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Gauguin(1843-1903)
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【Eugene Henri Paul Gauguin(1843-1903)】
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーガン
【
マンドリンのある静物
】1885年
「タヒチの画家」は、その生涯にわたって、間歇(かんけつ)的に、かなりの数の静物画を残している。この作品は、その初期の佳作のひとつである。
1885年、ゴーガンは、ほとんど火宅のなかにいた。株の仲買人であった二十五歳前後から、ピサロをはじめ印象派の仲間との交友を通じて始まった画作への思いやみ難く、彼が、家族に相談もなく、職場を捨て、画家としての転身を決行したのは、二年前の三十五歳のときであった。
当然のことながら、画家としての自立は容易なことではなく、翌年、彼は家族と共に、逃れるように、妻の故郷コペンハーゲンに赴くことになる。そこでの展覧会も、防水布の販売代理人の仕事も思うにまかせず、その結果、妻と、その家族との折り合いも悪化したまま、彼は、幼い息子を伴って再びパリに戻り、なぜか、更にロンドン、デイエップへと、往来の激しい年であった。いたたまれぬ程の煩忙にもかかわらず、この年に描かれた、この静物画には動揺の跡はなく、むしろ、対象に対するじっくりと落ち着いたまなざしが感じられる。
翌年、困窮の中から開き直ったようにブルターニュへ出かけ、そこで、彼は、印象派からの脱皮を果たし、やがて、タヒチで開花するゴーガン世界の主な要素はすべて、この作品の中に芽生えている。
第一に、色と形の激しいコントラストである。花の赤と、バックの青との色相差の大きい対比、しばしば、それを中和するために働く「白」の役割、一方、形について言えば、変化に富んだ花のフォルムは、背景にあるピサロ風の作品の直線、直角と強いコントラストを作りながらも、机上にある花瓶敷き、マンドリン、鉢の三つの円形の繰り返しによってつながれている。
第二に、ここではいまだ輪郭線こそ、顕著ではないが、画面の平面化への方向づけが感じられる。後に、浮世絵との接触によって、この傾向は一層促進されるが、ここでは、明らかに、彼が所蔵していたこの時期のセザンヌの静物画に見られる同一方向への並列的な筆触の影響が感じられる。
この時期、確かに、セザンヌとゴーガンという二つの星は接近し、そして双曲線を描くように離れて行った。セザンヌは、冷たく燃え続けながら空間の深まりを、ゴーガンは、熱く醒めながら、平面の華麗な緊張を求めることによって、それぞれ二十世紀絵画への道を開いてきたと言えよう。
それにしても、市井の生活者を、家族を捨てさせ、文明のヨーロッパに決別を促し、終(つい)には南太平洋の島まで連れ出したものが何であったのかを思わずにはいられない。(入江観 画家)
【
三匹の子犬のいる静物
】1888年
ゴーガンのスタイルの発展に最も強い影響を与えたものの一つに日本の版画がある。卓上の静物を描いたこの絵も勝手きままな遠近法、平坦な色面、子犬や果物やグラスなどのまわりのくっきりした輪郭などに、日本の版画の影響がうかがえる。
【
豚飼いのいるブルターニュ風景
】1888年
全てを失った、妻や5人の子供たちや集めていた美術品さえも・・・、1886年ゴーガンは友人から借金をしてパリを離れ、ブルターニュの小さな村の安宿移り住んだ。この地でゴーガンは自分のスタイルを徐々につくりあげていったのである。この絵はゴーガンが従来のスタイル決別するきざしがはっきりと読み取れる作品である。画面左手、とくに明るく開花した潅木は、カミーユ。ピサロから学んだとおりの筆使いで描かれているが、画面右へ消えていく丸い丘の、日本美術を思わせる大胆で平坦な色面は、従来の彼にはみられなかったものである。
【
門
】1888年
石ころだらけのブルターニュの農場の単純なフォルムを,わびしい労働という観念と「総合化」しようとしたのである。画家は,神から才能をさずかった以上,懸命にはたらかならないと信じていたゴーガンは,ブルターニュの石ころだらけの土を耕す農民に暖かい共感を寄せていた。この「門」は貧しい農民たちとの一体感を,彼特有の象徴主義で表現しょうとした作品かもしれない。そして,彼にとっても古い道の終わりであると同時に新しい自由への道のはじまりをあらわしていたのかもしれない。
【
マイエル・デ・ハーンの肖像
】1888年
ブルターニュには、思いがけなくゴーガンに共鳴する画家が何人もいて、彼と友人になった。なかでもゴーガンはエミール・ベルナールに特に好感をもっていた。ベルナールは、ゴーガンが心に描いていた新しい様式を「事物と関係のない、事物のフォルム」という知的な言葉で表現した。この難解な文句にゴーガンはごきげんだったが、彼はあくまでも絵具のほうが得意だったから、惹かれたように仕事をした。小人の画家マイエル・デ・ハーンを描いた肖像習作でも,真理の橙,詩と哲学の本,エデンのリンゴといった明らかな象徴がとりいれられている。
【
説教のあとの幻影
】1888年
ゴーガンはブルターニュの女たちに魅了された。質素な黒い服,のりのきいた白いえり,帽子,エプロン・・・ブルターニュの女たちは,何をしていても絵画的に見えた。しかし、そうした外観以上に彼の心をそそったのは、単純でほとんど原始的といってよいような彼女達の信仰心であった。この時期のゴーガンは典型的なブルターニュの風景と女たちを宗教的なドラマと結びつけた傑作をいくつか残している。
この絵の右には僧侶がおり彼女たちはちょうど教会からでてきたところだ。女たちは,朝の説教で聞いた旧約聖書の物語の幻影をみて立ちすくんでいるのである。強いコントラストの平坦な色調と,強い輪郭で描かれたこの作品を見ると, ゴーガンがブルターニュの農民の信仰と想像力をいかに鋭く把握していたかがわかる。彼は色彩の選択にあたって,絵画的な効果ばかりでなく象徴的な意味にも気をくばっている。
【
ブルターニュの十字架
】1889年
ブルターニュ半島は早くからキリスト教の広まった地方で、それ以前には先住ゲルト民族の文化もあり、特に両者が混合して一種独特の土俗性を保っている。土地はやせており、言葉には強い訛(なまり)があり、だが人々は古い伝統を守って、パリから流れてくる近代文化になかなかなじまない。
この地方の大西洋側で、ロリアンのやや西の海岸にル・ブールデユがあり、さらに西方でアヴェン川の河口にポン=タヴェンがある。いずれもゴーガンとポン=タヴェン派に親しい場所で、人口は千人前後、要するに小村だが、そのほうが生活費が安くてすむので、画家たちにとってはありがたいのである。
さて、ここに図示した作品はポン=タヴェンの西北2キロメートルにあるニゾンの石像を描いたものとされている。ニゾンの広場には長大な十字架が立ち、画面からもうかがわれるようなピエタ像がその基部にある。いずれ中世彫刻のひとつには違いないが、その制作年代や技術的な巧拙などはゴーガンにとっては重要でなく、むしろ悲痛さの素朴な表現が彼の胸をうったのであろう。
幸いにもゴーガン自身の文章がこの作品を説明している。まとまった文章ではなく、名刺に書かれたメモである。「カルヴォリオの丘、冷たい石、彫刻家はそのブルトン魂を通じて宗教を説明する・・・・・・すべてをブルターニュの風景の内におく、つまりブルターニュの詩情がその出発点にある・・・」
画面ではキリストの遺体と三人の人物からなる石の群像が右側におかれ、背景には十字架の柱が見える。前面にはこの地方独特の帽子をかむった女性が腰をおろして休息し、左側下方では奥に入ってゆく女性がその背面をみせ、さらに遠くでは何かをかついで海辺から戻ってくる男がいる。遠景の丘でのんびりと草を食(は)んでいるのは牛のように見えるが、先にあげたゴーガンのメモには「おとなしい羊」という表現もある。
このようにしてゴーガンは海沿いの寒村で宗教を考え素朴で土俗的な生活に触れ、しだいに文明と野蛮という対立関係について深い考察をこらすようになった。彼がその結果どちらを選択したかは既に周知のことで、タヒチやヒヴァ・オアで描かれた数々の名作は彼のブルターニュ体験なしには生まれなかったとさえ言えるであろう。(池上忠治 神戸大学教授)
【
美しいアンデール
】1889年
ブルターニュふうの衣装をつけた若い女の肖像。ゴーガンは、この絵を、つけで食事をさせてくれたカフェの店主夫妻に対する感謝のしるしとして制作した。しかし、この人物は店主の妻アンジェールにまったく似ていなかった。そのうえひだりての奇妙な人形は、背が低くて醜い店主を戯画化したもののように見えた。当惑した夫婦は、ゴーガンの感謝の贈り物を遠慮することにした。
【
黄色のキリスト
】1889年
ゴーガンの最高傑作のひとつの,この「黄色のキリスト」でも,象徴と現実は美しく溶けあっている。野良着を着た農婦たちが戸外の十字架のそばにひざまずいている。これはキリストの磔刑の場面そのもを描いているのだろうか?と、思わせるほど,女たちの祈りを描くゴーガンの表現は感動的である。ブルターニュ時代の最高の収穫となったこの絵は,技術においても主題においても,のちに南洋諸島で制作される傑作の前ぶれをなすものである。
【
斧を持つ男
】1891年
1891年春,ゴーガンはかって訪れたことのあるタヒチへ船出した。それまでの数ヶ月というものは、彼は制作に疲れ,財政的不安におびかされてほとんどなにも制作していなかった。首都パペーテに着いた彼は,この町があまりにも文明化されていることに失望して,さらに奥地へはいっていった。そこには彼の制作意欲をそそるたくましい男女がいたし,彼を魅了する古代神話や迷信も生きていた。彼は18ヶ月ほどの間に,およそ65点の油絵を完成した。
このタヒチでの最初の作品にはまだ,人物やフォルムのステンドグラスふうな輪郭にはブルターニュ時代の特徴が残っている。しかしゴーガンは年来の持論である色彩の「総合的」用法を追求している。感情や思想の象徴として使っているのである。
【
アレアレア―楽しいとき
】1892年
連想ゲームではないが、ゴーガンと言えば、人はすぐにタヒチを思い起こし、タヒチと聞けばゴーガンに結びつけるであろう。
私もまた、タヒチについてゴーガン以外に何を知っているかと言われれば返答に窮する。
一人の画家が、ほぼ一世紀に渡って、南海の島の名を世界に広め続けてきたというような事例があるだろうか。無論、そんなことはゴーガンの望外のことであったに違いないが、彼にとってタヒチとはいったい何であったのか。
ことごとく意のままにならぬヨーロッパの生活の中に妻子を残して、ゴーガンが憧れのタヒチにたどりついたのは1891年の春である。南国への憧れは、直接的には1889年のパリ万国博を契機にして高まったと思えるが、幼時のペルー滞在、少年時の水夫としての南米航海の放浪体験が下地にあったに違いない。
「アレアレア―楽しいとき」と題されたこの作品は、その翌年に制作されたものだが、タヒチ着後も健康を損なったり、決してすべてが順調とは言えない中でも、火宅から逃れた開放感と喜びにあふれ、彼の中に内蔵されていたものが一気に花開いている。
二人組みの人物はなぜかゴーガンが繰り返し取り上げたテーマだが、ここでも二人の女を中心にすえて、立木を副軸になだらかな曲線をからめた構図は、三十号ほどの画面を桃山障壁画のようなおおらかなスケールに見せている。激しいほどの原色は、ここに来てためらいなく流れ出した原始の詩(うた)である。衣服とそのまわりの説明のつかない浮遊物の白は、ゴーガンその人の優しいかげりであろうか。画面左の犬から上に向かって明暗、明暗の平面対比で繰り返される東洋的遠近法が見られ、同時に犬の首によって右側に方向づけられた画面の連動は右上の小道によってまた左にかえされて主役の人物を取り巻いている。
ゴーガンの魅力はその作品がしばしば文学的、象徴的角度から意味づけされる要素を十分に持ちながら、決してそれに流されてしまうことのない色と形の堅固な造形的骨格に支えられているところにあるのではないだろうか。
ゴーガンのタヒチ行きを、ヨーロッパ文明とその現実からの逃避と言うことはやさしい。確かにそう言わせる状況はそろっていた。しかし内奥にあって彼を突き動かしたものは逃避ではなくて積極的な選択ではなかったか。だからこそ、私達は、そこに「文明とは何か?」という問いかけを聞くのだ。
私達にとって生きるということが「おのれ自身の場所」を探すことであるなら、ゴーガンはタヒチで確かに生きたと言えるに違いない。(入江観 画家)
【
フタタ・テ・ミテイ海辺にて
】1892年
タヒチ滞在中にゴーガンは,色彩をますます色彩の輝き自体のために用いるようになり,あたかも作曲家のように抽象的かつ音楽的に色彩を使うようになった。現に彼の友人のある詩人は,「音楽詩であり,台本など必要としない作品だ。」と述べているのはおそらく、この絵のことであろうと思われる。
ゴーガンはまた,自分が知り愛するようになった「野蛮人」の精神生活にも興味をいだいていた。彼はポリネシア人の伝承や信仰,さらには生の神秘に対する自分の感情に深く分け入ろうとした作品も残している。
【
ブルターニュの農夫
】1894年
近代絵画の地平をひらいた画家たちの伝記をたどる時、私たちはしばしば心痛む場面に出会うことを避けようもない。その先駆性の故に、ひたすら自分の内側に眼を向ける者と「世間」との乖離は深まり、悲劇はすでに宿命的であるからである。
1894年、ゴーギャンの心境を私は代弁しようもない。前の年、二年間のタヒチでの成果をひっさげてゴーギャンはパリに戻って来た。画壇的評価の上でも、経済的成果の上でも、期するところのあった展覧会は、ドガや大画商デュラン=リュエルの肩入れにもかかわらず、ほとんど失敗に終わり、年が明けた春、ジャワ女アンナを連れて出かけたブルターニュで、水夫たちとのケンカで足の骨を折るという事故に巻き込まれ、入院中に、今度はアンナに家財ぐるみ逃げられる始末である。この絵が描かれたのはそういう年である。タヒチへの再出発を前にしてゴーギャンは深い諦念(ていねん)の中にいたのかも知れない。
なだらかな傾斜地に農夫が二人立っている。左の窪地に働く男が一人、緑の斜面に腰をおろした二人の女が見える。ゴーギャンの絵としては、ギラギラしたものがなく、シャパンヌを思わせるほど不思議な静けさが画面を支配している。
人物や木立の直線に、ゆるやかな曲線をからませた落ち着いた構図の中で、色彩が穏やかなハーモニーを奏でている。ゴーギャンの物の説明ではない、それ自体が主張をもった色の美しさの秘密は何なのだろうか。この絵も全体的に暖色系の豊かな印象を示しているが、美しさのカギは、暖色に対比する寒色の巧みな配置と、美しいコントラストを中和する白のなかにあると思われる。同時に、農夫のスカート、道、屋根、木立等の一口に赤とよんでよい同系色の豊富さにもあると言えよう。手前の地面の枯色、遠くの草地の緑色にも同様のことが言える。
第一次タヒチ滞在を経て、一層確定的になった画面の平面化は、その直接的動機を浮世絵版画に負うていることはしばしば言われることであり、そのことに恐らく間違いはなかろう。
ゴーギャンにとって描くということは、物の存在を確かめるということであるより、与えられた形、あるいは枠の中に形や色をはめ込んで空間を作っていく楽しみを求めることではなかったかと思う。それは必ずしも日本美術にだけに与えられた特性ではなく、ゴシック、ロマネスクの美術をたどって、もっとさかのぼったところから発してゴーギャンの内部にまで流れついた人間の本性とも言うべきものが、浮世絵によって目覚めさせられたと言うことであったに違いない。
だとすれば、私たちを長い間とらえてきた「遠近法」というルネサンス流の空間表現が、束の間の一方法にすぎなかったことにも、私たちはようやく気づかねばならないのかも知れない。(入江観 洋画家)
【
ネヴァーモア
】1897年
ゴーギャンの絵と彫刻の実物を、私はそれほどたくさん見ているわけではないので、あまり決めつけたようないい方はできないけれども、タヒチの絵に出てくる人物をみていると、彼の作った彫刻よりも私にはもっと彫刻らしく見えることがある。
彫刻の処理の仕方がやはり絵を描く人の仕事だなと思えるのに、絵のなかに単純化されたフォルムの人物達に逆に、彫刻的な処理を感じさせられるからである。
文明に侵食されないで、自然の中に生きてきたタヒチの人々の体形や色の素朴さも手伝って、私にはそうみえるのかもしれないが、ゴーギャンの描く人物には、抑制をきかせて整理された彫刻的な雰囲気を感じるのである。
私は以前、この絵の5年前にゴーギャンが描いた『死霊がみている』という題の、伏せた女の絵のことを書いていたことがある。私はその絵に大変彫刻的な触発を受けて、似たようなポーズの彫刻を手がけてみたり、タヒチの女に似た体形の人に出会ってモデルになってもらったりしたことがあった。が、見事ゴーギャン様に平手打ちをくらわされ、自分の浅はかさを思い知らされて終わったことがあった。
『ネヴァーモア』を語るのに私ごとになってしまったが、これらのゴーギャンの横臥の絵は、敬愛していたマネの『オランピア』に深い示唆を受けたということである。そういわれてみれば『死霊がみている』も、この絵も『生誕』という似た構図の絵にも、必ず背景に人物を配し、『オランピア』に光った目の黒猫がいるように、ゴーギャンも何かの動物を登場させて一種不可思議といおうか、神秘的な空気をかもし出させている。
しかし、そういわれてみなければ『オランピア』など思い出すこともできないほどに、ゴーギャン風にしてしまっているあたりは、さすがというものであろう。
土の香りの色彩を与えられた裸婦は、更に暗い室内の影の中に横たえられているが、二人の女と窓に鳥を置いた背景は、南の青い空の空気を入れて重い画面を抜いている。
交流も影響もあったにちがいない印象派からの脱出を試みているゴーギャンは、薄明るい敷布のこの裸婦の両端に、思い切った黄と緑と紅の対比を見せている。下手をすると画面の品格を左右しかねないこの色彩構成が、この『ネヴァーモア』の画格を逆に高めているといっても過言ではなかろう。ゴーギャンが独自のスタイルで歩み続けたゆえんであろう。(佐藤忠良 彫刻家)
【
白い馬
】1898年
『白い馬』と題されているが、木かげの光りのなかで馬は緑色である。タヒチでこの作品を描いたとき、注文主のミロー氏なる人物は叫んだそうである。「なんと馬が緑色じゃないですか、そんな馬がいるはずがない!」
ゴーギャンは静かに答えた。
「ミローさん、午後おそくなってから、ベランダでロッキング・チェアに座って、自然の中での光りの移り変わりを嘆賞し、目を半分閉じて気持よさそうにしているときなど、なにもかも緑色に見えるのをごらんになったことがないのですか?」
結局、ミロー氏なる薬局店主は、絵を鑑賞するのに午後おそくなどという制限つきでは困ると考えて、別の絵のために金をはらったという。
馬が緑色なのは、午後おそくの日差しが樹間にゆきわたらせる蒼(あお)い光りのせいだけではないように私には思える。この静かで蒼ざめた画面には、ゴーギャンの心理的状況も反映しているようである。貧困、パリに送る絵のほとんどが売れないでストックされている状態、そしてアルコール、アブサント、悪化している足の湿疹、そうした状況のなかで、この年の初め、彼は砒素剤による自殺を試みている。自殺は失敗に終わり、食べてゆくのにそしてかかえ込んだ借金を返済するために彼は就職する。パペーテのコ公共職業安定所のような役所の臨時やといで、日給で、休日や日曜は無給である。食べるのがやっとという給料でしかない。そして画作にはげめるのは、無給の日ということになる。しかし、いったん自殺を試みて失敗したあとの、いわは深く沈み込んだ心は、ただ画面のなかにのみ、静かな蒼ざめた心境を託することができた。そのような蒼さを、この馬の絵に見てほしいのである。
タヒチは、南海の明るい島だが、大きな火山のふもとの樹林は、思いがけなく深く暗い。ゴーギャンが砒素をのんで横たわったのも、こうした樹林のなかであった。ベランダの揺りいすに座ってではなく、樹林のなかに横たわったとき、もっとすべてが蒼ざめて見えただろう。白い馬はゴーギャン自身である。そのように見るなら、この絵は、造形的にみごとに組み立てられているだけではなく、ゴーギャンの心象の恐ろしいほどの静寂と深さをたたえたものとわかってくる。後景に、馬に乗っている裸の原住民たちの姿も見える。それも、遠ざかってゆくものを見守る寂しさを暗示するかのようである。(中山公男 美術史家)
【
マンゴの花を持つタヒチの女たち
】1899年
ゴ-ガンは、コルセットで身体を締め付ける浮薄なパリジェンヌをみても、まったく描く気にはならなかったが、動物的な優雅さと奔放な肢体を見せるポリネシアの女の魅力から、死を迎えるその日まで逃れられなかった。彼女達の美しさをたたえたゴーガンの作品は数知れないが、この作品もその中の一点である。
【
池のほとり
】制作年次不詳
2
1
2
1
2
引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
日本経済新聞「美の美」(別刷り)
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