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仁淀川の支流の一つである安居川の上流に広がる渓谷。一帯が安居渓谷県立自然公園に指定されている。にこ淵、中津渓谷と共に仁淀川ブルーを代表するスポットの一つ。原生林や切り立った崖に囲まれ、巨石、急流、淵、滝などが形成された全体で約10kmにもわたる自然美溢れる渓谷。江戸時代までは禁制がかけられ渓谷に入ることもできなかったが、近代以降の伐採によって数々の景勝地が発見された。透明度が非常に高く、エメラルドグリーンに輝く安居川を中心に、高い落差を持つ飛龍の滝や昇龍の滝、仁淀川ブルーと呼ぶにふさわしい青が広がる水晶淵など、数多くの見どころがある。春夏秋冬で様々な姿を見せるが、新緑が綺麗で滝の水量が豊富になる夏~初秋の時期が一番の見頃で、秋になると紅葉と仁淀川ブルーの見事なコントラストが美しい。渓谷の入り口には宿泊施設「宝来荘」があり、宿泊だけでなく渓谷を見ながら食事を楽しめるレストランもある。キャンプ場もあり。駐車場の近く、渓谷の入り口にある宝来荘。宿泊、レストラン、観光ガイドなど全てが揃っている。まさしく安居渓谷の拠点となる場所。せり割洞穴。もみじ谷公園から水晶淵に向かう途中にある洞穴。台形にくり抜かれた抜け口から、安居川が見える。川沿いの遊歩道を歩いて、水晶淵へ。清らかに流れる安居川はどこも見事なエメラルドグリーンに輝いていて、川底もくっきりと見えるほど澄みわたっている。水晶淵。安居渓谷最大の仁淀川ブルースポットとも言える場所。あまり広くはないが水深が深めの淵で、水面はほとんど波を立てず緩やかに水が流れている。水は仁淀川ブルーと呼ぶにふさわしく、青く輝き澄みわたり、水深の深いところほど青が深まり、日光が当たると水がキラキラと光り一層綺麗に見える。いつまでも見ていられるような美しさだった。水晶淵の仁淀川ブルー。深いところであっても川底がはっきりと見え、川底に転がっている石は水の色に着色され、まるで宝石のよう。アクションカメラを使って水晶淵を水中撮影。背龍の滝。水晶淵の近くを流れ落ちる落差50mの滝。訪れた時は冬だったため水がほとんど流れ落ちていなかったが、滝水が凍りついて氷柱となり、綺麗な氷瀑と化していた。水晶淵からさらに上流へ進むと、隠れた仁淀川ブルースポットである砂防ダムがある。水晶淵上流の砂防ダム。安居渓谷の隠れた仁淀川ブルースポットで、高さ20mの大きな砂防ダムの前に溜まった水が、綺麗な青色に染まっている。大きな人工物が目の前に構えているのが少し気になるが、広々とした水溜まりが深い色の仁淀川ブルーに染まっている様子は、南国の海のような美しさがある。夏になると砂防ダムから水が流れ落ち、辺りの新緑も相まって大変美しい光景となるのだが、冬に訪れたため水が流れ落ちておらず、木々も冬枯れ・色褪せしていたため少し残念な景観となっていた。それでも仁淀川ブルーの美しさは健在だった。高知県吾川郡仁淀川町 『安居渓谷②』へ続く↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.31
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太平洋沿いに鎮座する、天照皇大御神を御祭神とし「日向のお伊勢さま」と呼ばれ親しまれている神社。社殿(本殿、幣殿、拝殿)は国登録有形文化財に登録されている。御祭神は天照皇大御神(アマテラスオオミカミ)。皇祖神として広く知られ、縁結びや大願成就の御利益がある。また、2015年(平成27年)と2019年(令和元年)にラグビー日本代表が合宿の際に当社に必勝を祈願し、歴史的勝利を納めたため、必勝祈願の御利益があるとして注目されている。創建の年月は不明。当社に伝わる「神明記」によれば、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が高千穂に降臨された時、瓊瓊杵尊はこの地を御巡幸され、千畳敷の盤石にて大海を展望され、天照大御神をお祭りし平安を祈念されたという。後にこの地に社殿が建立され、天照大御神を勧請し村の鎮守として崇敬したのが始まりと言われる。神社の名前は、天照大御神の"大御"を頂いて名付けたと伝えられている。また、神武天皇が東征されるときに伊勢ケ浜から港に入られ、当社に武運長久と航海安全を祈願されたとも伝えられる。その後は日向に存在した日知屋城の歴代城主や延岡城主、代官らに崇敬され、今日は地元住民から「日向のお伊勢さま」と呼ばれ親しまれ、全国からも参拝者が訪れている。毎年10月22日に例大祭宵祭り、10月23日に例大祭御神幸祭が行われ、年内で最も盛大な祭りとなっている。特に例大祭宵祭りでは県内外から多くの人が訪れ、神事、巫女舞、神楽、さらに名物の天翔獅子が奉納されている。鳥居。日向のお伊勢さまと呼ばれることにちなみ、鳥居も神明鳥居になっている。授与所。社殿。拝殿・幣殿・本殿の構造。1936年(昭和11年)に建立されたもので、木造の神明造りの銅板葺。国登録有形文化財に登録されている。海沿いに広がる柱状節理群。社殿背後に切り立つ柱状節理。約1500年前に起きた海底火山の活動により火砕流が蓄積し、長い年月をかけて冷え固まったもの。さざれ石(神座)。国歌「君が代」にも歌われているさざれ石で、海岸沿いには柱状節理群の他にさざれ石群も見られる。写真はそのさざれ石群の中でも一番大きな石で、周囲30m、高さが4mある。瓊瓊杵尊がこの石の上に立ち、大海を展望されたという伝えが残ることから、神座とも呼ばれている。龍神の霊(玉)。さざれ石のすぐそばにある。水の入ったすり鉢のような窪みに、丸い形をした石が沈んでいる。この周辺はおよそ5000年前の人が龍神信仰をしていた古代遺跡だと言われており、これは岩を渦状に刻んで龍を表し、生命の源である龍玉(丸い石)を納め、それに山水を注いだものだそう。当時の人々はこの龍神様に日々の安寧を祈ってたんだとか。三代の亀(親、子、孫)。海岸沿いの柱状節理が海に削られ、長寿の象徴ともいえる亀のような形になっている。社殿の土台となっている柱状節理が親の亀を表し、その近くを子、孫と続くように亀の形をした岩が並んでいる。高台から見た社殿。鵜戸神社。大御神社の境内社。御祭神は鸕鶿草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)、彦火瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)、彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、塩筒々大神(シオツツノオオカミ)。古くより「鵜戸さま」と慕われ、安産、航海安全、交通安全、厄難消除、事業繁栄の御霊験がある。鳥居がある場所から階段を下ると岩窟があり、そこに鵜戸神社が鎮座している。かつて縄文時代の人々が龍神信仰をしていたとされる岩窟で、先にある祠のある場所から振り向いてみると、その理由が分かる。岩窟の前にある砂浜。岩窟の中にある祠。白龍の昇天。祠のある場所からそのまま後ろを振り向いてみると、まるで白龍が天に昇っているかのような光景が浮かび上がる。岩窟は人工的に作られたものだそうで、龍神信仰がされていた痕跡だと考えられている。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.23
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えびの市東部に広がる田代地区の水源地となっている湧水池。田代地区の先住民が豊富な湧水を利用して作った人口の池で、大小2つの池がある。水量は毎分4t、水温は年間一定して12℃。池水の透明度は非常に高い。池の南側が霧島連山へと繋がっており、山に降った雨が湧水となって湧き出ている。名前の由来は1572年(元亀3年)の木崎原の戦いで日向の伊東軍が薩摩の島津軍に大攻勢を企て、小林城から加久藤城に進軍するために陣を布き見張り台を設けた際、この池が陣に近い場所に位置していたことからだと言われている。大きい方の池。人工の池と言えど結構なスケール。駐車場近くの広場。休憩所もある。様々な方向から見た池。水深の深いところは深い青色になっており、水深の浅いところは池底が見え、エメラルドグリーンに輝いている。小池から大きな池に続く小川。冬枯れの木と青い池。北海道の白金青い池のような一枚。お気に入り。ベンチと池。まるで絵画のような一枚になった。これまたお気に入り。駐車場の手前、枝分かれした道を進んでいくと、突き当たりに小池がある。小池。大きい池の方でも水は湧いているが、こちらが池の大本の水源になっており、ここから小川を通じて池の方に水が流れていっている。小池の方は水が更に澄みわたっており、どこから見ても池底が見えるほど。池底から水が湧き出ているのを目視で確認できる。エメラルドグリーンに輝く水。日光が差し掛かると、綺麗に輝いて見える。池から集落に続く水路。田代地区の田畑を潤すために江戸時代に整備されたもので、元々は手掘りによる小溝で全長約2kmにわたるものだった。水路沿いの家には階段が設けられており、野菜を洗ったり、夏は子供たちの遊び場にもなっているそう。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.22
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九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅。縁起の良い名前の駅として知られる。駅の構造は単式ホーム2面2線。古くは有人駅で、その後無人化された後、現在は簡易委託駅でJA球磨一勝地駅支所が同居している。かつてはSL人吉、特急くまがわが停車する駅だった。2020年(令和2年)に発生した九州豪雨災害の影響により、JR九州肥薩線が運休状態の為、2024年(令和6年)現在は列車の乗降はできない。駅舎は1914年(大正3年)に建築され100年以上使われているもので、1997年(平成9年)に一部が改築され、現在は球磨村観光案内所としても使われている。"一勝地"という名前から縁起のいいスポットとして注目を集め、「一勝祈願」と書かれたお守りの形をした記念入場券の販売がされており、受験生やスポーツ選手が合格(勝利)の祈願に訪れている。駅舎。1908年(明治41年)に駅が開設され、1914年(大正3年)に建築された駅舎は木造で瓦葺きと、レトロな駅舎にまさしくありがちな造り。村の玄関として長く栄えてきた。駅舎出入り口。駅舎内部。球磨村観光案内所と繋がっており、観光案内所では村の特産品や記念入場券の販売がされている。天井には古びたシャンデリアがある。球磨村のマスコットキャラクター、球磨太郎くん。読みは"くまんたろう"らしい。ホーム側の出入り口。ホーム。線路は敷かれているが、九州豪雨災害の傷は癒えておらず、現在も鉄道は運休中で列車はやってくる気配がない。電車が走っていた頃はSL人吉が約9分にわたって停車していたそう。駅名標。ホームから見た駅舎。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.17
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国道447号線と米津ノ川を挟んだ位置に立つ、クスノキの巨樹。市指定文化財・天然記念物に指定されている。樹高12m、根回り15.2m、推定樹齢は1300年。道路の方に少し傾くようにして立っており、台風の被害に遭ったことで大きな枝を失い、樹高よりも根回り、幹回りの方が大きくなっている。根元には大きな空洞ができており、コンクリートで養生されている。クスノキにまつわる悲恋物語があり、かつてこの地に幸媛という綺麗な女性がおり、鴨雅彦という青年と恋に落ちるが、それを妬んだ沖田の稲置という役人に雅彦は罪人に仕立て上げられ、大隅に追放されることになってしまう。恋仲を引き裂かれた2人は別れを悲しみ、別れの時、幸媛は雅彦に楠の実を1つ渡す。雅彦のまいたその実が姶良市の蒲生の大楠になり、幸媛のまいた実がこの出水の大楠になったという伝えがある。国道沿いにある出水の大楠。幹はかなり大きいことが遠くから見ても分かるが、樹高は並のクスノキより低い。見ての通り周辺はコンクリートに挟まれているため、生育状態はあまり良くない模様。反対側の歩道から見たクスノキ。全体像を見て取れ、木の根は少し道路にも出ているのが分かる。向こう側に米津ノ川が流れ、川をまたぐように九州新幹線が通っている。幹。根の下の方は既に空洞ができており、幹の空洞になった部分もコンクリートで養生されている。生育環境にめげず、朽ちているのが目に見えても大地に根を張り続ける様子は生命の力強さを感じずにはいられない。それとも実を植えた幸媛の思いが根強く残っているのか…下から見上げて見たクスノキ。幹から伸びた枝。地面から伸びているものもあるが、これも同じクスノキのものだろうか?大井手堰改築記念碑。戸崎消防司令補慰霊碑。1971年(昭和46年)に中学生が米津ノ川で行方不明になったと通報を受け、大雨で濁流になった川を果敢に捜索するも、大渦に引き込まれ殉職した戸崎消防司令補の功績を称え建立された慰霊碑。すぐそばを流れる米津ノ川。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.16
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国道328号線沿いに鎮座する、国歌「君が代」の発祥の地と伝えられる神社。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)。大国主命の別名で、産業生産、縁結びの神様として、地元住民に篤く崇敬されている。近江国坂本(現・滋賀県大津市坂本)に鎮座する、山王権現とも呼ばれる日吉大社の支社として祀られ、鎌倉時代に入来院氏地頭の渋谷氏が勧請したのが始まり。以来入来院内諸社の総社となっている。毎年2月19日に祈念祭、11月23日に例祭が行われている。例祭では県指定無形文化財に登録されている入来神舞が奉納されており、その中の演目「十二人剣舞」の中で国歌「君が代」が詠われることから、国歌の源泉は入来神舞にあると言われ注目を集めるようになった。石鳥居。くぐってすぐ先に拝殿がある。鳥居の脇にある六地蔵塔。手水舎。こじんまりとした境内。國威発楊之勇士の碑。梶山神社。社殿右手に鎮座。入来院氏の家老だった種田氏の氏神である梶山権現を祀る。かつては社殿があったようだが、現在は碑だけが残っている。君が代にも歌われているさざれ石。拝殿。1786年(天明6年)に改築され、現在のものは1918年(大正7年)に再び改築されたもの。元々は色が塗られていなかったが、現在は朱塗りになっている。本殿。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.10
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薩摩川内市街地の神亀山と呼ばれる小高い山の山頂に鎮座する、ニニギノミコトを御祭神とし、またニニギノミコトの御陵墓である可愛山陵がある神社。御祭神は天津日高彦火瓊瓊杵尊(アマツヒダカヒコホノニニギノミコト、以下ニニギノミコト)、天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)。開運招福、五穀豊穣、安産守護、交通安全の御利益がある。天孫ことニニギノミコトは天照皇大御神より地上を治めるよう命を受け、三種の神器と稲穂を持ち、神々と共に高千穂の地に降りられる(天孫降臨)。そこで初めて米を作られた後、笠狭宮(現鹿児島県南さつま市)に移られ、コノハナサクヤヒメと結婚。その後川内の地に来られ、この地に千台(うてな)つまり高殿を建立しお住まいになられた。川内の地名はこの千台からきていると言われている。ニニギノミコトは亡くなられた後に可愛山陵に葬られ、そのニニギノミコトを祀るようになったのが当社の始まりと言われている。元々は社殿がなく、古くは神亀山そのものを神社としていたとも言われ、かつては山の中腹に社殿があったが1173年(承安3年)に焼失。1176年(安元2年)に朝廷の命令により現在の山頂に遷座した。薩摩国の守り神として朝廷から深い信仰を受け、歴代藩主の崇敬も篤く、慶長年間に島津義久公により現在の社殿の元となるものが造られた。明治時代以降は皇室から御崇敬を賜り、1920年(大正9年)に昭和天皇が皇太子の時に参拝され、以来皇族の御参拝は9度に及んでいる。境内にある可愛山陵は前述の通りニニギノミコトの御陵墓と言われており、高屋山上陵、吾平山上陵と共に神代三山稜の一つに数えられている。本殿の後ろに位置しており、御陵墓と神社が一体化しているのは全国的に見ても珍しい。毎年1月7日に武射祭、3月に早馬祭、9月15日に例祭が行われている。6月に行われる御田植祭では、県指定無形民俗文化財に指定されている奴振踊り、棒踊りが奉納されている。境内入り口の大鳥居。二の鳥居で、一の鳥居は参道の入り口にある。ちなみに参道は桜の名所として有名で、春になると新田八幡桜まつりが開催されている。新降来橋。石造りの太鼓橋。渡った先に降来橋が続いており、こちらは市指定文化財に指定されている。石段。社殿は神亀山の山頂に鎮座しているため、300段続く石段を上っていかなければならない。ただし、石段の途中まで車で行くことも可能。西門守神社、東門守神社。最初の石段の右手にあるクスノキの巨樹。参道沿いには他にもクスノキの巨樹が点在している。最初の石段を上りきったにある境内社。左から順番に、早風神社、中央神社、高良神社。かつて社殿が鎮座していた場所。1173年(承安3年)にここにあった当時の社殿は焼失し、現在の山頂に遷座。この石は現存する当時社殿の礎石の一部。がらっぱ大明神。ガラッパとは、薩摩川内市に生息しているとされる河童の一種。このがらっぱ大明神(イザナギ河童・イザナミ河童)は1990年(平成3年)の川内がらっぱ共和国建国式当日に、見せ物として広場に飾られた像がいつの間にかこの地に鎮座したというものらしい。さらに石段を上っていき、山頂の社殿へ。石段終わりの左手にあるクスノキの巨樹。新田神社の大樟。市指定文化財に指定されている。樹高約20m、根回り13.3m、推定樹齢は2000年だが、年輪を計算すると実際の樹齢は650~800年と推定される。根元あたりは空洞化している。地上2mのところに、島津家の家老で関ヶ原の戦いにおいて島津義弘の影武者となり、討死した阿多長寿院盛淳が彫刻した大穴牟遅神(オオナムチノカミ)の木像がある(現在は風化が進み見えにくくなっている)。子抱き狛犬。その名の通り、子を抱きかかえている2体の狛犬で、古来から安産・子授けに霊験あらたかなものと言われている。手水舎。勅使殿。参拝はここで行う。この勅使殿から、舞殿、拝殿、本殿と続く構造になっており、本殿の両脇に武内宮と若宮四所宮があり、それらに回廊が繋がるという配置で、県内唯一の造りとなっている。1173年(承安3年)に中腹の社殿が焼失後、1176年(安元2年)にこの地に遷座され、1602年(慶長7年)に島津義久の命により現社殿のものになる改築がされた。本殿、拝殿、舞殿、勅使殿、摂社は全て県指定文化財に指定されている。勅使殿の彫刻。鳳凰、鶴・亀の彫刻が見られる。授与所。本殿。神仏習合の名残が残り、仏教寺院の建築様式と似ている部分が見られるそう。可愛山陵前にあるクスノキの巨樹。可愛山陵。本殿の背後にある、ニニギノミコトこと天津日高彦火瓊瓊杵尊が葬られていると言われる場所。1874年(明治7年)に明治天皇より裁可を得て「邇邇芸尊陵」として指定され、1914年(大正3年)に宮内省(現・宮内庁)直轄となった。1920年(大正9年)に昭和天皇が皇太子の時に参拝され、1962年(昭和37年)には明仁さま(上皇陛下)、美智子さま(上皇后陛下)も参拝されている。もっとも、日本書紀によれば「久にありて天津彦彦火瓊瓊杵尊崩りましぬ。因りて筑紫(九州)の日向の可愛の山陵に葬りまつる。」という記述があり、実際の山稜は宮崎県であるという説も根強く、延岡市にはニニギノミコト御陵墓参考地がある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.09
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日本一の大鈴があることで知られる神社。御祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰。応神天皇は文武の神として知られ、勝運招来、教育、厄除け、交通安全などの御利益があり、神功皇后は安産や家内安全、武内宿禰は延命長寿の神として知られている。島津氏の始祖である島津忠久公が鎌倉から山門院野田へ向かう途中、筑前博多の沖で逆風に遭い難波しそうになった折、筥崎宮に請願して難を免れ無事生還。当社を勧請し、野田、名古浦、六月田と遷り約500年前にこの地に当社を建立したのが始まりと言われている。また一説では、1281年(弘安4年)の元寇の時に、命を受けて箱崎の津に出陣した島津久経公が筥崎宮に祈願し殊勲を博られ、凱旋の折に筥崎宮の御神霊を勧請し、国境の守護神として崇敬したと伝えられる。1587年(天正15年)に出水領主の薩州家が断絶し、出水の地は没収され、別当寺だった成願寺も破壊され衰退。しかし1599年(慶長4年)に島津義弘・家久公が朝鮮の役の功により出水の地を与えられ、復興される。明治維新後は成願寺が廃寺となり、境内も多くが上地となり社殿も腐朽が進んだが、氏子の義金により社殿が造営。その後も明治・大正・昭和と社殿の改築がされ、平成には神門と宝物鈴殿が造営され、本殿も耐震構造に改築され現在に至る。境内には伊勢神宮御鎮座二千年を記念して造られた「日本一の大鈴」と呼ばれる巨大な鈴がある。毎年3月25日に春大祭(祈年祭)、10月25日に例大祭が行われている。一の鳥居。二の鳥居。神門の前には狛犬…ではなく、出水市がツルの町ということからか、大きな鶴が置かれている。石燈籠。1853年(嘉永6年)にアメリカのペリー提督が浦賀に来航したときに、出水より11名の藩士が派遣。1名が死亡し、その後も数多の災難に見舞われるが残りの10名は無事任務を果たし帰郷。これも神仏の加護であるとして、建立されたもの。二面と三面には帰郷した藩士の名前が彫られている。手水舎。神門。1998年(平成10年)に伊勢神宮御鎮座二千年を記念して造営されたもので、「成せば成(鳴)る、大願成就の大鈴」を祈願して造られた日本一の大鈴(日本一の八幡大鈴)が掛けられている。鈴の大きさは直径3.4m、高さ4m、重量5t。重量は福岡県にある宮地嶽神社の大鈴を遥かに上回る。平和の神鐘。神馬。出水市に飛来するツルのオブジェも一緒に並べられている。撫亀。頭を撫でて健康で幸せに長寿できるように祈る。「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるが、出水の地はツルの飛来地として今も知られ、古くは綺麗な砂浜にウミガメが上がってきたとも言われる。なんとも縁起がいい地であることか。撫鶴。撫亀の隣にある。鶴神様(ツルカンサァー)。御祭神である武内宿禰をイメージして造られた像。なせばなる通り門。参道の脇に唐突に置かれている。くぐれば願いが叶うとか。願いをこめて通りましょうがんばってね(案内板より)拝殿。明治の時代に氏子の手により造営され改築を重ね、現在の社屋は2006年(平成18年)に後方25mの曳き工事が行われている。本殿。1979年(昭和54年)に改築されたもの。箱崎稲荷社。左の狐像には事業継続を願い子狐像が配されている。社務所。2008年(平成20年)に竣工されたもの。授与所。陰陽石。宝物鈴殿。敬宮愛子親王殿下(愛子さま)御生誕の記念事業として2002年(平成14年)に造営されたもの。当社に伝わる三十六歌仙や神楽面の展示がされており、直径わずか2mmの「日本一小さな鈴」もある。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.08
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撮影地:鹿児島県出水市 『出水市ツル観察センター』↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.03
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鹿児島県出水市 出水市ツル観察センターで撮影新年あけましておめでとうございます。今年も「金田政宗の旅の記録」をよろしくお願いします。↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村
2024.01.02
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