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今日もゆるやかな話題です。 「みんなの党」、神戸市会長田区支部長の杉原秀幸さんの招待で「神戸オフィスフェア」 (神戸サンボーホール)へ行ってきました。 ひとりで、オフィス用品を見に行ってどうすんねん、と思っておっかなびっくりで行ったのですが、これが意外に楽しめました。新商品の見本市、みたいなものでしたので、 気に入ったものがあったからといってそこで買える、と いうわけではなかったのですが、どうしても欲しい、と思ってしまったものもありました。 プラス(株)の、デコレーションローラー、デコルノ。 元々は、個人情報の保護で、ローラー式スタンプと して情報削除用だったものを、デコレーションスタンプに転用した商品だそうで、係りの人は「人気商品になってます」と胸張ってましたが、そうだろうなあ、と。 近くの文具店で買ってください、と言われた ので近日中に、スギハラ文具で購入する予定(笑)、にしましたが、この一個数百円の ものを、あるプレゼントにしようと考えた私も、私。いや、オレンジ色のケーキが3種類、次々に印刷されるのかわいくて。 で、何のプレゼントにしようとしたのか、といえば、1月31日は5回目の結婚記念日。今の家の状態では、出来れば子供(1歳と3歳)が遊べるものがいいに決まってる。 需要と供給のバランスが取れてると思った のですが残念(笑)。 まあ、長男はサンプル品でもらった、トムとジェリーの算数学習ノートが訳もわからんやろうに、お気に入り みたいだし、1000円で置いてあった福袋はびっくり するぐらい中身が充実していて、チャリティーしてもらった のはどっちだ、というぐらいいい気分になりました。 なんだか、柔らかすぎる話題ですね。こういう日もある、ということで お許しを。 (写真は会場外、手に入れそびれたデコルノ、ノートと戯れる わが長男)
2013年01月30日

29日。神戸市中央区での川崎重工神戸造船所 進水式に来させていただきました。 パナマ籍の「EASTER K」。 全長約197メートル、幅約32、2メートル。 総トン数 3万3千5百トン。 イベントにお誘いいただいた(私は直接は大石よしのり神戸市会議員さん からでしたが)方の説明のおかげもあって 単純に「見ました」という形にならなかった のも嬉しかったです。 小さい頃から、父方の祖父、父、と三菱重工業神戸造船所 で働いていたこともあって、神戸は造船、のイメージは強かった のですが、現実に、船がはじめて海に浮かぶ瞬間 など見たことがありませんでした。 それだけに、こんな機会をもてた ことはありがたかった。 あっと言う間で、静かでした。 セレモニーの音はありますが、肝心の船は、滑らかに 地上から水面に降りていく感じで。 あっけない、といっていいぐらい。 この大きな、重い船が、という感じでした。 ともかく、写真は載せておきます。 パナマ船らしく、パナマ運河に合わせた 幅(32.26メートル)という説明も聞きましたが、 なぜかそれが私には一番「そうか」と思えました。 幅が大事、ってあまり考えてなかった ことでしたので。 (写真は上から船名が隠れていたのが外されて、進水です)
2013年01月29日
また、夜遅くなりました。今日は、唯一の趣味といっていい映画の話をさせてください。26日の夜、先の衆議院議員選挙で兵庫2区から無所属で出馬した五島大亮さんのお疲れ様会新年会に顔を出しました。最後まで戦わず、途中で降りた私と違い、不利を承知で戦い切っただけに、ほんとうにさっぱりしたいい顔してられました。単純に、いいなあ、と思いました。五島さんのお疲れ会から帰って、衆議院議員選挙を振り返った時、かつて見たあるフランス映画のことが頭をよぎりました。タイトルを「ルシアンの青春」といいます。今は亡きルイ・マル監督の1973年の作品。これを初めて見たのは1976年の暮れ。なくなって35年になろうとする神戸元町(ジェムビルのところ)にあった、元町映劇で、でした。当時の私は15歳。主人公で17歳のルシアンよりも若かったのですが、見終わったあと衝撃で椅子からしばらく立てなかったのを覚えています。ルイ・マル監督の映画は、これを含めて再三、椅子から立てない感覚を与えられましたが(高名な老境に差し掛かる政治家が若い女性に溺れてとてつもない結末を迎える「ダメージ」を1993年にアメリカのアリゾナ州フェニックスで見た時は、ショックのあまりパスポート入りのポーチを席に忘れて帰ってエライ目に合い掛けた)、今、思い返してもこの映画の衝撃が、マル監督作品の中で私にとっては最も大きかったのではないか、と考えます。第2次大戦末期のフランスが舞台。レジスタンスに入るのを、年齢が若いと拒否された少年が偶然の産物でゲシュタポの手先となり、フランスと言う名前のユダヤ人少女を気に入るが…、というお話。時代背景を考えても悲劇的な結末は目に見えている映画でした。なぜ、この映画が先の衆議院選挙とだぶるのか、というと“なんの情報もなく善悪が判断できなかった”17歳のルシアン青年の状況が、悲しいかな51歳の私の状況とあんまり変わりなかったな、と思ったからで。もちろん、51も歳を取って「善悪の判断が出来ない」は通用しません。だから、ルシアンが肯定的に見られるのとは違い、私の方は逃げる余地はありません。情けない話、というだけです。ただ、偶然で思わぬ方向に転ぶ、という点でルシアン青年と自分も同じだったなあ、と思うわけです。政党の意味、選挙区の意味、日ごろの政治家の活動。何も分かってなかった。ルシアン青年、というかルシアンとかかわった者も含めて「ルシアンの青春」という映画には救いは用意されていません。年齢に係わらず、「善悪の判断ができていなかった」ことで、時代はもっとも厳しい処遇を彼らに与えます。ルシアンを演じたピエール・ブレーズという俳優はこの映画の2年後、交通事故で亡くなっています。つまり、僕がこの映画をはじめて見た時にはすでにこの世にいなかったということになります。この映画に出るまでは、木こりだったというこの俳優さんにとっては、この映画だけが俳優としての証となったことになります。ルシアンに与えられた状況との相違。幸いなことに、私の場合、戦争下での判断ではありません。だから命を取られることはなく済んでいる。これは、幸運なことだと思ってます。しかし考えたくないことですが、ブレーズという俳優と同じく、交通事故にあったりして不慮の死を突然、迎える可能性はあるでしょう。それだけに、一日でも早く「善悪」が完全に把握できる状況に自分をもっていきたい。それは間違えても、机上でやることでない。自分の足でしっかり地面を踏みしめながら、人と顔を合わせながら理解していく。そうやっていけば、いずれこの世界でも無知ではなくなると思います。先の衆議院議員選挙の顛末、とかいうものを語ることすら必要なくなる日。その日が来れば、それは、生きている幸運を生かした証になると今は信じて。
2013年01月27日

また、更新、遅れて済みません。今日は、海の向こうタンザニアに赴任されているJICAの友成晋也さんのFACEBOOKを覗いた時に、目に飛び込んできた嬉しいニュースの話。アフリカのガーナに本格的な野球場が、日本政府の支援により整備されることが正式に決定された、というニュース。体の中の血がすっと引いたり、上がったり、という状態に読んだ瞬間、私もなりました。すごいものを見たり、聞いたりした時に起こる生理現象が起こったわけです。NPO法人「アフリカ野球友の会」の代表理事でもある友成さんは1997年にガーナナショナルチームの監督となってから、シドニー五輪予選で同チームを奮闘させる(その過程は友成さん自身の書かれた「アフリカと白球」=文芸社=、に詳しい)など、アフリカでの野球普及に尽力を続けておられます。2004年、プロ野球の広島カープがガーナ代表チームに支援を行ったことを知って以来、私もそこから数年間、活動をあくまで取材者としてみさせて頂く機会がありました。野球の国際的普及。私もそれに少しでも貢献できれば、と夢描いてました。1990年から細々、なりに心に秘め、時には行動し、で。オリンピックに野球を残すため、2004年は各所に飛びました。南アフリカ、台湾、中国。報道する側で、オリンピックでの野球存続に関して継続的に興味を示していた人が、フリーランスの記者を除けば本当に少なかった。危機感がなかった、というべきか。有給休暇を使って行った取材先のどこでも、日本人記者はほぼ私ひとりでしたから。「アフリカ野球友の会」と友成さんのことを知ったのも、南アフリカで野球を教えていた日本人青年に出会ったからでした(彼とは不思議な縁があり、昨年、衆議院議員出馬を考えた時に、選挙区の徳島に偶然にも彼はいて少なからぬ協力をくれました)。私の野球の国際的普及への熱は、2005年7月に昨年開かれたロンドン五輪から野球が外された時に、残念ながら冷めてしまったような気がします。そして2006年5月に、五輪をはじめ、野球の国際的普及に人生を捧げたといわざるを得ない山本英一郎全日本アマチュア野球連盟副会長が亡くなって決定的になりました。山本副会長が存命の時、私に口すっぱく言っていたのは「アフリカと中近東に野球を普及させることが五輪に競技を残すための重要課題」(自分の書いた、2004年9月の「世界週報」特集“ウガンダの少年”、戦場カメラマンの下村靖樹さんと共述、から抜粋)というものでした。にもかかわらず。2006年12月、中東のカタール・ドーハで行われたアジア競技選手権大会で、野球の全日本チームが雨の中、台湾に負けて準優勝となった時に、亡くなっていた山本英一郎さんに贈る文章(自分で思っただけですが)=神戸新聞が使っていましたので、たぶん兵庫県の図書館ではまだ読めると思います=を書き上げて、全てが終わった気になってしまった。友成さんが山本さんと係わったのはほんの一瞬だったのを、私はよく知ってます。だから、友成さんは山本さんの遺志を継いでいるわけではない(断定は出来ないですが、違うはずです)。友成さんの心の奥にある、野球という競技に対する情熱が原動力だと思います。野球が五輪に戻る日が来るのか、どうかは知りません。ただ、私のような怠慢な取材者は熱が醒めた、といって舞台から引くことが出来る。それに比べて…。友成さんは、最初に述べたように私のFACEBOOK友人としてまだいて下さってます。アフリカ野球友の会、のFACEBOOK上のページがあるのも、恥ずかしながら今日知りました。アフリカの「フィールド・オブ・ドリームス」を実現させたのは、映画じゃないんだから、友成さんらの地道な行動以外にない。もっと、伝えたいことはいろいろあるのですが、このあたりで一区切りにします。(写真は、南アフリカでの野球風景。こういう草野球の ような風景がアフリカの野球事情と考えていただいて いいのではないか、と思います=ケープタウン・テーブル マウンテンがバック)
2013年01月25日

深夜になりましたが、更新はしておきたい、と思います。今日は、自分の住んでいる周辺のことで気になったことを記します。神戸市の須磨区から長田区に移り住んで約5ヶ月。最初は、利便性の良さ、物価の安さなどいいところばかり、目に付いてましたが、ここへ来て「あれ?」と思ってしまうことがチラホラ目に付き始めました。その最たるものが、店の閉店。それも、街(新長田)のシンボルともいえる店の閉店が相次ぐことです。昨年の晩秋に、ジョイプラザ=大丸の閉店を初めて聞いた時、「街(新長田)の玄関なのに」と残念とかを通り越して、びっくりしたのに続いて、今度はその近くにある「琉球ワールド」が閉店になる、とのことで。時事通信時代、転勤先の広島から神戸に戻ったのが2005年。その年あたりだったと思いますが、新長田に琉球ワールドが出来た、と聞いた時は本当に嬉しくなりました。プロ野球のキャンプ取材で、1988年以後、ほぼ毎年のように2月に訪れていた沖縄。いやでも、親しみはあったわけで。何で神戸に、とか理屈はどうでもよくって、ここへ行けば沖縄が味わえる、というのが僕の楽しみのひとつにもなってました。須磨から新長田へ越してきたことで、親しみはもっと深いものになっていたのですが、それがなくなる、と聞くと、正直に「もったいない」という言葉が心に浮かびました。琉球祭もそうなのですが、沖縄県自体を除いて、日本で最大規模の沖縄物産専門店だった「琉球ワールド宝島」もなくなるわけなので。中にある「空」という食堂でのライブ、とか、ここでしか味わえない、というものも全てなくなってしまうと思うと、これは、という感じで。神戸にいながら沖縄が味わえる、というのが定着してたのに、と思うと残念を通り越した思いにかられます。鉄人広場で夏場やってたイベントもどうなるんだろう?いや、新長田だけでなく、神戸の売りになってたんじゃないか、と僕は思います。いろんな事情はあったのでしょうが、街の象徴、といえるものになっていただけに、それでいいのか、と今も思ってます。大丸と琉球ワールドが消えることで、“どうなるんだろう”と新長田という街のことが今、心配でなりません。おそらく、私と私の家族は、今後、よほどのことがない限り、この地を離れることはない。これがあるからここはいいところだ、と勝手に思っていたものが、ほぼ時期を同じくして2つも消えるとは。詳しい事情は、新聞記者でもうない私には分かりません。ただ、こうなった流れと、今後、街をどうしていくつもりなのかは知りたい、と思います。街のシンボルというべきものが、災害が起こったわけでもなく2つもほぼ同時に消えるのは尋常ではない。長田で最も全国に通じるシンボル、鉄人モニュメント、が、この2つが消えることで“丸裸になったなあ”と思ったり。自分の今住む街が、元気、と逆方向に向かってるんじゃないか、と心配になるのはおかしなことではない、と思います。さて、どうするか。今の私の立場では見るだけしか出来ないのかもしれません。しれませんが、ともかく状況を正確に把握はしたいです。それが出来るか?まあ、やってみないと分かりませんしね。(写真は、昨年の琉球祭、それに、ブログ初公開の3歳のわが息子=長男=が、 大丸<ジョイプラザ>と鉄人をバックに、イベントでもらったお好み焼きを 食べてるもの、と「琉球ワールド」閉店の告知)
2013年01月24日

昨日は、「みんなの党」、神戸市会議員の大石よしのりさんのサポートで、神戸地下鉄の名谷駅に立ちました。昨夜、更新しようと思ったのですが、そのまま机で眠ってしまいました。まあ、そんな日もあります。大石さんを含む、一緒に立たれた3人の方には特に失礼しました。「みんなの党」の大石さん、杉原さん、それに神戸市長選で前回惜敗された樫野さんと政治家3人の方の駅立ち、ビラ配り、ポスティングなどを、こ22日間で、12日間行ったのですが、何事もやってみれば感じることがあり、考えることがある、でした。たとえば、ビラを配れば。JRの「須磨海浜公園」駅は南北に駅からの昇降口がありますが、ともかく取って頂ける。ターミナルになっている大きな駅(地下鉄とバスの「名谷」、地下鉄・JRの「新長田」など)では、どっと同じ時間帯に人の波は来るのですが、朝。出勤時の慌て方は、いつも時間ぎりぎりの私などもよく分かるところで。チラシ配りの人のことなど見てないのは当たり前といえば当たり前なのです。だから、人の波が大きいほうが、ビラ配りは難しい、と思います。でも、取ってくださる方は必ずいますから、効果がないのか、といえばそんなことはないのですけどね。あと、「立つこと」でいえば声ですね。14日の成人式にヴィッセル神戸の本拠地、ホームズスタジアム前に立った時に思いました。雨で予定していたチラシ配布が中止になったのですが、その代わりに樫野さんのポスターを掲げ、声を張り上げたのですが、これ、反応あったように思いました。新成人の何人かの方とは、まさにアイコンタクト、あるいは会釈で「人と人」としてのつながりが生まれていたような気がします。彼らのどの程度が、実際の選挙に来てくださるのかは分かりませんが、「あんなのもあったな」と思い出して下さることは、ある、と思います。やはり、成人式って一生に一度の日ですから。樫野さんもあとで「手ごたえがあった気がする」と、私が思ったのと同じ感想を言ってましたので、間違いなかったのかな、と。余談ですが、この応用を、21日に妙法寺に立った時にやってみました。この日は雨で、まずチラシは取ってもらえない、なら声。これも、効果があった気がしました。私を市議会議員と間違えて「ようやってるなあ。君らのような、若いもんに期待してるで」と、少し年配の方に声を掛けられたのもこの日でした。町の様子に関してももちろんなのですが、これについてはこれまでも書いてきてますし、今後も続けて記します。長くなりそうなので、このあたりで。あと、報告をいくつか。「みんなの党」の一般党員になったことは先日、写真で記したとおりです。それと、12月半ばから、職業トレーニングを有り余る時間を使ってやっていたのですが、それが逆に時間を圧迫してきたので、途中ながら見切りをつけることにしました。それと、衆議院議員選挙の出馬をやめる直接の理由となったネットの中傷の件ですが、今年に入ってから警察の方の協力もあっていくつか解決しました。「名誉毀損」に関しては、すでに告訴を警察が受理してくださっているものも含め、現在、捜査などが進行しているものと思います。刑事さんの動きまでは私には分かりませんが、ネット上で起こっていることをみれば、私にとってはありがたい方向になっているのではないか、と考えています。いずれにしても、民事でなく刑事の世界です。警察の方が、私の言い分を全部でないにせよ、かなり認めてくださった結果だと思ってます。事実無根の中傷、が証明される日はそう遠くないと信じてます。現在、警察に扱ったもらっているものは名誉毀損がひとつ(受理済み)、公職選挙法と名誉毀損で保留(こちらが提出すれば受理が決まっているもの)がひとつずつ、それ以外にもあるのですが書けるのはここまでです。捜査に入っているものもあり、事情を聞かれた方もおられると思います。しばらくは迷惑、お掛けします。以上です。本当に、長くなった。昨日、更新できなくてすみませんでした。(写真は22日早朝の名谷駅)
2013年01月24日

今朝は神戸地下鉄の「妙法寺」駅に立ちました。 「みんなの党」、神戸市会議員の大石よしのりさんの サポート。雨でビラを取ってもらおうにも、取ってくれる側 も両手が塞がって、という状態でしたから。 で、今日は、ともかく、声を出しました。発声練習よろしくで。 「みんなの党」となんど言ったか、でした(笑)。 昨夜の「関西運動記者クラブ」総会。 これも顔出して正解でした。やはり、昨年末の選挙の ことがありましたので、行くのはどうかな?と 思っていたのですが、少なくとも顔の見える 位置ではみなさん、暖かく迎えてくださって いたように思いました。持つべきものは、仕事仲間。 BINGOゲームもあったのですが、真ん中が フリースペーズというのを忘れてました。 記者クラブ幹事の、産経新聞の中野君が なぜか僕の手伝いをしてくれて、空けてくれてたのに、 真ん中に注意がいかず、トリプルリーチと なっていたことに気付いてませんでした。 当たっていたのかもしれませんが、なんとなく 当たらないほうが縁起がいいな、と思って たのでこれでよし、と。 今日は、全くとりとめもない日記ですが、 今日一番嬉しかったのは、バッジが届いたこと。 何のバッジか、って? 写真、お見せします(笑)。 (写真は妙法寺駅、ビンゴカード、バッジ)
2013年01月22日

遅くなりましたが昨夜(19日)、お邪魔した、神戸は三宮郊外で行われた風変わりな「コンサート」のことを書きます。タイトルは「gracias a la vida」(生きてることに感謝して)というものでした。FACEBOOK友だちの歌手、山崎小夜子さんにFACEBOOK上で招待されて行ったのですが、時期的に勝手に“震災復興のためのものなんだろうな”と思いこんでいました。たぶん、これは違いましたね。どういえばいいのか分からないのですが、アットホームな音楽会、気持ちを暖かくしてくれる会といえばいいのか。観客と一体、という謳い文句のコンサートはなんども経験してますが、今回ほどそれを感じさせてくれた会はありませんでした。そう。一体感。演じる側も、見る側も、同じ空間にいて同じ時間を過ごしている、というのをずっと感じさせてもらった2時間でした。最初のピエロの縁起の際に、2歳に達していないであろう男の子がステージ近くに登場した時に、それは予見できました。“この男の子の母親はどこにいるんだろう?なぜ、こんなにこの子はおとなしいんだろう”と、ステージとともに、観客席の最前列に気を取られた瞬間から、それは始まっていたといって良かったと思います。学校の教室のような会場に、50人もいなかったであろう観客。でも、その規模がほんとうに心地よかった。男の子の母親が登場し、アコーディオンを演奏し、男の子もステージで小さなアコーディオンを握る。そこまでの流れで、もう私など完全に一体化させられていたといってもいい。途中。場内で販売されていたおでんを食べれる時間も、またなんとも言えなくて。まさか、コンサートの途中で、須磨区の板宿産のおでんがあれだけ食べられるとは(笑)、でした。私を誘ってくださっていたトリに登場の山崎さんの声も素晴らしかった。ピアフとセルダン(ボクシング通には泣ける名前。「レイジング・ブル」との絡みを考えても)の一筋縄ではいかなかった男女関係をきちんと自分なりに考えて、アレンジされた、というのは凄いな、と。だって「愛の賛歌」って、日本では普通、タイトル通りに愛を歌い上げた歌って思われてますから。違うのに。震災復興、というのはいろんな意味合いを含んでいると思います。タイトルにそううたってなくても、人の心を暖かくさせてくれたり、優しい気分にさせてくれるならば、それは十分、聞きに来たその人の心にとっての復興となります。昨夜、私はそれを十分に与えて頂きました。その気持ちが、どれだけ持続できるのか、それは私の心の持ちようだと思っています。(写真はステージ前で待つ男の子を捉えたものと、山崎さんのもの)
2013年01月20日

20日の早朝、3時、というか、19日の深夜という方が正しいですね。なんだか、時間が経つのが早くて寝れてません。19日は昼過ぎから、前回の神戸市長選挙で惜敗された、樫野孝人さんの「神戸リメイクプロジェクト」のサポート。神戸市長田区の房王寺町等で少し動きました。神戸市の魅力に眺望があるのは、私が語るまでもないのですが、それを生み出しているのは、いつか語った須磨区の潮見台町と同じくで、海と山が極度に接近した地形が生み出した産物といっていいと思います。しかし、それに伴ってというか、高台に行くと突然、鉄道を中心に利便性がなくなってしまいます。19日に回った辺りより、北の鵯越(兵庫区)に住むことを検討したことも私はあるのですが、断念した一番の理由は、交通の便でした。1994年の頭、垂水区の名谷との比較をしたのですが、決め手となったのは夜の電車の接続。1994年はプロ野球の阪神の取材がメインとなることが決まっていました。ナイターが終わって、プロ野球でも人気球団である阪神タイガースを取材し原稿を書く。早くても、西宮にある甲子園を出るのが夜の10時半ぐらい。これだと、阪神・甲子園から新開地まで来て、神戸電鉄への乗り換えの最終(当時、10時半ぐらいでした)に間に合わなかったわけで。いかに、夜景が綺麗に見えるマンションでも、帰りが毎日タクシーというのはありえない世界。なので、住むのは断念しました。名谷は、神戸地下鉄のおかげで、三宮に12時近くに居さえすれば電車で帰れましたし、遅れてもJRの垂水駅まで出ればなんとかなる、という感じでした。いや、だから、代わりのバスを同じ時間(午前零時ぐらいまで)走らせてくれればいいのですが、それが今の状態で難しいのは私にも分かります。分かるのですが、もう少しどうにかならないのか、と思い続けているのも事実なのです。六甲に限らず、神戸のちょっとした坂、山の上からの眺望はかなりのものがあります。住まわれている人以外、ほとんど知らないような場所でも、実は見事な風景がゴロゴロしてます。交通の利便性をもう少しなんとかすれば、眺望を売りに出来る場所が、まだまだ神戸市内にはいくつもある。たぶん。今日、約2時間半をかけて、神戸電鉄の長田駅から地下鉄の上沢駅までずっと続く坂道を降りながら考えたことがこれでした。(写真・神戸市長田区の大丸山公園からの眺め遠景と近景のバランスの悪さがすべてかな?実際には、もっと突き抜けた綺麗な風景に見えます=ケロヨンはおまけ=笑)
2013年01月19日

昨日は、いつの間にか眠ってしまい朝。出来る限り毎日、更新しようとしてるブログですが、難しいですね。で、昨日も朝は「みんなの党」、大石よしのり神戸市会議員のサポートで神戸市は地下鉄「妙法寺」の駅に立ちました。まあ、寒いんですが、寒いのはこの時期、当たり前。それより、配っている「市政報告」のビラ、どれだけ取ってもらえるか、の方に気がいきますね。それにしても、昨日は、一挙にいろんな問題が解決に向かいました。来週のどこかでこのブログなどで報告するつもりですが、いいのか、悪いのか、玉虫色も仕方ない、と自分でも思えるものもいくつもありました。役所や警察通いも、まあひと段落つくと思います。で、朝の6時前から動いた日のひと段落した時間が夜の9時少し前。ここで、家の近くにある、ある「BAR」のマスター(この表現でいいのか)がネットのあるページに「アンニュイな気分」と書き込まれていて。“ああ、今日はお客さん、来ないな”とJRの新長田駅のホームで思った私は、なぜか店に行こう、と思ってしまいました。お酒を、限られた人と(本当に信頼しているひとりの方がおられる場以外では、飲まない、と今、決めてます)しか、飲まない、という自分との約束を守っている私は、当然、ひとりでは飲みません。だから「BAR」などへ行っても、本来は迷惑な客です。でも、行きたくなってしまって。行ってみると、お客さんは予想通りで、私だけ、という時間が約2時間。もちろん、ノンアルコール(笑)。でも、マスターには迷惑だったのかもしれませんが、楽しかった。なんだかんだ、一昨年の4月からゴタゴタに巻き込まれて、ゴタゴタはどんどん膨らんで「なんやねんこれ」と思っていた私には、考えたら家以外の居場所はなくなっていた気がします。そういう意味で、家以外の居場所がひとつぐらい、の甘えが私の心に芽生えていたということかもしれません。今後のことは、何も分かりません。50歳を越えて、そういう状態になれる、というのはある意味、自分ではいいことだと思ってます。沢木耕太郎さんの、私が20代前半に読んだエッセイにあった「地図を燃やす」という言葉。目の前にはっきりと見えていた地図を、一昨年、確かに私は燃やしました。おかげで。いつも明晰に。そして、目の前には「どちらか」の選択がいつも今、並んでいる。こんな楽しい人生、ありますかいな。ひとついえる事は、振り返っている暇なんか、ほんまにありません。それでも、まあ。居場所のひとつぐらい、あっても罰は当たらない、と思ってます。(写真は、朝の「妙法寺」駅。近くに住んでいたのに、降りたのは この日が初めてでした)
2013年01月19日

今朝は、11日に続いて、板宿に立ちました。「みんなの党」、神戸市議会議員の大石よしのりさんのサポート。その大石さんですが、「1・17」に関して、大石さんは「震災の日」と簡潔に表記されてます。僕は、これは正解だと、心底思ってます。「記念日」とか、メモリアルなんとか、というのは馴染まない。2004年に、ルワンダへ行った際、虐殺された方々の遺骨を並べてある場所を「虐殺記念館」と日本語で表記するしかない英語(いわゆるメモリアルです)表記だったことに違和感を覚えたのと同じです。災害、人災は「記念」するべきもんじゃないですから。で、今日。何ヶ所か、時間がある限り足を運んでみました。というかまずは自分の家。マンションのある神戸市長田区の久保町は、18年前に地震後の火災の影響で、焼け野原になった地域です。当然、私の今の住まいも、そこから復興して建てられたものです。今日、近所の大正筋商店街で行われた「豚汁」の炊き出しサービスに行った際、そこに展示されていた写真に、焼けただれて崩壊した今、自分が住んでいるところにあったマンションなどの姿も確認しました。だから、どう、ではないのですが、今の区画整理が出来て、綺麗になっている久保町からは想像出来ない姿でした。“震災があった”と聞かなければまず、今の街の様子では分からない。まあ、自分なりに今日は考えてみようと思って元町の旧居留地へも行きました。震災当時、ここにある、商船三井ビルディングに、時事通信社の神戸支局はありました。スポーツ畑の私も、当たり前ですが、普通の社会部の記者に交じって取材にあたりました。商船三井ビルは、知る人ぞ知る、歴史的建築物ですが、あの当時、ともかく、窓ガラスが破れていて、ふきっさらしの状態。支局は2階にあったのですが、暖房などもちろんなし。でも、本当に、寒かったと思った記憶がありません。やはり、精神状態も含め、臨戦態勢だったのだと思います。1月20日あたりから、プロ野球・オリックスのキャンプ取材に入るまでの間、ここが仕事の拠点となりました。トイレもまともに使えなかった。何日かしてから、ビルの元町よりの対面に簡易トイレが置かれて、ほっとしたのも覚えています。街中、ゴミ箱みたいな状態だったけど、公衆道徳はボクに限らず、会社近辺の方々はきちんと守っていたのが記憶に残ってます。いや、水で苦労したの、今思い出した。よぶんな水、飲めなかったし、使えなかったですよね。で、長くなりましたが、今は大丸のインテリア館に使われているそのビルディングへ。瓦礫がごろごろで。「これだけの人が亡くなる災害取材に君がかかわることはもうないと思うけど、よく見て覚えとけよな」と、東京から来ていた社会部のデスクに、いったん、取材から離れることになる日、ビルの前の瓦礫の山の中で言われたのも鮮明に覚えていて。不謹慎かどうかは分かりませんが“戦争映画の一コマみたいだな”と思ったのも思い出しました。当時の取材に関してのことは記しません。いろんなものを見、聞き、したのは当たり前です。私も広義では罹災者になると思いますが、そんなもの言ったら笑われる、の世界。心が痛む、とかいう表現を簡単に使ってはいけない、と思ったのは記します。そして、それは、記者を卒業した今も変わっていません。永久に変わらないでしょう。今日の最後は、新長田の駅前。ここは、夕方からキャンドルに火がつけられ並べられてました。時間が経つにつれて、風が強くなり、点けたもの点けたもの消えていく状態になってましたが、ボランティアの方々が辛抱強く点けているのを見てると、突然、人のつながり、って、と思ってしまいました。東北地方の「3・11」も係わったかたにとってはそうだと思いますが、神戸(阪神・淡路)の「1・17」も。生きている間、私が意識せずにこの街(神戸)で生活していくことなど不可能です。それを前提として、街がよりよくなるように、携わっていくことを残りのライフワークにすることだけはここに記します。(写真は、新長田・大正筋商店街の「豚汁の炊き出し」、簡易トイレのあった 位置から見た商船三井ビルディング、新長田のキャンドル)
2013年01月17日

今朝は、「みんなの党」の神戸市議会議員大石よしのりさんのサポートで神戸は須磨区中落合にある、地下鉄「名谷駅」に立ちました。朝。予定よりも約30分早く着くエクセレントな状態だった私は、久しぶりに「名谷駅」近辺を散策。1994年から2001年まで、隣の「総合運動公園」駅から徒歩10分のところに住んでいた私にとっては、懐かしい風景って感じで。しかし今朝、一番、心の奥底から「あの時は」と思ったのは、須磨パティオに入るまでのところに建っているユニバーシアード神戸大会の記念モニュメントでした。名谷地区を中心に行われた27年4、5ヶ月前の国際大会。ああ、そうだった、という感覚。1985年。社会人として一年目の24歳。デイリースポーツ社の記者だった私は、担当させられていたプロ野球よりも、一般スポーツ、五輪につながる競技に興味がありました。今、考えると、実に大胆なのですが、1985年に行われたユニバーシアード神戸大会に「どうしても取材させて欲しい」と、再三、デスクと掛け合った記憶があります。プロ野球で使いものにならない、と思われかけていた私に当時のデスクは何度か、ユニバーシアードの取材の機会を与えてくれました。あとで、そのデスクに聞いた話では「どうせ、記者としては使いものにならないから、整理部か校閲部へ行かせる前になんかやらせといたろ」の感覚だったそうですが(笑)。そんな裏事情はどうでもよく、私は何度か与えられたユニバーシアード神戸大会の取材の機会、本当に宝物を与えられたかのごとく、嬉々として取材し、原稿を書いた覚えがあります。男女同時スタートのマラソンで、女子優勝者の深尾真美さんに神戸大橋の付近で抜かされた当時の男子マラソン、日本のホープのこととか、鮮明とまでは言わないけど、きちんと記憶にあります。そんな中で、ボクが自分でもいまだに、書いた原稿の中で臨場感、という意味で一番だったのではないか、と思うのが、ユニバーシアード最終日、ユニバー競技場での走り高跳び。ソビエトのイゴール・パクリン選手の2メートル41の世界新記録(今もこの記録自体覚えています)樹立のことを書いた原稿は、もう二度と書けない、と自分でも思ってます。変な言い方ですが、陸上競技経験者の私は、パクリンの世界記録樹立の瞬間を追体験しているかのような感覚で原稿を書き上げました。デスクに送る前から、“これはもう書けないな”と思った記憶があります。現物は手元にないのですが、私の感覚が正しかったのはその後の、この原稿の評判で分かりました。読まれたデスク、先輩記者も含め「谷川、あれ凄かったな」と何人もに言われたのですから。デイリースポーツ入社後、初めてほめられた瞬間だったような気がします。パクリン選手に関しては、当然のようにその後、私なりに注目してました。大学生で世界記録樹立ですから、どれだけ凄い選手になるのか、と思いながら。しかし、パクリンの最高の輝きも、あの9月の神戸だったのです。彼は、2年後に世界記録を塗り替えられ、3年後のソウル五輪では7位に終わってしまいます。その3年後の東京で行われた世界陸上でもどうでもいい(失礼)ような記録で終わり名前を聞かなくなってしまいました。朝、まだ明け切らない空をバックにそびえているユニバーシアードのモニュメントを眺めながら、走馬灯のように私の頭の中を過ぎ去った27年4ヶ月前の記憶。ある意味、初心に帰れ、と天にいるかもしれない方に告げられたのかもしれない。まあ、早起きすればいろいろ考えることはあります。
2013年01月16日

久しぶりに、のんびりの土曜日。マンションのリビングには昼の光が溢れて、おだやかなムードなのですが。私の心はおだやかではありません。昨夜、ここに書こうとして、頭の整理が付かなかった、大きな問題があります。一枚のチラシ。賃貸マンションのチラシだったのですが、それが心を乱しました。「UR賃貸住宅」のもので、場所は神戸市兵庫区。マンション名は「キャナル タウン ウエスト」です。“港町の歴史をモチーフに、赤レンガを効果的に使ったリズム良く並ぶ住棟。豊かな表情を魅せ、街の個性と統一感をつくっています”が、キャッチコピー。20枚を越える清潔で、きれいに見える写真が配置され、このチラシを見ると「新築物件」としか見えないのではないか、と思うほどです。私も最初、見た瞬間はそう思ったのですが、マンション名を見て「?」となりました。“これって、JRの車両から新長田と兵庫駅の間でいつも見ているマンションじゃないか”と。慌てて、概要のところを見てみると、間違いない。平成8年1月に管理が開始されている築15年を越えているマンションでした。それが家賃7万2千8百円から15万6千3百円の間で、借主を募集している。総戸数1200、ってただ事じゃないな、と。答えは、10日の夕刊(私が読んだのは毎日新聞)に出てました。阪神大震災の被災者の方に向けた復興住宅。「キャナル タウン ウエスト」はまさに、それだったわけで。URは都市再生機構のことですから、神戸市が復興住宅として20年期限で借り上げた住まいのひとつだったということでしょう。そして、それを貸主に返却する期限が迫ってきている、ということで。実際に、転居された方もかなりおられるから、改めて「貸し出し」の広告をURが新聞折込として配布してきているのは間違いない。しかし…。市政に内側から係わってない私には、正確なことは分かりませんが、問題点がいろいろと潜んでいる気がするのです。築15年を越えたマンションが新築よろしく(あくまで私見ですが、値段も優しいものには思えないです)のチラシで広告される違和感。貸し手の言い分もあるのは分かるのですが、どうしても??、という気分になってしまいます。そして、報道も。事実だけを伝えて、解決策は記者の私案としても書かれていない。これは、マスコミ出身の私には理由も分かります。なら、誰が解決するか。今なら、私にも分かるような気がします。(一部、最初にアップしたものと差し替えました)
2013年01月12日

突然、アルベール・カミュについて考えた。 大学時代、当時、ルポライターと表記されていた沢木耕太郎さんの影響もあり、行動の指針とさえした作家。考えたら、僕は1961年生まれだから、すでにカミュは亡くなっていたことになる。あまりこれまで考えなかったが。 「ぼくは受け入れるというこの言葉を嫌悪する。ぼくの 欲するのは、いっさいか、しからずんば無かだ。」 「郵便局の臨時雇いも征服者に拮抗しうるーもし両者とも 意識的な姿勢で生きているならば。こういう点では、あらゆる 経験は無差別である」 「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたす のに十分たりるのだ」 (すべて「シーシュポスの神話」(新潮文庫版、清水徹訳より 抜粋) 車の事故で亡くなったのが47歳。それより、長く生き続けていることを私は幸福と思うべきなのだろう。 明晰に、そして、頂上を目がける闘争だけで、心を満たしていける時間がまだ私にはある。この文章を書き終わった後に、生きている、というだけで。 難しいことをいう必要はないわな。要は、「あしたのジョー」じゃないか。充実感がない、いや充実感を求めない人生なんて。 つまらないことを考えている場合じゃないよな。10日もがんばろ。充実出来ればいいなあ。
2013年01月09日

須磨区の話を連日書いてます。今日も、少しだけ被ります。ともかく、しばらくの間は神戸の話が基本になると思ってください。それも、自分が住んでいた、あるいは住んでいる辺りに限定されるごく私的な神戸観(感の方が正しいかも)です。時事通信社勤務時代の1994年3月、東京から大阪へ転勤を言われて、住まいとして選んだのは神戸は垂水区の名谷、地下鉄西神線沿線となる「総合運動公園」駅から徒歩約10分のマンションでした。ここも須磨区潮見台町のマンションと同じく、アップダウンの厳しい坂の斜面に立てられていました。当然、前にはさえぎるものもないですから、開放感は抜群で。景色は、ここでは海ではなく、山でした。住んでから数年は遠い先に、垂水の海も見えてましたが、遠景の先に高層マンションが建って海は見えなくなりました。しかし、四季の移り変わりが前の山を見るだけで分かるという眺望は僕には本当に心地良かった。難点は、後述するものを除くと昨日記載のマンションと同じく、ともかく坂がきつかったこと。それと「総合運動公園」の駅の周りには、いまでこそローソンがひとつ出来てますが、店と呼べるものが駅の売店以外になかった。必然的に、買い物は隣の名谷駅か、板宿駅まで出て、ということになりました。要は、生活の利便性は全くない場所で。ただ、スポーツ記者をやっていた私にとっては、プロ野球のオリックス、サッカーのヴィッセル神戸の取材にはこれほど便利なところもなかったわけで。ナイターが終わって、取材して原稿を書いて、家に着いてまだ日が変わるまで1時間半ある、とかいうのは同業の記者にとっては考えられない居住環境でした。プロ野球のオフの時も、オリックスの球団事務所は当時、総合運動公園駅そばにありましたから、文句を言ってはいけない、の世界でした。で、ようやく、タイトルの「須磨区と垂水区と西区」の話となるのですが、私の住んでいたこのマンション、ゲートを出ると勾配のきつい坂になっているのですが、ここの横断歩道を渡ると「須磨区」でした。私のマンションは「垂水区」。そして、その坂を上り、「グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとスタジアム)」を尻目に、オリックスのイチローらが住んでいた寮に着くとそこは「西区」。見事なほど、区の境が入り組んでいる地域だったわけです。当時、横断歩道を付けてもらうのに、どの区に言えばいいのか、のような議論もマンション内であったような記憶があります。ともかく、分かりにくかった。どこにも、区の境を記す看板みたいなのがなかったですから。だからどうした、と言わないでください。要は、何か区役所に用事がある時、この3つの区の区役所は全て別の場所にあるのです。しかも、見事に散ってます(笑)。知ってる方は知ってられると思いますが、同じ交通機関(バス、電車)で「総合運動公園」から3つの役所に行くことは不可能。その上に、もし3つの役所を一日で行かなければいけないとしたら、車でないと、何時間掛かるのか、今、計算しろ、と言われても私には出来ません。この場所に限らず、区の境目に住まわれている方には、「あれ?」っと思う行政上の不便さが出てくると思います。選挙ひとつとっても、目の前に須磨区の立候補者看板があって、投票権は垂水区、となってたりしてたのですから。同じ市の中にある限り、区同士で互換性を高めていかないとこういう境に住まわれているような方は、思わぬところで行政に不満を持つかも、ということを言いたかっただけで。まあ、選挙区の互換性は無茶なことですが、健康保険や年金、住民票などの交付も含めての話ですね。ほとんどそんなもん出来てるやないか、と言われたら、それはボクの勉強不足。謝ります。今はきちんと相互に出来てるのでしょう、たぶん。(写真は1994年3月から2003年11月まで途中、 転勤で空き家とした時期もあるにせよ、住んだマンション)
2013年01月06日

須磨の景観。昨日に続いて、須磨のJR沿線のことについて書きます。 私が昨年9月の初めまで住んでいたマンションは、景観は本当に文句を言ったら怒られて当たり前、というところでした。写真にも提示しますが、ベランダというか、リビングから初日の出が見れるような部屋で。 しかし、このマンションの売却を決意してからが大変でした。元々、身分不相応なところに住んでいたので、売却は当然のことだったのですが、売れませんでした。 景観の良さもあって、オープンハウスにすれば、ほぼ必ず、見に来てくださる方はおられたのですが、「すごい景色ですね」と言って、それっきり、というのが 約30組。2011年10月に売り出して、売れたのは 2012年6月末。その間、売却価格は約1000万円近く 下がりました。ローンも残ってましたから、かなりの 損益が出てしまい、今も経済状況は圧迫されてます。 まあ、仕事も今、充電中の身ですし。 プライベートなことをここに書くのには、もちろん 理由があります。なかなか売れなかった理由。 これは、ほとんど、一点に尽きました。 景観の代償として立地条件が悪い。坂が急で、年配の方、子供が毎日上り下り、と考えると、とても生活する場所ではない、という理由の方が9割を超えていたと思います。 私にとっては、盲点でした。「運動不足にならずに済むからええわ」と 考える人だった私が、世間では少数派だった わけです。 きちんと、国道2号線からエントランスまでの、エスカレーターか、エレベーターが必要、と考える方が大半だったわけで。写真でお見せするように、急な斜面がマンションの横にあるわけですが、ここも含め、私の住んでいたマンションやその先にある住宅街に行き易くする公共の「ムービング・ウォーク」みたいなものが必要だったのではないか、と今は思います。 須磨の景観の一部は、実はこの急な坂のおかげで形成されているところがあります。坂と引き換えの景色。 元々、別荘地だったという潮見台町近辺に限られたことなのかもしれませんが、こういった不便さを解消するための行動を、私は確かに起こしていませんでした。住んでいる方の数、を考えると必要性は低いのは確かかもしれない。それでも・・・。住まいこそ変わったとはいえ、これも、考えてみたいことのひとつなのは間違いありません。 (写真は自宅だったマンションのベランダから撮った昨年の 初日の出と、そのマンション横の延々と続く階段)
2013年01月05日

須磨から隣の区の長田へ引越しして以来、4ヶ月めにして初めて須磨の海岸へ。 生まれは須磨の私ですが、物心ついてから須磨にきちんと住んだといえるのは2005年の初めから昨年の9月初めまで。しかもこの7年半、海が見えるのが当たり前の生活だった関係もあって、わざわざこうやって海岸へ来ることは稀でした。拙書「めっちゃピンぼけ」の重要なシーンに選んでいる場所なのにね(笑)。 この駅(JR須磨)の周りの雰囲気は大好きです。ただ、暮らしていた時感じたのは、食材の確保、本の購入(駅の周りから本屋が2004年以後、なくなっている)など、普段の生活の利便性の不足でした。 今の新長田の駅南は、利便性は抜群です。ただし、須磨のような景観、海岸があるかどうかは別問題。鉄人28号はいるんですが。 神戸市で須磨と長田は隣合わせの区です。うまく融合させたら、三宮より西の地域で、何か生み出せそうな気がする。金もコネもないお前がいうな、と言われそうですが、考えたくなってしまいます。 自分と自分の家族が住む街をより良くする、ということを考えること。単純に妄想かもしれませんが、それが今、一番楽しく思えることです。もっと、そういったことを具体的に話し合ったり、計画したり、出来る仲間。今年の目標のひとつにそういう信頼できる仲間を作ることは挙げておきたい、と思ってます。 (写真は2013年1月4日、夕暮れのJR須磨駅と須磨海岸)
2013年01月04日

初詣。 神戸市須磨区の綱敷天満宮へ行きました。昨年、困っていたことをお願いして、唯一解決してもらえた、と思えた須磨の天神さん。 今年もごく普通のことを願ってきました。帰りに、引いたおみくじは、写真の通りで「大吉」。内容は「初めは危ない谷の小川の橋を渡るような心配事 があるが驚き迷うことはありません。後には何も 彼も平和に収まります。凡て小さい事も用心し てすればよろしい」だそうで。 今の状況にぴったりで、一番言われて嬉しいことのような気がしました。“ありがとうございます”と、心の中で。その通りになって欲しいな、と。 (写真は、綱敷天満宮へ行く前に見た明石大橋と合わせて、で)
2013年01月02日

明けましておめでとうございます。新しい気分で、といきたいですが、旧年中に解決出来なかった問題もいろいろと。それでも、2013年と名の付く月日は今日も合わせて365日。それだけの日があれば、出来る限り無駄に過ごす日を減らせることで、ある程度のことは片付くと信じてます。来年の今日、もっと笑顔で迎えられることが今年の目標です。あと、今日、母親が突然のように、津名郡北淡町(現淡路市=淡路島)の平成17年に発行された北淡町50周年記念の「広報 ほくだん」を私に手渡してくれました。町を支えてきた名誉市民のひとりに親戚がいることと、私の祖父が北淡町の町会議員として歴代議長を務めたことがあることが記されていました。伝え聞いてはいましたが、印刷物で見たのは今日が初めてでした。「その地域の人のためになって何かをやらないかんよ」母親が私に今日、添えてきた言葉はありきたりですが、私が出来ていない、と自覚できることです。何年かけても、その方向で何か出来たと思えることをまずやる。最低、それだけは決意したのが元旦でした。(写真は、「広報ほくだん」の北淡町50周年記念誌より。 確かに、歴代議長に私の祖父の名があります)
2013年01月01日
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