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ふと思い出したので忘れないように書いておきます。母がリハビリ病院に入院して1ヶ月位だったので8月位だったと思います。ある日、看護師さんから、患者さん達のための楽しい会があるので出来たら参加してくださいね、とお誘いがありました。母は当時朦朧としていることが多く、こちらが話しかけた内容が理解出来ているか良くわからない状態でした。食事はクリーム状のものがやっと食べられるようになっていましたが、自分で座ることも寝返りも出来ず、三角クッションを数十分ごとに差し替えていて移動で車椅子に座ってもらってもぐったりしています。これからどうなるのか、どうしたらいいのか毎日何度も何度も考えて、精一杯の状況でした。そこに、会の名前はわすれてしまいましたがお楽しみ会の話です。よくわからずに、詳細を聞くと、病室からすぐの廊下の横にあるフリースペースで皆で歌を歌ったり、楽器が演奏できる人は演奏したり楽しい会なのでぜひ参加してくださいとのことです。でも、母は歌を歌うどころか、言葉も発せないし、音楽だってわかっているのかもわからなので母の状態でも参加できるんでしょうか?と聞きました。すると、聴くだけでもいいんですよ、とのことで、どういう形態なのか、どういう会なのかもよくわからずその時間、車椅子を押して皆が歌っているところに行きました。皆楽しそうに歌を歌ったり誰かがピアノを演奏したり、皆で鈴(カラオケにあるような)を振ったり楽しそうにしていましたが、母はぐったりして、皆が歌をうたっていることもわからないようでした。手に鈴をもってもらって(私の手で押さえて)母の手を動かして鈴を振ったりしましたが、鈴自体が重く感じたようで、腕で動かせませんでした。母は3ヶ月間経鼻栄養だけで、食事をしていなかったので筋肉も脂肪も落ちて痩せてしまっていたので鈴を振ることも難しかったのだと思います。ぐったりしているのに鈴を振らせるのはつらそうでほんの少し振って、あとはその場にただいましたが、他の方は車椅子でも、しっかりしてお元気そうで、あ~脳梗塞と言っても、車椅子と言っても全然違うんだなあと、他の方達との距離を感じました。歌を歌える方や、自分で車椅子を動かせる方がどんなにお元気に見えたか。しっかりした意識がある方が、別世界の人のようでした。その会に参加した日、これは母にとって役に立つ、楽しい会ではなかった、と思いましたけど、そして毎日があまりにも忙しくてその会のことを後で考える暇はありませんでしたけど、今思えば母は朦朧としても音楽がわかっていたのだろうな何らかの良い刺激になったのだろうなほんのわずかでも良い刺激があるのはないより幸せだな参加して良かったなと思います。リハビリ病院には4ヶ月ほどいましたが、その会はその時だけでした。あれは何の会だったのか。七夕と言っていたような気がするけど七夕よりあとの時期だし、旧暦の七夕なのか、お盆の会だったのか。当時は仕事をしながら、退社後リハビリ病院に向かい、消灯時まで自己リハビリをして、10時位に帰宅で、毎日いろんな事を考えたり検索したりしてあまりにも情報がありすぎて忘れていました。あの時は全く検討もつかなかったけど、母がとりあえず意識を戻して少し会話も出来て良かったなあと思います。たった3年で亡くなってしまうとは思わなくて今も諦めきれないし、母がいないことがよくわからないんですけど一緒に頑張ってくれてありがたかったなと思います。だからきっと今も一緒にいてくれると思ってどうにかやっていっています。今日は7月のお盆の明けです。きっと来てくれたと思います。って、いつも一緒にいると思っているのに、お盆の時は来てくれるってつじつま合わないけど、私にはわからない世界だからきっと両方ありなのかもしれないです。いつも大事に思っているご先祖様達、父方の祖父母、曾祖父母、母方の祖父母、曾祖父母、父母、叔父叔母達、どうぞ幸せでいてもらえますように。そしていつも一緒にいてね。下:リハビリ病院退院後、自宅介護になり自主リハビリをいろいろ工夫して続けました。毎晩、寝る前に布団の中で体を起こし歌を8曲歌っていて、私が腕を持って動かしながら歌に合わせた簡単体操もしていました。これは滑舌や嚥下訓練にもなって効果的だったと思います。画像をクリックすると詳細が見られます。
2024.07.16
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この時期は満開の桜と花びらが散り始めた花道があちこちにあるので、歩くのもちょっと幸せな気分。桜吹雪というと、母が亡くなる1年前に見た桜を思い出します。確か遅いお昼に出かけたレストランの窓から桜が満開な場所があるのを見て、急遽、そこにも行ってみることにしました。その場所はとても斬新な作りで大きな道路が沢山交差し、道路の高低差もいろいろあって、どの道がどこへ繋がるかよくわからず遠くに見える桜を目指して少し不安な気持ちで車椅子を押しました。午後4時位になっていたので、明るく暖かいうちに、母に桜をみてもらおうと当時はいつも時間に追われていたのでせかされるような気持ちで行くと、そこはこじんまりと言うのか、広いと言うのか広いんだけどぐるっと見渡せて歩ける範囲の公園で公園の中心には見事な桜の巨木に囲まれた桜のトンネルの並木道が、ぐるりと一周するように続いていました。芝生やベンチには桜を眺める人達が三々五々にのんびりくつろいでいて、その人達が見ている方角なので何かちょっと居心地の悪さを感じながら、車椅子を押しながら桜のトンネルをくぐって桜並木を歩きました。肌寒い少しだけ風がある日でしたが、その時刻は日が差してぽかぽか陽気で、風がさ~っと吹くたびに光の中を桜吹雪が降り注いで、まるで舞台でも歩いているような感じでこんなに素敵な場所を歩いていいのかな、と何度か、そこが只の公園の歩道であることや他にも歩いている人がいることを確認した位です。車椅子を押していると、母がどんな表情なのかわからないので、母の後ろ姿を確認しつつ時々声をかけるのですが、この時はほとんど反応がなかったので、疲れてしまって、桜を見る余裕、楽しむ余裕、桜だということがわかっていた余裕もなかったのではないかとずっと思っていました。ですけど今考えてみると、レストランで写真を撮ったとき、母は笑顔になってくれましたし、小さく切ってとろみをつけた食事も取ってくれたから元気でした。(とろみは顆粒状のスティックを必ず持参)上着を着て帽子もスカーフも巻いていたから寒くはなかったし、いろいろわかっていたからきっと桜も楽しんでくれたのだと思います。なので桜吹雪を見ると母と一緒に見たなあ見てもらえて良かったなと思います。下:桜を見に行けない人にも盆栽で楽しんでもらえます。だまにならずにとろみがその場ですぐつけられるスティック状の持ち運びしやすいとろみ剤。とても便利です。飲み物や汁物には必ず入れてご飯や小さく切った固形のおかずやデザートと一緒に食べてもらいました。母は嚥下訓練で噛んだり飲んだりが出来るようになったのでとろみ剤が使えましたが、それでも毎回、「食べま~す」「苺で~す」「よく噛んでね~」「大丈夫ですか?」「はい、ごっくん」と声かけをしながら、様子を見ながらスプーンで口に運んでいました。画像をクリックすると詳細が見られます。
2024.04.08
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脳梗塞で要介護5になった母のトイレ介助をご参考になれたらと書いておきます。母は脳梗塞で最初4ヶ月以上も寝たきりで朦朧として寝返りも打てず、その後数ヶ月も調子が良いとき以外は自分で寝返りが打てなかったので、三角クッションで2時間おきに体位を変えていました。急性期病院でのリハビリとして車椅子に座らせてもずり落ちるので日中は数時間、リハビリとしてそういった患者用に作られたベスト状の抱っこ紐で体を車椅子にくくりつけられて座る練習をしていました。そんな状態ですからトイレに行くのは夢のような話で最初の6ヶ月はベッドの上でのオムツ交換でした。その方法についてはまたいつか書きます。そんな状態でしたが、脳梗塞になった直後からの理学療法士のリハビリと家族による毎日の自己リハビリと母本人の努力で、医師達も驚く回復で抱きかかえるような介助で立ち上がったり座ったり、調子が良いときは10m程度なら手引きで歩くこともできるようになりました。そのリハビリ方法や工夫のいくつかはすでにブログに書いていますし今後も思い出したり、時間がある時に少しづつ書いて置く予定です。それぞれ細かいコツなど書くので長くなりますから、リハビリ病院で学んだ基本に今回は私のオリジナルを加えたトイレ介助の方法についてです。リハビリ病院で学んだ基本は他の病院でも教えてくれますが私のオリジナルは他では重点を置かれてない部分かもしれませんが私はとても重要なポイントの一つだと感じたので書いておきます。1.まず母にこれからトイレに行くと理解してもらう(オリジナル)脳梗塞で失語症でも朦朧としていても本人は理解していることが多いのでそれを尊重して、分かり易い言葉で明るく「トイレに行きましょう」とか「トイレに行く?」と話しかけました。その時の母の反応で、意識がはっきりしているか、朦朧として力を入れた介助が必要か確認できました。これをせずに急に立たせよう、動かそうとしたり、ほぼ無言や小さな声で体を急に触ったり持ち上げたりすると、本人は心の準備が出来ていないのでびっくりしたり、すぐに動けなかったり無理強いされている気がして拒否したりで、結果介護する側も大変になると思います。2.母に立ち上がろう、という気持ちになってもらう(明るく声を掛けて気合いを入れてもらう部分がオリジナル。いちにのさんは広く知られていてとても効果的な方法)「じゃあ立ちますよ、立てますか?立ってください。いち、にの、さん!」と明るく声をかけて、ズボンのウエストの背中部分を左手で持ち、右手で母のウエストを抱くように抱えて引っ張り上げます。母も「はい!」と返事してくれたり「いち、にの、さん!」と自分で立ち上がろうとしてくれたりそういう小さなことが一つ一つ幸せでした。母の体調が良くないときは「いち、にの、さん」と母も言うものの全然立てずに何度も繰り返してかけ声を掛けて、力ずくで引っ張り上げたり(介護中はずっと指を痛めてました)、半分朦朧としていると「いち、にの、さんの、しの・・・」と力なく言うだけで体は全然動かない事とかよくありました。ちなみに脳梗塞で、考えると言葉が出なかったので、「いち、にの、さん」位までは数秒で出る咄嗟の言葉として言えるけど、「いち、にの、さんの、しの」の後は、時間が経って頭の中で考えて話すモードになるらしく、「ごの、ろくの、ななの」みたいに続けることはできませんでした。気持ちとしては続けたいけど、言葉に出せなかったのだと思います。でも、一時は意識不明とそれに近い状況だったので、「いち、にの、さん!」と元気に言ってくれるだけでもう毎日嬉しくてありがたくて幸せでした。3.母が倒れないように支える片手で母のズボンの後ろウエストをしっかり持ち、(広く知られている方法でとても効果的)片手で母の脇の下から背中まで手を回して母にも私を抱きかかえるようにつかまってもらい抱きかかえるように椅子から引っ張り上げ、椅子の前に立ち上がった母が倒れないようにすかさず後ろ側から抱きかかえるように支えます。母が調子が良いときは自分で片手で肘掛けに手をついて片手で私の腕につかまって自分で立ち上がってくれました。4.サポートしながら歩いてもらう(オリジナル)そのまま後ろから抱きかかえるようにして母が倒れないように支えながら「じゃあ歩きま~す。歩けますか~?」と声を掛けると、母は反射的に「はい」とか「歩けます」と答えてくれます。朦朧としていると「う~」という言葉にはならない答えが出るので、その時の調子がわかり、それによってどの位母を支えるかが決まります。疲れて眠くなっていてふらふらしていることもあるし、その日その日で体調を見ながら対応します。5.その時の体調に合わせて歩行をサポート(オリジナル)朦朧としている、ふらふらしている時は声を1歩1歩掛けてできるだけ意識をはっきりさせてもらいながら後ろからしっかり支え、私の右足を母の右足の後ろ、左足を母の左足の後ろにくっつけて、「じゃあ歩きま~す!はい右あ~し!はい左あ~し!」と言いながら、私の右膝を前に出すと母の右膝も後ろから押されて前に出るので、後ろからゆっくり押すようにして一歩一歩、トイレまで歩いてもらいました。私は力がないので、母が倒れたりしたら力尽くで抱え上げたりはできないので、母に協力してもらって、母の力を支えて歩いてもらうという方法でできたことはとても幸せでした。6~7ヶ月以上寝返りも打てなかった母が歩けたのは最初から諦めずに小さなリハビリから頑張って続けたのもあったのだと思います。勿論、一人一人状況は違うけれど、諦めないのは大事だと思います。母の調子が良い時は私の両腕を両手でつかんでもらって私は後ろ向きに、母を見ながらすり足で歩行介助できました。(広く知られている方法でとても効果的)これは母が自分の力で自分の意思で歩くのでこれだけでリハビリになりました。なのでできるときは積極的に声かけをしながらしていましたが、最初は母がパタンと頭から倒れてしまったことがあって、怖くて頭を保護するスポンジ入りの帽子を何種類か注文して、最初の数ヶ月は家の中でかぶってもらっていた位とても気をつけていました。ここまでトイレまで行く介助方法を書きました。長くなったのでトイレの中での介助については又ゆっくり書きます。下:現在この商品を扱っているお店がとても少ないのですが、他の商品より断然、水(私はぬるま湯を入れていました)が沢山入れられ=綺麗に洗い流せる、押しやすく、シャワーも当たりが良くて沢山出てとても使いやすいです。とても良かったので2個購入し、一つにはボディソープとぬるま湯を入れお尻を毎回、泡で洗ってお湯で洗い流していました。おむつをつかっていると、尿がお尻についてしまうので1日数回綺麗に洗い流すと、肌がかぶれることなく快適に過ごしてもらえてとても良かったと思います。画像をクリックすると詳細が見られます。
2024.03.27
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介護の基本の一つ立ち上がりのサポートについての工夫を思い出したので書いておきます。今回は立ち上がれるまでの状況についてです。脳梗塞で要介護5になった母は最初の6~7ヶ月は寝返りさえ自分でうつことが出来ないことが多く、急性期病院ではベッド本体の空気圧を自動で変え体圧分散する高機能ベッドを使用し、リハビリ病院では三角パッドを1~2時間ごとに差し替えて人力で体位交換をする形をとっていました。意識はかろうじでありましたが朦朧としていて、指先が少し動いたり動かなかったりでした。そんな状態でも電動ベッドの背もたれを起こして座位にしたり、車椅子に乗せたりするので最初は大丈夫かなと思ったのですがそれがリハビリの最初の一歩なのだそうです。なぜ体位交換や座位になることが大切かというと理由はいろいろあると思いますが、一つは体圧を分散させて褥瘡を防ぐこと、もう一つは体を少しでも動かして体を固まらせてしまわないこと、少しでも筋力をつけることだと思います。そんな、寝たきりの状況が最初の4か月ほど続き、医師達にも、もう立ち上がることはできないと言われていて、立ち上がることは夢の夢、でも手足を動かすだけでもできるようになれば!今日より少しでも明日が良くなれば!と藁をも掴む思いで毎日、母を見舞って自主リハビリをしていました。リハビリ病院の担当医は匙をなげていたものの理学療法士さんがとても良い方で根気よく専門のリハビリしていただきました。家族側も毎日病院に通って1.意識を覚醒してもらう2.やる気を出してもらう3.体をほぐす4.リハビリで学んだことを復習する5.何か異変がないか確認し、あればすぐ対処するという事を中心に自主リハビリサポートをするうちに驚くような効果がある日出たんです。それは、母の手をベッドの枠に動かしてあげ、声かけのサポートをすればベッドの枠につかまって上体を起こせるようになり、そしてその1~2週間後には、足を下ろし床に足をつけ、ベッドの枠につかまって立ち上がる事ができるようになったんです!(これができたのは理学療法士によるリハビリを集中的に行っていたその時だけでしたが)これは理学療法士の専門的で根気あるサポートがなければ出来なかったことで、母が自分で上体を起こせるようになったのを見たときにはとても驚きました。また同時に、内容が多岐に渡るのでこのブログのリハビリのカテゴリーに分けて書いてありますが、私も考えられる限りの工夫や努力をしたのが身を結んだと思われます。このおかげで、リハビリ病院退院後の母の介護がとても幸せでしたので、リハビリ病院では状態を早読みすることなく焦ることなく、やれることはすべてすることが大事だなと思いました。リハビリ病院退院後の具体的なサポートについては立ち上がりのサポート2に書きますが、書くのに時間がかかるので、ゆっくり上げると思います。購入して役に立ったサポート器具。類似商品がいろいろありますが、しっかりした作りのものを選び、さらに足元を家具やドアの端の隙間(開けっ放しになります)で抑えて安定感を増して、使う際は私もささえながら3か所に置いて使い重宝しました。どのタイプでもこれだけでは力を入れる方向を調整して使わないと、ひっくり返ります。それができる方向けの商品ですのでご注意ください。母はできないので、私が支えながら使ってもらいました。画像をクリックすると詳細が見られます。
2024.01.25
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脳梗塞で要介護5になった母が日中は車椅子で座りっきりながらデイサービスに行っていた時の話です。朦朧としている事が多かった母に、自宅での自主リハビリの一つとしてできるだけ話しかけをしており、デイサービスから帰った母に「楽しかった?」「今日は何をしたの?」等とあえて楽しい口調で聞くのが日課になっていました。デイサービスでただ車椅子に座らされていることも多かったらしい母は、何もしていないことも多く、また、失語症になってしまったために文になった会話がほとんどできず、大抵は、何をしたか答えることができませんでしたが、楽しかった?と聞かれると、頷いたり、調子の良い時は「楽しかった」と言ってくれました。しかし、ある日、「今日は何をしたの?」との問いに「も・ち・・・、も・ち・つき」と答えたのです。餅つき?「餅つき?お餅ついたの?」と驚いて聞くと頷きます。母が当時通っていたのは、イベントなど何もない、要介護度が高い利用者向けの小規模のデイサービスでお餅つきをするとも思われませんし、もししたとしても、母が参加出来るとも思われません。しかし、何度聞いても、自分がついたとうなずきます。それは違うだろうなあ、何か勘違いかな、それとも母は混乱しているのかなと別の日「今日はお餅つきしたの?」と聞いたことが何回かありますが、「ううん」とか「いいえ」とか答えていました。こんなにはっきりと言うのも珍しいけど、何かと勘違いしているのだろうと思いつつ、そのままになってしまいましたが、それから2年後、母が亡くなってわけがわかりました。施設に預けてあった紙おむつや着替え、絵本や知育おもちゃの引き取りのことで連絡があり、その中には、手のリハビリにも音の刺激にもなるのでスタッフさんもつかえるように2個購入して預けたもののすっかり忘れていたカスタネットがありました。デイサービスにお渡しする前に家でも何回か練習したのですが、叩く力もなくて、ほんの何回かさわるように叩いて、音がかすかに出たそれだけだったような気がします。「こんなのも預けていたんですね。結局使えないままでしたよね」と言うと「いいえ、何度か使わせていただきましたよ。上手に叩いておられましたよ」とおっしゃるので、びっくりして、「カスタネットが使えたんですか?」と聞くと、「片手で叩くだけですけど、ぺったんぺったんお餅つきって」とおっしゃるのでああ、かけ声をかけてもらって、お餅つきごっこのようにして叩いたので「カスタネットを叩いてお餅つきごっこ」と言えずに「も・ち・つき」と答えたんだ、母は何をしていたかちゃんとわかっていたし記憶もしっかりしていたんだと急に謎が解けました。デイサービスに預けていたもので綺麗なものはそのまま施設で使って頂くことにしたのでカスタネットもそのまま受け取って頂いたのかちょっと思い出せませんが、もしかすると、母の物と一緒に実家にしまい込んであるのかもしれません。でも、2~3回だけでも使ってもらえて良かったし、要介護5になっても「餅つき」を楽しんでもらえて良かったです。母が幸せでいてくれるように消えていなくならないでいてくれるようにちゃんと見てくれているように今も毎日願っています。画像をクリックすると詳細が見られます。
2023.08.23
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4~5年前に書いて下書きに入れっぱなしだった話です。途中まで書いたものを読み直して、そうだったなあ、こういう会話で笑ったなあとすっかり忘れていたのを思い出しました。しょうもない冗談でも、母と笑いあえて良かったなあと思ったので載せておきます。家事をしていて脈略なく、ふと母との会話を思い出したので忘れないように書いておきます。7~8年前、母がもう一人では歩けなくなり、私の家に滞在してもらい身の回りのお世話をしていた時の話です。その頃には母は自分の考えをまとめて話をするのが難しくなってきていたので、できるだけ話しかけて笑えるような話もしようとしていました。それで、わざと「こんなに大事にしてくれる娘がいて幸せだと思うよ~。わかる~?」等と言うと、「わからな~い」とすぐおどけて返してくれました。「娘が良い子で良かったね~」と言うと「そっかな~」と明るく返してくれました。ここまでが下書きにはいっていました。私の冗談に付き合ってくれて明るく返してくれた母に感謝。お互い笑いあって気持ちがからっとするというか、そんな軽口を楽しめて幸せだったなと思います。母はその数年後、事故で脳梗塞になってしまい片言の返事はできるけれど考えると言葉が出てこないタイプの失語症(いろんなタイプがあります)になりましたが調子が良いときは、ぱっと思ったことを文になった言葉で言える時がありました。母が要介護4そして5になってからは後悔がないように沢山お礼を言ったり母を讃えたりダメな娘だったお詫びを言ったりしていました。私の声掛けに対し、母は話せるときは「いいえ~」とか「そうじゃない」と言っていましたが、何しろ自分でスプーンを口まで持っていけない状態で朦朧としていることも多かったので、こちらも3歳児位のお世話をしているような気持ちになることも多く本当にわかって答えているのかよくわかりませんでした。でもある時、母に話しかけながら育ててくれたことなどのお礼を言っていると、「お礼を言うのはこちらのほうです」とはっきり言ってくれたことがあり、そういった母の言葉をを宝物にしています。下:処方される薬がどんなものか基本的な確認をするのに便利です。画像をクリックすると詳細が見られます。
2023.07.05
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母が重度の脳梗塞になった時、寝たきり状態の高齢者に家族側が出来ることが病院側からも文献やネットでも示されていなかったので、自分で工夫してやっていたことの一つが初期段階の入院当初からしていた体拭きです。母は脳梗塞で鼻から栄養チューブを入れたままぐったりと寝たきりで目も開けられないし受け答えもできない状態だったのでお見舞いに行って出来ることが体拭きや軽いマッサージ位しかなかったということもありました。意識が朦朧としていた母が、毎日お見舞いに通ってお湯で絞ったタオルで体を拭いたり手足をマッサージしながら声をかけ続けると、かろうじて「う~」と返事が出来ることがありました。その様子を、お見舞いに来ていた親戚達は母はもうだめだと捉え、医師達も二度と回復しないと言ったのですが、私は意識があるということに心強さを感じてお見舞い時間に私ができる事=体拭き、マッサージ、声掛け等の自主リハビリを続けました。そこからスタートして少しづつ回復し片言の受け答えができ、全介助で嚥下食が食べられトイレに座れ、お風呂に入れるようになって毎日笑って過ごせたのでたった3年間でしたが、今も生きていてほしいけど本当に幸せでした。でもスタートは本当にささやかな努力の体拭きだったんです。半年、毎日のように病院に通ううちに沢山の患者さん達とお見舞いの方を見ましたがほとんどの方はただ黙って付き添っているだけでした。患者さんが意識不明の状態の事が多かったからお見舞いの方も何もするすべがないからです。でもここで私がしたように何か楽な気持になれて刺激になることを勿論医師の了解を得てやってみたら何もしないより良いと私は思いますので参考に書いておきます。暖かい柔らかいタオルで顔や体を拭いたので母は気持ち良かったと思います。高齢者の肌は薄く敏感なのでくれぐれもごしごしこすったり熱すぎるお湯を使ったりしないようにご注意ください。シャンプーは9年前は介護用のものでもお湯に溶かして少し泡だてたのをタオルに浸してしぼり、それで頭をよく拭いてからすすぎのお湯に浸したタオルで2~3度繰り返し拭き取りタオルで乾かしていましたが、今はお湯も拭き取りもいらないみたいです。防災用に買われる方も多いようです。下は天然由来成分でお得な4本セットもあり。 画像をクリックすると詳細が見られます。
2023.03.06
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これはやってよかった私のオリジナルの介護の工夫のひとつです。同じような思いで介護している方のために書いておきます。要介護5の母を介護している時言葉って大切だなと思いました。母はもともと遠慮がちな性格でしたが、晩年耳が遠くなり、また、思った事を上手く纏めて言葉に出すことができにくくなったため、自分の気持ちを周囲に伝えることをあまりしなくなりました。そこに脳梗塞を起こして尚更会話が出来なくなってしまい調子の良い時以外は朦朧としていました。傍から見ると会話もできない年寄り、寝たきり状態の老人なのかもしれませんが、そう扱ってはいけないそう扱ったらそこで止まってしまうと思いました。母に良い刺激を与えて少しでも覚醒してもらい良くなってもらうために掛けていた言葉の一つが何か動きをしてもらった後の「よくできました」だったんです。動きというのは、介助しながら・立ち上がってもらったり(服の腰上部分を持って私も一緒に立ち上がる力業での立ち上がり)・座ってもらったり(こちらも服を持って腰を座面まで力技で支えながら本人の意思を加えてもらって座ってもらいます)・歯磨きの時のうがいとかの(顔を手で支えて下を向いてもらい口に含んだ水を出してもらう)等のほんのちょっとした動作ですが、一つ一つが結構大変なので、良かった、この部分は出来た、次回も頑張ってというほっとした気持ちを「よくできました」という言葉でユーモアを交えて明るく伝えていました。たとえば、「トイレ行きますか?(明るく)行ってみましょう。じゃあ立ってください。大丈夫?立てますか?じゃあ立ちますよ。いち、にの、さん!」で服のウエスト部分を持って力業で母を抱えて立ち上がってもらい、立てたら「よくできました!」と明るく言っていました。いち、にの、さん!という掛け声やウエスト部分を持って引っ張り上げるのは介護やリハビリの現場ではよく使われていて、私もリハビリ病院で教えていただきましたが、その後の声掛け、褒める事は要介護5の状態の母を実際に介護して必要だと感じて付け足しました。耳が少し遠く、脳梗塞で朦朧としている母が分かりやすいように、楽しい気分になるように、命令口調にならないようにといろいろ考えたら、幼稚園の先生が明るく楽しそうにはっきりと園児に話す、そんな話し方になりました。母は調子がよければひとつひとつの声掛けに「はい!」と元気に答えてくれていました。調子が良い時は「1、2、の3!」も一緒に言ってくれましたが、動作の後は大変だったのでしょう、「よくできました!」に対しては息を整えながら頷く位しかできませんでした。一つ一つの動きが大変なのは介助する側よりも介助される本人のほうなので「よかった、できた。一仕事すんだ。」と口に出せないのをこの声掛けでで代弁できたのではないかと思います。母は脳梗塞による失語症で自分からはほとんど話をすることができないけれど話しかければそれに脳が反応し咄嗟の返事ができる状態だったので、私が黙って黙々介護していたら会話のない生活になってしまいます。少しでも多く母に良い刺激を与えるためにこまめに声掛けをして明るい会話になるように「よくできました!」と褒めていました。それがちょっと大げさに冗談半分で言って笑ってもらうためだという事を母はわかっていたと思います。高次脳機能障害になった母の介護はたった3年しかできませんでしたが、それが明るくて楽しくて幸せだったのはそういった明るい会話、声掛けが出来た事もあったと思います。介護は一概にこの方法がいいとは言い切れず、される側の状況や性格によってする側が調整・工夫していくものだと思いますが、参考になる事もあるかとやってよかった工夫を少しづつ書いておきます。下:私が介護していた時は見つけられなかった本ですが評判が良いので参考になることが沢山書いてあると思います。画像をクリックすると詳細が見られます。
2022.12.07
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高齢者の脳梗塞について家族側のサポートとその効果について具体的な例が全くなくて真っ暗な中を一人で手探りで進んでいたような気持ちだったので、少しでもご参考になればと書いています。素人判断のオリジナルのリハビリ方法なのでご自分で行う際には必ず医師や理学療法士に確認して行ってください。母は脳梗塞で意識が朦朧としていたのですが最初に入院した直後からほぼ毎日お見舞いに通いお湯で絞ったタオルで体を拭いたり手足をマッサージしながら声をかけ続けると、かろうじて「う~」と返事が出来ることがありました。その様子を、お見舞いに来ていた親戚達は母はもうだめだと捉え、医師達も二度と回復しないと言ったのですが、私は意識があるということに心強さを感じてお見舞い時間に私ができる事=自主リハビリを続けました。何をしたらよいのか、効果的なのか、脳梗塞について、治療法について、リハビリについて、仕事をしていたので昼休みに食事をせずにあちこちの本屋に通ったり毎晩ネットで検索して探したのですが、寝たきりの意識が朦朧としている人向けのリハビリについて8年前の当時、情報は見つからずブログ等のリハビリ体験談は60代位までのまだ若い方の話ばかりでした。たまに高齢者の脳梗塞入院のブログがあっても数回で中途半端に途切れている事がよくありました。高齢者はリハビリをしても回復することが少ないからなんだと思います。なので参考になる情報がない中、家庭用医学書やネット上の文献で発声したり体を動かすことで脳が活性化するらしいということはわかりましたが寝返りもうてない、寝たきりで朦朧としている状態での発声練習や、リハビリ運動について書かれているものはありません。しかしそこで諦めると、寝たきりのままだと思ったので動けずに朦朧としている母にできることをいろいろ自分で考えてオリジナルのリハビリを考えました。一番最初、急性期病院に入院してすぐの時期でこれは以前のブログで書きましたが初期段階の言語リハビリ1として後日追記します。その後、リハビリ病院転院後に始めたオリジナル発声練習が初期段階の言語リハビリ2になり今回はこれの詳細を書いておきます。母は言葉は発せませんでしたが、後記する初期段階の言語リハビリ1もあって「う~」と唸るような返事はできたのでそこからできる発声をしてもらおうと考えました。母が私の言っていることは理解できているようだったので、ゆっくりと、「あいうえおの練習しようね。最初に「あ」って言える?言ってみましょう。「あ~」」と繰り返しました。母が脳梗塞を発症して3か月目位、リハビリ病院に入院して1週間目位だったと思います。それまで母は、ずっと朦朧としたままだったんです。意識はあるけれど、目はろくに開けられない、返事は出来る時は「う~」と唸るだけ、意識があるのかどうかわからない日も多い、そんな状態でした。最初の1日目は一言も言えなかったと思いますが2日目、私が励ましながら何度か「あ」を繰り返した後、「あ~」と絞り出すように、唸りながら1~2回、言うことができたんです!その時は真っ暗闇の長いトンネルのずっと先に小さな小さな外の灯が見えたような気がしてとても勇気が持て、毎日お見舞いに通って自主リハビリをがんばろうと決意を新たにしました。3日目には「あ」と「い」をそれぞれ「あ~」「い~」と数回言えるようになり、毎日少しづつ練習して、1週間後位にはどうにか「あ~い~う~え~お~」と続けて発声できるようになりました。でもふりしぼるように発音していたので唸るような感じの発声でした。それを毎日続けて、「あ~」「い~」「う~」「え~」「お~」から「あ~、い~」「う~」「え~」「お~」「あ~、い~」「う~、え~」「お~」「あ~、い~、う~、え~、お~」「あ、い、う、え、お」「あいうえお」と、2週間ほどかけて少しづつスムースに言えるようになってきました。たまたまこの時期は母が脳梗塞を発症してから丁度3ヶ月が経過し、母の意識が霧が少しはれるように何となく明瞭になってきたように感じる頃でした。調べてみると、脳梗塞による腫れは3ヶ月で収まってくるのだそうです。勿論重篤さや患者によって差は大きいのでしょうが、腫れが収まってくると朦朧としていたのが少し明瞭になるので、本来はその方の快復度は3ヶ月以降にリハビリを行ってからでないとわからないのだとその時気がついたのですが、急性期病院(大きな病院です)の医師は母の年齢と急性期での重篤な状況を見て切り捨てるように退院を迫り、他の高齢患者に対しても同じでした。同室の同様の患者さん達は意識不明で寝たきりのまま次々と施設に転院していきましたが、私は母の回復にできるだけの事をしたいと努力しましたし、それがあったので結果が出て看護師さんや理学療養士達の賛同を得られてリハビリ病院の入院ができたのだと思います。発声練習=脳の覚醒=嚥下訓練になるそうで脳の腫れが収まってきたことが第一でしょうが、その頃から母はゼリー状のものを飲み込むことができるようになり、鼻チューブがとれるようになりました。意識が混沌としていた理由の一つが鼻チューブによる逆流や苦しさだったようなので取れたことでいっそう状況が好転しました。ふりしぼるような「あ~」から始めたオリジナルの発声練習が医師や看護師さん達が驚く回復につながったので諦めないでやれることは全てやってみて一人で心細い中、こつこつ努力して良かったです。このオリジナルの発声練習は他のオリジナルリハビリやいろんな経験談と共にご主人が脳梗塞で意識不明となって何もできないと家族中で諦めていた知人に伝えたところご主人は意識が少し戻り、会話はできないもののお見舞いにから帰る時に手を振るそぶりができるようになったそうです。入院のまま3年後位にお亡くなりになったのですが、手を振ったりして意思疎通したので幸せだったと知人は言っていました。勿論個人差もあるし、私は医療の専門家ではないのでもし試すのならば必ず医師に確認されてください。画像をクリックすると詳細が見られます。
2022.10.04
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母は脳梗塞による失語症で考えて話す事が出来なかったのにちょっとした時に私を思いやる言葉をかけてくれてその言葉を思い出すだけでとても救われています。その一つに、おむつを替えている時かけてくれた言葉があります。毎日熱心にリハビリをしたおかげで母は抱えるように支えればトイレまで行けて座る事ができました。(そのリハビリの詳細は少しづつ書いています。最初は声掛けやベストのようなベルトで固定して車椅子に座ってもらう状態からの地道なリハビリを続けた成果の一つが、おむつは使っていましたがトイレに座れるようになったことです。寝たきりの状態だった時から考えると夢のような事でした。)右麻痺、失語症だったのでトイレに行きたいと伝える事も迅速に行動することもできないので毎日リハビリパンツを使っていましたが、リハパンの替えはトイレに座ってもらって行えました。座ってもらっている時にリハパンとパッドを交換しお尻を温水と薄めたボディソープで洗い朝は外出着に、晩はパジャマに下だけ替えますがズボンはまだ膝までしか上げないでおきます。(上半身は暖かい居間に移ってから替えます。)そして介助や声掛けをしながら立ち上がってもらい、トイレの壁を支えに立ってもらっている間にお尻に撥水性のある褥瘡予防のクリームを塗りパッドの位置を確かめつつリハパンとおむつカバーをつけズボンを上まで上げていました。母はつかまり立ちは1分出来るか出来ないかだったので急がなくてはいけないのですが、クリームはパッドに吸収されやすいのでたっぷり塗らなくてはいけないし、リハビリパンツは足を入れる部分のフリルの内側を綺麗に立たせて履かせないとおむつ漏れの原因になるので時間がかかります。母は私の作業が終わるまで黙って一生懸命壁に両手をついて立っていてくれましたが、私のしている事はよくわかっていないだろうと思っていました。何しろスプーンだって自分で持てないし持ってもらっても口元に持って行けない、失語症で話もほぼできない、身の回りの世話は全てやってもらっているのでついつい、母は3歳児位の能力しか残っていないのだろう、特に私がしている細かい介助については意味がわかっていないのだろうし一日の大半は朦朧としているのだろうと思っていました。でも、私がリハパンの裾の内側を立てようと特にその日はなかなかうまく出来なくて少し手間取って、母がふらつき始めたのを支えながら一生懸命やっている時、ああ大変だね~と言ってくれたことが一度だけありました。いつも黙って立っていたけど、大変だなあ、頑張ってるなあって思いながら私が介助しやすいように頑張ってじっと立っていてくれたんだと思います。短い言葉だけど、母の思いやりの気持ちが聞けたのはありがたかったし、その時は手一杯で忙しくわからなかったけど今考えると母は言動に出せなくても心の中、頭の中は今まで通りの母だったんだなと確信することができて母のために少し落ち着ける気がします。
2022.08.29
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これから書く嚥下食の話は嚥下障害があった母の介護を通して一個人として学んだ話です。各々にとって最適な嚥下食については必ずかかりつけ医にご相談ください。本題の嚥下食の違いの前に、同様の病状の方に参考になる事があるかもしれませんので母の嚥下の状態について書いておきます。母は脳梗塞を起こし、鼻からの栄養チューブで逆流性の誤嚥性肺炎を起こしぐったりしていました。急性期病院の嚥下訓練ではスプーン半分のゼリーさえ呑み込めない状態が何週間も続きました。重篤な状態の母を見ていた医師は最初から嚥下訓練をするつもりはなく早急な退院を迫っていたのですが、それでは母が寝たきりになってしまいます。母の場合は肺炎を起こす前は朦朧とはしていても意識があり、急性期病院の看護師や言語聴覚士が嚥下訓練をすれば機能が回復する可能性があると言ってくれ、医師にもかけあってくれ、私も頼み込んで嚥下訓練を初めてもらいました。嚥下訓練ができるかどうかは患者それぞれで違うので医師にご相談ください。意識がない場合や家族単独による嚥下訓練はとても危険です。急性期病院での母の嚥下訓練は進展がほとんどありませんでしたが、発声練習や手足の運動、声掛けなどの自主リハビリをするため家族が毎日通い、訓練の打ち切りはどうにか回避して鼻からの栄養チューブのままリハビリ病院へ転院することができました。リハビリ病院の訓練と自主リハビリの継続と脳の腫れが引く3か月目の時期もあってどうにか食事が呑み込めるようになりどろどろ状またはムース状のとろみ食まで回復したのですが(トレイに載った病院食を見て、長く暗い道のりを休まず歩いてきたけどここまで来たんだなとやっと一息つけたように思いました。)リハビリ病院退院後の自宅介護をするにあたって食事内容を具体的に考えなければなりませんでした。ここからがこのブログの本題です。それまで私は要介護3の母の自宅介助はしてきて、食事は柔らかくて食べやすい栄養があるものを用意していましたが、介護食についての知識はそこまでしかありません。刻み食やとろみ食という言葉は聞いたことはありましたが詳しい差については何も知りませんでした。退院前に病院にお願いして注意点について教えてもらうと簡単な内容の手作りプリントをもらったのですが、その中で印象的だったのが以下の事です。1.食事にはとろみをつける事。2.飲み物にも必ずとろみをつける。3.刻み食はダメ。4.パンもダメ。5.そば、うどんもダメ。6.ゼリー・プリンは良い。7.おかゆは水分が多くないもの。この他にも薬との相性などで沢山の良いとダメがありましたが、とろみ食については上記の制約がありました。特によくわからなかったのが、刻み食がダメ、と言われたことです。刻み食って、介護食のはずなのになぜダメなのか聞いてみると、刻み食はむせる可能性があるからとの事でした。介護食なのにむせる?よくわからずに家で調べてみると、刻み食は細かいのでそれだけだとむせてしまう可能性がある、反対に、とろみをつけたとろみ食は呑み込みやすいのでむせにくいとのことでした。自分には全く見えていなかった部分でそういうことなんだ、と驚きつつ全く知らなかったから気をつけなくては、とにかくとろみをつけなくちゃ刻みじゃダメ、としっかり意識しました。当時、私の認識は、ミキサーにかけて細かくしたものも刻み食でした。実際、介護食の記事などでもミキサーで細かく刻んだものを刻み食として紹介していました。だからミキサーで手作りしたものはむせる心配があるかも、やめておこうと思ってしまったんです。普段、食事をミキサーにかける事はなくひき肉や餃子の具を作る位だったのでミキサーにかける時間で、どろどろにもなる事を実感として認識していなかったんですね。本当は刻み食でも、細かく刻んでとろみをつければ調子が良い時は大丈夫だったんでしょうけど、そこまで病院のソーシャルワーカーが説明してくれなかったので刻みはダメ、手作りも危ないとそのまま受け取りました。実際は、介護食には大きく分けると刻み食、ソフト(舌でつぶせる)食とミキサー食があり、刻み食や一部ソフト食は固形に近いので嚥下障害がある人には呑み込みにくく誤嚥の可能性があります。ミキサー食も誤嚥する可能性がありますが、どろどろでとろみ食に近いので呑み込みやすいのです。嚥下障害がある人には呑み込みやすくするためにミキサー食でもとろみをつけるとより呑み込みやすくなります。つまり、一言で介護食といっても、刻み食・ソフト食・ミキサー食というのは食べ物の形状や柔らかさの違いであってとろみをつけるというのは、別の話なんです。そこをわかりやすく説明する人がまだ少ないようい思います。嚥下に問題がある人は飲み物もサラサラの状態だとむせるのでお水でも紅茶でも必ずとろみをつけて呑み込みやすくする必要があります。飲み物も、その方の病状によって飲んではいけないものが違うので必ず主治医に相談して判断してください。例えば母の場合は緑茶やビタミンK豊富な青汁が脳梗塞の薬の効果を弱めるので飲めませんでしたし、レモネードやオレンジジュースは良くても降圧剤の効果を弱めるのでグレープフルーツジュースがダメでした。そうすると、柚子はどうなの?デコポンは?とか、次々疑問が出てきて一つ一つ確認していました。母の場合は調子が良ければ柔らかいものを噛むことが出来たので小さじ1杯づつ位を必ずとろみをつけた飲み物と交互に食べてもらいました。脳梗塞といっても様々な症状がありますが、毎日自主リハビリの発声練習などで(少しづつ具体的な内容を書いていきますのでご参照ください)で医師や看護師が驚く位の回復(といっても意識が戻り片言で話せる程度)をした母の場合は調子が良い時もありました。とても調子が良く意識も明瞭で噛んだり呑み込んだりができる時は小さく切ったお寿司とかやわらかいお肉親子丼、野菜、果物もとろみ飲料と一緒に食べてもらえました。しかし通常は、とろみを強くつけた介護用のレトルトを炊き立てご飯にかけたものと、どろどろ状の介護やベビー用野菜や果物のペースト、介護用のゼリー、プリンを介護用とろみ飲料と一緒に食べてもらっていました。薬は最初は薬をすりつぶす専用の容器で粉状にしてゼリーや果物のペーストの中に含ませスプーンにのせ口まで運び、呑み込んでもらっていました。そのうち調子が良い時は固形のままでも薬と意識してくれ(必ず、お薬飲もうね、とひとさじごとに声掛けしながらの食事介護をしました。)ゼリーや果物と一緒にスプーンで口元に運ぶのは同じですが、固形でも呑み込んでくれました。薬についてはまた別記します。嚥下食の話に戻ります。母が嚥下障害が出てからの介護食の基本はとろみがついた市販の介護用ソフト食でした。これを手作りすると、普通の食事は調味料も使ってますし、介護用に作ってミキサーにかけるのは結構時間をとるのですぐに暖められるレトルトはとても便利です。私は万が一の防災ストック用にもなるのでいろんな種類や味を数月分常備していました。母が亡くなって数年たってから自炊する時間も気力もでき、栄養をとるためにもいろいろ作っていますが、いつも、「なぜこれを母に作らなかったんだろう」「なぜ市販のレトルトばかり食べさせたんだろう」「なぜミキサー食を手作りしなかったんだろう」と後悔しますが、それは上に書いた通りむせてしまわないようにと、母の事を考えて一番良い選択をしていたからでした。でも根底に、もっと何かできなかったのか、という気持ちがあるせいか、いつもつい、なんでレトルトばかり、と思ってしまいます。実際はレトルトといっても、あれこれ比べて一番美味しいメーカーの何十種類もある本格的な味のレトルトを(すき焼き、ハンバーグ、ホタテのシチューちらし寿司、かに雑炊とかもありました。)日替わりでいろいろ食べてもらっていたのと、調子のよい時は、レトルトでないもの、旬の果物などデザートも楽しんでもらったし手作りのものも食べてもらっていたからちっとも後悔する必要はないんですけどついそう思っちゃいます。今は嚥下食はもっといろんなメーカーのものが出ていますので、医師の指示に従ってよいものを選んでみてください。下:薬をすりつぶせるもの下:このメーカーのものが味が良いのでいつも使っていました。下はなだ万監修。画像をクリックすると詳細が見られます。
2022.07.03
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母が大腿骨骨折と脳梗塞で入院・通院していた2つの病院に用事で3年ぶり位に行きました。なかなか行く気にならずに延び延びにしていたんですけどやっと行ってきました。どちらも当時とそんなに変わっておらず、特に7年半前に母が脳梗塞で入院した急性期病院では帰りが遅くなり、救急玄関から出たので当時の事を思い出しました。当時、仕事帰りにお見舞いしていた私は正面玄関が夕方閉まってしまうのでこの救急玄関を利用していたんです。意識が朦朧としたままリハビリで車椅子に座らせられている母を少しでも刺激になれば、と外に連れて出て、病院のすぐ横の小道を車椅子で散歩したのもこの玄関からでした。この話は別に書いていますが朦朧として言葉も発せない焦点も合っていないような母を、ただ座っているのはつらいだろうから少しでも気分転換になればと、看護師さんに了解を得てから車椅子で1階玄関に連れて行き窓越しに行きかう車や帰宅を急ぐ人達を見せると母が目で人や車を追っているのがわかったんです。それで恐る恐る、玄関の外に車椅子を出すと外の気持ちの良い初夏の風がわかるようで、表情が少し変わったのでかすかな希望の光が見えたような気がしました。あの時、それに気が付けた事で、意識は回復しないだろう、寝たきりになるだろうと医師から匙を投げられていた母の回復に望みを持て、自主リハビリができて本当に良かったと思います。その日から、毎日ほんの数百メートルですが話しかけながら車椅子で外を散歩をしました。母は私の話しかけがわかっているのかいないのか返事どころか相槌も打てず、隣のビルのイルミネーションを見せてもわかっているのかいないのか何の反応もない状態でしたが外の空気にあたってもらう事で良い刺激になっているような気がしました。私はそれまで車椅子を押したことがなく扱いが上手く出来なくて数百メートルでも緩やかな坂でも結構力が必要で大変でした。押すのも、曲がるのもコツがわからず力を入れてしまっていたんですね。緩やかな坂を下りる時は車椅子が持って行かれそうになるのでブレーキをかけて力ずくで引っぱりながら下り、帰りは今度は力ずくで押しあげながら登りとっても大変でした。その後扱いに慣れたのでとても快適に押すことができましたが車椅子を押すのもコツがいるんですね。車椅子を押す時のちょっとしたコツや注意点はまた別に書いておきます。あの時、母に少しでも良くなってもらおうと無我夢中だったなあ、でも今考えれば、母のために出来る事をしていて幸せだったんだなあって思います。でもまだつらくてあまり考えないように無意識に気持ちを閉じています。その病院の最寄り駅には近所にないスーパーがあって母のお見舞いの帰りに、閉店間際のスーパーに駆け込んでお惣菜とか、デザートとか買うのですが、仕事帰りにお見舞いで車椅子を押したりマッサージしたりでくたくたで、家に帰れば、母の病状が良くなるための情報をネットで調べるのに忙しく、買ってきたものは食べ忘れて冷蔵庫に入れっぱなしでだめにしたものが結構ありました。なので、そのスーパーを見るとだめにして捨てる事を思い出すのでそのイメージを変えようと少し買い物をしてきていろいろ工夫して食べているところです。その話は別に書きます。用事があったもう一つの病院は母がリハビリ病院退院後、通院していた病院です。綺麗で新しい建物なので全体的に明るく、車椅子の移動もエレベータの乗り降りも楽でしたし、母の容態も安定していて介助出来る事が幸せだったので明るい気持ちがする病院です。先ほどの急性期病院では当時の無我夢中の気持ちになりこちらはどちらかというと明るい気持ちがします。ここを車椅子を押して通ったなあ、ここのトイレで介助したなあ、っていろいろ思い出しました。つい数か月前、母の通院介助で来たような気がしました。まだやっぱり気持ちは落ち着いてないし考えないようにしている事も沢山あるんですね。用事を伸ばし伸ばしにしていたのもそういう事だったんですね。一度に2つも病院に行ったのでちょっと疲れちゃいました。あまり考えないようにして少しほっと出来る事を楽しく感じる事をしたいと思います。そういう事もあって、先日書いたようにクリスマス飾りなどを楽しんでいます。車椅子でのトイレ介助の事は快適・清潔に介助できるよういろいろ工夫していたので後でゆっくり書きます。軽量でコンパクトに折りたため、スムースに動かせる乗っている人にも負担がかかりにくいタイプ。もっと小型で軽量のものもありますが軽量小型になればなるほど、乗り心地が悪くほんの少しの凸凹道でもガタガタし、押しにくく乗る人にも押す人にも負担がかかるので選ぶときは気をつけてください。乗り心地、押し心地を左右する車輪は小さすぎないほうが良いです。画像をクリックすると詳細が見られます。
2021.12.21
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正式名称を回復期リハビリテーション病棟という脳疾患や骨折等の回復の為のリハビリを行う病院を選んだ時のポイントをまとめました。(経緯や体験談は高齢患者と家族のための リハビリ病院の選び方1で別記していますが、書かれていないポイントも追記しました。また、リハビリ病院の定義や種類についてはウィキペディアや大手病院のHPをご覧ください。)リハビリ病院への転院は医療ソーシャルワーカー主導で行われますが、どの病院に転院するのか決定するのは患者側ですし、病院の空きを逃さないために早急の決断を迫られますので、選び方のポイントを前もって知っていたほうがより良い選択ができます。1.リハビリ病院について基本事項専門家による機能回復リハビリが必要だと感じたら空き時間を利用してリハビリ病院についての基本的な情報をまえもって調べておくと選ぶ時、希望や考えを整理・まとめやすくなります。リハビリ病院とは何をするところ?平均入院期間や費用は?等の基本的情報を検索や書籍で調べておきましょう。2.医療ソーシャルワーカーに紹介された病院、または転院を希望する病院についての基本情報確認病院のHPを見ると、施設、リハビリ分野、費用等を知ることができます。また、口コミサイトや入院体験談のブログも匿名の私見であることを念頭に置きながら参考にします。3.病院の方向性が病状や状況に合っているかリハビリ病院はそれぞれ得意分野(整形外科系・脳疾患系・スポーツ系等)があるので力を入れているリハビリが高齢者向けなのか、寝たきり状態でも行えるのか病院のHPを中心にチェックします。4.家や職場から通える範囲であるかこれは私が体験して感じた非常に重要なポイントです。なぜなら高齢者患者はスパルタリハビリが出来ないのでゆっくりと行っていきます。また、病院側もリハビリを行うのは週に数回程度です。結果効果が表れにくいのでそれを補うために家族側がお見舞い時に自主リハビリをすることがとても重要になってくるからです。家族がお見舞いに行く頻度を考え通える距離かどうか、交通手段は何にするのか病院のHPや時刻表を見て調べます。仕事帰りに電車やバスを使ってお見舞いする場合、帰りの便は1時間に数本だけのこともあります。郊外の病院には最寄り駅から専用バスでないと行けないところもあり時間の調整が必要になってきます。最寄り駅からの距離がある病院も多いのでドアツードアでの時間で考えるほうが良いでしょう。5.患者の疾患の専門科がある病院と提携しているか意外と知られていない重要ポイントはリハビリ病院によって通常の病院と提携している病院としていない病院があるということです。私は知らなかったのですが、リハビリ病院は病院という名前がついているものの、一般の治療や検査や手術は行わないので、患者の疾病が再発した場合は専門の科がある病院に転院しないとならないのです。最近は病院の空きがなくて受け入れ先が見つからない問題が多発しているので専門外来がある病院と提携していてすぐに診てもらえる病院であることが とても大事だと気が付きました。6.費用 リハビリ病院は数か月にわたる長期入院が多いので費用もかかります。特に大きいのは部屋代で、個室しか空きがない場合が多く望まなくても個室費用を払うことになります。いくらかかるのかについてはソーシャルワーカーを通して問い合わせるか病院のHPを見て大まかな計算をします。7.空きがあったら即回答リハビリ病院は空きがない事も多く希望した病院に転院できないことも多々あるそうなので、空きが出たら早い者勝ちで入院を決めなければなりません。数日迷っている暇はないので患者家族側が何を求めているか、つまり費用がかかっても、その病院に入院したいのか、通いやすい病院が良いのか、費用を抑えることが第一なのか等患者家族側の中で最初にまとめておく必要があります。8.患者家族側の代表者を決め、代表者は詳細報告する上で述べてきたようにリハビリ病院選びは様々な選択が必要なので家族側の意見調整が必須です。リハビリ病院転院の話が出たらすぐに家族側で家族側を纏められる代表者を決め、代表者は家族側の要望(機能回復第一とか費用は月〇円までとか)を纏めて病院側に伝えます。また代表者は家族間の揉め事を回避するため、リハビリ病院決定の前後に家族・親族に決定の理由(代表者が週3回通うので、通いやすい病院にした、費用はこれだけかかるが回復の可能性を重視したい、等)を報告して了解を取っておきます。私は何も情報がない中母のリハビリ病院を探すことになりましたが、入念に選んだ結果、病院は理学療法士がとても良く当初医師達から歩行は不可能だろうと言われていたにも関わらず抱えれば歩けるようになりとろみ食が食べられるようになったので、大変だったけれどリハビリ病院選びにベストを尽くして良かったと今も思います。画像をクリックすると詳細が見られます。
2021.03.29
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今からお話しするのは正式名称を回復期リハビリテーション病棟という脳疾患や骨折等の回復の為のリハビリを行う病院へ母が転院した際の体験談です。(リハビリ病院の定義や種類についてはウィキペディアや大手病院のHPをご覧ください。)経緯は別にも書いていますが、母が脳梗塞になった時、リハビリ病院への転院サポートがほとんどなかったので自力でリハビリ病院について調べ転院先を探さなくてはならずとても大変でした。本来は医療ソーシャルワーカーが医師からの情報や患者家族との面談でニーズを把握しそれにあったリハビリ病院をいくつか紹介し患者側に選択のサポートを行い、空きを問い合わせるという形なのだと思います。しかし私の担当になったソーシャルワーカーAさんは患者側の情報を把握しようともせずリハビリ病院について何の説明も資料もなく「希望する病院があったら空きを確認するので言ってください」と言うだけでした。「希望するリハビリ病院」と言ったってほとんどの人にとってリハビリ病院はなじみががない施設で何という名で、どこにあるかさえわからないし、数週間前に家族が倒れて右往左往している状況でリハビリ病院について調べる暇もないからそんな事言われても途方に暮れるだけです。私もそうだったので、「希望するリハビリ病院」を見つけるための第一歩としてリハビリ病院について基本的な質問をしましたがAさんは全く答えられません。母に合ったお勧めの病院もなければ選び方のヒントも言えない、いくつかの病院について質問しても知識も経験もない人だったので、私が下調べから何から全てしなければどうしようもないと覚悟を決めました。リハビリ病院選びで同じように途方にくれる方は意外と多いのではないかと感じたので、参考になればと、私がとった方法を書いておきます。細かい事でも参考になることがあると思い詳細を書いたので長文になりました。前もってご了承ください。後日ゆっくりと、選び方のポイントをまとめたものを書く予定です。リハビリ病院がどこにあるのかなんという名前なのか、全く知らなかった私が最初にした事はリハビリ病院のリストをソーシャルワーカーにリクエストすることでした。これは何もわからず、何の説明もない状況で最初の一歩を踏み出す打開策としてはとても有益な方法だったと思います。医療ソーシャルワーカーの仕事をしている人ならリハビリ病院名鑑みたいな書籍が職場にあったり、リハビリ病院の一覧表を作成していると思うのですが、Aさんは、そんなものはないと言います。しかしそこで諦めず「何かしらリストがあるはずだから部署の方に聞いてみてください。わからなければ私が直接お話しますがそのほうがいいですか?」と手順まで伝えてお願いしました。数日後Aさんが手渡してくれたのは、A4サイズに縮小コピーされ一文字が3ミリ幅位になったリハビリ病院の一覧表でした。病院の数は全部で175位あったと思います。そこで私は全ての病院のHPをネットで閲覧し1.寝たきり状態の高齢者へのリハビリにも力を入れているか2.私の家や職場からほぼ毎日お見舞いに通える範囲かを一つ一つチェックしていき、条件に適う病院名に黄色の蛍光ペンを入れ、最寄り駅と駅からの時間を記入していきました。この時気をつけたのは、多少遠くても通える可能性があるならとりあえず蛍光ペンを入れました。当時、会社から母の入院する急性期病院に直行し、声掛けや自主リハビリを消灯時間までして家に戻るのは10時近く、食事、入浴等済ませて11時半から深夜2時位まで毎晩表の小さな字とにらめっこしながらチェックする作業は大変でしたが175の病院を半分位に絞り込めました。次は絞り込んだ病院の中から職場からも家からも片道1時間以内で通える病院に黄緑の蛍光ペンを上塗りしていき、40位に絞り、絞った病院のHPを再度熟読しました。熟読することで、意外と知られていない重要ポイントに気付けました。それは、リハビリ病院によって提携している病院がある所と無い所があるということです。私は知らなかったのですが、リハビリ病院は病院という名前がついているものの、一般の治療や検査や手術は行わないので、もし母に脳梗塞が再発した場合は脳神経外科の病院に転院しないとならないのです。脳梗塞は再発の可能性があり至急治療や手術が必要になるのですが病院の空きがなくて受け入れ先が見つからない問題が多発しています。脳神経外科がある病院と提携していてすぐに診てもらえる病院であることがとても大事だと気が付きました。また、リハビリ病院の口コミ検索で気が付いたのですが、ソーシャルワーカーが出してくれたリスト以外にもリハビリ病院は沢山あるということでした。そこで脳梗塞リハビリに定評のある病院を検索し、上記同様に絞り込みをしていくつかの病院をリストに追加しました。絞り込みした病院は全部で15位あり、そのリストをソーシャルワーカー渡し空きがある病院を探してもらいました。一度にこれだけの病院を挙げた理由は、リハビリ病院は通常空きがなく1か月待っても転院できない場合も多々あると病院側から言われていたので、4~5病院では空きがないかもしれないと思ったからです。しかし、15も病院を挙げたのに、4~5日後の面談でAさんは「問い合わせたけれど空きはないそうです。」と言います。おかしいなと思い、「空きがないのはどの病院ですか?」と聞くとたった2つの病院にしか問い合わせていないことが判明しました。なので、「残りの病院にも問い合わせお願いします。もしお忙しくてできないなら、私が問い合わせますがそのほうがいいですか?」と進展する形になるようにお願いしながら問い合わせを継続してもらいました。Aさんの言うことを鵜呑みにせず仕方ないと諦めなくて良かったと思いますが、毎回1~2の病院しか問い合わせをしてくれずに最初の3回位の面談は、空きがない、の一点張りでした。空きが見つかったのは、6~7番目の病院で偶然2つ続けて空きがあり、こんな早くに見つかるのは珍しく早い者勝ちになるので早く転院を決めるほうがいい、と言われました。一つは著名スポーツ選手が治療した事でメディアにも取り上げられた有名病院Bでなかなか空きは出ないそうです。もう一つは郊外にあるローカルな感じの病院Cで通うのに時間がかかるし知名度も低いのですが、この病院を併設する病院に脳神経外科手術の名医と言われる人が所属していました。設備やブログラムはBのほうが良さそうですしたまたま空いている上に寝たきり状態の母を受け入れてくれると言ってくれるのでこちらにしようかと思いましたが、この病院、スパルタ治療でとても有名だとの事です。ぐったりしている母にスパルタ治療は合うのだろうか、回復の見込みがないと、早期退院させられないだろうか。また提携病院がないのも不安でした。その点、脳神経外科で有名な病院の併設リハビリ病院Cはすぐに搬送してもらえ安心だし脳梗塞患者へのリハビリ治療が充実していそうです。1~2日両病院のHPや口コミを熟読し、いろいろな面を比較し、いろいろな人に相談し(と言っても、リハビリ病院に詳しい人も親身になって相談にのろうという人もおらず、私が責任を持って母に一番良い病院を選ばなければ、私が母を守らなければという気持ちが一層強まりました)熟考した結果、病院Cへの転院をお願いしました。実際に転院してみると病院Cは一言で言えば田舎の病院的な部分がありました。(一応大きな地方都市の割と大きな病院です。)たとえば看護助手達は近所のパートのおばちゃんで医療の仕事をしている意識が非常に低かったり、廊下の端に紙おむつの箱が山積みだとかオムツを替えに回る時、使用済みオムツを専用密閉容器でなく空き箱に入れて回収するのでその時間帯は、匂いが病棟中に充満するなど、管理体制が緩い部分がいろいろありました。有名病院Bだったら、たぶん最先端の管理体制で上記のようなことはなかったと思います。しかし病院Cは理学療法士がとても感じ良く諦めずに尽力してくださり、当初医師達から歩行は不可能だろうと言われていたにも関わらず抱えれば歩けるようになりとろみ食が食べられるようになりました。また、先に述べたように、高齢の母の脳梗塞が万が一再発した場合脳外科手術の権威が所属している病院にすぐ見てもらえるという事が大きな安心でした。もしその先生が対応できなくてもそういった先生が周囲にいらっしゃる環境だと他の先生方も知識や経験が豊富だと思ったからです。スパルタ式だと有名な病院Bに転院していたらもっと回復していたのか、それとも母がリハビリについていけなかったのか、それはわかりません。何しろ当時の母は朦朧としていて、ひらがな一文字のカードを指しても読めないし幼児向け輪繋ぎ玩具の、プラスチックのチェーンを繋げることも引っ張って外すこともできませんでした。でも病院Cで根気よくリハビリしていただき家族側も毎日自主リハビリして、医師達も驚くような回復をしたので病院Cを選んだ事は良かったと思います。大変だったけれどリハビリ病院選びにベストを尽くして良かったと今も思います。何も知らなかった私が母のためにリハビリ病院を選ぶためには上記の紆余曲折があり、とても大変だったので長い文になりました。ポイントを纏めたものを別に書こうと思いますが、同じような事でお困りの方には詳細や小さな事例が役立つこともあるのでこれはこれでこのまま載せておきます。画像をクリックすると詳細が見られます。
2021.03.26
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母が脳梗塞になった時、高齢者の脳梗塞のリハビリや予後についての情報は皆無に近く、これからどうしたらいいのか途方にくれました。本来は病院側で大まかな情報や方向性を示すものだと思うのですが、朦朧としている高齢の母に担当医達は匙を投げていて回復へのサポートがほとんどなくとても大変でしたので、同じ状況の方のために母の状況を少しづつ書いています。母は脳梗塞で大きな急性期病院に入院しました。入院前は意識がありましたが鼻から入れた栄養チューブで誤嚥性肺炎を起こし意識が朦朧としてしまいしかも当時大腿骨を骨折したばかりの絶対安静中でリハビリができない状態でした。本来なら急性期病院は7年前の当時は最長で3か月の治療を受けられたはずですが、回復が見込めなさそうな母を見た医師は入院2週間目になってようやく行われた最初の面談時に退院の日程を決めるように伝えてきました。転院ではありません、退院です。大腿骨骨折と脳梗塞を発症し2週間後で骨折の手術をするのかも決まっていないし誤嚥性肺炎を起こして熱も下がってない患者にです。朦朧として発語も動くことも出来ない母の病状説明も今後の展望もリハビリや介護についての説明も全くなく、自宅介護するならこういう形になりますよとかそれができなければこういう施設があり詳しくはソーシャルワーカーが説明しますとかそんな話は一切抜かして退院日を決めるように、です。これは、回復が難しそうな高齢者に対してはよくある対応らしいです。医療システムの事など何も知らなそうな一般患者と家族には威圧的に接すれば黙ってしたがうだろう、という医師が少なからずいるんですね。言われているのは、患者入院後、一定期間を過ぎると国からの病院への報酬が減額されるので病院側の利益率を高めるためにその期間をすぎないように半強制的に退院を迫るということらしいです。他の理由としては、たぶん病院として厚労省等の機関に患者の回復度をデータで示さなければならずその成績を良くするために回復が期待できない患者は長期入院患者としてお荷物になるのでさっさと退院させる方向なのだと思います。回復が期待できない患者をさっさと退院させた場合、国も病院も長期入院患者をかかえないので一見良いように思えますが、何のサポートもなく、意識不明のまま退院させられた患者と家族側に肉体的・精神的・金銭的負担が押し寄せて結果、社会的問題に発展してしまいます。このサポートを埋める部分として近年、ソーシャルワーカーという転院や退院のサポートをする職種が作られましたが、6年半前の当時は新しいシステムだったせいか基本的な事も出来ない担当者がかなり多いように急性期病院とリハビリ病院のソーシャルワーカー達について感じました。経験もあまりなく、試験で資格をとっただけのソーシャルワーカーが多いからなのだと思います。母が入院していた急性期病院では看護師達は素晴らしく唯一の希望になってくださっていましたが、医師もソーシャルワーカーも患者側へのサポートが何もできない人達だったのでこのままだと大変なことになると思い、自力で母の為にベストな方法を模索しました。しかし、同じ時期に入院していた高齢患者の家族達は医師に言われるがままに不安な気持ちのまま短期で退院しリハビリの機会もなく施設に入居しているので同様な状況の方は多いと思います。誰だって通常は医師の薦めが最良だと思いますしそれに従いたいわけですが、何の改善もないまま、外に放り出される状況を平然と強要する医師が少なからずいる事は驚きでした。同じような状況で心細く思っている方の参考になればと、リハビリ病院の選び方等を少しづつ書いておきます。私は医師や病院側と喧嘩する気は毛頭ありませんでしたし、プロとして仕事をきちんとしてくださる方達、良くしてくださる方達に感謝の気持ちはいつも伝えていたので、早期退院ばかり威圧的に促す病院と角を立てずに話し合い、少なくとも骨折の治療を整形外科で検討してもらう事をお願いしながらリハビリ病院への転院を希望することを理解してもらい、自力で母にベストな方法と母に向いているリハビリ病院を探しました。病院からの説明が一切ないので、こちらから病状説明をお願いしたり理解するために沢山の調べものをしたり同時にリハビリやリハビリ病院について調べたり親戚達やケアマネさんに状況を説明したりするのは、非常に大変な作業でした。しかし、努力した結果、急性期病院で1か月半とリハビリ病院で5か月近くの治療を受ける事ができ、家族側の自己リハビリ努力もあって母は意識も取戻し、嚥下食の食事も出来、抱えれば(支えるでは不十分)少し歩けるようになりとても幸せに介護できたので、専門医療を受けながら諦めずにリハビリをする事は大切だと思います。最近は、高齢者が医療を受けるのは無駄だとか国に負担がかかるとか、高齢だからリハビリしたってしょうがないとか声高に叫ぶ人が時々いますが、退職するまでフルタイムで社会のために尽くし税金も亡くなるまでずっと収め続け周囲の人に良くして真面目に生きてきたのだから重病になった時に医療を受けたって良くなろうと頑張ったって、長生きしたって何の文句を言われる筋合いはないと思いますよ。ちなみに、本当の先進国で幸せな国というのは弱者に優しい国だそうですので、もし働けなくても努力しても税金を納められる状況でなくても人様や国に故意に迷惑をかけていないのなら高齢で医療を受けても、長生きしても何の文句を言われる筋合いはないと思います。文句をつける人は本当に豊かな先進国の感覚の人ではないということなのでしょうね。(現在の新型コロナの影響など、緊急事態の時はまた違った状況ですが、一般的な話として書いています。又、私が言っているのは、「長期入院させろ、医療を圧迫して何が悪い」ではなく「重病患者の退院にはサポートが必要」という話ですので取り違えのないようお読み下さい。)長くなりましたが急性期病院で高齢者が直面しがちな問題点について書きました。次回はソーシャルワーカーについてやリハビリ病院の選び方を書いていきます。書くのが結構大変な内容なのでゆっくりになると思います。介護状態になったばかりの方は、わけもわからず、不快な状況から出ようとオムツを触ろうとしたりパジャマを脱ごうとしてオムツ漏れを起こしてしまいがちです。それを防ぐために脱げない一体型のパジャマが有効ですが選ばないと着ていて不快感が強いと思います。こちらは綿100%で肌に優しく洗いやすく、乾きやすく、色柄もサイズも豊富介護メーカー品で、価格は定価の半額以下。私は最初デパートの介護コーナーや介護カタログで倍以上の価格で買っていたので大変でした。また、こういったパジャマは種類が少なく、綿100%のものは意外と少なくて色柄が選べなかったのでこれはおすすめです。洗い替え用に4~5枚用意してリハビリ病院退院後大活躍しました。お勧めは明るい色と窮屈感がないように1~2サイズ大き目です。画像はメーカーさんのもので青色系も何種類かあります。画像をクリックすると色柄サイズなどの詳細が見られます。
2021.01.28
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脳梗塞右麻痺で寝返りもうてず最初の4か月は三角クッションを数時間おきに当て直して蓐瘡を防いでいた母の自己リハビリについて少しづつ書いていきます。当時の母は急性期病院の医師から匙をなげられ施設か自宅への早期退院を迫られ、何のサポートも受けられないまま、自力で母にベストだと思えるリハビリ病院を探しやっと転院したところでした。しかし意識が朦朧としていたのでせっかくのリハビリがほとんど受けられません。このままでは意識のないまま寝たきりになってしまうと面会中に自己リハビリを無我夢中で続けました。一番最初にした事は声かけです。これは急性期病院に入院してすぐに最初に行いずっと続けていました。まずは覚醒してほしかったのでただ、お母さんと呼ぶだけではなく母の意識を刺激するために母の名前を出していろんな人からの呼ばれ方で呼びかけました。母の兄弟や従兄弟からの呼ばれ方、友達からの呼ばれ方仕事での役職付の呼ばれ方等で交互に呼びかけました。すると、全く声が発せなかったのに仕事での呼ばれ方をした時にかすかに、う~っと返事をしたのです。長年仕事を続けていたので強い責任を感じていたのでしょう。その声を聞いた時、母の意識が戻るかもしれない、とかすかな希望の光が見えた様に感じてとてもとても心強く感じ、出来る限りの努力をしようと思いました。別に書いた、初期リハビリの車椅子での散歩にしろ声かけにしろ傍目にはそんなことしても無理でしょうと見える小さな事ですが、ただ呼びかけるだけではなくただ車椅子を押すだけではなく少しでも覚醒に繋がる刺激があるように様々な工夫を毎日のように続けました。その小さな一歩前進があったから母も私も幸せに介護生活が送れました。個人的な体験ですが最初は小さな小さな一歩からでも大きな前進につながる事があるんですね。意識不明で寝たきりでもいろんな呼びかけ方で声かけしてみると覚醒のきっかけになるかもしれないので当時の私のように医師から匙を投げられ途方に暮れている方のご参考になればと書いておきます。諦めないでできるだけの事をする事は大切だと思いました。他の患者さんもいるのに大声で声かけできない、高齢で耳が遠い、そんな時に便利です。一見ちゃちな作りに見えますが専門に作られた20年以上のベストセラーで当時から形状が変わらないところを見るとかなり完成されているのだと思います。小さな声でもはっきり聞こえるし軽くて小さく縮められます。洗えるし、持ち運び簡単で伸ばせるのでかがまずに使えます。必ず守る事は耳に当てた状態で伸ばさない事と、大声で使わない事。耳にダメージがおきます。他に使う方、看護師さん、介護士さんにもお伝えください。ご自分で片側を耳に当て、片側を口にあて、聞こえを最初に確認してください。画像をクリックすると詳細が見られます。
2020.11.18
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大切な高齢のご家族が脳梗塞で寝たきり状態になり途方に暮れていらっしゃる方は多いと思うので参考になれば、少し気持ちが強く持てればと母の状況について少しづつ書いておきます。実際行う場合は主治医やリハビリ担当の方と必ずご相談ください。母は脳梗塞発症後3か月以上、自分では全く動くことが出来なくて1時間半おき位に三角クッションで体位変換をしている状態でした。(急性期病院での最初の3か月は電動エアクッションマットレスでの体位変換でした)リハビリを始めるといっても本人が朦朧としているのでできる事があまりありません。嚥下リハビリさえも飲み込むという意味がわからないようでできない状況でした。そんな中で一番最初に行われたリハビリは車椅子に座る、正しくは座らせておくというリハビリでした。座るというだけでも体のリハビリになるそうです。母は鼻チューブ等をつけチューブ引き抜き防止の手袋を指がかすかに動くほうの左手につけられたまま車椅子に座らされナースステーションの前に毎日1~2時間置かれるようになりました。本人は座っている事もわからないようで体がずりおちるのを赤ちゃんの抱っこ紐のような大掛かりなベルトで車椅子に固定されていました。意識がない状況で、体をずり落としながら車椅子に固定されているのを見乍ら、こんな事をして大丈夫なのだろうか母はつらくないだろうか、と心苦しい気持ちでしたがそれが母にできる唯一の全身リハビリだったのです。私もできるだけ母のリハビリを助けたかったので、看護師さんに確認の上、1.母のずり落ちた体勢をこまめに直す2.母に少しでも覚醒してもらうために声かけしながら車椅子で散歩する3.手袋で手が熱を持ちむくんでしまうので私がいる間は手袋をはずして指のマッサージをするという事を仕事帰りの毎日のお見舞い時に自主リハビリとして始めました。最初は何を言っても反応がなかった母が車椅子で1階に降り、ガラス越しに往来を行き来する車を見せるとかすかに目線が反応したのです。母は外がわかるんだ、と思い、それから病院の了解を得て母の気分転換や覚醒のために玄関の外で声かけをしながら行きかう車を眺めたり病院の外を車椅子で少し散歩したりしました。ライトアップされた敷地が近くにあり、それを声かけで見てもらいながらの散歩でした。母はライトアップとか綺麗だとか理解できておらず、ただ、明るいものとしか判別していなかったと思いますが声かけすると、ぼやっとそれを見ているので意識が戻ってきたかもしれないとかすかな希望をかみしめ乍ら車椅子を押していました。この時は母はまだ声を発する事はできずう~もあ~も言えない状況でした。あのとき、外の景色を見せて良かった、諦めないで頑張ってみようと思って良かったと思います。良い刺激って大切なんだ、家族の努力って力になるんだと思いました。母のリハビリに効果的だった事は少しづつ書いていく予定です。軽量折り畳み車椅子ですが、車輪が大きいので押しやすいし振動が少ないので乗っている人が楽です。ちなみに車椅子の色は綺麗な色のほうが使っていて気持ちいいし、介護施設でもすぐわかり好評です。体全体を支える車椅子ベルト。圧迫感が分散されつけている人が楽です。色も明るくて選べます。汚れにくさを考えて地味な色を選ぶより気持ちが明るくなる綺麗な色をお薦めします。折り畳める車いす用のクッションはありそうでなかなかないです。安価な物を選ぶと座り心地が良くないのでできるだけ良質な座面が大きい物を選んでください。自動で動かしてくれるので介護が楽です。三角のほうが、体の下に差し入れやすく傾斜が徐々にあるので体にも楽です。上に体が載るので実際はつぶれて傾斜がなだらかになります。画像をクリックすると詳細が見られます。
2020.11.16
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脳梗塞で倒れた母は、最初は意識があったものの鼻から管を入れ栄養を入れる事でぐったりし、胃からの逆流と思われる誤嚥性肺炎も起こし朦朧としてしまいました。最初の半年位は寝たきりで自分で体を動かせず体の下に三角のクッションを入れて数時間おきに体位を変えなければならないような状況でした。ぐったりとしている事が多く脳梗塞による失語症で言葉もうまく出なかったので、傍から見ると、何もわからない、先がない人に見えました。病院の医師は結果が芳しくなさそうな、返事もできないような高齢者にはなから興味がないようで早期退院の話しかしなかったのですが、朦朧として治療もリハビリも受けられないまま中途退院したらあとはその状態のまま施設か自宅で寝たきりですごすしかないので回復を目指して出来る限りの努力をしようと心に決めました。幸いなことに病院の看護師や理学療法士に理解者がいて諦めずにサポートしてくださったおかげで、ささえれば歩け、介護食が食べられ、簡単な会話もできにこにこ笑ったり、冗談を理解したり意思を伝えられ、生活を楽しめるようになりました。家族側が積極的に働きかけずにほおっておいたら意識が混沌とした状態で寝たきりのままだったと思います。当時は脳梗塞で重度の後遺症がでている高齢者に関する情報が全くと言って程なく、とても心細く藁にもすがる思いでした。今も状況はあまり変わっていないと思いますので、朦朧としていた母に少しでも安心してもらい、回復してもらう為に行っていた様々な工夫を同じような状況で大切な人を支えようとしている方のために少しづつ書いておきます。今回は母に安心してもらう為に持ってもらったぬいぐるみの話です。母が入院中、声かけや自主リハビリのためにできるだけ毎日お見舞いにいっていました。仕事が終わって病院に直行しても着くのは夜7時過ぎ。そこから9時頃まで付き添い母が眠ったところで帰宅したいと思いましたが沢山声かけして、手を動かす等の運動をした後なのでなかなか寝付けないようでした。急に消灯になるし、急に私が帰ると不安になるようなので少しでも安心してもらえれば、と帰り際、やわらかいぬいぐるみを手に持ってもらい、お休みなさいと声をかけてかえりました。安心してもらう為と、指の委縮を防ぎ、汗をとるために柔らかい軽くて小さな赤ちゃん用のぬいぐるみを握ってもらっていました。退院したあとも、夜寝る前にはそのぬいぐるみを手に持ってもらい柔らかな感覚を感じてもらっていました。小さな事ですが、今考えても持ってもらって良かったなと思います。他にも母に安心してもらうための工夫がいろいろあるのですがまだ気持ちが落ち着かずに、簡単には書けないので少しづつ書いていきます。どれも赤ちゃん用に作られた洗えるぬいぐるみ。上はオーガニックコットンで舐めても安心。ぬいぐるみの形は手足が出ているほうが持つ人の手が不自由でも手や指にかかりやすくて持ちやすいようです。下も洗えるタイプで添い寝枕にもなるタイプ。赤ちゃんや子供の形だと認知症の方が落ち着きやすいとの話もありますよね。画像をクリックすると詳細が見られます。
2020.10.04
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お盆の事を考えていたと思ったらもうお彼岸ですね。この連休は遠出する人が多いようで各地も各主要駅、混みあっているそうです。感染予防対策もありお彼岸の帰省は諦めました。それでかなり気持ちが辛くて最近の落ち込みはそれもあるのかと思いました。敬老の日があるからという事もあります。母がいない毎日がごく当たり前に過ぎていくのがつらくて最近は毎日泣いていました。でもこれではいけないし帰省できないので、せめてお供え物をと干菓子やカステラ、綺麗な蝋燭等を送りました。母が元気な頃から、帰省できない時にはお供えを送ってはいましたが、やはりささやかな物でもお供えしてもらうと心ばかりでも何か出来たと思え気持ちが少し楽になりました。少しづつでも進んでいきたいと思います。画像をクリックすると詳細が見られます。
2020.09.23
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母が脳梗塞になった時とても困った事の一つは、今後の見通しはどうなのか何をしたらいいのかわからない事ばかりという事でした。同じような状況で途方に暮れる方は多いと思います。その原因・問題については、高齢者が脳梗塞になった時 その後の展開1をご参照ください。私はその経験をして大変だったので、この状況は珍しくはないことや今後の見通しが体験談でもわかるなら気持ちが少し強く持てると思うので書いておきます。前回、今後の見通しをたてるのにも必要な「患者家族がしなくてはいけない事」について書きましたが、今回はそのうちの1.脳梗塞の基本情報収集2.様々な急性期の治療方法検討3.リハビリ方法の情報収集について、私の経験上役だった事や気をつけることを急に決断を迫られる、脳梗塞という初めての状況に直面され、現在大変な思いをされている方のためにメモしておきます。1.脳梗塞の基本情報収集2.様々な急性期の治療方法検討3.リハビリ方法の情報収集というのはどれも、脳梗塞の基本知識の収集です。3つにわけた理由は脳梗塞は大抵急に起こるので、一度に様々な事を理解して判断しなければならず患者家族側は混乱してしまいがちなので理解しやすいように以下の3つにわけました。1.脳梗塞の基本情報収集脳梗塞とは何か、脳梗塞になるとどうなるのか治療はどうするのか、治るのか原因は何か、予防方法はどうしたらいいのか、という事です。これは医学的な説明なので沢山の本や情報が出ています。ざっと情報を見るのなら、ネットで検索できますが、基本的な話なのでいろんな情報が載っています。必ず信頼できる公の機関や医療団体のHP等の情報かどうか確認してください。また、脳梗塞についての本も沢山出ていて分かりやすく書いてあるし手元に置いておくと必要な部分にハイライトを入れたりちょっとした確認や家族との知識共有時に便利です。気をつけるのは、周囲には家族や本人が脳梗塞を経験した人が意外といてこのブログのように体験談やアドバイスを見聞きしますが、脳梗塞もリハビリも介護も、非常に複雑で専門的な問題ですし患者一人一人状況が違うので、医学的説明・理解においては周囲の体験談やアドバイスでなく専門家の話を聞いてください。2.様々な急性期の治療方法検討脳梗塞の治療法は症状や状況に合わせて様々ですのでこちらも複雑です。急性期の治療法は一刻を争い、患者側が何か考える暇がないケースがほとんどですが、医師が忙しく、丁寧でわかりやすい説明を患者側にできない事が多々あるようで、私もそれを経験しました。・どういった治療法があり・どういう治療を受けていて・他にどんな可能性があるのかという事がわかれば、気持ちも落ち着きやすいのでその情報も収集するといいと思います。具体的な治療内容については医師からの説明を受け、基本的な事項については公の機関や団体のHPや本からの情報収集をお薦めします、もし入院した病院が、内科しかないような小さな病院なら脳神経外科等のある病院に転院してより適切な治療を受ける事もできるかもしれませんが、脳梗塞の場合は緊急の治療を受けなければならない事が多く、搬送された病院で治療を受けて回復しない時はセカンドオピ二オンを受ける選択はあまりなく、リハビリ病院での回復に力を入れるのが通常の流れだと思います。なので、次のリハビリ方法の情報収集が非常に大切になってきます。3.リハビリ方法の情報収集脳梗塞とはどういうものなのか原因は?症状は?治療方法は?そういった基本的な事は、ネットでも検索できるのですが、高齢者の場合、治療後はどうなるかという情報が非常に少ないのが現状です。どんなリハビリがあって、どれほど効果的なのか、どんな病院があるのか、どうやって選ぶのか、どの程度回復するのか、しないのか、3年後5年後の状況はどうなのか、回復しない場合、何をしたらベストなのかという具体的な情報はほとんどないし、医師からの説明もほぼありません。少しでも不安をぬぐい、できる限りの事をしようと本や公の機関のHPを探しましたが、見つからず、高齢の家族を介護している方の体験談ブログにたどりつきました。母と同じ状況の方ではありませんでしたが、他にも頑張っている人がいてご家族も元気でいらっしゃる事に励まされ心を強く持つことができました。周囲にサポートがない方、情報がない方はリハビリやその後の介護については同じ脳梗塞のご家族を持つ方のブログや体験談は情報も助けになるし精神的にもサポートになると思います。ただ、高齢者の脳梗塞についてのブログはもともと少ない上、数週間や数か月で更新が途切れている事がほとんどです。その理由は、1.高齢患者の家族は60-70代が多く、ネット世代が少ない2.脳梗塞の場合は原因や症状や治療法やリハビリ等詳細を書いていくのには膨大な時間とエネルギーがかかる3.高齢者は回復が難しいので状況をアップする前向きの心境になりにくい事だと思われます。6年前に比べて、今はもっとブログや体験談が出ていると思うのでこまめに検索したり、信頼できる親戚や知人に聞いて情報を集めると、気持ちの面でも助けられると思います。6年前は、情報が非常に少なく、見通しが全くわからず治療法や対処法も正しいかもよくわからず毎日不安でした。しかし仕事とお見舞いの後、毎晩様々な情報を調べてできることはほぼすべてした結果、医師達から「二度と歩けない、二度と立ち上がれない、食事が出来るようにはなれない。」と口々に言われた、「う~」としか返事ができなかった朦朧とした母が、支えれば立ち上がれ、歩け、柔らかい食事なら食べられ冗談を理解し、毎日にこにこ笑い合いながら過ごせるようになったので、私は努力してみる価値はあると思っています。勿論人それぞれ、状況も症状も違うので経過も違うと思いますし、情報を集めて学べばいいとか努力すればいいだけの問題ではありませんが私はやってみる価値はあると思います。このブログも当時の私と同じ気持ちのためにあまり情報がない、高齢者が脳梗塞になった時のその後の展開やリハビリ方法、便利なものについて書きはじめました。正しい情報を得るだけではなく、自分をしっかりもって、脳梗塞になった大切な人をどれ位サポートしたいのか、という気持ちを先にはっきりさせておくのが大事だと思います。高齢者が脳梗塞になった時のその後の展開については知っておくといい事、助けになる事がいろいろあるので少しづつ書いていこうと思っています。画像をクリックしてすると詳細が見られます。
2020.05.28
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新型肺炎感染の速報がひっきりなしに入り母への心配ががちらちら心をよぎり続けて気持ちが落ち着きません。母は亡くなって3年近くたつのに感染したらどうしよう、とか予防のための対策にこれもしなくちゃ、とか今日の様子を確認しなくちゃ、とか熱はあるだろうか、とか食事を考え直さなくていいのか、とか服装は大丈夫だろうか、とか母へのいろんな心配が自分への心配と交互にちらちらよぎります。心の奥に沢山残っている母への気持ちが自分の事の心配で心が不安定の時に現れるんでしょうね。そんなに簡単に元気になれるものではないんですね。3年前の今頃は母はまだ元気でした。ぐったりしている事も多くなっていた母ですが、丁度3年前の定期的な健診で医師が「舌を見せてください」と言うとちゃんと理解して、口を開け舌を出していたので安心したのを覚えています。この時、母の受診の順番が後回しになってお昼時間を挟んで午後まで待ったので私はすごく疲れていて、誰もいなくなったお昼時間の待合室で車椅子の母をそのままに長椅子で少し横になりました。心配するかと思ったのに母は表情も変えず黙っていたので私が横になってもわからないのかな、と思ったのですが、一応「ちょっと寝てるね。寝てないから眠いだけ。」と伝えました。すると脳梗塞による失語症で普段は文章になった言葉は話せない母が、「なら大丈夫だね。心配ないね。」と返しました。表には出せなくても、心の中ではすごく心配していたのだとわかり、母の私を思ってくれる気持ちってありがたいなと思いましたしわかっているんだと、とほっとしました。そのすぐ後の検診で医師が、「栄養状態もいいし、足に筋肉もついていますよ」と言ってくれたので、ああ、良かったと嬉しかったのを覚えています。その時医師に質問すると、甘いものを沢山食べてかまわないし旅行も行けるなら海外旅行も行ってもいいですよ、とお墨付きをいただき、母の調子を初夏ぐらいまでに整えられたらクルーズなら車椅子でも大丈夫かなと考え始めていたので尚更今回のニュースは母の事を考えてしまうのかもしれません。3年前の今頃、要介護5なりに元気だったのに急変して亡くなってしまったのでいまだに何かできないのか、母を助けられないのかと思っているのだと思います。今、市中感染が広まりつつある時期で色々な事が不安な状況なので母を心配していた時の気持ちが無意識のうちに思い出されるのでしょう。なかなか難しいですね。お道具つきのお菓子です。お雛祭りの時期のお供えや小さなお雛様のお道具やお世話になった方へのちょこっとプレゼントに。小さなお子さんがいる方にも喜ばれますが、お仕事が忙しい大人の女性、お雛様を飾るのが大変になったご高齢の方や入院中の方にも喜ばれます。画像をクリックしてすると詳細が見られます。
2020.02.23
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母が脳梗塞になった時とても困った事の一つは、今後の見通しはどうなのか何をしたらいいのかわからない事ばかりという事でした。同じような状況で途方に暮れる方は多いと思います。その原因・問題については、高齢者が脳梗塞になった時 その後の展開1をご参照ください。(色字のタイトルをクリックするとそのブログが見られます)私はその経験をして大変だったので、この状況は珍しくはない事や今後の見通しがこの体験談でわかるなら気持ちが少し強く持てると思うので書いておきます。高齢者の脳梗塞は患者側が把握しなければならない事が沢山あるので少しづつ書いていきます。今回は今後の見通しをたてるのにも必要な「患者家族がしなくてはいけない事」についてまとめてみました。私がそうでしたし、皆さんそうなると思いますが、この内容を知らないと次々出てくるしなくてはならない事に家族側は振り回されて疲れてしまい不安も増します。やらなくてはいけない事これからしなくてはならない事を知っておくと頭の中が整理されやすいですし、やる事が沢山あるから一つ一つやっていこうと覚悟もしやすいです。その内容は、ざっと書き出しても以下のように多岐にわたります。1.脳梗塞の基本情報収集2.様々な急性期の治療方法検討3.リハビリ方法の情報収集4.患者のその時々の状況把握5.一連の費用計算と支払6.保険の手続き7.介護システムの把握8.様々な施設の情報収集9.退院後の治療や介護について確認10.お見舞い時の自主リハビリ11.入院中必要な物の購入と運搬12.薬の種類と副作用の確認13.食事の内容と作り方や購入方法確認このリストを読んでいるだけで、ちょっとくらくらしそうな感じだと思うのですが実際やる事が広範囲に渡るし多いししかも未知の分野なので大変な事は事実です。大切な家族のために、少しでも良くなってもらうために、少しでも可能性を大事にするためにここが基本のき、スタート地点なのでじっくりしっかりやっていくのが大事だと思います。(あくまで私の個人的な体験に基づく個人的な意見です)自分はどの部分の情報が必要なのかどの部分について考えていなかったのか整理するとこれからの治療に備えていけます。次回は、1.脳梗塞の基本情報収集2.様々な急性期の治療方法検討3.リハビリ方法の情報収集について書こうと思います。高齢者が脳梗塞になった時のその後の展開については知っておくといい事、助けになる事がいろいろあるので少しづつ書いていこうと思っています。画像をクリックしてすると詳細が見られます。
2020.01.15
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母が脳梗塞になった時とても困った事の一つは、今後の見通しはどうなのか何をしたらいいのかわからない事ばかりという事でした。同じような状況で途方に暮れる方は多いと思います。それは医療関係者が1.はっきりしたことを言わない(言えない)上に、2. 一般的に高齢者の脳梗塞は回復が難しいので悲観的な見解を一言二言述べるだけで、3.積極的な医療やリハビリを勧めない事が多いからです。医療機関からも、公共機関からも患者や患者家族への気持ちが前向きになるような積極的になるようなサポートがほぼない事が多いのです。患者は脳梗塞で朦朧として自分で決定できないので、結果、患者家族がサポートがほとんどないまま不安な気持ちで暗中模索しながら自力で情報を集め、今後の方針を決め、覚悟を決めて、回復のために先の見えない様々な努力を行っていく事になります。脳梗塞は突然起こる上に、治療は急を要し、しかも脳梗塞医療・リハビリ現場では患者の早期退院をせかす傾向が非常に強いので急に全く知らなかった分野の情報を収集し短期のうちに決定しなければならないので患者を大事に思えば思うほど途方に暮れるのです。私はその経験をして大変だったので、この状況は珍しくはないことや今後の見通しが体験談でもわかるなら気持ちが少し強く持てると思うので書いておきます。強い気持ちを持てる事が少しでも回復するためにはとても大切だと思うからです。高齢者が脳梗塞になった時のその後の展開については知っておくといい事、助けになる事がいろいろあるので少しづつ書いていこうと思っています。画像をクリックしてすると詳細が見られます。
2020.01.04
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母は脳梗塞で右麻痺、失語症、嚥下障害で食事も、トイレも、寝起きも自分ではできなくなり朦朧としている事が多い状態になりました。調子の良い時は単語の会話ができ簡単な意思疎通ができたのですが、たとえば、「寒くない?」と聞いて「いいえ~」と返って来ても、本当に寒くないのか、反射的に「いいえ」と答えたのか、本当は寒いけれども本人が自覚してないだけなのかわかりませんでした。複雑な会話はできないし、脳梗塞で考える部分がだめになっていて、2+3=?が答えられないし、母にわかりやすいように、母が気持ちよく過ごせるように幼児に接するように対応していたので、ついつい、3歳児位をお世話している感覚になっていました。なので、母はよくわかってないのだろうなと勝手に思い込んでいました。でも今色々な事を思い出すと、母は心の中は昔と同じ母のままで只、単に、それを外に表すことができなくなっていただけだったのかもしれないと思う事が沢山あります。そのエピソードは、少しづつ書いていこうとは思っています。もう少し、大人 対 大人として相談したり(返事はできないかもしれませんが)複雑な話をしたりしたら良かったかなあって思います。周囲でも、脳梗塞で寝たきりになったご家族をもうわからないだろうと、声かけもあまりしない方も沢山いらっしゃいますが、動けなくても、頭の中と心の中はいままでどうりかもしれないので大事にしている人達が、諦めずに、体の部分は全介助が必要でも心と頭の部分は、幼児扱い、廃人扱いするのではなく今までどおりに接するのが本人は嬉しいんじゃないかと思います。私は、母に出来る限りの事をしたいと思っていたので、出来る限り話しかけをして、一緒に歌を歌ったり手を動かす運動をしたり、褒めたり、お礼を言ったり時には過去の事を謝ったりしたので今、とても救われているところがあります。脳梗塞の原因や治療法についての本は沢山ありますが、脳梗塞のリハビリや退院後での話はなかなかないので、載せておきます。画像をクリックしてすると詳細が見られます。
2019.10.03
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母が脳梗塞になり嚥下訓練が全くはかどらなかったのですが家族が毎日根気よく体操や話しかけを続け数か月後、やっと重湯が食べられるようになった頃の話です。仕事のあと毎日のようにお見舞いにいきましたがその時間は丁度夕食が始まる時間でした。食事が良く食べられるようになるために効果的な事を本やネットで調べましたが、身体を固まらせないようにする、とか嚥下訓練をする等は書いてありますが意識が朦朧としている高齢者にできる事やリハビリの情報は全くありませんでした。それで独自の工夫(具体的にはどうしたらいいか、母に効果的な方法は何か。)を加えたオリジナルの話しかけや手の運動や発語練習をして意識の覚醒を心がけました。先日書いたじゃんけんもその一つですが他の方法については後日書いていきます。当時母はまだ朦朧としていて、あ~とか、う~とかしか返事はできませんでしたし、自分からはかすかに手を動かす位しかできませんでした。ですから、体を固まらせないように動かすこととできるだけ意識を明確にしてもらう事が大きな課題でした。母は朦朧としていますので、何もしないまま食事の時間になればいくら介助しても重湯やどろどろのスープを5~6口食べるのが精一杯でした。そこで食事をしようという気持ちになってもらうために食事のワゴンが運ばれる音が聞こえるとベッドを起こしながら「もうすぐ夕ご飯だよ~。」と伝えて母の意識を覚醒しようと努力しました。一言だけ声をかけても簡単に覚醒しないので、「今日の夕ご飯は何だろうね。何だと思う?」と話しかけ、質問していきます。大抵の方は、話しかけるという所まではしても、朦朧としているのを見て諦めてしまうように思いますが私は諦めずに根気よくやっていこう、出来る事は全部やろうと思いました。母は返事ができず何か言えたとしても「う~」位ですがたぶん質問の内容はわかっているのではないかと思いました。が、理解していると明確に言える状態ではありませんでした。しかしそこで諦めずに、「すき焼きかな~?」「お寿司かな~?」「ステーキかなあ?」「スパゲティかな?」と母の好きな料理や食欲が出てきそうなもの、無意識でも興味を持ちそうな食べ物を沢山並べて母に語りかけました。それを聞いた看護師さん達や同室の患者さん達やお見舞いの方達は、何を言っているんだろうとか、どろどろの食事しか出来ないのに、気の毒にみたいな複雑な顔をしていましたが気にしませんでした。なぜかというと、どろどろの食事が5~6口でも食べられるようになったことが奇跡のように幸せな状況でこれからもっと良くなるかもしれないという夢に近い希望があったし、それをかなえられるかどうかは私の努力にかかっているから頑張ろうと前を向いて無我夢中だったんです。いろんなお料理の名前を挙げても出てくるのは味も見た目もそっけない重湯やどろどろの食事なのはわかっていますが、母に食べる気持ちを少しでも出してもらおうと沢山の料理を次々挙げながら、「何がいい?今日は何が食べたい?」と聞きました。すると母は少し覚醒したような感じになりました。質問されて、答えなくてはいけないという気持ちが合ったのだと思います。食事のトレイが運ばれてくると、「何だろうね?美味しそうだね~」と言いながら蓋を開けました。そうすると母が蓋や重湯を見ているのがわかります。それだけでも勇気をもらえました。「今日はお粥だよ~。美味しそうだね~。食べようね~。」見た目は殺風景の重湯でしたができるだけ楽しそうにして美味しいと思ってもらおうとしました。今までは自分で食事ができたのに脳梗塞を発症した際に鼻から栄養をとるチューブを入れたことによって母はぐったりし、誤嚥性肺炎を起こしてしまいその後朦朧としたまま2か月が過ぎました。朦朧としているので一番最初は、何度試しても嚥下訓練のゼリーをスプーン半分も呑み込めません。医師からは訓練は打ち切りにして胃瘻と言われたところを、「今まで嚥下の問題はありませんでしたからあと一週間練習させてください、家族も協力しますから。」と諦めずにお願いしました。嚥下訓練をしてくれる方も、「もう少し努力したい。」と言ってくださり結果、力はありませんがゼリーを飲み込めるようになり少しづつ重湯の食事を増やしていきました。あの時諦めていたら母はそのまま寝たきりになって意識も回復しなかった可能性が高かったと思います。重湯を数口でも食べられるようになった、それだけで私にとっては将来が明るく見え、とても幸せでした。実際、母は少しづつ少しづつ回復し、柔らかいごはんやおかずの食事を楽しめるようになりました。お箸は使えずスプーンも上手くすくえないし口に持っていけないのでエプロンをつけての全介助でしたが、調子が良い時は苺もみかんの房も手に持ってもらえば、少量ですが食べられるようになりました。当時の状況から考えると奇跡的と言えるほどの回復でした。明るく、前向きに話しかけて本人にやる気をだしてもらう、食欲を出してもらう、それはとても大切な事ではないかと私は思っています。それができて良かった。母を明るく励ませた事に感謝しています。水分補給ゼリー。外出や、通院の待ち時間用などにかならず持参しました。苺、メロン、マスカットなどのフルーツ味がいろいろあります。マスカットが一番さっぱりしているように思いました。苦みのあるコーヒーがお好きな方にはコーヒー味がお薦め。水色のは味がついていない水分ゼリーです。小さな容器なので飲みきりです。こちらは水分が多めのさっぱりタイプの固形ゼリー。どれも本格的な味がしますが一番さっぱりしている梨がお薦め。他にもいろんな味があって、量が少な目で軽く水分補給できるので外出時や食間のおやつにも重宝しました。画像の店舗は最安値店舗だと思います。こういったタイプのものは一度に買うと重いので届けてくれるネットでのまとめ買いがお薦めです。詳細は画像をクリックしてください。楽天店舗に移ります。
2018.08.21
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脳梗塞で朦朧としている母に覚醒してもらうために最初に呼びかけをしたのを前回書きました。呼びかけで横になったまま返事ができた母ですが、あ~というような返事の時や、返事ができない時もあり朦朧としています。もう少し頭を動かして覚醒してもらうために最初は話をしてみましたが、わかっているのか反応が薄いので簡単でわかりやすい、じゃんけんをしてみました。「じゃんけんしようね。じゃんけん・ぽん!」とはっきりした声で話しかけて、じゃんけんの手を出すと母も手を少しふりました。正確に言うと、手首から上がかすかに動いただけですが、指一本動かせず、どこにも力が入らないような状態だったので手を振ろうとしている、じゃんけんをしようとしているのがわかって、すごく勇気をもらいました。それを何日か繰り返すと、最初はグーしかできなかったのに正確には、握っている手そのままでかすかに振るというかほんの少し動かすだけだったのにチョキをだそうとするのがわかり、一週間ほどするとチョキが出せる日もありそれを見たときは本当にほっとし、希望が見えました。初期のリハビリにはじゃんけんのように、子供の頃から知っていること、反射的にでるもの、考えなくてもできる事で脳を動かしてもらうのが効果的だと思いました。当時の母はぐったりとベッドに横になりリハビリとして看護師さんが車椅子に乗せてもだらんとしてしまう状態でした。話もできないし、返事も、う~位しか言えませんでした。その状態が2か月ほど続いていて、医師達は回復は難しいと言っていましたが最初のころから諦めずに、呼びかけ、話しかけの他にいろんな工夫を家族が仕事帰りに毎日通って数時間以上していました。それがとても大事でした。続きます。ご注意:じゃんけんも、いろんな呼び名での呼びかけも医療は何も知らない私の工夫なので何の裏付けもないし、何か問題が出るかもしれません。実際試される場合は念のために担当医にご確認下さい。母が脳梗塞で入院中、体を自分では動かせないので足や腕を軽くマッサージできるものを探しました。これは効果的で使いやすく、病室の小さな引き出しにいれても出し入れが楽で優れものです。力の入れ方で強弱が簡単に調節できるので、入院中の方、動けない方の足裏、足、腕、手のひら、頭などの軽いマッサージができ、軽い刺激を与えたり血行を促進します。ピンクの部分が小さなローラーになっていてパジャマの上からもするすると転がせますが白い部分も手のひらで流すような効果があります。母用に病室に置いておくために買いましたが、とても気持ちが良く私が自宅で使う分も購入しました。小さくて持ち運びできるので仕事中、旅行中、移動中にも便利です。下は頭用で小さなローラーが付いていてとても気持ちよく使え、場所もとりません。こちらも病院で使っていましたが退院後も上のと合わせてリビングに置き、デイサービスに行く前、帰ってきてからのほんの10秒20秒で頭と背中、足等をさっとマッサージし気持ちがいいと喜んでもらっていました。脳梗塞で右麻痺だったので車椅子に座りっぱなしのコリをこれで少しでもほぐせて良かったです。画像をクリックすると商品詳細・楽天店舗に移動します。
2018.03.04
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母が脳梗塞になり、鼻からチューブを入れたことによりぐったりして、意識が朦朧としてしまいました。リハビリしようにも嚥下訓練しようにも意識が朦朧としているので何もできません。車椅子に座ることさえも難しくずり落ち防止ベルトでささえて短時間座れる状況でした。朦朧としているのでゼリー状の嚥下訓練用食事をスプーン1杯食べる事さえ難しく、医師からは胃瘻を薦められました。医師によると、今後立つことも口から食事をすることも期待できないだろうとの事でした。しかし、諦めてはいけない、できる限りのことをしよう、とまずは母に意識をはっきりしてもらって嚥下訓練できるようになってもらおうと母へ呼びかけをしました。お母さん、とも呼びかけましたし脳の活性化になると思って、母の名前でも呼びかけしました。デイサービスのスタッフさん等が呼びかける、○○さん、母の幼馴染が呼びかける、○○ちゃん、母の兄弟や親類が呼びかける、○○姉さん、定年まで勤めた仕事での呼ばれ方、母はいろんな呼ばれ方をされていたのでそれぞれの呼び方で呼ばれたら、脳が活性化すると思ったからです。特に仕事での呼ばれ方は、朝、仕事に行くために眠い中、祖母に起こされて頑張って支度をしていた母を思いだし覚醒に効果があるのではないかと思ったのです。すると、お母さん、○○さん、と呼ばれても反応しないのに仕事での呼ばれ方をしたら、しっかりと、はい、と答えました。母は定年まで熱心に仕事に取り組んでいたので、仕事に関してはこと責任感があり、朦朧としていても対応しようとしたのだと思います。しっかりはいと答える母に、大丈夫かもしれない、と一筋の希望が見え、毎日沢山の呼びかけをしました。呼びかけて、脳を活性化し、手を動かす運動や話したり歌ったりという、ベッドでできる運動をし、それをきっかけに少しづつ回復してきました。朦朧として、医師に匙を投げられた母が支えがあれば歩け、柔らかい食事を楽しめるようになったのは本当に奇跡のような回復でしたが、それは呼びかけに返事をすることから始まったと私は思っています。母が退院後も、脳を活性化するためにいろんな言い方で毎日沢山の呼びかけをしていました。母への呼びかけは私にとって希望がもてる、気持ちが明るくなるものでした。もし大切なご家族が同じような状態の方がいらっしゃったらいろいろな呼びかけを沢山し、元気よく返事してもらってください。もしかするとそれがきっかけで、回復されるかもしれません。病院で静かにはっきりと伝えたいときや耳が遠い方や朦朧としている人への呼びかけにも使えます。一見単純に見えますが、使いやすく工夫されているロングセラー商品です。詳細や購入は画像をクリックしてください。楽天店舗に移ります。
2018.02.21
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このブログは2018年1月の小室哲哉さんの会見を見た後書いたものです。その後、KEIKOさんのご家族の方から別なお話があったそうですが、このブログは小室さんが話された事の真偽についてではなく、脳梗塞になられた方は、周囲が感じているよりも実際はもっとよく理解できているのではないか、ただ、それが周囲にはわからないのではないか、という事について書いています。脳梗塞になった方を介護する時にとても重要な観点だと思い体験を書いておくことにしました。小室哲哉さんが奥様の事を少女のようとおっしゃっていたので右脳脳梗塞で失語症になった母と重ねました。母を介護中、3歳児位のようだと何度も思い、周りの人にもそう言っていました。母は高齢で耳も遠かったので、どうしても大きなはっきりした言葉で単語で語りかけました。それに対し、母は失語症だったので単語で答えていました。つまりお互い通常は単語で会話していました。小室さんも単語での会話とおっしゃっていたのですが私も試行錯誤した末の最善の会話方法が単語による会話でした。いつも明るくしよう、前向きでいようと思っていたので、明るく大きな声で話しかけており母もにこにこと明るく答えていたので、幼稚園の先生と生徒のような会話になっていました。どうしても深い話はできません。母の調子が良いと何か長く話してくれるのですが失語症なので何をいっているのかよくわかりません。たまに内容がかすかにわかる時がある程度です。一番大事なのは母に快適でいてもらう事だったので、母の調子や、暑くないか、寒くないかという単純な問いかけを常にしており、他の話にまで及ばないことがほとんどでした。リハビリとして毎日いろんな歌を一緒に歌い、あいうえおや九九を暗唱したりで忙しく食事や歩行、トイレはすべて全介助でしたので幼児と過ごしているような状況でした。母の事は可愛らしく、大事に大事にしていました。今言わなければと、母を褒めたり、謝ったりしましたがわかりやすいように、明るく言ったので母も気軽に、「いいえ~」等と答えてくれていました。たまに、母はよくわかっているんだと思う事がありましたが仕事と介護に忙しく、母を幼児のようだと思っていました。母が亡くなり、いろいろな事を思い出す中、母はやっぱり母親だったんだなあ、脳梗塞で表に出せなくなってしまっていたけれど今まで通りの、子供の事を心配し、子供を大事に思う母のままだったんだなあと気がつきました。詳しくは別に書きますが、亡くなるひと月ほど前、母が心配することはないかなと思い疲れたので横になっていました。脳梗塞になる前なら、とてもとても心配した母ですが何の心配するそぶりもなく黙って座っていたのでやはり複雑な事は考えられないかなと思っていました。でも念のため、「寝ていないから眠くて寝ていたの」と伝えた所、「なら大丈夫だね。心配ないね。」と言いました。表には出せなくても、横になっているけど体調は大丈夫なのかと心配していたのでしょう。もし、あまり何も考えてなかったら、いつも言うような単語、「はい」とか「わかった」とか「良かった」と言ったでしょうが、いつもは言わない、「なら大丈夫だね」に続けて「心配ないね」と言ったのは、やっぱり心配していて安心したからだと思います。また、亡くなる2週間前、夜苦しくて眠れない母に添い寝して歌を歌ったり、話しかけて気分を紛らわせていましたが疲れてそのまま寝込んでしまいました。すると懐かしいような感触があって目が覚めたのですが母が私の頭をなでていました。言葉では言えなくなったありがとうや母の愛を伝えてくれたのかなと思います。複雑な事は考えられない、できない、3歳児位の能力、それは私の思い込みで、介護が忙しくて、目先の表面の事しか見えなかったかもしれません。脳梗塞になってしまっていても、母は今までと同じ母でただそれが表せなくなっていただけだったんだとあとから気がつきました。もしかしたら、今も今までと同じ母のままで見守っていてくれているかもしれません。もし脳梗塞などで、同じ状況の大切な方がいらっしゃったらもうわからないんだ、と思わずに表に出せないだけ、ととらえると介護する側の気持ちも変わってきますし、話かければ理解してくださるかもしれません。
2018.01.25
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