全339件 (339件中 1-50件目)
働いているときは、チケットを手に入れてもどういうわけか当日になると患者さんが急変したり、臨時の呼び出しが続いてコンサート会場に行けないことが何回もあり、チケットを購入しても無駄になることはやめようと予約が必要になる催しをしなくなっていた。 退職して嬉しいのは、よんどころのない仕事関係の理由が全く発生しない、休みの日に合わせなくてもよいのでチケットが求めやすい、当日の体調を整えるための準備もしっかりできる、などなど。 チケットの購入がセブンイレブンでできるので、非常に簡便。 昨年の大みそかに、東京文化会館で「ベートーベンの交響曲、全曲演奏会」があり、コロナを恐れながら出かけてきた。東京に40年以上住みながら東京文化会館でコンサートを聴いたのは初めて。生の演奏は本当に素晴らしく、コントラバスの迫力ある音が聞けたのもうれしかった。コンサート後に自宅のさほど音響がよくないPCで音楽を聴いても前よりも聴きやすくなった気がしてしまう。 ちょっと味をしめて、オペラを一度も見たことがないので今度はオペラをと、フィガロの結婚のチケットが手に入れ、新国立劇場(初台)へ。地下鉄で一回乗り換えるだけ。しかも50分くらいでついてしまった。 事前にyou tube でストーリーを予習しておき、会場の左右の字幕を見なくても音楽を楽しめた。近視と乱視があるので、歌手(音楽家でありながら俳優?!)の演技がつぶさに見えなくても、オペラをを楽しめた。歌手の登場や歌い終わったときに拍手が起きるのは、交響曲の演奏と違って、歌舞伎に似ている。演劇と違って、心のつぶやきも歌として表現されるのでこれも面白い。 たまたま、森氏の女性蔑視発言が問題になっていただけに、侯爵のもつ貴族としての特権意識や自分の浮気の成功を願いながら妻の浮気を許さないという勝手な思いやその妻が夫に浮気をされながらも夫に愛されることを願う、そういう関係はちょっといただけない。音楽のすばらしさとは別のことだけれども。
2021年02月13日
コメント(0)
今の職場には、28歳で就職以来30年以上務めたけれど、本当にもう限界という気持ちが日増しに強くなり、不眠や倦怠感も続き、もう働き続けられないと気持ちが決まった。自分がわがままなのか、他者の意見を聞き入れられないのか、自信がなくなったけれど、でも酷いことが続くことを容認できずやっと気持ちが定まった。どこの医療機関も社会保障制度が切り崩される中で、経営を維持し存続することが困難になっていることは十分承知している。だからと言って、本来の意義を忘れて経営至上主義に走ることをどうしても受け入れることはできない。ある日の職場の会話。肺がんの末期で脳にも転移している方のご主人が、「先が長くないのでとにかく家で最期を迎えたい、でも自分たちはどのようにお世話をしてよいのか分からない。看護師さんや介護士さんにお願いして過ごしたい」と、一日二回の訪問看護と、訪問介護の依頼があった。所得の高い方なので、医療保険も介護保険も3割負担。上司はそのことを知りながら、どのようなケアをすればこの方が穏やかに過ごせるかを検討もせずに、かってに排せつ介助と健康状態の観察と決めつけた。病院で過ごせば、朝起床したら顔や手をふき歯磨きをし、排せつをしたり着替えたり、食事をしたり飲み物を飲んだり。そういうことすべてをケアとして臨んでいたのに、排せつしていないから何もすることはないと全身の様子を見ることをしない。かってに訪問時間は30分以内と決めてしまって、時間超過することを否定する。先週の日曜日、体温計が壊れてしまって熱がありそうなので様子を見に来てほしいといわれて臨時訪問したところ、目やにのために目が開かず、唇が渇き口の中は汚れ放題。少し時間をかけて口腔ケアをして白色ワセリンでクレンジングしながら顔をふき、手足をふき、姿勢を整える。少し気持ちやよくなったのか目を開けて会話を始めた。血色が改善して穏やかな表情を見たご主人が「さっきはもうだめかもしれないと思ったけれど、看護師さんが来てからはやっと元気に見えてえ来た。良かった」と。口を固く閉じた人の口腔ケアは本人の恐怖感を拭い去るまで、そっと優しく丁寧にケアを始めなくてはたとえお口であってもブラッシングも難しい。だからこそ、ケアに通じた看護ケアが大事なのだが、そのことを上司は分からない。翌日の朝の会議で報告したところ、口腔ケアは介護士さんがやっていると思った、って平気でのたまう。お口をきれいにすることは肺炎予防の基本中の基本なのに誰も口の中を観察していなかった。口腔ケアだけでなく、褥瘡予防についても拘縮予防についても、ケアに時間をかけることを気にかけない。ある神経難病の方の関節可動域訓練を、状態観察を含めて30分間以内にするように指示している。血圧や体温を測り、呼吸音を確認して、失禁の有無や失禁していた時のおむつ交換や寝衣交換をするだけで優に30分間はかかるので、さらに関節可動域訓練をすると少なくともあと15分間は必要になるのだけれど、他のメンバーは杓子定規に30分間以内に収めている。どうしても合点がいかない。どんな風にケアをしているか尋ねたら、ある関節を動かす回数は一回とか。それでは関節可動域の維持はできないはずなのに。ひょっとしたら私が間違っているのかもしれないが、でも、いろいろ考えてもどうしても納得できない。そのうえ、どんどんケアの手抜きが起こってしまっている。褥瘡ができ始めた方の皮膚の観察がまるでできていない。どんどん状態が悪化しているのに、元の処置のまま継続している。トップの考え方が間違っているのに誰も意見をしない。もうどうしようのない状態になった時に、「可哀想」って言ってもその状態を改善するには相当の時間とケアが必要になるのに。なんでこういうことが横行してしまっているのか、とても理解できない。ということで、退職と決めた。ただ人員の問題があるので、とりあえずメンバーの夏休み消化が終わるまで。人員が補充できるとわかったら、さっさと退職するつもり。上司に退職希望を話したその夜は、ぐっすり眠ることができた。でも、あと半年。どんどんひどくなる職場環境の中で、何とか自分を壊さず過ごすことも大変そうだけど、ここは乗り越えるしかない。
2019年03月13日
コメント(2)
年を取る、年を重ねることで、自分でも気が付かないうちに変化していく。数か月前に行きつけの中華料理店の70代のママから「10年前までは素敵だったのに、最近は元気そうだけれど、ね」って言葉を濁された。自分が変化(ありていに言えば老化していること)には、なかなか気が付かないでいる。確かに、最近はスカートやハイヒールを身に着けなくなったし、お化粧もしない。山シャツや山ズボンで街に出ていくことも平気だし。年を取っていくにつれ、個人差はあるが皮膚はたるみ、姿勢が悪くなる。10年前の写真と今のものを比べると、確かに変化(加齢、老化)している。そういえばいろいろと思い当たることがある。町で久しぶりに会う知人に、あらためてその方に自己紹介をしないと気が付いてもらえないこともしばしば。この事実は、結構ショックなもので、日々のケアの積み重ねが数年のうちに思いもよらぬ変化を自分にもたらしているのだ。今に始まったわけではないが、十代のころから自分の容貌には全く自信がないし、容貌を何とかして成功したいなんて考えたことは一度もない。でも人並みに、「可愛くなりたい」「きれいになりたい」「かっこよくなりたい」と思ってきたし、それなりに努力をしたこともある。身なりに気を使わなくなると鏡を見る頻度が少なくなるし、有り合わせのもので出かけることも多い。疲れて帰宅すれば顔も洗わずに眠ってしまうこともあるし。ちょっと思い返すだけで、自分の手入れを怠っていたって。仕事柄高齢の方のお世話をすることが多いので、皮膚がちりめん状になりちょっと腕を家具にぶつけただけで皮膚がするっと剥けたり、猫背が進み肩こりやひどくなったり首の動きが非常に制限されたり、ひざが変形したり、腰痛がひどくなったり。見た目の変化と同時に身体機能の低下までももたらしてしまう。皮膚、骨格、筋肉の課題の変化対策を毎日少しずつしていくことにした。スキンケアは、保湿とUVケア重視。顔だけでなく手にも足にも保湿ケア。爪の変化を防ぐために爪にも保湿。一日の終わりには36度程度のぬるま湯で一日の汚れをソフトに落とし、しっかり保湿して、朝には石鹸を使う洗顔はしない。お昼休みや仕事が終わった後の手洗いの後にはハンドクリームで保湿、この時に爪にもしっかりハンドクリーム。姿勢については、しっかりストレッチをして関節の柔軟性を維持して、歩行や自転車走行でも姿勢に気を付ける。いわゆる丹田を意識して骨盤の動きを大切にする。座るときにも猫背にならないように気を付けて、両膝をしっかりつけて太ももの筋肉を鍛える。疲れをためないようにお昼休みには10分間でも横になる。この程度のことはお金も時間もそれほどかけないでも何とか続けられる。80になった時、手にシミがなく、猫背にならずピシッと立っていられたら、私の老化予防の実験は成功になったといえるわけだが、でも、80歳まで生きられるという保証は全くないのだけれどもね。
2018年11月02日
コメント(1)
9月の後半は2週間続きの3連休だったのに、最初の連休前から何となくだるさがあってしかも携帯当番も続いて土日出勤もあったので2週間連続勤務。最近は抗うつ剤も入眠剤も服用せず本来の自分の体力だけで生きているものだから、睡眠と食事療法で何とか乗り切れるものと油断していた。 だるさが半端ないものだから、JcomでDVD三昧。ウトウトしながら画像を見て画像を見ながらウトウトする。だるい時でも活字を読めなくても画像は見れる、音楽は聴ける。座っている元気もなくて三年寝太郎的暮らし。こんなにも怠惰で大丈夫かと自分ながら心配だが、体が動かないから仕方がない。 下痢は日曜日から始まってすぐ終わるものと思っていたら出勤日の火曜日の朝もまだ続いている。胃-結腸反射といって胃袋に食べ物が入るとその刺激で大腸が刺激されて便意が起こる。便の性状が水みたいなので括約筋が全く働いてくれずすぐに催してしまう。嘔気は全くないので水分と塩分だけは摂取して脱水だけは避けることにした。そして、トイレの後には石鹸と流水でしっかりと手洗い。ポカリスエットと梅干でやり過ごすことにした。 固形物を食べなくても、下痢は収まらず。私はどういうわけか、いわゆるご飯を食べなくても体を動かせる。飴一つだけでも数時間は働ける自信があるので仕事を休もうとは思わず。しかしながら水曜日、木曜日、金曜日と下痢は全く収まらず。 尾籠な話で恐縮だが、便の色が深緑。なかなか黄土色になってくれない。水を飲んで数分間でトイレに駆け込むこともあって排便だけというトイレが続いた。なんらかの原因で腸炎を起こしたものだろうけど三日も四日も続くのは初めてで少しずつ不安が膨らんでいき一週間たっても下痢が収まらなければ受診するしかないと覚悟した。看護師なのに、看護師だからかもしれないがわたしは早期発見できたこととそうでないことが50対50くらい。 一番ひどいのは骨折をねん挫と勘違いしたこと。甲状腺機能低下症は体重増加とコレステロール増加でひょっとしたらと疑って早期発見できた。風邪で受診したことはないし、下痢なんて年に数回経験するが安静だけで何とかしてきた。 仕事の時には私の胃腸も多少は遠慮してくれてトイレに駆け込むのは1時間に一回くらいで済むのだが、帰宅しておかゆを食べたりスープを飲んだり摂取量を増やすだけで、30分に一回以上トイレ。水様便が続くと尿が出なくなる。下痢ってこういうことなんだと、この年になってやっと実感する。ウトウトしながら寝て便意で目が覚めてトイレに行く。しっかり水分をとっているつもりだったが起き上がるだけでふらつく始末。ふらふらしながら横になってウトウトする前にまたトイレ。トイレに行くのが面倒だったりすると飲食を制限するという人の気持ちにやっと近づけた気がした。降圧剤を服用するのも危険なので二日間だけは休止した。 こんなことをしていたら目がくぼみ足の筋肉はどんどん柔らかくなって体重が3㎏も低下。なんだ、脱水進行中だと気が付き、梅干しの量を増やし温かい砂糖水も。吐き気がないので、あとはどんどん食べて体力をつけるしかないと覚悟して金曜日の仕事が終わったら、おかゆ、うどん、野菜スープをどんどん食べることにした。胃腸がしっかり休養をとれていたこともあるだろうが、消化の良いものを食べていたら土曜日、日曜日と下痢の回数が減り、とうとう排尿だけのトイレに。形のある排便があった時には心底嬉しかった。しっかり尿が出るようになるとだるさもどんどん減ってきて鼻歌を歌いながらゴミ出しをするまでも。 痛みが治まっていくときも、下痢が治まっていく時も少しずつ身体感覚が楽になっていく、その過程を体験することで健康であることも体感できる。そして少しずつ体が楽になっていくというその感覚が自分の感覚を鋭敏にしていくことにもつながっていくような気がしてならない。
2018年09月25日
コメント(1)
7月下旬に一通のFAXが職場に届いた。 「緩和医療学特論 Ⅰ」という4日間連続講座のご案内。1980年代前半の時代には、「緩和医療」という考え方はまだまだ普及しておらず、医師でさえも我慢できる限りは痛みは我慢してもらう、という時代だった。がん性疼痛で苦しむ患者さんに、医療麻薬の投与はされていず鎮痛薬の服用も医師の指示通りにするしかなく、つらい痛みを訴えても一日2回の服用と医師の指示があれば、ただただ患者さんに我慢を強要していた。 そういう時代に育ったので、ホスピスとか緩和医療とかそういった領域の知識を学ぶ機会は少なく、現代のように医療麻薬を使える時代になってもそのための基礎知識を持ち合わせてなく、「緩和医療学」の本を読んでも、なかなか実践できるレベルになるまでには至らなかった。 この講座、90分間講義が一日2本、4日間でなんと無料なのだ。しかも、自宅からこの大学まで自転車で10分間。こんなチャンスを逃がすことはない、さっそく午後に休みを取って講座の申し込みをしておいた。一日目の講義は、「緩和医療学概論」と「身体的問題 (1) 呼吸困難とその対処」の2本。 大きな教室に受講生は10名ほどで大学院生は数名だけ。講義内容はそれなりの難しいものであったけれども、臨床で疑問になっていたことがどんどん明確になっていき、受講して本当によかったと時間した内容であった。 生涯学習なんて言葉はごくごく普通の言葉であるのだけれど、いくつになっても学ぶ喜ぶはあるものだし、学んだことがあの方やあの方に生かせるかもしれないというヒントを得ることもできた。 もう年だからと、自分の年齢を言い訳にせず、その人のために必要な知識や技術を身に着けていきたいものだ。
2018年09月03日
コメント(2)
ここ一年程、辞めたくて、辞めたくて仕方がなく、「夏を過ぎたら退職」すると決意したのだが、退職後の家計事情を具体的に考えていくと、下手をするといずれ貧困ラインに突入するかもしれないということがわかってきた。 例えば、所得税や住民税が前年度の収入によって計算されたり、国民保険に加入するなど退職時には約100万円の出費が必要というのだ。正職員としての仕事を探せなければ、今の収入よりさらに200万円ほど減収の危険もある。退職して非正規職員になるだけで、大幅の収入減になってしまいそうなのだ。 私は、十代のころより「二十歳まで生きられれば」とおもい、二十歳になれば22歳まで、と長期の自分の未来を考えないできた。そういう私が、思いもかけずに還暦を迎えてしまった。 いままでは、短期でしか自分のことを考えてこなかったのだけれども、フルに働かなくなる時代がついそこまで。買いたいものを買いたいだけ、吟味もせずに買い物をしてきたこともあって、必要なものを必要なだけ無駄をせずにお金を使う、なんて当たり前のことをやっと始めたばかりなのだ。「一万円札はあっという間になくなる」という生活から、1円、10円、100円を大事にする消費生活への転換。 買い物をするときにも、値段だけでなく栄養価や添加物、生産地などを知ろうとして品物を見ると見えてくるものが違ってくる。 退職までの一年11か月は、私の老後の生活訓練。お金の使い方、調理や掃除などの家事、地域の社会資源を知り公共サービスを上手に使えるようになる、などなど。退職後の生活を快適にするためには、その準備が必要なのだ。 先月に姉の住む北海道旅行をしたときに、観光バスの出発時間までの1時間に、退職後の経済生活が想像以上に厳しいことを相談したところ「今の年齢で転職すると今の給与より減ることは確実なので、辞めたい気持ちを乗り越えられるのなら経済的なことを大事にすることも大事だ。乗り越えられるよ」って姉に励まされた。 職場で嫌なことがあると、喫茶店での姉の顔と声がよみがえる。「そうだ、乗り越えるんだ」って。 なんだか情けない気もするけれど、老後の生活で、1万円が有るのと無いのでは違う。 背に腹は代えられない、経済生活優先なのだ。
2018年08月22日
コメント(2)
Tさんは仕立て屋の長女として生まれ、親の後を継ぐために婿を迎えご自身も技術を高め70代まで仕事をされていた。 ここ半年ほどは、腎臓の働きが低下し心臓の力も弱くなり、貧血も進んでいることで見るからに活気がない様子のことが多い。意識が低下していた時には、介護士さんが救急車を呼びかかりつけの病院に運ばれたが、「入院したくない」という言葉でまた自宅に戻られた。いつ何が起こっても仕方がない状態とも主治医から説明されている。 裁ちばさみを使うことが好きで、紙をベッドの上で切っていることが多い。切り刻んだ紙は数ミリ単位の幅で見事にそろっている。 お話が好きで、ぬいぐるみのクマとおしゃべりをしている。先日伺った時には、人生格言のような言葉を繰り返していた。 「人の陰口を言っても何も生まれない。陰口を言うとそれが自分に回ってくる。その人の良いところを見つけて、お世辞でもよいからそのことを相手に話した方がよい。」などと。 わたしが、「どうしても相手の嫌なことしか見えなくって悪口しか心に浮かんでこない時にはどうしたらよいですか」と尋ねると、「謙虚になるしかないですよ。悪口を言葉にしてはダメ。じっと我慢しなさい」と。 確かに、言葉にして自分の外に発した時から、その言葉が独り歩きして、どんどんその言葉の力が強くなってその言葉を超える別の言葉を見つけない限り、その言葉に支配されてしまう。言葉を呑み込む、というが言葉にしないというのも、時には大事なことかもしれない。 高齢の方々から聞く言葉には、その方が人生を乗り越えられてきたエッセンスとも考えられるものが多いようだ。 私の亡父は、よく「幸せにならなくてもよいから不幸せにはなるな。命を大切にしてほしい」と。父は明治生まれで、父親を早くに亡くし義母に育てられた。関東大震災、食料不足、第二次世界大戦、戦後の物資不足、結核にり患し10年近くの療養生活。今の私なら、この言葉がいつどのような思いで生まれたか尋ねたと思う。生死を分けるような思いを何回もしたのだろうか。 高齢の方がしばしばする言葉には、その方の思いが詰め込められているように思う。
2018年07月08日
コメント(3)
半年前くらいから、毎日毎日「早くバッテリーを変えろ」というアナウンスが表示されていた。パソコンの起動がどんどん遅くなって、途中でフリーズしたりしていたがだましだまし使っていたが、とうとう電源が入らなくなった。 バッテリーの注文に量販店に行くのが面倒で、あと一日もう一日と日延べしていたが、屋っと先週の日曜日、30度越えのマ昼時に出かけてきたが、購入してから7年以上は経過しており買った当時のバッテリーはもう製造中止だという。違う型番のバッテリーが使えるかどうかメーカーに問い合わせるので待ってほしいということで一週間もたたないうちに入荷したとの連絡が入った。 7月中旬過ぎに姉が住む北海道に旅行に行くので、スマホからガラケーに変更しているので、航空券に予約や宿探しなどをするにはやっぱりパソコンが必要で、今日のお昼時は34度越え。でも、早々日延べもできなくなっているので、冷凍庫から凍り始めたペットボトルをもって自転車で15分。このたった15分を自分に課すことができないことから、一か月半以上はパソコンが使えなかったのだけれども、パソコンがないからと言って日々の暮らしに何か支障があったかと言えば、NO! である。FB も ブログも見ればそれなりに情報を得られるのだけれども、葉っぱの切れ端のような情報をいくらたくさん仕入れたところで、何か自分の中に新しい何かが生まれるかと言えばそんなことはない。 情報量が多いからと言って、その情報を自分なりに組み立てて利用できなければ何の意味もない。 私の仕事である看護についても、40年以上前の看護学生時代には本当に看護に関する情報は教科書以外にはあまりなくて、看護雑誌もあるにはあったけれど経験のない学生がすぐに使いこなせるようなものはほとんどなかった。経験も知識もないものがいくら考えても考えても何も生まれてこない。実習で患者さんの前に行っても、何もできない。それ以前に自分の親兄弟や親せきの人以外の大人とそうそう接していないので、患者さんの病室のドアをノックするだけでも勇気がいて、患者さんの前いにっても挨拶以外の言葉をかけることができなかった。 看護師になって現場で働くようになると、やらなければならないことは山ほどあって、こんなにすることが沢山あることに驚いた。 今の学生や若い看護師にはほんとうにたくさんの情報が用意されていて、看護ケアに対する知識や技術に関する情報は探そうとするだけでたくさんのものに接することができる。でも、悲しいかな、世の中にいくら情報があったとしてもその情報を集めて自分なりに整理加工できないと全く無意味になってしまう。 うろ覚えの情報は全く役に立たない。脈拍測定時の指の当て方とか、血圧計のマンシェットの巻き方とか。自分の力で自分の体をうまく動かせない人の血圧を測ろうとしているのに、腋を閉じている人の腕に直接マンシェットをまこうとしてうまく巻けずに数分間も右往左往している。できなければそばにいる看護師に聞けばいいのに、尋ねるということをしない。 私だって、患者さんを前にして迷うことが少なくなってきたのはここ十年間ぐらいであることを思えば、自分のものにするまでには長い時間がかかることなのだとは思うが、情報の量以前の課題があるように思えて仕方がない。 切れ端のような情報を集めるより、長編小説を読むとか、思想の本をじっくり読み自分のとっての意味を落ち着いて考える方が大切のような気がする。
2018年07月01日
コメント(0)
抗うつ剤や眠剤の服用を中止してそろそろ十か月。仕事だけは何とかできるのだけれど、家事もお出かけもおっくうで、ベランダの鉢の手入れも全くしていない。読書もしていないし。三年寝太郎ならぬ、三年寝たきりおばさんのような毎日。鬱がひどかった時と違うことはドラマも映画も見れるし、ちょっと合間の時間なら雑誌を読んだりもできる。頭痛や肩こりはたまにしかやってこないし、睡眠も何とかとれるし。何とかゴミ出しと洗濯は最低限はできているので、セルフネグレクトは完ぺきではなさそう。活気が出てこないのは年齢のせいか、向精神薬を断薬したことによる副作用か。時々、メンタルクリニックを受診してお薬の処方をお願いしたくなる衝動に駆られる。多分、お薬を再開すればすぐさま活動的になれそうな気がするのだけれど、薬の力で脳細胞が活気を取り戻したとしても自分の力ではない気がして、それが自分なんだろうかと思うと、もう少しお薬を飲まずに様子を見たくなる。五木寛之とか、中年から高年に移行する時代に一種の鬱のようなものに遭遇するということもあるらしいので、今の私の停滞もこういった時期に良く起こることなのだろうか。思春期から青年期に親から自立して自分の考えと力で人生を歩みだして、何とか職業生活を送ってリタイアという新しい人生のステージを迎える時期に、自分を振り返り何が自分を突き動かしてここまで歩んできたのか、ということに多少でも気が付く。私の場合は、幼少時より家出願望があったが、幼子の身分でこの世を生きていくことは無理なので、何とか自活するまで家出はできないと覚悟していた。看護師になったのも、東京に出てきたのも、恩師に勧めを断って就職先を決めたのも、みんな自分の考えだけ。私の60年は、ただただ家出をしたかっただけだと気が付いたのはつい数年前。高い理想とか夢の実現とか、そういうことではなく自分を呪縛していた家を出ることだけだった。この家出をするために、突き進んできたと知った時、あまりにもその単純な理由に気が抜けた。私はそんなことで、今まで生きてきて、生きてこられたのかって。このことに気が付いて、なんだか肩の荷が下りた。ずっとずっと、なんだかわからない「ねばならない」衝動に突き動かされて生きてきたのに、こんな大したこともないことで生きようとしていたんだって。そして、最近はこれからどのように生きていこうかって、よく考える。これから英語やイタリア語などを身に着けて外国旅行をするのもよいし、体力をつけて歩く旅をするのも。田舎に住んで畑づくりをするのも。元気に生きられるという75歳までの人生を再構築する時間もあるしね。これからは本当に自由に生きられそうだって思うだけで、自分をギシギシに縛っていた思いから自由になれる。自由になれそうだと思うと、早々急いで何かを決めなくてもよさそうだし、のんびりと焦らずにゆらゆらしたくなる。休みの日に、無理に出かけて疲れなくてもとか、情報を詰め込もうという気持ちもなくなって。何もせずにぼんやりと過ごしている。自分の中に芽生えている何かに気が付くまで、じっとしてもいいかなって。
2018年05月04日
コメント(0)
今日は午前中で仕事が終わったので、近所の桜を回ってきた。今年は桜が開花してから、雨も降らず強風が吹かず、桜が長持ちしているのだけれど、少しも心がウキウキしない。近所の桜の名所は、狭い土地に無理やり桜を植えているので、隣との境に植えられていたり電信柱があったりで、枝や幹がバッサリ切られている。そのうえ根の際までコンクリートが敷き詰められているので、とても窮屈そう。一つ一つの花だけを見ていると美しいのに、木全体を見てみると、人間のために切り刻まれて狭い場所に押し込められて、なんだか胸が張り裂けそうになる。石神井川の桜は、この辺りでは桜の名所で有名なのだが、川面に広がる枝は自由に伸びているのに、道路側の枝は見事に切りそろえてある。遠くから見ると、まるで桜の木が電信柱のようだ。眺めているのが苦しくなって、早々に引き上げてきた。こんなにひどい仕打ちを桜にしていたんだ、となんだか悲しくなる。桜に限らず、街路樹もこの桜のように枝先が伸びないように切り刻まれている。こんな風に木を見ていると公園の木もお寺の木も民家の木も、人間の生活に支障をきたさないように、切り刻まれている。区内の公園も、次々とコンクリートで土がふさがれていく。「公園整備」と称してもともとあった木が伐採され、野の草花の生きる場所を取り上げていく。蚊やハエなどの害虫を嫌っての処置ということもあるのだろうが、なんだか人間のわがままかっての振る舞いにしか思えない。午前中に訪問したおうちは、ちょっとした高台におうちがあり、五坪ほどの土の庭がそのまま残されていて、オドリコソウ、オオイヌノフグリ、ショカッサイ、スミレなどが咲き誇っていた。ただただ自然の力に任せてあるこういう場所を見るだけでほっとしてしまう。今年の桜に心が痛んでしまうのは、この春の私の気持ちの表れなんだと思う。還暦を過ぎたのに、生き方に迷っているわたし。人間として果たしてこれでよいのか、瞬間瞬間の自分の行動がなんだか怪しく感じられて、私は何を大切にして今まで生きてきたのか、全く自信が持てない。気持ちが晴れ晴れしていないことが、余計に桜が悲しく見えてしまう。
2018年03月28日
コメント(2)
患者さんやその家族の方の一番近くで、看護師として働くことを喜びとしていたが、信じられないような言動が続き、職場を去る決意をした。数か月悶々と悩んでいたが、これ以上今の職場にしがみついて頑張る意味がどんどん薄れていき、つい2週間前に退職することに決めた。今日、定例の年度末面接があり、上司に退職希望のあることを伝えた。名目は、年金制度が改悪される中で、再雇用の期限の65歳を待たずに70歳過ぎても働ける職場を探して転職したい、という言葉で。退職したい、というだけで、今の職場でこれ以上無理な働き方をしないで済む、という一種の安ど感が起こり、口走る前までの重い心がすっと消えていった。過去と他者は変えられない、と考えているので、周りの人を変えようとは思わない。自分を変えることで場への適応をしていくことができるときもあるだろうが、一メンバーである以上、早々他者に影響力を与えることもできない。職場というものは不思議なもので、一定の力のある人がある方向に誘導してその勢力が大きくなると、それと違う方向を目指していくものに対して風当たりが強くなる。現場の問題で言えば、「褥瘡が発生したらなぜ褥瘡が起こるかをアセスメントして、単に傷の手当だけをしない」ことは、常識に過ぎないのだけれど、医師の指示で傷の処置だけを続けて褥瘡が悪化しても外用薬を変更するだけで終わっていく。ベッドやマットレス、排せつ用具などの変更を提案すると、主治医は必要がないと言っている、と却下する。終末期の患者さんの訪問回数が増えることについても、もう余命は一週間もないのに、「いけない日もある」とつれない返事。ちょっと無理をすればできないことはないのだけれど。訪問時間が10分ほど超過すると時間内のやれと指示をするのに、1時間の約束の訪問を35分で終えていることは問題にしない。などなどが相次ぎ、これ以上ここで働けない、と決意した次第。昨年の5月頃より、ずっともやもやしていたが、やめることを決意すると、本当に嘘のように頭も体もすっきり。あと半年で63歳になるのだけれど、この年で新たな職場に進むことの大変さは十分に承知しているし、体力と気力が持つかどうかも分からないのだけれど、自分がYESといえない職場の方針に黙ってついていけないので、もうやめるしかない。でも、寂しさが湧き起こらない。自分自身の問題でもあるのだけれど、でも自分を殺してでも働こうと思えないので、「これまで」なんでしょうね。
2018年03月07日
コメント(4)
休薬と言おうか怠薬と言おうか、眠剤や抗うつ剤の服用を中止して半年以上が経過。 今現在は、眠剤を服用しなくても眠れるし、朝の目覚めもよい。テレビをつけっぱなしにしなくても不安にならないし、映像を見なくても過ごせる時間が増えてきた。 抗うつ剤の中止で、どんな風に自分の体が変わってくるのかと焦らずに様子を見てきた。薬の刺激で脳が動いていたためか、中止して数か月は何とも言えず調子が上がらない。仕事をしないと暮らしていけないので出勤日にはある種の社会的強制力が働いて、朝に起きてコーヒー牛乳を飲んでいるうちに少しずつ目が覚めていって、顔を洗い着替えをして出勤。職場に行けば仕事は普通に(自分では普通にできていると思っているが客観的には?)して、ご飯を作ったりするのは面倒なので夕食を外で済ませて、帰宅するなり横になりグダグタと過ごし、なんとな眠りにつく。 仕事があるから、洗面や更衣をするがもし仕事がなければ、本当に引きこもりになりそうな。 抗うつ剤を服用していたころもそうだったが、とにもかくにも家事が面倒で面倒で、目の前にごみが落ちていても、ごみで死ぬことはない、とか言い訳をして、まぁいうなれば昨今問題にされている「ゴミ屋敷」に少しずつ近づいていく。水道、トイレ、浴室が使えて、眠るスペースがあれば生きていけるものだと実感。息をするだけだったら、そうそう広いスペースはいらない。音と映像があると(つまりテレビとパソコン)、人間である雰囲気があって落ち着いていられる。 酷いうつの時と違って、鉛のような体の重みや頭痛、倦怠感はない。横になっていても非常に心地よい。何にもしないでただぼーっとしている心地よさみたいなもの。その心地よさの中にずっといたいという感じが強くって、しょうがないので仕事には出るけれども、玄関を開ける気持ちになれない。のどが渇く水を飲み、腹がすけばラーメンでで空腹を満たせばそれでよしという感じ。職場でなら活字を読めるのに(仕事のためだから)、家では活字を読みたくならない。パソコンで検索をしたりするのはできるので、新聞や雑誌を読まないがネットはOK。本のページをめくるよりクリックして画面が変わるほうが楽なのだろうか。 ごみを捨てるのも窓を開けるのもしようとも思わず、家事をしないことに罪の意識もなく、2年続けた緑のカーテンを今年せず。先日、スマホに登録されていた写真を見ていると昨年までの夏の朝顔やゴーヤやトマトとの花などがきれいでびっくりしてしまった。「こんな暮らしを続けていてどうなってしまうんだろうか」とふと心配になることがあったが、いずれは元気が戻るので焦るのはやめよう、と言い聞かせて元気が戻るのを待つことにした。 五月の中旬まではあんなに休日に外出していたのに、夏も秋も電車に乗ることもなくお家暮らし。体の芯から何かをしたくなるまで待つことにした。小さい子供がいたり、お世話をしなければならない家族がいればこんな風に暮らせない。うつ病は再発しやすい病気だけれど、食べていかなければならないとしたらお薬を中止することよりも、服薬し続けて暮らしていくという選択をせざるを得ない。自分のために自分の時間をぜいたくに使うということも治療に必要なのだと思う。 したくなってくることからいろいろなことを再開しようと心に決めてしまうと焦りに気持ちは少なくなってきた。還暦を過ぎて、早々焦る必要もないということもある。 仕事の日でなくても、シャワーができるようになり、ごみ出し、トイレの掃除、洗濯もののたたみ、部屋の掃除と少しずつできるように。そしてたまに買い物をして夕食作り。今週は国産レモンが安く手に入ったので、レモン酒つくりも。今日はやっとベッド周りの「積んどく本」の整理。使わないものと使うものを分類。音声付き画像(テレビやユーチューブ)は受け身で済むが片づけは考えて手を動かす、こういう社業にはエネルギーが必要だったんだと。 いわゆる不精な暮らしを半年もしていると、訪問したお家にごみがたまっていても床に汚れが見えても、「いやいや、私の部屋だって相当なものだぞ。掃除や片づけをしない何かの事情があるのか」と思ったりエネルギーを他の何かに注いでいるのだろうかと考えたり。またきれいに整理しているお家を見ると、相当生きる元気があるのかとその人に可能性を感じたり。情けない自分がいることがわかると、他者に「べき論」の眼で見ないようになる余地が出てくる。 今回の休薬は、計画的に行ったのではなく、中断の結果のたまものだけれども、いずれは何とかなるという気持ちでやり過ごすことができた。 どうしてそういうことができたかというと、時々貧乏でもあきらめずに五人の子供を育ててくれた両親や祖父母の姿を思い出し、あの父母の子供なのだから、きっと何とかなるはずと信じた、信じようとした。 とりあえずそんなわけで、何とか新しい年を新しい気持ちで迎えられそうだ。
2017年12月27日
コメント(5)
6月下旬からまた甲状腺機能低下症などの薬を再開したが、だるさはまだまだ続いている。 睡眠剤や抗うつ剤をすべて中止したので、抗うつ剤の中止との関連がどの程度かは見当がつかないが、億劫感は続いており、片付けと外出が億劫で仕方がない。仕事だけには出かけていて、そこそこ能率よく仕事もできているし、まとめなどの事務作業は効率よくできているが、読書や手紙を書くなどについては全くやる気がない。 書店に行って、本を見るといろいろ興味がわくのだが、いざ本をテーブルに置いてみてもページを開こうという気持ちがわいてこない。 五月中旬以降していないのが、公共交通機関を利用しての外出。もう3か月も職場と近所のスーパーやコンビニ、通いなれている飲食店数件くらいで、電車に乗るのが面倒で、その前に着替えたりするのもおっくう。この夏には、春先から楽しみにしていた展覧会がいっぱいあったのに、なんか気が向かない。 反対に、最近は調理をするようになって、鍋でご飯を炊いたり、合わせみそを使っての味噌汁とか。野菜を切ることも面倒でなくなってきたが、片付けと掃除はおっくうで。まぁ、昔からお部屋が汚れ居ても死ぬことはない、と言われているので、見過ごしているのだけれども。 ここで、自分を叱咤激励して掃除や整頓を無理やりしたほうがいいのか、自分のうちからエネルギーが出てくるのを待ったほうが良いのか。 朝時過ぎに目が覚めるので、ゆっくりストレッチなどをして、朝シャンをして、そのうえファンデーションを使ったほうが日焼け止め効果が高いと聞いて、朝夕二回の洗面やシャワー浴はできている。 できるようになったことと、いまだできないことがあり、これからどんな風に気力や体力が回復して、心身ともに活力が漲ってくるのか。彼岸も過ぎたので、秋晴れが続けばまた元気になれるものだろうか。
2017年09月26日
コメント(0)
5月下旬は、同僚が定年で退職したこともあって妙に忙しくないかもメンタルクリニックも定期受診できず。 この時期から抗鬱剤、睡眠導入剤も服用せずに2か月が経過。なんと眠れるし、朝の起床時の気持ちよさがまるで小学生の時みたいに、パキッと目が覚める。睡眠導入剤で無理やり眠りに入るのではないので、ごくごく自然な感じで、夜中に途中覚醒しても麦茶を飲んだりしているうちにまた眠りに入れるので、お薬に頼らなくても眠れそうと自信がつくと、さらに快適な睡眠になってきた。 鬱がひどかった時には、とにかく薬を服用して(マックス5種類も飲んでいた)、強制睡眠で脳の疲労をとってとにかくも起きれて、仕事に行けて、うつうつ気分も抗うつ剤で和らげて。そのころにはそういう強力な薬物療法が必要だった。そのおかげで休職や離職をしないでここまで働いてこられた。 うつ病の薬物治療をいつ中止するかは、なかなか難しい問題で、気分が落ち着いてきたからと言って中止すると再発することが多いとも聞いていたので、どんな風に自分が変わってきたら断薬に踏み切るか、ここ数年迷い続けていた。 今回は物理的に時間が取れずに、自分の意志とは別に断薬になったわけだが、甲状せん機能低下症の治療薬 チラージン も怠薬していたので、 なかなか判断が難しかった。チラージンを再開してやっと一か月半になったところで、だるさも少なくなると同時に億劫感が少しずつなくなり始めた。 億劫感といってもその程度はいろいろあって、私の経験した中での最大の億劫感は「トイレに行きたくない」であった。起き上がるのも寝返りを打つのも面倒でただ布団の上で躰をちぢこませてじっとしているのがやっとという感じ。この状態の時は、歯磨きも嫌だしごはんと食べるのもいや、お化粧なんてもってのほか。脳自体が非常に疲れているので、ドラマを見る気もしないし音楽も雑音にしか聞こえなくて聞く気もしない。ただ、これ以上脳が壊れていくのが嫌なのでお薬だけは何とか飲み、働かないと食べていけないので薬の力を借りて何とか仕事だけに入っていた。 今回の億劫感は、身体的なだるさとかそういうことはなく、眠れるし、食事もおいしく食べられるけれども、家事をやる気がしない。ゴミ出しさえ大きなごみ袋にまとめておいて、2週間に一回くらい朝の気分が良い時にやっと出すといった具合。日常の中での家事はある部分習慣でもあるので、当たり前のことをやらないでいると、また習慣にしていくにはすごい努力が必要になるので、いつから自分に再開の圧力をかけるかが難しい。でも最近、なんとなく汚れていることやゴミがたまっていることに気が付くようになり、強引ではなく自然に復活し始めている。 鬱になりやすい人にとって、一番の治療は自分に寛容になるということかもしれない。
2017年08月09日
コメント(3)
昨日で定年を迎えたが、「定年延長」制度を使ってあと3年間は働く。 自分では、昨日と今日はそうそう違うはずがないと思っていたが、たった一日のことなのに、気分が全く違う。 看護師として働き始めて、元来の不器用さもあってとにかく必死で過ごしてきた日々であった。そのくせ、患者さんのお顔は覚えているのにすっかり名前を忘れている人が圧倒的。 定年になって、改めて自分の職業人生を振り返ると、何をしてきたのだろうという感想だけ。 看護という仕事は、形として残らないし、医師のように固有名詞で仕事をするわけでもないので、自分自身で自分の仕事を覚えていない限り、誰の記憶にも残らないし、記憶に残っているかどうかを確かめるすべもない。 この春から、3年間とか5年間とかお付き合いのあった患者さんが次々と亡くなられ、自分の中にぽっかりとした虚しさのようなものが広がっていた。仕事だけには何とか出かけられるもの、帰宅すると何もする気がなくただただ休息の日々。お休みの日も出かける元気がなく、ジッとしていることが苦痛でもなく、ぼんやり考え事をしているうちに一日が終わってしまう。でも、そういった時間を過ごすことが無駄とも思わず、あれやこれや取り留めもなく思いにふけることで時間が流れていく。 そして、ぼんやりしながら、今までずっとくすぶっていた自分への問いの答えが見つかったりする。 私は、DVの家庭で育ったこともあり、小学生の頃からずっと家出をすることを夢見たり、朝目が覚めたら知らないよその子供になっていたとか、そういった空想をしていた。早く自立し、親兄弟に頼ることなく暮らせることを夢見ていた。リアリストでもあるので、自立できる年齢まで我慢することも覚悟していた。 職業生活を始めると、目の前の仕事をしっかりするために自分の力なさが嫌というほど分かり、お給料をいただける仕事をするためにずっとずっともがき続けてきた。 同時に、貧しい家庭で育ち、それゆえに謂れのない差別や屈辱も感じてきた。自立すること、そして幼い時代に浴びた屈辱に抗するための反抗心や攻撃性。なんとも言えない自分の中の矛盾や感情の乱れ。40代の後半にうつ病になって、やっと自分の中の色々な矛盾が明らかになり、少しずつ心を整えることができるようになった。 そして、はたと自分のストーリーが明確になった。私は、幼いころの苦しさや辛さから離れることだけを目的にして生きてきたのかも、って。お金持ちにも、大きい家や宝石、出世や名誉。そういったものに対して魅力を感じてきたことは一度もない。私を育ててくれた家や故郷。そういうものと離れて独り立ちすることだけ。そして離れたいと思っていた家や故郷が自分の中で生きている。 DVはあったが、それでも父も母も祖母も、兄弟姉妹。自分を育ててくれた親兄弟にやっと素直に感謝する気持ちも。 私はこれから何をしたいのだろうか。 もう、独り立ちをしたことについては、自分でも十分認められる。そして、その後何をしたいのだろうか。これから、その答えを見つけていきたいものだ。
2017年07月11日
コメント(4)
内科の定期診察は8週間に一回の月曜日の夜間外来。 どういうわけか、ここ一か月ばかり月曜日に限って夜間外来の19時過ぎにやっと仕事が終わる始末。 降圧剤は、以前お薬を紛失した時に再度処方してもらったので、朝一錠の薬は飲めているが、チラージンはなく仕方がないので飲まないまま過ごしている。甲状腺ホルモンが低下すると、記憶力は低下し倦怠感が増し、代謝も低下するので体重も増えコレステロールも高くなる。 そういうことはわかっているのだけれど、患者さんのお宅から病院に電話をかけてお薬だけでも出してほしいなんてことは言えない。原則処方箋の発行は診察が不可欠だから、どうしようもない。血圧が上がらなければいいか、って看過していたが最近のだるさは半端ではない。目が覚めてもお気おうという気持ちがない。トイレに立っても、すぐ横になりたがる。 うつ状態では、食欲不振や頭痛、肩こりなども併発するが、今回はだるさとやる気のなさ。半端ではない億劫感。倦怠感と眠気が強いので眠剤は不要になったが、日が経つごとにだるさが増す。 味噌梅用に青梅を買ってきたのに、梅の下処理をしたのは購入から二日目。やっと味噌に梅をつけ始末をした。 今日もきっと時間内に終わらないケースを担当になりそう。 4週間以上もチラージンを服用しない人体実験はやめにしなくては。
2017年06月26日
コメント(2)
よくTOPが変わっても何も変わらない、なんていう言葉ささやかれるが、そんなことはない。 TOPが何を考え、どう評価し、メンバーに語るかは非常に重要。TOPの指摘がなければ、あまり良いと思えないこともどんどん職場に浸透していく。良貨は悪化に駆逐される、そういうことが蔓延していく。 看護職も専門職と思いたいたいが、患者さんを前にして、健康状態を確認して今何をすべきかを判断できないなら、その姿勢は専門職でないと言っていい。 高齢者の皮膚は菲薄し、物理的圧力で強くその皮膚を刺激するとまるで少し売れた桃の皮がするっと剥けるがごとく皮膚がはがれてしまう。いかにも薄い皮膚は日常に保湿剤を塗布するなんて、高齢者の看護をする者には当たり前なのに、乾燥していても赤みがないから外用剤を塗布しない。 終末期には、呼吸状態が大事な判断の目安になるので、呼吸数と補助呼吸筋の動きがどうか、体の緊張が少なく楽に胸やおなかを楽に動かせているかなど見てほしいと頼んでも、呼吸状態の記載がない。そのくせ、急になくなるなんて思わなかったなんて寝ぼけたことを言う。そりゃそうだろう、必要な体の状態をしっかり観察してこなかったんだから。 一人が気を付けないでいいと感じたことを上司から注意を受けないと、それが瞬く間に職場に広がっていく。 かといって、患者さんやそのご家族から注意を受けると、自分が何をしたかを顧みもせずに相手を批判する。 この看護師もあと数か月で退職していく。 人はかくも弱いものなのですね。 患者さんのケアに対して、痛みなど本人が望まない感覚を伴うケアは絶対急けるように努力しますけれど。 自分は変人、頑固者なので、他者に言われたとしてもその正当性を認められなければ、たとえ上司であっても行動を変えはしないのだけれど、、、も。
2017年06月21日
コメント(0)
先週末から携帯当番で、今週は五日連続勤務。昨日19時過ぎにやっと仕事が終わって、くたくたに疲れて今日の昼過ぎまで眠りまくった。でも、涙が止まらない。なぜ、こんなにも悲しくなるのか。尊敬するKさんのなくなるまでの一連のことが思い出されて、悔しくて、悔しくて。情けなくて、情けなくって。涙が止まらない。六日の朝、出勤すると担当のケアマネージャーさんから深夜未明にKさんが亡くなられたことを知らされた。Kさんは自営業を営み、その業界では腕があると知られた方。脳こうそくのために右片麻痺になり会社をたたんだ。障害が残る子供と妻。二人を支えるために必死でリハビリを続けて、毎日5㎞も10㎞も一人で歩行訓練を続けた。でも、胃がんになり術後に嚥下障害のために、腸瘻で栄養を摂っていた。口からも食べなければ体が弱ると、栄養士さんと相談して少量でもとおせんべい一枚を数時間かけてでも食べていた。この方のご子息が、繰り返す誤嚥性は会陰のために気管切開をされて退院した時から訪問看護で伺うようになって、父親であるKさんともいろいろお話をするようになった。仕事柄、塵埃を吸入したこともあって、間質性肺炎を合併。予後不良との診断であったが、プレドニンを服用して、その後も2年ほど順調に過ごされていたが、今年の冬に風邪をひいてからというものの頻呼吸がひどくって、こっそり呼吸状態を見ると一分間に32回という頻呼吸。酸素飽和度も低く、お節介だけれども定期診察前に受診するように勧めた。約1ッか月ほどの入院で退院。父上のKさんにも訪問看護と訪問リハビリでお伺いすることになった。残念ながら、心不全を合併する状態となっていて、平らなベッドに横になれなくなっていた。むくみもどんどん強くなり、愛息のいる一階に降りれなくなり、家族で話し合って工場の後を居室にリホームすることに。約2か月でリホームがおわり、愛息も自宅に戻ってきた。お部屋さえ違え、息子さんの様子が手に取るようにわかる。ご本人はもうベッドから離れられなくなっていたが、幸せそうな様子だった。歩けないので奥様が入浴介助は無理とのことで何とか説得して訪問入浴を利用することになったのに、約束の当日に訪問入浴の事業所の都合で一週間遅れに。看護師のケアはリハビリは良いけれど清拭や尿器介助は妻にしかさせない。足や手を見ると赤が白く浮いている。マッサージを兼ねて足や手を寝たまま洗わせていただけませんか、とお願いしてやっと足浴と手浴をさせていただいた。そして訪問入浴の日、細かな経緯は分からないが腸瘻のカテーテルが抜けてしまったという。訪問入浴は看護師1名と介護士2名で行われる。訪問入浴中にカテーテルが抜けたのに、「入浴前に抜けかかっていた」とその看護師の弁。抜けかかっていたと観察したら、腸瘻から栄養剤を注入できるかを確認したり、事故抜去にならないように固定を頑丈にして、カテーテルを引っ張らないように介護士にも伝えて安全に入浴させることは可能なのに。何もせずルーチンの入浴介助をしたことで事故抜去。しかも、自分たちの注意不足で抜けたのに、救急車を呼べとも言わずにそのまま帰ろうとしたと。愛息は気管切開をしているために頻回の吸引が必要でもあり、妻が救急車に同乗出来ない。ケアマネや訪問入浴の事業所に連絡しても同乗は無理だと。だったら、私どもの訪問看護ステーションに連絡してくださればいいものをそんな事故になったからという連絡は一切なかった、主治医にも相談していない。経口摂取の量はごくわずかなので、腸瘻から栄養やお薬を注入できなければ生命の危険もありうる。病院に救急車で行ったのは、土曜日。奥様の姉が介護士さんなので、息子さんの様子を見られるから土曜日まで受診を伸ばしてしまったのだ。そして、三日後に帰らぬ人になってしまった。腸瘻が使えなくなったのが死期を速めたかどうかは分からない。でも、もしあの時救急車で病院に行っていたら何とかなったかもしれない、と奥様は考えてしまう。私たちだって、どうして訪問看護ステーションに連絡をしてくれなかった、なぜ主治医に連絡をして家族が救急車に同乗しなくても診察を出来るという確約をとれなかったのかって考えてしまう。だって一人暮らしの方がご自分で救急車を呼んだときには誰も同乗はしないし、同乗することは救急車を呼ぶこととは必須条件ではない。家族がなくなったときは悲しくて仕方がないのは当然。でも、残された家族に後悔や恨みを残すようなケアはしてはいけない。最善のことを心を込めてケアすれば、「よくしてもらってよかった」という気持ちがあるだけで家族の気持ちは多少は慰められる。命の終わりは誰にでもあるけれど、でも関係する職種として誠実に精いっぱいのケアをしたい。Kさんがなくなる前一週間のことを思い出すと悲しくて悲しくて、悔しくて悔しくて、涙が止まらない。確かに、仕事をするうえでマニュアルは必要だけど、マニュアル通りにするだけではプロのケアではない。マニュアルはごくごく基本的なことしか書かれていない。一人一人の状態に合わせて安全で安楽なケアをどうするか、それを考えて実践できないならばプロではない。介護も看護も人材不足だし、新たに起業した事業所は教育も不十分かもしれない。担当者が不安ならば、主治医や訪問看護師などに相談すればいいわけだし、利用者さんに必要なことであれば同席するくらいのことはできる。自分たちの事業所だけで何とかなりそうもないなら、助けを求めることくらい躊躇しないで行ってほしい。もっとひどいのは、その事業所が夕方5時ころに起こったことなのに、ずっと放置して上司が電話一本で謝罪しただけということ。どうすれば最善のことができるか、ご本人の健康状態を悪化させないで済むのか、そういうことに気が付きもしなかったのだ。夕方救急車で行くことが無理なら、19時でも20時でもまだまだ時間はあるのに。他人様のことを批判して済むことではない。自分たちも同じようなことをうっかり気が付かないで行ってしまうことがあるのかもしれない。自戒するしかない。
2017年06月10日
コメント(1)
2週間前に、ELC援助者養成基礎講座を受けてきた。NHKのプロフェッショナルという番組でも紹介された めぐみ在宅クリニック 小澤丈俊先生の講義を二日間。とても濃い内容で、「援助は言葉にしなければ伝わらない」「医療者だけが分かる言葉ではなく、患者本人も家族もケアに携わるすべての人が分かる言葉で』。 一番は2025年問題。厚労省をはじめ国の政策で、病院は超急性期、急性期が中心になり、回復期リハビリ病棟、地域包括病棟がつづき、医療保険の療養病床は廃止の方針。特別養護老人ホームは介護度によって入所が制限され、介護保険施設(自宅に戻るためのリハビリを中心にする施設)は入所期間が3か月に限定されている。今増えているのは有料老人ホームやケア付き高齢者住宅。 人生の最後をどこで迎えるかも見通しがつかない。 ギリギリ自宅で迎えて人生の最後の時間をも家族が自宅で迎えなければいけない時代がもうすぐやってくる。一人暮らしでも、訪問診察や訪問看護、訪問介護だけでなく地域の方々の協力をも求めて自宅で迎えることになる。 2025年まで、もう8年もない。小澤先生はこの危機感から2000年ころから人生の終末期をどう支えるかという問題に取り組まれ、ELC援助者基礎講座を全国で展開している。医師、看護師、介護者等の資格に関係なくだれでも参加できる。私が参加した二日間でも、夫をみとった家族の方が参加されていた。 講義をきくだけでは力がつかないと、一コマの講義をきいた後は受講者がその内容を理解、記憶する時間を設けて講義と「聞き役と話し手」になって演習が織り込まれ、あっという間に午前が終わり、午後が終わり。終了時にはくたくた。脳内がぐちゃぐちゃかき回されるようで、いろいろなことが駆け回る。 二日目はさらに具体的内容が、どんどん進められて、人生の最終段階を迎える人々(本人や家族、親せき)に具体的にどう援助するかを学んでいく。 講義だけではなく、ロールプレイがあることで自分の実力のほどが良く分かりさらに他の方を見ることができるのでさらに内容がどんどん自分の体内に入っていく感じがした。 看護の領域では久しく「傾聴」が重視されていて、日常でも「傾聴しましょう」とはよく言われるのだが、つらい話を良く聴くだけでは問題解決にならない。辛い話を聞いたうえで、例えば「そういう大変な体験を貫いてこられたのはどんな支えがありましたか」などという問いかけが重要という。 実際、ロールプレイでこの問いかけをされてみると、とたんに自分の中のポジティブなリソースが浮かび上がってきてなんだか勇気がわいてくる。小澤先生は困難な体験をすることで「日常の中で今まで気が付かなかったささやかなことが見えてくる」とおっしゃる。確かに、自分の経験でも急性肝炎になったときに、食欲不振で食べられないときに30分も40分もかけてやっと出された病院食の半分を汗をかきながら食べたことを思い出した。食べたいものを何の努力もなく食べられることのありがたさ。おなかの手術をした後ベッドから起き上がるときに手術の傷が痛くておなかをかばいながらやっと起きてトイレに歩くときも一歩一歩歩くだけでおなかの傷が痛み辛かったこと。何の努力もせずに体が動くことのありがたさ。暮らしの中のことをあれこれ考えると、水道水が飲める、街灯がついて夜が怖くないなどなど無数の恩恵があり毎日を暮らせること。今まで生きてこられたことへの感謝。 生きていることのありがたさに気が付けば、気持ちが穏やかになり体も軽くなってくる。 そして、誰にでも生きてきた以上「支え」はある。ただ、その支えに気が付いていないだけだ。 自分の支えに気が付けば、感謝の気持ちがわいてくる。あなたにとって支えはなんでしたか。この問いの意味の深さ。誰の人生にも支え在り、これが私が受講したことの一番の財産になった。 ただ、この二日間で自分自身が多少は変わり、利用者さんやそのご家族の話がビンビン胸に響いてくる。働いているときには元気なのだけれども、家に帰ってくると妙に疲れて、体の疲れというより脳の疲れという感じで、受講後数日はあまり眠れず、その後は眠っても眠っても眠り足らない。 2週間が過ぎてやっと疲れをあまり感じなくなったが、夜の眠りは深い。 受講した感想のもう一つは、小澤先生が傾聴の技法を非常にシンプルに整理したことだと思う。看護師の研修でも傾聴についてあるにはあるが、医師が講師になりロールプレイを繰り返し繰り返しするものは初めてであった。心理職のそれと医療従事者のそれとは、現場を知っているだけに非常に勘所を抑えて現場に有効な技法に絞っていること。 2週間経過したので、再度テキストとメモしたノートを見直し、再度内容の吟味をしようと思う。
2017年05月28日
コメント(1)
北海道の姉が姪の結婚式と母の13回忌のために東京に来ている。 久しぶりと言っても夏以来のことだけど、今度は結婚した娘の家に順番にお泊り。姉の予定の入っていない日に姉とお出かけ。 一昨日は国立博物館。昨日は小石川植物園。 国立博物館は今の時期庭園が公開されていて、平日でもあって人混みはなくゆっくり眺めることができた。 依然来たときは雨の日で、建物自体も素晴らしく洋風建築なのに鬼瓦が使ってあって何と鳳凰。天気が良かったので屋根瓦をあちらこちらから眺めているとすぐ30分は経ってしまう。 国立博物館だから、国外にもその権威をアピールする意味もあるのだろうか、まぁすごいこと、凄いこと。戦前の物資が乏しくなりつつある時代に建造されたものなのに、全国の名工を招集して作り上げたものだろうか。どこから見ても美しい。 兄二人が建築大工で姪が建築家の卵のせいもあって、自分もその影響を受けて最近は建築物に興味を持つようになった。建築は総合芸術と言われているだけあって、屋根も壁もドアも床も。一つ一つに魂が込められているような。 アフリカ大陸で樹上生活から大地に降りて人間が生活を始めたころは建築物なんかなかっただろうに、地球全体に住むようになってそれぞれの気候風土に適応して様々な建築物が発展していった。柱一つにも人類の歴史が詰まっている。 国立博物館では、毎月建物やお庭について説明するツアーがあるようなのだが、まだ参加できていないが、いつか予定が取れたら学芸員の話をきいてみたい。 お庭にはいろいろな樹木が植えられてあって、茶室があったり日本庭園があったり。上野にはイチョウが多いのだが、この庭にもイチョウが何本もあって銀杏が落ち放題。道に銀杏が落ちていると通行する人があの臭いに悩まらせるのを防ぐためか、箒で掃き集められてある。 秋は木の実の季節でもあるので、樹上を見上げたり地面に目を凝らしたり。 竹とんぼの形に似ている葉っぱと実が落ちている。それが菩提樹の実であった。枝の先にもいくつかその実がついていて、あまりにも特徴のある形なので、物覚えの悪い私も一発で菩提樹の実は覚えた。 シルバーグレイのオジサマと奥様が私たちが地面にその実を置いてデジカメで撮っているのを見て、「何かあったんですか」と尋ねてくる。「菩提樹の実なんですって」と奥様にその実を渡すと、オジサマが「珍しいものだから大事にしまいなさい」ですって。枝先に実がついていることなどちょっと世間話をした。 どんぐりの実も落ち放題で、スダジイや白樫のドングリ。スダジイの実の皮がはがれていて中から白い実がのぞいている。姉が食べてみたら、と私をそそのかすので、そっと食べてみるとアーモンドに似た甘い味。こんなに美味しいのならリスだって鳥だって食べたくなるのだろうな、と思う。 昨日は小石川植物園で、門の近くに大きな木があり何やら束になった花なのか実なのか沢山ついている。この植物園は樹木名がついているので早速この木の下に行ってみると、「フクロミモクゲンジ」って長い名前。ほうずきのような形で紙のような三枚で張り合わされている袋のなかに実が入っている。袋に入っている実なのでフクロミ。モクは木。でもゲンジって源氏?? 帰ってから植物図鑑で、調べてみると袋実木患子、を読み誤ったとか。 お昼を挟んで夕方まで少し汗ばむ秋の一日、植物園を楽しんだ。あちらこちらにいっぱい樹木があって樹木名も必ず書いてあるので図鑑を開かなくても木の名前がわかるし、ミズカンナとか始める見る木ばかり。 あーぁ、楽しかった!!
2015年10月31日
コメント(11)
9/27のNHKスペシャル「老後破産」を観た方も多いだろうと思う。 先日職場の話題になって、昨日やっと観ることとなった。 10万円の収入で6万円の家賃を支払えば、たったの4万円。水道光熱費を支払ってその残りが食費。預貯金を切り崩して、年金支給日前に手元にあるのは100円玉と、袋にためた1円玉100枚くらい。 生活保護を受けるという選択はせずに、真夏なので昼間は高齢者が行ける施設で休み、日が暮れてから電気を止められた自室に戻り、ガスの日を頼りにソーメンを茹で月明かりで食べる。 20数年ビール会社に勤めた後に、飲食店を経営したものの借金がかさみ店を手放し、その借金のために貯金はなくなったという。 秋田県に住む女性は、田圃と家を守るために年金は3万にもならない額で生活をしている。水道光熱費等を払って、食費は4000円と決め、近くの川で魚を採り山菜を調理したり、畑で作ったキュウリを漬けものにして生活をされている。どこまで自分がやれるか、頑張るのだという。生活保護は田圃や持ち家があれば受けられないのだという。 この番組に出ておいでになった方は、どなたも国や地方自治体の無策を全く指摘されない。 年をとるほど体のあちこちが故障を起こす。病気によっては色々な障害が残る。高齢者の終の棲家には、医療と福祉と介護が必要なのに、特別養護老人福祉施設の待機者は全国で50万人。認知症など医療が必要になったら退去しなければならない「サービス付き高齢者住宅」をなぜ政府はどんどん作ろうとするのだろう。 率先して作らなければならないのは、特別養護老人福祉施設なのに。医療や福祉、介護の税金を使いたくないだ。 人生をコマ切りにして、人生をどう全うしたいか、一人一人の意思は宙に浮いたままで、施設の限界(あらかじめ限界を設定しているんだから)を理由に次々に言われるままに施設を数カ月単位で移っていく。病院を退院しても行き場がない人は、NPOが経営する施設にやむを得ず退院するという。みんなで集まって食事などができる食堂などの設備は無く、つっけんどんに食事を個室に運びテーブルに置いて行く職員。NHKの取材を了解した施設だから、それ相応の心意気があって開設したのだろうけど、それにしても酷い。 働けなくなり、歳をとり、病気になり、そしてこの世を去る。 労働者を使いだけ使って、自助自立を押しつけて、責任をとる気もない日本の為政者たち。 別に今始まったことではない。水俣病しかり、精神疾患にかかっている方を牢獄に押し込めたという事実もある。 日本は棄民社会といっても過言ではない。 どこで歯止めをかけるのか。 闘病している方も老後の苦しさと闘っている方も、みな孤独で社会と断絶状態に近い。 NHKの報道については、政府からの垂れ流しという一面もあるが、この番組のように問題意識をもって現実社会に切り込んでいく報道していこうという方々もいるのだ。 ここ2、3日降ってわいたように、衆議院議員の解散総選挙が取りざたされていて、都内の就活ようの写真店にポスター用の写真をとるために国会議員の利用者が増えているとかいないとか。 だってね、消費税って社会福祉のために使うからって導入されたんですよね。なのに、高齢者の負担が増える話ばかりが取りざたされているって、なんなのさ! って、私は怒り狂ってます。
2014年11月13日
コメント(2)
ここ一週間ばかり、気分が上々で朝5時半に起床し、御飯を炊いたり味噌汁を作ったり、植え木に水を上げてベランダに出したりと出勤前の2時間ほど家事ができている。 炊飯器で御飯を炊くと1時間以上もかかるので、ガスで御飯を炊いてみたら15分ほどで炊きあがる。寝る前に日高昆布を4cmほど切ってメジャーコップに一晩浸しておくとお出しがとれて具はナスだけのみそ汁も美味しい。もとお寿司屋さんに教わっただしの取り方をまねて深めのフライパンで1Lのだし汁を作り置きして昆布だしと混ぜているので、うす味でも美味しいのだ。 米2合で朝食とお昼のおにぎりを握っておくと、お昼ごはんを買いに出かけないですむし、一石二鳥。 料理でもお裁縫でも編み物でも家事一切を何でもこなしてしまう方に、ごまあえとかの作り方を教わって小松菜やホウレン草をまとめてゆでておいて、朝食に胡麻和えをつくってみたらこれまた美味しい。 こんなに簡単に朝食が作れたり、昼食のおにぎりが作れてしまうと、新鮮な感触。 8月に北海道の姉が2週間、研修のために御泊まりをしたのだが、姉が使うお部屋や台所、トイレ、浴室は何とかきれいに出来たのだが、自室は混乱状態。姉の目が止まることは承知していたのだが、北海道に帰って2週間ばかり後に電話が来て「あんな生活をしているとはびっくりした」と言われて大分反省。 パソコンやテレビを見ていれば足元の混乱状態は気がつかないもので、改めて視点を変えて自分の居場所を見てみると姉の嘆きも理解できるというもの。 仕事の忙しさを口実にはできないのだけど、やっと10月過ぎになって余裕も出てきて掃除を初めて見ると、勢いがついてきて片付けないと落ち着かない気分になってきた。 きれいにし始めると、汚い所に目が行くようになって久しぶりに掃きふき掃除を続けている。 家事ができる幸せ、とは言いすぎかもしれないが、やっとやっと仕事ばかりの日々から脱出できそうでごくごく普通の日常生活を送れることが嬉しい。
2014年10月31日
コメント(2)
9月の下旬から常勤職員として二人の看護師が異動してくることになっていたのだた、法人全体で退職があり一人は保留、一人はメンタル系の不調で出勤できないなんてことが続いて、とにかくとにかく忙しい。 契約した高齢者の施設の定期訪問は火曜日だが、往診と重なる日でも「来ていただいたほうが良いのでいらしてください」と施設長。全身の健康チェックと爪切りや摘便など介護職の方の困っていることの相談に対応して大体2時間。 10人のうち7人ほどが爪白癬の持ち主。自立支援を謳っているので、出来ることは入所している方の意思を尊重しているためか、どんなにひどく爪が肥厚して変形していても手を出さず。テーブルと椅子の生活をされているので足を見せていただくときには床に座って観察。足浴をしたほうが硬く厚い爪は切りやすくなるので、施設の方にお湯を用意していただくのだがそのバケツがない。用意してくださるバケツも毎回毎回まちまちでいままで足浴なんてほとんどしてこなかったんだろうなと想像。 この間の木曜日、食堂兼談話室で血圧測定などをしていると、白衣をきた白髪の70前後の男性がお伴のいかにも屈強といった感じの若い男性3人を引き連れ、施設の管理職の職員が二人、そのフロアの介護の責任者が緊張しまくっている。 往診の日と重なってしまったことをお詫びしながら自己紹介すると、その先生「そこは(私があいさつしたテーブルの椅子をさして)私が座る席だから」とあいさつを返しもせず、いすに座り並んで待っている方をごく簡単に診察。診察の記録はお伴の若い医師が行い、処方についても若い医師が考えを述べて老齢の医師が許可している。 フロアの責任者は、女性で60歳前後。私たち訪問看護師には、「何しに来たの」って感じできつくあたっていたのに、医師の前では敬語を使いまくり平身低頭。30年も前の大学病院の回診か教授先生の外来診療みたいでびっくり。 でもね、大学病院の教授先生は、非常に丁寧に診察をするし患者に敬語を使い患者の気持ちに配慮していた。胸の診察をするときだって、不必要な部位の露出を避けるために一人ひとりに白い布のケープのようなものが用意されて看護師が介助していたんだもの。 あまりにも大雑把な診察の様子に言葉もない。そのうえ、心臓の手術をして施設に戻ってきた認知症があるらしい方の介護の方針について責任者が相談すると、「初めて見る人のそんなことが分かるわけがないじゃない」と怒ってしまう。 その雰囲気にいたたまれなくなってしまったのか、診察を終えた入所者の方はそくそくと自室に戻られてしまう。 玄関は暗証番号を押さないと開かないようになっているので、施設長が解錠しながら、その担当の医師が「某大学の名誉教授で、リンパ球などの研究をされている権威のある方」と教えてくれ、「向き不向きがあると思うけどね」とポツリ。 たった2時間の様子だけで判断するのはおこがましいが、なぜ職員の方々があんなにも苦労されているのか、その一端が見えてきた感じ。いまだに、医師の免許だけあって恐れられ敬われている人種がいるんだ。医師がいなければ施設の運営はできなくなるので、どうあってほしいかも医師に言えない施設の管理職。 その地域に住む人しか知らないような、民間の小さな病院の医師のほうが人間的で診療レベルが高いこともある。 現在の日本の介護や福祉は、とにかく医師が介入していないと成り立たない仕組みになっているけれど、その任に就く医師自身が変わらなければいけないし、その仕事を依頼する施設や法人の管理職が本気で高齢者の生活を支えるという責任感で医師にもの申すようにならなければ変わって行かない。 病院選びも難しいが、高齢者の施設選びもなかなか難しそうだ。
2014年09月27日
コメント(2)
最古参の同僚が退職してからもう半年。 この春も夏も、毎日毎日が忙しくあっという間に秋の彼岸も過ぎてしまう。 常勤職員として働けるのもあと3年を切り、忙しいにもかかわらず毎日が充実して、利用者さんのお宅に伺うのが楽しくて楽しくて仕方がない。 余暇を楽しむというより、毎日の仕事を楽しんでいるといった感じ。 看護師になって35年目の秋を迎えて、やっと仕事の楽しさを噛みしめられるようになった。 患者さんや家族、同僚の医師や看護職などと向き合うことができず、自分にたいする拘りもあったのだろうが、還暦を来年にした今、若かった時に苦しい思いばかりしてきたことが嘘みたいだ。30年も苦しんだ結果として、楽しめるようになってきたのかもしれないけれど。 年齢から言えば、今更自費で研修に出かけたりして、何を学ぶの? などど言われる方もおられるのだが、経験を振り返れば振り返るほど、自分がいかに無知で無遠慮だったかを身にしみて思う。 彼岸の中日の23日、老人健康福祉センターで介護職や看護職の相談や指導に携わっている理学療法士の「拘縮予防とポジショニング」のセミナーに参加。 眼に鱗、といった言葉通りの衝撃の午後の3時間であった。書籍や動画で学んだ知識は、実践できないと何の意味ももたない。分からないことの恐怖で机での勉強ばかりしていて、ベッドサイドに行けなかった私。自分は何が分からなくて、何ができないのか。何なら自信を持って出来るのか。そんな基本的なことが全く整理できなくて、体を動かせなかったのかもしれない。 教師や上司から、日野原重明先生が良く言われている「医学はアートだ」という言葉を紹介されたが実感としてついこの間まで全く理解できなかった。身体の感覚として言葉を理解できるようになるってことができなく、なぜ自分は他の同級生や同僚のように体を動かせないかずっと悩んできたのだ。 「眼で見て覚える」ことがすごく苦手なのだと思う。 少人数の実習形式で、直接指導者から具体的に教えていただき、五感という身体感覚を研ぎ澄ませて学ぶ経験が足りなかった?? 看護ケアは相手あってのお仕事なので、対象となる患者さんや利用者さんが果たして楽だと感じているのか、そのことを一つ一つ確認していくことをしなければ、ケアの技術は多分変化していきない。 彼岸中日の研修は、そのことが非常に明確になった。言葉にできない方に対して、体の反射で不快を知ることができる。ケアをしている時間は、自分がすることに気をとられるのではなく、相手に感じていること考えることを知らなければ、ケアは遂げられない。 件の理学療法士、「看護師は患者の安全、安楽を追及している」というのに、施設や病院で看護師のケアを受けている患者さんが入院や入所期間に廃用症候群が進行してしまうのはなぜでしょうか」「やさしくしたい、優しくしたいと言っているのに、ケアで表皮が剥離したり、爪切りをしながら出血させてしまうのは、相手の障害特性の理解が足りないのでは?」 要するに優しい看護師になりたい、優しい看護師だ、と言い切るのに実際のケアを患者を苦しめているケアをしていることに気がつかないのですか、という厳しい問いかけなのです。 午後の実習で学んだ6項目の技術。 さっそく昨日と今日、説明しながら実技をして家族に本人の変化を観察、触覚で確かめていただく。 無断で勝手にはできないので、研修を受けてきたことと実習で本当に体が楽になる経験を話してみると、みんなデモンストレーションをしたいという。午後伺ったお家で、息子さん二人はエンジニアなので物理や数学と得意でものづくりの職人さんなので、ケアをしながら説明していくとすぐに理解を示してくれた。今までのケアは何だったの??と言わんばかりに「今日の母は朝から体が緩かったけど」ですって。それに加えて「勉強をしてきたらすぐに試したくなるタイプ?」とも言われてしまった。 ケアの初めにしたポジショニング効果か、ケア終了時まで丸めたバスタオルなどを外しても、全身の筋緊張は少なく体がユルユルしてたのです。 リラックスするって、こんなにも体が楽になるんだなぁとしみじみ。 マァ、自分のことが分からなければ、ひと様に色々言えないわけってことだけど。 頭で考えた通りに、身体が動けるようになるってとにかく楽しい。 おまけ・・・。 先週から整理して、本の断捨理を始めた、ふと勉強用のテーブルの下のボックスに2年前に発行されたこの講師の本が並んであった。ページをめくると、つい先一昨日聴いた内容。なーんだ、一度は眼を通したのに、その時はその内容の素晴らしさを理解できていなかったんだ。何かを分かるようになるには、やっぱり経験と知識の統合が必要だったんだ。 この年になっても、患者さんから学ぶことは尽きず、ずっと昔に養護教諭の実習で「20年経験を積んでも良い授業ができたって思えるのはほんの片手にもならない」とおっしゃっていた教師がいたが、たった一つの仕事しかしていないのに満足できたって思える日がやってくるのだろうか。 無限大の恐怖感におののいて、来る日も来る日も勉強し続けた日々より、今のほうがずっと自分の心や体にとってもましな時間になっているのだけれど。
2014年09月25日
コメント(0)
消費税が昨日から8%になった。 4/1までに購入したのは、医療材料やトイレットペーパー。 行きつけの中華料理店は、値段は据え置き。「値上げはしないんですか」とおかみさんに尋ねると、「値上げして御客さんに来てもらえないと困るので、今回は据え置きなんですよ。10%になったときは、どうするか迷っているんですけどね。二人とも(ご夫婦で店を切り盛りしている)、もう長くは働けないし・・・」「これからもお越しくださいね」とおかみさん。 その会話を聞いていた他のテーブルの御客さんが、「ママ、一生懸命通うから、お店を続けてね」と。 気になるのは、山梨などの大雪でハウスなどが全滅した農家や、東北や茨城、千葉などの3.11の被災者。ハウスなどを建設するには大変な資金が必要だろうし、そのうえ消費税の負担がのしかかるだろうし。これを機に農業をやめてしまう高齢の農家はいまどんなことを考えていらっしゃるか。 被災した自治体も増税でさらに財政状況は悪化するのではないか。 2月の大雪の被害を知った時、ひょっとして消費税の増税は中止するかもしれないと甘い期待をしたが、そんなことはなかった。 さてさて、自分の家計のやりくりだけど、基本は安売りショップの利用に全面的に変えていくことにした。ペットボトルは2Lで買い、ステンレスのボトルに移し替えて使う。近所に5軒ほどある安売りショップと、自転車で遠くの安売りショップにも頑張って買い物に行く。 一時中止していた、家計簿をつける。 待機電力を節電するために、すべて省エネ用の個別スイッチに切り替える。 使わない大型家電はコンセントから外す。 洗濯は電気代が安くなる夜の時間帯にする。 電気代節約のために、窓という窓にアルミ製断熱シートをつけて、夏の室温上昇を防ぐ。でも、猛暑の日にどの程度室温の上昇を防げるかは、これから試していく予定。ちなみに、玄関にアルミ遮光遮熱シートを吊るし、遮光カーテンをひいて出かけたら、玄関も居間も寝室も朝20℃だった室温が、帰宅時には19.6℃前後であった。保温も室温上昇も多少は防げる見たい。
2014年04月02日
コメント(3)
連携している在宅専門の診療所の師長から、12時過ぎ携帯電話に連絡があった。 今週の水曜日に初回の訪問診察に行った方の膀胱留置カテーテルがぬけてしまったので臨時訪問をしてほしいとの要請。今日の午後は、二人の医師が訪問診察に行く予定なのに訪問看護ステーションに臨時依頼をするというのは、往診体制に大変な状況があるのだと解釈し、初回訪問をしてない方なのだが、臨時に訪問してカテーテル処置をすることを約束した。 頂いた電話で失礼とは思いつつ、褥創が急速に悪化している乳がん末期の方の臨時の訪問診察を依頼した。火曜日の訪問入浴で仙骨部の褥創が悪化し不良肉芽や出血があり、処置に必要な薬や医療材料が一つもなく、医師の診察で今後の治療方針を立てていただきたい旨をお話しする。 師長は二つ返事で、午後の往診をすることを約束してくれた。 それなのに、それなのに、夕方6時前に診療所の看護師が本日の往診の結果の内容に、そのひどい褥創患者の往診はしていないし、知らなかったという無責任な回答。ケアマネージャーに、訪問介護のヘルパーさんがこれ以上対処できないので訪問看護の回数を増やしてほしいと、切実な訴えがあったことを伝えても、「医師の指示がなければ訪問看護の回数は増やせないし、診療所は褥創が悪化していることは知っているが対処のしようがない、といって往診に行ってくれない。ケアマネージャーとして、水曜日から状態を報告しているのに動いてくれないので、訪問看護から診療所にかけあってほしい」と。 うーん、どいつもこいつも状態悪化している患者さんのことをどう考えているんだ。それぞれの専門職としてどう果たすべき責任を考えているんだ!!(怒りモード急上昇) 診療所の看護師に、「2月末から褥創の悪化については、毎回報告しているのにどうして対処方法を明確に指示できないの?乳がんの末期なので褥創が悪化するのは止むをえないけれど、せめて悪化の進行を食い止めるとか、痛みを和らげるためにはどんな医療材料や薬剤が適切か、具体的に考えないのは無責任すぎる!」と怒った。 その診療所の看護師は、看護経験がそろそろ25年になるベテランになのに、往診をして創の状態の見極めをしなかったことは棚上げして「医師の診察がないのに薬や医療材料は出せない」と言い張る。「褥創について訪問診察をずっと依頼しているのに、創の状態を診察して指示を出さないのは在宅診療所として無責任すぎるし、処置物品が一つもないことをどう考えているの?褥創に悪化進行について、家族に説明しているの?訪問看護師の報告をどう考えて、往診につなげているの?」と、やや興奮してその無責任な態度について声を荒げて不満を述べた。 「私は知らなかった。師長と相談して連絡します」とだけ、言い残して診療所に帰って行った。 その時間が、17時50分。本日中に連絡があるはずと事務所で記録等の作業をしながら待つこと1時間、18時50分になっても電話連絡さえもなかった。診療所の前に行ってみたら、すっかり電気は消えていて、玄関の鍵も閉まっていた。 今さらでもないが、昔から「患者のために奔走する医師」はいたことはいたけど、「切れ目ない医療を、病院から在宅まで責任を持って行います」なんてかっこいいことを言いながら、このざまは何だ。24時間、自己犠牲をしながら医療を続けるのは無理と思うが、日中に対処できるのに其れを怠るその精神が信じられない。 緩和ケアは痛みや吐き気、倦怠感などは比較的対応できているのに、スキンケアについて対応が甘いのはどうしてだろう。在宅診療は、全身管理をきっちりして、患者さんや家族のQOLを高めたり維持するべきなのに、急性期医療のようにただ疾患しか見ない。 今日は、全く持って腹ただしい一日であった。 私が怒ったとしても、何も変わらないのだけど、それにしてもどうしてこうも無責任な医療をしていることに恥を感じないのか、反省しないのか本当に不思議だ。たった2回の訪問診察をすると、患者一人当たり10万円ほどの収入になるので、往診患者さんを確保することには一生懸命なのに、頂くお金に見合った診療をしないことをどう考えているのだろう。本当に、不思議な医療機関!!」
2014年03月28日
コメント(1)
先週末は3連休で某学会に参加予定だったが、何となく気持ちが重くTV(BS、CS)を観たり、家事をしたり。 最近、池波正太郎の「剣客商売」「鬼平犯科帳」や山田洋二監督の「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」にはまっている。相手の立場を斟酌し決して相手の自尊心を傷つけたり、一方的に責めないその姿勢に教わることが多い。日本人の大人は、以前はこういう方が多かったのかもしれない。 戦後民主主義の教育を受けた私は、自己主張をすることや、自主性を重んじること、議論は徹底的にすることなど小学校高学年で躾けられこの癖がなかなかとれなくって、上司でも同僚でも「言いたいことは言う」がずっと続いていた。でもそれは大人無い言動で、相手に受け止めてくれる余裕があるか、どんな表現をすれば受け入れられるかなど、言いっ放しではダメなんだと、やっとそんなことを考えるようになった。 本当に相手を思いやるなら、話を良く聴き、何を望み何を苦痛としているかなど、相手を知ることをまずしないと自分の言葉は伝わらない。 やっとこんなことに気がつき始めた。若い時から自然にできる人も多いと思うけど、色々痛い思いをしてやっとたどり着く私のようなものもいる。年を重ねるのも悪くは無いものだ。 さてさて、関東はお彼岸が過ぎてからめっきり暖かくなり、昨日の昼間は上着を着ると暑く半袖のポロシャツと夏用のUVカットのパーカーで大丈夫だった。 街路樹の辛夷は咲き始めていたが、都会の木々は落ち葉対策や電線に枝が触らないようになどと、ガンガン枝が切られてしまっていてとっても痛々しい。 桜のつぼみがふっくらしてきて、早咲きのものはもう咲きだしている。今年の冬は、大雪に2回も見舞われ寒さが続いたが、やっと春がやってきた。 自然の中で、野生のままに成長した樹木を見たい。
2014年03月24日
コメント(3)
一昨日のこと。所長が休みだったので出勤するつもりでいたI。それが8時10分過ぎ所長が間違って出勤し、「休みの日には休まれたほうがいいですよ」と伝えたが、「事務仕事が残っているから今日は働く」と。 Iには、所長が出勤しているので休んだほうが良いと思うと電話で話すが,ポカ休は自分の信条から出来ないと出勤してきたが、玄関の前から泣きだし、やっとのことで「今日は働けません」と所長に伝え事務所を去って行った。 最近 同僚Iは所長が居ると職場を離れ、患者さん宅の移動中にゼリー飲料などを飲んでやり過ごしていた。自宅では食べられるのに、仕事中は全く空腹感がなく低血糖で手が震えたりしているそう。所長の近くに行くと、のどが詰まり声が出なくなり、心臓がバクバクして息がつけない。 所長を以外のメンバーには、1月末に伝えできるだけフォローを皆でするようにしていた。問題は 同僚Iと所長が二人になるとき。メンバーへの苦情を同僚Iに伝え、それを何となくメンバー全員に伝えるように仕向けていたようだ。愚痴をこぼしたり、メンバーの欠点を話したり、ときには 「Iが所長になればよいのに」とか、「私が所長で困っているでしょうなど」とも。そのくせ、朝礼など公的な場では何も言わないのだ。 Iは最古参の一人で、業務全般を習熟しており、他の訪問看護事業所や居宅介護支援事業所などと顔見知りであり、所長が移動当初 I宛に電話や文書がくるのも気にいらなかったらしい。「何でIさんあてにみんな連絡があるの」ともいったという。 こういったやりとりは、1対1の場面で起こったことらしく、メンバーは殆ど気がつかなかった。 正月明けから、腹痛も起こすようになり、これ以上今の職場で働き続けることは無理と判断し、退職届を提出したが受け取らず、部長に相談するので待ってほしいと言われて1カ月、何の音沙汰もなし。「今のままで退職はできない。次の後継者を育ててからでないと締めさせない」とまでいったそう。 この話をきいて、すっかりこの所長に呆れ果ててしまい「Iさんが辞めてしまうのは寂しいけど、体を壊してまで働き続けることないからもう早く退職してしまいなさい。直属の上司を飛び越えても仕方ないので、部長に直接話をしていいんじゃない」。それが2月中旬のころ。 そして一昨日、彼女は職場を去って行った。 何でこんな深刻な事態になるまでIを追い込んでしまったのだろうか。 少数職場は、職責者もメンバーと同様に現場業務をこなしながら管理業務をせざるをえない。ましてや、経験のない職場に配属されたら、最低半年か一年は現場業務を一から学ばなければならない。職責でもメンバーから一つ一つ教えてもらわないと仕事ができない。 看護ケアの進歩は著しく、数年前までの知識や技術が役立たないことも多い。 約一カ月半、前職の所長からオリエンテーションを受け現場業務に入ったころは、明るく元気な方だなぁ、といった印象しかなく、まさかパワハラをする所長に育っていくとも思いもせず。 職場会議は開かないし、会議録を公表しないし、突然クレームを厳しい文面で連絡ノートに記入したり、ちょっと変な人かなぁ、という感じはしていた。訪問記録を記入せずに何日も自分の机の上に置いておいたり、他の事業所からの新規受け入れの情報を皆に伝えていなかったり、少しずつ所長不在時に対応に困ることが増えて行った。 訪問看護は春夏秋冬を最低1クール経験しないとなかなか把握できないから仕方がないかと受け止めていたが、Iから所長の言動をきくまで、その実態をメンバーは知ることがなかった。 前任の所長は管理業務経験が長く、Iを頼り、Iもその期待にこたえ、主任という役職は無いものの管理業務の一部を引き受け懸命に頑張っていた。前任は、その彼女の頑張りを認め彼女を立てていた。その時期には、所長に対してIから殆ど苦情をきくことは無かった。まぁ、簡単に言ってしまえば、主任にしなで、うまく使いこなしていたに過ぎない。 職場の決定は、所長とIとの相談で決めることが多く、前任も職場会議を開くとか、研修会に積極的に受けさせるとか、カンファレンスを開くことも殆どなかったし、メンバーは、命じられたことを命じられたように仕事をすれば特に注意を受けることなく職場で仕事ができるといった具合だ。 少数職場にありがちな運営方法だろうが、これでは人は育たない。一人ひとりの患者に合った最適なケアを工夫することができない。さらに、患者の状態が安定している場合は問題が表面化しないが、状態に変化があったときには対応が遅れて状態を悪化させてしまう。 少数職場でも、組織的運営に心掛けなければ、様々な問題がいずれは表面化して大変な事態を招くことになる。 今回のIさんの件は、不幸にもIさんの身に起こってしまったが、従来通りの管理方法が続くなら、次の犠牲者が生まれるかもしれない。 慎重に事を運ばないと混乱するだけになってしまうだろうし、「いい大人」の所長に問題を指摘しても相手は変わるはずもなかろうし、何かを言えば変わるなら、もうとっくに変わっているもの。 好き嫌いの私的感情を職場に持ち込まないで、冷静に状況と人物を観察して作戦を何通りも立ててやっていくしかないだろう。まずは、メンバーが元気に明るく働けるように頑張るしかないかな。
2014年03月21日
コメント(2)
かかりつけのメンタルクリニックは、地下鉄で2駅。 通勤で使っている電動自転車はパナソニックと合併したSANYO製(eneloop)。坂道などでは自家発電できる。5年前に購入したが、リチウム電池だが八分ほどの片道通勤なのに3日ともたない。 冬のボーナスで思い切って新品を購入し、ちょっと遠くでも出かけられるようになった。 3月になっても最初の通院時に思い切って地図を片手に自転車で、約10分で到着。 もう迷うことは無いと自信がついて、昨日も自転車。 埃っぱくて混雑している地下鉄に乗るより、ずっと快適。 最高気温が20度を超えた春めく空気の中、ささやかな冒険気分。 こんな気分になれるのだから、最近は結構調子よく、携帯当番が3日間続いて眠剤を服用しなくても熟睡感が得られる。家事は苦手だけれど、仕事はやっと普通並みに近づいてきた。先生の「2週間どうでした?」と尋ねられても、「家事以外は、まあまあできるようになってきています。」と返答。 「何か問題はありますか?」 「自分についてはありませんけど、職場は問題だらけです。」 パワハラ上司に参っている同僚について相談してみた。 「上司がいると感じるだけで、心臓がバクバクして言葉が出なくなってしまう。その上司と30センチほどの距離に机があるのだけれど、その距離では言葉が出ずに話したいと思っていることも声が出ない。感情のコントロールができなくなって急に涙があふれてくる」など同僚のようすを話し、「しばらく職場から離れたほうが良いと、同僚間では話し合っているんですが、どんなことができますか」 「ストレスによる障害なので、薬物療法をしても、ストレスの元凶がある限りは治らない。退職するか、配置転換するか、ストレッサーと接しないようにしないと治らない。先生としては、重症だと考えるので、最悪の事態(自殺)を回避するために、もう今の職場で仕事をしてはだめだね。」と先生。 彼女はとっても責任感が強く、そのパワハラ上司と接して心臓がバクバクして苦しくなったのは12月初旬のころ。1月初めのころ、その話をやっと上司以外の同僚に話してくれた。 仕事も子育ても家事もそつなくこなしている、いわゆるできる人だったので、メンバー間で出来るサポートをしていたが、上司との関係はやはりつらいもので、とうとう一緒にご飯を食べることができなくなり、家では食事ができるのに、仕事中は空腹感もなく、食べたくなくなるという。エネルギー不足になるので、手が震えたりするという。 先生の見立てを伺い、言葉もない。 私たちメンバーも実力ある彼女に頼り過ぎていたのだ。「最悪の事態を避けなければならない!」という先生の言葉はこたえた。 もう来週からは、出勤しないですむようにみんなで頑張ろうね、とメンバーで決めてはいたけど、そんなに重症にしてしまったかと思う、あと3カ月早く休職を進めていたらこんなにもならなかったのに、と涙が出てきた。 人は人に対して、こんなにも相手の精神を追い込んでしまうのだ。 彼女は上司がいなければ、何とか話ができたり食事も食べられる。明日は上司が休みなので、最後の出勤日。何ともやりきれない事態だけど、一番に守らなければならないのは彼女の健康。 それから、もうパワハラで体調を崩す同僚を一人も出さないことだ。 職場で一番の年寄りなので、何とか職場の雰囲気をよくして、機を見てこの上司と対決しなければと思う。
2014年03月19日
コメント(6)
たいしたことでもないのだけれど、ひとの発言をきいた時、即座に否定する方がいる。この方は普段の発言から威圧的。一方的に話をされるがひとの話はあまり聞かない。 情報を発信することは多いが、人の話は良く聞かない。ほんの些細なことを報告しても上から目線で問い詰めたりするのでふとカチンとくることもある今日も今日で学生さんが目の前に来ているのに、すぐ対応されないので口をはさむと今することだったのよと、発言しありがとうのことももない。
2012年11月20日
コメント(10)
昨日はブログ開設3周年記念日でした。ここ3カ月余りブログ記事を更新しない日も多く、メッセージをいただいてもお返事もせずにいた私でした。そんな私でも安否確認のメッセージを寄せてくださったり、訪問してくださったりしてくださる方々に感謝申し上げます。最近は鬱々も大分改善して、眠剤を服用しなくてもそこそこ眠れるようになりました。一時の辛い状況が嘘のように改善してきました。筆不精の私が休み休みでも3年間も続けられるとは思ってもみませんでした。お仕事が訪問看護なので、在宅看護や在宅介護について、私なりの経験を通して皆さまにお伝えできることもあるかもしれないと、多少は脚色し匿名でお載せしたこともありました。また鬱で闘病中であることもあり、身近に鬱の方も少なくおられるかもしれないと、自分自身の思いや経験を綴ったこともありました。ただここ3カ月余り、職場にうまく溶け込めず、なんだか自分自身の仕事人生も無駄だったような虚無感に襲われ、ブログを更新しない日も多くなってしまいました。自分自身のブログなのに、去年の私はどうしていたんだろうと振り返って読み込むと、日記とは別の自分を再発見できることも分かりました。読者を意識して綴ることで自分に対して少しばかり距離をおいて見つめることができるような気がしています。何の脈絡もなく綴る日記にも似たブログですが、これからもお付き合いのほどお願い申し上げます。今年の夏は猛暑続きですが、暑中お見舞いも兼ねましてご挨拶申し上げます。
2012年07月31日
コメント(9)
Yさんは一人暮らし。要介護1。パーキンソン病の治療中に脳梗塞を併発し一時入浴介助を受けるまでの日常生活動作が低下した時期があった。脳梗塞を患ってからというもののお酒もタバコもきっぱりと止めリハビリに励み一人でお買い物に出掛けられるまでの回復された。なのに、神様のいたずらか、10日ほど前から幻覚があるようで、警部補に追われているとか、深夜にヘルパーさんが来ないと苦情電話を重ねたりと、言動に変調をきたし始めた。いつもは訪問すると笑顔を見せ、世間話をする方だったのに、すっかり笑顔が無くなり表情が硬くうつむいているばかりという。精神科のお薬が処方され、毎日看護師が訪問し服薬管理することになった。ご自宅での内服治療がうまくいかなければ入院治療も考えなくてはならない。木曜日に急遽毎日訪問することになって、同僚の都合がつかないので土日は私が当番になった。何とか元のYさんに戻ってほしいと願うばかりだが、今日夕方伺ってちょっと笑顔も出てきたので、自宅療養で好転する可能性が出てきた。30分ほど自宅でも様子をうかがって、希望が見えてきた感じ。 精神の変調をきたした方に対しても、その方の健康な面に焦点を当ててコミュニケーションをはかると信頼関係を築けるとも言われている。世間話をしていると笑顔を見せてくださるのでほっとした気分になった。事務所の帰りに近くの和食屋さんでスタミナ定食を食べて、この3連休の初日の〆をして帰ってきた。それから、ずっとオリンピック観戦。日本人に勝ってほしかったけど、必死に闘っている若人が美しく、それだけでも感動ものだ。明日もまたオリンピック三昧の日になりそうだ。
2012年07月28日
コメント(4)
5,6月といまひとつ体調がすぐれず、それでも大菩薩の縦走をしてから、仕事でも落ち込むここが多くぱっとしない日々が過ぎ、今日はもう15日。ジピレキサというお薬を飲み始めて少し調子が上がってきた。それでも梅雨空の用に少しどんよりした気分。明日のない夜はないというものの、その時その時の苦しさは辛いものでしかなかった。尊敬する患者さんが永眠されたり、患者さんの病状で一喜一憂する毎日。私は私と割り切ればいいものを、もっと工夫する余地が無かったのかと反省ばかり。もともと私は不器用なので新しいことをのみ込むまで時間がかかる。どんくさいのだ。仕事をして、帰ってきてひたすら眠り続けていた。気が付いたらもう6月半ば。双極性障害に効果があるというジピレキサを服用して2週間。気持ちの高揚はないが体がすっきり落ち着いている。この薬を服用始めたら睡眠時間も7,8時間は摂れるようになってすっきりしている。その代わり早朝散歩は最近しなくなってしまった。この時期を乗り越えればまた元気な日々が戻ってくると信じたい。大菩薩縦走のお写真を少し載せますね。 柳澤峠は標高1400mなので、まだまだスミレが咲いていました。 たちすぼすみれ?五月はあっという間に終わってしまった。仕事が忙しく、仕事をして、眠って、また仕事なんて生活をずっとしていた。気が付いたらもう6月中旬。仕事のミスも続き散々な初夏だった。関東でも梅雨入りしたけど、まだ集中豪雨はやってこないので、涼しい日が続いていて身体的には楽。集中力はいま一つでまだ読書する気力は出てきていないが、体がすっきりさわやかでいられるだけもっけもの。今日は久々に早朝覚醒。明後日は尾瀬沼から尾瀬湿原を歩く予定。天気予報は曇り時々雲の様子だが、お花が沢山見られるといいな。明日はまた仕事が遅いので今日のうちにリュックザックに荷物づくりをしておく。尾瀬は何回も言っているけど6月の尾瀬は初めて。天気予報は曇りだそうだが、霧雨くらいで済んでくれればいいな。柳澤峠から大菩薩例に行く道は整備されていて、コンクリートも嫌な階段もそうありません。広葉樹が多いので林が明るく気持ちのよい散策ができます。土日曜日に限り塩山から柳澤峠から落合まで山梨貸切バスが運行されるのでこの道も歩けるようになることでしょう。苔むした岩岩。奥秩父らしい景色です。丸川峠ではまだ桜が咲いていました。広々とした草原。自然の厳しさの中で生き抜いている樹木はとってもたくましい。自然中かで自然と共存して生きるって大変なことだろうけど、街路樹で一生を終わるよりずっと幸せではなかろうか。さすがに2000m近くになると若芽が開き始めたばかり。広葉樹の森は明るくて大好きな道です。
2012年06月14日
コメント(24)
五月になってちょっと復調の兆し。今朝は早起きして掃除、洗濯。五時になったのでお散歩に出かける。一昨年くらいから早朝散歩をしてきたので薔薇の咲く家を覚えてしまった。モッコウバラが終わり始めて、色とりどりのバラが咲き始めた。今朝は曇っていたので、いつものコンデジなのに暗い写真が続く。コンデジでも光を考えて撮らないとダメですね。それでもあちらこちらのお家で薔薇が咲き始め嬉しい朝になった。
2012年05月08日
コメント(7)
赤羽自然観察園で面白い花をみつけた。山渓ポケット図鑑「春の花」によると「ヤセウツボ?」「ハマウツボ?」図鑑では、シロツメクサに寄生するとある。色がいまいちだけど、よくよく見るとちょっと可愛い。4日の日に、アカツメクサを撮っているとこの花に遭遇。アカツメクサは可憐なのに、茶色のアスパラガスみたい。もう一種、木の花。木には「アブラギリ」と札が掛けられていたが、図鑑で調べるとアブラギリは別の花みたい。お花の雰囲気からは日本古来のものではなく、南の国からやってきたお花のように見える。ネットで調べたら、シナアブラギリだそうです。雄花と雌花があるようです。お花をみつけに公園や野山に出かけてみたい。
2012年05月07日
コメント(6)
昨日は久々の快晴の五月晴れ。立夏にふさわしい天気になった。午前の仕事を終え、鯉のぼりを見に赤羽自然観察園に。田圃は田植えを待つばかり。水遊びをする子どもたち。 ミズキの花が咲き始めた。カマツカもひっそりと咲く。五月は素晴らしい。これから梅雨まで若葉、青葉を楽しめそう。
2012年05月05日
コメント(9)
今日はGWの中、フリーで休める最後の日。池袋の映画館で「HOME 愛しの座童子」の指定席券がネットで購入できず、急遽さいたま新都心のコクーンで観ることに。10時開店だったようで、ビルに入ると各店舗の従業員の方が90度で頭を下げて挨拶してくる。思わず「おはようございます」とあいさつを返す。久しぶりに見た映画は、音楽も映像も素敵で東北の自然の中に身を置きたくなった。座敷童子のお話も哀しいお話だったが、高橋家家族と心温まるふれあいに少し眼がしらが緩んだ。相棒の水谷豊のイメージは全くなく左遷された元製品開発者の営業の成果で売り上げが伸びたり、子供たちが地元の生活のなじんでいく過程もありゆったりとした時間の中で都会ではバラバラだった家族が岩手の古民家で過ごすうちに家族としてまとまって行く過程が良い。心みたされて映画館を出るとまだ雨。お昼は冷やし黒ゴ坦々麺に大盛り餃子。辛さがじわじわと口の中に広がるのだけれど、薬膳料理のように感じるお味。わたしはビールを少し飲みました。お食事後はパルコで買い物。山用品を数点購入。夏山の計画もすこしずつ立てて、今年の目標は槍穂高。夏の準備に向けて月2回の山行をすることを決意。これから山に6割、仕事に5割でこの夏を過ごそうと思う。そして仕上げは常念から上って槍まで歩くこと。夏が終わるまで研修はキャンシャル、山行き優先で。GO!
2012年05月03日
コメント(7)
ここ数日パソコンの調子が悪い。インターネットエクスプローラが接続できなくなったり、楽天ブログが開けなくなったり。初期化したりすると元に戻りそうになるのだが、また凍りついてしまう。仕方ないので、良く分からないなりにゴミ箱をきれいにしたり、履歴を削除したりして何とかブログを書いている。せっかく書いた記事、消えちゃったら嫌だな。写真を整理しないままPCに取り込みっぱなしだったり、限界あるPCを丁寧に扱ってこなかったから?しばらくぶりにPCのお勉強をしなくっちゃ。それはそうとして、今こちらは梅の花満開。住宅街を通ると一家に一本は梅の木が植わっている。梅の木は桜と比べると地味の印象があるが存在感が強い梅も結構あって、仕事の合間に嬉しいひと時。 来年は絶対梅園に行って梅の香りに酔ってみたい。
2012年03月22日
コメント(5)
3・11から1年、被災された方々、お亡くなりになった皆さま、故郷から遠く離れて生活をされている方々・・・・・。未だ被災地にお見舞いに行っていない私だけど、言葉もありません。自分の生活で変わったことは節電。電気を使わない生活は出来ないが、節約することくらいできる。エアコンを使わなくなったこと、東北のものを努めて購入するくらいかな。。昨日仕事が終わってから気仙沼出身の同僚と話をした。「1年たって、余計に気持ちが落ち込む」と。小学生のお子様も震災のニュースがTVで流れると電源を切ってしまうと。「(心が)痛くて辛い」とおっしゃるそう。気仙沼と離れているから余計に辛く悲しくなると。同僚は3カ月に一回くらい、自家用車で帰っている。帰るたびに故郷の人々が復興に向けて頑張っている姿に励まされるという。今日の午後、板橋では『脱原発、板橋ウォーク』があったが、昨日から震災関連のニュースにくぎ付けになって、なんだか気持が落ち込んで寝込んでしまった。寝込んでしまっては何もアピールできないとは思うが・・・・・。明日からは震災から2年目の日々がまた続く。日々の仕事に追われるだけではなく東北のこと、脱原発のこと、忘れないで暮らしていきたい。
2012年03月11日
コメント(6)
今日は11時前には雨が上がり、コートが要らないほどの暖かさ。午後の訪問の合間に長徳寺に寄り道したら、しだれ梅が咲き始めていた。本当に春がやってきたね。境内を見回すと、サンシュユの蕾もあと一息で花開くといった感じ。今年はこのサンシュユが咲くのが待ち遠しくって、ときどき長徳寺によって、咲き具合を確認している。明日も暖かい日和だそうだからちょこっと寄ってみよう。かわいらしいネコヤナギも咲いていて。 さて、夕方は2週間の一回のメンタルクリニックの定期診察日。ここ1週間ばかり気になっていた自分が双極性障害かもしれないということについて質問してみた。主治医は丁寧に説明をしてくださった。若かった時はいわゆる躁鬱性器質みたいなものがあったかもしれないが、双極性障害としたら抗鬱剤だけでは症状は良くならないこと、鬱病の2割は薬物療法を続ける事が必要なこと、鬱病は再発しやすいこと、再発を繰り返していくと脳の器質性変化が起こりやすく統合失調症と同じくらいの病気であることなど丁寧に説明してくださった。主治医の経験では、治療を終了した場合2,3カ月は薬物療法を中止して出来ても再発してまた薬を飲む始める方が多いという。以前鬱病は風邪とか言われたことがあったが、それは間違いでそうそう簡単には治らないし、再発率も高いし、軽々に扱う病気ではないということ。薬物療法が主であり認知行動療法だけではなおらない。
2012年03月06日
コメント(14)
この冬は12月から寒い日が続き、春が本当に待ち遠しかった。2月末にやっと梅が咲き始め、春一番が来ないまま三月がやってきた。今日はお雛祭り。久しぶりに自然観察公園まで散歩に出かけてみた。旧松澤家の住宅にもお雛様飾りが。旧松澤家住宅は江戸時代の建物を北区で復元したもの。かやぶき屋根のお家の中にはかまどがあり、お湯がチンチン湧いていた。かやぶき屋根は厚く、げ魚も屋根の上にあった。観察園の中の雑木林もまだ芽ぶきの前で木立が美しい。公園の入り口のエゴノキだけは新芽がまばらに芽吹いていた。ネコヤナギはやっと開き始め。約8千歩の散歩を終えててんぷら屋さんの前を通ったら桃の花やチューリップ、菜の花が売られていた。この道を何回も通ったのにお花屋さんをしていたとは知らなかった。800円で3種類の花を買い帰ってきた。今日は暖かく、朝からストーブをつけていない。室温は16℃。今年になってストーブをつけない日は今日が初めて。道路わきの雑草も花開いてはいないけれど、今年の春は確実にやってきそう。
2012年03月03日
コメント(10)
なんとなく春めいてきて、気分は上昇気流。今日は比較的暖かくて、美容院、映画、浅草と足を伸ばした。車中読んだ「ここが知りたかった緩和ケア」は分かりやすい本でどんどん読み進めた。都営一日乗車券を使って(700円)お正月から行きたかった浅草寺に行ってきた。やっぱ雷門は凄い。提灯の底?には龍の彫り物。 浅草寺からスカイツリーを目指して歩いたら隅だ川の向かって歩くと、アサヒビールの本社が見ててきた。今回は隅田川から日の出桟橋まで、水辺ラインの載ってみる。板橋で暮らしていると、東京が水の都であることを忘れていた。故郷の堤川は急流なのだが、こんなゆったりとした川辺もいいもんです。 桜の季節になったら隅田川散策をしてみたい。今日はいつになく元気な一日でした。
2012年02月24日
コメント(8)
先週の土日と寝込み、月・火と重い頭と体を引きずってやっとの思いで出勤した。漬物用の石が頭の上から覆いかぶさっているような何とも言えない感じ。立つのも面倒くらいで、土日寝込んでも体が楽にならず。火曜日の夕方、とっても億劫だったけどメンタルクリニックの定期診察に行ってきた。「とっても良く眠れるんですけど、気持ちが明るくならないんです」と主治医に訴えると、エビリファイを朝6mgから4.5mgにして様子をみるように言われる。エビリファイも長期服用すると効き目が落ちてくることもあるとのこと。少量投与のほうが効果が高いということも言われているのでちょっと少なくして2週間様子をみてみましょう、とのこと。半信半疑、水曜日と木曜日の今日に3mgを半錠にしてみたらちょっと元気になってきた。エビリファイの効果というより、ここ五日ほどダラダラ過ごして休養をとれたためのようにも思う。確かに頭重感はないし結構体もすっきりしている。明日はまたまたお休み。ここ1週間、体を休めることに重点をおいてきたので何となくお部屋が散らかっている。明日は早起きしてお部屋を清めてすっきりとしよう。土日は携帯当番だし、来週後半はもう3月。気分一新して、3月を迎えよう。
2012年02月23日
コメント(11)
今日の午前は2件の訪問で、午前中時間があったので、移動途中の「薬師の泉」による。中山道に面しているが、ビルの合間に江戸時代のお庭が復元してあって、ちょっと一息つける。 春はまだ遠くに感じられるが、椿が一輪、和水仙が咲いていた。 竹林もあってすがすがしい気分にさせてくれる。 真冬の緑としての竹も魅力的ですね。今、仕事に少し余裕があって10分ほど散策が楽しめた。たまにはこんな日があっても良いよね。
2012年02月09日
コメント(13)
昨日は結構へたれて帰宅。先日訪問したメンタル系の利用者さんのお宅の様子がチラチラよみがえって、どう対応すればよいかわからない。アマゾンで頼んでいた本が届いて、今日は一日オコタで読書。読んでは眠って、眠っては読んで。読み進むうちに、何となく覚悟みたいなものが自分の中で育ってきて。精神科看護に限らないが、まずは利用者さんとの信頼関係の構築が大事ということを改めて学んで、焦って何かをしてあげなくっちゃと思わないで良い人間関係を築いて行けば良いことと思い始めたら気が楽になった。その方が良く通っているという業務スーパーに、明日は仕事帰りに寄ってみようかしら。そんなわけで今日の美容院はおあずけ。寒いこともあって出かけるのが億劫になってしまったということもあるのだけれど。
2012年01月27日
コメント(3)
夕方6時から学習会があったので、間にあうために事務所の隣のタクシー会社から1メータータクシーに乗った。運転手さんの話だと今朝4時過ぎから道路がアイスバーンになり交通事故に何件も出くわしたそう。今日の午前中も訪問2件。9時半過ぎに出かけたのに、いつもは5分で到着するお宅に20分もかかってしまった。おまけに自転車に乗りブレーキをかけた途端転倒、それも2回も。怪我をしなかったのは運が良かったけど、自転車で骨折なんてことになったら笑い話では済まない。運転手さんの話ではアイスバーンにはアイスバーンに合わせた運転の仕方があるという。午前中2度も転んだので、ちょっとした雪道恐怖症になり雪に遭遇すると自転車を降りて、乾いたアスファルトになったら自転車に乗るなどしていたら肩こりがしてきてしまった。午後は慎重に運転して転ばずに済んだけど、実習の学生さんの前で転んでしまって超恥ずかしい。転んだ時ふと後ろの車を観たら本当にそろりそろり走っていた。車間距離も5mくらい。事務所の隣にはヤクルトのお店があってそこの職員もお仕事に出始めていて重たい荷物を積んだ自転車を押して歩いていた。みんな注意深い。じゃかじゃかブレーキをかけて転んでいたのは私だけ。お昼事務所に戻ってきたらみんな怖い思いをしたようでお互いの無事を喜んだ。今日の東京の積雪は大手町で4cmとか。4時過ぎゴミを出した時に玄関の積雪はざっと見た感じでは7cmくらい。東京には除雪の設備はないし、事務所にも雪かきはないし。一年に数回のための雪たいしてシャベル一台くらいあってほしかったな。お家にも雪掛けはない。今度ベランダに一台くらい用意して置いておこうかな。雪の降った朝近所の方と道路の雪掛けなんかしてみたいな。
2012年01月24日
コメント(12)
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。悲しいこと、切ないこと、辛いこと、哀しいことが一杯あった昨年でしたが、今年も前を向いて歩み続けましょう。皆さまの健康とご多幸をお祈り申し上げます。
2011年12月31日
コメント(28)
板橋区民祭りで東北復興支援バザーがあるということで、久々に休日に外出。秋晴れと言おうか、真夏の戻りの暑い一日。こんな日はビールに限る。ドイツビールで、ピンクグレープビールを飲んだ。さわやかな飲み心地でビールと言うよりジュースって感じ。日曜日の午後に行ったこともあり東北復興バザーは既に売れ切れたお店もあって、私にとっては珍しいさんまのすりみ汁を食べては、ビールを飲み、ウニの貝焼きを食べビールを飲みと楽しいひと時だった。 甘いウニだった。担当されているおばさまは笑顔がすてきだった。新米を買い、青森リンゴを買い、八木澤焦点の濃い口しょうゆ、高田松原名松一本松のブレスレット、ネギ、中学生が売っていた熊本みかんを買ったらバックパックが一杯になった。倹約ダイエット生活は今日一日はOFF。帰りおみこしのパレードをしていて、渋いおじさま発見。 普段あまり見かけない祭りの着物姿は素敵だ。楽しく踊るおじさま。 久々の外出で、万歩計は7704だった。ビールを飲んだりしたのでほろ酔い加減で帰宅。今年は3・11以後苦しく悲しいことが多かったけど、祭りは力になりますね。戸外で美味しいものを飲んだりビールを飲んだのも久しぶり。明日からまた元気になれそうです。
2011年10月16日
コメント(10)
9月も中旬になって、夜明けも遅くなり日没も早くなった。仕事を終え帰宅する頃には夕闇が迫っている。仕事をしていると秋の夜長なんて関係ないと思っていたが,コオロギが鳴く夜更けを迎えても街中が静かで頭も冴えわたる。一昨日は眠剤を飲む機を失して午前2時過ぎまで机に向かった。やっぱり眠らなくてはと思い、眠剤を服用したら延々24時間眠り続けて起きたのがついさっき。途中お腹がすいたようで御飯が炊いてあった。短時間作用性の眠剤を服用しているために逆行性健忘があって、中途覚醒した時の記憶がない。来週の水曜日の午後には事例検討会があって、その発表原稿がまだ出来上がっていない。月曜日には職場で発表をしないといけないので何が何でも今日中に仕上げないといけない。お仕事関係のことはお家に持ち込まないことにしているので、今日は事務所に出かけて何が何でも原稿を作り終えないと。夜中にちょこっと目が覚めたら、寝室の窓からお月さまが見えた。今日は中秋の名月。帰りに月見団子でも買って、今夜はお月さまを見ながらお酒でもちびちびしてみようかな。その前に原稿を作り上げないといけないけど。
2011年09月10日
コメント(8)
3階建ての小さなビルの屋上に麒麟。一件の訪問看護を済ませて、この間紹介したビルに近付いてみる。今まで何回となく通った道なのに気がつかなかったのが不思議。 自転車から降りて、ビルの名前を確認すると、分かりやすい「きりんびる」だって。 一階は有限会社、2階、3階は居住スペースのようだ。 今日も夕方までひたすら眠った。とにかく眠い。明日は立秋。お盆が始まるまで猛暑は続きそうだが、バテないように過ごさなくっちゃ。あと三日働いたらお休み。今週は異動してきた看護師と一緒に患者さん宅を廻る。訪問看護に異動してきたとき私も先輩ナースに連れられて患者さん宅を巡ったっけ。仕事の仕方が前の職場と全く違って面喰ったものだけど、あれからもう4年。時が過ぎるのは早い。そろそろ試験勉強も本格的にしなくっちゃ。
2011年08月07日
コメント(14)
全339件 (339件中 1-50件目)