『太陽の季節』



この物語はひとことで言ってしまうと主人公竜哉の青春の生き様である。
達也にはなに一つ不自由なものはない。
家はお金持ち出し頭もいい。
背も高く、スポーツは万能で、ボクシングをしている。
もちろん、女性にもまったく不自由はしない。

しかし、彼は生きることに、いや、自分の行為に理由を見出すことができないでいた。
なんのために生きているのかがわからないのだ。
それどころか、そんな疑問を抱くことすらしないのだ。
ただひたすらにやりたいことをやる。
ちょっと矛盾しているかもしれないが、やりたいことに理由がない。
動物のように生きていくためにやるのかというとそうでもない。
他人のために何かをしたくないのだ。
いや、自分のためにする『行為』すら否定する。。
そこには意識をもった人間だけが持ちえる葛藤が描かれている。
逆に葛藤を持つことで唯一『自己』を保持しえていたのかもしれない。
社会に組すことも、本能に翻弄されることも拒絶する。
なぜ生きるのか。。。
竜哉はその答えを、やはり同じような葛藤のかなで生きていた栄子と共有する時間の中で見出せそうになる。
が、結局、栄子が竜哉を心のよりどころにできたのに対し、竜哉は葛藤から逃れることができなかった。
最後に栄子の死によって竜哉の葛藤はエンドレスなものとなる。。

あとがきの中で石原は
「風俗が消費という甘美さの中で定着していくにつれ、後は新しい文明の中での成熟とさらには退廃が進行していくだけとなった」
と若者の置かれている状況を分析している。
そしてさらに
「過剰な自由、過剰な逸脱、過剰な刺激のもたらす不気味なほど痴呆的な安逸がありはしても、人々は過去のようにいかなる青春をもその若さと放埓のゆえにとがめることは大方なくなってしまった。・・・現代の青春はいわば無響音室の中に置かれたように、一種無慈悲、無抵抗なるもののような気がしてならぬ」
と、今の若者(といっても二昔以上前の話であるが)の青春の葛藤を表現している。
ぼくは青春時代の若者というものは自分を疑わないものだと思っている。
では何に対して自分を信じるのか?
石原が言うように、モラルが薄れ、『行為』が自由になればなるほど信じるべき自分をも見失うのかも知れない。

追記:
それはそうとして、石原はどうも男尊女卑の傾向があるように思われる。
女性の扱い方が、男性の生き様を浮き彫りにさせるための道具としてしか扱われていない。
物語としては面白く読めるのだが、なんともいえない後味の悪さを感じた。
ただ、『完全な遊戯』は若干毛色が違った。
ここでもやはり男たちによってぼろぼろにされ最後海に突き落とされて死んでいくちょっと知恵遅れの女性が道具的に使われているのであるが、男たちの葛藤が全面に表現されていないため、彼女の持つ不気味な生の輝きの方に目が行ってしまう。
ぼくは個人的にはこちらの方が好きである。


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