しろねこの足跡

しろねこの足跡

ひかりのいえ12・13


前の夜から雪が降り続いています。坂の上の大学へは歩いていきます。相当難儀しそうなので早めに家を出ました。
ナバノフにもらった英語の本は新聞紙でしっかり覆いました。
外国人に寛容な小樽でも、最近は物騒な事件が増えているそうなので注意するにこしたことはないです。
わたしは、わるいことをしたつもりはないけど、非国民なんていわれてしまったら家族にも迷惑がかかります。

きょうはお店に外国人が来たときの挨拶や対応を教わりました。わたしの家は自動車類の修理工場を営んでいたので、そのうちきっと外国のお客が来るだろうとナバノフはいいました。
「来週は数の数え方にしましょう、りつ子」
「はい、先生。」
「りつ子、先生はやめましょう。ナバノフと呼んでください」

「・・・はい。きょうはナバノフはどんな日本語がしりたいですか?」
「きょう知りたいのは、日本人がロシアをどのように思っているかです。りつ子や周りの人はどう思っていますか?」

わたしは、ためらいました。わたしがきいているロシアのうわさは決してナバノフを喜ばせるようなものではないからです。
「寒くて、優秀な軍隊がいる強い国と思います。」
ナバノフはアメジスト色の目を細めて言いました。
「それは表向きのことです。国民は貧窮しています。夜になっても電気も届かず蝋燭ですごすことも多いです。」

ナバノフはいったん言葉をきって、部屋の窓を開きました。
冷たい雪の匂いとともに冷気が漂ってきました。
外には小樽の街の夜景が見えていました。北海道はあまり爆撃の対象にはなっていなく、灯火管制はほとんどひかれていませんでした。
坂の上の大学からは小樽の街の一面の夜景といさり火が美しく雪明りに灯っていました。

「りつ子、この夜景はとてもきれいです。この夜景のひとつひとつが家の光からできているのですね。まるでひかりのいえのようにみんなかがやいている・・・このひかりのいえがきえないようにするために、わたしは帰国するのです。りつ子のひかりのいえを消してしまいたくない。わたしは日本が、小樽がとても好きなのです。」

わたしは言葉をうしなって、雪明りにうかぶ夜景をみつめるナバノフの横顔を見つめるしかありませんでした。
戦争がナバノフの帰国を早めていることは、このわたしにもわかることでした。


2月8日
おとといの6日、いつもの時間にナバノフの研究室をノックしても返事がありませんでした。
扉は開いていました。

わたしは、開けた扉を見て震えがきました。
部屋はめちゃくちゃに荒らされていました。
あちこちに差し押さえの紙が貼り付けてありました。

世間知らずなわたしにもどういうことかすぐにわかりました。
ナバノフは思想犯として、特高につかまってしまったのです。表向きは語学指導をしていた彼ですが、社会学という目をつけられやすい学問を専攻し、外国からの招聘教官であることがこういうことになるのは、ちょっと考えれば当たり前のことでした。
きっとナバノフも予想していたのだと思います。
争った形跡はありませんでした。

その瞬間わたしは足元がぞくぞくしました。
もし、わたしがナバノフとあっていたことが明らかになればきっとわたしも捕まってしまう・・・
どんないいわけも通用しない・・・

わたしは恐ろしくなって、すぐに家に帰りました。
でも、何日かしても特高は家に来ませんでした。
わたしは、安堵して、そしてはじめて自分の身勝手さに泣きました。
きっとナバノフはもっと恐ろしい目にあっているに違いないのに、わたしは自分の保身ばかり考えていたなんて。

そして、特高が家にやってこないのは、ナバノフが完璧にわたしとの関わりを隠していてくれるからに違いありません。

ナバノフは、こんなときなのに、わたしを守ってくれることを忘れなかったのです。

何もできない、自分にわたしは泣くことしかできませんでした。



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