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今月は、カレンダーにない言葉の紹介です。☆☆☆☆☆☆☆感性論哲学とは(1)☆☆☆☆☆☆☆感性論哲学は、新しい生命観・人間観を基礎に成り立っています。私たち人間の目的は、人間らしい人間になることであり、本当の人間らしい人間になるためには、どうすればよいのかを明らかにしています。感性論哲学では、本物の人間を目指す上で、人間の能力の中で感じる力、つまり「感性」という存在が持っている能力・原理というものを人生や人間の生き方において非常に大事なものだと考えています。「感性」が持っている基本原理は自己保存の欲求・種族保存の欲求から出て来る人間的な生き方の原理、すなわち人間は意志を実現し、愛を実現するということであり、この二つを実現することを通して、人間は初めて本当の意味での幸福が実現できると提唱しています。「感性」が持っている能力は、実は「求感性」(ぐかんせい)という能力が本質です。これは感受性とは異なるものです。「感性」は、「感性の3作用」と呼ばれる調和作用・合理作用・統一作用という作用を持って存在しています。「感性」は、この能力によって、ある状況の中で何が一番適切な行動であるか、何が一番適切な言葉か、あるいは優れた判断であるか、それを常に探り求めながら活動しているのです。「感性」は常に真実なるものを求め感じる力、本物を求め感じる力。感動を求め感じる力、人間において本当に素晴らしいものを求め、感じる力として働いています。意志を実現する“自己実現”、愛の実現による“素晴らしい人間関係づくり”、そして、そのための行動に際しても「求感性」と3作用の力を働かせながら本当に納得できる、本当に心を満たす、そういうものを最後の最後まであきらめることなく求めて行きます。そして「これだ」というものをつかむ模索的な活動として感性の求感性と3作用を使います。“コツ”とか“カン”とか呼ばれているものはこの3作用の働きです。そのコツ、カンというものを求感性の働きと一本化せることによって、本当に心を満たす、本当に自分を納得させるものを求め続けていく、そういう生き方をしながら本物の人間の生き方を求めて行くところに感性論哲学の存在意味があります。(明日に続く)今日も素晴らしい一日でありますように!芳村思風先生 「だいじょうぶ日めくりカレンダー」より壁掛け型です。 縦 26cm × 横 14cm言葉は、芳村思風先生。 携帯版のホームページができました。よかったら見てくださいね。パソコン用新しいホームページよかったらお知り合いにもこのメルマガをご紹介ください。下のアドレスに空メールを送ると登録できます。●メルマガ登録用アドレスaM0091267@mobile.mag2.com<芳村思風先生の勉強会>8月 19日(土)岡山思風塾8月22日(日)大阪思風塾10月30日(土)思風塾全国大会詳細
2010年08月09日
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「義風清心」芳村思風先生が自分のために考えた言葉。この言葉は、自分自身を奮い立たせる言葉だそうです。サインにもめったにすることはありません。昨年、ある雑誌に書かれた芳村思風先生の文章です。15歳のとき、自宅の父親の書棚にあった「菜根譚」という本を見つけた。明の時代に「洪自誠」という人物が著した終身処世の訓戒が語られている前集225条、後集134条からなる本。第1条の文章の語調と誤記の内容の崇高さにゾクゾクした。「道徳に棲守(せいしゅ)するものは、一時に寂寞(せきばく)たり。権勢に依阿(いあ)する物は、萬古(ばんこ)に凄涼(せいりょう)たり。達人は物外(ぶつがい)の物を観、身後(しんご)の身を思う。寧(むし)ろ一時の寂寞(せきばく)を受くるとも、萬古(ばんこ)の凄涼(せいりょう)を取ることなかれ。」道徳に棲守することは、単純に道徳を守るということではなく、人の道に外れないで動議を重んじる生き方を意味している。世の中の倫理道徳や規則にしばられて、堅苦しい窮屈な生き方をしている。いわゆる善人根性の持ち主は、人情の機微をしらぬ堅物であり、小人である。道徳に棲守することは、常に人間として血の通った温かな心をもって人の道に外れない生き方を自律的に求め、模索しながら生きるということである。ちっぽけな心の持ち主である小人は、自らの不完全さを棚に上げて、自らを正しい善人と思い、わずかなことである人を責める。道徳は人を責めるためにあるのではなく、自らを律する自律の原理である。不完全な人間という自覚にたって、恥ずかしくない生き方を心がけることが、道徳に棲守することである。そうすると世の中の風潮に流されないから、一時は変人扱いされたり、損をすることもあるかもしれない。一時に寂寞たり、とはそういう意味で、一時は不遇や寂しさを味わうかもしれない。しかし権力のある者にへつらい、おもねる人は、時には得をして立身出世するかもしれないれど、心の中は終生にわたって卑しさと人の道に外れた間違ったことをしてしまったことへの自責の念と自らの醜さに苦しめられ、人の顔がまともに観られないような、自信のない卑屈な荒涼たるものになってしまう。人の道に熟達した人は、目先のことに煩わされず、人としての自らの信じる道を貫いて、人事を尽くして天命を待つ、無理のない生き方をする。たとえ不遇な生涯で終わろうとも、あの世まで汚名を着て、家族や親類知人に迷惑をかけ、人から非難されることになるような権力に媚び、権力を利用し、自分を見失う生き方を選んではならない。この「菜根譚」の言葉は、私の命にしみ込んでいて、いつでも空で言える。そしてこの精神をj分の意識の中で熟成させていって、自分の言葉として表現したのが「義風清心」という私の生き方の基本になった。この言葉は今でも自分自身を奮い立たせてくれる力強い美しい言葉である。東京思風塾のご案内 2月7日(土) 「動乱の時代~緊急提言」 対談予定:小橋一央氏 【時 間】13:00~20:00 (対談 17:00ごろ~) 【会 場】 JJK会館 ● 東京思風塾 ※ 1回のみ受講もできます。 ※終了後、懇親会を予定しています。 ※どなたでもご参加いただけます。1回だけの参加もOKです。
2009年02月03日
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「一道一徹 不頼独行」「いちどういってつ ぶらいどっこう」と読みます。芳村思風先生の座右の銘だそうです。芳村思風先生が、哲学に興味を持ち始めたのは、中学2年生のとき。下村湖人の「次郎物語」の中の朝倉先生の言葉に出会ったとき。次郎が中学1年生になって、初めて朝倉先生に出会った日に、「相手を恐れさせるのではなく、慕わせる。それが最上の勝ちだ。」と朝倉先生から言われた。芳村思風先生は、次郎が「先生、剣道は何のためにやるのですか。」と聞いたとき朝倉先生は、「それは見事に死ぬためさ。」と答えられた。朝倉先生が次郎を訓育されるさまざまな言葉の中に「含蓄と深み」を感じた。そのとき、思風先生は「人間はいったいどこまで深くなることができるのだろうか」という問いを持った。人生最初の座右の銘は、高校時代に読んだ吉川英治の「宮本武蔵」最終第六巻の結びの言葉。「波騒(なみざい)は、世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い、雑魚は踊る。けれど誰が知ろう百尺下の水の心を。水の深さを」インターネットが発達し、テレビや新聞・雑誌に情報があふれ、広く世間に目を向けて情報や知識を追い求めるがゆえに心は浅く不安が絶えない。井の中の蛙を自覚的に徹して、一道を極めることによって心の深さや人格の重みをもった安心立命の人生を手に入れることができるという意味に受けとめられている。これを元に、芳村思風先生自らが座右の銘として作ったのが「一道一徹 不頼独行」という言葉です。何かに頼り、助けてもらいたいという気持ちが出てくると自分の底力は出てこない。誰にも頼らず、自分の力で何とか解決していこうとしないと自分の智恵や潜在能力は出てこない。今の自分の顕在能力である理性が、その限界点に到達して、理性ではどうにもできないという状況の中で、万策尽きたとあきらめないで、だけどなんとかならないだろうか、と努力を続けなければ、潜在する新しい能力が命から湧き上がってくることはないのである。このような理解から、芳村思風先生は、「不頼独行」という生き方を学生時代から自分に課してきたそうです。しかし実際に問題や悩みを自分が抱えたとき、悩みながら苦しんで考えていただけでは、なかなか智恵が湧いてこない。そのとき、理性の考え方に問題があると気づいた。「理性は客観的と普遍性の能力であるから、物事を外から客観的に眺めることをしないと正しい答がだせない。悩みながら考えるのではなく、悩みを外から客観的に見ることが大切。そこで自分の悩みを他人の悩みだったらと考え、他人から相談されたら、自分はその人にどうアドバイスするかを考える。そうすれば正しい答が湧いてくることに気づいた。こして不頼独行の生き方が完成したそうです。東京思風塾のご案内 2月7日(土) 「動乱の時代~緊急提言」 対談予定:小橋一央氏 【時 間】13:00~20:00 (対談 17:00ごろ~) 【会 場】 JJK会館 ● 東京思風塾 ※ 1回のみ受講もできます。 ※終了後、懇親会を予定しています。 ※どなたでもご参加いただけます。1回だけの参加もOKです。
2009年02月02日
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学問は、「科学」と「哲学」しかない。現実的には、技術という領域が大きな学問分野を占めているが技術は科学や哲学における研究成果を現実社会に実用化するための研究であり、原理的には科学と哲学を土台に成り立っている。理性という能力を持つようになった命である人間からしか沸いてこない欲求が二つある。ひとつめは、「もっとよく知りたい」という認識欲であり、この欲求を満たすために生まれたのが科学である。ふたつめは、「もっと幸せになりたい」という幸福欲であり、この欲求を満たすために生まれたのが哲学である。なぜ哲学が必要か?人間は事実を知っただけでは生きられない。人間が生きるということは、多くの存在や事実の中から何を学び取り、何を捨てるかという価値基準と決断するということ。この価値基準と決断によって、その後の人生が幸せになるか不幸になるかが決まる。人間は事実をしただけでは生きられない。その事実が自分にとって、どういう意味や価値を持っているのかを考えないと取捨選択できない。この意味や価値について考えるのが哲学であり、人間には必要なことなのである。人間が幸せになるために、未来に理想や夢や希望を掲げ、志を持って生きなければならない。人間は動物との違いは、「与えられた現実をどうすばらしいものに変えていくか」という生き方をするところにある。夢や理想や希望は、物事のよりすばらしい意味や価値を考えることによって生まれる。理想や夢を持って、人間らしく生きるために哲学が必要なのである。哲学は、物事の本質を探究する。物事の本質がわからないと理想の正しさを論証できないから。本質も事実の意味を理解することによって見えてくる。人間が人生を自信を持って生きていくために物事の根拠や理由を明確に自覚し知る必要がある。今より幸せになるためには、今よりもすばらしい社会を作らなければならない。今よりもすばらしい社会のあり方を考えることを「哲学的世界観」という・この世界観としての哲学をもつことで、歴史は、動き始める。社会がよくなっただけでは人間性は成長しない。人間は内面的にも成長して幸せになるためには、今よりもすばらしい生き方をする必要がある。よりよい生き方について考えることを人生観の哲学という。人類は、よりよい社会を作るために、よりよい生き方を考えるために、根拠を持ってそれを語り、多くの人に納得してもらうために哲学を必要とするのです。
2009年02月01日
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「感性論哲学」とは・・・30数年前、芳村思風先生が、23歳のとき確立された芳村思風先生独自の哲学です。人間らしく生きるとはどういうことか…愛とは何か…日本の、日本人の、今を生きる人の役割とはなにか?講演では、決してハデなところもなく、淡々とお話されます。感性論哲学の全体系は、講演では200時間にも及びます。『感性論哲学は、「愛の哲学」です。哲学は、難しいものではありません。生き方そのものを考える学問であり、また学んでも実践できなければ意味はありません。感性論哲学を学んで、すべてを受け入れる必要はありません。自分に合うところだけ取り入れること。そして、自分自身の哲学を作り上げることが大切です。だから、感性論哲学も意見の違ういろいろな人から、その良いところだけを学び、取り入れ、毎年少しずつ進化発展しています。』と、いつも話されています。一度聞いたからそれでいいではなく、実践できるまで、身につくまでやってみること実践できるようになることが大切なこと。芳村思風先生は、ご自分の理論を普段の言葉、そして行動を通して、表現されています。書籍だけでなく、ぜひライブで人間芳村思風先生の人となりを感じてみてください。6月7日(土) 13:00~20:00東京思風塾会場は、東銀座 JJK会館参加費15,000円対談は、18:00~20:00今回のゲストは、経済評論家の藤原直哉氏対談のみは、3,000円(17:00ごろにお越しください)思風塾ホームページ■感性論哲学とは? 感性論哲学は、新しい生命観・人間観を基礎に成り立っている。人間の目的は、人間らしい人間になることであり、本当の人間らしい人間になるためには、どうすればよいのかを提唱している。感性論哲学では、本物の人間を目指す上で、人間の能力の中で感じる力、つまり「感性」という存在が持っている能力・原理というものを人生や人間の生き方において非常に大事なものだと考えている。「感性」が持っている基本原理は、自己保存の欲求・種族保存の欲求から出て来る人間的な生き方の原理、すなわち人間は意志を実現し、愛を実現するということであり、この二つを実現することを通して、人間は初めて本当の意味での幸福が実現できると提唱している。人類の進歩を人間性において、人間の在り方において実現すること、人間性における進化を果たすこと、こういうものを感性論哲学は目指す。つまり、人格を目標にして生きるという文化を作り出すことによって人類としての進化を実現しようと考えているのである。(「感性論哲学概説」 ●「はじめに」より)感性論哲学の入門書のような書籍です。
2008年05月11日
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理性とは何か・・・感性が良くて、理性が悪いのではない。ポイントは、「感性と理性」を協力させること。感性と理性のバランスではない。人間は、感性と理性と肉体でできている。「感じたことを、理性を使って、人の迷惑に成らない方法で、人の役に立つにはどうしたらよいかを考え、肉体を使って行動する」理性とは・・・●自分のしたいことを人に迷惑をかけない方法で、どうしたら実現できるだろうかということを考える手段能力●現実に存在するものの中の変化しないものしかつかめない能力●理性によって理解され、把握されたものは固定化され変化しなくなってしまう●理性は、生きているものを殺す力●人間が生まれてから後に、後天的につくっていく能力●現象してきたものしかつかめない能力●合理的に考えることができる能力●合理的にしか考えることができない能力●理性能力は、言葉を覚え、言葉と言葉を結びつけていく作業を通して出てくるものです。●理性能力は、人間がつくり出した言語が持っている限界。言語が持っている不完全性を背負っている。言語の制約の中でしか、理性は働き得ません。言葉の限界が理性の限界。2月9日(土)13:00~20:00東京思風塾 テーマは、「境涯論」です。境涯論は、感性論哲学講座の中でも取り上げられる事が少なく、また通常は1時間半で講義されます。どなたでもご参加いただけます。1回だけの参加も歓迎です。15,000円詳細は、したのホームページでご確認ください。東京思風塾ホームページ
2008年02月04日
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「感性論哲学」とは・・・30数年前、芳村思風先生が、23歳のとき確立された芳村思風先生独自の哲学です。人間らしく生きるとはどういうことか…愛とは何か…日本の、日本人の、今を生きる人の役割とはなにか?講演では、決してハデなところもなく、淡々とお話されます。感性論哲学の全体系は、講演では200時間にも及びます。『感性論哲学は、「愛の哲学」です。哲学は、難しいものではありません。生き方そのものを考える学問であり、また学んでも実践できなければ意味はありません。感性論哲学を学んで、すべてを受け入れる必要はありません。自分に合うところだけ取り入れること。そして、自分自身の哲学を作り上げることが大切です。だから、感性論哲学も意見の違ういろいろな人から、その良いところだけを学び、取り入れ、毎年少しずつ進化発展しています。』と、いつも話されています。一度聞いたからそれでいいではなく、実践できるまで、身につくまでやってみること実践できるようになることが大切なこと。芳村思風先生は、ご自分の理論を普段の言葉、そして行動を通して、表現されています。書籍だけでなく、ぜひライブで人間芳村思風先生の人となりを感じてみてください。12月1日(土) 13:00~東京思風塾思風塾ホームページ■感性論哲学とは? 感性論哲学は、新しい生命観・人間観を基礎に成り立っている。人間の目的は、人間らしい人間になることであり、本当の人間らしい人間になるためには、どうすればよいのかを提唱している。感性論哲学では、本物の人間を目指す上で、人間の能力の中で感じる力、つまり「感性」という存在が持っている能力・原理というものを人生や人間の生き方において非常に大事なものだと考えている。「感性」が持っている基本原理は、自己保存の欲求・種族保存の欲求から出て来る人間的な生き方の原理、すなわち人間は意志を実現し、愛を実現するということであり、この二つを実現することを通して、人間は初めて本当の意味での幸福が実現できると提唱している。人類の進歩を人間性において、人間の在り方において実現すること、人間性における進化を果たすこと、こういうものを感性論哲学は目指す。つまり、人格を目標にして生きるという文化を作り出すことによって人類としての進化を実現しようと考えているのである。(「感性論哲学概説」 ●「はじめに」より)感性論哲学の入門書のような書籍です。
2007年11月02日
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現代は、歴史的な大転換期にさしかかっています。3つの大きな流れがあり、それが今、同時に新しい流れに変わろうとしています。A.数万年単位のパラダイムシフト 1.地球時代から、宇宙時代へ 2.タテ型社会から、ヨコ型社会へ 3.弱肉強食から、適者生存へB.数千年単位のパラダイムシフト 1.西洋の時代から、東洋の時代へ (理性原理から、感性原理へ) 2.文明の対立から、世界文明へ (地域文明から世界文明へ) 3.二元論的人間観から、一元論的人間観へC.数百年単位のパラダイムシフト 1.政党政治から、脱政党政治へ。そして合議政治へ 2.資本主義経済から、脱資本主義経済へ。そして人格主義経済へ。 3.民主主義から、脱民主主義へ。そして互敬主義社会へ。 4.理性文明から、脱理性文明へ。そして感性文明へ。 5.物質文明から、脱物質文明へ。そして精神文明へ。
2006年02月22日
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感性論哲学では、宇宙の本質のことを「純粋感性」と定義しています。それは、宗教では「神」であり、「気」を呼ぶ人もあり、筑波大学の村上和雄名誉教授は、「サムシンググレート」と呼ばれている物です。感性論哲学では、さらにその本質を「求感性」という働きでとらえています。世界は、エネルギーの海と言われているように、すべてはエネルギーで充満しています。そのエネルギーが動き、偏り、とどまり、散り、渦巻き、拡散し、収束し、波うちといろいろな様相を呈しているのが現状です。静止しているのではなく、動きながら、バランスを取りながら、動的平衡作用が働いています。感性には、3つの作用があります。「調和作用」 「合理作用」 「統一作用」「調和作用」・・・空間バランスや形をよりよくする作用「合理作用」・・・時間バランスや時間的速度追求や論理性に働く作用「統一作用」・・・とりまとめて新しい平衡状態をとる作用※まだまだ勉強不足で、わかりやすく表現できませんでした。
2006年02月21日
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理性は答えを出す力感性は問う力感性が問い、理性が答える答えを持つことは大切もっと大切なのは、「これでいいのか」と問い続けること答えに縛られないこと縛られると、違う考え方の人を説得しようとする違う考え方の人と対立する感性論哲学は、どんな考え方・意見も否定はしない相手の考え方・意見のいいところ、自分の考え方にないところ、を取り入れて、自分の考え方・意見を成長させる。・・・・・・先生からこの話を聞くまでは、答えを出すことが一番大事だと思っていた。自分の考え方・意見と違う考え方・意見を説得しようとしたり、否定したりしていた。ディベートで勝ち負けを競っていた。勝つだけではダメなこと・・・人間関係の破綻はすべて競争意識から始まっていた負けず嫌いが功を奏したこともあったけど、いい面ばかりではなかったいつも勝ち負け、他人との比較をしてきた先生は、こんなこともおっしゃっている。「感性論哲学もすべて受け入れなくてもいいんですよ」自分の気に入るところ、合うところだけを取り入れたらいいんですよ。すべてを取り入れたら、自分がなくなりますよ」
2005年12月15日
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哲学とは何か? ●学問は、「哲学」と「科学」に分かれる。 理性という能力を持つ命からしか出てこない2つの欲求 ・「もっと良く知りたい」という欲求と ・「もっと幸せになりたい」という欲求 認識欲と幸福欲と呼ばれます。 知識欲に応えるのが科学・サイエンスであり、 幸福欲に応えるのが哲学・フィロソフィです。 人間が真剣になって本当に生きようと思ったら、存在の事実、 現実の中に、どういう事実が存在するのかをどうしても知りたくなる。 その追求を担うのが科学です。 事実と事実の関係性の中から出てくる意味を価値判断し、 何を選び取るか、が要求されます。 その追求を担うのが哲学です。 ・「現実は、事実と意味から成り立っている」 「現実」の「現」は時間、「実」は空間を意味します。 時間と空間。これが現実を構成する基本要素です。 ●科学は発見し、哲学は創造する 科学は現実の中の事実を対象とし、現実の世界に存在する物事の構造と 法則を真理として探究します。 哲学は現実の中の意味を対象とし、現実世界に存在する物事の本質と 理念を真実として探究します。 その探究は、科学が理論・セオリーを方法とし、哲学は論理・ロジック の方法を用います。 ・理論と論理はどう違うか? 理論とは「真理はひとつ」という考え方のもとで使われる方法論。 真理はひとつという考え方は、「事実は変化しない」という大前提が 根底になっています。 事実は変化しないのだから、事実に照らし合わせていけば、どれが 正しいかすぐわかるということになる。 その理論が限界に達して、真理はひとつという考え方ではどうにも ならないという状況になったときでてくるのが、「論理」です。 ・宇宙はエネルギーバランス 宇宙はプラスのエネルギーとマイナスのエネルギーがお互いに バランスを模索しながら形成されている。 前と悪・美と醜・真と偽・表と裏・前と後ろ・光と影・・・ すべてが対の構造になっている。 真理はひとつという科学的な考え方・理論では現実に対応すること ができません。 人間社会は、性格が違う人・人間性が異なる人・考え方が違う人・ 立場が違う人・宗教が違う人が共に生きていかなければなりません。 それが人間の現実であり、社会の要諦です。 そこでは真理はひとつという理論の能力は通用しません。 理論では必然的に対立が生じます。理論を超えた力が要求されます。 それが論理であり、愛なのです。 愛の論理は、理論を超える力です。 理論よりも論理の方が高次元であり、真理よりも真実の方が高次元の 理性の使い方であります。 「科学」・・・理論を武器として現実の中の事実を対象にし、その構造や法則 という真理を探究する。その方法は実証的。 すでに存在する事実を解明・探究する発見的な学問である。 事実には、過去と現在しかない。 未来に対応する能力はありません。 「哲学」・・・論理を武器として現実の中になる意味を対象とし、その本質と 理念という真実を探究する。その方法は論証的。 論理とは物事の解決の仕方です。 未来に対応するには理想や理念の創造が必要となる。 これを担うのが哲学である。哲学は創造的な学問である。 哲学は事実に拘束されることなく、新しい事実・新しい世界を 創造します。 哲学と科学は互いに協力し合いながら、現実から理想へという人類の 生き方に貢献する。
2005年12月14日
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今、まさに一つの時代が終わろうとしている。二十世紀の理念に生きた巨星が、一人また一人とその輝かしい時代に別れを告げて去って行く。世界の文明は、あらゆる分野において危機に直面しており、深まり行く混迷の中で人々は不安に包まれている。終焉とはさみしい言葉である。喜びは短く、悲しみは長い。喜びは努力しなければ得られないが、悲しみは努力なしにやって来る。人生とは、その大半が苦から楽への、悲しみから喜びへのプロセスである。人間の価値は、このプロセスそのものにどれ程の生き甲斐を見い出し得るかにかかっている。世界は、今後、苦しい不安定な動乱期を経験しなければならないであろう。しかし、それは決して悲しむべき時代ではない。むしろ、動乱期こそ最も素晴らしい時代である。すべてのものがそこから生まれ、あらゆる新しいものがへの可能性をはらんだ生き甲斐のある時代世界中の若人が待ちに待った、夢多き時代がやってきたのである。芳村思風
2005年12月13日
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