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この季節になると、ある映画の シーンが頭の中に必ず浮かんできて。 海。白い帆を持つヨット。 そのヨットから、笑いながら女が 海中へ転げ落ちる。 男は一人だけ、命からがら海岸に 泳ぎつく。 男は青春期をとっくに失った 中年も後半に差し掛かったような年齢で。 女は20代の半ば、って感じで。 要は年齢の離れた男女の避暑地でのお話で、 結末はハッピーでなく、というありふれた 話で。 見た当初から、30年ほど経た今まで、 この映画の印象が<優れた作品>になった ことなど一度もない。 それどころか。 場末の、どうしようもない、あり得ない 恋愛?映画、って印象は年々濃くなるばかりで。 でも、この時期になると必ず 思い出す。 現に、今もこのブログを書いてるぐらい で。 映画の題名は「ひと夏の情事」(1960)。 8月の頭から、途中別の 取材に入ることはあったけど、ほぼ無休で 当ったずっイベントの取材が今日終わって。 仕事のことは書かない、と決めてるし宣言してる 以上、その話をここに記すのは止めるけど。 ひと段落、の感覚があって。 今年の夏が終わった、 正確にはもう五日、別のイベントの 取材があるから、それが終わったあとに 思うものだけど。 9月に入ると遅い気がして。 夏の終わりを、こころのどこかで 怖がってる自分がいて。 残りのイベントが終わってからだと、 本当に祭りの終わった後になるのが怖くて。 夏の終わりを迎えたくない気分の時、 僕はかならず、この全く出来の良くない 映画「ひと夏の情事」を思い出してしまう。 深夜の今。 ベランダの向こうを見ても海が見えないのは 分かっていながら、そこに海が存在すると 思うと余計、頭に映像が浮かんできてしまうのかも しれないけど。 誰がなんと言おうと、一流の映画ではない。 見たのは15か、16歳の頃で、深夜の吹き替え映画 劇場だった。 パスカル・プチっていう女優さんが海に落ちる若い 女性の役をやっていて。 覚えてるのはそこまでで、ちょっと調べてみると、 1960年のフランスとイタリアの合作 だそうで。 監督はエドゥアール・モリナロ、 音楽がジョルジュ・ドリリュー。 Mr.レディMr.マダム(1978)の監督と、のちに トリュフォーの映画の音楽で日本でも著名と なる人(僕も何枚もCD持ってたりする)。 そんな背景もどうでもよくて。 なんで、こんなブログを今日、僕は書いているのだろう。 8月21日になった。 8月はあと10日ほどで終わりだ。 夏が終わろうとしている。 夏が終われば秋が来て、冬が来る、そして春が。 当たり前のことなんだけど。 なぜ、夏が終わるのが怖いのだろう。 秋が来るのは自然だし、過ごしやすさ、と いうよりも今は秋が一番好きな季節に なっているのに。 自分に思いを寄せているのが明らかだった 若い女性を、海で、沖で、失くした初老の 近い男。売れない画家という設定(だったと思う) も、今は他人事ではないけど。 15歳の頃。 どうしてこの映画に僕は引っかかったのだろう。 モントリオール五輪が終わった頃に、見たような 記憶が(1年間違えている可能性はあるが)。 今の僕なら、手に入らなかった、あるいは入りそうにない、 なれなかった、なれそうもない、といったものが 頭の中で点滅する状態で、この初老の男の 心の中を推測するし、ごく自然に感情移入してしまう ことが理解出来る。 でも。 15歳の僕は、まだ、未来は…。 少なくとも、何モノかになる、と思うこと で、他人に嘲笑される位置にはいなかった はずだ。 大体。 初老の男に感情移入なんてそうはしなかった はずだ。現に、同じ頃にテレビで見た映画 「ベニスに死す」、には<なんやねん、これ> という感想を持ったのを素直に白状出来る。 これは、今は180度ぐらい違う感想に なってるけど。 にもかかわらず。 明らかに、人生の勝利者にはなり得ないことを 前提に描かれた「ひと夏の情事」の主人公に惹かれ た僕は。 出来の良くない映画、と分かっていた ことがキーのような気がする。それでも、 ストーリーの、もっとも重要な部分、シーンを 忘れない映画。 自分の未来なんて、予期できないはずなのに。 予期出来ないはずの未来を、華々しくはない、 それどころか、場末の映画館で上映されるどうでも いい映画のストーリーのような人生を辿って いる自分を思うとき。 思わぬところで、人生の先を 知ってしまっている場合が、あるかも しれない、と思う今日このごろ。 さあて。 何を書いてるか分からない今日のブログを お終いにして、別のことをやらないと。 今年の夏が終わってしまうから。 (下)JR須磨駅の構内から。 珍しく、海水浴に来ている上半身裸の兄ちゃん がいなかったので。こうやって、沖を見やって しまうのは決して僕だけではないようで。 何も海にはないのに。
2006年08月20日
しばらく離れる、と宣言した 舌の根も乾かないうちに、ブログ 書きます。 珍しく、世間の話題とアジャストして。 でも、絶対に仕事ではない。 単に、ボクシングファンとして テレビを見ていて。 亀田選手がどう、とかランダエタがどう とかも僕には興味ない。 ただ、テレビで単にファンとして ボクシングを見るときの基本として、 採点するための紙とペンは持ってしまう のだけど。 インターハイの、開会式セレモニーの お知らせの裏に、左に亀田、右にランダエタ、 として準備して。 いつになったら始めるねん、とテレビに 怒鳴りそうになったところでセレモニーが 始まって。 で、右フックで亀田君がダウンして。 綺麗なカウンターだった。手本みたいな。 その後の展開は僕が書かなくても、もう ネットには氾濫してるし、朝の新聞にも 思い切り書かれる事になるだろうから、 記さない。 ただ。 準備した採点表が7ラウンド分しか作って なかったのは愛嬌で。知らず知らずのうちに、 序盤KOで決着が付くと思っていたのも 確かで。 そうはならず。 で、横に10回までの表を作って 足した。 それでも試合は終わらない。 でも。 有る意味、終わっている、と僕は 思った。だから、残りの2ラウンド分は 作らずに、10回までの採点評を破って ゴミ箱に捨てた。 11回に入るインターバルの時だ。 そして、11回。 よろめき、ふらふらになるボクサーを 見て“正しかったなあ”と思った。 採点表を捨てたことが。 逆転KO以外に勝ち目のない状況。 きついだろうな、と思った。 その中で、逆にKOされかかってる。 採点のアナウンスなんか必要でなかった。 ボクシングは真剣勝負、っていうのを 改めて確認させてくれたことで試合自体 は見て損はなかった。いや、得の方が 多かった。 だけど。 不可解なのはオレの人生だけではない。 これも、あり、なのかもしれないが。 考えたら、ボクシングの試合を見ていて KOで決まったのでもないのに、途中で 採点表を捨てた初めての試合だったかも しれない。 それぐらい、はっきりした内容に思えた。 努力しても、やはり上はいる、ということを 示してくれた試合という感じで。 いきがっても、井の中のなんとか、だと 本当の世界を知るとどうも出来なくなる、 という好例だ、と。 でも。 そうはならなかった。 理由は知らんが。 終了後。 二人の知人と電話で話し、一人の現役ボクサー にメールを送った。 珍しいことだ。 僕にすれば。ボクシングに限らず、終わってしまった ことを、仕事を絡めずに電話で話題にすること自体。 そんな間があったら、自分の文章を書くべきだ。 こんなブログを書いてる間があったら。 とはいえ。 なにか自分の人生をも含めた、不可解さがどうしても 引っかかってしまって。 二人の審判は確かに、あのボクサーの勝ちと 試合を見た。 ということは。 どう考えても。 どうやっても。 見方の違う、考え方の違う、というものは 存在するということで。 それが価値観? そして、そういう不可解さもすべて 受け入れて生きていかない限り、怒りや 不満で心と頭はいっぱいとなるわけで。 受け入れよう。 なってしまったことは仕方ない。 次に何が来るのかも想像出来ないけど。 自分にとって不利なこと、不可解なことを どう受け流していくか? これからの、残りの生きている時間のテーマと もいえることに。なんで。 なんで、まさか、 亀田興毅の世界戦テレビ観戦で当って しまうなんて。 でも。 それが人生。 さあ。 午前1時15分。 本来なら寝なければいけない時間。 でも。 頑張ろう。 頑張って、小説を、文章を書こう。 今の僕に出来ることは、それしかない。 仕事をしている以外の時間を。 有効に、使わないと。 来るべき死の時は、おそらくそんなに先では ないのだから。 (下)この夏、ボクシング界は世界戦ラッシュだった。 このカードもその一つ。ポスターに見入る人は、その 試合に夢を見る場合もあるだろう。その夢が、分かりにくい 夢、というケースはまずなにのではないか?だから、 現実は難しいのだ。フィクションとして、文章に 構築し直すとしても。
2006年08月02日
2日の早朝。 仕事が朝早くからだから、寝ないと いけないのだけど。 とりあえず、ブログ。 書きます。 言っておかなければいけないことが 一つ。 久しぶりに、小説に着手しようかな、と。 だから、これまで以上に、ここに書く回数 は減ると思う。まあ、小説や映画を読んだり、 見たりした時は出来るだけ書き込みますが。 今日。 伊藤たかみさんの「八月の路上に捨てる」を 読んだ。たまたま買ってた文学界の6月号に 掲載されていて。 新芥川賞作品でなければ、読んでないだろうなあ。 僕の読書なんてそんなもの。特に最近は。 表現をみにつける、とか言う視点で考えると お先真っ暗の読書量なんだけど。 さてどうかなあ、と。 正直に言いいます。 面白かった。ほんまに。 よく考えなくても、読めば分かるが、たった 一日の出来事を描いただけなのに。 時間の出し入れが本当に自然なんだよなあ。 そこにそのシーンがなければいけない、って 感じである。 そんな技術的なことよりも。 やはり、人だよなあ。 人。 生きてる人。 何箇所か、気に入ったフレーズというか、身につまされる、 というか、そうだよなあ、というか、僕自身の経験とは全く 関係ないものも含めていいなあ、って文章、セリフがあって。 しかも、ほとんどが男女関係に関するものだったりするんだけど。 “でもまあ、あたしも同じだったか。まったく、離婚のとき って自分が自分じゃなくなるよね。何やってるのかよくわ からなくなるし” “こう言うとおかしく聞こえるかもしれないが、そうだった。 関係はこれまでになく最悪な状態になっているのに、トラック に乗っていても、脚本を書いているときも、眠りに落ちるまでの 間にも、彼女のことを考えるようになった” “そんな生やさしいもんじゃないよ。本気って、違う。その 人を好きとか嫌いとかもわからなくなる。ものすごく怒って るかもしれなくてさ、相手の心までずたずたにしてやりたく なって。” “そうだよなあ。好きなところと嫌いなところを数えて、嫌い が上回っちゃうようになったら、それ以上は駄目だよなあ” 当たり前といえば、当たり前か。 離婚経験のある女と、これから離婚する男が 一緒に居ての、一日の話なんだから。 離れたや引っ付いたの話が多いのは。 でも、どれも結婚してる、してないは別にして 男女の仲として考えて、見に覚え、に近い感覚 が多くって。参考に、じゃなくて。ああ、これも あったなあ、という感覚。男と女の引っ付き方と 離れ方って、やはりどこか普遍的な部分って きっとあるんだろうなあ、と。 そうなんだよ。 オレも真剣に、まじめに、本気で、 いつもやってるんだけどねえ。 “何もかも本気だったのだ。” が、本当に良く分かる気がして。 30代のああだ、こうだ、話に ああ、似たようなもんだよなあ、と思って しまう45歳のオレ。 いや、そんな比較より、伊藤さんの この、主人公や周辺の女性の息遣いさえ、 聞こえてきそうな、ほんとうに目の前5センチ ぐらいしか離れていない感じの身近に 思えてしまう小説。 うまい、とか良く書けてる、とか いう距離を置いた書き方を僕がしちゃあ、いけない。 評論家じゃないし、第一、この小説を評論する ほど立派な生活してないし。 そんなもんは、書斎にこもって文豪の研究でも してる人に任せておいて。 オレ、小説書けるだろうか? なんてことは考えず、考える前に、 文字が出てこないと話にはならん やろなあ。 “”内は、すべて、この伊藤たかみさんの 「八月の路上に捨てる」から引用させていただきました。 すんません。ありがとう。 (下)掲載誌の写真も考えたが、なぜかやめた。 同じワンパターンなら、こっちでもいいかな、と。 家のベランダからの風景。遠目の、ぼけてる、大型船 らしきものに、なぜか惹かれた。正体は分からず。 ぼーっとしてる、どうでもいい風景に立ち止まる ことが確かに増えたと思う。
2006年08月01日
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