華麗の空~本を楽しく読むブログ

哲学者と小説家




⇔⇔⇔   哲学者ヘーゲル   ⇔⇔⇔

―― Georg Wilhelm Friedrich Hegel ――





人間は、突然にその人格を変えることが出来るであろうか。


人間の営みは、すべからく 連続的 である。

この言葉に、最近のIT革命を例に反論する人もいるであろう。

確かに、社会は デジタライズ されている。
この文章だって、デジタルなのだ。

そもそも、 デジタル って何だろう。

ベジタブル と少し似ている。

ヘンデル は少し遠いな。

「ヘンデルとグレーテル」 はかなり無理してる。

「変です、グレてる」 は終わってるね。

ま、 かなり好きだが。




デジタルとは、離散である。

0か 1か の世界。
0.2や0.57などは存在しない。

突然に、値が飛ぶ。

それがデジタル。我々を覆い尽くしている、デジタル。


が、しかし―
デジタルなのは ツール。 離散の世界は、ツールの世界。

人間はやはり、連続なのだ。

突然の変化は存在しない。

コツコツと努力して自分を変えていく行為 は、連続なのだ。

とすれば、人が ある日突然人が変わる ことはないのだろうか。


「ある」 と答えた人間が二人いた。

一人は、 大哲学者ヘーゲル。 もう一人は、 ある日本人小説家。


哲学者と、小説家。

彼らに共通するのは、
「変わることは出来ないが、変えることは出来る」
と主張する点であった。

「変わる」は 自動詞で、 「変える」は、 他動詞。

突然に変われないのに、突然に変えることが出来るのは、何か。

それは、 他人から見た自分 である。

ある日突然特殊な能力に目覚める(離散的変化)ことはまず無いにしても、
ふとした瞬間に 自分の内面の一部を表出させる ことで、
人は「あの人は変わった」と感じるものだ。

つまり離散的に自分が変わるとは、連続的に生きるなかで培われた内面の一部を、
ある瞬間から「他者」という外面へ押し出すことで達成されるのだ。


人間の成長にとって、離散の無限集合が連続なのではない。
連続を越えたところに、離散は存在する。



では、そのタイミングはいつだろう。
いつでも好きな時に自分を変えることが出来るのか。それは疑問である。
好機となるのは、転勤、クラス替えなど 日常の中のチョットした非日常 の瞬間。

問題は、そのチャンスを活かせるか、否か―

(中国の故事に、「チャンスの神様は前髪しかない」とあるのは有名な話。
 しかし、と思う。
「笑いの神様は前後にフサフサである」 と付け加えたい(余談)。)



さて、ここで 哲学者ヘーゲル 日本人小説家 の登場である。

好機を確実に捉え、自らをより良く変える。

彼らは、そんなことを訴えたかったに違いない。


ヘーゲルは言った。


「跳べ、ここがロードスだ」 、と。


日本人小説家は、回想する。


「あべ、ここが牢獄だ」 、と…







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