しまねこしねま

図書館のおもいで・本の小部屋



●図書館のおもいで

わたしが育った町の市立図書館は、少し小高い坂を上った桃色の古い木造の建物でした。
そこはもとは裁判所だった建物で、ちょっと威圧的(だから桃色に塗り替えたのか)、
中は暗くて床も、立派な階段も窓も、木だったような。
1階は「じどうしつ」と勉強室、2階は大人のための書架と閲覧室。だから小さい頃は、
2階は大人の世界、というイメージがあったな。

今とちがうのは、ジブリの映画「耳をすませば」のように貸し出しカードに記入する方式だったこと。
本のうしろのポケットに借りた人のスタンプがたくさん押してあった。

私は中学生くらいになっても「じどうしつ」がだいすきで、エリナー・ファージョンやナルニア国ものがたりに出会いに
しょっちゅう出入りしていた。
少々偏っていたが、外国の児童ものが大好きで、「がんばれヘンリーくん」だの、
ケストナーだの、ロビンソン・クルーソーだの、いろいろ読んだ。
また、読書だけでなくテスト前になれば勉強室にいくことになる。図書館で勉強した、というだけでなんとなく満足していた。

あの図書館は窓が開けられた。
外国の映画みたいな、あるいは昔の汽車のような木枠の上に上げるタイプの窓。
初夏など、開け放された窓から爽やかな風が入ってきて、
その中で単語帳を繰ったり、角がやぶけた本を選んだりした。

その素敵な図書館も、私が中3だか高1くらいのときに、放火されて
すべて灰になってしまった。
火をつけた人はまさかブラッドベリのファンだというわけでもあるまいが、
ともかく今は別の場所に新しい図書館ができて、
そちらもなかなかいいけれど、おもいでの本たちは燃えてしまった。
もう手に入らない本もある。

あの古い図書館の、窓から入ってきた風が忘れられない。
今はみんなエアコンで快適だけど、たいていは閉じられた空間だ。
今でも、香川京子に似た司書のおねえさんやあの爽やかだけど少しばかり埃くさい風のことをなつかしく思い出す。



●本の小部屋(エリナー・ファージョン「ムギと王さま」作者まえがきより)
石井桃子 訳


 わたくしが子どものころ住んでいた家に、「本の小部屋」という名の部屋がありました。
なるほど、その家の部屋部屋は、どれも本の部屋といえたかもしれません。
二階のわたくしたちの子ども部屋も、本でいっぱいでした。下へおりると、
父の書斎にも、いっぱいでした。また本は、食堂の壁ぎわをうずめ、
そこからあふれ出て、母の居間や、さては、寝室にまでながれこんでいました。
本なしで生活するよりも、着るものなしでいるほうが、自然にさえ思われました。
そして、また本を読まないでいることは、たべないでいるのとおなじくらい不自然に。

 しかし、家じゅうのどの部屋よりも、本がわがもの顔にふるまっていた場所は、「本の小部屋」でした。それは、手入れをしない庭が、花や雑草のはびこるにまかされているのにも似ていました。
「本の小部屋」には選択も秩序もありません。食堂や書斎や子ども部屋の本には、選んで、整とんされたあとがありました。
けれども、「本の小部屋」は、そのなかに、宿なしや流れ者、階下の整とんされた本棚から追われたのけ者、父が競売でまとめて買ってきた包みからはみだした余され者、というような雑多な仲間をかき集めていました。
がらくたもたくさんありました。が、宝はもっとたくさんありました。
くずに、良家の方がたに、貴族たち。本なら、どんなものでも、読んではいけないといわれたことのなかった子どもには、まるで宝くじ、たのしい掘り出し物の世界です。

あのほこりっぽい本の部屋のまどは、あけたことがありませんでした。
そのガラスを通して、夏の日は、すすけた光のたばになってさしこみ、
金色のほこりが、光のなかでおどったり、キラキラしたりしました。

わたくしに魔法のまどをあけてみせてくれたのは、この部屋です。
そこのまどから、わたくしは、じぶんの生きる世界や時代とはちがった、
またべつの世界や時代をのぞきました。
詩や散文、事実や夢に満ちている世界でした。
その部屋には、劇や歴史や、古いロマンスがありました。
迷信や、伝説や、またわたくしたちが「文学のこっとう品」とよぶものもありました。




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