼太郎批判は一面の真実を突いてゐると言へるだらうし、間違ひであるとあながち一蹴することもできないのだ。しかしだからと言つて全面的に正しいといふこともできない。ここまで述べてきた逸話の効用といふものを考へてみれば、それによつて歴史を語ることは非常に有意義な手段であるといふのは明白な事実である。歴史なるものもまた膨大な人生の集積である限り、逸話がなければその面白味が半減してしまふ。 さて、ここで私はある思ひ出に触れねばなるまい。高校時代私とある友人はそれぞれ日本史と世界史が得意で、歴史の時間が自習になるとよく遊んでゐた。ほかの連中は羨しいご身分だと思つたのだらう、女の子(男もゐたかもしれないがそつちは記憶に残つてゐない)が何人か私たちにかう尋ねたことがある。「どうすれば歴史を覚えられるの?」。ふたりの答へは簡単でいつも決つてゐた。「覚えなければならないことを増やせばいい」。つまり織田信長といふ人がゐるならば楽市楽座や安土城や姉川の合戦のやうな教科書に載つてゐることのほかに、側室に台所道具の名前をつけるのが趣味だつたとか、最初に地動説と無神論を信じた日本人だつたとか、若いころは変な服装をしてゐたなどといふ逸話を覚えるのである。さうすれば歴史上の人物がぐつと近くなるし、楽市楽座のほうも荒縄を帯にした信長が雑踏を巡察してゐる光景を想像したりして(もちろん実際にはそんなことはなかつただらうが、逸話からくる夢想である)記憶しやすくなるのだ。友人以外は誰も同調してくれなかつたが、これこそ司馬遼太郎的歴史観ではないか。 確かに逸話による歴史理解の上での誤解は常につきまとふ。しかし『関ヶ原』ふうの手段はさういつた欠点を計算に入れてもなほ優れてゐると言ふことができるだらう。こつちのほうが教科書ふうの歴史なんかよりずつと解りやすいし、覚えやすい。そして逸話による誤解といふ欠点は、歴史の語り手の才能によつて充分に補へるのだ。司馬遼太郎を見よ。彼はひとりの人物を巡る種々の逸話を仕入れた上で、そのなかからもつともその人物の性格をよく表してゐると思ふものをいくつか抜き出して見せてくれるのである。そしてその選択眼はたいがいの場合舌を巻くほど正確なものであつて、ひとりの人間を過不足なく読者に理解させる有効な手段となつてゐるのであり、かくして逸話によつて人間を描写することにかけては日本文学界随一と言つてもいい作家のおかげで我々は誤解の危険を怖れることなく小説を楽しみ、かつは歴史を満喫できるのである。 そもそもいつたいに歴史の教科書といふのは何の面白味もなくて、ことに文化史などは人名と作品名を羅列しただけの阿呆陀羅経みたいなものなのだが、それは司馬遼太郎ふうのゆき方を排して逸話による誤解を極端に恐れる書き方をしてゐるからである(「それにしてもあれはひどすぎる。どうやつたらあんなにおもしろい材料を使つてあんなにつまらないものが書けるのか」といふ疑問はさて置くとして)。もしもふんだんに逸話をとり入れて歴史を綴るとすれば、奇人変人にこと欠かない文化史などは遥かにおもしろい読み物になるだらうし、結果としてとても覚えやすくなるに違ひない。そして「歴史の教科書ではまつたく覚えられなかつた人物であつても、司馬遼太郎を読めばすつきりと記憶できる」といふ多くの読者の感想は、結局逸話の功徳を証明してゐるのにほかならないのだ。それゆゑ我々はかう言ふことができるだらう。歴史の教科書は長ければ長いほど覚えやすい、と。逸話をつぎ込めばそれだけ歴史理解に役立ち、生き生きとした人間たちの姿が立上つてくるのである。 そして司馬遼太郎の小説を芝居にするとたいがいが失敗する理由もまたここにあると言へるだらう。何しろ脇筋を彩る逸話がすべて抜け落ちて、粗筋ばかり追ふことになつてしまふのだから。『関ヶ原』を上質の舞台にするためには、井上ひさし氏のやうな逸話好きの劇作家が必要なのである。 まことに逸話は偉大である。それを使ひこなした司馬遼太郎もさうだが。 4 二伸のやうな文章。司馬遼太郎に歴史の教科書を書かせるといいといふ説、あれは誤りである。逸話をつぎ込むために『関ヶ原』でさへ三巻になるやうな作家に通史を書かせたら、百科事典のやうな教科書になるんぢやないか。そんな教科書、ぎつくり腰になつてしまふ。
2006年12月22日
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逸話の技術 『関ヶ原』 1 井上ひさし氏は小さいころから「お話を書く人」の話が好きで、作家が何年に生れて、どこで育ち、どんな貧乏をして、どんな女に騙され、何といふ病気によつて、いくつで死んだか、といつたことばかりに興味があつたさうである。おかげで作品を読むのもそこそこにさういふ伝記的事実ばかりを調べてゐる文学少年で、そのことが『頭痛肩こり樋口一葉』のやうな芝居を書くきつかけになつたと言ふ。この気持、よく解りますね。確かに作家を知る上でもつとも重要な資料がその作品であることについては疑ひを挟む余地はないのだが、しかし何だか隔靴掻痒の恨みを免れ得ないのも事実だもの。『坊ちやん』をじつくり読むのもいいが、ひとりの人間としての夏目漱石をよく理解しようとするならば、彼が痔持ちで、胃弱で、鼻毛を抜きながら読書する癖があつて、謡があまり上手ではなかつたといふ伝記的な事項を集めてゆくほうが有利であるに違ひない。何しろ小説といふのはまるまる嘘をつく仕事だから、漱石の実人生(私小説的な意味ではなくて)や性格を考へる上ではかういつたものに拠るのが便利なのである。 しかも不思議なことに「漱石は明治二十六年に東大英文科を卒業して、同三十三年英国留学……」といふふうな資料よりも、痔や胃弱のほうが遥かに人間理解の上では役立つ。かういふ逸話ふうの資料があると、我々と漱石の間がぐつと近くなつたやうに感じて、より生き生きとした漱石像を再現できるのである。いや、これは何も作家や歴史上の人物に限つたことではなくて、我々の身のまはりの人物についても同じことではないだらうか。例へばお見合ひの相手を紹介するときだつて「向うさんは某大の出で、何某社に勤めてゐて、今年二十六で、性格は優しくて」といふ情報よりも「飼犬が病気になつたときは夜も寝ないで看病をしたさうだよ」と言つたほうが、相手の人柄がよく解るに違ひない。かういふ逸話ふうの情報のほうが人間を理解する上での効果は大きいのだ。 では、なぜさういふ情報のほうが大きな効果を上げられるのか。これには種々理由があると思ふが、主なものは以下の三つであらう。 その一、おもしろいから。学歴、地位、年齢といつたまるで年譜か履歴書のやうな事実の羅列より、犬の看病のほうが遥かに興味を惹く。ましてや逸話のやうにもともとがひとを楽しませるために作られた情報(噂)ならばなほさらのことである。どんなに優れた情報であつてもおもしろくなければ頭に入つてはこず、結果的には役に立たないのだ。 その二、具体性があるから。すなはち優しい性格などといふ抽象的な表現よりも、逸話ふうの具体的な事実を突きつけられるほうが解りやすいからにほかならない。優しい性格といふ抽象表現から演繹的に「それならかういふ性格で、こんなことをしたりする人物だらう」と推理するよりも、犬の看病といふ事例から帰納的にその人柄を考へるほうが想像に具体的な裏づけがある。 その三、これは二番目と大いに関係があるのだが、情報の主が急に卑近な存在になるから。具体性といふのは結局自分の身近なことに引寄せて考へることにほかならないわけなのだから、具体的な理解が可能になれば情報の主が卑近な存在になるのは理の当然にほかならない。ゆゑに高学歴の見合ひ相手も、明治の大文豪も、まつたくかけ離れた人物ではなくて非常に身近な存在へと変化し、従つて同じ人物がずつと理解しやすくなるのだ。「東大出身、文学士、英国に留学、東大教授……」ではかうはゆかない。 以上のことから何が言へるか。それは逸話ふうの情報が持つ魔力といふものだらう。複雑微妙の内面を持つ人間の存在を瞬間的に理解させ、どんなにかけ離れた人物であつてもまるで横町の小父さんのやうに感じさせてくれる魔力。これがなければ歴史も、批評も、人物月旦も、すべてがひどく難しくてかつ理解し難いものになつてしまふ。逸話あればこそ、文豪は具体的な存在感を持つて我々の眼前に再来し、我々は彼をひとりの人間として親しみを持ちつつ理解することが可能になるのだ。そしてその理解を足がかりにして作品を読むことによつて作家の世界をいつそうよく知ることができるであらうし、もし才能さへあるならば、そこから小林秀雄の菊池寛論がごとき文藝評論や井上ひさし氏のやうな芝居を生み出すこともできるのである。 まことに逸話は偉大なのです。 2 さて日本の小説界にあつてもつとも逸話を上手に利用したのはどの作品だらうか。この問ひに対しては女房の噂話といふ形式をとつてゐる『源氏物語』や『吾輩は猫である』における逸話集としての性格を挙げることもできるだらうが、私はここで司馬遼太郎を以て答へにしたいと思ふ。ことに彼の『関ヶ原』を挙げたい。 この小説のなかにはじつにたくさんの人間が出てくる。それはまさしく壮観としか言ひ難いものであつて、関ヶ原の合戦を巡る無数の野望や思惑を余すところなく描ききつたといふ点においては古今に比肩するもののない作品であるだらう。かつて我が国の誰が家康の野心と織田有楽斎の保身をともに描写し、三成の正義感と安国寺恵瓊の奸佞を同時に扱つただらうか。かたや歴史の立て役者、かたやほんの端役。このふたつのものがそれぞれ生き生きとした存在感を持つて小説のなかに登場するといふのはほとんど奇跡的な離れ技にほかならない。どちらか一方をといふのならば決してできないことはないだらうが、ひとつの作品のなかで双方を描ききることは、山陽やあるいは江戸の歌舞伎作者たちを以てしても不可能であつた。それは司馬遼太郎の才能とその特異な逸話の能力によつてしかなし得ない偉業なのである。『関ヶ原』のなかで司馬遼太郎が取つたのは膨大な逸話群による人物列伝形式である。すなはちひとりの大名がゐたとして、彼が関ヶ原にどう関り、どんな打算によつて行動したかといふことをひとわたり書くとすることにしよう。これだけならば無味乾燥な歴史書のやり方にほかならない。司馬遼太郎はここでさらに逸話をひとつ付加へるのだ。例へば織田有楽斎が家康のところに戦勝祝ひに駆けつける場面。ここでこの信長の弟が早くから徳川の政権を予測し、関ヶ原でも東軍に加つて武功を挙げたことを書いてから、有楽斎が家康に槍を褒められてすぐに献上してしまふ逸話を付足す。これで有楽斎の軽薄狂騒とも言へる性格が端的に読者に伝り、彼が急に近しい存在になる(上司にものを褒められるとすぐに献上する同僚を思ひあはせたりして)とともに関ヶ原前夜の彼の行動がさてもありなんと実感を伴つて附に落ちる仕組になつてゐる。これは有楽斎のやうな小物から、家康、三成のやうな大物まで同じこと(ただし大物になるほど逸話の量も増えてゆく)で、かうして数々の人間が端的に、そして明確な実在感を持つて読者に迫つてくる構造になつてゐるのだ。かつてこの小説を「司馬さんと夫人がふたりで『あ、あの人はああいふ性格でかうかうだから西軍ね』『やつぱりあんな人だから東軍に行つて、かうなつちやつたか』なんて関ヶ原の大名たちを噂し合つてゐるみたい」と評したひとがゐた(残念ながら誰がどこで書いてゐたのかが思ひ出せない。もちろんのこと引用も記憶である)が、それはこの挿話による手法を言ひあてて妙であるだらう。何しろ辞書によれば「ゴシップ。噂のこと」なのだから。 司馬遼太郎は学生時代立川文庫のやうなものを日替りみたいにして読んでゐたさうだから、逸話の効果には充分親しんでゐたことだらう(立川文庫のあの講談調はまさしく逸話による歴史語りそのものである)。そして小説を書かうと思つたとき一番最初に思ひだしたのは若き日に慣れ親しんだこの形式であり、逸話の手法であつたに違ひない。そして好都合なことに逸話といふのはもうひとつの司馬文学の特徴である列伝形式(こちらはやはり学生時代の愛読書で筆名の由来ともなつた『史記』の列伝の影響だらう)としごく相性がいいのである。列伝と言つても小説のなかで扱へるのはさして長くない小伝であるから、その限られた分量のなかで興味を惹くことを書かうとすれば勢ひ逸話にならざるを得ないのだ。それに逸話といふのは生き生きとした人物像を再現するのに非常に効果的(前述した三つの効果でも判る通り)であるから、小説には持つてこいなのだらう。かくて逸話による群小の列伝形式が生れ、『関ヶ原』のやうな前人未踏の文学境に到るのである。 この小説のなかで筆者は、次から次へと逸話を繰り出して登場人物たちに対して読者が親近感を抱くやうな状況を作り、結果的に膨大な量の人間に生き生きとした存在感を与へて歴史の躍動をみごとに伝へてゐる。このことを考へれば、『源氏』『猫』以来の伝統を正しく継承して井上氏の芝居へと中継する司馬遼太郎の文学を以て、逸話文学中の代表としてもあながち誤りではあるまい。
2006年12月21日
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3 例へば池内蔵太。長崎から薩摩へゆく途中に遭難して溺死した海援隊員の話なんかなくつたつてこの小説は成立するのだらうが、初めは単純な攘夷主義者だつたのが最期は蒸気船の船長として死ぬあたり何となく滑稽味があるし、志士になるべく郷関を出た男が溺死といふのがいかにも哀れではないか。あるいは北添佶麿といふのは大の急進派のくせに、竜馬に説き伏せられて志士の北海道入植計画のために遠く松前まで視察にゆかされてしまふ。普段は強いことを言つてゐるわりに竜馬の前ではその調子の狂つてしまふ真面目さうな人間を想像してつい共感したりする。いづれも史書では二、三行の扱ひで、しかも小説になりさうな人生を送つたわけでもない。しかし司馬遼太郎の筆にかかると、看過するにはちよつと惜しい人間像が鮮明に浮び上つてくる。 筆者は確かにこの小説によつて竜馬を描いた。しかし同時に小伝といふ方法によつて群小の人間、例へば土佐の草莽の志士たちをひとりひとり丁寧に描いていつたのである。伝奇といふことばはもともと、世の中のちよつと変つた、うち捨てておくには惜しいことを記録するといふ意味であつたさうだが、だとすると池内蔵太や北添佶麿に対する司馬遼太郎の思ひこそ本来の伝奇の精神そのものではないだらうか。確かに著者はこの小説のなかで寝待の藤兵衛ふうの伝奇性を徐々に薄めていつた。しかし反対に新たな伝奇性、すなはち史実のなかからちよつとおもしろい人間を拾ひ出し、小説のあちらこちらにちりばめるといふ態度を確立していつたのである。あるいは後期の司馬作品の根幹に存在するものは、かういつた群小の人間への興味と、彼らのささやかな記録を小説といふ手段によつて残したいとする思ひだつたと言ふことができるかもしれない。そしてそれが例へば『坂の上の雲』にしばしば登場する無名兵士たちの日記の抜粋や、『ひとびとの跫音』のやうなごく身辺のひとびとの伝記風小説へと繋つていつたのに違ひない。 先に私は土佐草莽の志士たちは多く非業に斃れ、記録も不充分だと述べた。しかしながら考へ方によつては『竜馬がゆく』といふ小説によつて彼ら無名の志士たちにやつと安住の地が与へられたと言ふことができるのではないだらうか。歴史の上でごくぞんざいにしか扱はれてゐなかつた男たちは、司馬遼太郎によつて小さいながらもそれなりに輝く居場所を作つてもらつたのである。そこでは歴史的功績のあまりに過小なゆゑによつて無視されることなく、ささやかながらも我々を惹きつけてやまない人間的魅力をしつかりと放つてゐるのだ。むろん彼らは傍流であり、作品全体の基調をなすのが竜馬であることは疑ひのない事実であらう。しかしじつくりとこの八巻を読みこむとき、我々は竜馬と同じくらゐに、いやもしかするとそれ以上に読者を魅了してやまない群像が存在することに気づき、そしてそれらは歴史のなかに埋没しがちな人間を丹念に掘り起して記録しようとする司馬遼太郎の人間好きに由来するものであることを知る。 この小説の竜馬にのみ目を向ける多くのひとびとが、彼の虚像を勝手に膨ませることによつて彼らを圧殺しようとしてもそれほど不機嫌になる必要はないのかもしれない。池内蔵太の哀れさが、北添佶麿のをかし味が、きちんとした形をとつて作品のなかに記録されて(しかも史書以上に生き生きと)ゐるのだから。 土佐草莽の志士。彼の骸は都大路で、あるいは他郷の山野で朽ち果て、多く墓すらない。あるいは歴史上に存在したといふ事実さへ忘れられがちであつた。『竜馬がゆく』はさういつた群像の生涯を記録するための墓標でもある。
2006年12月20日
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墓 標 『竜馬がゆく』I 1 高知は四時春のごとき土地柄だと思つてゐるひとがゐるがあれは大きな間違ひで、晩秋の風の音を聞くやうになると身ぶるひするほどの寒さを感じることが多い。そのくせ「暖い高知」といふ思ひ込み(主として県外の人)に義理立てしてか暖房を入れるのはずつと冬も深まつてからなので、私のやうな寒がりには過しにくいことこの上なく、従つて十一月ごろの私はこの不条理な暖房制限のためにはなはだ不機嫌である。 もつとも不機嫌の理由といふのはこれだけではなくて、このころ街をゆけば必ず目にする竜馬祭の宣伝のせいでもある。赤白赤の海援隊旗に竜馬祭の三文字が染め抜かれたのが万国旗のやうにつるされてゐる光景を見るに到つては高知県民をやめようかと思ふ。別に竜馬が嫌ひなわけではない。いやどちらかと言へば好意を持つてゐるほうだ。ただ竜馬祭と称する行事や、竜馬をやたらと崇め奉るひとびとや、あるいはそれを利用して商売をする風潮が嫌ひで、しかもそれらが十一月十五日を中心とした時期に収斂されて現れるから不機嫌になる。竜馬の先見の明、とらはれない精神、さういつたものを讃へ、現代に生かさうとするといふのならまだ解らないでもないが、現実には竜馬贔屓と名乗るひとびとが些細で表面的な伝記的事項を真似て(例へば黒紋付袴の恰好。当日は高知市長までかうである)嬉しがつてゐるに過ぎない。生家前で行はれる慰霊祭が、実はかうした全国の贔屓を高知に引寄せてくれる竜馬への感謝祭なのではないかと疑ふばかりだ。 もつともかういつた竜馬の俗な扱はれ方にも多少の同情すべき理由があつて、観光が県の基幹産業のひとつであるためにことさら竜馬を宣伝せねばならないといふことは言へる。すなはち世の中にはそれほどに竜馬贔屓がゐるといふことだ。実際に現代の日本人にとつて竜馬の存在は決して小さいとは言へず、尊敬する人物といふ空欄の回答としてその名がよく挙がる人物のひとつだといふことを見てもそれは分明であらう。なにしろ実に魅力的な人格であるし、それに西郷や乃木のやうに現代社会においてはもはや通用しなくなつた価値体系の具現者ではないといふ点で万人に受入れられやすいこともある。例へば歴史上のほかの人物でこれほどに誰もが抵抗なく愛し得る存在があつただらうか。義経、信長、あるいは大石内蔵助。いづれも強烈な信奉者とともにそれを毛嫌ひする人間がゐる。かつて秀吉がやや現在の竜馬と似た位置にあつたが、朝鮮出兵が見直されるに及んで彼は禁忌となつた。竜馬こそは現代において唯一大衆の支持する英雄、いや一種の偶像であらう。そして英雄は常に神話の主人公である。 神話における特徴的な現象のひとつとして逸話の吸収がある。神話は歴史ではないから、ひとりの英雄が現出すれば同時代の種々の逸話を吸収してしまふ。竜馬においても似たやうなことがおこつた。さすがに彼が松下村塾を開いたり、戊辰戦争を指揮したことにはならなかつたが、幕末維新で偉いのは竜馬ひとり、あとはゐてもゐなくても同じ、といふ考へ方が生まれたのは事実に違ひない。ことに出身である土佐藩においてひどく、例へば薩長連合にしても中岡慎太郎の存在はかき消されたも同然ではないか。竜馬の虚像はとめどなく肥大し、土佐のいはゆる草莽の志士は歴史のなかから消えていつた(少なくとも単純な竜馬贔屓たちの歴史観のなかからは)。私の竜馬祭への不満は煎じつめるとかういふところに由来するやうである。 そもそも土佐藩の志士の大半は郷士であり、そのために藩の庇護を受けられないまま(この間の事情は『竜馬がゆく』に詳しい)諸国に横死した。組織に属さなかつために維新史において必ずしも重要な役割を演じ得たわけではなく、従つて記録、史料の類も不充分で無名の連中が多い。藩内にあつては上士に虐げられ、藩外では常に少数派として流浪し、歴史の上では記録に漏れやすい存在。そのことを思ふとき、私はしばしば彼らを悲しみ、愛しく思ふ。確かに彼らは重要ではなかつた。土佐維新史は瑞山、竜馬のほか数名を押へれば成り立つ。草莽の志士は無視してさしつかへない。だが学問的にはそれを許せても、同郷としての感傷、あるいはひとりの人間としての同情がそれを許せないのだ。多く彼らは単純な攘夷主義者たちで思想も行動も歴史に記す価値はなからう。けれどもさういふ人間たちがかつて存在し、彼らなりの悲喜劇を繰返しながら生きてゐたことを忘れ去つてよいのだらうか。竜馬祭が盛大になりそこに視線が集中すればするほど、彼らは存在感を薄くしてゆく。竜馬を愛することは間違つてはゐない。しかし竜馬祭といふ形で大衆の竜馬信奉を煽りその虚像を拡大することで、結果として草莽の志士たちが圧殺されてゆくのはをかしいのではないか。ちようど「高知は暖い」といふ虚像の拡大によつて私がこごへるのは不条理なやうに。 だから私は不機嫌になる。 2 さて司馬遼太郎の代表作と言へばこれはどうやら『竜馬がゆく』といふことになるやうだが、私にはかういふ世間の評価が非常に興味深く感ぜられる。少し評伝的なことを言ふと『竜馬がゆく』は『燃えよ剣』などとほぼ同時期に書かれ、すでに直木賞を得てゐた筆者はここで一気に流行作家としての地位を確立した。内容の上から言つてもそれまでの『梟の城』や『花咲ける上方武士道』の伝奇的で娯楽性のつよい作風から、博捜と史実の積み重ねによつて史伝的な世界を作り上げるほうに力点が置かれるやうになり、後の『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』へ繋る流れが生れてゆく。ここで『梟の城』や『花咲ける上方武士道』の世界を伝奇的作風の前期とし、『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』の世界を史伝的作風の後期とするならば、世間一般における司馬文学の印象は圧倒的に後期の作品によるものであり『竜馬がゆく』も史伝的系列の作品であるといふ認識によつて代表作の評価を得てゐるのであらう。 だがこの『竜馬がゆく』を仔細に読んでみるとさういふ評価に対していささか疑ひを差挟みたくなるのを押へきれない。例へばこの小説には寝待の藤兵衛や福岡のお田鶴さまのやうな幾人かの虚構の人物が出入りしてゐて、それぞれが実に魅力的な性格に描かれてゐる。別段史伝ふうだから虚構の人物が出てきてはいけないといふことはないのだが、後期の特徴として『坂の上の雲』のやうなすべて実在の人物で構成された作品がある限り、これは『竜馬がゆく』が完全に史伝ふうの系列に属するとは言ひきれない理由のひとつにならう。ほかにも土佐から初めて上京する竜馬の旅姿を描くあたりは、明朗な剣客に世間の裏通りを歩むお供(藤兵衛)、憧れのお姫さま(お田鶴さま)と敵役(信夫左馬之助)とまるで山手樹一郎を思はせる配役でどうにも史伝とは言ひがたい。いはばこの作品は前期から後期への変換点にあたり、筆者も最初のうちはしごく伝奇小説ふうに書き始めたのではないか。 むしろ『竜馬がゆく』の魅力はこの二つの作風が渾然一体となってゐるあたりに由来すると言ふことができよう。つまりお田鶴さまのやうな虚構の世界が綿密な史実の間で実に生き生きと息づいてゐて、そのおかげで虚構は史実以上に史実らしく、史実は虚構以上に親しみやすくなるといふ相乗効果を上げてゐる。それゆゑに、この小説においては伝奇的性格から作品中の史実の混入を非難するのが見当違ひであるやうに、史伝的性格から虚構の混入を非難するのもまた誤つた行為でしかない。綿密な史実の累積によつて虚構にどつしりとした重みが生れてくるのだ。 史実のための虚構、虚構のための史実。執筆開始にあたつて著者がこの作品に膨大な量の史料を持込んだのはそのためにほかならない。しかし巻を追ふごとに史実のための史実といふ考へ方が明かにつよくなつてゆくのもまた事実で、虚構の人物があまり出てこなくなくなり、代つて政情や歴史論の挿入、あるいは伝記的解説が多くなつてゆく。特に特徴的なのが膨大な量の登場人物の挿話ふう小伝の混入。これは丸谷才一氏の『司馬遼太郎論ノート』にも詳しいが、例へば竜馬が勝海舟と出会ふ場面では本筋を少し置いて海舟の生立ち、思想、性格などを挿話を芯にして書きつける。これが実に効果的で、筋の展開の上ではさほど重要ではないのだがその細部を加へることによつて登場人物に奥行きとしつかりした存在感が生れ、読者は端的にその人物を理解できるやうになつてゐるのだ。例へば子供時代の海舟が犬に睾丸を噛まれた挿話は、読者をして彼がつい隣近所の小父さんであるかのやうな気にせしむる効果を上げ、結果として海舟といふ人物をずいぶんととつつきやすくしてゐると言へるだらう。人は池波正太郎が鬼平に軍鶏鍋をつつかせた功をのみ言ふが、こつちの挿話小伝だつてそれにひけをとるものではない。じつに見事だ。しかしここで私は少し考へこんでしまふ。この小伝群による小説形式はただ親近感と端的な理解のためだけに用ゐられたのか、と。 司馬遼太郎がこの手法を思ひついたのは、実はなるだけ多くのひとびとを小説に登場させたかつたためなのではないだらうか。『竜馬がゆく』は文庫八巻に及ぶ長編だが、それでも普通の小説作法を用ゐるとおのづと登場人物の数は限られてしまふ。しかし、二人がけの椅子でも痩せた人なら三人座れるかもしれない。つまり小伝を無数にちりばめることにすれば……。 さして重要ではないし、無視したつて歴史は動いてゆくはずの、しかし人間としてのちよつとしたおもしろ味のある連中(ちようど土佐の草莽の志士たちのやうな)。史実を追つて膨大な量の史料を漁るうちに筆者はさういふ人間を数限りなく目にしたであらう。人間こそが飽くなき興味の対象であつた作家にとつて彼らは切り捨てるにはあまりに惜しい存在であつただらうことは容易に想像し得る。さらに言へば、史料のなかに存在することと歴史小説のなかに登場することは明かに違ふ。前者はただ単にさういふ人間がゐたことの証明に過ぎないが後者はその息吹を感じるための手段であり、生き生きとした存在感を後世の人間へ伝へ得る世界に参加することにほかならない。学問的にはごくつまらない連中が持つてゐた人間としてのおもしろ味は小説のなかでしか味へないのだ。
2006年12月19日
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3 明治といふのはいつたい何だつたのであらうか。我々はいまだにこの問ひに対して正確な答へを出し得てゐない。それは輝しい日本近代化の黎明であり、同時に侵略戦争と帝国主義への第一歩であつたし、漱石といふ西欧近代小説の骨法を取入れた文学的出発でありつつも、一方で自然主義ふう私小説といふ日本独自の文学形態が歩き出した瞬間であつた。光と影が交錯し、その境界線があまりにも曖昧な時代。我々の生きる現代へと直截に繋りつつもはつきりとした形を捉へがたい過去。明治は常に不鮮明なまま置き去りにされてきたし、さうすることによつて我々は自分たちの過去を振返るといふ勇気をしまつたままにしてきたのである。左翼たちには光の部分を評価する勇気が、右翼たちには影の部分を評価する勇気がないままに、彼らは主義主張によつて明治を考へてきた。しかしさうして得られた答へは正しいのだらうか。 このやうななかで司馬遼太郎の描いてきた維新と明治初期の風景は多くの国民に受入れられた。なぜならば彼はその小説のなかで、明治の二面性を余すところなく書きつくしたからである。例へば『坂の上の雲』における主人公たちの昂然の意気と内面の悔い。彼らと明治といふ時代性が重ね合はされてゐるこの小説において、それらふたつは暗喩的にこの時代の明暗両面を表してゐるのだ。 あるいは世の人は、司馬遼太郎といふのは当時はやりだつた左翼史観(自由主義史観のひとは自虐史観なんて言ふらしい。これはちよつと言ひ過ぎだらうな)に反旗を翻して「偉大なる明治」を描いたのだと言ふかもしれないが、それは必ずしも正しくないだらう。『「明治」という国家』を読めば判るのだが、彼は確かに明治の偉大さを言つてはゐるものの、その力点は西園寺公望が被差別部落から嫁を貰ひたいと言つた挿話や副島種臣と大江卓らによるアロー号事件のほうにあつて、日露戦争の勝利とそののちの日比谷事件や日韓併合については積極的に嫌悪の情を表してゐる。そこにあるのは、自由と平等、独立自助の精神、人間としての規律といつた明治への賛美と、十五年戦争へとつながる愚行に代表される明治への軽蔑にほかならない。彼は単純に偉大な明治を賛美してゐたわけではなくて、その裏側に潜む影の部分を鋭くそして優雅な手つきでゑぐり出しつつ、あの時代が持つてゐたすべてのものを描いたのだ。そしてそれは『坂の上の雲』を青春小説として、心の奥底でささやかな悔いを感じつつ生きてゐる青春群像の物語として読むとき、さらに分明になるだらう。例へば秋山真之を見るがよい。あれほど鋭敏な頭脳の持ち主であつたはずのこの男が、日露戦争後は神秘主義と宗教に溺れ、半ば狂つたやうな有様で死んでゆく。さう、まるで一九〇五年以降冷静な合理主義を放棄してゆく日本軍のやうに。そこに明治といふ時代の影がある。彼の前半生におけるあの昂然の意気、青春の輝しさといふ光の部分とはまつたく逆の。 ひとつの時代をまるごと捉へる力量とそれを三人の若者といふ一点に集約する才能によつて、司馬遼太郎は明治なる時代への評価を下した。拙速ながらも何とか成し遂げた近代化とその理想主義的な革命精神への愛着。そして、生れゆく帝国主義への反省。この小説においてはそれらふたつの明治が混然となり、巨大な奔流を形作りながら流れてゆく。好古を、真之を、子規を、あるいは児玉源太郎を、乃木希典を、東郷平八郎を飲みこみながら。彼ら明治のひとびとは坂の上の雲といふ希望に満ちた家の将来像を眺めながら近代化への坂道を一気に駆け上つた。しかし足下を見つめないままに登りきつた坂の上に待ち構へてゐたのは希望などではなく、帝国主義といふ名の泥沼だつたのである。それが『坂の上の雲』における司馬遼太郎の明治観にほかならない。 そして彼のこのやうな明治観が広く大衆に支持されたことは非常に興味深いと言はねばならないであらう。左翼ふうの全否定でも右翼ふうの全肯定でもなく、可は可、否は否とした態度こそが我々の望んでゐるものであり、もつとも受入れられやすい考へ方であるといふことになるからである。さう、「あれはいちがいに良いとも悪いとも言へない時代だつた」といふ明治観こそ、中村草田男があの俳句のなかで無意識のうちに投げかけ、司馬遼太郎が『坂の上の雲』によつて描きつくしたものにほかならない。そしてそこにはいつもいくばくかの懐しさ、郷愁が伴はれてゐるだ。 私は先にこの小説を三人の男たちの青春を描いたものだと言つた。しかし今やそれを言ひ直さねばならない。光を影の両面を持つがゆゑに郷愁を誘ふものを青春と名づけるならば『坂の上の雲』には四つ目の青春がある。明治といふ名の日本の青春時代が。
2006年12月18日
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明治の青春 『坂の上の雲』II 1 丸谷才一氏の『軽いつづら』によれば昭和を代表する名句は 降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男 だといふことだが、おそらくこの意見は万人の認めるところであらうと想像する。何しろ道具立てがいいもの。降る雪といふ叙情的で感傷的な季語が明治への郷愁とうまく重つてゐて効果的であるし、ある雪の日に中村草田男が小学校の同窓生と偶然ゆきあはせて詠んだといふ挿話も(もつとも『軽いつづら』のなかでは別な契機によつて詠まれたといふ著者の推理が述べられてゐるが)なかなか劇的でよろしい。まるで新派の舞台みたいだ。 さてここで私が問題にしたいのはこの句の明治といふことばについてである。なぜ明治なのか。別に昭和や大正だつていいぢやないかと考へる人は少くないだらう。明治の語はたまたま草田男が明治生れだつたからに過ぎないといふのは素人なら(すなはち本職の俳人でなければ)誰でも頷きさうな意見である。つまり作者名を外して本文だけで考へれば、明治の語に必然性がないのではないかといふ疑ひがあるわけだ。 実際のところ俳句にはかういふ語の必然性についての論争は数多くあつて、「鶏頭の十四五本もありぬべし」は例へば十七八本では駄目なのかといふ鶏頭十四五本論争や、『去来抄』に載つてゐる「行春を近江の人と惜みけり」はどうしても近江でなくてはならないのかといふ去来の質問などは特に有名であらう。そしてさういつた場合には必ず客観的な判断による定説が作られてゐて、『去来抄』のほうで言へば「薩摩でも丹波でもなくて近江だからこそこの句の惜春の叙情が生きてくる」といふ芭蕉の回答によつて近江の語は動かし難いことになつてゐる。草田男の句についてかういふ定説があるのかどうか無学な私には判りかねるが、仮にここで考へてみることにするとどうもこの明治といふ語は動かせないやうな気がしてならない。 この句の眼目は明治といふ過ぎ去つた時代への郷愁であることは間違ひない。作者はそれを自らの人生における過ぎ去つた好き日々(たぶん青春)と重ね合はせ、降る雪といふ効果的な季語を手向けてゐるわけである。それならば明治にあたる語は何よりも懐しく郷愁をそそるものでなくてはならないわけで、大正や昭和では何となく浅薄な時代を想像して郷愁といふ感じではないし(しかし最近の大正復古の流行を見てゐるとさうでもないやうなのだが)、かと言つて慶応や元治では体験に即した思ひ出が不足してゐて郷愁は感じないだらう。そこでやつぱりこの句は明治でなくては成り立たないし、もし別な元号だつたら昭和を代表する名句にはならないだらうといふわけだ。 ここで興味深いのは明治が郷愁の対象として相応しいものであるといふ点であらう。郷愁とは一般的に過ぎ去つてしまつた好き日々に対するものであつて、しかももうひとつ大切なことにはたいがいの場合何らかの悔いを残してゐるものが対象になるのである。はやい話が、青春への郷愁といへば破れた初恋や友達といつしよになつてやつた莫迦までを含んでゐることを思ひ出せばいい。これからすると私たちは明治に対して二律背反的ながあるやうだ。第一に明治はよかつた、あるいはよくやつたといふ満足。第二にしかしあまり感心できないところ、悔いの残るところもあつたといふ反省である。 確かに明治のひとびとはよくやつた。司馬遼太郎の史観を借りて言へば、危く西欧列強の植民地になりかねないやうな時代に新たな国家体制を作り、議会を取入れ、産業を興し、鉄道を通して、さらには漱石のやうな西洋並の小説を生み出したのである。遥かな後世にある我々だつて感心するのだから、実際にそれをやつたひとびとにとつては大いに満足するべきものであつたに違ひない。しかしながら一面においてそこには様々な問題点があつたのもまた事実であらう。大急ぎでやつてのけた近代化のおかげで国権主導の伝統が生れ、江戸期までの豊かな社会秩序が破壊される一方、日清日露とうち続くふたつの戦争による莫大な死者と朝鮮侵略の歴史は今なほ我々に倫理的な影響を与へてゐる。明治にはさういつた負の面、悔いの部分がある。 草田男の雪は、正と負、満足と悔いといふ明治の両面をふたつながら覆ひつくした。それゆゑに我々はこの句を愛するのだらう。 2『坂の上の雲』は賛否両論の多い小説である。「日露戦争は日本にとつては防衛戦争だつた」といふ著者の解釈が様々に議論を呼ぶせいであるが、私はそのことをこの作品のために悲しむ。さういふ政治的思想的な解釈と評論が先行し、そのために文藝的な面からの批評(小説に対する批評である限りこれがもつとも重要であることは言ふまでもない)がほとんどなされてゐないためである。賛成する側のいはゆる自由主義史観にしろ反対する側の佐高信氏らの評論にしろ、いづれも歴史解釈とそこから生じる政治性に対するものでしかなく、『坂の上の雲』はどこがおもしろいのか、小説としてどんな点が優れてゐるのかを語らうとはしない。むろん歴史解釈を巡る評論は決して無意味ではないのだが、あまりにもそれに偏する現今の評価はいかがなものだらうか。ことに「歴史を主義主張で読むな」と標榜するひとびとが小説を主義主張で読んでゐる光景はまつたくもつて滑稽なのだが。 私はこの小説が好きである。なかでも秋山好古、真之、正岡子規といふ三人の主人公が好きで、彼らを見てゐると明治といふ時代の青春に差込む光を感じるやうな気がして幸福な気分になるのだ。昂然の意気といふのは彼らのやうな存在を言ふのだらうか。好古は日本騎兵の代表を以て任じ、真之は自らこそ海軍参謀中枢における次代の中心だと考へ、子規は旧弊な短型詩文学界の革命家だと語る。三人の若造それぞれが次代の日本を担ふのは自分であるといふ意識に支へられながら、その専門分野で無二無三に仕事を進めてゆく。彼らの前進こそが明治日本の前進そのものであり近代化であるといふ時代に三人は生きてゐて、私たちの世代が野球や蹴球に打込むやうに、明治国家を作ることに夢中になるのだ。そしてさういつた時代状況のなかでがむしゃらに走り続ける姿はどんな青春小説よりも青春の意気を伝へてゐると言へるだらう。 けれどもこの天を突くやうな昂然の意気を抱いてゐる青年たちを見るたびに、何とはなしにもの悲しい気持になるのもまた事実に違ひない。好古は金のかからない学校で勉強したいといふ理由で士官学校へゆく。真之は兄の命によつて兵学校へ入学し、子規は病のために文学に携るやうになる。真之は子規のやうに文学の徒になりたかつたし、子規の幼いころの夢は大臣か軍人であつた。好古にしても福沢諭吉を尊敬してゐたといふ挿話から判るやうにさほど軍人を好いてゐたわけでもないと言へるだらう。いはばこれは「軍人の好きでない軍人」と「文人になりたかつた軍人」そして「軍人になりたかつた文人」たちの物語なのである。彼らはいづれも状況によつて好む道を進むことが許されず、まつたく別の分野で生きるしかなかつた人間であり、しかもそのさほど本意ではない世界において大きな成果を上げることを社会から無言のうちに求められてゐた存在なのだ。その証拠に真之は電文に「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と付加へ、子規は駄々つ子のやうに従軍記者になりたがり、好古は子供を慶応の幼稚舎に入れる。これらはいづれも自分の歩んできた道への悔いがさせたことではないだらうか。彼らは確かにそれぞれの分野で熱烈な努力のすゑに求められた以上の結果を出した。しかしそのことに満足しながらも心のどこかで一抹の悔いを抱へてゐて、それが思ひもかけない部分に現れたのがこれらの例であるといふのはあながち考へ過ぎではあるまい。 明治といふ時代はじつによくやつた。しかしそのためにいつもいつも精いつぱいで、兵学校出を作家にしたり、病気の人間を軍人にしたりするやうな余裕はなかつたのだ。象徴的な意味において三人の主人公たちはさういつた時代状況の犠牲者であり、明治といふ時代の光の部分を作り出すために好む道を捨てざるを得なかつたわけである。そしてそのことを思へば、国家や社会から重大な任務を負はされたりしないままに平穏な市民となることだけを要求されてゐる私たちの世代は胸が痛くなつてしまふ。人間、青春時代に好きなことをやれないといふことほどの不幸ながあらうか。 もはや若かりしころなど忘れてしまつたひとびとはこの物語をただの戦記ものとしてしか読まないだらうが、私たちは光と影の部分を併せ持つた明治時代の青春小説として捉へるのだ。そして筆者も読者もこんな青春の形に好ましさともの悲しさを同時に感じ、さういふ青春を生んだ明治といふ時代への郷愁を何となく強くしてゐるのだ。
2006年12月18日
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3 さてかういつた組織とある程度の距離を置く生き方とはいつたいどのやうな意味を持つてゐるのだらうか。体制に順応するのを嫌ふ独立自助の精神、あるいは社会のなかにありつつ意識下ではそれを忌避する(丸谷才一氏の小説の主人公たちのやうに)存在。さういふものを言ふことも可能ではあらうが、これを形而下的に捉へれば組織に依存しなくとも生きてゆける技能といふことが考へられる。 剣客や忍者が組織から一歩距離を置いてゐられるのは彼らに剣技や偸盗術といふ技能が備つてゐるからであつて、なほかつそれが自尊心の源であり衣食の道であるからにほかならない。異能あればこそ精神的、物質的に組織のなかでのゆるやかな独立が可能になるのである。しかしいくら優れた技能を持つてゐてもそれだけでは不充分で、社会のなかに能力を尊ぶ気風があり、人間を能力によつて評価する風潮が生じてゐなけば、技能によつて身を立ててゆくことはできないだらう。例へば平安時代には忍者も剣客もゐなかつたし、ゐたとしても戦国時代や江戸時代の彼らのやうに独立自助の精神を持つてゐたとは思はれず、組織や雇主に隷属して生きてゐたに違ひない。技能を尊ぶ(すなはち家柄や門地で評価するのではなくて)だけの社会状況、歴史的な発展段階が不足してゐるからである。逆に言へば、葛籠重蔵があれだけ組織からの自由を謳歌してゐられるのは、忍者といふ職種の特徴や彼自身の異能もさることながら、何よりも織豊期といふ時代が人間を技能で評価するだけの発展段階にあつたことが大きい。 考へてみれば何も忍者だけではなくて織豊期の侍たちは大なり小なりさういふ面があり、戦国時代の有名な処世訓に「七たび浪人しなくてはひとかどの侍ではない」といふのがあるが、これなどは能力さへ認められればいくらでも仕官の口はあるのだといふ独立独歩の精神であると言へるだらう。例へば渡辺勘兵衛や後藤又兵衛のやうな連中は、主人に仕へても自分は技能を売つてゐるのだといふ考へ方のために組織に依存することなく、不即不離の関係でゆるやかに独立してゐる。忍者との違ひはその独立ぶりの濃淡にあるにすぎない。社会の風潮や歴史的な発展段階がそれを許してゐるのであり、さうやつて組織に依存しない生き方こそが当時の男振りだつた。 織豊期は日本史上まれに見る経済の繁栄期で、室町時代からの伝統を受継いで本格的な商品経済の萌芽が生れかかつてゐた時代である。商業といふ行為が社会のなかで重要な地歩を占めてゐてそれを無視しては政治も文化も動かない状況にあつたのは、茶屋四郎次郎や利休を見てもよく判るであらう。そのやうな時代にあつては何よりもものを質によつて厳しく評価することが求められたのは言ふまでもなく、茶碗なら何でもいいのではなくて楽の黒焼、刀ならどれでも構はないのではなくて備前長船といつた考へ方でなくては商売にはならない。黒楽と欠け茶碗を一視同仁にし、大般若と菜切り包丁が同じ評価では買ひ手が納得しないからである。この風潮のなかにあつては人間もまたその質、すなはち能力によつて評価されるのが当然であつて、やれ足利家の末流であるだの、やれ甲斐源氏の後胤だのといふのは付加価値にはなつても評価の対象にならないことは言ふまでもなからう。あくまで偸盗術、剣技、戦場での差引といつた技能によつて評価され、男たちはそこに誇りを感ずるがゆゑに組織から少し距離を置いて存在しているのだ。 そして織豊期のひとびとがかういつた技能の持ち主に感じた男振りの好さは、司馬遼太郎の小説を通して見る現代の我々にも恰好の好いものとして映るのである。葛籠重蔵、組織には依存せず、忠誠心を売り物にはしないのか、憧れるなあ。風間五平、仕官はしても家中なんかまつたく頼りにせずに生きてゐるんだ、すごいもんだ。などと思つてしまふ。そして忍者といふのは今の世の中で言へば新聞記者とか病院の医者みたいに、組織と不即不離で生きてゐるんだな、ああ羨しいと考へたりするかもしれない。 そんなことを考へるとき見え隠れするのは、いまだしつかりとした近代性が根づいてゐるとは言ひ難い社会に生きる我々が漠然と抱へてゐる近代性への愛着と憧憬である。縁故や家柄ではなくて自分の技能を以て世を渡り、組織は利用してもそのなかに飲みこまれることはない。そこに存在するのは前近代的な血縁主義、門地主義ではなくて近代資本主義に必要不可欠な能力主義の考へ方であり(能力主義を突き詰めれば組織なんて必要ないといふ個人主義になる)、それにひきかへいまだに情実や縁故が跡を絶たない現代の会社に勤める読者たちが忍者といふ職業の近代性を何とも羨しいものとして眺めてゐる気分ではないだらうか。そしてさういふものが『梟の城』の根幹をなしてゐることは疑ふまでもないことであらう。 美術記事と忍者小説を同時に書いてゐた新人作家は、忍者や新聞記者のやうな能力だけによつて世を渡る職業をこよなく愛してゐた。忍者も記者も彼の愛してやまない近代の産物だから。
2006年12月17日
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忍者といふ近代 『梟の城』 1 藤沢周平のなかで忘れられない作はと問はれれば、十五の年に読んだ『蝉しぐれ』もいいし『三屋清左衛門残日録』も『海鳴り』も登下校の電車の友だつたからどれがどれとも決め難いくらゐに思ひ入れがあるのだが、最高傑作とは言へないもののちよつと捨てにくい味があるといふ意味で『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』を挙げることもできるだらう。この作者が剣客小説に開いた新境地については今さらくだくだしく書きのべることもなからうが、この二冊に収められた十六篇はいづれも藩士としての勤めを持つた(ただしうちひとりは女性である)剣の達人たちを扱つてゐて、いささか旧来の孤高流浪の剣客小説とは趣を別にしてゐる。 まづ第一に彼らは皆藩といふひとつの社会、組織に帰属する生活者としての存在である点。そのためにかういつた剣の達人たちが一剣を以て立ち会ふにはそれ相応の理由がなければならず、必然的に綿密な心理描写と性格づけや合理的な話の運びが必要となり、小説としての完成度が高くなつてゐると言ふことができる。例へば昔の剣客小説は一作の内に何度も敵に襲はれて斬り合ふことがよくあるが、それは主人公が浪人であることが多かつたために身軽に剣を振はせることができたからであつて、藤沢周平の小説に出てくる侍たちは藩士としての立場があるからさうむやみに刀を抜くわけにはゆかない。そこで書手が武士の一分にかけてどうしても抜かざるを得ないやうな状況を一々きちんと作り出さなければならず、そして何しろ筆者は聞へた物語上手だから結果として完成度が高くなるといふわけなのだ。 第二には剣客たちが剣に寄せる誇りの高さを挙げることができるだらう。藤沢周平に出てくる剣の達人はごく普通の勤め人(藩士)だといふことは右に書いた通りだが、筆者は平凡な生活者としての彼らに現実味を与へるために何らかの弱点を付加へてあるのだ。例へば鑑極流の瓜生新兵衛は臆病者で、猪谷流の畑中邦江は醜女であり、井哇流の三谷助十郎は好色、東軍流の三村新之丞は盲目である。彼らはさういつた様々な弱点を持ち、そこに引け目を感じてゐるやうなごく普通の存在であり、そしてそれゆゑにいつそう自らの剣に対して深い誇りを抱く。いはばこれらのひとびとにおいて剣は自尊心を保つための心の拠りどころなのである。 そして第三。彼らがぎりぎりの場面に立たされたとき常に、藩士ではなくて剣客としての自分を見出すこと。日常生活のなかで藩といふ社会にくるまれてゐる剣客たちは、頼れるものは藩や組織ではなくて自らの一剣のみであると気づいたときに真の存在(普段感じてゐる臆病や好色といふ引け目をかなぐり捨てた)となり、自分の運命を打開し、多くの場合好転させる。すなはち藤沢周平の剣客小説の眼目は日常から非日常への、藩士から剣客への飛躍の部分にあると言つていい。 さて以上の三つを綜合するとどういふことになるのか。藩といふ組織のなかでいくばくかの引け目を感じながらも剣への誇りを支へとして過ごしてゐる平凡な藩士たちが、何らかの事情により一剣を頼むしかない状況下におかれたとき突如として剣客としての存在に戻る……。そんなことが言へさうである。藤沢周平の剣客もの(正確に言へば、剣の達人である藩士たちの物語)が会社勤めのひとびとに人気があるのは、まさにかういつた藩士たちの姿に自分を重ね合はせることで、組織から距離を置いた生き方への憧憬を満足させることが可能だからであらう。剣客たちは表面上は組織に属し、日常に縛られながらも、その深いところにおいて藩社会とはまつたく別の価値体系(剣の道)に身を置き、本質的には藩といふ組織を必要とはしていない。あるいは藩に属してゐながらもそれを頭から信用したり依存して生きるのではなく、組織を一応の纏りとして捉へつつ不即不離の関係で暮してゐるのだ。組織のなかにあつて剣といふ技能によつてゆるやかに独立してゐる男たち。それこそが『暗殺の年輪』以来藤沢周平が追求してきた人間像であり、だからこそ彼の描く剣客たちは共感を呼ぶのではないだらうか。それは我々でも何とか手の届くところにある組織人の理想像であるから。 あるいは会社勤めのひとびとが医者や記者に憧れるのも、彼らが病院や新聞社といふひとつの組織に属してゐるのにも関らず、本質的に組織とは距離を置いてつきあふ職種であるからなのかもしれない。かういつたひとびとは組織のなかにあつて組織に完全に飲みこまれることなく自らの人生を送る点でどこか藤沢周平の剣客たちに似てゐて、それゆゑに組織に縛られてゐる者にとつては憧憬の対象であり得るから。 2 さて忍者が職業であるといふことを最初に気づいたのはどうも司馬遼太郎のやうであるが、ここで彼の『梟の城』によつて忍者経済学とでもいふやうなものを考へるとすれば、まづ何よりも特徴的なのはその契約が一時的なものであつたことであらう。すなはち伊賀甲賀の忍者たちは大名たちの仕事を請け負ふたびに新たな契約を交はして料金を受取るのであり、決してひとつの家中に丸抱へになることはなく、契約が切れれば平気で敵方とでも新契約を結ぶ。まるで現代の野球選手を見てゐるやうな気がしないでもないが、ともかくこの間の事情は葛籠重蔵の「忍者は忠誠を売る者ではなく、技能を売る者」といふ認識に端的に表れている。契約ごとに自らが身を置く組織とはあくまで商売としての関係。払つてもらふ給料に有難味を感じる必要もなければ、忠誠心を捧げる必要もない。組織は利用し、利用されるものだといふのが忍者たちの率直な感想だらう。 彼らは組織に属することはあつてもそれを頼むことはない。大名の家中に雇はれるときもさうだが、例へば伊賀者どうし甲賀者どうしで集団を作る際でも徹底的に個人主義であり、組織を頼ることを堅く戒め、あるいは軽蔑する。それは彼らに他者の真似できない技能が備つてゐるからであり、そのことに誇りを持つてゐるからこそ、組織とは不即不離の関係にあることを重んずるのだ。さう、まるで組織を頼ることは無能であることの証明であるかのやうに。 忍者たちは大名家の組織とはまつたく異なる「技能」といふ価値体系に身を置いてゐるために組織を必要とせず、そこから独立してゐて、例へば伊賀者でありながら大名家に仕官してしまつた風間五平のやうな存在にしても抱へられた翌日から組織に依存するごく普通の侍になるわけではなくて、家中とは一歩距離を置いた特異な存在として重蔵と対決するのである。そしてそこには藤沢周平の描く剣客たちと一脈通じるところがあつて、組織とは仮象のもの、頼りにならないもの、距離を置いて利用するもの、といふ本質的な態度が見え隠れするのだ。もしそこに差異があるとするならばそれは、葛籠重蔵はいまだ社会体制の固りきつてゐない時代の子であり、藤沢周平の剣客たちは江戸時代といふ強固な社会体制下の存在であるところに由来するものにほかならない。そしてそのことは重蔵と臆病な剣の達人との間に風間五平といふ補助線を引いて見ればいつそう鮮明になる。 藤沢周平と司馬遼太郎がことに愛した剣客と忍者。それはどちらも組織からの独立、組織のなかでの独立を暗示する主人公たちだつた。さてここで明敏な読者はいささか伝記的な事項を思ひ出さなくてはならない。『暗殺の年輪』も『梟の城』も新聞記者をしながら書かれた作品なのである。新聞記者といふ職業について知るところはあまり多くはないが、少なくとも普通の会社勤めのやうな息苦しい世界でなささうなことは何となく想像がつく。社会部とか文化部とかの組織はあるもののそれはあくまで一応の纏りに過ぎず、記者たちが信じるものは自らの能力のみ。組織を頼つて仕事をするのは無能の証明。それはまるで剣客や忍者と藩(大名家)との関係のやうである。暗殺者であつた父親を持つ剣の達人や秀吉暗殺に跳梁する伊賀の忍者を描いたとき、二人の作家は新聞記者の生き方を参考にしながら主人公たちと組織の関係を決めていつたのではないだらうか。 特に司馬遼太郎の描く忍者を見てゐるとさう思はざるを得ない。その技能と組織に頼らない自由な精神に誇りを抱き、身ひとつで世の中を渡つてゆく。そんな葛籠重蔵を目にするとき、我々は「生れ変つても新聞記者になりたい。それも産経新聞がいい」と言つてゐた作家を思ひ出し、ふたりを重ね合はせてしまふのである。重蔵の感じたやうな自由や誇りはきつと金閣焼失の記事を書いてゐたころの司馬遼太郎も味つたに違ひないし、何よりそれを愛してゐたであらうことは容易に想像がつかう。彼がここまで忍者を好み、その初期において忍豪作家といふ綽名まで頂戴したのは、組織からのゆるやかな独立といふ点において新聞記者と共通する部分を感じたからであらうし、ひるがへつて言へば藤沢周平が藩士としての剣客たちに共感を覚えたのもまさしく同じ事情だと考へられる。 忍者も剣客もふたりの作家たちにはひどく親近感を抱かせる存在だつたのだ。
2006年12月16日
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3 司馬遼太郎はなぜここまでして近代性を問題にするのであらうか。もちろんひとつにはこれまで述べてきたやうな昭和十年代の日本軍に対する批判が根底にあることは疑ひない。兵器の劣悪を補ふための精神主義、風船爆弾から特攻に到る軍事の権道とでも言ふべき攻撃方法、石油そのほかの資源の確保さへ考へに入れてゐなかつた作戦。およそ近代的な価値評価の精神(それは格別に難しいことではなくて、例へば八百屋の小父さんが練馬の大根と栃木の大根を比較してそれぞれ妥当な値段をつけるくらゐの現実に対する観察眼さへあればよいのである)を持たない人間以外にここまで痴呆的なことのできる者など存在しない。さういふ連中に危く殺されかかつた作家としては近代性を問題にし続けざるを得ないのは理の当然であらう。 しかしながらかういつた負の面での思ひ出だけが彼に『国盗り物語』のごとき小説を書かせたとするならばそれは誤りに違ひない。何よりもまづ司馬遼太郎は、客観的な価値評価に代表される近代の精神をもつとも愛してゐたからである。 大正時代の大阪は、いまだ半ば江戸時代の世界に生きてゐた金沢や松山のやうな城下町に比べるとずいぶん風通しがよかつたに違ひない。例へばひとりの人間をその家柄や係累ではなくて能力や資産といつた客観的な基準によつて評価するのは大阪や東京のやうな大都市に限られてゐた。金沢や松山に比べればこれらの都市での生活は情実とも縁故とも関係のない自由なものであり、だからこそ詩人は「ふるさとは遠くにありて思ふもの」と詠ふのであらう。そんな町で商人の姿を目の当りにしながら育つた彼は、物事をあるがままに平明に認識することこそが近代の精神であり、近代の延長線上に生きてゐる自分はさういつた精神に従ふことで、伝統や、宗教や、教条に縛られた中世のひとびと(そこには当時の金沢や松山の一般的な風潮も含まれる)とは比較にならない精神上の自由を手に入れられるといふことを体得したはずである。さらには大阪の気風とも言ふべき自由と平等はすべて商業活動のなかで培はれてきたものであり、その商業は物事を平明に見るといふ近代精神に基くものであることを思へば、自由と平等とはすなはち近代の精神に由来するものであるといふ結論に達したとしても不思議ではない。 司馬遼太郎は大阪に代表されるやうな自由で平等な雰囲気を何よりも愛してゐた。普通の勤め人ではなくて新聞記者といふいくぶん野武士の集団のやうな職業を選んだのもやはり自由で平等な雰囲気に惹かれたからであらう。そしてそんな男にとつて客観的な価値評価の精神、ひいては近代の精神といふものは何より大切なものであつたらうことは想像に難くない。ひとことで言へば近代と近代的人間と近代的精神こそが彼の愛する存在なのである。そしてその近代への愛こそが司馬遼太郎をして『国盗り物語』を書かしめた原動力なのであらう。 道三も信長もじつによく価値評価をする。戦功を、奪ひ取つた領土を、自らの家臣を一々評価し、そのたびにおのおのの価値を金銭といふ客観的な存在に還元してゆく。これこそ近代的精神であり、筆者を育てた大阪の気風の遥かな先祖にあたるものにほかならない。それゆゑに司馬遼太郎にとつて道三や信長はごく親しい(例へば横町の工場の社長さんみたいな)存在で、怨霊が祟つたり超自然力が出現したりする古代的精神などよりずつと理解しやすい人物であり、何より彼の好みに適ふ連中だつたのである。大阪の精神からすれば道三や信長はよく解る人物であり、反対に昭和日本軍は不可解な集団なのだ。 そして筆者は『国盗り物語』を書くことで自らの愛する近代精神を賛美し、一九四五年の敗戦以降もいまだに客観的な価値評価の苦手な風潮が残る日本の社会に対していくばくかの抵抗を試みたのではないだらうか。二宮金次郎を薪泥棒だと言ふ左翼史観や、十五年戦争は義戦であつたと称する右翼史観に対して、彼は道三や信長を描くことによつて様々な物事をあるがままに見つめることの重要性を訴へ、この国が二度とふたたびあの愚かな軍人たちに支配された時代のごとき経験することのないやうにと戦つたのである。そしてその結果として現代の世の中はずいぶんとよくなつたし、何より司馬遼太郎の愛した客観的な価値評価がごく当り前に受入れられてゐると言つてよからう。 鏃拾ひの少年は大阪からじつに素晴しい贈り物を持つてきてくれたといふわけである。
2006年12月15日
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近代への愛 『国盗り物語』 1 子供と鴉はいい加減下らないものを集めるのが好きだが幼き日の司馬遼太郎も例外ではなかつたらしく、母の実家である葛城へゆくたびに畑から出てくる石鏃を拾つたといふ随筆がある。さすが栴檀は双葉より芳しだが感心するのはここからで、町つ子の司馬少年はさうたびたび葛城で石器を探してゐるわけにはゆかないから短期間でたくさん集めるために一計を案ずるのだ。すなはち大阪でメンコやら何やら男の子に受けさうなものを仕入れておいてそれを鏃と交換したのだと言ふ。いやこの随筆を初めて読んだときじつにびつくりした。ふつう小学校の子がかういふことを考へたりはしませんよ。さすがは司馬遼太郎である。 どこがそんなにすごいのか。まづ鏃は欲しいけれども必ずしもそれを自分で拾ふ必要はないといふところに気づいた点であらう。壺が欲しければ粘土をひねり、布が必要なら機を織るといふのは近代以前の経済観念であつて当時の葛城周辺の男の子たちにはさういふ観念しかなかつた(いや今だつて子供はだいたいそんなものだが)のであらうが、司馬少年はすでに近代的な生産の役割分担といふものに気づいてゐたのだ。 第二に鏃とほかのものを交換するといふ考へを持つてゐた点。つまりやはり近代の観念である経済の流通を知つてゐたといふことである。すなはち石鏃の発掘と収集をひとつの経済行為とするならば、ほかの少年たちが経済的には近代以前の存在であつたのに対して彼ひとりが近代人であつたといふことにほかならない。 これは司馬遼太郎が大阪の生れで商売人(薬屋)の子だつたことが大きいに違ひないだらう。何しろ日本でもつとも古い商都のひとつで育ち、朝な夕なに商行為そのものを見てゐれば、こむづかしい理屈などなくとも近代的な思考を身につけることになる。そもそも言ふまでもなく商業は近代の産物であるし、その精神を何よりもよく具現してゐる行為にほかならないから。町のひとびとが自分で薬草を育てなくても薬を手に入れられる仕組みを見つめてゐるうちに彼は商業といふ仕掛けに気づき、そしてそれを足がかりにして近代的な観念を身につけたわけだらう。 商業によつて代表される近代的な観念とは、すなはちものを正確に評価することであることは言ふまでもない。商行為とは等価値のものを交換することであるから、互ひに交換しあふものがほんとうに価値が等しいかどうかをしつかりと見極めることが重要なのはもちろんだが、さらにたいせつなのはさういつた価値の評価が主観的なものではなくて取引の相手が納得できるやうな客観性を持つてゐなくてはならない点である。例へば鏃の買手が「メンコ一枚で鏃ひとつの価値がある」と評価しても、相手が「そんなことはない。これならせいぜい十枚でひとつだ」と言へば、買手の評価には客観性が欠けてゐるために商行為は成立しなくなつてしまふ。それゆゑにその鏃がどれだけの価値のあるものかを客観的に納得のゆくやうに評価することが近代人たる司馬少年には求められてゐるわけだ。さらに言へばかういつた考へ方が、物事を平明に見るところから出発する近代思想や自然科学を生み出すわけである。そしてこれこそ司馬遼太郎的世界そのものではないか。 彼が描くのは常にかうした、物事を平明に、丸いものは丸いと、四角いものは四角いと認識できる人間に限られてゐる。あるいは十五年戦争について言ひしれない憤りを抱いてゐたのも、何よりもまづあの戦争を指導した高級軍人が揃ひも揃つて近代的な感覚を欠いてゐたために目の前の状況を平明に捉へることのできない無能と痴愚の群れだつからであり、逆に言へばそれゆゑに彼はつひに昭和史を書くことができなかつた。さういふ人間は根つからの近代人である司馬遼太郎にとつてはまつたく趣味ではなかつたし、興味を抱く価値すらないと考へて(あれだけの人間好きが!)ゐただらうから。この薬屋に生れた作家にとつては、幼いころから目にし続けてきた大阪ふうの近代的なものの見方こそがもつとも身近な価値観であり、人間の存在そのものであり、それに反する反近代的な連中は自らの小説では描きたくない(あるいは創作への意欲さへかき立てられない)ものであつたに違ひない。あまり教条的なことを小説に持込まなかつた彼において、歴史を見つめ、創作する上で唯一の基準が「近代性、すなはち平明かつ客観的に物事を評価する能力のない人間は悪である」といふことだつたのではないのか。例へば『坂の上の雲』や『殉死』のなかで彼我の兵力差さへ考へられない高級参謀への嫌悪を露はにした部分や、『俄』において大阪の商人を攘夷の軍資金のために強請る尊攘浪人を軽蔑したやうに描く部分はいづれも、自分の置かれた状況を客観的に評価した上で事態打開のための合理的な手段を取るといふ近代性の欠落した存在への不快感のやうに思はれる。 2 藤沢周平と司馬遼太郎を比較してよく言はれることは、その信長に対する評価の違ひであらう。向井敏氏の『海坂藩の侍たち』に明かなやうに『蝉しぐれ』の作家は徹底的な信長嫌ひで、延暦寺の焼討ちや長島一向一揆の虐殺に狂気を帯びた独裁者の横顔を見てゐる。一方司馬遼太郎は『国盗り物語』からも判るやうに信長への評価が高い。この両者の態度から「だから司馬遼太郎は弱者への共感の欠けた独裁賛美の傾向がある」などといふ佐高信氏のやうな見解を導くのはいささか無理があるとしても、しかし彼らの歴史に対する見方の何事かが見えてくるのではないかと考へるのは私だけではないと思ふ。 一面において藤沢周平ふうの信長嫌ひはよく解る。我々が生活者として信長の言動を見つめるとき(すなはち歴史的存在としてではなく、ひとりの人間として信長を考へるとき)、そこにあるのは明かに常軌を逸した狂気であり、他者に対して平気で残忍になり得る独裁者の姿だからだ。しかしながらかういつた信長観を歴史的存在としての側面から光を当て直すとすればどうだらうか。 司馬遼太郎の言ふ平明な価値評価は、日本において鎌倉幕府の成立とともにその萌芽を見せ、以後中世的な価値観と共存しながら応仁の乱とそれに続く戦国時代によつてしだいに主流となつてゆく。「鉄砲二十挺に対して十挺しか持つてゐなければこちらが不利だ」といふのが近代的な価値評価であり、「十挺しかないがしかし我々のほうが名家であるから」といふのは中世的な価値評価である。そして早雲から秀吉に到るまでの百年間のうちにさういふ中世的な価値評価に頼つてゐる連中(中世の魑魅魍魎などと彼は言ふが)はあらかた淘汰されてゆく。いはば『国盗り物語』の時代こそは中世的価値評価から近代的価値評価への転換期であり、革命理論なき革命であつたといふのが司馬遼太郎の説で、それゆゑに同じ乱世であつても昭和十年代は大嫌ひで戦国時代が大好きであるといふことになるのだ。そして彼にとつて、中世から近代へといふ物言はぬ革命劇の主人公こそが斎藤道三と織田信長であり、藤沢周平に狂気あるいは残虐と見えた部分が中世的な魑魅魍魎と戦ふ信長の勇姿として映るわけである。比叡山も長島の一向一揆も宗教といふ多分に中世的で、客観性のある価値評価には耐え得ない存在(日本仏教はその教学的研究と普遍性への志向を欠いてゐたために結果として例へば新教のやうな近代的価値評価に耐え得る部分を持つてゐなかつたと言へるだらう)がその基調音であり、信長はこの前近代性と戦つたといふのが『国盗り物語』の考へ方にほかならない。あるいは独裁者としての一面も、信長ひとりが中世と近代の相克といふ点に気づいてゐたにも関らず、家臣たちは意識的にその問題を捉へられてはゐなかつたために右府公自らが織田家の先頭に立つてゆかざるを得なかつたとする。 ここで付言すれば司馬遼太郎は決して独裁的な指導者を賛美してゐたわけではない。それは晩年の『風塵抄』のなかで阪神大震災のをりの首相(村山富市氏)の対応の遅れを批判する風潮に対して、日本人は古来強権をその最高権力者に与へることがなかつたし、自分はその伝統で充分だから首相の手落ちを責める気にはならない、彼は充分やつた、と述べてゐる点でも明かである。藤岡信勝氏はこれを老年性の日本回帰だとし、三原山噴火の際の後藤田正晴氏の柔軟な法解釈による対応を挙げて緊急時における指導者の強権を認めるほうが正しいとしてゐるが、私にはそれが自由主義史観展開の上でこの国民的作家を利用した藤岡氏がつひに司馬遼太郎の真意を理解できてゐない証拠に思はれるのだ。緊急時(一種の戒厳令下と捉へてよからう)の強権集中はすなはち独裁ではないか。藤岡氏はこれを認め、司馬遼太郎はこれを忌避した。なぜなら独裁は常に客観性の欠如といふ危機を孕み、前近代的な主観的価値評価の温床となりやすいことを彼は知つてゐたから。 昭和の独裁者によつて満洲の平野で世界基準からはなはだ遅れた戦車に乗せられてゐた男は、信長の独裁者としての側面を一応は認めてゐるもののそれはあくまで近代への扉を押し開かうとする革命家の必要悪として捉へてゐるのであり、決して独裁制の賛美者などではない。彼が信長を讃へ、そしてまた生理的に嫌悪していた独裁制をこの場合に限つて認めたのは、すべて近代的な価値評価の具現者としての織田信長といふ認識に基くのである。
2006年12月14日
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3 高田屋嘉兵衛といふ人物ほど数奇な運命をたどつた人も珍しからう。淡路の貧家に生れて苦労の末に北前船の船頭になつたといふあたりまでは、確かに立志伝中の人物ではあるがさほどに数奇とするには足らない。波瀾万丈と呼べるのはここからで、蝦夷地での航海中にロシア船に拿捕されてシベリアまで連れてゆかれ、極寒の地で数年を経た後に平和裡に日本に帰つてきた。それもただ帰つてきただけはなくて、拿捕されたロシア船の船長と友情を育み、さらには日露の間にあつて民間外交を担はうとしたのだから驚くべき人物である。 かういふ人物こそ近代精神の典型的な具現者であると言ふことができるだらう。嘉兵衛を取巻く運命はどう考へても数奇で悲惨なものでしかないのだが、この頭の大きい船頭はちつとも悲嘆に暮れようとはしない。例へば『菜の花の沖』のなかでは、拿捕されたとき「数人を人質として連行するから人選をせよ」といふ命令が船長である彼に下るのだが、その瞬間に嘉兵衛は自分がロシアにゆくことを決心し、かつ両国の架橋にならうといふことまで心に決めてしまふ。その間彼が運命を嘆く描写はほとんどないと言つてよく、逆にこれは両国修好のための絶好の機会だと明く考へる嘉兵衛の姿だけがやけにからつとした筆で描かれてゐる。この男はどこまでも楽天的で、朗らかで、何よりも運命に対して能動的なのにほかならない。運命を悲まず、不条理を恨まず、ただそれらを已往の出来事として乾いた態度で受入れ、それよりもこれからどうするかにのみ感心が向いてゐるのだ。自分の目の前に立ちはだかる運命に対して敢然と立向ひ、状況に流されることなく、それよりも自ら状況を生み出さうとしてゆく。運命に対して能動的なのが高田屋嘉兵衛といふ男なのである。 かういふ人物は中世の人間ではないだらう。中世的人間といふのは『源氏物語』の夕顔のやうに状況に流される子供のやうに無力な悲劇の主人公のことであり、運命に対して受動的にしか生きてゆけないひとびとのことである。近代精神はさういふものではない。爆発的な経済の発展のなかに生きることを余儀なくされる近代人にとつて、運命に流されることは恥辱であり、その才能を武器にして自らに牙をむく周囲の状況をねぢ伏せつつ歩んでゆくことこそが理想だつた。中世社会が根本的に流動の少い固定した共同体社会であつたのに対して、近代人が生きるのは見ず知らずの人間が集まる都市社会であり、そこでは中世の平穏をうち破るやうな動的な世界が展開してゐる。そのなかにあつて運命に従順なだけの人間は生きてゆくことはできないのであり、自ら進む道を切り開くほどの気概と才能がなければ近代人失格であるとさへ言へるだらう。運命に対してどこまでも能動的な嘉兵衛の精神こそは近代そのものであり、江戸時代の近代性を象徴する肖像なのである。例へば嘉兵衛の立場にゐたのがひとりの中世人だつたとしたらどうであらうか。この状況下において日露修好の架橋にならうと考へ、運命を悲観することなく異国の虜囚となる覚悟がつくとはとても思へない。我が天命を恨みつつごく従順な人質となつてロシアへ連行されてゆく、といふのが穏当な想像であり、そこに「どうして自分ばかりが」といふ恨み節の文学を見出すことはできても、『菜の花の沖』のやうな理想と希望に満たされた文学を発見するのはまづ不可能に違ひないだらう。ここにあるのは間違ひなく江戸時代といふ名の近代であり、嘉兵衛は一身を以てその時代状況を具現化する存在にほかならないのである。近代の精神、近代の人格。それこそがこの小説の主人公にほかならないのだ。 司馬遼太郎の愛するのは嘉兵衛に代表される近代人たちにほかならない。自らを取囲む動的な運命に対して敢然と立向ひ、能動的に生きようとする人間たちこそが彼の小説における主人公であり、夕顔のやうな中世的人間像はその好みではないのである。そしてそれは何も『菜の花の沖』に限つたことではなくて、竜馬も、高杉晋作も、西郷も、信長も、秀吉も、すべてが状況と運命に対して戦ひを挑んだ人間にほかならないのだ。司馬作品に登場する人物たちは、誰ひとりとして運命をあきらめない。それが悲運であれ、幸運であれ、自らが運命の主人公となり、行く手を切り開く能動的な人生の所有者たちであると言ふことができるだらう。 4 あの問答をしたとき、空蝉が好きだと答へた彼女は今どうしてゐるだらうか。じつに大人つぽい風情のある人だつた。それも運命に流されることのない意志の強さを持つ、近代人としての風情を。 なぜか『源氏物語』ではなくて『菜の花の沖』を読むたびに彼女のことを思ひ出す。あるいは夕顔と嘉兵衛の対比のせいかもしれない。
2006年12月13日
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運命への能動性 『菜の花の沖』 1 どういふ理由でだつたか、前後の事情はまつたく忘れてしまつたが、高校生のころ隣の席(?)の女の子と『源氏物語』の話をしたことがある。おほかた古典の時間が自習になつたときか何かではないかと思ふのだが、すべてが霧のなかの出来事のやうに靉靆としてゐて自信がない。話題は源氏の関つた女君たちのことから始つて、どの女性がいちばん好きかといふふうなものになつた。そのころ私は与謝野晶子と円地文子の訳しか読んだことがなかつたし、彼女も似たやうなものだつたと思ふが、ふたりしてずいぶん大胆な評価を下した覚えがある。 まづ紫の上はあまりに完璧過ぎておもしろくないといふのが一致した意見。明石の上は何だか子供によつて愛情をつなぎとめてゐるやうで女といふよりは母親だといふことになり、六条の御息所は嫉妬が過ぎるといふ意見で却下。そのほか様々の登場人物たちを俎上に乗せた後に、私はおもむろに夕顔の名を挙げてみた。実はこれが私の意中の女君だつたのだが、彼女はその名前を聞いた途端に「うーん、夕顔はちよつとねえ」と否定的な表情になつて、やんはりと「それよりは空蝉のほうが」などと言ふ。このときの私の気持をどう表現すればいいだらうか。ひとことで言へば「女の人といふのは大人だなあ」といふやうな軽い驚愕と感心の入り混つた気分で、同い年のはずの彼女を改めてまじまじと見つめたのを覚えてゐる。 そのころの私はまだまだ単純な子供に過ぎず、運命に逆ふこともなく薄幸の生涯を送る夕顔のやうな女性は理解できても、自分を取囲む周囲の状況に対して精いつぱい抵抗しつつ生きてゆく空蝉はどうにも解らない対象だつた。あるいは理解することはできたとしても、共感することはできなかつたのである。愛情のはかなさも知らず、恋愛の苦しさも知らない少年に空蝉の生き方を理解しろといふほうが無理だつたのかもしれないが、しかしその一方で夕顔のやうな生き方を好むのは子供つぽい感傷によるものだといふことに薄々感づいてはゐたのだから、空蝉が好きだといふ彼女を前にして自分が遥かな年下のやうに思はれたのにほかならない。男はいつまでも餓鬼つぽいものだな、といふのがそのときの正直な気持だつたと思ふ。 夕顔の運命はまことに薄幸と言ふほかはない。最初に通つてゐた頭中将とは子(玉鬘)までなすが、いつの間にか途絶えてしまふ。次いで源氏に愛されるものの、あまりにもはかなく六条の御息所の生霊に取殺される。そのごく短い一生は『源氏物語』のなかでも哀切をきはめる挿話だが、彼女の描写のなかでいちばん特徴的なのは「いと若びて」といふ形容であらう。幼くていとけない、とか、無邪気で子供つぽい、といふ意味に取ればよいのだらうか。要するに子供子供した性格で、何でも相手の言ふがまま、自己主張をしない女といふことに違ひない。運命に対して決して能動的ではなく、いつも状況に流されるままの生き方なのである。紫式部の意図がどうであつたかは定かではないが、我々の目から見ると昔の村芝居ふうの悲劇の主人公といつた感じで、いかにも中世的な人物の代表だと言ふことができるだらう(精神的には中世人と変らない子供にとつてはそこが魅力的なのだが)。すくなくとも近代的な自立した人間とは言ひ難く、ちよつと大人の冷めた目があれば物足りない感の否めない女君であることは疑へない。 我々の鑑賞眼に耐えられる人物とはすなはち近代的な精神を持つた人間であり、人格的な自立と不条理な状況に対してあくまで立向ふ精神が必要不可欠な条件であることは言ふまでもないだらう。近代社会とは見ず知らずの人間が都市といふ人工的な条件のなかで暮してゐる状態のことであり、そのなかにあつては強い自分の意志と不条理なものに立向ふ精神がなくては生きてゆけないのである。そしてさういふ社会に生きてゐる我々が夕顔のやうな中世的人物をあまり好まないのは当然だと言ふことができるのではないだらうか。『赤と黒』だらうが『戦争と平和』だらうが、不条理への挑戦といふ性格づけの登場人物を得て我々に愛されてゐるのであつて、もし夕顔のやうに運命に流されるだけの主人公であつたとしたら現代人がこれほどに愛読することはないに違ひあるまい。運命は切り開くもの。目の前の状況に流されるのではなく、抗し難い状況に敢へて挑むのが近代の精神であり、綿々と悲運を嘆くだけの人間は現代人の好みには合はないのである。 2 古代、中世、近代といふ時代区分はもちろんのことながら西洋に起源を持つものであつて、日本の歴史にどうあてはめるかには様々に議論がある。特に難しいのが江戸時代であつて、これを中世とするか近代とするかには頭を悩ませてしまふ。確かに従来は江戸時代は封建制の時代であるから中世であるといふ考へ方が主流であつた(ただし近世といふ時代区分を勝手に作るやり方もあつた)が、最近はこれがどうも怪しいといふことになつてゐるのだ。 近代といふ時代の条件は第一に資本主義の形成であると言へるだらう。そしてそれに付随する社会状況の変革として、社会契約や国民国家といつたやうな思想的な面、あるいは産業革命や自然科学の発達といつた技術的な面から、きちんとした商売のためには必要不可欠な教育の普及といつた面までじつに様々な事柄を挙げることができる。例へば「時間に正確であれ」といふ英国紳士の嗜みなども近代の産物であつて、商業の未発達な中世ならば別に「時は金なり」などとは思はないに違ひない。 考へてみると江戸時代はこれらの諸条件にほとんどあてはまつてゐるのではないだらうか。資本主義の形成は言ふまでもないが、当時は廻船の発達により日本中の品物が遠隔地にまで流通してゐたし、三都に支店を持つ商店さへあつたほどだつたのである。安藤昌益や海保青陵のやうな思想家たちはすでに身分制が虚構に過ぎないことを見抜いてをり、先駆的な分業や問屋制家内工業も存在したし、三浦梅園のやうな自然科学者もゐた。寺子屋による庶民教育はかなりの成果を上げてゐた上に、落語の『お直し』で判るやうに当時の下等な遊女は線香代で買ふものであり、時間の意識も生れてゐたのにほかならない。むろんこれらが大坂、江戸といつた都市部とその周辺において特に顕著な傾向であり、場所によつては農奴と大差ない暮らしをしてゐた農民たちがゐたのも紛れのない事実だが、一方で同時代のイギリスやフランスとさう変らない近代性が根づいてゐた土地があつたことは特筆すべきであらう。江戸時代を完全な近代とすることは確かに不可能ではあらうが、さればとて十字軍時代の欧州のやうな中世そのものだとも言ひきることはできない。少くとも当時の大坂のやうな町において近代が成立してゐたことは否めない事実だと言ふことができる。『菜の花の沖』といふ小説の主題はこの辺りにあるのではないだらうか。例へば主人公の高田屋嘉兵衛は北前船の船頭であり、その船で運ばれるのは蝦夷の鰊や大坂の古着である。港々には土地の商人や工楽松右衛門のやうな発明家がゐて彼らは口にこそ出さね世の中は金と商人が支配してゐると内心では考へてゐるし、実際に当時の大坂では借金まみれの大名は鴻池に頭も上がらなかつた。この小説のなかで嘉兵衛や大坂商人たちの姿を通して見えてくるのは、江戸時代の大坂に花開いた近代の様相にほかならない。この奇跡的なまでに武士のゐない町のなかで、あの息苦しい徳川時代の圧政をくぐりぬけつつ辛うじて近代の萌芽が生れ、成長してゆく姿こそが『菜の花の沖』といふ小説の主人公なのである。そして非常に重要なことに、大坂における近代は何も経済や社会情勢に限つたものではなく、金の力で鴻池が大名の首根つこを押さへつけるといふ一事を見ても判る通り「武士がなんぼのものか、身分よりも金だ」といふ思考律がごく常識的なものとなり、さらにはそこから合理主義的発想や近代人文科学の基礎が芽生えてきたのだつた。司馬遼太郎がこの小説のなかで書かうとしたのはさういふ江戸時代の意外な一面であり、そしてさうした近代への愛着にほかならない。 ここでちよつと道草のやうな例を引かう。大坂府で優秀な外国の日本研究者に賞を贈ることになり、その企画が司馬遼太郎ほかのひとびとに任された。そのとき彼は「織田作賞とか西鶴賞といふのではあまりに小さい。それよりも蟠桃賞といふのはどうだらう」と提案して賞の名前が決つたといふ。蟠桃といふのは江戸時代の町人学者山片蟠桃のことで、近代的合理主義と無神論を唱へた人物である。この挿話を見ても判る通り彼が何より誇りに思つてゐたのは大坂における近代であり、その一念が凝り固つて小説の形を得たのが『菜の花の沖』といふ作品にほかならない。ここにあるのは江戸時代といふ近代の姿であり、江戸時代と言へば封建制そのものだといふ常識を覆さうとする野心的な態度であつた。そしてそれは主人公の高田屋嘉兵衛を見ればいつそう判然としてくる。
2006年12月12日
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3 かういつた職人たちを通して歴史を見つめるといふのはいつたいどういふことなのだらう。例へば明治維新を高杉晋作の視点で捉へることと村田蔵六の視点で捉へることはどう違ふのか。どうやらその答へを出すには職人といふひとびとのもつとも根元的な態度に立ちかへつて考へることが有効であるやうだ。 職人といふのは手を使つてものを作るひとびとのことであり、彼らが相手にするのは基本的に人間以外のものであることが多い。蔵六や凌海の場合で言へば戦争やことばといつたものである。そしてさういつたものは人間のやうに矛盾したり非合理的な存在ではないから、大半がある一定の合理的な法則(「兵站線は長くしすぎてはならない」とか「複数名詞はsを付けて作る」といふものから「熱を加へれば金属は曲る」といつたものまで)に服してゐてその法則に従つてゆかない限りものを作り上ることはできない。すなはち職人とは本質的に合理的であることを求められてゐるのだ。そして彼らの変人ぶりもまたさういつた合理性の追求の結果生まれてきたものであると言へるだらう。「夏は暑いもの」といふ蔵六の挨拶は自然の運営における合理的な法則を踏へてのものだし、人づきあひが嫌ひといふ凌海の性格は人間が矛盾した存在であるといふ認識に基いてそれなりの合理的な思考のすゑに出た結論である。これが「夏は寒い」とか「機械は指令通りに動かないから嫌ひだ」といふのであればそれは合理的な法則や思考に根ざしてゐるものではなく、彼らは変人でなくて狂人でしかない。そして例へば「日本男児は世界一強い。大和魂で勝つ」といふまつたく合理性を欠いた思考しかできなかつた太平洋戦争の指揮者たちを見ても判る通り狂人はもはや職人ではなく、蔵六や凌海のやうに歴史を担ふ能力がないのはもちろんのことであるが、彼らが指導的地歩を占めればたいがいの場合において社会を破滅の方向に歩ませてきたのだ。職人とは合理性の具現者なのである。 変人の職人によつて歴史を見ること。それはそのまま合理的思考によつて歴史を見ることに繋るのではないだらうか。一例を挙げれば高杉晋作のやうな男は奇兵隊を作つておきながら「土百姓に藩の大事が……」と言つたりする矛盾した存在(そこが魅力でもあるのだが)である。このやうな人物から歴史を捉へる場合にはどうしても多少の飛躍や主人公の世界観による現状把握といつたあまり合理的でないものが出入りしやすくなることは否めないだらう。主人公自身が首尾一貫してゐない(革命家は多くさうなのかもしれない)ゆゑに、その視点から見る歴史が非合理的になり得るのだ。もちろんそれはそれで価値のある試みではあらうが、『花神』や『胡蝶の夢』を書くとき司馬遼太郎の念頭にあつたのは歴史をより合理的に、少しの矛盾もなく捉へたいといふことではなからうか。さう、まるで凌海が文法によつて一文一文をしつかり日本語に置きかえてゆくやうに、合理性をひとつづつ積み重ねて物語を作つてゆく歴史小説家といふ職人の仕事をしたかつたのではないだらうか。そしてそれは決して実現できない夢物語などではなく、合理性の塊のやうな蔵六や凌海の生涯を丹念にたどることによつて充分可能になるはずだ。 このふたつの小説は歴史といふ舞台の上で演技する役者たちではなく、その芝居を着実に進行させてゆく裏方たちの物語である。裏方は裏方であるがゆゑに舞台の動きを冷めた目で見つめ、しつかりと次の幕へと進めてゆく。そしてそのためには舞台の上で行はれてゐることのひとつひとつを主観的な世界観ではなくて客観的な合理性によつて理解しなくてはならない。村田蔵六が「天朝方がゆけば草木も靡く」といふいささか非合理的な認識で歴史を眺めてゐては明治維新は完成しなくなつてしまふ。裏方といふのは(あるいは職人といふのは)さういふものなのである。彼らは華やかな存在ではないが、いつでも合理性を失はない優秀な歴史の語手だと言へるだらうう。 そしてそれゆゑに筆者はあれほど蔵六や凌海に対して共感と愛情を覚え、この手堅い明治維新史としてのふたつの小説を書くことができたのである。司馬遼太郎は歴史を見る上で常に合理性を重んじてゐた。そしてそれはそのまま彼ら変人の職人を愛することに繋つたのである。 4 吉川松次郎は昭和五十三年に亡くなつた。店は子息が継いだと言ふ。そして池波正太郎の随筆と日本の伝統によつてこの職人を愛する私たちはかう想像するのだ。きつと天国のどこかで吉川松次郎はまた〔松鮨〕を出してゐて、当然のことながら池波正太郎はそこに通ひつめ、時々は仲のいい司馬遼太郎が誘はれて主人の風韻を愛でながら鮨をつまんでゐるのではないか、と。 何しろ吉川松次郎もまた蔵六や凌海の遥かな子孫にほかならないから。
2006年12月11日
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変人たちの歴史 『花神』『胡蝶の夢』 1 三条木屋町界隈は初夏がいい。ちようど高瀬川沿ひの柳が緑を増すころ夕風に吹かれて歩いてゐると、わが身が宵闇に溶けたかと思ふやうな一瞬がある。さうかと言つて人通りの少い道筋といふわけでもなく、河原町に近いこともあつて道はわりあひに混みあふことが多いのだが、それでゐてこれほどに気分がいいのは街の雰囲気のせいだらうか。 このあたりに池波正太郎が通つた〔松鮨〕といふ店があるらしくて散歩のたびに注意してゐるもののいまだにそれらしい建物を見たことがない。しかしながらこんな町筋に構へてゐる店だからさぞかし旨さうだらうとは想像がつくし、『むかしの味』に収められた鮨の写真を見てみると実際にそのやうだ。探しても見つからないせいもあつていよいよおいしさうに思へる。 鬼平の作家はずいぶんとこの店を気に入つてゐたらしく〔松鮨〕と主人の吉川松次郎の名は随筆のあちらこちらに出てくるのだが、『むかしの味』には「変り者でなかなかにうるさい主人が命がけで鮨を握つてゐる」とあつて、気に入つた材料でなければ店を開けても不機嫌になるやうな職人の姿が好意的に描かれてゐる。池波正太郎にとつては鮨以上に、自らの仕事への情熱と誇りに満ちた吉川松次郎が魅力的であつたらしい。例へば鮨種のショー・ケースを置かない本格の造作。『むかしの味』は昭和五十六年の作だからこの当時でもいい加減流行遅れなのだが、著者は逆にその片意地な(と言つてもよからう)までの本格ぶりを得難いものとして讃へる。まるで「殺さず、犯さず、無いところからは盗らず」の三箇条を古風にも墨守する盗賊を見た鬼平のやうに。 一般に池波正太郎だけではなくて日本人はこんな職人が大好きである。鮨に限らず拉麺もお好み焼きも、かういつた少し偏屈で自分なりの世界観(例へば仕入れの悪つた日はあまり握りたくないといふ吉川松次郎のやうな一種の職業的倫理観)を持つた親父のゐる店のほうが旨さうに感じるし、食べ物でなくとも大工や左官について漠然と同じやうなことを思つてゐるのではないだらうか。さういふちよつと変人ふうな職人のほうが腕がいいといふ気がするらしい。そしてここからがをかしなところなのだが、例へば米国のやうな国ならかういふ腕はよくても変人の職人は嫌はれるのに日本人は彼らをその変人ぶりによつてかへつて尊敬し、自分たち常人の社会に取込まうとするやうだ。一例を挙げるとすれば企業の開発部といふ部署があつて、これが優れた企業であればあるほど変人の巣窟と呼ぶに相応しいところなのだが、近い将来にはあまり役立ちさうもないものを研究してゐたりする。ときに彼ら職人たちは上司の命令を無視して自らの興味と使命感によつて開発に勤しむことがあるらしい(例へばの排気規制車がさうらしい。ずいぶんと「役に立たないから研究をやめろ」と言はれたさうだ)から決して企業の秩序体系に属してゐるとは言ひがたいのだが、会社は彼らを馘首したりはせずに「まああれは変人だから」で済してしまふ。実に変人の職人たちが住みやすい国だと言へるだらうう。考へてみれば日本の文化史には無数のさういふ職人たちがゐて、世阿弥や利休、光悦、宗達といつたひとびとはいづれも社会のなかでその変人ぶりを許容された異能人である。あるいは『坂の上の雲』に出てくる秋山好古、真之兄弟。彼らは戦術にかけてはきはめて腕の立つ職人だが、兄貴は常に前線で酔つぱらひ、弟は軍艦の上で炒豆ばかり囓つてゐる変人ではないか。しかし児玉源太郎も東郷平八郎もその変人ぶりゆゑに彼らを退けたりはせず、むしろ組織のなかで我儘を許す代りにその異能を利用してゐるのだ。 世の中の常識的な秩序体系を形成するのは常人にほかならないが、彼らは常に秩序に縛られて自由な発想に欠けがちであることが多い。そこに変人がうまく作用しなければ、社会はいつまでたつてもひとつの価値観に囚はれて息苦しいものになるであらう。変人たちこそがその特異さによつて社会を成長させるのである。しかしそのためにはただ変人が存在するだけでは不充分で、彼らが社会のなかでしつかりとした地歩を占め、常人たちに影響を与へ得る状況になければならない。すなはち秩序と常識で凝り固つた社会にちよつとだけ隙間を作つて変人の職人用の特等席を設るわけで、この機能が上手に働かないと新旧の二項対立といふ硬直した事態(例へばイギリスの保守党と労働党なんかさうぢやないかな。もつともそれが悪いとは言はないが)が生じるのだ。すなはち日本の歴史は変人を排除することなく社会に取入れ、その異能を活用してきたと言へるだらう。 我々はこの伝統の末端にゐるおかげで日露戦争に勝てたし、多少の偏屈を我慢すれば三条木屋町で旨い鮨をつまめるのである。 2 村田蔵六といふのは変な男で、「お暑うございますね」と挨拶されると「夏は暑いものです」と答へたと言ふ。司馬凌海はもつと変な男で世間並の人づきあひといふものができない。彼らに共通するのはさういふ浮世離れした偏屈ぶり変人ぶりなのだが、もうひとつ奇妙な符合があつてふたりとも医者くづれである。そしてこの場合重要なのは医者ではなくて「くづれ」のほうであらう。 村田蔵六は周防鋳銭村の産で家業の村医者を嗣ぐために大坂の適塾に入門した。しかしなぜか医者であるはずの彼が医学よりも蘭学の才によつて宇和島藩、幕府、長州藩に次々と抱へられ、いつのまにか明治維新の渦のなかで革命の成果を軍事によつて固めてゆく役割を負はせられてしまふ。『花神』はさういふ医者くづれの男の一生を描いた小説である。一方司馬凌海は佐渡新町の産でその天才的な頭脳を認められて奥医師松本良順の書生になるものの、長崎でポンペに学ぶうちに医者としてよりも語学者として認められてしまひ、維新後は文明開化を担ふ翻訳者として活躍することになつてゆく。これもまた医者くづれにほかならないだらう。 しかし医者くづれとは言ふものの彼らは運命に流されて医学を捨てたわけではない。軍事学と語学といふあまりにも魅力的な知的好奇心の対象が目の前に現れ、それに惹かれ、淫するがあまりに医者ではなくなつたのである。そして村田蔵六も司馬凌海も彼らの知的好奇心の対象(軍事学と語学)においてはともに一流と言つていい異能の持ち主であり、同時に明治維新といふ変革の時代が彼らの異能を必要としてゐた。すなはち知的好奇心とその異能が彼らの運命を変へ、思つてもみなかつた人生を歩ませることになつたと言へるだらう。 そしてそれは、例へば『胡蝶の夢』(これは『荘子』に由来することば)といふ題名からも判るやうに、凌海自身にとつては自分がやつてきたことが一睡の夢であつたかのごとくに思はれるほど自らの意図した人生とは違つてゐたといふ慨嘆を見ても分明ではないか。あるいは村田蔵六だつてまさか戊辰戦争の総指揮を執ることにならうとは夢想だにしてゐなかつただらう。つまりこの二つの小説の基底をなすものは、その異能のゆゑに進んで時代の波に翻弄されることになり、思ひもかけない人生を送るはめになつた変人の職人の物語なのである。そしてそれは村田蔵六や司馬凌海に限つたことではなくてこれらの小説に出入りする無数のひとびとについても同じであり、日本初の女医になる矢本稲や、幕府に仕へることになる福沢諭吉や、北海道開拓に従事する関寛斎や、会津籠城に参加してしまふ松本良順たちは皆、時代と状況によつてその異能を必要とされたために数奇な運命を受入れざるを得なくなつた小蔵六、小凌海にほかならない。 彼らは明治維新といふ時代の変革にあつてどうしてもなくてはならない異能者だつた。確かに坂本竜馬だとか高杉晋作といつたやうな革命家と比較すればその存在が地味であることは否めない。しかしながら村田蔵六の軍事学がなければ政治的な維新(大政奉還)は成立してもその基盤は脆弱なものであつただらうし、司馬凌海の語学がなくては富国強兵のための必須事項である西洋文明の摂取は不可能であつたらう。彼らは歴史のなかにあつていはゆる革命家と称されるひとびとのやうな枢要の存在となることはないだらうが、しかしゐてもゐなくても構はない存在といふわけでもなくて社会と歴史を革命家が定めた方向に向つて着実に動かしてゆく異能の職人(そして生活者としては変人だと思はれてゐる)たちなのである。決して目立ちはしないが歴史の変換点にあつて実際に転轍機を握つて(竜馬や晋作のやうな革命家たちは往々にして「そこの転轍機を右に回せ」と指示するだけに過ぎない)ゐるのはかういつた人間であることは事実だ。 司馬遼太郎は『竜馬がゆく』や『世に棲む日々』でも判るやうに革命家の人間像を好んで描くが、一方でかうした異能の職人たちが歴史において果した役割を認めるのにやぶさかではないし、その変人ぶりまでを含めて彼らの存在が好きであるらしい。さういふ意味で彼は変人の職人を尊敬する日本の伝統に忠実であると言へるだらう。そしてかういつた変人たちがその異能によつて時代の渦に巻込まれ、あまり本意ではない人生を送つてしまふ有様を同情と少し憐憫の情を含めて見守つてゐる。そして私は『花神』や『胡蝶の夢』を読むときに、さういふ筆者の目に気づいてその優しさを二なきもののやうに感じることが多い。
2006年12月10日
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3 向井敏氏によると吉田健一は『大衆文学時評』のなかでこのころの司馬遼太郎の作品(『鬼謀の人』『英雄児』など)を評して「ここにあるものは歴史小説ではなくて歴史である」と述べたさうで、慌てて彼の著作集を調べてみると確かにそのやうなことを書いてゐる。あれほどの読み巧者をしてさう言はしめてゐるのだから彼の才能は推して知るべきだが、ここでこの評をもう少し深く考へてみるならば、この歴史と歴史小説の間にある違ひとはいつたい何なのかといふことになるだらう。そもそも歴史小説なるものは過去の世界に時間的な舞台を得るといふことを唯一の条件とした文藝上の分類のことなのだから『真田太平記』も『夜明け前』も『嵯峨野明月記』も、あるいは『二都物語』も『ドクトル・ジバゴ』もすべてがこの分類に含まれるのであり、ここでは鴎外のいはゆる歴史其儘か歴史離れかといふことは問題でない(我々は青山半蔵やユーリ・ジバゴが実在の人物かどうかには興味がなく、それよりはこれらの作品が小説としての成功を収めてゐるかどうかが気になるのだから)。従つて歴史小説といふ部立は甚だ雑然たるものであり、なほかつそこに属する作品が必ずしも歴史的な存在としての人間を描いてゐるわけではないのは言ふまでもないことであつて、『夜明け前』におけるがごとき家庭人としての一面、『嵯峨野明月記』における美の探求者としての一面、『ドクトル・ジバゴ』のなかでの恋人としての一面に力点を置いて作り上げた小説であつても、そこに主題を探求する上での触媒としての歴史がある限り充分に歴史小説の範疇にあると言へるだらう。 歴史小説といふものをこのやうに考へるとき、我々はそれが歴史といふ存在からあまりにかけ離れてゐることに呆然とせざるを得ない。先にも述べた通り歴史とは多義的な生身の人間を時の流れといふもののなかで一義的な存在へと昇華させる詞華集的な行為であり、具体的に言へば家庭人や恋人としての一面を削り落として社会や歴史のなかにおけるその人物の役割を明確にしてゆくことである。そしてそれは『夜明け前』や『ドクトル・ジバゴ』によつて作家たちが追求した人間像とは真向から対立するものにほかならないだらう。すなはち酒豪の批評家が言ひたかつたのは、司馬作品に登場する人間たちがすべて生身の多義性(例へば松平容保の夫としての一面、岡田以蔵の子としての一面)を削り落として固定した歴史的な存在(京都守護職としての容保像や、人斬りとしての以蔵の姿)へと変化してゐるといふことであり、かつはさういふ肖像こそ歴史と呼ぶのに相応しいものであるといふことなのではないのだらうか。例へば玉松操と村田蔵六といふ人間を歴史を作る実務者といふ性格づけに収斂しなかつたとしたら、『加茂の水』と『鬼謀の人』におけるふたつの個性が共通の部分を見つけて共鳴し合ふといふ効果は上らなかつたに違ひない。そしてさういふ効果を可能にする人物の造形が歴史なのである。 すなはちかうした司馬文学の特質によつて登場人物たちは時の流れといふ大きな体系のなかにしつかりと位置づけられ、よりいつそうの魅力を放つてゐるのである。つまりそこにあるのは疑ひなく歴史小説とは別個の歴史なるものであり、無数の人生の詞華集としての性格を持つ存在にほかならないと言へるだらう。 忠嶺の歌が『古今集』といふ体系を得ていつそうの輝きを得たやうに、容保や蔵六たちもまたかうした歴史といふ大きな流れのなかで魅力を放つてゐる。そしてそこに見え隠れするのは、歴史といふ詞華集を編纂する上で貫之にも匹敵する司馬遼太郎の才能にほかならない。
2006年12月09日
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歴史と人間 短篇集『王城の護衛者』 1 平成十一年は歌壇にとつてじつに実り多き年であつたと言ふことができるだらう。丸谷才一氏の『新々百人一首』が大仏次郎賞を得、大岡信氏の評論選集『日本の古典詩歌』の一巻として《古今和歌集の世界》が刊行されたことによつて勅撰集以降の文学的な見直しに携つてきた両氏の仕事が総まとめの時期を迎へ、和歌を巡る状況の変化を最終的な段階へと到らしめる象徴的な出来事としてこれらの著作を捉へることができるからである。『万葉』偏重の伝統から八代集や『玉葉』『風雅』までをも視野に入れた文学的考察へと移行し、それに伴つて子規以来の浪漫主義的な和歌観がもはや完全に過去のものとなりつつある傾向は徐々に歌壇の主流を占めはじめてゐると言つてもあながち誤りではあるまい。 例へば「和歌は一作ごとに自己完結的で孤立した存在であり、一首一首が決して侵されることのない独自な世界を形成してゐる」といふ考へ方はすつかり影を潜めて、多義的な文学世界を可能にする存在としての和歌が明晰な輪郭を帯びて意識されるやうになつてきた。大岡氏の《古今和歌集の世界》から引いて具体的に言ふならば、このなかで筆者は「有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし」といふ壬生忠嶺の歌を取上げて、本文だけならば男女相逢ふた後衣の朝とも取り得るこの歌が『古今集』のなかでは「逢はずして今宵あけなば春の日の長くや人をつらしと思はむ」と「逢ふことの渚にし寄る波なれば恨みてのみぞたちかへりける」の間に挿入されてゐるためにこれは逢はざる恋だと解釈しなくてはならないとしてゐる。 ここから言ふことができるのは和歌なるものがもともとは自己完結的ではなくて様々な解釈、文学的な多義性を許すものであり、さういつた作品を詞華集といふひとつの体系のなかでどのやうに位置づけるかによつて固定した解釈が付与されるのだといふ思想だらう。さらにはかうした平安朝ふうの非自己完結的な和歌は前後に並べられた作者名の異なる作品たちと共鳴し合ひつついつそう豊かな魅力を放つてゐるのであり、いはば詞華集による文学的効果が浪漫主義的な作品世界を超越した美を作り上げてゐるのにほかならない。考へてみれば斎藤茂吉の「最上川逆白波の」といふのは厳然たる一義的存在として我々の目の前に屹立する作品であり、その閉された文学世界は詞華集による文学的効果を許さないほどに一首のなかで完結したものなのだが、逆に忠嶺に代表される平安朝の和歌は、解釈における文学的な境界のぼやけ、曖昧さ、あるいはゆらめきといつたものが詞華集といふひとつの大きな体系のなかでの位置づけと上手に結びつくことによつて、詩としての生命力をつよめてゐるのではないだらうか。そして他者によつて影響されることのない人間の個性や個人の絶対的な才能に価値を置く浪漫主義的な思考においては低いものとして考へられてきた詞華集の効果が、丸谷、大岡両氏以降ずいぶんと見直されるやうになつてきたのが現在の状況なのである。 さてここで考へてみるならば、歴史と人間といふものの関係についてもこの詞華集的なものが言へるのではないだらうか。ひとりの人間の一生などといふものは考へてみればごく雑然とした、性格づけの曖昧な「有明の」に似た存在であつて、例へば我々の知つてゐる徳川家康は江戸幕府を開いた歴史上の人物なのだがそれではその江戸幕府を開いた歴史上の人物といふ性格づけが彼のすべてかと問はれれば否と答へざるを得ないのを見てもそれは明かである。家康といふ人間は家庭にあつては息子であり、夫であり、父親であつたし、後家だつた妾の前では彼女に子を産ませるための男としての存在だつたし、医者たちにとつては薬好きな爺であり、能楽師たちにとつてはいかにも不器用な教え子だつた。さらにはむろん海道一の弓取りであり、駿遠三の領主であり、稀代の策士であり、江戸幕府の開祖、対外貿易の制限者、朱子学の強固な後盾でもあつたことは言ふまでもない。歴史になる前の家康はさういふ雑然とした曖昧な性格づけをいくつも抱へながら生きてゐる人間であつて、ひるがへつて言へば歴史といふこの抽象的なものはかかる多義的な人間の性格づけのなかから重要なものを抜き出してある体系(それを歴史の流れと呼んでもいい)に位置づけることによつて一義的なものへと昇華してゆく行為なのだらう。あたかも忠嶺の一首が前後の流れのなかで多義的存在から一義的な作品へと変化してゆくやうに、人間の一生となるものもまた歴史といふ名の詞華集のなかで余分な性格づけを削り落としながらはつきりとした歴史的性格を固め、さらにはさうやつて得た一義的な性格(あるいは歴史的存在としての一面)によつてほかの人生と共鳴し合ひつつ魅力を放つやうになるのだ。先ほどの家康の例で言ふならば、彼が非歴史的な存在のまま家庭人としての(あるいは男としての、薬好きの爺としての)性格づけに甘んじてゐたとするならば信長、秀吉との比照のなかで輝く彼の個性といふものはあり得ないのではないか。 すなはち歴史とは人間の詞華集であり、その魅力もまたそのやうな性質から生れてくるのである。 2 司馬遼太郎は長篇小説の多い作家であつたが短篇も決して不得手ではなく、いくつもの佳篇を残した。少壮の新人時代に書いたものが多いが、いづれも充実した出来栄えで読者を楽しませてくれることは間違ひない。ことに講談社文庫の『王城の護衛者』といふ短編集がよく、収録されてゐる五篇はすべて粒揃ひで、幕末維新史の人物たちをじつに生き生きと、そして手際よく描き出してゐる。そしてそれ以上にこの短編集は歴史とは何であるかをじつにきつちりと捕へて我々の前に供してくれるのだ。 まづ『王城の護衛者』について。松平容保を扱つたこの一篇は、幕末の騒然たる社会情勢を、京都守護職である主人公の目から描いたものである。叛服常ならざる幕末政界にあつて治安の維持者に徹し、孝明天皇の絶大な信頼を得てゐたはずの彼が、政情の変転につれて朝敵奸族の名の下に会津若松籠城戦への悲劇の道を歩んでゆく。そこにあるのは刻々と変化してゆく社会の流れのうちでひとり変らざる人間の姿であり、そしてその変らざるがゆゑに時流のなかで悪役に仕立て上げられる会津の姿にほかならない。この小説において筆者は、有為転変する時流の不可解さを前にして立ちつくす人間といふ集約的な性格によつて松平容保を捉へ、そしてさういつた人間の肖像を幕末維新史のなかに位置づけることによつてこの時代の奔馬のごとき社会情勢、一夜にして価値観が逆転する革命的な状況をみごとに描ききつてゐる。 次に『加茂の水』。岩倉具視の謀臣である玉松操が倒幕の勅や錦旗を偽造する姿を通して、歴史を作る作業の過程を小説に仕立てたものである。この作品のなかには主人公と直接には関係のない人物が何人も登場してそれぞれが生き生きと活躍するのだが、最終的に彼らは玉松の作つた勅と錦旗を核として鳥羽伏見の戦ひといふ一点に収斂されてゆく。いはば玉松の手による歴史を変換させるための小道具が大久保や、西郷や、木戸を動かしてゆくところが一作の眼目なのだと言へるのであつて、この小説の主人公は魚嫌ひで粥ばかり啜つてゐる老書生ではなく実務家としての才能によつて時代を変革してゆく人間の姿であり、ここでも多義的な存在としての人間といふものをひとつの性格づけに集約するといふ作業が行はれてゐるのだと考へることができるだらう。さらに言ふならば、かうして玉松といふ人間を一義的存在へと昇華することで歴史を動かす実務者のおもしろ味が明確に意識されるのにほかならない。 そしてある意味では村田蔵六を描いた『鬼謀の人』もまた『加茂の水』と同じことが考へられるのではないだらうか。歴史の転轍機を実際に動かす実務者(木戸のやうな革命家は転轍機を動かすのを命令するだけである)から見た明治維新こそがこの小説の主題であり、そこでは絶望的なまでに対人能力の欠落した蘭学者を通して大いなる歴史のうねりとそのうねりを作る人間が描かれてゐるのである。『加茂の水』と『鬼謀の人』を隣どうしに並べて一冊に収めたのが筆者の意図であつたかどうかは判らないが、少くともこの小説がさういふ脈絡によつて読者の前に提示された場合に歴史の転轍機を動かす人間といふ主人公の性格づけがよりいつそうしつかりとした存在感を持つて現れてくるのは紛れもない事実であるだらう。歴史の大きな流れのなかで蔵六といふ個性が玉松と比照されることによつて共鳴的な効果を生んでゐるのであり、ここに到つて詞華集的存在としての歴史の魅力がもつともよく発揮されてゐるのにほかならない。 あるいは『英雄児』。河井継之助といふまさしく英雄児としか表現できない男の一生に材を採ることにより常に乱を思ひ乱世に生きることを望む(それは継之助が『李忠定公集』を愛読してゐることを見ても判る)人間を捉へ、たつたひとりの英雄児のために阿鼻叫喚の巷となつた越後長岡の悲劇を描いた作品である。そしてその奥には英雄児である男と英雄児を生むにはあまりに小さ過ぎた社会との関係を通して、歴史のなかの英雄とは善なのか悪なのかといふ主題がづしりと据ゑてあるのだ。この作品における河井の肖像は、例へば同じ筆者が同じ主人公を扱つた『峠』とは微妙に異なり、英雄といふ彼の一面にその全存在が収斂されてゐて、そしてそのことが主題と深く結びついてゐるのにほかならない。言つてみればこのことによつて、主人公が歴史やあるいは幕末なる時代のなかでいつたいどんな意味を持ち、いかなる場所に位置づけられるのかといふことが筆者の手によつて明かにされ、限定された一時代における河井といふ存在から抜け出して人類にとつての英雄とは何だらうかといふ普遍的な命題へと高められてゆく過程が『英雄児』といふ小説なのだと考へることができるのかもしれない。『人斬り以蔵』は洛中に暗殺者として怖れられた岡田以蔵の物語である。以蔵における絶対的な武市瑞山への服従意識を核にして幕末の闇のなかに蠢く人斬りを突き動かした暗い情念を扱ふこの小説は、政治的正義による暗殺といふ行為が実はごく些細な人間関係や感情的な問題から発するものでしかないといふことを痛烈に描いてゐるのだ。それは『異邦人』のなかで太陽が暑いから主人公が殺人を犯すのと同じことであり、以蔵の内面的な問題(武市との人間関係における葛藤)と人斬りの間には常人の理解し得るやうな関連性はない。そこにあるのは武市に認められたい、武市に服従しなくてはならないといふ精神的な事象が一気に暗殺へと飛躍してしまふ主人公の狂気であり、読者としてはさういふ部分を知つてしまつた限り政治的正義による暗殺などといふものはすべて以蔵の場合のやうなつまらないものなのだといふ意識を持たざるを得ないだらう。筆者はここで、人斬りとしての一面と武市との精神的葛藤における一面といふふたつの性格づけによつて以蔵を描くことで、歴史のなかで彼が行つた暗殺のばかばかしさを証明してしまふのである。そして例へば以蔵の恋人としての一面(さういふものがゐたかどうかは判らないが)、あるいは子としての一面を中心に描いてゐたとしたら、この作品における右のやうな効果を上げるのが不可能であつたらうことは言ふまでもない。
2006年12月08日
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3 司馬遼太郎にとつて戦争とは何だつたのだらうか。むろん大正十二年生れの作家は実際に戦争といふものに参加してゐる。先の十五年戦争がそれで、学徒出陣によつて満洲で壁の薄つぺらい戦車(と呼ぶのが烏滸がましいやうな乗物)に乗り、のちに本州防衛のために栃木県佐野へ部隊ごと渡つて終戦を迎へた。司馬遼太郎自身は何度もこの体験を語り、当時の軍部の無能(といふよりは痴呆)を口を極めて非難してゐるのは周知の事実だし、敗戦体験から「日本人はどうしてこんな阿呆な戦争をやつたのだらう。この国はほんとうにそんな愚かな国だつたのか」といふ問題意識によつて小説を書き始めたといふのは有名な挿話だと言ふことができるだらう。また晩年の井上ひさしとの対談で「日本はしつかりと中国や朝鮮、韓国に謝罪すべきである」といふ発言をしてゐるのを見ても判るやうに、彼の十五年戦争に対する評価は一貫して低くて日本史上もつとも愚かで無意味な戦争として位置づけてをり、ちかごろはやりの右翼がかつた「歴史を正義、不正義で判断してはならない。十五年戦争もしかり」といふ説からは一線を画してゐる。(ちなみにいはゆる自由主義史観のどこらあたりがをかしいかと言ふと、十五年戦争がすでに歴史の部類に入つてゐるといふ考へ方であらう。歴史学的な問題はさておき、我々日本国民の常識的な知識によれば今の日本政府は戦前の帝国政府を継承して到つてゐるものにほかならない。それゆゑに少くとも明治維新以降の国家行為の責任もまた一切が現政府にまで継承されてゐるとするのがもつとも自然であり、十五年戦争をはじめとするそれらは歴史と言ふよりも近い過去と言つたほうが相応しいからである。) 右のやうに十五年戦争に関する司馬遼太郎の感想はごく簡単に判る。しかしそれでは一般名詞としての戦争についてどのやうに考へてゐたのだらうかといふことになると、これがなかなか難題で直接的に言及した文章はほとんどないと言つてもいいのではないだらうか。 そこで本人の筆によるものがないのならば他人の書いたものを参考にするしかない。ここで引くのは、丸谷才一の『司馬遼太郎論ノート』。このなかで『笹まくら』の作家は「どうやら司馬は、戦争といふ人類共通の愚行そのものに対しては、決して肯定したり賛美したりするのではなく、むしろ沈痛なおももちで諦観してゐる」と言ふ。この部分を読んだとき、私は現代日本においてもつともよく司馬遼太郎を理解してゐる人物は丸谷才一であると確信した。信長や、秀吉や、西郷や、土方歳三を描きながら司馬遼太郎の見せる一種沈鬱な風情はまさしくこの諦観といふことばにぴつたりとあてはまつてゐる。彼は戦争といふものを否定しないし、戦場にあつて勝利を導く有能な指揮官に対しては無制限と言へるほどの賛美を贈りはするが、しかし戦争といふ名の殺人を肯定したり賛美したりはしない。むろん否定の意を全面に押し出すことはないが、小説のなかの戦争の描写にはどこか「人間は太古の昔からかういふことを繰り返して……。愚かだなあ」といふ悲しげな雰囲気が漂つてゐると言ふことができるのではないだらうか。侵略戦争だらうが祖国防衛戦争だらうが、それは戦争である限り等しく愚行であり、沈痛な表情を誘ふものにほかならない、といふのが司馬遼太郎の基本的な態度なのである。そしてそれは戦争に対して私が抱いてゐるやうな激越な怒りではないにしても、生理的な嫌悪感を伴ふ感情であるには違ひない。 例へば『竜馬がゆく』を見よ。竜馬は死に急ぐ志士たちを北海道の屯田兵にしようといふ気宇壮大な計画を練る。また『燃えよ剣』では、最期の一戦を前にした土方歳三が年若い隊士を函館から落してやる場面があつた。ここに流れてゐるものはいつたい何だらうか。それは軽々しい死を嫌ひ、生命がいかに重いものであるかを暗黙裡に語る主人公たちの姿であり、人間が殺し合ふことに対して筆者が抱いてゐる軽蔑の現れだと言へるだらう。『坂の上の雲』の筆者にとつて戦争とはさういふものであつた。 4 司馬遼太郎は決して右翼でも何でもない。確かに『坂の上の雲』のなかで「日露役は祖国防衛戦争だつた」と言ひ、かつそれは回避不能な戦争だつたとして一応の肯定は見せてゐる。しかしながらそれを以て彼を好戦主義者、帝国主義者とすることは大きな誤りであつて、司馬遼太郎の日露戦争評には納得し難い部分はあるにしても『坂の上の雲』の筆者が積極的に戦争といふ行為を賛美してゐたわけではないだらう。彼において「日露戦争は回避できない祖国防衛戦争」だつたが、しかしながらだからと言つてそれが義戦だつたといふ考へ方は持合せてはゐなかつた。彼にとつては十五年戦争も日露戦争も、あるいは朝鮮戦争もベトナム戦争もすべて戦争といふ人類共通の愚行でしかなく、防衛戦争だから正義であり侵略戦争だから悪だといふ図式的な認識はなかつたのである。司馬遼太郎における戦争とは、沈鬱な表情によつて諦観すべきもの、生理的嫌悪感を伴ひながら見つめるものでしかなかつたのではないのだらうか。 あるいは人類がこの世の中に存在し続ける限り戦争は繰返されるのかもしれない。しかしだからと言つて、我々はそれを肯定したり賛美したりすべきではないのだらう。戦争といふ愚行に相応しいのは司馬遼太郎のやうな沈鬱と諦観といふ態度だから。
2006年12月07日
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沈鬱と諦観 『坂の上の雲』I 1 十五年戦争は侵略戦争だつたから悪なのであるといふ説、これは大きな誤りにほかならない。誤解のないやうに言つておくと私は右翼ではないし、例の自由主義史観といふやつもかなり眉唾ものだと思つてゐるほどだから、十五年戦争が義戦だつたと言ひたいのではない。問題は侵略戦争だつたから悪であるといふ論法のほうである。 ひとりを殺せば犯罪者だが一万人を殺せば英雄だ、といふ名言を吐いたのは誰だつたか覚えてゐないが、このことばは人間社会の矛盾をよく突いてゐると言ふことができるだらう。むろん一万人を殺せば、といふのは戦争のことである。人類がより快適に暮らすために我々の社会には数多くの取決めがあつて人を殺してはならないといふのもそのひとつであるが、この一項はかならずしも厳密に守られてゐるとは言ひ難い。幸ひにして日本には軍隊がない(少くとも建前の上ではさうなつてゐる)ためにさういふことはないのだが、徴兵制のある国で軍隊に取られて戦場へゆけば個人の好むと好まざるとに関らず殺人を要求され、そしてそれを罪に問はれることはまづありえない。これは殺人を社会が容認してゐるといふことにほかならないのだ。「殺さなければ殺されるのが戦場のおきてだからそれは仕方のないことで、いはば正当防衛に近いものだ」といふ反論はあらう。しかし正当防衛といへども殺人には変りがなく、要するに軍隊や戦争といふのは社会のなかで殺人を正当化するための手段でしかない。 過去の歴史における戦争を思ひ浮べて見るがいいだらう。どんな美名のもとに行れた戦争であらうと、その実体は殺人の連続でしかなかつた。私はアメリカ独立戦争も第二次大戦のレーニングラード攻防戦も認めない。それらはすべて殺人ではないか。どんな崇高な理念によつて遂行されようとも、人の命とつり合ふほどの価値が戦争にあらうとは思はれないのである。江戸の粋人はいいことを言つた。人間、死んで花実が咲くものか。死んでしまへばそれまでなのであつて、自由と平等の国ができようが祖国がヒットラーから独立を守らうがそんなことは死人に関係ない。まさか勲章局が三途の川を渡つて勲章を持つてきてくれるわけでもあるまいに。犠牲になつたとしても自分に何の関係もないのならば、どうしてそんな阿呆らしいものに参加せねばならないのか。不可解である。よつて戦争といふのはすべて無意味な殺し合ひでしかなく、悪徳だと言ふことができるだらう。世の中に義戦といふものがあると宣ふ説は、からくも戦争に生き残つた人間が胸に重たいほど勲章をぶら下げて吐く戯言に過ぎない。 戦争の悪徳といふのはそれだけではない。人が死ぬだけならば、人間は命数のあるものだからまあ仕方がないと考へることもできるのだが、許し難いのは戦争といふものが人間を人間でなくするといふ点である。万物の霊長と言つても人間が本質的に猿や馬と同じ動物であり、極限状態に追ひ込まれたときに我々がしばしば動物として行動するといふ事実は今さら言ふまでもないことであらうが、ただ人間が人間たるゆゑんは少くともさういつた極限状態に追ひ込まれない限りは「人間は動物とは異なり、愛や、知性や、平和や、自由や、平等といふものを大切にして生きるものなのである」といふ建前を崩さないところにあるのではないか。確かにそれは一面において偽善的な行為ではあるにしろ、さういふ偽善にすがりながら人間は人間として生きてゐるのだ。よほどの状態にならない限り「人間は動物と違つて、乏しくとも食物を分かち合ふ」といふ建前や、「どんなに邪魔な奴であつてもそれだけの理由で人間は同胞を殺したりしない。そこが動物との違ひだ」といふ建前によつて、例へ偽善であるにしろ人間は動物との差異を保つてゐると言へるだらう。ところが戦争といふものはかかる最低限の建前さへいとも簡単になくしてしまふ極限状態を作り上げてしまふのである。殺さなければ殺される、あいつ食物を奪はなくてはこつちが餓死してしまふ。そんな状況を生みだして、ごく普通の何でもない人間に信じ難いやうな非人間的な行為をせしめるのが戦争といふ名のこの忌まはしき悪徳にほかならない。嘘だと思ふなら『野火』を繙いて御覧なさい。私が述べたやうなことが具体的に書いてあるぢやないか。人間が例へ建前ででも人間らしく生きるといふのは、神が人間に特別優れた頭脳と一緒にして与へた義務である。戦争といふのは、そのもつとも基本的な義務を怠らしめようとするものなのだ。 あるいは未来への罪といふことも言へるだらう。戦争は人間の命のほかにその未来をも奪ふ。ひとりひとりが抱いてゐるかけがへのない希望を抹殺し、人間が自分の生きたいやうに生きるといふもつとも崇高な権利を剥奪し去るのが戦争なる行為なのである。画家になりたかつた男も、出征した男と結婚したいと思つてゐた女も、息子と孫に囲まれて平穏に暮したいと願つてゐた老人も、その希望を奪れ、さういつた未来予想図に向つて努力することさへ否定されるのにほかならない。あるいはこれらはいづれも個人的な未来だが、例へば人類社会全体の未来を奪ふこともあり得るだらう。ベトナム戦争で殺されたひとびとのなかに癌の特効薬を発明できた人間がゐたかもしれない。ユーゴスラビアの内戦で死んだひとびとのなかにカラヤンを凌ぐやうな才能の持主がゐたかもしれない。あるいは東京大空襲の犠牲者のなかから文楽に匹敵する名人が登場したかもしれない。もしこれらの仮定がすべて事実だつたとしたら、人類は非常に大きな損失を被つたことになる。癌の特効薬や第二のカラヤン、文楽に恵れた未来を戦争のせいで失つてしまつたのだから。 すなはち私が言ひたいのは、十五年戦争は侵略戦争であつたために悪なのではなく、戦争であつたために悪なのだといふことである。侵略戦争であらうが祖国防衛戦争であらうが戦争自体が悪にほかならないのだ。戦争は人殺しであり、人間が人間である状態を失つて平然としてゐることを可能にせしめるものであり、我々の未来を蹂躙する野蛮な行為でしかない。そしてどんな美名も戦争の悪徳を隠すことはできないのではないだらうか。 2 私はこの章において『坂の上の雲』について述べようとしてゐる。 以前にも述べた通りこれほど評価の二分する司馬作品は珍しい。問題になるのは作品のなかでの「日露役は祖国防衛戦争だつた」といふ筆者の解釈なのだが、そのせいでこの小説はいはゆる右寄りのひとびとに異常な人気がある一方で、左寄りからはまつたく黙殺されてゐると言ふことができるだらう。故意の解釈か誤解かはよく判らないが、読者のなかには『坂の上の雲』を以て司馬遼太郎は右翼作家だといふ思ひ込みまであるやうで、まことに厄介な作品と言ふほかない。 日露戦争は、確かに政府上層部の意識においては祖国防衛戦争といふ性格を否定できるものではなかつたに違ひないだらう。実質的に開戦を決意したのは、伊藤博文、山県有朋といつた幕末以来の生き残りと、山県系の軍人兼政治家の桂太郎、それに明治の代表的な外務官僚である小村寿太郎などであるとされてゐる。少くともこの四人の意識のなかでは経済的、軍事的見地からして日露戦争は五分五分の大博打であり、敢行するには危険性が高過ぎるといふ認識があつたのは事実で、特に伊藤はかなり強固に戦争回避論を述べてゐる。むろん朝鮮を植民地化したいといふ野望があつたことは否めないが、負けた場合の負担(最悪の場合は対馬から北九州あたりまでがロシアの租借地あるいは植民地になるおそれは充分にあつた)の大きさからすると、純粋に侵略だけの目的で行ふやうな戦争ではない。それを敢へて遂行せざるを得なかつたのは、確かにロシアから日本の独立を守るといふ要素があつたからにほかならないだらう。 しかしさうかと言つてこの戦争が純粋の祖国防衛戦争だつたといふのは納得できない説である。開戦時に軍部首脳が持つていた案はまさしく「攻撃は最大の防御」といふ乱暴なものだつた。防衛戦争と銘打つくせに他国の領土に軍隊を繰出して「ここはお国を何千里」といふ土地でロシアと対決したのだから虫のいい話で、朝鮮への領土的野心は充分にあつたことも事実であらう。そして付言しておけば、政府や軍部の首脳たち以上に領土的野心が旺盛だつたのは在野世論や一般大衆であつて、それが七博士の開戦要求や講和条約後の日比谷焼討事件などに表れてゐる。 私は司馬遼太郎を敬愛することひとかたならぬ人間なのだが、この『坂の上の雲』における日露戦争評だけは彼の誤りだつたと認めざるを得ない。確かに彼の言つてゐることは一面における真実ではあるのだが、その周囲の文脈からすると「日露役は(純粋なる)祖国防衛戦争だつた」と読みとるのがもつとも適当だと思はれるからである。かういふ表現は明かに誤りであるに違ひないだらう。いつたいに司馬遼太郎の特徴はこみ入つた政治状況や対立の構図を解りやすく説明する歴史の読み解きにあるのだが、それだけにややもすると筆が走つてしまひ実状を四捨五入し過ぎることがままにないでもない。その最大のものがこの日露戦争評であつて、これのせいで彼は多大な誤解を受けてきたと言つても過言ではないのだ。すなはち「日露役は祖国防衛戦争」といふ言ひまはしから、司馬遼太郎は日露戦争肯定派の右翼まがひだといふ説が横行することになるのである。
2006年12月06日
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実直といふ勇気 『風塵抄』 1 実直、といふのはうれしいことばではない。むろん悪い意味はないが、それにしても誉めことばとはいひがたく、使ひ方によつては侮蔑的でさへあるだらう。「あなたつて実直ね」と、恋人にいはれたところでおもしろくもをかしくもなく、まだしも「あなたつてまじめね」といはれた方がましではないか。 それを司馬遼太郎は、「在りようを言えば」といふ『風塵抄』のなかの五回続きの文章で取上げて、かういふ。 いま世界に映っている日本人についての平均的印象は、やはり古来の実直とい う像ではないかと思える。日本人もその国家も、このむかしからのシンを充実し たり、すこしは華麗に表現してゆく以外に、道がないのではないか この、倫理としては鈍びた色しか持つてゐない徳目をもつて、日本人の拠りどころとしようではないか、といふのである。誠実でも、正直でもなく、実直といふ徳目を。 ふつう、倫理といふのはひとを酔はせるものである。倫理的昂揚感といふやつがそれで、愛国心や犠牲的行為などには特にそれが濃厚だといへるだらう。自分が倫理的な行動をしてゐるのだ、といふ自覚によつていくばくかの昂揚を覚えることは、当然ながら否定されるべきものではなく、上手に利用すれば社会の活力にもなるにちがひない。 が、この実直といふ徳目にはさうした酒精度が薄い。倫理的昂揚感を感ずるには、その行為が劇的で、行ふには多少とも勇気が必要でなくてはならないのだらうが、実直は、司馬遼太郎のいふとほり「誠実という言葉ほどには劇的でなく、正直という言葉ほどには倫理的輪郭がくっきりしない」のである。要するに、その意味するところは日々まじめにやつてゐるといふやうなごく日常的な倫理意識であり、せいぜいが、嘘をつかない、誇大妄想をしない、こけおどしをしない、といつた禁止事項でしかなからう。しかしこれでは、例へばシュバイツワーがアフリカの奥地に敢然と乗りこむやうな、あるいはルターが迫害をものともせずに信ずるところを貫くやうな、劇的な要素も、気高い勇気も、酒精度の高さも、望みやうがない。もつといつてしまへば、実直といふのはひとを酔はせる恰好のよさを欠いた徳目なのである。 さういふものをわざわざ一国の倫理意識の拠りどころにしようとした司馬遼太郎の意図はいつたいどのやうなものだつたのだらうか。例へば、《(3)実と虚》の章で彼はかう書いてゐる。 なにぶん、実直者たちは、具体的思考にあっては精密だが、具体性からすこし 離れて形而上的に考えることが不得意なのである。 このために、実直国家は、しばしば虚喝集団に大きく足をすくわれる。土地神 話や証券神話に踊らされたのも、実直者たちは「実」には賢くても、「虚」には 疎かったためである。 これは実直の弱点とともに、その強みをも指摘した文章であるといへるのではないか。ここで司馬遼太郎が挙げてゐる、具体的な思考を好みがちといふ実直の特徴は、そのまま虚喝とは正反対の方向を志向する資質へと繋つてゆく。むろん作家が指摘してゐるやうに、実直者は虚喝漢に踊らされやすくはあるものの、しかしその根のところに虚喝の思考律に対して本質的に忌避する志向があることはたしかであつて、だからこそ抽象的な理論を弄ぶ虚喝漢とは反対に実直者たちは具体的思考を好むのにほかならない。 ここでさらにつけ加へるとするならば、抽象的思考といふのはたいがいの場合人間を酔はせるやうな倫理意識に変化しがちである。愛国心といふのは国家といふ抽象概念が対象だし、犠牲的行為は集団といふ抽象的なものに対して個人が捧げるものであり、そしてかうした倫理がしばしば虚喝漢の道具になりがちな事実を思ひあはせてみればそのことはいつそうはつきりするだらう。ヒットラーは若者の愛国心を利用して親衛隊や突撃隊を作つたし、日本の軍部は犠牲的行為の素晴しさを喧伝して特攻隊員を募つた。そして両者が一大虚喝漢であつたことはいふまでもない。 倫理的昂揚感に彩られた徳目といふのは両刃の剣なのである。その劇的な要素は倫理的行為を促進するのに功がある一方で、場合によつては虚喝の道具になりはててしまふ。が、実直にはその心配がない。実直者はその徳目にすがりながら、虚喝を警戒すればよいだけのことであつて、まかり間違つても、かういふふうに虚喝の道具になつて他人に害を及ぼすことはあり得ない。それが、実直といふ徳目の恰好わるさを補ふ長所であるだらう。 実直であることには勇気が要る。恰好わるいことを我慢して、ひとの劇的な倫理的行為を羨まなくてはならないから。しかし、さうしたものの代償として、虚喝の被害者にはなつても手先にはなることがない、といふ安心感があるのだ。 そして実直を日本人の在りやうにしようと考へた司馬遼太郎の意図も、このあたりにあるやうな気がしてならない。
2006年12月05日
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2 が、さうはいふものの、それでは実際の社会において実直の精神を生かすにはどうすればいいのかといふむづかしい問題は残されてしまふ。そしてそれを明かにしないかぎり、実直実直と司馬遼太郎の受売りをしたところで、ただのお題目にすぎないだらう。以下は「在りようを言えば」のなかからさういふ動機にあひさうな章をふたつばかり選び、それに沿ひながらこの問ひに対する答へを得ようとする試みである。 まづは《(4)十円で買える文明》の章。 ここで彼は、国家は国民の名代である、といふ福沢諭吉のことばを引いて読者の意識を喚起する。名代とは、代理または代表といふ意味であつて、つまりは国民全員が国政に参加するわけにはいかないからその代表を選んで権利を委託してゐるのが、国会であり、内閣であり、裁判所である、といふことをさしてゐるのであらう。さすが福沢らしく間接民主制の精神的状況を述べて過不足がない。 そもそも民主主義国家において国民は政府諸機関の主権者であり、上は総理大臣(あるいは天皇)から下は巡査にいたるまですべて国民に奉仕するためにいくばくかの権利を仮に付与してゐるのにほかならない。その諸経費が税金でまかなはれてゐる以上、出資者である国民に対して名代機関である政府は、旅宿の従業員のやうに恭しく、食堂の給仕がごとく機敏に、銀行の事務員顔負けの忠実さをもつて仕へなければならないのは当然であらう。が、往々にして民主主義を制度として(精神風土としてではなく)移入した国においては、右の原則が逆になつてしまふ。その一例が日本で、ここにおいて実直といふ徳目が問題になつてくる。 国民はその性実直にしてなほかつ「政府はお上である」といふ意識がつよい、さうなると政府の方がそれを悪用して、やたらと威張つてみたり、賄賂を取つてみたり、はなはだしきは昭和陸軍のやうに国家を私物化したりすることがある。いはば実直者の穏やかさ(司馬遼太郎は「実直は、わるくすると、羊になる」と表現する。お上のいふことすべてごもつとも、といふ無批判な態度のことをいつてゐるのであらう)をいいことに政府が無法を働き、得手勝手なことをやつては主人づらをして、国民といふ主権者をばかにしきつてゐるのにほかならない。これでは、せつかく実直といふ質のいい徳目を持つてゐても意味がないだらう。まただからこそ、例へば与党の有力者が一企業から数億円の賄賂を受けたなどといふ、実直からはほど遠い疑獄事件が起りもするのだ。そして司馬遼太郎は、この佐川急便事件を引きつつ、かういふ。 そのことについての解説や評論が多く出たが、作家の石川好氏の意見(『朝日 新聞』掲載)の文章が、さすがに若いころカリフォルニアの農場で四年間も肉体 労働した人だけに、思考が筋肉質である。意訳すると、 「政界の大物が、運送会社の社長から五億円をもらった。この不祥事は、主人で ある国民の責任である。国民が十円ずつ出して国民の名で五億円を運輸会社に返 そう」 というのである。 一見、奇抜ながら、国民という主人の立場をこれほど明快に切りとった文章は ない。子の不始末を親がつぐなう。むろん議員の法的責任とはべつである。 すなはち、国民が潜在的にふんだんに持つてをり、場合によつてはその弱点ともなつて露呈しまふ実直さを、国家の段階にまで演繹するためには、国民が政府の主権者あるいは主人として主導権を握る─別ないひ方をすると、国民が羊でなくなるやうに努力する─ことが必要不可欠であるといふのだ。そしてその具体例として、国民が十円づつ出しあつて実直さに支へられた文明への第一歩を買はうではないか、といふ提案がなされてゐる。これこそまさしく「十円で買へる文明」にほかならない。国民ひとりひとりが、政府内の一個人の起した不祥事について主権者としての痛みを共有することによつて、我々は国家なるものの主へと成長し、そしてそのときはじめて、実直といふ個人的な(すくなくとも現状においては個人的な)徳目を国家の拠つて立つところに据ゑなほすことが可能になるのであらう。 さう、羊の一頭である状態から十円の代償によつて抜け出したとき、実直の精神が国家に宿りはじめるのである。
2006年12月04日
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3 その次が《(5)山椒魚》で、今度は国際貢献の問題を扱ふ。 ここで司馬遼太郎は、当時議論の喧しかつた国連平和維持活動に賛成する意見を述べてゐる。日本の参加は、あたかも日ごろ実直なだけが取り柄の「熊さん」が火事場で大働きをして人を助けるやうなものだといふ比喩を使つて、かうつづけるのだ。 もっとも日本がPKΟに参加するには、国内で大反対があった。 「この町内には古くから申しあわせがあって、隣の町内がどうなろうとも、火事 装束で鳶口かかえて行っちゃいけないんだよ。遠くからぽかんと見てろ。なにぶ ん半世紀前にこの町内が火つけと火事泥をやった前歴は、世間が知っている。こ の世でなにが大切かは知っているかね、いいかね、平和なんだよ、平和」 一種類だけの論拠に、高貴な理念をくっつけて、ブローチのデザインでもする ように空論をたてるのは、明治や大正時代にはなかった。 私はこの意見に反対である。作家はふだんの明哲な頭脳にもにあはず国際貢献と戦争放棄の問題をごつちやにしてゐるし、大義名分さへ立つのならば武器持参の軍隊もどきを海外に出してもいいといふその乱暴な意見は、九条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」といふ部分に明かに抵触してゐるのではないか。この部分において論旨はいささか雑であり、理論の運びは少々をかしい。私は彼を尊敬してゐるだけに、『竜馬がゆく』の作家に対してこれを惜しむものである。 が、だからといつて司馬遼太郎のいつてゐることがすべて誤りだとはいはない。実直な「熊さん」もよその町内で火事場の手伝ひをしてゆかうではないか、といふ精神は大切にしなくてはならないし、平和平和がただのお題目になつてしまふことでかへつて現実の平和が失はれる(例へば第一次大戦後の米英が共産主義を警戒しすぎたためにファシズムに無関心で、ヒトラーの擡頭を許したやうに)のでは本末転倒だらう。町内の申しあはせに背かない方法で、「熊さん」の国も国際貢献をしてゆく必要がある。「熊さん」のつぎの部分で、作家は井伏鱒二の『山椒魚』の冒頭を引用してかう記す。 ……山椒魚は岩屋のなかでなが年棲むうち、体が大きくなってしまい、外に出ら れなくなった。この場合、岩屋は、日本人の鎖国心理であるに相違ない。 鎖国心理は、いまもつづいている。なにしろ明治後も、日本は世界の舞台で責 任あるしごとをやったことがないどころか、できれば岩屋のなかでひっこんでい たいと無意識下で念じつづけている。 むろんこのままでいいはずはない。山椒魚がいくら実直といふ徳目を抱へてゐても、岩屋のうちにゐては自己満足にすぎないのだから。そして、その「これではいけない」といふ司馬遼太郎の足掻くやうな心情が、ついつい前半における安易な平和維持活動論(彼にもにあはぬ)に繋つてしまつたらしいことは容易に想像できるだらう。彼はそれほどに日本といふ国の岩屋心理に危惧を抱いてゐたのだ。 その危惧に呼応するかのごとく、さらに彼はかう書きそへる。 お互い、そろそろ岩屋から這い出てはどうだろう。英語が喋れなくても、山椒魚 語でしゃべればいいんです。 ここで彼が「しやべる」といつてゐるのはひとり言語の問題ではあるまい。英語が国際社会のなかで主流な位置を占めてゐる言語であるやうに、世界の多くの国は、愛国心や犠牲的行為といつたじつに華々しい、陶酔的な徳目を一国の拠つて立つゆゑんとしてきた。それらは傍目から見るとじつに恰好よくもあらう。しかし、日本といふ国は山椒魚語でもかまはないぢやないか、実直といふ徳目を押したてて国際貢献をしてゆかうぢやないか、と司馬遼太郎はいつてゐるのである。 繰返しになるが、実直といふ徳目は恰好よくも、勇しくも、陶酔的でもない。たしかにそれは日本人といふ民族の特性であるにしても、我々はそれをあまり立派なものであるとは思つてこなかつた。それゆゑに、せつかく国際貢献をするならばいつそ実直ではなくて、もつと華々しい徳目でゆきたいものだ、と思ふ。そしてさう思へば思ふほど山椒魚の体は大きくなり、岩屋から出にくくなつてしまふのである。あたかも、外国ではきちんとした英語を話さなくてはといふ意識がつよすぎるために、かへつて海外へ出てゆくことを怖れるひとびとのやうに。 すなはち、山椒魚語といふ筆者のひとことの裏側には「実直といふ徳目を戴いて国際社会にでてゆく勇気を持たう。恰好わるくたつてかまひやしない。要は日本人が岩屋を出ることだ」といふ日本人へのはげましが籠められてゐるのにほかならない。さう、「熊さん」の火事場働きは威勢がわるくたつてかまはない。愛国心や犠牲的行為のやうな華々しさがなくつたつて恥しがることなんかない。山椒魚語でいきませうよ。実直といふ勇気を持つて。
2006年12月03日
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文学といふ容れもの 1『文章軌範』といふ書物がある。南宋の謝枋得の撰。唐宋八大家を中心に六十九篇の文章を採り、もつて科挙受験のために初学者用の教材としたもので、日本でも古来親しまれてきた文集のひとつといへるだらう。韓愈の『師の説』とか、柳宋元の『薛存義を送る序』とか、あるいは蘇東坡の『赤壁の賦』や『潮州韓文公廟の碑』など、およそ高校の授業で出てきさうな文章はたいがい網羅してゐるといふ……、ま、漢文学名作選とでもいふべき書物。 ただし、おもしろくはない。集められた文章はたいがいが政策論、治世論、人材論、伝記のたぐひで、世を嘆き、国を憂へ、いはゆる風流韻事を旨とした文章なんぞは数へるほどしかなく、ひとことでいへば、我々のやうに『赤と黒』とか『アンナ・カレーニナ』こそが文学であるといふ時代に生きてゐる人間にとつては、あまりにもくそ真面目でありすぎるのだ。たしかに文章にみなぎつてゐる真摯な悲憤慷慨の情は認めていいにしても、だからといつて「さういふものこそが文学である」といふ態度で迫られると、『出師の表』(これも収められてゐる)を読んでも別に泣きもしない不忠の臣ばかりの現代人は及び腰になつてしまふ。そして、昔の中国人は(日本人も)こんなものがおもしろかつたのかしらん、と文化の違ひをありありと感じることになる。 けれども考へてみると、儒教の伝統における文学といふのはさういふものなんですね。儒教といふのは、身を修め、家を斉へ、国を治め、天下を平げる学問なのだから、文学観だつて自然とそれに影響される。昔の中国人にとつて文学といへば、『西遊記』や『水滸伝』や『紅楼夢』ではなくて、『書経』とか『春秋』とか『論語』とか『孟子』とか、せいぜいが『詩経』や『唐詩選』ぐらゐだつた。すなはち、世の中をどうすればよくすることができるか、といふ問題を解決しようとして綴る文章こそが文学であつて、野心のつよい青年が人妻と恋におちて身の破滅を招いたり、夫以外の人間を愛してしまつた美しい人妻が鉄道自殺したりするのを描くのは文学ではなかつた。文学は人文科学的な藝術作品としてではなく、社会科学的な手段として扱はれてゐたのである。驚くべきことに、彼らにとつては詩さへ藝術ではなく、「志の之くところ」であつて、場合によつては『赤壁の賦』のやうな一種の散文詩さへ、風流韻事を賛美した軟文学だとして非難されたといふ。 経世済民の志。これぞ儒教文学の中枢に座るべき観念であつて、喋々喃々と男女の仲を描く文章などは卑められるべきものだつたのだ。この乱れた世を立てなほし、民の窮状を救はんがために、筆をもつて国家を動かし、天地の趨勢までをも変へようといふ、まるで孔子さまか、『古今集』の序のやうなひとびとこそが文学者であつたのだ。韓愈がスタンダールを読んだとしたら、「なんだこの戯作者風情が」と思つたことだらう。 さういふ儒教的な文学観を見ないと、例へば、魯迅の新しさも解らない。彼の作品が革新的であつたといふのは、ひとつには白話文(口語体)を採用したといふ点にもあつたけれども、やはり大きかつたのは、それまでの文学観をひらりと跳び越えて、作り物語といふ儒教社会における異端の文学形式をもつて中心に据ゑた点であらう。そして、それほどの離れ業をやつてのけた大文豪にしても、自国の文学的な伝統から完全に断絶することができないから、『狂人日記』のやうな作品が生れるのである。あれは、一般的には、魯迅が母国の気息奄々たる現状を嘆き、儒教道徳に縛られつづける風土からの解放を謳つたのだといはれてゐるが、さういふふうにして文学をもつて社会を改善するための手段に位置づけようとする姿勢そのものが、すでに伝統的な儒教文学の精神そのものにほかならない。 そしてかうした文学観においてなにより重要なのは、文学といふものが決して私の範疇に属するものではなく、むしろ公のものだといふ意識である。経世済民の志を容れるものだからその器もまた公のものであつて、かつは器が公であるからこそ、中身も必ず公でなければならず、男女の痴情がごとき世の中の役に立たない(こともないと思ふんだけどなあ)ものを容れたりしてはならないといふ意識が、厳然として文学者たちを支配しつづけたのだらう。 さらにいへば、儒教的といふ点については、江戸後期以降、明治十数年あたりまでの日本文学にも同じことがあてはまるのであつて、当時の代表的な文学者が蜀山人や黙阿弥ではなく、頼山陽や吉田松陰や徳富蘇峰だつたのはさういふ事情による。彼らの書くものはみな、経世済民の志にあふれた公の文学だつた。 まあ、真面目といへば真面目な文学観なのだらうが、現代日本人の感覚には合はないでせうね。明治以降の日本はまがりなりにも西洋風の文学観を取入れて発展させたし、文化のなかに伏流水のやうに流れてゐた『源氏』『新古今』以来の和文学の伝統は、儒教的な文学観とはまつたく逆のものだつたために(この点については丸谷才一氏の『恋と女の日本文学史』が最上の参考書)、一部のプロレタリア文学を別にすると、近現代の日本文学は人文科学的な分野として発展してきたから。 中村真一郎が『すべての人は過ぎてゆく』のなかで、幼少のころ、『アンクル・トムの小屋』は奴隷解放といふ目的を設定してゐるために文学としては(すなはち藝術としては)程度が落ちるものだ、と思つてゐたといふ逸話を紹介してゐるが、我々の『文章軌範』に対する不満はこの幼い評論家の感性に集約されてゐるといつても過言ではない。
2006年12月02日
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2 小説家には必ずお手本がある。お手本といつて悪ければ、影響を及ぼした過去の文学作品がある。遠くは漱石の英文学、蘆花のトルストイ、芥川や荷風の仏文学、谷崎の『源氏』、近くは大岡昇平のスタンダール、石川淳のジッド、中村真一郎のプルースト、辻邦生のトーマス・マン、丸谷才一氏のジェームズ・ジョイス……。挙げればきりがないのだが、このやうな状況を説明するのにもつともふさはしいのは、文学といふものは本来さういふものなのだといふひとことだらう。藝術が絶対的な個性から生れるもので、伝統と絶縁したときにほんとうの小説が生れるといふのは、自然主義的な妄想にほかならず、ことばといふこの偉大な伝統によつて小説を書かうとすれば、嫌でも過去の文学作品を参考しなければならない。この世に絶対的に新しいものなどはあり得ず、絶えず古いもののなかから新しいものが生れるのであつて、文学もまた例外ではないのだ。そしてさう考へれば、どんな作家であつてもお手本となるべき文学作品があつて当然で、むしろ、志賀直哉のやうにそれらしきものが見あたらない作家のほうが不思議でさへある。 さて、ここでいよいよ司馬遼太郎論に入るのだが、それでは彼のお手本は何だつたのだらう。 英米仏独露の、大学に文学科のある国の小説ではなささうである。外国語の学校へいつてモンゴル語を習つてゐるが、これでもないだらう。なにしろ、まとまつたモンゴル語の小説といふのはあまり聞かないから。日本の古典や近代小説は、本人が「若いうちはあまり関心がなかつた」とどこかで言つてゐるから、これも違ふ。 私はやはり、中国文学、それも魯迅などではなくて漢文だつたのではないかと考へたい。筆名の由来になつた『史記』と限定してもいいが、そこまで範囲を狭めなくても、幼いころに父親から素読を授けられた『論語』をはじめとする経書や史書だつたのではないのだらうか。なにしろ彼は、あの世代としては例外的に、正統で古典的な漢学の教養を深く身につけてゐたし、なによりその文学的姿勢そのものが漢学者のそれだつた。例へばそれを象徴的に伝へるのが、あの「日本はどうしてこんなばかなことをしたのか、昔からこんなに愚かな民族だつたのかを解き明かすための、二十二歳の自分への手紙」といふことばではないだらうか。 ことばの表面だけを見れば、これはおそろしく個人的な小説執筆の動機である。なにしろ、読者は自分ひとりだけしか想定してゐないのだから。しかし二十二歳の司馬遼太郎が抱いたこの疑問は、彼のみのものではなかつた。一九四五年の敗戦の日、日本人にしてこの疑問を抱かなかつたひとがゐただらうか。愚かな軍部と無能な政治家たちのために、つい昨日まで生命の危険にさらされつづけ、平穏な日常生活を構成するすべてのものを破壊されたひとびとにとつて、これは切実な疑問だつたに違ひない。「我々があの軍人たちのやうに愚かな民族なのだとしたら、国家の再建など不可能に違ひない。さうではなくて、あの軍人たちが異常だつたのだとしたら、なにが時代を狂はせてしまつたのだらう。その原因をつきとめない限り、また同じ過ちを繰返すことになりはしまいか……」。それは、若い司馬遼太郎の内面から生れた問ひであると同時に、時代と社会状況が無言のうちに彼に投げかけた命題でもあつた。疑問にして、克服しなくてはならない命題であり、そして、この命題に答へを与へずして新たな国家を作ることは、まつたく不可能にさへ感ぜられたに違ひない。いはば個人の疑問といふ点では私であり、社会的命題といふ点では公にほかならず、かつはその由来するところや経世済民の志によるものである。そして、これこそまさしく、儒学的文学、漢文学の正統的な主題であらう。 すなはち、司馬遼太郎の場合、その文学的な主題の据ゑ方からして漢文学ふうなのである。これが、例へばスタンダリアンだつたとするならば、彼は「人はなぜ情熱恋愛を志向するのか」といふ、普遍的でありつつも社会科学的な意味において世の中の役に立ちそうもない主題を設定することになるだらう。大岡昇平の『野火』でさへ、社会科学的といふよりは人文科学的な、人間一般の存在を問ふてゐるではないか。ところが文学的な伝統を漢文学におく司馬遼太郎は、あくまで「二十二歳への手紙」といふ、まるで歴史学者にでも任せておけばいいやうな、しかもひどく世の中のためになる主題を見出すことになるのである。
2006年12月01日
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3 小説を書くといふ行為は、ほんらい私の範疇に属するものだつたはずで、漱石も、芥川も、谷崎も、志賀も、社会から政治家や官僚のような公人として扱はれることはなかつたし、それは鴎外のやうな副業(本業?)のあつた作家を見てみればいつそうはつきりする。鴎外が公人だつたのは、軍服を着てゐる森林太郎の時間だけであつて、森鴎外といふ作家としての横顔は決して公のものではなかつた。そして、作家たちだつて、小説を書くといふ行為は純粋に藝術的な(すなはちいたつて個人的な)ものであるととらへてゐたし、社会的な責任を負はされて原稿用紙に向つてゐる、などといふ意識はまつたくなかつたに違ひあるまい。 西洋的な文学の概念といふのは、さういふものであるらしい。作家はむろん、文明に対する責任は負つてゐる。おもしろい作品を書いて、読者を楽しませなければならないから。しかし、社会的な責任、政治家や官僚と同列に扱ふべき公人としての責任は負つてないのであつて、作家が一国の行くすゑを憂へて小説を書く必要はなく、社会もそんなことは期待してゐない。小説といふ作業はあくまでも知的な遊びであつて、遊びである限りは私の範疇であり、私の範疇である限りは公の裃を脱いでくつろぐべきものなのであらう。 ところがかういふ考え方からすると、司馬遼太郎といふひとはまつたく文学者的ではない。『竜馬がゆく』の作家はいつでも裃を着たままだつた。さう、「二十二歳への手紙」といふ裃を。 むろん、作家としてその文学的主題に対し真摯に向き合ふことは必要である。しかし彼の態度には、さういつた文学的な倫理態度といふ以上の、社会的責任といふものさへうかがへはしまいか。『街道をゆく』のやうに評論と随筆のあひだを往来するやうな作品の取材地にさへ、日本論といふ主題主義を貫き、パリや、ベルリンや、ワシントンを選ばなかつた作家。何の主題ももたない、いはば文学的な雰囲気だけで成り立つ随筆といふ分野が苦手で、「文藝春秋」の巻頭随想だつたはずの『この国のかたち』に本格的な評論を書いてしまふ作家。初期の娯楽的な作品を恥ぢて全集にも収めさせず、『梟の城』以降の日本論に深くせまる作品だけが司馬遼太郎であると言つた作家。 これらに共通するのは、文学的興趣のみによつて筆を執ることを極端におそれ、「二十二歳への手紙」といふ社会的な命題に取りくむ作家の態度である。さう、まるで、韓愈が教師論を説きながら当代の堕落した教育を嘆き、柳宋元が友人の出立を送りながら人心の浮薄軽佻を悲しむやうに、彼はあんなにおもしろい小説を書きながら、「手紙」を綴るといふ一種の社会的な責任から逃げることはなかつた。ここにあるのは、スタンダールやジョイスへと繋る西洋的な文学概念ではなく、『論語』や『史記』以来の、経世済民の志を容れた、公器としての文学なのではないだらうか。司馬遼太郎といふ作家の背骨に厳然として居座りつづけたのは、魯迅と同じような「この国をすこしでもよくするために作家がゐる、文学がある」といふ儒教的な精神なのではないか。
2006年11月30日
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4『司馬遼太郎の歳月』といふ上質な評論集のなかで、向井敏氏が吉田健一のことばを引いて、小説から評論への司馬遼太郎の転身を説明している。「小説といふのは奇妙に廻りくどい文学形式であつて、批評ならば一片で片付けられることを、何十行にも亙つて」再現してゆかなければならない、のだといふ。私としては(そしてたぶん、吉田健一や向井氏にしても)そのまはりくどさに小説の滋味があると思ふのだが、司馬遼太郎はさうした小説の滋味を捨ててまで評論といふ、直截な形式を選んだ。 従来はその理由として、このたぐひまれなる物語作家が、手持ち時間の少なさを意識するやうになつて、より直接的に読者に訴へられる形式を採つたのだといふ説明と、それを補強するかたちとして、「小説といふ、虚空の気体をつかんで個体に変るやうな労力を必要とするものに疲れた」といふ本人の言が引かれてゐた。むろん、この説明はこの説明で正しいのだらうが、私にはその奥にもうひとつの理由があるやうに思はれてならない。 すでに述べてきたやうに、私には司馬遼太郎がいかにも儒教的な、文学を経世済民の公器として捉へる作家として映つてゐる。このことを考へるとき、私は、彼にとつて小説を書くといふ行為がひよつとして苦痛ではなかつたのだらうか、といふ疑問を禁じ得ない。 文学が経世済民のためにあるとすれば、その究極のかたちは、作り物語や、芝居や、詩文などではなく、社会科学的な論文か評論のやうなものになるだらう。さういふもののほうが、より直接的に読者へ影響を及ぼすことが可能になるからである。実際、昔の中国では『紅楼夢』や『漢宮秋』や『赤壁の賦』よりも『論語』のほうが、文学として上だつたことはすでに触れてきたとほりで、今我々がいはゆる中国の古典文学として称賛してゐる作品のおほくは、庶民の、もつと端的にいふと小人の娯楽文学だつた。かうした思考が、漢文学を習得する上で無意識に司馬遼太郎の文学観に影響を与へたとすれば、「二十二歳への手紙」といふ公的命題を背負つた彼にとつて、小説とは遊戯的で、娯楽的な、公器としての文学といふ認識からはづれた、二流の文学形式として感ぜられたのではないか。かうした憶測が極端に過ぎるとしても、小説の持つまはりくどさが、経世済民の志を容れるべき器としての文学といふ性格を損つてゐる、といふ認識はあつたのではないか。 さういふ作家にとつて、小説家であるといふことは自己撞着的な苦しみだつたに違ひないだらう。彼にとつて『梟の城』のやうにおもしろい、娯楽的な小説は文学ではなく、『坂の上の雲』に見られる社会科学的な問題意識、いひかへれば志を容れたものが文学だつた。しかしその一方で、『坂の上の雲』のやうな小説を書けば書くほど、そのまはりくどさに「志の容れもの」としての限界を感じつづけたのが彼の作家生活であり、その結果として、ある時期以降評論家への転身を試みることになるのである。そして、あるいはそれは司馬遼太郎といふ作家の意識のなかでは、逃亡でも、変節でも、退避でもなくて、文学者(儒教的な意味で)としての昇華であつたのかもしれない。
2006年11月29日
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5 我々にとつて文学といへば西洋渡来のあれであり、漱石以来のあれである。そこに盛るべきものは経世済民の志ではなく、藝術や人間に関する普遍的な命題であつて、遊びとして認識してゐるものである。 さういふ社会状況のなかで、司馬遼太郎はぽつりと孤高を守るやうにして「志の容れもの」として文学を捉へ、小説と評論を書きつづけた。あれほどの作り物語の才能を持ちながら、彼の文学観においては、それは否定されるべきものだつたのである。そのことを考へるとき、私はいつも「二十二歳への手紙」といふ彼の文学的主題が恨めしくなつてしまふ。そんな裃、脱いでしまへば楽なのに。まはりくどい、私としての文学でいいぢやないか。もつと人文的な、人間本然のものを描いて、あなたの才能を縦横に発揮すればいいぢやないか。あるいは『梟の城』のやうな、娯楽的でおもしろい小説をもつと書いてゐて欲しかつた。そんなに『文章軌範』ふうの文学観に縛られなくても……。 しかし、我々はさう思ひつつも、一方で彼の作品が「志の容れもの」であるからこそ、あれほど優れた境地にあるのだといふことも知つてゐる。『文章軌範』ふうの文学観をとりはづしてしまへば、司馬遼太郎は司馬遼太郎ではなくなるだらう。なにしろ仔細に読めば、『梟の城』でさへ「手紙」としての側面が深々と刻印されてゐるのだから。 小説家でありながら小説といふ手段を疑ひつづけた、はなはだ儒教的な文学観の持主は、小説と評論といふ形式のあひだで、ひどく二律背反的な、自己撞着的なものを感じながら、あんなにおもしろい小説を書いた。そして、我々読者もまた、作者とはちよつと別の、しかしやはり二律背反的な感情のなかで彼の作品を愛してゐる。
2006年11月28日
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古代の闇 『朱盗』 近代といふのは個人の自立によつて成立した。本格的な資本主義の登場とともに幕を開けたこの時代においては、自分の責任は自分で取るといふのが社会の基本的な精神であつて、逆にいふと、それまでの人間を保護してくれてゐた、家や、一族や、村落といふ小共同体といつたものが衰退し、個人が赤裸に剥かれるやうにして都市に放り出された、と捉へることができる。 例へば、現代社会において家族は縮小され、最終的には核家族からただの同棲にまでゆきつかうとしてゐるが、それはもともと近代が、古代的な族から中世的な家への推移を受け、それらを「個人の独立を妨げる」といふ視点から否定して、家族といふさらなる小単位を生み出したところから出発している以上、当然の帰結といふべきものであり、個人の自立をうながし、その上に立つて構築されてきたのが我々の社会であるからには、総理大臣がいくら教育勅語を持ち上げてみたところで家族関係の解体はどうしやうもない。すなはち、近代社会の基本的な精神原理のなかに、すでにそれを示唆するものが含まれてゐるのであつて、究極的にいふと、血縁といふ非合理的な(あるいは、古代、中世的な)ものによる結びつきを完全に否定してしまふのが近代主義といふものなのだらう。だからこそ子は親と関係なく投票するし、叔父が借金したものを甥が払ふ義務はなく、兄は弟を訴へることが可能になるのである。 あるいは、人間といふものが家や一族といふ集団から独立しなければならないとつよく求められるからこそ、近代社会において一個人としての自己同一性の確立がこれほどまでに要求されるのにちがひないといふこともできる。それまでの社会においては、家や部族が人間の最小単位であつたために、自己同一性は家の紋章や、インディアンに見られるトーテム・ポールのやうな、いはば集団的なものだつたのだらうが、個人が個人として独立した文藝復興(あるいはアメリカ独立戦争)以降のひとびとにとつては、それは個別的で、ひとりひとりに固有のものでなくてはならなかつた。紋章によつて家々が区別されたやうに、自分がほかの人間とはかういふ点において違ふといふことを指し示すためのなにごとかが近代以降の自己同一性であり、ひるがへつていへば、集団としての自己同一性から個人としての自己同一性へといふ移行ほど、個人の自立といふ課題を生々しく象徴した存在はほかにないかもしれない。『朱盗』には扶余の穴蛙といふ男が登場する。父も、祖父も、そして彼自身も、盗掘のために一生をかけ、墳墓へと通じる坑道を掘るために、三代にわたつて莫大な時間と労力を捧げてきた。祖父は五尺、父は八十尺を掘つて力尽き、穴蛙はやうやく四十尺になんなんとするも、目指すところはまだはるかに遠くであり、到底彼の代で盗掘に成功するとは思へない。しかし穴蛙は平然として掘りつづける。その子も、その孫も、この遠大な事業に参加して、必ずや彼の子孫の誰かが墓のなかの宝物を手にすることを信じて疑はないから。 読者にも、主人公である大宰少弐藤原広嗣にも、この穴蛙の神経が解らない。穴蛙と穴蛙の一族は別ではないか、宝物によつて富むのは彼自身ではなく、彼の子孫ではないか、そして、そのことがどうして穴蛙の無為な(と思はれる)事業の原動力となるのか。解らない。そして、解らないからこそ不気味でもある。 不気味といへば、すでに穴蛙が登場してくる場面からして不気味な雰囲気があるといへるだらう。隼人族の女(じつは穴蛙の妻)を追つてやつてきた広嗣にこのはかぬすびと朱盗は、扶余の大将軍もさうやつて来た、といふ。しかし、扶余の大将軍、といふのは穴蛙の経験ではなく、彼の祖父の経験なのである。それをさも彼の経験であるかのやうに語り、彼が祖父そのひとであるかのやうにさへふるまふ。 ここにおいては時間の流れは無視され、穴蛙は永遠のひとであるかのやうな錯覚が、読者と広嗣に与へられる。いや、時間の流れが無視されるといふのは不適当であつて、時間の流れそのものは厳然と存在してゐるのであるが、穴蛙はそれを個人としては感じてゐない。さうではなくて、彼は時間を族として感じてゐるのだ。八十尺の坑道に四十尺のそれを継ぎ足すやうにして、彼の時間は父の、祖父の時間と結びつき、ひとつのものになつてしまつてゐて、だからこそ祖父の経験は彼の経験であり、彼は扶余の大将軍を見たことがあるのである。穴蛙といふひとりの男としてではなく、朱盗といふ一族として。 これはもはや近代的な時間感覚を頭から無視したものであつて、そこでは個人の独立や時間認識における合理主義などといふものはまつたく相手にされない。近代人からいへば、族としての時間感覚といふものがあるはずはなく(あるとすれば、それは前世意識にも似た不合理で非科学的なもの、すなはち反近代主義的なものにほかならない)、穴蛙が扶余の大将軍を自分が見たかのやうにいふのは文法的な話法の誤りでしかないだらう。しかし、穴蛙の意識、古代的な族の意識のなかでいへば、それは充分あり得ることなのである。なぜなら、古代における個人といふのは族のなかに、埋没といふことばを使つてさへ不充分なほどに、埋もれ、従属し、個別性を奪はれた存在として生きてゐるものであつて、個別性を奪はれてゐる以上は、穴蛙が、父や、やがて生れてくるであらう彼の子と入れ替つたとしても何の不都合もないのだから。すなはち、自分は族そのものであり、族は自分そのものではないか。そしてそれゆゑに、古代的な意味においては、扶余の大将軍を見たのも、墓のなかの宝物を手にするのも、穴蛙そのひとにほかならないのだ。 そこに思ひいたるとき、我々はわけの判らない恐怖に襲はれる。自分が自分であるといふ、世の中でもつとも堅固な基礎的事項がぐらつくのを感じ、「どうして私が子で、父が親なのだらう? 私が親で、父が子でもよかつたのではないのか」といふ解けない疑問に囚はれてしまふ。私は族として永遠に生きてゐるのではないか? この生は借り物でしかなくて、ほんとうは族といふ無窮の生に含まれる一部分が、賢しらにも「個人だ」といつてゐるのにすぎないのではないか? そしてそのとき、近代人であるはずのひとびとは卒然としてかう問ふことになるだらう。「個人の自立が、あなたの自己同一性が、そんなに大切ですか」と。 さう、この小説を読んだあなたは、暗い坑道のなかに蠢く穴蛙の一族とともに、古代といふ無明の闇をも覗いてしまつたのである。我々は、その何ともいへない不気味な感触を恐れながら、本を閉ぢるしかない。
2006年11月27日
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虚空尽きなば 『空海の風景』 空海といふ男は、解らない。解らない、といふことがこの小説の主題なのかもしれない。 人間の一生は、普通、生を終へたときに完結する。我々がその人物を理解しようとすれば、生れてから死ぬまでの時間を眺めなほせばよく、かへつて同時代の人間よりも、乾いた視点が可能になる後代の人間のほうがより正確な像を結ぶことができるだらう。 ところが、この空海といふ人間の人生はどうであらうか。掴まうとすればするりと手のなかを抜け、ぐにやりとした感触だけしか残らない。生から死までのすべての資料を持ち出してみても、いつこうに人間としての手触りを感じることができず、しかも、それがあながち資料の少い古代の人間だからといふわけでもないところにこの男の不思議さがある。例へば、司馬遼太郎の小説に共通する特徴は、その主人公たちがまるで我々の隣人であるかのやうな存在感を持つてせまつてくる点に存するのだが、この『空海の風景』にかぎつてはまつたく様相を別にし、空海といふ男は永遠に読者から遠く離れた場所にゐつづけるのだといへるだらう。我々はこの二巻本を読み終へて、自分がちつとも空海を身近に感じられないことに気づき、ほかの司馬作品の読後感とあまりにも隔りがあることを知つて愕然としてしまふ。そしてもう一度仔細に作品を読みかへしてみると、読者はさらにおどろくべき発見をするにちがひない。信じられないことに、作者である司馬遼太郎さへ空海といふ男の解らなさを扱ひかね、理解することを放擲し、むしろ居直つてその解らなさを小説の主題に据ゑてしまつてゐるのだ。 例へば、この小説のなかに出てくる空海といふ人物像は、まことにあくがつよい。最澄に対して熾烈な競争意識を抱き、嵯峨天皇以下の平安朝国家を平然として見下し、ありあまるほどの才能を堂々と鼻に掛け、さらには歴史といふ舞台における自己演出の方法を充分に知つてゐる。とてもではないが、できれば友人にはなりたくない種類の人間だらう。なにしろ作者からして、時によつてはそのとんでもないあくのつよさに辟易し、むしろ自分は最澄のほうが好きなのだがなどといふことをいひながら、この偉大な宗教家の足跡を追つてゐるのだから。 不思議なのは、かうしたあくのつよさを、最初は空海の野心的な性向から発するものだと何度か説明してゐた司馬遼太郎が、小説の半ば以降になると、さういふ、いはば世俗的、人間的な解説をひつこめてしまひ、「筆者にもよく解らないが、空海といふのはさういふ男なのです」といふ態度を行間に匂はせるやうになつてゆく点である。これは、従来の司馬作品の在り方からして、間違ひなく奇妙なものであるだらう。彼の作品の最大の特徴は、人間を人間として、世俗的存在として描写し、理解するといふものであつたはずだ。ところが『空海の風景』においては、この基調音が崩れてしまふ。いつたいこれはどういふことなのか。 この疑問に答へるには、やはり真言密教といふ、この空海さながらにあくのつよい宗教を考へてみなければならない。 密教には、すべてのものが宇宙(大日如来といつてもかまはないだらうが)の一変形でしかない、といふ論理が底にある。一切のものはどこからか生れきたり、死ぬのだが、もともと存在しなかつたものが存在するやうになり、やがてまた存在しなくなるといふ点においては、全存在が空を起点にして展開してゐるのであり、いはば空の一変形でしかなからう。そして空はすなはち宇宙にほかならない。と、ここまでは東大寺を中心とする華厳の論理と相当に重つてゐるのだが、密教はさらに飛躍がある。すべてが宇宙の一変形であるならば、ひとそのものが宇宙であり、さらにはその煩悩もまた宇宙の一部ではないか。そして、それならばひとは煩悩を肯定しながら生身のまま宇宙と同一化し、宇宙そのものとして生きてゆくといふことも可能ではないか。 つまりは、華厳との共通部分までは純粋な論理であるが、それ以上の飛躍は密教独特の(あるいは空海独特の)実践論理であり、多分に論理を越え、さらには一般に宗教において否定されるはずの煩悩をも肯定してゐるがために、それを奉ずるものに対して普通のひとびとは、人間としての何らかの異質部分を感じてしまふ。小説のなかで具体的にいへば、それは筆授によつて密教を学ばうとする最澄が空海に感じる得体の知れなさであり、作者がこの主人公に対して抱いてゐる人間のあくのやうなものにほかならない。そしてもうひとついへば、司馬遼太郎が『空海の風景』のなかでこのあくに対する世俗的理解を放擲したのは、空海の哲学、思想、宗教の必然的帰結としてそのあくがあると考へがあつたからなのではないだらうか。 すなはち、このあくはとてものこと世俗的、人間的な視点で理解できるやうな代物ではなく、密教のあの絢爛たる思想体系から生じて空海の一部分となつたものなのである。空海のあくを人間的に理解しようといふのは、密教思想のあくを世俗的に解明するといふ試みと同義の、ほとんど不可能な行為にほかならない。だからこそ作家は、賢明にも空海の世俗的理解を放棄したのだが、しかしここで考へてみれば、このことは空海のすべてについていへることであつて、彼はつひに人間的存在ではなく、宗教的、思想的存在なのではないか。つまり空海は、歴史的にも思想的にも生身の存在としてこの世にあつたことはなく、みづからを大日の法と合一し、つねに法を体現した宗教的存在としてありつづけたのであり、そこに常人の(人間的存在である我々の)理解が及ばない、不可解さを秘めてゐるといふことができるだらう。 そして、いちばん最初に述べた、生から死まで、といふ歴史の鉄則に話を戻すとすれば、私はここで空海自身の文章を引きたくなる。その最晩年に書かれた、高野山における万灯会のための願文の一節。 虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなむ。 すなはち、空海といふ思想的存在の命(我が願)は、天地の運行、宇宙の理法と姿をひとつにし、この世の満たされない部分がすべてなくなるまで生きつづけるのであり、『空海の風景』の最後の部分で司馬遼太郎が言つてゐるやうに、人間としての彼は死んだには違ひないのだが、そのじつ、この男は宇宙そのものとしていまなほ生きつづけてゐるのだ。吹く風、降る雨のひとつひとつが、思想的存在としての空海にほかならない。だからこそ、彼の生はまだ完結してをらず、彼は歴史的存在ではあり得ない。 そして歴史小説家としての司馬遼太郎は、この、思想的存在としての永遠の生に、従来の彼の小説作法では補足しきれないものを感じて困惑しながらも、それを逆手に取つて、空海をその思想ごと華麗に描ききつた絢爛たる思想小説を成功させてゐる。なればこそ『空海の風景』において、人間としての空海の解らなさ、といふ名の思想性を、読者と作者が仲良く感じてゐられるのではないか。
2006年11月26日
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第二の男 『播磨灘物語』『播磨灘物語』を読んで如水の印象は、と尋ねられたら、十人が十人「名参謀だね」だとか、「名軍師だね」と答へるだらう。しかし、ここで私は疑問に思ふ。黒田如水といふ男は、ほんとうに名参謀だつたのか? この小説のなかに出てくる彼の肖像は、たしかに卓越した戦略家であり、政略家である。外交の狡知もあれば、百戦百勝の名案も持ちあはせ、政界での游泳術も身についてゐるといへるだらう。さうした点からいへば、彼はたしかに名参謀であり、実際に如水は秀吉のためにさういふ才能を捧げた。だが、それが如水の本質か、と考へてみると、我々は否といふ答へを出さざるを得ないのではないか。 秀吉の参謀といふのは如水だけではない。彼が信長の下僚として頭角を現しはじめた美濃、近江時代に竹中半兵衛といふ、ごく病弱ながらも天才的な軍略者がゐて、中国攻めの初期あたりまで仕へてゐたのだが、ちようど如水と秀吉が播磨で出逢ふころ、入れ替りのやうに死んでしまふ。つまり、秀吉は一代でふたりの参謀を用ゐたのだが、このふたりを比較してみると非常に興味深い。 半兵衛は、早死にすることもあつてかどことなく人柄が丸げで、名利に恬淡とした雰囲気がある。実際に、まだ無名のころの、しかもどこの馬の骨ともしれぬ秀吉に、美濃の名家出身だつた彼が仕へた(といふよりは、協力した)のだから、よほど先物買ひの、投機的な性格から出たものだつたのならばともかく、この時期の半兵衛といふ人間が名声や財産を欲してゐたのではないことは、事実だと思つてかまはないだらう。 それに対して、この如水といふ男のなんと生臭いことか。中国攻めの秀吉に如水が全面的に協力したのは、完全に彼が秀吉といふ株の暴騰を見越して買ひこんだものである。天下取りまで視野に入れていたかどうかはともかく、すくなくとも信長の下でこれからさらに成長する男だと考へて秀吉についたのは事実で、打算に打算を重ね、相当に計算づくで軍師を買つて出た点、さはやかだとはいひがたいだらう。むろん彼のやうに、一族を率ゐて時代のなかで生き残ることを要求された人間に、さはやかさだけで行動しろと求めるのは酷でありすぎるとしても、その生涯にわたつてつきまとふ野心的な性格が、我々をして彼に好漢といふ印象を与へせしめない。 軍師や参謀といふ第二の男にとつていちばん難しいのは、簒奪の意志がないことを上手に証明して身の安全を保つこと(失敗すると林彪みたいになる)なのだが、かういふ如水が秀吉に警戒心を抱かせないやうにするのはじつに大変なことだつたらうと思はれる。半兵衛ふうの性格ならば問題は簡単なのだが、一皮めくれば野心満々といふ如水が、秀吉の信用を、大封土といふかたちで勝ち得るのはほとんど奇跡に近い。天下取りの上でどれだけ頭が切れるかを証明し、その上、半兵衛とはちがつて野心の生臭さが見え隠れする彼に対して、秀吉が抱いていた危惧は察して余りあらう。例へ、司馬遼太郎のいふとほり、それが十万石といふ少なさであつたとしても、如水がみごとにその身を保つたことを考へると、やはりこの男はただ者ではなかつたのだ。 ここに如水と半兵衛の最大の相違がある。ふたりの才能については、天才的といふ意味で大差ない。ただ、半兵衛の人格からいへるのは、彼は打算づく、計算づくで秀吉の軍師になつたわけではなく、あたかも友情によるものかであるやうな、見返りを求めない精神で仕へたからこそ、如水のやうな秀吉の信用を勝ち得るための努力、簒奪の意志なきを証明する必要はなかつたのである。なぜならそれらは自明の理として主君である秀吉に伝つてゐたのだから。そして、名参謀や第二の男といふのは本来かうした人間のことではないのだらうか。もともとその性格のなかに一切の野心がないといふ稀有な人間だけが、第二の男と称されるのにふさはしい資質の持主なのである。諸葛孔明しかり、楠木正成しかり、真田幸村しかり。だが、如水のやり方には、努力といくばくかの苦しさがつきまとふ。それは、彼がもともと第二の男に向いた性格ではなく、その軍師としての姿が演技であつたことを証明してゐるのだ。 そしてここに思ひいたるとき、我々は改めて司馬遼太郎の人間理解の深さと、『播磨灘物語』といふ小説の凄みに気づくことになる。 如水はその晩年になつて、関ヶ原の合戦に遭遇することになるのだが、そのとき、豊後の中津で隠居してゐた彼は思ひがけない行動に出た。金で牢人を雇ひ、いきなり九州の主な西軍方の領土に攻め入つて、ぶんどりはじめたのである。それはまさしくぶんどつたとしか表現しやうのない荒々しさで、またたくまにこの親爺は北九州を統一してしまふ。天下の帰趨が決するまで相当の時間がかかると考へた如水は、九州を足がかりに関ヶ原の勝者(彼は家康と読んだだらう)と雌雄を争ふつもりでゐ、しかし策士らしく西軍方だけを攻撃することで逃げを打つておいたのにほかならない。結局は関ヶ原が一日で終つたために如水の計画は水泡に帰すのだが、しかし、この野心はどうだらう。 これについて、司馬遼太郎は「如水といふ男が自分の才能を、天下といふ画布のうへで試してみたかつたのだ」といふ評を与へる。あるいは、画家が藝術的な意欲で画を描くやうに如水は戦つたのだ、ともいふ。しかし、これらは如水の野心の否定ではない。むしろ、画家の藝術意欲のやうな、といふ表現で作者がいひたいのは、なんの功利性もないからこそ、無目的性の行為だからこそ、野心をむき出しにし、作品に執着する藝術家特有の業の深さなのではないのか。野心から功利性や物質欲が消えたとき、それは純粋に藝術的欲求になり、そして純粋だからこそ熾烈なものになるのではないか。それが司馬遼太郎の如水評なのである。 たしかに、このときの如水は野心の塊だつた。才能を試してみたいといふ、ただそれだけの目的だつたからこそ、彼の生涯のうちでもつとも意欲的で、荒々しい合戦を指揮し、野心を隠さずに陣頭に立つてゐたのである。さう、家門の存続も、封土の安堵も、第二の男としてかぶりつづけてきた「私は無害で、簒奪の意志なんかないですよ」といふ仮面さへ脱ぎ捨てた如水に残つたものはこの、自分の才能の欲するままに行動することによつて、どこまでも放埒にはばたかうとする野心だつたのにほかならない。 例へば、この局面において竹中半兵衛ならば、如水のやうな行動は採らないだらう。第二の男はつねに第一の男のための存在であり、その影となり、主君の利益のためだけに働き、自分の野心(たとへそれが欲得と無関係の、藝術的なものであつたとしても)を解放することはあり得ず、あり得ないからこそ「私は無害なんです」といふ仮面をかぶる必要はなくなるのである。だが、さういふ人間ならば、第一の男なしに積極的な行動をすることはないだらう。すなはち、秀吉が死ねば半兵衛も死ぬほかはないのであり、有能な第二の男たちが主君の死とともに抜け殻になるといふありふれた話は、このやうな事情によるものにほかならない。 そして、それを思へば、この小説は決して第二の男の物語などではないだらう。ここにあるのは、野心に憑かれた第一の男の姿である。
2006年11月25日
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織部といふ奇怪 『割って、城を』 織部焼といふ焼き物の種類がある。古田織部が命じて焼かせたのが由来で、形は茶碗なら沓掛、色は緑と黄が中心の、いくらあの安土桃山の美術状況でも、これはさぞかし奇抜だつたらうと思はれるやうなもので、私などは、織部といふ男が茶道史に残した方向性をこれがよく体現してゐると考へてゐるのだが、不思議なことに織部を扱つたこの『割って、城を』といふ短篇には登場しない。 あれだけ博識な司馬遼太郎が、織部焼のやうなごく初歩的な知識がなかつたといふことはあり得ないだらう。茶道入門といふやうな本なら大半は載つてゐる名称だし、そもそも家庭用の食器として一時もてはやされたことがある(これを見てもいかに織部の感覚が近代的であるか解るだらう)のだから、まさか知らなかつたといふことはなく、これはもはや、文学的効果を狙つて作家が意識的に無視してゐるのだとしか考へられない。しかし、もしさうだとしたら、そのことによつてこの小説はいつたいどんな特徴を帯びるやうになつたのだらうか。 物語は、武辺者として知られた善十といふ男が古田家に招来されるところからはじまる。茶人大名として有名な織部がなぜ自分のやうなものを必要とするのか不得要領のまま仕官した善十は、引見の日、織部に茶をふるまはれ、そこで彼の奇妙な性癖を目の当りにしてしまふ。織部は、茶碗を割つて、膠や漆でもう一度接がせ、さらに金粉を掃いて、その接目の美を楽しむのだ。善十はそこに、茶人としての織部の、天をも怖れぬ不遜な態度を嗅ぎつけて畏れをなすのだが、茶人大名のほうは平然と、これで他人の作品であつた茶碗が自分の作品になつたのだ、と言つて憚らない。 ここまでいへば充分だらう。司馬遼太郎は、この織部の異常な美術観を際立たせたくて、あへて織部焼を無視したのである。茶碗を割ることで美を創作するのだ、といふ狂気を、よりいつそう輪郭の鮮明なものにするために、ごく普通の、茶碗を焼くといふ創作行為を切り捨てたのにほかならない。そのことによつて、織部の異常な雰囲気、善十が敏感に感じとつたあの雰囲気を、みごとにとらへたのだ。 たしかに茶碗をわざわざ割つて鑑賞するといふのは、異常である。第一に、仏教から精神的な系譜を受継ぐ茶道のものとして、ひとつの茶碗にも由来があり、自分の膝下に到るまで壊れもせずに形を保つてきたといふ因縁を重んじて当然のはずなのだが、彼はさうした由来も因縁も無視して茶碗を損つてしまふ。さらには、割るといふ行為に創作を見出してゐるといふ点もまた、狂気を感じさせるといへるだらう。破壊とは創作と対立すべき概念であるはずだが、織部は逆に破壊のなかに創作を見出し、普通の人間の価値観を逆転してしまつてゐるのにほかならない。だが、この二点以上に重要なのは、織部の異常さが、茶碗を割ることのなかに自分を発見している、といふことではないだらうか。 茶道といふのは、本来がよき批評の藝術である。道具を揃へ、客をもてなすための演出に凝るといふのは、あくまでも創作的行為ではなく、すでに創作されたもののなかに美を見出し、そしてさうした複数の美を対決させることによつて効果をあげるといふ、批評的行為であり、しばしば茶道が演劇的な要素を帯びるのも、またここに由来するものにほかならない。すなはち、戯曲といふ藝術に役者の主観的解釈を加へて成立つのが演劇であるやうに、工藝や所作のひとつひとつに亭主の美学や哲学を籠める批評的態度が、茶道といふ藝術なのだ。ところが、織部はその批評的態度に対して飽き足らないものを感じてゐるのであつて、もともと茶道における自己主張といふのは道具の取合はせや演出に表れる控へめな(批評的な)ものであるべきところを、創作といふ、堂々たる手段によつて表現しようとしてゐるのである。しかしながら、茶とはなにかを作るものではなく、批評するものであるといふ大前提は、先ほど触れたとほりであるから、いきほひ織部の創作意欲は、撓められた、異常なかたちでしか表現し得ない。それが、茶碗を割つて接ぐ、といふ行為へと繋るのであらう。 そして、この茶と自己主張の関係は、そのまま織部といふ男の大名としての生き方にあてはまるのではないか。彼は茶人として一万石の禄を得た。その一方で、この男は戦国生き残りの武将でもあり、いくばくかの合戦の経験もある。ところが、一万石といふ徳川幕府の評価は、戦国大名としてのそれではなく、茶人大名としてのものにほかならない。茶人大名といふのは、世の盛衰に関らずにありつづけるものであるといふ意味において、歴史の上での創作者ではなく、むしろ批評家のやうな安全な立場にあるといへるだらう。さういふ立場にある男が、胸の底で「自分は戦国の荒武者なのだ」といふ意識を抱く。あたかも、批評家としてあるべき茶人が「しかし自分は創作者なのだ」と考へてゐる、といふ二律背反的な態度をとるやうに。そして、この二律背反的な態度が、「茶人大名は天下への野心などあり得ない」といふ大前提(茶における批評性のやうな)を触媒にしたとき、織部の戦国大名としての野心が、一気に異常なかたちで表出するのだ。 この男は、たかだか一万石の分限で大坂の陣に参戦し、京都を急襲しようとするのである。むろん計画は事前に露顕してしまふのだが、いつたいこのときの織部の胸中といふのはどう表現すればいいのか。世間並みの野心といふのではなからう。野心だけで行動するには、それはあまりにも賭博的要素の大きすぎる計画だつた。やはりここには、織部の撓められた野心から生れた、異常なものが感ぜられる。そしてそれは、茶碗を割つて接ぐ、といふあの狂気の行為に一脈通じるなにかが秘められてゐるやうな気がしてならない。 善十の役目は、物語がここまできてやつとはつきりする。古田織部正として腹を切つたのは、主君と顔立ちのよく似た善十だつた。そして作者は、普段ならばめつたに採用することのない、織部は落人となつて静かに生を終へたといふ稗史のたぐひを引いて小説の幕を下すのだが、読者はここまでこの小説につきあへば、ひとつの確信に到ることになるだらう。すなはち、善十といふ男は、織部が天下といふ茶碗を割つて接ぐための膠や漆のやうな存在だつたのにほかならないのだ、と。そしてそのとき、司馬遼太郎といふこの狡知な作家が織部焼を無視してこの茶人大名の狂気を際立たせた意図が、はじめて完結するのにほかならない。 織部が抱いたふたつの野心─創作によつて、本来批評であるはずの茶道のなかで自分を表現しようといふ野心と、茶人大名であるはずの、天下に志を持たないはずの自分が世間一般の大名のやうに行動しようとする野心─は、自滅といふかたちで最後を迎へた。そこにあるのは、あの緑と黄に彩られた、織部焼の奇怪さであり、織部といふ男の野心がどこかで撓められた、異常なものであるといふ奇怪さである。
2006年11月24日
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ある明るさ 『戦雲の夢』 武士道といふのも、時代時代によつてかはるものなのだが、通底する性格はある。殊にいちばん大事なのは、お禄を戴く主のために忠誠を誓ふといふことで、武士道の原形といふのは、主君が家臣に領地を与へ、家臣が主君に仕へるといふものであるから、もらふものだけもらつておいて忠誠心はかけらも持ちあはせてゐない、といふのは重大な契約違反にほかならない。だから逆にいふと、自分になにもくれない人間や、働きを正当に評価しない主君といふのは忠誠心の対象にならないのであつて、それゆゑに高杉晋作が徳川将軍に忠誠を誓ふ義理もないし、旧日本陸軍の一兵卒が天皇のために武士道的な奉仕をする必要もなく、さらには、戦国時代に流行した見限り(家臣が主君を不満に思つて牢人する)といふ手段が武士社会のなかで許容されることになるのだ。 かうして考へてみると、武士の棟梁、とくに戦国大名といふのはじつにたいへんな仕事である。第一に、家臣が不満を抱かないやうにその仕事ぶりをきちんと評価しなくてはならないし、第二に(いはでものことながら)、大名の家自体が倒産して家臣が路頭に迷ふことのないやうに、あの弱肉強食の時代を生き抜き、できれば家門を大きくしてゆかなくてはならない。すなはち、内に老獪、外に狡猾でなくては成立たない職業なのだが、これのなんと難しいことか。内部の反乱と外部の攻撃に悩まされなかつた主君なんてゐないだらう。しかも、戦国大名といふのは大半が世襲の職業なのである。親が有能だつたからといつて、誰でもがこのやうな難しい仕事をこなせるわけではないし、そもそも性格自体がかういふものに向いてゐないひとびともゐたにちがひあるまい。 その一例が、『戦雲の夢』の長曽我部盛親だらう。小説の冒頭で、傅人子の桑名弥次兵衛が彼を評して、御曹司のこの明るさがその人生に幸せをもたらすのか、不幸をもたらすのか、といふ意味のことを思ふ。まさしく盛親の性格はこの評に尽されてゐるのであつて、彼はあまりにも明るく、あまりにも好漢でありすぎるのである。明るくて、好漢である(ことばをかへると、さはやかで、単純な性格である)といふのはむろん人間としての美点であり、ことに戦国の荒武者にとつては最高の賛辞だつたにちがひあるまい。しかし、それが人の主人たる人間に対する評であつたとき、事情は一変する。 戦国の大名にとつて、かうした性格であることは必ずしも美点ではないだらう。家門を維持し、丁々発止の駆け引きや権謀術数のなかで巧みに生き残るには、さういふ人間的な魅力は必要なく、求められるのは冷酷さや老獪さであり、単純な好漢といふのはしばしば奸智の餌食となりやすい。福島正則や宇喜多秀家がさうだつたやうに、正義感や美学、あるいは個人としての感情で行動しやすいために、結局狡猾な頭脳を持つ人間に利用され、身を誤るのである。竹を割つたやうな気性といふのは槍ひとすぢの武者においては美風だが、大名には必要のない、むしろ害毒となるものなのではないか。 この間の事情を、司馬遼太郎は「士の道と将の道は違ふ」といふやうな言ひ方で表現してゐるが、それを借りれば、まさしく盛親といふ男は将ではなくて士であり、弥次兵衛が想像するまでもなく、この土佐領主の身に訪れるのは関ヶ原の敗戦と領地召上げといふ不幸なのである。 だが、『戦雲の夢』といふ小説のおもしろさは、大名向きでない男が大名になつてしまふといふ、ただそれだけの運命喜劇を扱つたものではないところにあるといへるだらう。盛親は人の将たる器ではない。むしろ槍ひとすぢの武者に生れたほうが処を得てゐたかと思はれるやうな人間にほかならない。それなのにこの若者は、戦場が、戦場で采を揮ふことが、大好きであり、かつは天分の才能さへ持つてゐるのだ。政治と外交における狡猾さを欠いた大名に不向きな男が、なぜか戦国大名に特有の仕事であるはずの大軍の指揮にだけは能力を現すといふ、この皮肉。指揮官としての能力はあるのに、政治状況を読めないせいで西軍に味方してしまふ彼の行動が、なによりそれをよく象徴してゐる。 いや、皮肉といつては間違ひであつて、盛親を描く司馬遼太郎の態度は、さういふふうな冷たい、突き放したものではない。それはむしろ、この権謀術数が苦手な、あまりに好漢でありすぎる青年を、理窟や歴史的な評価抜きに温く見守る、親愛の情に満ちた筆致なのである。さう、あたかも、この戦国大名失格の主君のために流浪の身になり、藤堂家に仕へてもなほ、盛親に変らぬ友情を捧げる桑名弥次兵衛のやうに。そして、さうした温かな眼差しがあるからこそ、盛親の性向に根ざす悲劇的な面がよりいつそう鮮かに映るのではないか。 さう、盛親は不幸であつたのだ。戦ひを恋ひ、才能を抱きながらも、状況が彼をしてその地位にありつづけることを許さず、家は破れ、封土を失ひ、家臣は四散し……、そしてそれでもなほこの男は戦雲の夢を見つづける。それは、ごくふつうのの武者であるべき性格の持主が土佐二十万石の領主であり、しかしその地位にふさはしい戦闘能力だけは持つてゐるといふ、ふたつの矛盾が生んだ不幸であり、不幸であればこそ彼の明るさがよりいつそうの照り映えをもつて、弥次兵衛や読者にせまつてくるのにほかならない。そして、盛親を知る人間ならば誰でもがかう言ひたくなるのではないか。「ただ男として、殿に男の幸せを味わせたい」と。盛親は、弥次兵衛のその言を容れて大坂の陣に加はる。 大坂の陣といふのは、どう考へても成算のある戦ひではない。それはいはゆる大坂の七将を見ても判ることであつて、真田幸村にしろ、後藤又兵衛にしろ、明石掃部にしろ、誰しもが万が一の可能性に賭けて、参加してゐるのである。 このやうな戦ひの、たつたひとすぢの光明に賭けてでも、人に将たるものだけが知りうる勝利の味を、槍ひとすぢの武者のやうにさはやかな性格のこの男に味はせてやりたいといふ、弥次兵衛の、読者の、錯綜した感情! そして、ここまでくれば、司馬遼太郎には珍しい、この小説の結末部分─盛親は大坂の陣を落ちのびて命を全うしたのだといふ、たぶんに口承のたぐひに重心を移した作者の言─がやつと腑に落ちる。それは『割って、城を』のやうに人間の狂気を描くためではなく、作家が小説を書くうへで用ゐた、盛親に対する温かな眼差しの当然の帰結として存在するのであり、平くいへば、この好男児につきあひつづけた司馬遼太郎は、例へ小説のなかでとはいへ、盛親のやうな男を空しく大坂の陣で殺してしまふのは忍びないほどに、惚れこんでゐたといふことではないのだらうか。 さう考へば、我が身を土佐衆の槍襖に進んで投げ出した弥次兵衛も、怪しげな説は信じないといふ自戒をわざわざ破つた作者も、そして『戦雲の夢』といふ小説にふしぎな明るさを感じる読者も、みんなまとめて盛親といふ男の魅力にとりつかれてしまつてゐるといふことになる。
2006年11月23日
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女の情景 『韃靼疾風録』『韃靼疾風録』といふ小説のよさは、その半ばくらゐまでが司馬遼太郎の奔放な想像力に負つてゐる。と書きはじめれば、それはそれでこの小説を語つたことにもなるのではあらうが、しかしながら私が感じてゐるいちばん大事なことはするりと掌のうちをすりぬけて、二冊の文庫本とともに書架のうちへと逃げこんでしまふやうだから、ここではさういふ無粋な論議よりも、例へばアビアといふ女のよさについて文を弄することにしようか。 じじつアビアといふ女はいい。いつたいに司馬遼太郎の作品は、『竜馬がゆく』の佐那子やお田鶴さんにしろ、『燃えよ剣』のお雪さんにしろ、『梟の城』の小猿にしろ、あるいは『街道をゆく』の《オランダ紀行》に出てくるメリンダさんといふ案内役の女性にしろ、どれもがじつに魅力的な女のひとによつて彩られてゐるのだが、そのなかでもこのアビアは白眉の感がある。聡明で、美人で、行動的で、毅然とした靱さがあつて、それでゐてすこし高飛車で、またそれが嫌らしさではなくて魅力になつてゐて……、などとことばを費したところでどれだけ解つてもらへるかはなはだ心細いのだが、とにかく司馬文学における女性の美点を集めてつくつたやうなこの女を語らなければ、『韃靼疾風録』の魅力なんぞをいくら解説しても意味がないだらう。 例へば、主人公の庄助とアビアがはじめて出逢つたときの挿話。飢ゑたアビアの手に庄助が鯣を載せてやると、臭ひを嫌つた彼女は容赦なくそれを火のなかに投げ捨ててしまふ。庄助が執拗に勧めるが、アビアは決して食べようとしない。韃靼公主らしい気位の高さを描いた場面だが、不思議とそれが嫌味な高飛車ぶりではなく、むしろあとで庄助が「二歳の牝鹿のように」と評する、若い女に特有の魅力的な野性味にさへ感ぜられるのだ。そしてだからこそ、好意を無にされてもなほ庄助がこの御寮人を崇めつづけるといふ、奇妙な状況にはじめて納得がゆくのである。 あるいは、ふたりが大陸に渡り、毛文竜といふ明人の海賊のもとで暮しはじめ、互ひに憎からず思ひながらも、しかしきつかけのないままに、御寮人と従者といふ関係が崩れないでゐるある夜のこと。アビアは庄助に「おぎょうぎがおよろしいことでありますこと」といふ小生意気で、挑発的なひとことをなげかける。それだけなら恋愛を扱つた小説にはありがちな挿話だが、司馬遼太郎の司馬遼太郎たる面目は、これにつづく場面に尽くされてゐるといへるだらう。アビアの皮肉に気づいた庄助は、前後を忘れて隣室の彼女のもとにゆき、この勝ち気の塊のやうな女を抱きしめて、トゥタク、ヴァラー、フェファ、といふ三つの女真語(それらの意味するところは小説を参考にされたい)を教へさせるのだが、ここでのアビアの態度が、ほんのついさつきとは別人のやうに可憐で、愛らしい。女はもう一歩関係を深めたくて、けれどもみづからそのきつかけをつくる勇気がないために男にそれを求め、求めてゐるのに気づいてもらへない悔しさが喧嘩腰な態度になつてしまふのだが、作者はそこにもうひとつ、「なんとしてもこの恋を成就させたい」といふアビアの可憐で真摯な願ひを加へることで、彼女の魅力がいつそう際だつてゐるのである。 このふたつの場面からアビアの性格のやうなものを抜き出すとすれば、それは、貴族らしい誇りの高さとそれにともなふ気のつよさ、さらには心から庄助のことを想ふ可憐さであらう。高飛車なだけならばそれはごくつまらない女でしかないものを、驕慢さを形づくる気のつよさが可憐さといふ性格によつて裏打ちされることで、彼女の気位の高さはむしろ清々しい精神の風韻を帯びてさへゐる。いはば三つ性格のそれぞれが引き立てあふことで、欠点を互ひに補ひ、魅力を完璧なものに仕上げてゐるのだが、ここで司馬遼太郎の従来の作品を振りかへつてみるならば、じつはこの三つの性格的要素は、彼の小説に登場する女性たちに多かれ少かれ共通するものであることに、我々は気づく。みづからを高しとする態度と、男に対して簡単に屈服しない勝ち気さ、そしてひとたび惚れてしまふとどうしてもおさへられなくなつてしまふといふ愛らしさは、佐那子やお雪さんを形作るうへでの不可欠の材料ともいふべきものなのであつて、むろんひとごとにその配分の違ひはあるにしても(例へば、佐那子は勝ち気さが多めで、お雪さんは愛らしさがまさつてゐる)、おほまかなところがこれら三つであることには変りがない。そして彼女たちが、古風な女性観の持主たちにとつてはいささかお転婆に感ぜられる理由もまたここにあるのにほかならず、なにしろいくぶんかは気位の高さと勝ち気さが混つてゐるのだから、どうしても男を圧倒するやうな性格の女性になりがちなのである。 さらに驥尾に付していふならば、アビアが司馬文学最高の女性であるといふのもまた、ここらあたりに理由を見つけだすことができるのではないだらうか。例へば佐那子やお雪さんと比較してみると、彼女たちの気位の高さや勝ち気さがただ単にその性格に根ざしてゐるものとして描かれてゐるのに対して、アビアのそれは、むろんこの女の性格に原形を見出すことができるにしても、半ば以上は彼女がおかれてゐる状況と運命によつて、いはば後天的につよまつたものであるとして描かれてゐるといへるだらう。彼女の魅力的な驕慢さには、数奇すぎる状況におかれた若い貴族女性がせいいつぱい張つてゐる虚勢としての面があることを、我々は否めない。そして、なればこそ、あの、庄助がひと押しすると急に気弱になつてしまふ彼女の可憐さ、愛らしさが、一見相反するもののやうに思はれる気位の高さと勝ち気さにすんなりと結びつき、ひとつの有機的な繋りを持つて読者の前に提示されるのである。 ここにおいて、我々は司馬遼太郎の物語作者としての才能に瞠目せざるを得ないのであつて、まつたくの虚構だと思はれるアビアといふ女(もしかすると、彼のほかの小説のやうに実在の人物であるか、あるいは原型のやうな人物がゐたのかもしれないが、それは読者にとつてはなんの興味もないことである。我々が愛するのは司馬遼太郎のアビアだからだ)を描くうへで、韃靼公主がはるか平戸の浦まで漂流するといふ、いかにも不羈奔放な、見やうによつては荒唐無稽な、想像力を働かせることによつて、彼女をじつに魅力ある女性像へと仕上げてゐるのだ。むろん韃靼公主といふのは、『韃靼疾風録』といふ、この壮大な叙事詩の舞台を設定するうへで必要な、四海の志を表現するための手段のひとつだつたにはちがひなからうが、しかし我々読者には、ひよつとすると司馬遼太郎は、アビアといふ女を描くために韃靼公主といふ設定を作り上げ、韃靼公主である以上は日本、女真、明の三国にわたる物語にせざるを得なかつたのではないのか、といふ逆転の発想(あるいは妄想)も許されるわけで、それがまんざら妄想でもなささうな理由として、「女真人来り去る」といふ長い長いあとがきに記された、アイシンカクラ愛新覚羅ウラシチュン烏拉煕春といふ満洲族の女性の新聞記事が『韃靼疾風録』を書きつぐ作者に忘れがたい印象を残した、といふ挿話を挙げることもできるのである。そして、さういふ意味においては、やはりアビアを語ることが『韃靼疾風録』を語ることなのかもしれない。
2006年11月22日
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京から江戸へ 『花咲ける上方武士道』『竜馬がゆく』のなかで、この奔放な主人公が愛読する書物として唯一名前が挙がつてゐるのは『東海道中膝栗毛』である。西郷の座右の書が『資治通鑑』で、松陰のそれは『孟子』であることを思へば、いかにも竜馬らしい選択なのだが、ならば『膝栗毛』のどこが竜馬らしいかといへば、それは、この本が人生や歴史の哲学ではなくて、世間の智慧を教へるためのものであるといふ点ではなからうか。現代の我々は、弥次喜多道中といへば通俗的な読み物だと思ひがちなのだが、もともとこれは東海道を上り下りする旅行者のための手引書といふ、きはめて実用的な意味あひがつよい書物であつて、読者たちは楽しみながら宿場ごとの名物や風俗を覚え、五右衛門風呂の入り方や宿屋の仕組みといつた知識を身につけてゐたのにほかならない。これを一読すれば世間の実態は手に取るごとく、人情風俗にはじまつて経済や社会情勢にいたるまでを世話にくだいて教へてくれる解説書としては得がたいものであつて、志士のなかでも世話人情と経済に人一倍すぐれた感覚を見せた竜馬が愛読書にしてゐるといふのは、嘘か真か知らねども、なかなか卓抜な設定といへるだらう。とかく武家方などといふのは世間に疎く、疎いがうへに『資治通鑑』や『孟子』なのだから、尊皇攘夷がどうの、公武合体がどうの、といふ話柄につよくても、諸式高騰やら宿場のさびれやらにははなはだ理解力が乏しいのであつて、だからこそ竜馬といふのはやはり毛色の異つた男だつたのだが、さて、世の中には上には上があるもの、この『花咲ける上方武士道』には志士諸君なんぞよりさらに『膝栗毛』の世界から遠さうな主人公が登場する。すなはち、四位の少将高野則近そのひと。 時は幕末、風雲急を告げるにはいまだいくばくかの間はあるものの、すでに獅子王院宮尊融法親王あたりを中心に、京都では朝廷の威信恢復を賭けた地下運動が兆しはじめてゐるころ。ところが二百六十年の長きにわたつて政治から遠のいてゐた公家たちには、世間の実態、武家の在り方、社会の動向、すべてに疎々しく、まづなによりも敵情視察が第一と、大坂の薬屋へ養子にいつてゐた則近を呼びもどし、秘密裏に公家密偵使なる使命を授けて東下りを命ずる、といふのが粗筋だが、そこに美男の剣士を主人公にした小説らしく、薬屋の姪のお悠、尊融の妹である冬子内親王、さらには則近をつけねらふ幕府隠密の女首領千織の三人からなる色模様が加はり、海道の風俗、人情の機微が風情たつぷりに添へてある。若書きの作品らしく、話の展開や登場人物の扱ひかたに相当荒つぽいところがある作品だが、前へ前へと読者の興味を引つぱつて倦ましめないふしぎな魅力にあふれてゐるのは、さすが司馬遼太郎だらう。 が、この小説のおもしろさは、則近少将に代表される物語としてのそればかりではない。さういふ娯楽的なおもしろみのほかに、もつと知的で、読者の興味を満足させるやうなおもしろみが用意されてゐるのである。いや、おもしろみといつてはすこしちがふやもしれず、それよりはむしろ『膝栗毛』の手引書としての側面を、作家の博識によつてうんと高等にしたところに由来する知の喜び、とでもいふべきであらうか。 京から江戸へ、百数十里の長旅のあひだに、則近はずいぶんと世間の有様、社会の実態といふものに触れてゆく。まさしく獅子王院宮のねらひどほりといふべきで、例へば、庄野宿に欲得まみれの公家道中を観察し、興津宿では武家株の売買ひに関する知識を得、小田原宿においては御数寄屋坊主の実状を瞥見するのだが、そこはそれ娯楽小説の娯楽小説たるところ、かうした話題に則近のからむ挿話がしつかりと展開され、小説家としての司馬遼太郎の技量が遺憾なく発揮されてゐる。そして、それらの経験をとほして、四位の少将は世間の智慧とでもいふべき雑多な知識を増してゆくのだが、ここで重要なのは知識を増すのが則近だけではないといふことであつて、じつは則近の物語を読みながら、読者もまた、かうした江戸時代特有の知識を、司馬遼太郎の微に入り細を穿つた説明によつて身につけてゆくのにほかならない。それはあたかも、弥次喜多が膳の上にある石を食べようとして悪戦苦闘する話を読みながら、読者たちが蒟蒻を焼石にあてて水分をとばしてから食べる風俗があることを学ぶのに似てゐて、物語を楽しみながら同時に啓蒙的な恩恵を受けるといふ点において、『花咲ける上方武士道』といふのはまさしく『膝栗毛』の伝統を受継ぐ作品であるといふことができるだらう。我々は、世事に疎いお公家さんが世間の智慧を身につけてゆく物語を楽しみながら、一方で、小説中の人物といつしよにさまざまの知識を得てゐるのである。 しかし、このやうにいひきつてしまふと、この小説の魅力のなかでもいちばん大切なものが抜けしまつてゐるのにほかならず、私としては、則近少将が狂言廻しとして弥次喜多の正統な子孫であることを主張すると同時に、彼が『膝栗毛』よりも幾分か高級な世界の住人であることをいはねばならない。高級、といつても文学作品としてのどれではなく、ここで問題にしたいのは、これらふたつの作品がその同時代的な社会の状況においてどんな位置をしめてゐたか、といふことであつて、具体的にいへば『膝栗毛』は娯楽読み物兼東海道の案内書であり、『花咲ける上方武士道』は歴史小説兼江戸時代案内書であつた。すなはち、先ほど述べたやうに、どちらも読者に啓蒙的な恩恵を及ぼす娯楽読み物であることには変りはないだらうが、一方で、弥次さん、喜多さんが同時代において役に立つ知識を与へてくれたのに対して、我らが則近少将が与へてくれるのは古色蒼然たる前代の知識にほかならない。つまりこの小説につめこまれてゐる知識は、知つてゐて世間を渡りやすくなるわけでもなく、仕事がうまくゆくわけでもなく、ましてやなにかの得になるわけでもない、はなはだ無意味なものなのであり、そしてそれゆゑに、純粋な知識欲によつて求められるべきものなのである。いはば、『膝栗毛』による啓蒙が手引書や教則本によるものに似てゐるとすれば、『花咲ける上方武士道』の方は歴史や理論物理学の研究書のそれであつて、後者の方が実生活から間遠い知識を与へてくれるといふ点において、より高級な本であるといふことは万人の認めるところである。 考へてみれば、知の喜びといふのはいつも『花咲ける上方武士道』ふうな知識の吸収によつて起こるものであるやうだ。なぜならば、知の喜びなるものはほんらい暇つぶしの手段としての必要から生みだされるものであり、無意味な知識のために時間を割くといふ贅沢さによつてしか得られないものだから。そしてさういふ意味においては、この小説のなかで則近少将が探索を命ぜられた、海道ぞひのさまざまな世間の智慧といふやつは、百数十年後をを生きる我々読者にとつて、申し分なく最上級の贅沢さにほかならない。我々が、公家道中や、武家株の売買や、御数寄屋坊主のことを知つてどうなるものでもないのだが、そのどうにもならなさによつてここにはたしかに知の喜びが存在してゐる。時空を越えた東海道の旅人たちだけに許される、喜びが。
2006年11月21日
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竹刀と青銅砲 『おお、大砲』 むかし、体育の剣道の時間に、竹刀をまたいで叱られたことがある。武士の魂、とまではいはなかつたが、さういひたさうな口ぶりで教師から小言をくらひ、そのとき以来、私は彼をむやみと軽蔑するやうになつた。 道具といふのは本来ただのものにすぎず、そこにどんな精神性も、ましてや神聖さもないのであつて、さういふものを付加するのは愚かな行為にほかならない。竹刀の扱ひにはじまつて卒業証書は必ず三拝しておしいただけといふ下らない指示に到る、このばかばかしい日本独自の(と思はれる)風習を見かけるたびに、私は得々とそれを語る人間を嫌悪し、ものを知らない連中だと決めつけ、さらにはまるで旧日本軍ではないかと気味わるく思つてしまふ。いふまでもないが、旧日本軍といふのはこの陋習の巣窟、あるいは温床であつて、師団旗や日の丸なんぞを神聖不可侵の目で敬仰してみたり、木口某が戦死すると喇叭に精神性を見出してみたり、配属将校が奉安殿と教育勅語と天皇の写真をやたらとありがたがつて、しかもそれが学校の生徒にまで伝染したり……、とにかく阿呆としかいひやうのない精神風土を持つてゐた。ことに武器をやたらと神聖視する悪癖があつて、三八式歩兵銃に菊花の紋をいれて陛下の下賜品であるともつたいをつけ(そんなの当然ぢやないか。徴兵されたうへに武器を自前で用意しろなどといふのは、もはやぼつたくりである)、もし万が一どつかでなくしてこやうものなら日本精神に欠落があるのだ決めつけるやり方は、まさしく竹刀は武士の魂とのたまひたげな件の教師に一脈通ずるものがある。 これがなぜ悪癖なのかといへば、ものに精神性を付与し、神聖視しはじめると、その精神性や神聖視そのものが目的となり、道具としてのものがもつてゐる本来の目的がどうでもよくなつてしまふからにほかならない。例へば、三八式歩兵銃は神聖である、神聖であるから優れてゐる、優れてゐるからその有効性は疑ふまでもない、といふ意味不明な三段論法によつて、日本軍は武器の改良を怠り、三八式歩兵銃本来の目的であるはずの武器としての有効性はなほざりにされた。あれは、第二次大戦においてはほとんど廃品に近い性能だつたのだが、軍は菊花の紋をいれることで性能論を遠くにおしやつたのである。竹刀の問題もいつしよ。江戸時代の剣客は自分に都合のいいやうに作つたからじつにさまざまな種類の竹刀があつたが、あの体育教師のやうに竹刀は神聖だといふ観念に凝りかたまつてしまつては、自由に寸をいぢつたり、改良したりするといふことが不可能になつてしまふ。神聖であるといふことは、その時点でほかの議論や客観的なものの見方を寄せつけなくなつてしまふのである。『おお、大砲』といふのは、さうした道具の神聖視を皮肉に描いた小説であるといふことができるだらう。これに出てくるブリキトースといふ青銅砲は、大和高取藩といふ聞いたこともないやうな小藩に家康の大坂城攻め以来伝はる品で、なにしろ権現さま由来の品だから、江戸時代にあつてはもうそれだけで神聖なのものにほかならない。それを、一門につきひとりの大砲方が代々管理してきたのだが、この小説の舞台である幕末のころになると、それはもはや技能者としての管理といふよりは聖職者としての奉仕に近くなつてしまひ、誰もそれを武器とはとらへず、ほとんど神格さへ帯びてしまつてゐるといつてもいいだらう。例へば、主人公の中書新次郎は、ちひさいころに隣家の笠塚といふ大砲方によつて私的にこの青銅砲を見せてもらふのだが、なんと見物のまへにお祓ひを受けなくてはならないのである。幼い新次郎はこのことに強烈な印象を受け、侵しがたい崇拝の念に似た気持を抱くわけだが、しかし物語が進み、主人公が成長してゆくうちに、大砲に関する彼の感情はすこしづつ変容してゆく。 その契機は、笠塚家の妙といふ娘によつて性的ないたづらを受けたことだらう。成人後も、新次郎の心のなかではこの甘美な思ひ出が重要な部分を占めてゐる。小説のなかに出てくるのはそこまでだが、想像によつてもう一歩彼の心理に踏入るとすれば、この経験によつて新次郎のなかで大砲と性的なもの(具体的には、ほのかな慕情を抱いてゐた妙)が結びつき、神聖なものとしてではなく、動物としての生理に根づいた、自然で、卑近で、愛しいものとして、認識されるやうになつてゆくのだ。あたかも、経験を経るにしたがつて、女性といふ対象が侵すべからざるものから、親しくて愛しいものへと変化してゆくやうに、彼の意識のなかにおいては青銅砲もまた、卑近で、かはいらしいものとしてうつるやうになつてゆき、とうとう自分が妙の婿養子として迎へられたことによつて、この精神的な変容は頂点に到る。新たな笠塚家の当主は、神聖不可侵の意識ではなく親愛の情によつて大砲を見、妻をいとほしむやうにしてその使用法や構造の仔細を明らかにしてゆくのにほかならない。むろん、小説のなかでは新次郎が大砲に熱中する理由として、彼が笠塚家から大砲の使用法を伝授されたといふ誤伝(例の大砲見物が誇大に噂されたものらしい)に基いて藩命により養子縁組が整つたため、といふ理由が挙げられてゐるが、それは表面的なものにすぎないことはいふまでもないだらう。それは、新枕の場面で夫婦の睦言に大砲が出てくることを見てもあきらかなのであつて、この小説のなかではたしかに大砲が妙と重ねて描かれてゐるのだ。 この、神聖とは対極的な大砲への感情が、小説の結末部分へとすばらしい繋り方をすることになつてゆく。なんの因果か高取藩は吉村虎太郎率ゐる天誅組に襲はれ、二百何年かぶりに青銅砲のお世話になることになつてしまふのだが、この大事な場面に、ただの道具であつたはずのものを神聖視してきた累代の大砲方は、火薬の調合がをかしかつたり、照準の方法が正しく伝承されてなかつたりで、結局なんの役にも立たず、新次郎の指揮した一門だけで天誅組を壊滅させてしまふ。権現さまの砲は神聖だ、神聖だからなにはともあれ性能にまちがひはない、といふ思ひこみに胡座をかいてゐた連中が、卑近さと親愛の情にささへられた新米の大砲方におくれをとつたのである。 先にも述べたやうに、ものごとに神聖さを付与するといふことは、すべての議論を封じてしまふことにほかならない。あるものが神聖であると思つた瞬間から、対象ははるか彼方へと遠ざかり、手の及ばないところに位置を占めるてしまふ。神聖さの神棚に載せられたものは、人間の行為や働きかけとは無縁の、それ自身で完結したなにごとかにすぎなくなり、さうしたものを客観的で平明な視点から見つめることは、もはや不可能になる。そして、それゆゑに三八式歩兵銃は永遠にあの廃品同然の性能のままであり、青銅砲は二百年のあひだにまつたく威力を発揮できなくなるのだ。 そのことを考へれば、我々は、ものに対する感情としてはいささか肉感的でありすぎるやうな気がしつつも、旧日本軍であるよりは新次郎であるほうを選びたくなつてしまふ。ついでにいふと、あの体育の教師でもなくて。
2006年11月20日
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戞 と 『歳月』『歳月』は『翔ぶが如く』と対をなす作品である。そのことはこれらふたつの小説における主人公を見てみれば判ることであつて、すでに江藤新平と大久保利通といふふたりの人間が好一対をなしてゐるのにほかならない。そもそも司馬遼太郎の好む人物の型のひとつに、壮大な構想を秘めて実務にあたる政治家といふのがあるのだが、この両者はそのなかでも最大級の人物にして、そのうへ歴史といふ舞台における好敵手でもあるのだ。 明治初年の政府にあつて日本といふ国の国家構想を持つてゐたのは、江藤と大久保だけだつただらう。大久保が内務省(初期においては大蔵省)の主導のもとプロシア型の中央集権国家を志向し、それを薩長閥が応援してゐたのに対して、江藤は土肥閥の支持によつて司法省を中心としたフランス型(おそらく、だが)の法治国家を目指してゐた。最後には、征韓論の政争を利用して大久保から主導権を奪はうとした江藤が逆に官界から追はれることになるのだが、しかし、ともかくもあの絶大な権力を握つてゐた大久保に対して堂々と戦ひを挑み、まつたく反対の国家観を掲げる男が明治政府に存在したといふのは、驚くべき事実である。まさしくそれは好敵手どうしの息詰る対決といふべきであつて、日本の将来像を賭けた、ある意味では近代社会における最大の政争だつたといつても過言ではない。このときもし江藤が勝つてゐたとしたら、歴史はまつたくちがふ方向に進んでいつたことは確実で、強権、圧政の巨大政権として認識されがちな明治政府の印象は相当ちがつたものになつたのではないだらうか。大久保のやうに外遊の経験もなく、横文字の一行も読めなかつたはずの江藤が抱いてゐたのは、フランス革命の成果をそのまま受継いだやうな法治主義、民権主義の国家構想で、たしかにそこには主導権を奪はれた土肥側の反薩長、反大久保の要素が多分にあつたとはいへ、私などはついつい彼を持ち上げて、江藤型の政権下ならば、自由民権運動も国会開設もさらなる成果をあげることが可能だつたのではないのか、と夢想してしまふ。 さういふところはまさしく『歳月』と『翔ぶが如く』が補完しあふ作品だと主張するゆゑんだが、しかし大久保と江藤が好一対だといふのは必ずしもそれだけの理由ではない。彼らは、歴史上の人物としてのみならず、小説上の人物としてもまたよき対照をなしてゐるのである。 大久保といふのは、協力者や賛同者は多くても信奉者のすくないひとだつた。北洋の氷塊のごとし、といふ評があつたくらゐで、ずいぶんと近づきがたい印象がつよい人格だつたらしいが、さてこの印象がどこから生じたものであるかを考へるとき、そのことが信奉者のすくなさと深く結びついてゐることに我々は気づく。この男にはほとんど感情といふものがないのだ。あるいは、あつたとしてもそれを決して正面に押し出さず、押し出すときには理性へと昇華されてゐる。さう、大久保が他人に見せるのは理性のみであつて、そこには一切の感情を交へることなく、つねに冷静な判断と構想に結びつけられた緻密な計算を持つて他人に接し、国家を経営してゐるのにほかならない。だが、理性は感情よりも高度で正確な判断を可能にするものの、ひとを酔はしめ、信奉者にすることはできないだらう。例へば西南戦争のときの対応がさうであつて、彼は西郷に対する感情ではなく、新国家の護持といふ理性によつて盟友を討つ。しかし、そのことによつて彼はひとびとから嫌はれ、現在に到るまで熱烈な大久保贔屓といふのはほとんど存在しないのである。そして、だからこそ『翔ぶが如く』といふ小説のなかで我々が接する大久保といふ男は、なんとはなしに他人行儀で、北洋の氷塊のやうな印象を読者に与へつづけるのにほかならない。 それに対して、『歳月』のなかに登場する江藤といふ男はあまりにも感情的であるといへるのではないだらうか。この男のなかでは、理性といふものがつねに感情の延長線上に存在するのである。彼の発想の機軸はつねに薩長憎しといふところにあつて、愚鈍な薩摩と狡猾な長州のせいで自分のやうに有能な人材が佐賀閥だといふだけで主流からはづされてゐる、といふ嫉視や不遇感を前提にすることで大久保への反感を生み、それが反大久保型の民権主義的国家構想へと繋つてゆくのにほかならない。 例へば、それを証拠立てるのが、彰義隊に襲はれた小笠原唯八と江藤が語りあふ場面であらう。駕籠に乗つてゐたところを襲撃された唯八は、覗きこむ暴漢の額を刀の鐺で激しく突いて撃退してしまふ。江藤は、なるほど君は豪胆だがそれは匹夫の勇だ、なぜ逃げなかつたのか、と問ふのだが、唯八はそれに対してかう答へる。暴漢は「戞と音を発して倒」れたのだが、あの音は痛快だつた、あの痛快さを求めるためなら斃れるとも本望だ、と。そして江藤は卒然として、要するに自分が薩長を相手に戦ひつづけるのも、理想のためといふよりは痛快さのためではないか、と気づく……。 さう、江藤のなかには抱懐しきれないぐらゐの感情の塊(薩長の連中をぎやふんといはせて痛快さを味つてみたい、といふ)があつて、それを隠さうともしないのである。山県有朋の山城屋事件も、井上馨の尾去沢事件も、たしかに日本を法治国家として育てたいといふ理性に基いて行動したものだつたことは事実だらうが、その一方で痛快さをもとめる江藤の心のうちのなにものかが、彼をしてほとんど偏執的な追求の姿勢をとらせたのにほかならない。そして、そのことに気づくとき我々は、大久保に対するそれとはまつたく別な眼差しを彼に向けることになるだらう。 大久保も江藤も、子供が喜ぶやうな英雄豪傑ではなかつた。いづれも変革期の後半に出てきて、守成期への準備をした人物であつて、いはば官僚的政治家といつてもかまはない。そして、だからこそ大久保はあれほど不人気なのだらうが、どういふわけだか、江藤には大久保のやうにひとを寄せつけない雰囲気が乏しいのである。いや、じつはその理由はもう述べてしまつたのであつて、我々は、江藤の行動がおほもとにおいてつねに感情に根ざしたものであることに気づいてゐるからこそ、彼に親しい、温い眼差しを投げかけるのだ。 さう、彼は大久保に比べればはるかに感情的な男なのであつて、だからこそ、大久保のやうな藝のこまかい策謀に不向きで、政略的な部分においてはつねにすぐ尻が割れるやうな案しか用ゐられないのだらう。さらにいへば、そのほのかな迂闊さが、官僚型政治家特有のひとを酔はせない冷徹さを、毒抜きしてゐるのではないだらうか。大久保が理性によつて処理するところに、江藤は感情から発した理性によつて臨む。あるいは痛快さを求めたいといふ一事によつて生れる理性といつてもよからうが、とにかく、さうした感情から発してゐる分、彼の方がどこかで抜けてゐることが多い。そして、そんな江藤の姿がいくばくかの滑稽さとあはれさを持つて、読者に親しくせまつてくるのが『歳月』といふ小説なのである。 だからこそ、この小説は、『翔ぶが如く』と好一対をなすのであらう。あたかも歴史上の江藤と大久保がさうであつたやうに。
2006年11月19日
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小説の楽しみ方 『木曜島の夜会』 小説にであふ、といひたいとき、私は出逢ふといふ字を使ふことにしてゐる。会ふ、ではなくて。 いい作品にめぐり逢へるかどうかといふのは、いい女に(あるいは男に)めぐり逢へるかといふ問題に似てゐて、数限りない偶然と必然の錯綜のなかで生れる本と自分との接点を見逃すと、永久に知らないどうしになつてしまふ。たまたま本屋の棚でお茶を挽いてゐたのを値切つたとか、旅行中の暇つぶしに買つた雑誌に載つてゐたとか、友達に貸してもらつたとか、とかくいい本といふのはあつといふまに目のまへをよぎるやうな出逢ひ方がおほく、だからこそその出逢ひをしつかり捕へなくてはならない。そのことを思ふと、例へばこの『木曜島の夜会』のやうな本を手にできるのは、やつぱり逢ふといふ字のほうがぴつたりとしたできごとなのである。 そして読者としては、出逢つたといふ事実、出逢ふといふ表現を使はなくてはならないほどとびきりの名作であるといふ事実、それだけでもう充分なのであつて、いい作品をまへにすれば批評者気取りのものいひなどは空しくなつてしまふ。美人に出逢つたときには、出逢つたこと、美人であることにただ驚き、嘆賞すればよく、彼女のどこが美しいのかを一々考へてみるのはじつにばかげたことであるやうに。『木曜島の夜会』といふ小説にしてもさうであつて、なぜこれほどにいいのかといふ問題は無視するほうが正しく、また、それを問題にしてみたところで私のやうな浅学の徒には答へやうもない。とにかく、いい小説に出逢つたな、といふそれだけなのだ。 物語は、南洋のある島に始まる。主人公らしい主人公はゐないが、主要な登場人物として、湊千松、宮座鞍蔵、吉川百次、藤井富三郎といふ四人のひとびとを挙げることはできるだらう。彼らはすべて、木曜島といふオーストラリア領のちいさな島に出稼ぎをしたことがあるのだが、そのうち千松をのぞく三人が同じ仕事に従事してゐた。釦の材料になる白蝶貝を潜水して採るのである。 貝採りは日本人しかやらなかつた(それもなぜか紀州の熊野のある村の出身者が多く、千松も、鞍蔵も、百次も同村のひとだつたらしい)。ほかの民族には不向きな仕事なのか、おなじ時間働いても日本人ほどの量を水揚げできないのだといふ。三人とも優秀な潜水夫で、今でも往事の仕事を懐み、潜水病で体が不自由になつてしまつた鞍蔵でさへ、若ければもう一度やつてみたいと言つてゐる。人工樹脂で釦を作るやうになつてからすつかりおとろへてしまつたこの職業はふしぎな魅力を持つてゐるらしく、小説に登場する鞍蔵の「甥」などは、幼いころ武勇伝を聞くやうな思ひで貝採りの話を聞いたらしい。 武勇伝の主は鞍蔵でもあつたが、それよりも功成り名遂げて村に帰つてきた千松であつた。彼は鞍蔵や百次に兄貴と呼ばれる先輩で、一財産築いて故郷に凱旋し、幸せな結婚をしたのだが、村の子供たちにとつてそんな千松はまさしく英雄だつたといふことができるだらう。ところが物語のなかで、実際には彼は貝採りの潜水夫ではなく、一時船には乗りこんでゐたものの、なにかの事情によつて陸で料理人となり、そこで財を築いたのだといふことがあきらかになる。そして、どういふわけだか彼は日本での生活を措いて木曜島に戻り、そこで横死してしまふ。 ここから小説は現在の視点になり、千松に興味を惹かれた作者が木曜島を訪れるといふ旅行記の体裁になつてゆく。そこで、司馬遼太郎はやはり潜水夫をしてゐた藤井富三郎に出逢ひ、夜会に招待されることになるのだが、後半は二度にわたるこの島の夜会の描写を中心として、そのなかで富三郎といふ人格がさりげなく点綴され(島でいちばんの資産家であること、現地で結婚した妻のこと、事情があつて拘禁中の中国人たちの面倒をみてゐること、今でも大工道具を抱へて病院の修理を請負つてゐること、遠く故郷を離れた地で暮すさみしさのせいか日本人の客を心待ちにしてゐること)、最後は彼の妻が「富三郎の姿をみると、自分はいつもたまらなくなる」と作者にかきくどく場面の、あるひとことで小説に幕が引かれる。 ─“Japanese is a japanese.” (日本人は、どこまでいつても日本人なの) このひとことによつて、木曜島と白蝶貝をめぐつて一見無造作に綴られてきたかずかずの挿話が、まるでばらばらになつた宝石を糸で貫きとほすやうにしてひとつになる。司馬遼太郎が『木曜島の夜会』のなかで描かうとしてゐたのは、木曜島でも、貝採りでも、潜水夫でもなく、日本人たちの姿だつた。この細長い恰好をした島国に住んでゐるひとびとのうち何人かが、南洋のちいさな島をめぐつて繰りひろげた哀歓。それだけがこの小説の主題であつて、ことばをかへれば、千松、鞍蔵、百次、富三郎といふ四人の日本人たちの人生そのものが作品の骨格をなしてゐるのにほかならない。そして、そこからふしぎな香気がたちのぼつてゆく。 が、この小説の風韻をまへにして、そんなことをいつたところでなんになるだらうか。どんなにことばを費してみたところで、『木曜島の夜会』といふ、この百頁足らずの作品のよさを伝へたことになりはしないだらう。 私の書架にあるこの本は、神戸の本屋で、いささか日に焼けた背表紙をして棚に並んでゐたやつを買つたものである。たしか従姉の結婚式のあとだつたのではないかと思ふのだが、列車の時間まですこし間があつて、そこら辺をぶらついてゐるうちに見つけたもので、京都まで帰る一時間あまり(だつたと思ふ)のあひだ夢中になつて読みついだ。 読みながら何度も感心し、ひよつとしてこれは司馬遼太郎の作品のなかでも一、二を争ふやうな名作なのではないのか、と勝手に番付を決め、さらに私には珍しいことに、同じ小説を繰返して二度読み、いよいよ讃仰の念を深めたのだが、ふしぎなことにそのとき、この小説のどこが魅力の源泉になつてゐるのだらう、といふ讃仰者なら必ず抱くはずの疑問を、私は微塵も感じなかつたのである。いや、それは感じないといふよりは、あたかも最初からさういふ疑問そのものがこの世に存在しないかのやうな強固な印象といふべきものであり、これはいい小説なのだ、といふ絶対的な意識が私のうへにのしかかつてゐたのにほかならない。さう、この小説のやうな名作は批評の必要もなくなるほどに絶対的な存在感を持つて読者のうへにのしかかつてくるのだ。そしてそのことを思へば、『木曜島の夜会』にふさはしいのは筋の説明や批評の試みなどではなく、むしろ右のやうな、溜息まじりの讃歎であるだらう。 ちなみにいふと、このとき結婚した従姉は、私の知つてゐるうちでも最上の美人のひとりなのだが、小説同様、彼女についても賢しらな美人論は要らない。さう、素晴しきものには讃歎を!
2006年11月18日
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一九四五年へ 『この国のかたち』 1 明治憲法がいはゆる英国型の君主制を採用し、実質的には三権分立の近代的なものであつた、といふ説にはさまざまに異論がある。が、憲法自体がどうであつたかはともかく、大正から昭和初期までの法学において主流となつた憲法解釈、すなはち美濃部達吉の天皇機関説によつて解釈すれば、たしかにこれは「君臨すれども統治せず」ふうの国家体制であつたといはざるを得ないだらう。そして重要なことに、これは大正から昭和の初期にかけて政府公認の学説であつて、上は高等文官試験および司法試験から下は中学校の公民の期末試験に到るまで、すべて美濃部説が正当なのだとされてゐた。 それを昭和軍閥はあつさりと否定してしまふ。統帥権が天皇大権であるといふ憲法上の規定を利用して、これを三権のいづれからも独立した天皇直轄の神聖不可侵なものとして位置づけ、さうすることによつて政府と議会をいいやうに引きまはしたのである。 これを司馬遼太郎は「鬼胎の時代」と呼び、十五年戦争における軍部の暴走はすべてここに遠因を発するものであると説明した。ここでは「「統帥権」の無限性」(『この国のかたち』のうちの一章)より。 明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権(立法・行政・司法)分立の憲法だ ったのに、昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついに は三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、 事実上かれらの参謀たち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが「所有」していると 信じていた。 軍はこの「鬼胎」を最大限に利用したのである。 その第一が軍部大臣現役武官制といふ制度であつて、彼らはこれを用ゐて時の内閣にゆさぶりをかけた。一時は廃止されてゐたはずのこの制度においては陸相と海相は必ず現役の軍人でなくてはならず、現役武官は参謀本部の統制下にあるために実質上は参謀本部によつて大臣が推薦され(軍部大臣の任命は統帥権の範囲内にあり、天皇に代行して参謀本部がこれを行ふ、といふ理窟である)、首相の自由にはならない仕組みになつてゐて、大臣が揃はないと内閣は流産することになるからいきほひ政治家は軍の鼻息をうかがふことになつてしまふ。軍縮推進を掲げた宇垣一成に組閣の内命が下つたのを流産させたのも、広田弘毅内閣で吉田茂の入閣を「親米英派だから」といふ理由で拒否したのも、このやうな手妻の種があつたからこそだといへるだらう。当時の軍部といふのはかうしたならず者か破落戸のやうな品のない脅し(「俺らの要求が呑めねえなら、大臣推薦せずに内閣つぶすぞ」といふ)によつて強面ぶりを維持してゐたのである。 第二には帷幄奏上権といふものがあつて、軍事に関しては天皇と参謀本部のあひだでぢかに相談することができる(内閣の干渉なしで)制度が、これもまた統帥権は天皇大権だからといふ理由によつて生れ、さかんに用ゐられた。天皇とぢかに相談、といつても参謀本部が一方的に奏上するだけであつて、要するに軍は内閣を無視して勝手にやつてよろしいといふお墨付のやうなものである。これによつて参謀本部の立てる計画は議会や内閣に一切漏らさず、参謀たちの責任追及もできないといふ風習が確立し、だからこそ柳条湖事件や盧溝橋事件のやうな軍部の独走が可能になつてゆく。 これらの諸制度は、むろん美濃部説のもとでは違憲か、もしくは限りなくそれに近いものであらう。が、「鬼胎の時代」にあつてはいづれも合憲的な手段によるものであつて、軍人たちは「統帥権は天皇大権であり、親政すべきものであるがゆゑに、参謀本部は幕僚として天皇を支へ、議会、内閣、そのほかの批判にまどはされることなくこの戦争を遂行するために、彼らの干渉を一切封ずる」 といふ独自の憲法解釈をお題目のやうに唱へることによつて国家を私物化し、作戦と名づけるのが烏滸がましいやうな計画を遂行し、数限りない国民を無意味に殺しつづけたのにほかならない。 ここで重要なことは、たしかに彼らの憲法解釈は異常であつたが、しかし誤つてゐるとはいへず、憲法解釈の相違にすぎないといふ点だらう。憲法の本文だけを見たときに、美濃部説が正当であるやうに、参謀本部お手製のこの解釈もまた正当なのである。すなはち明治憲法といふ母胎には潜在的に軍部の独走を許す鬼つ子が宿つてゐたのであつて、司馬遼太郎の「鬼胎」といふことばはまさしくその間の事情をするどくゑぐり出してゐるのにほかならない。 だが、この作家の追求はそれだけでは終りにならなかつた。以下、『この国のかたち』(ことに昭和初期に言及することの多いその第一巻)に依拠しつつ、彼のいはゆる「鬼胎の時代」について考へてみる。
2006年11月17日
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2 しかし、一九三一年から一九四五年までの日本社会は、あれは日本だつたのだらうか? ─あんな時代は日本ではない。 と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。 日本史のいかなる時代ともちがうのである。 と、司馬遼太郎が「「統帥権」の無限性」の章で述べてゐるやうに、あの時代を牛耳つた軍人や政治家たちは、我々の歴史のなかに登場するいかなる人間たち─信長や、竜馬や、紫式部や、漱石や、空海や、親鸞や─とも異質な連中だつた。その恥づべき異質さを思へば、灰皿どころか土鍋か薬罐のひとつやふたつを叩きつけてもかまはないくらゐである。 司馬遼太郎にとつては、この憤りに彩られた昭和初期の異質さの探求こそが畢生の文学的主題でありつづけたといへるだらう。彼はそこから、日本の本質とは昭和初期のあれなのか、それともそれ以前の『竜馬がゆく』や『空海の風景』のあれなのかといふ疑問を設定し、それを解きあかすために膨大な量の小説を書きついだのにほかならない。そしてその最終的な答へとして我々に与へられたのが『この国のかたち』といふ評論なのである。 ここでは、「日本の「近代」」の章を取上げてみたい。 このなかで彼は、江戸時代を日本の近代としてあつかふ。近代社会の条件として、人間に質と量をはかる能力を与へた商品経済の発達、それにともなふ政治および宗教における権威の失墜、さらに個人の独立と合理主義的思想の勃興などを挙げ、そのいづれもが江戸時代にあてはまるとして、精密な例を述べてゐる。ことに作者が重視してゐるのは、従来は封建主義体制のなかで自由な思想が抑圧されてゐたとされてきた江戸時代の合理主義的思想であつて、古文辞派によつて実証学的な儒学をうち立てた荻生徂徠、東北農村にあつて原始共産主義ふうの学説をなした安藤昌益、自然科学と弁証法的発想によつて独自の論理学を形成した三浦梅園、仏教教典の成立時期を緻密に検証した富永仲基、無神論を唱へた山片蟠桃などを列挙しつつ、観念や思弁性によつてではなく、商人が商品を評価するやうな平明な眼でものを見る思考律の尊さを暗に語つてゐるといへるだらう。 考へてみれば、昭和初期の軍人や政治家たちといふのはかうした近代性とはまつたく逆の発想しかしてゐなかつたのではないだらうか。彼らには、司馬遼太郎が名前を挙げたやうな合理主義的思想家どころか、江戸期の大坂の一商人程度の近代主義も見あたらないのであつて、自民族の神聖性といふ古代的な信仰にすがりながら国家を滅亡の瀬戸際まで追ひやつたのにほかならない。武器の拙劣さを精神性で補へといひ、歴史的には虚妄の説でしかない天皇の万世一系を謳ひあげ、日本の大陸侵略が東方民族の幸福に繋るといふ嘘をぶちあげた軍人や政治家たちには、彼我の戦力を分析して情勢判断をする程度のこともできなかつたのである。満洲事変は国際社会で相当の反発をくつてゐる、東南アジアに進出するには大艦隊が必要になるにちがひない、アメリカの国民総生産は日本の数倍だ、といつた客観的な情報から「この戦争は避けたほうが無難だ。やつても負ける」といふごく簡単な予測を、導き得なかつた軍人と政治家たち。こんな阿呆が、徂徠や、梅園や、仲基の子孫であつてたまるか。日本人の本質であつてたまるか。我々はあくまで徂徠の子孫であつて、かかる愚かな軍人や政治家の子孫ではない。昭和初期は、日本史の連続性の上でではなく、断絶性の上で語るべき異質の時代である。そしてそのことを思へば……、もう一度いひます。灰皿でも、土鍋でも、薬罐でも、とにかく手元にあるものはなんでも叩きつけたくなつてしまふ。 むろん「日本の「近代」」においては、温雅な司馬遼太郎はそこまではいはない。事実を冷静に挙げ、科学的な(それも自然科学的なほどの)態度でしつかりと叙述してゆくのみである。私がここで書いたやうに、軍部の異常性と江戸といふ近代社会を性急に結びつけたりもせずに。しかしさうした冷静さの裏に透絵のやうにして見えるものは、まぎれもなく「鬼胎の時代」の断絶性なのだといへるだらう。 章の後半になつて、作者はこんなことをいふ。日本における近代とは、ここで述べてきたやうな江戸時代の近代性の萌芽を受継いで発展させたものではなく、むしろそれらから断絶し、十九世紀のヨーロッパにおける学問や技術といふかたちで輸入しただけのものであつた。だからその物質的な面は根づいても、精神的な系譜は遊離したままで、せいぜいが教養的なものでしかなく、商人が商品を評価する平明な眼差しといふふうな具体的精神風土として明治以降の日本人に宿ることはなかつたのである。そしてそれゆゑに、昭和初期の軍人や政治家には真の意味での近代主義が存在しなかつたのではないか……。 『近代の超克』というのは戦時中(昭和十七年)の知識人に衝撃を与えた意見群 である。戦後、そのタイトルだけが独り歩きし、軍の戦時指導に調整的な役割を はたした意見群としてずいぶん評判をわるくした。 このタイトルは、河上徹太郎がつけたという。このタイトルのもとに、小林秀 雄や亀井勝一郎、西谷啓治、林房雄、下村寅太郎らの諸氏が参加した。 ……(中略)…… 論文篇のなかで下村寅太郎が「我々が「近代」と称してゐるものはヨーロッパ 的由来のものであり、少くとも今日それの超克が問題にされる「近代」はその外 には存しない」と書いている。また河上徹太郎が、座談会篇のなかで「僕の考へ ぢや、ヨーロッパ十九世紀の分析といふやうなことから入つて行くと、結局吾々 はヨーロッパ文明に依つて教育されて来たので」と、受けた教育を中心に近代を 述べてゐる。 たとえば「三八式歩兵銃を何十万挺ならべたつて、世界を相手に戦争はできま せんよ」といった具合のガラのわるさでもってたれも近代を語っておらず、まこ とに痛ましいほどに品がよく、教養的なのである。 ここで彼が皮肉つてゐるのは、ひとり彼ら知識人たちだけではない。その背後にあつて、一度も三八式歩兵銃をガラわるく語ることなく、あやふやな教養的近代性(いひかへると、結局それは近代性など持ちあはせてゐなかつたといふことである)によつて、社会を実際に動かした戦中の指導者への痛烈な批判が、籠められてゐる。
2006年11月16日
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