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Murillo、(1617-1682)

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【Bartolom? Esteban Perez Murillo、(1617-1682)】
バルトロメ・エステバン・ムリリヨ
ムリリョ1650-55ごろ聖母子像
聖母子像 】1650年~1655年ごろ
石のベンチに座る清楚で優美な若い母親、その両腕に支えられ、右手を母の胸にそっとしのばせながら立つ愛くるしい幼児。どこか高貴でありながら、見るものに心の安らぎと親しみを感じさせる母子像である。そしてもし、幼児の頭上にかすかな輝きが描かれていなかったなら、また母親が赤と青の衣服を着ていなかったなら、ややロマンチックに理想化された現実の母子像と思っても不思議でないほどの、自然らしさを持っている。
しかし、幼児のかすかな後光に注目し、赤が神の愛を象徴するルビーの色で、青が貞節もしくは神の真理を象徴するサファイアの色、つまりマリアの色に気付く時、これが聖母マリアと幼児イエズスを描いた宗教画であることを知るのである。
十七世紀後半のスペイン絵画を代表する宗教画家ムリーリョは、当時のスペインで熱狂的な高まりをみせたマリア信仰の中心主題であった『無原罪のお宿り』の画家として有名である。しかし、同じくマリア礼賛の主題の一つであり、子育てに迷う母親に希望を与える力を持った『聖母子像』も『無原罪のお宿り』に劣らぬほど数多く描いている。
当時のスペインは、プロテスタントの宗教改革に対するカトリックの対抗宗教改革運動をもっとも熱心に推進していた。そしてプロテスタントを異端と宣告したトリエント公会議(1545-63)が発布した宗教美術にに関する教令が要求した「一般信徒に分かりやすく、信仰心を呼び起こすような聖像」にもっとも忠実だったのもスペインである。この『聖母子像』も、そうした宗教画の典型的な一例であり、聖母マリアと幼児イエズスが、信者に対して静かなしかし熱意に満ちたまなざしを注いでいるのが注目される。
ムリーリョは十九世紀以前のヨーロッパ大陸に知られた高い評価を受けた唯一のスペイン画家であった。スペイン絵画をヨーロッパに紹介する契機をなしたのがナポレオン軍による掠奪(1803-13)だが、その主要対象となったのもムーリリョの作品だった。
彼の名声は、ロマン主義と共に最高潮に達したが、その反動で、二十世紀に入ると不当に過小評価されることになる。
しかし、本図の軽快な構図、正確なデッサン、わずかな色による豊かな色調、自信に満ちた伸び伸びとしたタッチ等を見ただけでも、ムリーリョが、いわゆる甘美なだけの画家ではなく、十七世紀バロック絵画に大きな位置を占める画家であることが分かるのである。(神吉敬三 上智大学教授)
ムリリョ1675ごろほほ笑む少年
ほほ笑む少年 】1675年ごろ
少年が窓台にもたれかかっている。頭と肩が陽光に映え、髪はきれいに刈り上げられているが、みすぼらしい服装で、ちょっとした腕白小僧といったところ。その彼がいかにも嬉しそうにほほ笑んでいる。
なにを見てわらっているかは分からない。ここには見えないなに物か、あるいは誰かが彼を面白がらせて笑わせているのである。作者は少年が面白がっている理由を説明していない。そして、そこにこの絵の魅力の一つがひそんでいる。主題の意味を完全に理解するには、みるものが想像力を働かせなくてはならないからだ。ある意味では、少年のほほ笑みがこの絵の主題そのものとなっているのである。
この絵を三百年以上前に描いた画家の名は、パルトロメ・エステバン・ムリリョといった。スペイン南部のセビリアに生まれ生涯をそこで過ごした。当時のセビリアはスペイン最大の都市で、北米、南米に生まれたばかりのスペインの巨大植民地との交易を独占して繁栄を誇る港町であった。新世界のアメリカ大陸から毎年二回、銀を積み込んだ護送船団がやってきて、その銀は王国造幣局で鋳造され、それによる繁栄がオランダ、英国、イタリアなどからの国際的な商人たちをこの町にひきつけたのである。スペインの貴族や教会などの宗教団体はきわめて裕福だった。そして彼らの為にムリリョは彼の最大傑作に属するいくつかの作品を描いている。
だが、当時の社会の裏側の果てには恐ろしいほどの貧困があった。こじきや浮浪人、それに解放奴隷といった連中が、あるいは物乞いにあるいは行商人として糊口をしのごうとして、セビリアにむらがり寄ってきた。
この絵の少年はそんな貧困階層に属している。ムリリョが同様に人物像を描いた身なりの貴族階級とは違って、この少年は自分を描いてもらうための代金を払えるわけはないし(むしろあわれみをこうたのであろう)、記憶にとっておくために描いてもらったのでもない。おそらくはある金持ちが自分のコレクションに入れようとして買った絵であろう。少年の名は分からないが、ムリリョは意識的にこの浮浪児を選んだとみられる。あれほどのせん細な神経の持ち主だった画家が、これほどいやしい題材を描いたことはかって一度もなかったのだが、それでいていささかの感傷もまじえずにムリリョはこの少年に貧乏とは関係ない品位を与えている。
構成は単純、それでいてち密である。窓台は額縁の線と完全に平行していない。後ろ向きに傾斜させている。これによって、見るものの目を右側に、つまり少年の見つめている方向にもっていく効果をあげている。少年の頭部と両肩が三角形をなし、光はほおとはみ出した肩の部分に照り映えている。技術的に非のうちどころがない。
最後にもう一度、主題そのものに戻りたい。ほほ笑む少年は貧乏にもかかわらず、生命と希望にみちみちている。これこそは真に心のあたたまる、人生を豊かにさせる作品である。(ジェーン・マーティノ イギリス、ロイヤル・アカデミー会員)
ムルリョ1679-80ロザイオの聖母
ロザイオの聖母 】1679年~1680年
ムリリョ(1617-82年)のこの作品は、十七世紀中ごろの南ヨーロッパの人々が、どの程度の深さで芸術作品を鑑賞していたかを知る格好の例である。三百年もの昔に人々から賞賛されたと同じ理由で、この作品は、二十世紀に入ってからなお人々が好むことになった絵画の典型例でもある。だが、その一風変わった甘美さが、今の美術愛好家から時として軽んじられたりするのは、かれの作品が複製されてみやげ物屋などで安手の宗教宣伝用にしばしば使われたりするせいであろう。
三世紀をへだてた現時点から、あの当時、カトリックが宗教としてどんなに大きな役割を果たしていたかを、人々の日常生活の中や、教育を受け芸術的素養のある上流階級が物を見たり考えたりするやりかたの中にうかがい知ることはむづかしい。
ただこの種の作品が、単に一般大衆の需要にこたえて描かれたというのは当たっていない。事実はむしろその逆である。こうした絵画は、すでに十分な教育を受けた知性ある人々のために描かれたのである。この絵の場合は、ドメニコ派の修道士たちが、自分達の修道院にかけるために制作が依頼されている。
同時代の多くの西欧絵画の固さにくらべた時、一見してムリリョの聖母マリア像は、魂が肉体から遊離し、ふわりと空にただよっているような特別な印象がある。この思いがけない効果は、彼の百年以上も昔の、イタリア・ルネッサンスの画家たちの手法を着実に学びとった結果によるものである。ムリリョは、聖母とキリストをピラミッド状の構図の中に置いている。このやり方は、登場人物すべての表現は柔らかであるにせよ、ラファエロが多くの聖母像に用いたと同一のものである。前景で互いに陽気にたわむれ一見とるに足らないような感じの天使たちが、全体の構図のバランスをとっている。
この作品は、多くの研究者によれば、画家の長い画歴の晩期にあたる1670年代のものとみなされている。ダリッジギャラリー(ロンドン)にはムリリョの比較的初期の作品が多いが、後年の作品もいくらかあるにはあるのである。
結局のところ、ムリリョは彼の同時代の人々を同化させずにはおかないようなやり方で厳しい情熱を表現し得る画家であったと思う。二十世紀の鑑賞家たちは絵画のスタイルにばかり心を奪われて、しばしば描かれたものの意味と効果をわすれがちのような気がする。(クリストファー・ライト 美術史家)
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引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
     日本経済新聞「美の美」(別刷り)



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