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Lautrec(1864-1901)
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【Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)】
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
1880年代末の歓楽と罪の都としてのめまぐるしい時代のパリの風俗をアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの作品は、鏡のようにうつしだしている。13歳のときに床に転んで右脚を折り、翌年、溝に落ちて左脚を折った。両親は彼の足の治療のためにあらゆる方法を試みたが、全ては徒労に終わった。以後、ロートレックの足は発育することを忘れて、成人後も身長は142センチしかなかった。貴族の息子であるロートレックは、この足を引きずりながらステッキをついて歩き、ときには車椅子で出歩いた。彼はダンスホール、売春宿、カフェへ足げく通い、大酒を飲み、しゃべったりスケッチしたりしながらパリの夜を明かした。人体の動きに魅せられて、サーカスやスポーツ催しや劇場などに入りびたった。そうした激しい動きを、彼は油絵や版画や水彩画、さらには彼に名声をもたらしたポスターなどでとらえたのであった。そして彼はその放らつな生活の代価としてか、ファン・ゴッホと同じ37歳で輝かしく短い生涯を終えた。
【
フンセント・ファン・ゴッホの肖像
】1887年
カフェのテーブルについているフィンセント・ファン・ゴッホ。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが、知り合った翌年に描いたパステル画である。年下のロートレックは、すでに彼なりに完成された画家であったが、ファン・ゴッホの力強さ、激しさに影響を受けたように思われる。この絵に見られる大胆な色彩や細かいケバのタッチにも、その影響がうかがわれる。
【
テーブルの前の女
】1889年
【
ル・デイヴァン・ジャポネ
】1892年
ル・デイヴァン・ジャポネという経営不振で苦闘中のミュージック・ホールのポスターには、当時まだ無名だった踊り子ジャヌ・アヴリルの繊細な美しさに焦点がしぼられている。客席にすわっている彼女を道楽者の老音楽評論家エドゥアール・デュジャルダンがうっとり見つめている。ステージで首から下だけを描かれているのはショーの花形、人気歌手のイヴェット・ギルベールである。気のきいたポスターかいもなく、このミュージック・ホールは間もなく閉店した。
【
ラ・グリュのムーラン・ルージュ入場
】1892年
ロートレックとモンマルトのダンスホール、ムーラン・ルージュとは切っても切れない関係にあった。かれはこの店の常連だったし、ここを舞台におよそ30点の絵を描いている。彼はムーラン・ルージュでくりひろげられる生活の本質をみぬき、ここで働く人びとに焦点を合わせて描いた。この絵は花形の踊り子ラ・グリュが高慢な態度でムーラン・ルージュにはいっていくところ。彼女と腕を組んでいる2人の芸人のうち、肉付きのよいほうがラ・モール・フロマージュである。
【
窓辺の女
】1893年
夭折(ようせつ)する画家の多くがそうであったように、トゥールズ=ロートレックも初めから自己のスタイルを持って美術の世界に登場した。モンマルトにアパルトマンとアトリエとをかまえるようになった1887年ごろには、すでに独特な線画による個性ゆたかなスタイルを確立していた。そしてそれは死ぬまでほとんど変わらない。
ロートレックの短い生涯の画歴のなかにわずかばかりの変化を見つけようとすれば、主題のうえでのそれであろう。その時々の画家の興味にしたがって、いくつかのテーマに作品を区分することが出来る。「窓辺の女」と題されたこの作品は、1893年という制作年から判断すると、娼婦を描いたのかも知れない。ロートレックはそのころから、アンポワーズ街やムーラン街の娼婦の家に出入りし、ときにはいつづけたのである。数年の間に、娼婦ないしは娼家をあつかった五十点あまりの油絵、無数のデッサン、それに版画が制作された。
貴族の家に生まれながら、肉体的な不幸を背負っていたために、ロートレックは紅灯の巷(ちまた)に安らぎを見いだそうとしたのだろうか。世紀末のパリの街で歓楽を求める不幸な貴族の末裔(まつえい)の姿に、退廃のにおいを感じるのは故なしとしない。
しかしロートレックは、そうした自分の姿を客観的に観察するもうひとりの自分の存在に気づいていた。遊蕩(ゆうとう)に惑溺(わくでき)するにはあまりに醒(さ)めていたのである。
しかしまた、醒めた目で娼婦たちの姿を辛辣(しんらつ)に記録するにはロートレックの心は優しすぎた。伝説とはことなり、彼の本質は傲岸(ごうがん)でも皮肉でもない。貴族的というなら、それは対象とのあいだの距離の感覚に敏感であったにすぎない。娼婦の日常生活のひとこまを描いたと思われるこの作品は、ロートレックのそうした複雑な感情が造形的な手腕によってみごとに昇華された一例である。
窓辺に座る女の顔はほとんど見えない。洗い髪のような赤毛と白いゆったりとした上着が、画面に無為で怠惰な生活をかもし出す。
一方、背後の水差しや洗面器の幾何学的な曲線や、洗面台や棚の直線が、構図に安定した枠組みを与えている。青・緑・紫でアクセントをつけられた淡い暖色系の色調のハーモニーが、この散文的な日常生活のシーンを一遍の詩に変容させる重要な役割をはたしている。もはやここでは、モデルは娼婦であることをやめ、夢幻の世界の住人のように見える。(島田紀夫 実践女子大学教授)
【
ムーラン街のサロンにて
】1894年
「あの人は、今日は来てくれるだろうか?」
「ゆうべの男は、本当にいやらしい奴だった。もう、あんな男だけはころごり・・・」
夕ぐれ時の娼家の広間には、かりそめの平穏がまどんでいた。ある種の疲労と、倦怠と、そしてその何十分の一かのささやかな期待と。いま女たちは、なんともいえぬ自然な、解放された姿を見せている。しかし、もし一人の嫖客がドアを押して踏み込んでくるようなことがあったら、その瞬間に、彼女等の表情もいっせいに変わってしまうであろう。ここに描かれている風景は、多くの男達にはのぞく見ることの出来ない「女の館」の素顔なのである。
アンリ・ド・トウールーズ・ロートレックは、十九世紀末葉のモンマルトルに、華麗な、しかし影の濃い花を開かせた孤独な画家である。
南仏アルビの生まれ。中世フランス王家の血をひく、貴族の家柄の出である。十三歳のとき、床に転んで脚を折り、翌年、溝に落ちて左脚を折る。両親はアンリの脚の治療のためにあらゆる方法を試みるが、すべては徒労であった。以後、彼の脚は、成長することを忘れた。大人になっても、身長150センチ。
少年時代からデッサンの才能を認められていた男は、十八歳の時パリに出て、やがてモンマルトに住み着いてしまう。「ムーラン・ルージュ」が出来たのが89年秋のことで、彼はその店で昼夜を分かたず女達の姿を写す。「踊るジャンヌ・アヴリル」「イヴェット・ギルベエル」など、この男に描かれた女の数はかぞえきれない。
ムーラン街に娼家が誕生すると、またそこへ入りびたる。客というよりは女たちの恋人であり、その家の家族の一人でもあるような、――こういう立場に自分自身を置くことが出来たのは、多分、彼が女たちに愛されたからであろう。エレガントな風貌の持ち主だが、奇型である。世間には、背を向けていた。「地獄へ落ちた男」というような非難の中で、ひたすらに女の美と悲しみとを追求した。そして「地獄」の中に、個性的な美を構築した。印象派等は見向きもせず、やがて興ろうとしていたフォーヴにも、傾くことなく。
「ムーラン街のサロンにて」は、ロートレックの代表作の一つである。それにしても、なんと確かな線であろうか。なんと正確に捉えた、女の「いのち」であろうか。裾の長い服の女は、この家の女主人、他の娼婦たちの中にも、この絵のために名前の残った女が二、三人はいる。(沢野久雄 作家)
【
ピガール広場9番地セスコー写真館
】1894年
19世紀の最後の20年間、パリではポスターや雑誌の表紙などの印刷美術が美しく開花した。これは主として石版画が再認識されたためである。ロートレックをはじめ多くの画家たちは、日本美術の影響もあって、強烈な色彩と太い輪郭による大胆なデザインを作り上げた。斬新なデザインと気のきいたユーモアあふれたロートレックの力強いポスターや表紙は、街角や売店で注目の的とまった。この広告では、彼は仕事中の注文主の写真家を軽く戯画化している。
【
ラ・ルヴ・ブランジュ
】1895年
この、隔月刊の文学雑誌の表紙では、ふざけてこの雑誌の創立者の妻をモデルにしている。
【
女道化師シャ=ユ=カオ
】1895年
ロートレックとモンマルトのダンスホール、ムーラン・ルージュとは切っても切れない関係にあった。彼はこの店の常連だったし、ここを舞台にしておよそ30点の絵を描いている。彼は、ムラン・ルージュでくりひろげられる生活の本質をみぬき、ここで働く人びとに焦点を合わせて描いた。楽屋で着付けをする女道化師シャ=ユ=カオを描いたこの絵では、壁の鏡の中に彼女の恋人らしい年配の男が描かれている。
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【
楽屋のシャ・ユ・カオ
】1895年
「ムーラン・ルージュ」の楽屋で出番のため身支度をする女道化師のシャ・ユ・カオの姿。彼女が身をよじって身につけようとする黄色い大きなひだ飾りは、ちょっとみると短いスカートのようだが、これは首のまわりにかける飾りである。
髪の毛はかつらかそれとも染めてあるのか、ほとんど白にちかい色で、やはり流行のまげを上方につっ立て、先の方にリボンを結んでいる。色彩は実に鮮やかな紫や黄、赤や青などの補色を使って生き生きと輝いているし、筆致も大胆である。だが、なんといっても、日常のなにげない動作を的確にとらえ、しかもそれを後ろ姿で描写している目の鋭さがすばらしい。
モデルのシャ・ユ・カオについては詳しいことは分かっていない。最初、「シルク・ヌーボー」という曲馬団で道化役としてデビューし、やがて「ムーラン・ルージュ」に引き抜かれ、踊り子、道化役として、やはりロートレックの筆によって不朽の名をとどめた踊り子、ジャヌ・アヴリルやラ・グーリュたちとともに画家のお気に入りの一人になったらしい。
1880年代末に開店した「ムーラン・ルージュ」は、90年代まさに全盛期にあった。単なるダンスホールであった「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に代わって、コーヒーも酒もダンスもショーもあり、そのダンスや歌には、ある程度以上のユーモアもエロティシズムも盛り込まれ、ときに女たちとの情事も期待できるいわゆる「カフェ・コンセール」の大型店である。
当時のある識者は、こうした「カフェ・コンセール」を「19世紀最大の発明」とさえ語っている。とにかくおしのびの王族や大ブルジョワリーから、貧しい作家、知識人、画家たちにまで愛された店であり、ロートレックは専用の席を持ち、数十点の油彩をここで描いている。
ところで、日常のなにげない動作やしぐさ、それも寝室や浴室や楽屋でのしぐさのなかに、女たちの生きている姿を見いだしたのは、ロートレックのいわば師匠であるドガであり、そして二人が共通して学んだのは浮世絵であることは、今さらいうまでもない。ロートレックはかなり真剣に浮世絵を研究し、他方、自宅では友人たちと、「忠臣蔵」ごっこをするほど日本びいきだった。しかし彼の描く女たちがドガと大きく異なる点は、ロートレックが、女たちの個々のしぐさのなかに女たちの個性まで見いだした点にある。観察の鋭さだけではなく、女たちへの関心や愛がそれをとらえさせたといえるかもしれない。(中山公男 美術史家)
【
ムーラン・ルージュのシャ・ユ・カオ
】1895年
十九世紀の後半、シャユ踊りという動きの激しい騒々しい踊りが流行した。パリはモンマルト界わい、ダンスホールやキャバレーの中でもトップクラスの店、有名な“ムーラン・ルージュ(赤い風車)”でも、夜ごと、この演(だ)しものがあった。ロートレックが描いた、踊りがうまく軽業もできるこの女道化師の名前は、一見中国流だが、もとをただせば、シャユ踊りからとったものである。
カオはカオス(渾沌=こんとん)のこと。いかにもばか騒ぎな踊りを形容したものだが、そのダンスの名称をそっくりもらってつけた名前の持ち主は、その世界のトップ・スターの一人といえる。
“ムーラン・ルージュ”のフロアで脚光を浴びた華やかな女道化師。
だがロートレックが描いた彼女の姿は、舞台やフロアの真ん中で演技しているところではない。パートナーの太ったガブリエルに手を引かれて、楽屋に行くのか舞台に出るのか、客の間をそぞろ歩くところが描かれている。
おしろいの厚化粧、真っ赤なルージュ、道化の衣装――幕あいのひとときには、衣装もメーキャップも、この女には何の意味もない。仮面が仮面であるのは、演技のときだけで、舞台を離れれば、媚(こ)びをうることも笑わせることもいらない素顔の姿にもどれればよいものを、店の中では、楽屋でも幕あいでも、素顔にはなれない。パートナーに引かれる姿には、いやいや連れていかれるという感じもなければ、人を探しているという顔でもない。ただ彼女はよそみをしながらゆっくりとついていく。それがせめてもの自我の時間をとりもどすポーズでもあるかのように・・・。
画家ロートレックは、幾度となくこの女道化師を素描し油彩画にもしているにもかかわらず、ステージやフロアで名前通りに激しく踊りまわる彼女は一度も描いたことはなかった。人前で浮かれ大げさな身振りでときにはヘマをしてみせる――そんな道化師の演技が、“演技“にすぎないことを、ロートレックは知っていたにちがいない。たしかにロートレックは根っこから踊りが好きな踊り子の名手を描いてはいるが、それはそこに真実の姿があると認めたからだろう。
だが、シャ・ユ・カオの場合、毒々しい仮面の蔭にある何かを、見抜こうとしている。休息したりぶらついていたりしているときにふと示す飾り気のない表情や身振りに、真実の姿を探り出そうとするのである。画家の素早い描線は、束の間の真実を盗みとる素晴らしい武器であった。(黒江光彦 美術史家)
【
ル・ラ・モールの女(特別室にて)
】1895年
世紀末のモンマルトは、パリきっての夜の盛り場だった。後にイギリス王エドワード七世となるウェールズ公やトルコ大公などはおしのびで遊ぶし、成り金でも貧乏人でもそれなりの遊び方ができた。そうした客を受け入れる店がさまざまな工夫を凝らすのも当然のことで、ムーラン・ルージュ(赤い風車)やシャ・ノワール(黒ねこ)が各種のショーに工夫を凝らしてきそいあった。このようなモンマルト風俗の華麗と退廃をみごとに描いたのがアンリ・ド・トゥールズ=ロートレックである。
ここに登場するのはリュシー・ジュールダンという女性で、素性のまともな人物ではない。ロートレックはレスビエンヌたちが出入りすることで有名だった、ブレラ街の酒場、ラ・スーリ(小ねずみ)に住みついたことがあり、リュシーもこの店の常連だった。二人は既知の間柄だったと思われる。
この絵はW男爵の注文で描かれたという。この正体不明の人物がモンマルトに遊ぶときのお相手はきまってリュシーで、それほどに彼はこの玄人女を気に入っていたことになる。場所はピガル広場に近いナイトクラブのル・ラ・モール(死んだねずみ)で、その特別室、つまり、二人きりで飲食のできる部屋である。とすれば、この画面でリュシーの隣に座っていて顔の見えない人物はW男爵以外のだれでもありえない。
この絵は1899年の秋に描かれたらしい。黄と緑と黒のよく効いた画面のなかで、さらにリシューの口紅の赤、左下の洋梨の尻の赤さがきわめて退廃的な異彩を放っている。この年の春、画家はアルコール中毒と不摂生による錯乱のため二ヶ月以上も入院していた。結局はそれらが原因となって早逝するのだが、この作品は画家の体がやや小康状態にもどっていた時期に描かれたと思ってよいようである。
ロートレックは上質の酒しか飲まなかったという。その氏素性から考えても当然のことである。だが、酒量が並外れていた。彼はいわば人生に絶望しており、これに由来する酒癖はなしくずしの自殺でしかない。しかし逆に言えば、夜のモンマルトに住む“人間獣”たちの生態を活写できるのは、そうした男の冷徹な目と天才的な腕の冴えとだけだった。この悪所の風俗を描いて今なお歴史の評価に耐える作品は、ほとんど彼のものだけだと言っても決して過言ではない。(池上忠治 神戸大学助教授)
【
競馬騎手
】1899年
ロートレックは生涯を通じて馬を愛した。肉体的欠陥のために乗馬は出来なかったが、巧みな乗り手だった父のお供で馬場へ通った少年時代から大の競馬ファンであった。この石版画では、ダイナミックな線と構図で馬と騎手が力強く表現されている。
【
石版刷りの招待状
】1900年
ロートレックはパーテイと冗談を愛した。これは、1900年に彼の画室で催された集まりのときに使われた石版刷りの招待状で、次のように記されている。「5月15日土曜日、午後3時30分ごろ、ご来駕のうえ、一杯のミルクを共にしていただければ幸いです。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。」彼は拍車をつけ乗馬むちを持って、大きな乳牛の前に立った自画像を描いている。そのパーテイではミルクも出されたが、バーでふんだんに強い酒も飲むことが出来た。
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引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
日本経済新聞「美の美」(別刷り)
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