このごろ思うこと

このごろ思うこと

津留さん肺癌になる 2000年9月



 津留が仕事場兼住まいの東京都世田谷区から、生まれ故郷の福岡に移り住んだのは1999年11月のことでした。福岡には講演会やグループセッションで月に一度は行っていたのですが、この年に見た蛍のあまりの美しさに魅せられ、福岡へ住むことを決めたようです。

 しかし移住してすぐにひどい風邪にかかり、病院へ行ったところ、レントゲン検査で末期の肺ガンだと宣告されました。それ以前1年間くらい、咳がひどく私は病院へいけばいいのにと心配していたのですが・・・。

 入院、治療をしても余命6ヶ月と言われた津留は、治療しない方を選択しました。そして痛み止めだけは使いながら普通に生活していました。2003年5月までは講演会や個人セッションを続けていましたが、その後は車椅子で自然の緑の中へ出かけたり、そして蛍はもちろん見に行ったそうです。

 片肺が全く機能していないため、脳が酸欠状態になり、ひらがながやっと書けるくらいになり、体も思うように動かなくなってきていましたが、夏には3才になる我が子と浮き輪で海に浮かび「体が軽く感じる、いい気持ちだ」と喜んでいたそうです。

 私は東京の事務所を閉め、自宅へ事務所を移しました。そして時々福岡へ津留に会いに行っていました。津留がガンとわかったころ、私の自我は「津留はガンにかかり、想いが現実を創るということを私たちに身を持って教えるのがシナリオなのだ」と思いこもうとしていました。しかし、3月の講演会のとき、「私にとって、生と死は全く同価値なのです。一枚のコインの表と裏のように同時に存在しているのです。死を宣告されたから、私の今の生は素晴らしく輝いて感じられます」という言葉が耳に入ってきてからは、「これから先のことは津留が今世、決めてきたシナリオなのだから、死も生もどちらでもいいんだ」と心から思えるようになりました。

 津留の病気をお知りになって心配してお電話を下さった方へも、「治っても治らなくてもそれは津留のシナリオですから」とお話しました。福岡では津留の小・中学校の時のお友達が悲壮なお顔でお見舞いにきてくださっても、本人や私やパートナーがあまりに明るいのでびっくりされたようです。

 しかし人間としての感情がないわけではありません。今まで弟のサポートをするのがライフワークだと思っていた私ですから、その弟が死んだら私は何をすればいいのだろうと先の不安で、今まで治っていた不安神経症が再発しました。今、この瞬間に生きるということが身についてきたと思っていたのに・・・、時間は一直線上にはないと知っているのに・・・。

 自我は変化を恐れます。今の幸せが永遠に続くと錯覚してしまいます。「今・この瞬間」の大安心の心の位置に、瞬間、瞬間、い続けることはまだまだできていませんでした。それはゆっくりやっていこう、あせらずに・・・。そしてせっかく人間として感情を味わうためにやってきたのだから、いっぱい心配し、いっぱい泣こうと思っているこのごろです。


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: