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一昨日の午後、30分ほど同僚と二人で幹部上司とこの間の現場の問題について訴えた。良く一年半も我慢したねって。とりあえず30分間、話すだけ話したけど、結論はまず上司を含めて4人で話し合いをしてどのくらい解決できるか様子をみてって。幹部が話し合いに入っても良いけど、それで解決する見込みは無いはずだし、幹部上司が誤りを糺したところで幹部には良い返事しかしないわけだからそれで現在の職場を改革できるとは思えないし、と。記録などについては、支援に入ったところで内容を確認することはできるが、上からの指示で変わる?って逆に質問されてしまった。職員の間で色々試してみて、それでもうまく行かなければその時には考えるので、とりあえずみんなで考えてみてって。そう言われてしまうと、そうかもしれないと思ってもみたけれど、ここ一年半全く職員の意見を聴く姿勢が見えなかった上司に対して、どう話をしていけばよいか。昨夜一晩中考えてみたが、これと言って良い方法は見つからず、今朝更衣室で一緒に話し合いに参加した同僚とこそっと話して、二人とも「どうしたもんかねぇ」という言葉以外は見つからず。攻撃的にならずに、冷静に相手の言い分を聴きつつ自分の意見をしっかり言ってみるということをしなければならないのだけど。きっかけを作るにはどんな話方をすればよいものか。上司以外の職員で作戦を立てて簡単にひるまないで、話し合いをまずもつしかないのだけれど。機嫌のよい時を見計らって、言い過ぎず攻撃的にならず、相手を立てて。マァね、そういうことが今までできていたらずっと前にやっていたはずなのだけれども。職責者の会議って日常的にあるけども、職責ではない職員の横断的会議って無いしね、身内だけで話し合うしかないしね。とにかく一月中に同僚と色々話し合いをして、きっかけづくりをして行かなくっちゃ。でもね、管理職でもないのに、こういうことを考えたりしなくてはならない組織って何なんでしょうね。腑に落ちないことは腑に落ちないのだけど。歯切れの悪い今の私です。
2015年01月28日
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今働いている訪問看護ステーションは、まだ医療保険でも訪問看護が認められなかったころ外来で働く1看護師が、気になっている患者さんのご自宅に無償で訪問して看護をしたところから始まり、1980年に訪問看護を病院の事業として開始した。その2年目に私はこの職場に転職してきて、訪問診察と訪問看護、健康診断、地域の老人会の血圧測定、障害者の旅行の付き添い、脳卒中の患者会の一泊旅行や日帰り旅行の付き添い、喘息患者のサマーキャンプなど外来や病棟看護以外の看護業務を一手に引き受けた部署の業務に従事してきた。 医療保険で老人訪問看護が保険対象になった年に、他の部署に異動してそれから25年後また訪問看護に戻ってきた。 報酬の無い訪問看護をして80年代前半は、訪問看護をしている事業所はまだ全国的にも少なく、戦前の済世会や聖路加病院などや、保健所保健師や自治体の保健師が訪問をしていた時代だった。 経験も浅く、知識や技術もなく、一生懸命に患者や家族の話を聴いて、毎日毎日朝や夕に職員二人と相談しあって仕事をしてきた。何でも話し合い、何でも相談し合い、分からないことがあると他の部署の医師や看護師に尋ね回ってとにかく患者のためになることならなんでも頑張ろうと必死で仕事をしてきた。 看護の仕事をするとはそういうものだと思って、一つでも患者のためになるなら勉強してその結果を患者さんに返していく、それが当たり前だと思い、そういう仕事ができるのが私が勤めている法人の魅力だと思った。お給料は安いけれど「患者さんのために」と気持ちを合わせられることが仕事を続けれるのが看護師として幸せに思えることであった。 あれから20数年たって、訪問看護の制度は確立し看護の基礎教育科目にもなり、全国各地に訪問看護ステーションができている。 看護技術も進歩し制度も整ってきたのに、なのになのに、私の事業所では、当初の心意気はすっかり忘れられてしまっている。 階段下の狭い部屋で、同僚二人とああでもこうでもないと議論した日々が懐かしい。 魂の入っていない組織は、うわべだけの仕事はできても、心のこもった仕事はできないし、職員は育たない。 いざ決行。 とりあえず幹部の上司に同僚二人とレポートを持って行って話しをして、労働組合にも労基法違反疑いについて話しをして、年度末面接で所長にこの一年半に課題についてレポートを出す。 数カ月、半年で何も現状が変わらないなら退職届もやむなし。魂の無い組織で働くことはもうできない。
2015年01月24日
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私の職場の非常勤職員の契約上の労働時間は9時から17時の拘束8時間、実働7時間。1月から採用されたTさんはまだ勤務に慣れていず、同行訪問した限りは在宅での看護には全く不慣れで患者さんのご自宅にたどり着くのもやっとといった感じ。道迷いして患者さんのお宅にたどり着けず全く違った道で出会ったこともしばしば。不慣れということだけでなく、看護師の免許をとった後病棟勤務が無く同じ施設での労働期間も非常に短い。血圧の測定もなんだか見ていられないような状態。複数の看護師が同行訪問して、その都度色々なことをお伝えしているのに何も伝わっていない。教えてもらうことをメモするわけでもなく、自分なりの業務手順をつくるわけでもなく、とっても一人で訪問できるようにご自分なりに努力をしていない。そのことをその都度所長に伝えているのに、所長自身が苦手で行きたくないと漏らしている患者さんのお宅に一人で行かせ、慣れた職員でも契約時間をはるかにオーバーするのに午前中に目いっぱい訪問件数をつけ、午後も3件もつけている。非常勤の方が時間外になってしまうことは予想されるのに、自分は時間内で業務を終えられる件数にしているのに、非常勤の方に時間外まで仕事をさせようとしているので、朝礼前に契約時間外になる件数をつけるのは問題だと話してみるが無視。案の定、午前業務から戻ってきた時間は午後の一時半。その時点でも「行ってもらいます」の一点張り。上司の命令に逆らうことはできないので、当の本人も他のメンバーも黙っている。なんて職場なんだ。悔しいやら情けないやら。私は午後3時から会議が入っていたのだけれど、3件目の方の訪問を変わりましょうか、と進言しても「私が部長に怒られるから会議に行ってもらわないと困る」と言い張る。労働基準法を守ることと部長に怒られることとどっちが大事なんだと、またまた情けなくなるやら、こんな上司のもとでは働きたくないという気持ちに駆られてしまう。会議開始時間きっかりに会議室に行き、本日予定されている事務処理をガンガンこなして、5時に会議を早退させていただいて、(所長には会議終了まで参加してとつたえて!)とお願いして、患者さん宅に。吸引が必要な患者さんなのに吸引の準備もしていず排便ケアでパジャマやシーツを汚している。昼休みも十分にとっていないのでこれ以上仕事をさせることはできないと、交代を申し出てケアを6時過ぎまで続けてきた。事務所に戻ると所長からは一言もなく全く私を無視。本当につくづくこんな上司の下で働きたくないと痛感。噂では、この上司前任の職場の管理職になってから新卒の看護師は一人残らず退職しメンタルの問題を理由に休職する人が続いていたとのこと。何でこういう人格の人を職責者にしてしまうのだろう。「猫に鈴」でもあるまいし、なぜ誰も指導をしないのだろう。少数職場だからといった単純な理由で職責者にしたのだろうか。こんな職場はいい加減にやめてしまいたい。
2015年01月23日
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正月二日に退職の気持ちを聞かされたSさんはとうとう昨日退職届を出した。昨日夕方六時過ぎに事務所に戻ると、Sさんと所長が面接室で話し合いをしているという。正月以来、Sさんの表情は暗く、一つ一つの動作がSさんらしからぬ乱暴な面が目立つようになってきた。たとえばドアの閉め方とか、タオルのたたみ方とか、感情が乱れているときには手にその気持ちが表れてくる。こういったことが目立つようになっている人には注意が必要だが、もう手遅れだった。自分に感情についても同じだけれど、大丈夫だと勝手に解釈して手当てをしておかないと、どんどん悪化していく。Sさんが異動してきたときには、私と同じ年齢だし、停年まで後数年なので、停年までこの職場で働くものと思っていた。でもどんどん表情が暗くなって、世間話もしなくなり、でも所長の前では仲よしの感じで接しているので退職を決意するとは全く気がつかなかった。昨年退職した二人もそうだったけど、退職を決意するときは、ひそやかに心を決めていくのだから、退職するつもりと他人に漏らすときにはもうその気持ちを変える余裕はなくなっている。自分もそうだけれど、どうしようもなく辛い時には、他人の言葉に心を開く余裕はない。Sさんもきっとそうだったのだと思う。取り返しがつかないところまで気持ちを追い込まないような接し方ってどうしていくのが良いのだろうか。若い職員に対してもベテラン職員に対しても、所長に対しても。昨夜はそんなことを考えていたら、やけ食いがしたくなってオリジンの総菜セットとファミリーマートのおでんで一人居酒屋。自分がこの年まで看護の仕事を続けてきたのは、なんだったのだろうかと思う。学生時代は看護の仕事の面白みをつかめなくって全く持って不真面目不良学生だった。授業は面白くなく、実習も何が何だか分からなくって指導看護師には罵倒されるし教務には見放されていた。就職も地元の病院や自治体の職場を勧められることもなく一人東京の大学病院に。お粗末な学生時代を過ごしてきたので、就職したからと言ってスムーズに仕事ができるはずもなく、毎日毎日叱られる日々。仕事もできないのに、夜間の大学に通っていたのでそのことに対しても同僚からけなされ散々。ダメダメ看護師でも、患者さんの前ではどう転んでも誠実にならざるを得ず、患者さんから色々なことを教えていただいて、ほめられることも多くなり、そのたびに少しずつ成長できたように思う。布団の掛け方が優しいとか、シーツ交換してシーツが崩れなくって気持ちよいとか、便器を温めてから出してくれるので気持ちよく排便が出来たとか。氷枕を頼むとすぐ持ってきてくれるとか。看護師としての技術がどうということではなく、ささやかなことに対してのおほめの言葉だったのだけれど、そういう言葉で仕事をする意味が少しずつ分かるようになり、現場で働く中で自分なりの課題が毎日見つかるようになって、やっと本格的に看護の勉強を始められるようになった。就職の際の荷物づくりで、教科書を全部捨てずに入れ込んだので、解剖生理や看護技術の本を繰り返し繰り返し読み込んで少しずつ知識や技術を身に付けられるようになった。できの悪い看護師でも、そういって学習を積み重ねていくとそれなりに成長していくものだと、最近つくづく思う。自分は看護師として技術も知識もないから学ぶしかない、それが私の原点かもしれない。そういう気持ちが30年続いてやっと看護の仕事をしてきてよかったのだと信じられるようになってきた。人の成長は一人ひとり違うものだと思う。自分に当てはまったものが他者に通ずるものでもないし。じっくりその人の気持ちを聴いて行くしかないのだと思う。
2015年01月20日
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昨年末以来、何となく鬱々した日々を過ごしてきたこの一カ月。認知症については、数年前からまとまって学習をしてみたいと思っていた。たまたま昨年末のこの講座があることをしって研修の申し込みだけしていた。ここ数年冬になると、いくら休んでも休んでも気力も体力も回復せずに休日になっても出かける気になれずにお家暮らしをすることが多かった。年末年始に働いたこともあって、今年の冬も例年のごとくお家暮らしかと多少は諦めていた。週末の金曜日には、腹部超音波検査と胃の内視鏡検査。職場の健診の一環なので休みをとらなくても検査を受けられのだけれど、予約時間が10時過ぎにしかとれなかったので朝から飲まず食わずで検査をして仕事するのが嫌で有休をとった。昨年の検査では胃の組織検査もしたので、今年もそういうはめになるかも知れず、年が年なので悪性の疑いがあればそれも仕方が無いと思っていた。ふだんから、いい方にも悪い方にも色々と予測範囲を広げておくと、そうそう悪い方に転ばないこともあるので、今回も同様にどちらの方向に進んでも大丈夫なように心構えをしておいた。一番細い内視鏡を使って5分ほどで検査が終わり、「去年と違って今年は綺麗ですよ」との医師の一言ですっかり気が楽になり、30年来の付き合いがある理容室で顔を剃ってもらいオプションでエステを受けてすっきり。土曜日をゆっくり過ごして、今朝早くに気分良く目覚めて、出かける気力満点。久しぶりのお茶ノ水。春めいた日差しがまぶしく睡魔に襲われることもなく夕方まで集中。講師は医師になってからずっと老年精神医学の臨床に携わっていた方。理論に偏ることなく、臨床の瑣末なことに流れ過ぎずバランス良くお話をしてくださるので、一言一言が脳細胞に沁みわたってくる。こんなに集中できたのは久方ぶり。認知症についても、医学や看護、介護についてはどんどん進歩してきて学生時代やその後の臨床で学んできたことが全く役に立たない。それだけ、認知症と診断、治療、介護や看護を受ける方々が増えてきているのだが、ここ20年くらい臨床で疑問に思ったり悩んでいたことがスルスルと解決の方向が示されて、最近自分が目指しているケアの方向に確信を持てた。認知症の中核症状は、認知機能の障害なので「説明で理解や納得を得ようとせずに、心は生きているのでご本人が安心して暮らせる環境を提供すればよい」というシンプルなもの。講師が話してくださる実例も非常に分かりやすくって、大概の人は大声で話すときは顔が怖くなってしまうので却って恐怖を与えてしまうので、オペラの発声法を身につけて笑顔で声を脳に響かせるように声を出すと良いとか。身振りや声や雰囲気が穏やかで優しくないと、恐怖心や緊張を相手に伝えてしまうのでNGとか。研修が終わってもまだまだ元気があって、帰りに東京駅の「KITTE」に寄り道してちょっとお買い物。日曜日の夕方の東京駅周辺は人通りもそう多くなくって東京駅舎をのんびりと眺めてきた。数年の課題だった認知症ケア専門士の受験も、今年はできそうだし、自分的にはやっと新年が訪れてきたって感じだ。
2015年01月18日
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Sさんのことを幹部上司に伝えたが、連休明けに戻ってきたSさんは口数少なく、黙りこくって過ごしている時間が長い。きゃらきゃらと笑い転げたSさんはどこかに消え去っている。異動してきた同僚に対して、職場に慣れてもらうために何をどうするかについても話し合いもない。ただ、一緒に行っての一言。どういう面接をして、どのくらいの期間で独り立ちが可能かを本人とも話していない。失敗をしてもインシデントレポートを記入して、話し合いを持たないし、これからどう独り立ちをしていくためにどのようなステップで進めていくか、全く本人とも話し合っていない。さらに困るのは、Sさんは分からないことだらけで何から何まで聞かなくっちゃならない、といい、Iさんは殆ど経験*したことがあるので分からないことはあまりない、どちらの反応を聞いても不安になる。分からないことを聞くのが恥ずかしいなら、患者さんの前で分からないままにケアをしてくるってこと?経験したことがあるので分からないことはない → 職場が違うと基本は同じでもやり方が違うこともあるし、以前の職場より新しい方法をとっていることもある。どちらも、同僚の質問を色々ぶつけずに仕事をすることのなるので、分からないままに仕事を進めている確率は高い。所長が面接しており、その詳細は知らされていないので、患者宅に同行して説明する立場としてはとても困る。所長に問題提起しても、「どうしたらよいの!!」と逆切れしたりするので、話し合いにならない。昨日に夕方に、「対応の仕方を変えたほうがいいと思うのですけど」と話してみたが、これからどうしようとの方向性はなく、尻切れトンボになってしまうので、この所長に問題提起しても尻切れトンボで終わってしまうのだ。中堅看護師と二人きりになったとき、「もう集団で直訴しかないよね」って。
2015年01月14日
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昨日の夕方、たまたま幹部上司のお部屋に行く用事があり、その上司と二人きりになる時間があったので、Sさんから退職希望の合った話をしてみた。 すぐに他の職員が戻ってこられたので、詳しくは電話で報告したいと告げて、電話をする都合のつく時間を確認してその上司と別れた。 夜の21時に電話をこちらからすることになっていたが、電話帳に登録してあった電話番号が番号違いで、契約が切れた古いスマホをとりだして電話を何回もするが応答なく昨夜に報告することは諦めた。 どんなふうに話をしたらよいか悩んでいたら、なかなか寝付けずに朝3時に。 連休明けには退職届を出すつもりと聞いていたので、もう時間が無い。 朝早くに電話するのは迷惑だろうと思いつつも、8時前に電話してみる。 退職を決意したいくつかのエピソードを伝え、退職したいと所長に話したら出すなら早くに出してね、と言われて退職の決意を強くしたということも伝えた。幹部上司は、「職場になじんで頑張っているものと思っていた」と。 たまたまその上司とSさんは同じ職場でもあったことがあり、「話しを良く聴いてみるから、任せて」とのお話だった。 昨年の4月の最古参の同僚が退職してから、他の職場から何人もの方が支援に来てくれたので、組織全体がどんな看護を目指してきたのか、おぼろげながら少し見えるようになってきた。超急性期や急性期は手早く効率的な看護が必要なことが多いが、高齢者の慢性期や緩和ケアにおいてはできるだけ緊張を取り除き可能であればリラックスできるようなケアが必要と思う。 看護の職場はもう何十年も人出不足が続いているので、患者への触れかたやどのように看護者の体を使いこなすか学校教育でも教えているところは少ないし、臨床の現場でもそういう教育をするところは少ない。ただ必要な医療処置をするなら、看護師がしなくても良いのだと思う。 その方の状態を見極め、その処置が適切なのか、変更が必要かなど総合的に判断するのが看護師の役目だと思う。そして出来ることなら、その処置を出来るだけ苦痛を少なく、もっとできるならケアによって安楽をもたらせたらと。 時間に追われて仕事をしていると、そんなことを考えなくなってしまい、看護の喜びを感じることもなくなっていく。仕事のやり甲斐があれば、上司の言動がどうであれ、何とか生きて行けるはずだ。そういう仕事のやり甲斐を感じられ、仕事の喜びを感じられる職場にしたい。 Sさんともそんな話をして、一緒に働き続けられたらよいのだけれど。
2015年01月10日
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年末年始は、29日から二日まで勤務。昨年12月に常勤で異動してきたSさんと二人きりの勤務の二日の昼休み。「実は3月末で退職するつもりだ」と仰天の告白。前勤務地と働き方が全く異なり、その辛さを所長に伝えたら「職場では愚痴は言わないで!」と制止され、さらに「退職したい」ともらしたらひきとめもせず、何が大変かとも問われもせず「退職届を出すなら体制の問題もあるので早めに出して」とも言われて、すっかりやる気が失せたという。「早く出せと言われたので15日過ぎたら早々に退職届を出す」という。この方、所長と結構仲良く世間話をしていたので、仲よくしているので頑張っていると感心していたら全く真逆でもう退職の決意を固くしていた。昨年の春退職したSさんと所長とのやりとりを聞いていたので、1対1の場面で(他のメンバーに聞こえないときに)酷いやりとりをしていたんだと、メンバーとしてこの方を守り切れなかった悔いが非常に強くなった。異動すると、同じ経営体でもそれぞれの仕事の違いは大きい。メンバーに慣れ、患者さんに慣れ、訪問が仕事なのでその地域に慣れるだけでも最低一年はかかる。その上、一人で仕事に出かけるので、行った先ではすべて自己判断にゆだねられる。新しくメンバーになった人が仕事がしづらいのは、本人の責任ではなく、受け入れる職場がどう仕事を伝えるのかにかかっている。愚痴ではなく、仕事を伝えるその方法に問題があるのに。「愚痴」と簡単に判断して、その辛さの具体的解決を職場の課題として考えることさえしない管理者としての軽率さと無責任さに腹が立つ。長く働いてきたけど、こんな管理者のもとで働くのは初めて。しかも勤続30年のベテラン職員に対して、その方の職としての誇りも簡単に傷つける言動の軽さ。呆れるやら悔しいやら。どうしたもんか。そういえば、異動してきたときには昼休みに世間話をして屈託なく笑っていたのに、いつしか無口になり、移動中便意が頻回でトイレで困っていたという。「体を壊してまで働く気が無くなった」と。暮になるまで昼休みも定時に帰れず、終業時刻を過ぎてまで働いていたので、そんな辛い状態になっているとは気がつきもせず。働くだけでは、同僚を守れないものだと、自分のことながら愕然。職場の上下関係や人間関係の複雑さから一歩も二歩も距離をおいてきただけに、なんだかやり切れない。ドンドン人が辞めていく職場。こんな職場が、人生最後の職場になるなんて。そんな目に遭っていながら、この方は「所長は仕事が忙しいから仕方がないと思うの」と気を使っている。この所長が異動してきてから、もう二人が退職し、あと三月もしないうちにまた二人。一人は体調を崩して休職中。何でこんな職務怠慢な管理職が、管理職を続けているのだろう。15年前に、透析室に異動した時にもあまりにもひどい医療管理のあり様に、患者さんになんてひどいことをし続けるのかと怒りが込み上げてきたけれど、その時に酷似している。野放しにし放題って組織としてあり得ない。さらに上の上司が怒ろうとも否定しようとも、直訴しかないと思う。そんな気持ちを固めた正月明けの四日間であった。15日まで十日間もない。もう破れかぶれ、直訴だ。
2015年01月06日
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明けましておめでとうございます。昨年は、ブログの更新が気分次第で、中断した期間が長くなったにもかかわらず、おいでくださった皆様ありがとうございました。今年も、多分不定期な更新になるかとは思いますが、よろしくお願い申し上げます。私にとって、2014年は年輪を重ねるありがたみを感じられた一年でした。青年期、壮年期のあの苦しい思いがすっかりとは言えませんが、だいぶ和らいで妙にこだわり過ぎていた思いこみに気がつくようになり、そのたびに自分が少しずつ自由になって行くのです。他者の言葉を素直にきくことができたり、「耳学問」を楽しめるようになりました。自分で調べることに拘り、他者の話を信じられなかったかっての私が嘘のようです。人と話すことの楽しみ。教えていただく楽しみ。日々の生活の中に楽しいことが一杯詰まっているのだと、思えるようになりました。もう10年来、お付き合いのある患者さまがいらして、その方の息子さんが日々の中で生活の潤いを増すような暮らし方をしていらっしゃいます。大根やニンジン、ハクサイを調理した後根元の部分を少し残しておいて水耕栽培で葉を大きくして、根が出てきたら鉢に植え替えて、花を咲かせ種をとり、その種を蒔いて育てていく。昨年の暮れ、ちょっとその真似をしてみました。ごぼうから葉っぱが出てきて、やっと根が伸び始めました。ごぼうが育つような鉢は無いと思うのですが、出来るだけ深い鉢に植えかえてみようかと思っています。ブロッコリーも鉢で育てています。たった50円の苗でしたが、毎朝、毎夕「元気かな」とお顔を見るのが楽しみです。毎日の暮らしを大切にして、暮らすことを大事にしたいと思います。社会状況は、普通の国民にとってはドンドン苦しくなるように思います。障害や病気で闘っている方々に少しでもお力になれるような仕事を同僚や関係する機関の方々協力して行って行こうと思います。皆さまにとって、2015年が幸多い年になりますように。
2015年01月01日
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