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本丸に入って行くと、大手虎口は石垣で固められていました。吹石門脇石垣打ち込み接ぎの石垣で、江戸時代に入って築かれたものと思われます。現在二の丸と呼ばれる曲輪は元々の本丸で、実質的にも本丸の機能を持っていたようです。本丸虎口石垣が残っていますが、当時は枡形虎口となっていたそうです。本丸本丸からは建物の礎石群や陶磁器などが出土したそうです。烏山城の縄張りは南北に曲輪が連なる連郭式で、本丸・古本丸・中城曲輪・北城曲輪と連なっており、それぞれの曲輪の間は、堀切や空堀で区切られていました。本丸と古本丸の間の堀切当時は土橋が架かっており、その跡が残っています。古本丸西側の空堀空堀の先にある削平地は、西城曲輪と思われます。古本丸中城曲輪北城曲輪北城曲輪から稜線を辿っていくと、小さな削平地がありました。物見台の跡です。物見台からは搦め手口の登城道がついており、「十二曲がり」と名付けられています。十二曲がり十二曲がりの搦め手道は、七曲がりの大手口へと繋がっており、まさにセオリー通りのお手本のような縄張りでした。烏山城の築城は室町時代の1417年で、那須与一の一族である沢村五郎資重によって築かれました。江戸時代以後は烏山藩の藩主の居城となり、1659年には時の藩主である堀親政によって、三の丸に居館が置かれています。関東の戦国山城には珍しく、石垣が随所に見られますが、江戸時代に入って改修されたものだと思います。
2022/02/07
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関東の名門那須氏が輩出した那須与一の一族が居城としていたのが、烏山城です。烏山城遠景江戸時代に入って改修されたものの、戦国山城の様相が色濃く残っていました。現地の縄張図江戸時代になって改修され、江戸時代の三の丸は石垣で囲まれていました。関東の山城では珍しい石垣積みです。戦国時代の三の丸跡は、現在神社の境内になっていました。寿亀山神社なんとも縁起のいい名前だと思います。大手口の登城道は七曲りと呼ばれ、かつては通用門が置かれていたようです。七曲り口の虎口七曲りの登城道九十九折りの道が続いていました。七曲りの登城道を登り切った先には堀切跡があり、当時は車橋と呼ばれる橋がかかっていたそうです。車橋の堀切跡車橋とはその名の通りで、車のついた引橋が架かっていました。今では堀切の跡がはっきりと残っています。車橋からさらに登城道を行くと、腰曲輪の跡があり、かつての二の丸であった常盤曲輪に辿り着きました。腰曲輪跡常盤曲輪(二の丸)虎口跡常盤曲輪からは、いよいよ本丸に入って行きました。
2022/02/04
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鎌倉時代から戦国時代の終わりまで、常に宇都宮氏と共にあったのが芳賀氏で、栃木県真岡市にある真岡城がその芳賀氏の本拠地でした。現在は一部が公園として整備されているものの、かつての戦国城郭はそっくりそのまま真岡市立真岡小学校の敷地になっています。おそらく小学校の校門が三の丸の虎口だと思うのですが、さすがに中に入って確かめるわけにはいきませんでした。真岡小学校の校門石垣は後世になって積まれたものだと思います。真岡城の東側には行屋川が流れ、行屋川水辺公園として整備されています。公園にある切岸石垣が積まれていますが、後世になって積まれたものだと思います。この先も遺構はなさそうだったのですが、念のため小学校の周囲を探索してみると、かつての本丸付近には土塁と堀切の跡が残っていました。本丸付近の堀切跡先入観にとらわれず、一応は探してみるものだと思いました。本丸の土塁曼殊沙華が群生する小学校校庭の斜面も、かつては二の丸の土塁だったかも知れません。かつて江戸時代には、真岡城跡のすぐ南側に真岡藩の陣屋があったようです。真岡藩陣屋跡の碑陣屋跡には稲荷神社が祀られており、それ以外は更地が広がっていました。本城稲荷神社陣屋跡この広大な土地を有効活用する方法はないものでしょうか。陣屋の周囲下りてみると、土塁らしき跡がありました。櫓台のようにも見えますが、上は駐車場になっているため、確証はありませんでした。陣屋跡から再び行屋川水辺公園の方に下りて行くと、川岸に高札が建っていました。高札場おそらくかつては街道筋だったと思われますが、高札に書かれているのは掟や禁制ではなく、真岡城の歴史が書かれていました。小学校のすぐそばにある水辺公園を歩いていると、すれ違う子供たちが「おはようございます」と、元気に声を掛けてくれました。一年365日、毎日朝は訪れるものですが、この日はとても清々しい朝でした。
2018/09/08
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飛山城にある曲輪Ⅰ~Ⅶまでの七つの曲輪のうち、曲輪Ⅳと曲輪Ⅴが逆L字型に本丸を囲っており、この二つの曲輪が二の丸の機能を果たしていたと思います。現地にある縄張図(曲輪の名称は後から追記しました)その二の丸を歩いていると、群生する曼殊沙華に出会いました。なぜこの花はこの季節になると、申し合わせたように一斉に花を開くのでしょうか。二の丸(曲輪Ⅳ)には掘立柱の建物が建っていたようで、発掘調査に基づいて建物が復元されていました。本丸(曲輪Ⅰ~Ⅲ)の虎口付近に建っていることから、本丸を守る将兵の詰所と考えられています。建物そのものは地味で華やかさはありませんが、史実に基づいて出来る限り当時のままに復元することで、城跡の価値は高まるものだと思います。二の丸と本丸の間には「2号堀」という空堀があり、こちらは複雑に折れ曲がっていました。本丸を固める空堀だけあって、堅固な印象です。本丸の「出隅」物見櫓が建っていたのかも知れません。その本丸との間には、木橋が架けられていました。三の丸と二の丸の間は土橋が架けられていましたが、二の丸と本丸の間は、いざと言う時に外せる木橋です。さらには本丸に直進できないよう、橋の手前は鈎の手状に曲がっています。その本丸の背後には鬼怒川が流れており、搦手を守る要害となっていました。飛山城跡は、まるで戦国城郭造りの教科書のようなセオリー通りの縄張で、しかもその遺構が史実に基づいて丁寧に復元されていました。戦国城郭の全てを見るならば、飛山城を訪れれば事足りるとも思ったほどです。なぜこの城が日本100名城にも続日本100名城にも選ばれなかったのか、やはり不思議です。飛山城は宇都宮氏と関係の深かった芳賀氏の拠点でした。宇都宮氏と芳賀氏の関係は古く、「吾妻鏡」には1189年の奥州阿津賀志山合戦で、「宇都宮左衛門尉朝綱郎従 紀権守・波賀(芳賀)次郎大夫(高親)巳下七人」が戦功を挙げ、源頼朝から恩賞を与えられたと記録されています。この頃の芳賀氏の居城は御前城(真岡城の前身)であったと考えられていますが、永仁年間(1293年~1298年)に芳賀高俊によって飛山城が築城されました。飛山城築城の目的は、宇都宮氏との関係強化のため、宇都宮城に近いこの場所に築いたとされています。さらに宇都宮氏と芳賀氏の関係は続き、1333年には鎌倉幕府の命により、宇都宮高綱(のちの公綱)と共に、四天王寺の合戦に参戦しましたが、この時の合戦の相手こそが「大楠公」楠木正成でした。「太平記」の中での楠木正成の言葉として、「宇都宮氏は坂東一の弓取りである。紀(益子氏)・清(芳賀氏)両党は、もとより戦場に臨んで命を捨てることを何とも思わない」とあり、かの楠木正成も宇都宮・芳賀軍とは決戦を避けたそうです。(飛山城の周辺には「清原」の地名を冠した名前をよく見かけましたが、この頃の芳賀氏は清原氏を名乗っていたようです)そんな宇都宮氏と芳賀氏でしたが、戦国時代にはありがちな内紛で関係が悪化した時もありました。芳賀高照の時、那須高資と組んで主家の宇都宮城を占拠しましたが、芳賀氏の当主である芳賀高定は本拠地の真岡城で宇都宮城奪還をうかがっていました。のちに北条氏康の意を受けた壬生氏が宇都宮城に入るものの、常陸太田の佐竹義昭の援軍を受けて、飛山城は宇都宮城奪還の前線基地として機能しています。その後も「反北条」の基地として、佐竹氏や結城氏と共に北条氏に対抗していましたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の後、「いらざる城は破却せよ」との命を受けて、飛山城も廃城となりました。関東では1590年に廃城・落城となった城は数多くありますが、反北条方でありながら廃城の憂き目にあったのが飛山城です。
2018/09/08
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飛山城には曲輪Ⅰ~Ⅶと名付けられた7つの独立した曲輪があり、それぞれ空堀で囲まれていつようです。学術的には曲輪Ⅰ~Ⅶの呼称が正しいのでしょうが、これまで訪れた数多くの城跡の中で、本丸から七ノ丸まで備えた城郭は見たことがありません。現地の縄張図(曲輪の名称は後から書き加えました)曲輪Ⅰ~Ⅲを本丸と見て、その周囲に逆L字型に配された曲輪ⅣとⅤが二の丸、さらには曲輪Ⅵが三の丸で、曲輪Ⅶが大手の帯曲輪として見てみると、本丸から三の丸の梯郭式の縄張が見えてきます。(最初はこの縄張がすごく気持ち悪かったのですが、こう見てみるとかなりすっきりしました)東側の大手口の帯曲輪(曲輪Ⅶ)は、土塁と空堀で何重にも防備されており、空堀の土橋を渡ると三の丸の曲輪Ⅵ(三の丸)に続いていました。ここが三の丸の虎口になっています。城内から見たところ曲輪Ⅵ(三の丸)は、逆L字型の「5号堀」によって囲まれていて、土塁の内側に空堀を配する念の入れようです。三の丸大手付近の空堀土塁の内側にさらに空堀があり、この辺りに築城主の慎重な性格が出ているように思います。三の丸の曲輪Ⅵは公園の中心部からは外れており、樹林帯の覆われた自然公園といった感じですが、発掘調査によって出土した建物が復元されていました。古代建物一見城跡とは全く関係のない建物ですが、発掘調査では「烽家(とびひや)」と墨で書かれた土器が出土したため、烽火に関連する施設の跡と考えられています。もしかしたら飛山城の名前も、この烽家に由来しているのでしょうか。さらには半地下式の竪穴式の建物も復元されていました。竪穴式と言えば縄文時代や弥生時代のイメージですが、戦国時代の飛山城では竪穴式の建物が使われていたようです。三の丸(曲輪Ⅵ)と曲輪Ⅳ・Ⅴ(二の丸)の間には「4号堀」と呼ばれる空堀があり、航空写真で見てもそれとわかるほどの広さがあります。4号堀(画像右側が曲輪Ⅳで左側が曲輪Ⅵです)4号堀には北条流築城術である「障子堀」が見られるのですが、飛山城は対北条氏の拠点であり、また北条氏の拠点となったこともないので、障子堀の理由がよくわかりませんでした。4号堀には土橋が架けられ、曲輪Ⅵと曲輪Ⅳ・曲輪Ⅴの連絡道となっていました。曲輪Ⅵと曲輪Ⅴの間の土橋曲輪Ⅵと曲輪Ⅳの間の土橋曲輪Ⅳの虎口は喰い違いになっており、直線的には入れない仕掛けになっています。さらに横矢が掛かっていたりと、戦国城郭のお手本のような縄張でした。
2018/09/07
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飛山城の名前は知っていたものの、これまで訪れたことはありませんでした。今回は那須方面の城跡めぐりの途中で立ち寄ってみたのですが、まさかこんな城跡があったとは思っていませんでした。現在は「飛山城史跡公園」として、かなりの規模で復元整備されています。リリースされたばかりのGoogle Map埋め込み機能を早速使ってみました。「とびやま歴史体験館」にある城郭模型(右が北になります)。実際に城跡に入って見ると、まさにこのジオラマが1分の1の実物でそっくり残っているような感じでした。現地の縄張図を見ると、公園入口のある東側が大手のようです。縄張図飛山城は発掘調査によって、史実に基づいて復元されており、大手の虎口には木橋が復元されています。大手虎口の土塁と空堀「日本100名城」や「続日本100名城」に選定されてもおかしくないほどの復元ぶりで、相当期待が高まっていました。大手虎口の木橋発掘調査によって、木橋の存在は確認されているようです。城郭の東側には、南北に空堀と土塁が続いており、こちらも復元されていました。大手南側の空堀と土塁大手北側の空堀と土塁北東隅の土塁隅櫓が建っていたと思われますが、土塁の高さも法面の傾斜も、お見事としか言いようがありません。外から見るとわからなかったのですが、大手口は二重土塁になっており、虎口から城内に入ると、さらに空堀と土塁がありました。虎口は外桝形になっていたようで、桝形も復元されていました。外桝形の土塁と空堀発掘調査によって、土塁の高さも忠実に復元されています。おそらく当時は板塀で囲まれていたことでしょう。桝形虎口桝形には大手門があったと思われますが、発掘調査では大手門跡が確認されなかったため、復元されていません。大手門の先にはさらに土橋があり、堀重門が復元されていました。やはり発掘調査によって復元されたもので、門の柱石と川原石の礎石が見つかったことから、この門が復元されています。まるで中世の城郭復元のお手本を見ているようで、大手虎口周辺だけでも見どころは十分でした。「日本100名城」や「続日本100名城」の選定にあたっては、史実に基づいて復元されているかどうかも、選定のポイントになります。さらには「各都道府県で最低1城」の縛りがあるのは致し方ありませんが、飛山城は他の「日本100名城」や「続日本100名城」と比べても、全く遜色がありません。(ちなみに栃木県からは、足利氏館(鑁阿寺)が日本100名城、唐沢山城が続日本100名城に選ばれました)「無冠の名城」とは、飛山城にある称号でしょうか。
2018/09/06
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屋島の戦いの那須与一を輩出した下野の名門那須氏。その那須氏の発祥の地が、栃木県那珂川町にある那須神田城です。現地にある縄張図を見ると、方形の曲輪に堀を巡らしただけの、典型的な中世武士の居館のようです。縄張図平安時代に築かれた居館跡ながら、その遺構がよく残っていました。北側の水堀縄張図を見ると、北側は二重土塁になっていたようですが、外側の土塁は跡がわずかに残っているだけでした。彼岸入り前で、曼殊沙華が咲いています。北側の土塁かつて居館が置かれていた場所は水田となっているものの、周囲の土塁などもよく残っていました。水田の向こう側には土塁も残っていて、かつての姿がよく偲ばれます。北西側の土塁の隅中世の居館でも隅櫓が建っていたのでしょうか。那須氏の祖である藤原資家は、堀川天皇の時代(1086年~1106年)に、この地で横暴を極めた「岩嶽丸」征伐の勅命を受け、神田明神に武運長久を祈願しました。岩嶽丸を成敗した藤原資家は、下野国那須郡を与えられ、本拠地として築城したのが那須神田城です。(築城年は1056年、1105年、1125年の諸説ありますが、いずれにしても平安時代に築かれたことは間違いないようです)北西の土塁の隅には、藤原資家が氏神として祀った稲荷神社が祀られていました。藤原資家は須藤権守貞信を名乗り、那須氏の始祖となるとともに、神田城が代々那須氏の本拠地となりました。第10代那須資隆の時に本拠地を高館城に移したようですが、那須資隆の子である那須宗隆(与一)は、1169年にこの神田城で生まれたと伝えられています。
2018/09/05
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関東では利根川・荒川に次ぐ第3位の長さを誇る那珂川、その上流部の清流を見下ろす高館山の山頂にあるのが高館城で、かの那須与一にゆかりのある城郭です。登城道は「関東ふれあいの道」にもなっており、道の駅那須与一の郷から高館城までは「高舘城跡へのみち」と名付けられています。南側の登城道階段で整備されていますが、ここまで来る道は舗装道ながら荒れ果てていて、ここまでが一苦労でした。高館山の山頂に本丸を配し、その前後の稜線沿いに曲輪を配する、典型的な中世城郭でした。二の丸本丸より一段低い稜線上に削平されています。二の丸の西側には展望台があり、登ってみると那須野が原が一望できました。おそらくこの原風景は那須氏の時代からあまり変わっていないと思いますが、この那須野が原を中世の東国武士たちが駆け巡っていたことと思います。眼下の那珂川の清流に目を凝らすと、河岸の崖から滝のような水が流れ出ていました。これが那須野が原の伏流水でしょうか。大那須野のダイナミズムに感嘆しつつも、展望台を下りて本丸の方へ足を向けてみました二の丸から見た本丸の方向おそらく二の丸と本丸の間には堀切があったと思いますが、その跡は残っていませんでした。標高300mの山頂部にある本丸本丸から見た二の丸本丸の奥、東側の稜線上に目を凝らすと、木々の間に腰曲輪のような跡が見えました。画像ではわかりづらいですが、肉眼で見ると木々の間に人工的な削平地があります。そして稜線上のさらに先にあるのが駐車場で、元々は曲輪の跡だったと思います。三の丸の跡でしょうか。ここまで来るのに、栗のイガや木の枝や落ち葉に覆われた荒れた道を走らされ、またもやご機嫌ナナメのゼットです。高館城は那須宗隆(与一)の父である、那須資隆による築城と伝えられ、一時は那須氏の本拠地ともなって、那須与一も在城したと言われます。また、源頼朝の命を受けた梶原景時によって、鎌倉の軍勢によって落城したとのいわれもあるようです。
2018/09/04
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栃木県大田原市には、江戸時代の藩庁であった城郭が2つ存在します。その1つが黒羽藩の黒羽城で、もう1つが大田原藩の大田原城です。「類を以て集まる」と言うか、はたまた「同じ穴のムジナ」と言うのか、黒羽城と大田原城はよく似た歴史を持っていると思います。黒羽城も大田原城も、元々は戦国時代に築かれた城郭でしたが、落城や廃城されることなく戦国時代を生き抜いて、関東では珍しく明治維新まで存続した城郭です。加えて、黒羽藩の藩主であった大関氏と大田原藩の藩主であった大田原氏は、戦国時代の城主から江戸時代には藩主を務め、一度も転封や改易されることなく明治維新を迎えています。関東の戦国武将にとって、運命を決める出来ごとが2回ありました。1つは1590年の豊臣秀吉による小田原攻め、そしてもう1つが1600年の関ヶ原の戦いです。そのいずれでも形勢を誤ると、明治維新どころか江戸時代を迎えることもなかったと思います。(実際にそんなケースは数多くあります )前置きは長くなりましたが、そんな幸運なスポットである、大田原氏の大田原城を訪ねてみました。現地に縄張の解説板があったので、例によってまずは大まかに縄張を頭に入れることから始めました。東に蛇尾川、西に奥州街道、そして北には那須岳と、四神相応の縄張になっていて、防衛よりも縁起を重視した天下泰平の近世城郭のようです。例によってまずは表玄関である大手口から入って見ることにしました。縄張図からすると、大手には坂下門があったようです。坂下門跡坂下門は桝形虎口になっていたようで、その桝形も残っていました。石垣ではなく、土塁で築かれた桝形に坂東らしさを感じます。坂下門のすぐ先に本丸があるのですが、高い土塁が築かれていて直接は入れないようになっていました。坂下門から見た本丸土塁全国各地でありがちな縄張ですが、西日本の近世城郭では土塁ではなく石垣になっています。坂下門から二の丸に行く途中には、「千石倉」と呼ばれる米蔵がありました。現地の解説板によると、大田原氏は外様大名でありながら譜代並みの扱いを受けていて、幕府の命によって有事に備えるための米をここに備蓄していたそうです。戦国城郭では虎の子の米蔵は本丸の背後にあったりするものですが、大田原城では大手のすぐ近くにあったりして、この辺りにも天下泰平の時代を感じます。二の丸虎口現在では整備されていてよくわかりませんが、櫓台のような跡もありました。二の丸と本丸の間は空堀で区切られていて、本丸直下からもその跡を見ることができます。空堀跡戦国時代には防衛設備だったのでしょうが、近世では通路として使われていたと思います。あくまでも土塁にこだわるところに坂東らしさを感じますが、西日本では普通に石垣になっているものです。二の丸跡二の丸には煙硝蔵などの武器庫が置かれていたそうです。大手の坂下門から二の丸を迂回して、いよいよ本丸に入って行きました。本丸虎口の「台門」跡唯一ここだけは石垣造りだったのに、その石垣は残っていませんでした。現在では本丸が公園として使われているようで、ステージが置かれていました。戦闘拠点に音楽ステージが置かれることに、現代の平和のありがたみを感じます。平和利用されている本丸ですが、西側の土塁が残っていました。おそらくこれを見て何かを感じる人はいないと思いますが、この入隅と出隅には造形美を感じてしまいました。本丸の搦手口には公園の通路があって、ここが搦手口だと思います。「裏門」跡普通に公園の出入口になっている現在ではあるものの、縄張のセオリー通りに虎口がありました。その遺構が残っていることに感動するのは私くらいでしょうか。本丸を離れると、北曲輪の跡に回ってみました。現在では遊具が置かれたりしていています。もしここで遊ぶ子供たちがいたら、誇りを持って大田原城の歴史を伝えていってもらいたいと、そんなことを考えたりしました。北曲輪からは、再び駐車場のある西曲輪や侍屋敷跡に戻ってきました。駐車場脇にはかつての三日月堀が、今も水をたたえています。三日月堀大田原城の建造物は残っていませんが、近くの光真寺には移築された大田原城の城門があります。当時の門は1825年の火災で焼失し、再建された門ではありものの、当時の偉容を見た気がします。大田原城は豊臣秀吉による1590年の小田原征伐よりも前、戦国時代の1545年に大田原資清によって築城されました。さすがは戦国時代を生き抜いた城郭だけあって、天下泰平後も戦闘拠点としての役割を担っています。1600年の関ヶ原の戦いでは、大関氏の黒羽城と同じく米沢の上杉景勝への備えとして機能していました。天下泰平の時代、第三代徳川家光が将軍となった1627年には、奥州への鎮護として城の改修が行われ、幕府の常時米が置かれたのもこの城でした。さらに時代は下って戊辰戦争の1868年では、会津若松に対する重要拠点となり、旧幕府軍の砲撃によって三の丸が炎上する被害を受けています。天下泰平の近世城郭でありながら、戦国期に誕生した城郭は、やはり戦闘拠点として機能する運命だったのでしょうか。
2018/09/02
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戦国時代から明治維新まで、落城や廃城だけでなく、城主が移封や改易されることもなく続いた城や藩は珍しいかと思います。特に関東の城郭においては、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で落城や廃城となることが多く、江戸時代においては幕府の命により移封や転封になる藩主が多く見られました。そんな関東の城郭にあって、栃木県大田原市にある黒羽城は戦国時代から明治維新まで、約300年にわたって大関氏の本拠地であった城です。現在は黒羽城址公園となっており、かつての三の丸には、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で黒羽に滞在したことに因んで、「黒羽芭蕉の館」が建っていました。三の丸芭蕉の館入口にある門門は後に復元されたものだと思います。三の丸虎口跡(?)松尾芭蕉は「おくのほそ道」の道中で、黒羽に最も長い14日間逗留していたそうです。芭蕉の館がある三の丸跡には、松尾芭蕉と河合曾良の像が建っていました。松尾芭蕉の「おくのほそ道」の紀行は、幕府の命を受けての視察だったという説をふと思い出しました。たまたまかも知れませんが、途中で滞在した場所には外様大名の城下も多く、黒羽も外様の大関氏の城下です。三の丸と本丸の間には「馬出郭」と呼ばれる曲輪があります。三の丸から馬出郭に続く途中にある芭蕉の館は、櫓門を意識したような造りになっていました。。芭蕉の館三の丸と馬出郭の間には空堀が残っており、堀の深さや法面の傾斜など、久々に見ごたえのある空堀でした。馬出郭は本丸から独立した曲輪のようで、本丸との間はこちらも空堀で隔たれていました。馬出郭跡本丸虎口の外側にある「外馬出」だと思います。馬出郭と本丸の間の空堀さすがは江戸時代に藩庁が置かれていたとあって、本丸は一つの城郭がすっぽり入ってしまうほどの広さがありました。本丸の隅には建物が建っており、何かと思って近づいてみると、能舞台でした。本丸に着いた時から気になっていたのですが、本丸の西側に怪しげな建造物が建っています。一見すると望楼のようにも見えますが、後世になって建てられた展望台と判明しました。あまり人が立ち入った形跡もなさそうでしたが、床下から続く階段を登ると、土塁の上に出ることができました。土塁上から見た本丸西側すぐ前を那珂川が流れています。戦国城郭として築城された黒羽城でしたが、天下泰平の近世の時代が長かったためか、行政の拠点としての側面も見られました。本丸からは虎口を通じて直接城下に通じるようになっていました。本丸の虎口桝形が残っていました。それでも街道筋に面した本丸の周囲には、空堀や水堀などの中世城郭の遺構が残っていました。本丸周囲の空堀水堀本丸のすぐ東側は城下になっており、現在は駐車場になっている場所には、会所が置かれていたようです。会所跡黒羽城は1576年に大関高増が白旗城から本拠を移して築城し、以後は黒羽城が大関氏の本拠となりました。大関氏は那須氏の家臣でしたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、主筋の那須氏よりも早く参陣したため、加増の上本領を安堵されています。(この時那須資晴は参陣しなかったため、改易となりました)1600年の関ヶ原の戦いでは、大関高増の子である大関資増が当主となっており、この時はいち早く小山に参陣し、徳川家康に味方しています。徳川家康からは加勢と武器供与の軍事支援を受け、黒羽城は上杉景勝の抑えとして機能していました。江戸時代に入ると黒羽藩が置かれ、代々大関氏が藩主を務め、改易や廃城されることもなく、明治維新を迎えています。
2018/09/01
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何かにつけエキチカは便利なもので、城跡についても当てはまるかも知れません。これまで訪れた数々の城跡の中でも、佐野城跡は最も駅からのアクセスがいいと思います。三の丸が佐野駅に直結しています。現在の佐野城跡は「城山公園」となっており、名前もストレートなので、場所も見つけやすくていいと思います。さらには三の丸・二の丸・本丸・北出丸の曲輪が連郭式に配されており、縄張もシンプルで分かりやすくなっていました。かつて二の丸の虎口があった場所には、佐野城址の碑が建っていました。二の丸跡城山公園は普通の公園といった感じですが、縄張がシンプルな上にセオリー通りに築城されているため、城郭の遺構を見つけるのも割と簡単でした。二の丸と本丸の間の堀切跡かつては水堀だったのかも知れません。城山公園を公園として見るならば普通に公園ですが、城跡としてみるとまた違ってきます。堀切で隔たれた本丸虎口の手前には、公園としては不自然な角型の場所がありました。考えすぎかも知れませんが、外馬出の跡のようにも見えます。二の丸と本丸の間には鉄製の橋が架かっていますが、かつては木製の曳橋が架けられていたかも知れません。本丸普通に公園の芝生広場と言えばそれまでですが、三の丸とは明らかに比高差があり、このあたりもセオリー通りだと思います。佐野城の完成は江戸時代に入った慶長12年(1607年)のことで、関東の戦国城郭にはない石垣が使われていたようです。本丸にはその石垣の一部が残っていました。平成4年の発掘調査で、石垣だけでなく石畳の通路も発掘されたそうです。本丸からさらに高い位置に北出丸があり、本丸と北出丸の間の堀切も残っていました。堀底までもさらに深く掘られているように思います。北出丸は物見台の役割を担っていたようで、発掘調査でも柱穴と瓦が出土したそうです。北出丸の曲輪跡北出丸から眺めると、佐野城の前身である唐沢山城の方向が眺められました。物見台からかつての居城を懐かしんでいたのでしょうか。佐野城は別名「春日岡城」とも言われ、782年に藤原藤成がこの丘に春日明神を祀ったことに由来すると伝えられています。1602年に佐野信吉が、この地にあった惣宗寺(現在の佐野厄除大師)を移転させ、佐野城の築城と城下町の整備を行いました。1607年に唐沢山城からこの佐野城に本拠を移しますが、1614年に所領を没収され、佐野城も廃城となっています。唐沢山城から佐野城に移転した理由は諸説ありますが、その一つに「江戸の火事が見えた」というのがあります。ある日唐沢山城から江戸の火事が見えたため、心配して早馬を出して駆け付けたところ、逆に江戸を一望できる眺望の良さを徳川家康に咎められた、とも言われています。
2018/06/07
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晃石山の山頂からは、その先を行くか戻るかと迷っていました。トレッキング目的ならば、右の尾根を伝って、馬不入山・岩船山と下りて行きたいところです。それでもやはり大中寺に立ち寄りたくて、晃石山の山頂から来た道を戻り、ぐみの木峠から大中寺を目指して下りて行くことにしました。ぐみの木峠大中寺は晃石山の東側、太平山から見ると南側の山腹にあり、ぐみの木峠からは稜線を外れて、斜面をそのまま下るようになります。地面のぬかるみが水滴となり、やがて沢のせせらぎとなって来た頃、木々の緑に囲まれた大中寺の堂宇が見えてきました。静かな佇まいの山寺ながら、なんとも言えない風格があります。ここは1568年に北条氏康と上杉謙信が和議を結んだ「越相同盟」の舞台であり、かの北条氏康・上杉謙信と同じ場所にいるかと思うと、感慨深いものがあります。(官職では上杉謙信、実力では北条氏康だと思いますが、果たしてどちらが上座だったのでしょうか)6世の住職であった快叟が上杉謙信の叔父であった縁で、上杉謙信はこの寺を厚く保護し、当時焼失していた伽藍を修復したそうです上杉謙信はこの後に太平山で兵馬の訓練を行い、太平山から見た関東平野の広さに驚いたことから、「謙信平」の地名の由来ともなっています。謙信平から見た関東平野大中寺の創建は平安時代の久寿年間(1154年)に遡り、当初は真言宗の寺院だったそうです。後に荒廃していたものの、1489年に快庵妙慶によって曹洞宗の寺院として再興されています。「大中禅寺」の扁額がある本堂大きすぎて収まりませんでした。大中寺には七不思議があって、本堂前の階段はその1つ「油坂」と呼ばれています。油坂の由来では、大中寺に勉強熱心な学問僧がいて、夜中に読書をするために油を盗んで来たところ、この本堂前で転げ落ち、命まで落としてしまったそうです。美徳と悪徳のどちらとも言えない話ですが、その後でこの坂を昇り降りする人は、大怪我をしたと言われています。本堂前の階段が「油坂」です。現在はバリケードで階段を昇り降りすることができず、なおさらリアリティーがあります。その大中寺の伽藍は焼失してしまいましたが、1575年に再建され、江戸時代には大中寺、総寧寺(千葉・市川市)、龍陰寺(埼玉・入間市)の曹洞宗「関三刹」の筆頭に数えられていたようです。(里見公園の隣にある寺院が、実は名刹だったと初めて知りました)境内にある地蔵堂なんだかとても味のある堂宇ですが、堂内の木造地蔵菩薩は大中寺の創建以前からあったもので、近隣の寺院から安置されたものだそうです。大中寺の山門皆川城の搦め手門を移築したものだそうで、これだけでも見応え十分です。深緑の中に伽藍が映える大中寺ですが、実は「あじさい寺」として紫陽花の季節が有名なようです。私は完全に時期を外していますが、紫陽花の季節ではえびねっこさんの記事で紹介されています。(いつも興味深く拝見しています)
2014/05/20
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太平山にはかつて城郭が築かれていたとされ、太平山神社の奥宮を過ぎたあたりから、周囲を注意深く見渡しながら歩いて行きました。途中の岩場では石を切り出したような跡が見られたものの、人工的に積まれた形跡もなく、天然の岩場だと思われます。太平山の山頂は富士浅間神社の境内ともなっており、途中には神域を示す注連縄がありました。山頂ピークの肩の部分、城跡だと思えば曲輪の跡のようにも見えますが、判然としませんでした。山頂ピークの斜面戦国城郭ならば堀切くらいあってもよさそうですが、この岩場が天然の要害になっているのか、これといった遺構もありませんでした。そしていよいよ山頂が見えてきた時、ようやく腰曲輪の跡がありました。小さな祠があるだけの削平地ですが、この切岸はまぎれもなく城郭の遺構だと思います。それにしても築城技術がシンプルかつ古い感じがして、戦国時代以前(平安時代末期か鎌倉時代くらい)の築城かと思われます。山頂部分には富士浅間神社の社殿があり、曲輪のような削平地となっていました。社殿の奥には一段と高くなった削平地があり、太平山山頂を示す看板がありました。その先には道はありませんが、上からに斜面を観察してみると、腰曲輪のような削平地があるように思いました。太平山城の築城時期や築城主などはよくわかりませんが、見た限りではあまり防御設備らしき遺構もなく、戦国時代以前の築城かも知れません。または戦国時代の築城だとすると、城郭というよりは砦かのろし台、物見台のような役目だったとも考えられます。関東100名山
2014/05/18
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藤原秀郷(俵藤太)によって築城されたとされる唐沢山城、てっきり中世の戦国山城を想像していました。標高240mにある唐沢山城跡に着いてみると、意外にも石垣と枡形が残る近世城郭でした。大手門の枡形大手門枡形内部にある天狗岩物見櫓の跡があったようです現在の唐沢山城は唐沢山神社の境内となっていますが、神社の敷地の中に城の遺構を見ることができました。堀切の跡 大炊の井直径が8mもあり、築城以来水が枯れたことがないと言いますから、1,000年以上も水が湧き出ていることになります。三の丸跡普通に神社の広場に見えますが、右側に見えるのが二の丸の土塁です。その二の丸跡は神楽殿の敷地となっていました。二の丸跡周りに石垣が見えますが、おそらく築城当時のものだと思われます。唐沢山神社の社殿は石垣で囲まれた場所にあり、ここが唐沢山城の本丸です。二の丸から本丸への虎口本丸跡に建つ唐沢神社拝殿藤原秀郷が祀られています。本丸の虎口は2ヶ所あったようで、二の丸から通じる西側の他に、拝殿正面の南側にも曲輪が連なっていました。こちらも石垣が残っています。本丸周囲の石垣はよく残っていたのですが、特に南側の高石垣は見応えがありました。社務所のある南側の削平地も曲輪の跡だったようで、「南城」と呼ばれていたようです。その南城からは、都心方面が一望できました。スカイツリーや新宿のビルなども見渡せるのですが、実はこの眺望の良さが唐沢山城の運命を変えてしまいました。唐沢山城の築城主は、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(俵藤太)と言われ、築城時期は927年とも940年とも言われています。戦国時代になると、藤原秀郷の子孫である佐野氏が居城としていましたが、ここは上杉謙信と北条氏康の勢力争いの最前線でもあり、城主佐野昌綱も上杉氏についたり北条氏についたりしておりました。結局佐野昌綱は上杉氏と手を切って北条方についたのですが、度重なる上杉謙信の猛攻にも落城しなかったため、唐沢山城の堅固さは一躍有名となっています。なお現在残る石垣の城郭は、1590年の佐野房綱によるものだと思われます。徳川家康が天下を統一した後の1602年に、春日岡城(佐野城)を築城して居城を移したため、唐沢山城も廃城となりました。この移転については、江戸から20里(80km)以内の山城を禁止した「山城禁止令」に抵触したからだと言われています。また一説には、唐沢山城から江戸の火事がよく見えたため、早馬を出して駆け付けたところ、逆に江戸を一望できる眺望の良さを徳川家康に咎められた、とも言われています。それにしても、江戸の火事が見えたからと言って、栃木県から早馬を出したところでどうなるものでもないと思います。関東7名城
2013/03/12
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神橋を渡り、目の前の斜面を登っていくと東照宮があるはずなのですが、実は東照宮の場所がよくわかっていませんでした。輪王寺の前で悩んでいると、同じように悩んでいる人がおり、どちらからともなく声を掛けて、「旅は道連れ」と行動を共にすることにしました。聞けば函館から福岡に向かうところで、途中で日光に立ち寄ったとのことです。お互いに身の上話をしながらも、私が雪国に住んだ経験がないことは見抜いていたらしく、「歩き方が見ていて危なっかしいです(笑)」と。(思えばこれまで住んだ場所と言えば、広島・山口・奈良・京都・千葉・東京そして台湾と、積雪とは縁のないところばかりでした)それでもいざ東照宮に入ってくるとお互いに口数が少なくなったは言うまでもなく、この意匠には圧倒されっぱなしでした。五重塔神庫ここでは重文クラスが当たり前です。神庫「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿輪蔵そして陽明門隅々に到るまで意匠を感じることができ、中世日本の建築技術の集大成でしょうか。拝殿作事奉行は藤堂高虎で、加藤清正と並ぶ築城の名手でもありますが、建築普請で小堀遠州の名前が出てこないのは不思議なところです。伝説の彫刻師、左甚五郎作と言われる眠り猫上野の東照宮にある「昇り竜 降り龍」も左甚五郎作と言われています。「鳴き竜」の本地蔵内部は撮影も録音も禁止でしたが、確かに龍のところでは鳴いていました。「こんなところまで・・・」と、パラノイアとも思われるほどの凝りようには感心するばかりでした。そしてかつての徳川将軍も参拝した奥宮へと入って行きました。奥宮拝殿将軍以外の昇殿は許されなかったそうで、現在も入ることができません。その拝殿の奥にあるのが、徳川家康の墓所である宝塔です。徳川家康の死後、静岡にある久能山東照宮に埋葬された後、遺言により江戸の鎮守として日光に埋葬されたと聞きます。1つ疑問に思うのは、あの希代の吝嗇家(すなわち希代のドケチ)が、これほどのものを望んでいたかどうか。(豊臣秀吉亡き後の天下が議論になった時、徳川家康に否定的な意見の持ち主は、唯一「ケチでなこと」を理由にしたくらいです)いずれにしても豪華絢爛な社殿から、天下統一後の徳川幕府の権威をまざまざと見せつけられたのが東照宮でした。思えば戦国時代の関東の覇者北条氏が滅亡した後、関東に入封してきた徳川家康が本拠地にしたのは小田原でも鎌倉でもなく、さらには川越でも岩槻でもなく、一漁村に過ぎなかった江戸でした。その江戸に幕府が開かれ、明治に入って東京となり、さらには平成のトウキョウを迎えた現在、その遺言どおりになっているのかも知れません。
2013/01/05
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日光街道宇都宮宿の先には徳次郎宿があり、「宇都宮市徳次郎町」の地名もさることながら、「徳次郎って誰よ?」というのが気がかりでした。その徳次郎宿や徳次郎町の地名の由来となったのが徳次郎城で、日光街道から300mほどのところにありました。徳次郎城遠景ここが徳次郎城虎口でしょうか名前からして名主の屋敷跡かと、てっきり単郭の居館跡を想像していたのですが、実は曲輪を複数備えた立派な戦国城郭でした。二ノ丸の空堀跡二ノ丸の曲輪跡さらに驚いたことに、ほぼ完璧な状態で遺構が残っていました本丸空堀跡保存もさることながら、復元をされた痕跡もなく、ここまで残ってきたのが不思議なくらいでした。本丸空堀跡本丸土塁相当な規模のある城郭で、「徳次郎城」の名前と目の前にある遺構がなかなか一致せず、そのギャップが激しすぎるほどでした。本丸跡果たしてここに徳次郎さんが住んでいたのでしょうか。これまで数多くの城跡を見てきた中で、保存・復元もなく遺構がここまで残っているのは稀なケースだと思います。ところで城跡を訪れる中でこれも稀にあることですが、何だか空気が重たいというか、「あまり歓迎されていないな~」といった雰囲気がありました。霊感が強いとかオカルト的な話ではないものの、激しい籠城戦を繰り広げた城跡でもこんな空気を感じたことはあまりないので、ましてや戦火に見舞われたことのない城跡では不思議な感じがします。徳次郎城は戦国時代に築かれたもので、北条氏と組んで敵対する日光の僧兵に対するために築城されました。築城主が新田徳次郎昌言で、その通称である徳次郎が城の名前となり、さらには宿場町や地名となって現在にいたっています。中世武士の慣わしから言えば、「源平藤橘」を朝廷から賜る姓とし、土着する地名を苗字(名字)とするのが通例です。例えば源義国が足利に土着して足利氏を名乗ったり、藤原宗円が宇都宮氏を名乗ったりと。本来ならば徳次郎城も元々の地名を氏とし、それが城の名前となるのでしょうが、通称が城の名前となり、現在でも地名となったレアなケースだと思います。
2013/01/04
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500年以上もの間、下野の雄者として君臨した宇都宮氏、その本拠地であった宇都宮城は、江戸時代に入ってからの近世宇都宮城として復活しています。富士見櫓(復元)本丸土塁と土塀清明台櫓(復元)水堀も復元されていますが、当時とは若干違うようで、当時の堀割が青線で引かれていました。外観復元されている現在の城郭は、宇都宮氏時代のものではなく、本多正純時代のものだと思われます。富士見櫓や清明台など、本丸西側部分が復元されているようです。本丸土塁内部には資料館もあるのですが、年末とあって休館していました。本丸の復元模型(2007年10月訪問時)南側の大手口から見たところで、左側(西側)に復元された富士見櫓と清明台があります。本丸虎口にある清水門は、枡形の跡に線が引かれ、土塁を残すのみとなっていました。清水門跡御殿のあった本丸跡本多正純と言えば、あの釣り天井事件の舞台がまさにこの本丸だったことになります。釣り天井事件の真偽のほどは定かではありませんが、本多正純の改易にあたっては、11ヶ条(後に追加で3ヶ条)の罪状が挙げられたそうです。まさに因果応報とはこのことでしょうか。釣り天井事件のみならず、平安・鎌倉・南北朝・室町、そして幕末に到るまで、それぞれの時代で歴史の渦中にあった宇都宮城です。その歴史を考えると、現在の城郭は寂しい気すらします。宇都宮城の築城は藤原秀郷とも藤原宗円(宇都宮氏の祖)とも言われています。 以後は宇都宮氏の本拠地となり、関東八屋形の1つとして、500年もの間宇都宮を拠点に北関東に勢力を持っていました。 しかしながら1590年に豊臣秀吉の「宇都宮仕置」によりその名門も滅亡、江戸時代になると本多正純が入城して、城下町の拡大と改修を行いました。その本多正純も釣り天井事件で改易となり、以後は奥平氏が城主に返り咲くなど、日光街道の要所として徳川譜代の大名が城主となっています。幕末の戊辰戦争では、土方歳三・大鳥圭介などの旧幕府軍と、伊地知正治・大山巌などの新政府軍との間で宇都宮城をめぐる攻防戦が繰り広げられ、その戦火で宇都宮城の建造物は焼失してしまいました。
2012/12/27
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日光街道石橋宿の先で、児山城跡の案内看板を見つけました。すでに陽はかなり傾いていたこともあり、ここは雀宮宿をあっさりとあきらめて、児山城へ向かうことにしました。標識通りに進んで行くと、だんだんと住宅地の中に入って行くようになり、「もしかしたら外したか?」と、先行きが怪しくなってきました。想像できる児山城の姿としては、公園広場にポツンと城跡碑が建っている、とそんな感じです。そして児山城に到着してみると、たしかに城跡碑が建っていました。ここまで想像していた児山城の現在の姿としては、こんなのとかはたまたこんな感じでした。それでも城跡碑の周りを見回してみると空堀の跡がはっきりと残っています。「誰の城なんだろう?」と思っていると、城跡の解説板がありました。宇都宮頼綱の名前が登場、すでに小山氏の勢力圏を離れて宇都宮氏の勢力圏となっています。児山城の遺構はお見事で、土塁や空堀などの戦国城郭がよく残っていました。本丸虎口の土橋跡でしょうか。本丸の空堀と土塁土塁だけでも10mほどの高さがあります。本丸は方形をしており、周囲の土塁もはっきりと残っていました。本丸の曲輪跡本丸土塁(内側)特に人の手が加えられた形跡もなく、それでも戦国時代からの城郭が色濃く残っているため、久々にいい城跡を見せてもらった気がします。
2012/12/10
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日光街道新田宿の先で日光街道から離れ、寄り道をして下野国分寺を訪れてみました。古代律令時代に「各国」に創建された国分寺、現在では普通の寺院に変わっていたり、その場所さえも特定できない国分寺がある中、下野国分寺では当時の伽藍跡が残っていました。いくつかの国分寺跡を訪れてきて、いつも感じ入ることがあります。それは約1300年前に創建されたいずれの国分寺も、同じ伽藍配置で建てられていることです。741年に聖武天皇から出された「国分寺建立の詔」、強力な中央集権国家が出来上がっていたこともさることながら、その建築技術の高さにはつくづく驚かされます。国分寺と国分尼寺の復元想像図設計・施工から資材の調達、人員の確保まで、これを成し遂げてしまう中央政権が存在していたことにほかなりません。鐘楼跡講堂跡中門と金堂跡
2012/12/07
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「俵藤太」藤原秀郷を祖とする小山氏、宇都宮氏・千葉氏などと共に「関東八屋形」の1つに数えられる名門ですが、歴史の表舞台に登場しつつも、滅亡しかけては再興したりと、栄枯盛衰の激しい家柄です。一時は宇都宮氏を凌いで下野国(栃木県)の最大勢力ともなった小山氏が本拠地としていたのが祇園城でした。その祇園城の入口は、小山評定跡の小山御殿からほど近い同じ道路沿いにあります。城跡に入ってすぐに本丸があるのには違和感がありますが、実際に城跡を探索してみても違和感がありました、現代風に言うならば、門を入るといきなり奥座敷と裏庭があって、表玄関は門と反対側にあるような感じです。城跡の入口を入るといきなり本丸で、しかも曲輪の中で最も低い位置にありました。本丸の北側に行ってみると、空堀の跡がはっきりと残っていました。石垣は後世になってからのものでしょうが、箱堀の堀底道は結城道の幹線道路だったようです。二ノ丸は本丸より一段高くなっており、縄張り図にもある「馬出」の形が残っていました。馬出の空堀馬出の位置を見る限りでは、南側に本丸があって、北側に二ノ丸があるとするのも自然な気がします。それでも箱堀の堀底道といい、方形の角馬出といい、まさに北条流の築城術です。元々は南方の敵に備えた縄張りであったものを、北条氏が北進して祇園城を支配下に治めた時、今度は北方に備えて改変されたとも思われます。二ノ丸の曲輪二ノ丸にはわずかに土塁の跡が残っていました。二ノ丸の北側には曲輪が2つ東西に並んでいるようですが、いずれも空堀で囲まれており、その空堀の跡がよく残っていました。東西の曲輪の間にある空堀現在も普通に堀底道として使われているようです。東側の曲輪堀底道の先には土塁がありましたが、その先は生い茂る木々をかき分けて直登攀する必要があり、ここで引き返しました。おそらくこの先に小山氏時代の城郭が残っていると思われますが、夏は苦手な爬虫類が出そうなので、ここで撤退です。祇園城の築城については、俵藤太の藤原秀郷によって築城されたとも言われていますが、築城時期は不明だそうです。記録に見えるのは14世紀後半と言いますから、南北朝時代に小山氏朝郷が北朝について南朝方の北畠親房に攻められた頃か、または足利尊氏VS足利直義の観応の擾乱で小山氏政が足利尊氏についた頃でしょうか。(いずれも小山氏は滅亡の危機に遭いますが、同じ下野の宇都宮氏とは対立関係にあったことも一因でしょうか)戦国時代になると、関東公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立や、後の北条氏康VS上杉謙信の争いに翻弄され、祇園城も攻略されると共に、またまた小山氏も滅亡の危機にさらされてきました。そして1575年、北条氏の北関東進出に伴い、北条氏照によって祇園城も陥落し、小山氏もここに滅亡しています。北条氏照によって祇園城が改修されたようで、現在残る北条流の城郭その当時のものかと思われます。
2012/08/25
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天下の趨勢を決めた関ヶ原の戦いの中で、重要なファクターの1つが小山評定でしょうか。会津の上杉景勝討伐軍を率いて北上していた徳川家康でしたが、近畿での石田三成の挙兵を知ると軍を反転させ、その後の関ヶ原での決戦と続いて行きました。その徳川家康が軍を反転させた場所が小山でしたが、徳川家康にも容易に軍を反転できない事情があり、この時に開かれた軍議が小山評定です。元々会津討伐は豊臣秀頼の名代として、豊臣家の名の下に徳川家康が上杉景勝を討伐するものであり、これに従う諸将も豊臣秀頼の家臣としての位置付けでした。その軍を反転させて石田三成と対決することは、徳川家としての私的な戦いに豊臣家の軍隊や軍資金を使うことにもなりかねません。さらには従軍する諸将は豊臣秀吉恩顧の大名ばかりであり、その諸将も大坂で石田三成に妻子を人質に取られている事情がありました。(現に細川忠興のガラシャ夫人は、石田三成方に屋敷を包囲され、屋敷と共に焼死しています)徳川家康の方針としては、「石田三成を討つ」とした上で、進退については諸将に委ねるものでした。諸将が「われもわれも」と徳川家康に付くか、それとも「われもわれも」と大坂に帰るか、その重要な軍議が小山評定でした。小山市役所の敷地内にある小山評定跡の碑三間四方の仮御殿を急造して軍議が行われたそうです。本多忠勝・井伊直政・本多正信などの徳川家康直轄に加え、福島正則・山内一豊・黒田長政・細川忠興・加藤芳明・浅野幸長などの豊臣家恩顧の大名が並ぶ中、真っ先に徳川家康への賛同を口にしたのが福島正則でした。この福島正則の賛同がきっかけとなって、諸将も徳川軍に味方することを誓ったのですが、これがまさに徳川家康のシナリオです。この粗野な荒くれ武将を懐柔・説得したのが黒田長政で、黒田長政はその後も小早川秀秋や吉川広家の寝返り交渉にも成功し、戦後は一番の功労者として豊前中津12万5,000石から筑前名島52万3,000石へと大幅加増となっています。ところでこの黒田長政ですが、これだけの知略に富んでいながらも、父の黒田孝高(官兵衛)には及ばなかったと言いますから、黒田官兵衛の知略が窺えるところです。さらにこの小山評定では、山内一豊が居城である遠州掛川城の明け渡しを表明したため、東海道の各将もそれにならって城を明け渡したと言われています。豊臣秀吉が1590年に小田原の役で北条氏を滅ぼした後、北条氏の旧領である関東に徳川家康が入り、徳川家康の旧領である駿河・遠江・三河には、その抑えとして豊臣秀吉貴下の有力武将が入っていたので、この山内一豊の申し出により東海道の通行が容易となりました。ところでこの小山評定では、福島正則や山内一豊に倣って、諸将がこぞって徳川家康に味方した印象がありますが、その中で徳川家康に従わずに帰参した武将がいたことはあまり知られていないかも知れません。美濃岩村の城主田丸直昌は、豊臣家の恩顧を理由に東軍には加わりませんでしたが、なんとも愚直というか、そうそうたる面々がキラ星の如く居並ぶ空気の中で、よく勇気があったものだと思います。悲しいことに田丸直昌が寝返ったところで大勢に影響はありませんでしたが、この関ヶ原の戦いの趨勢を揺るがした武将もいました。会津討伐には従軍しながら、石田三成の挙兵を知って西軍に寝返った真田昌幸です。真田昌幸の抗戦によって徳川秀忠軍の別働隊が関ヶ原に到着することができず、あわや秀忠が切腹させられそうになったのは、歴史の知るところでしょうか。関ケ原の戦いが終わって江戸時代に入った1622年、将軍の日光社参の休憩所として、小山には小山御殿が建てられました。この地に建てられたのは、関ケ原での小山評定を吉例としたことに因んでいます。小山御殿跡建物は台風で一部損壊したため、1682年に古河藩によって解体されました。小山御殿の復元図小山御殿は土塁と堀に囲まれていたようですが、現在も小山市役所の裏手にその土塁の跡らしきものが残っていました。小山御殿の堀跡関ヶ原合戦についてはこちら↓【送料無料】関ヶ原(上巻)改版 [ 司馬遼太郎 ]【送料無料】関ヶ原(中巻)改版 [ 司馬遼太郎 ]【送料無料】関ヶ原(下巻)改版 [ 司馬遼太郎 ]
2012/08/15
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栃木県足利市は、室町幕府の初代将軍足利尊氏などを輩出した、名門足利氏の本拠地です。その足利市にあるのが鑁阿寺(ばんなじ)で、足利氏の氏寺であると共に、寺院が建立される前は足利氏の居館が置かれていました。鑁阿寺の正式名称は「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺」と言い、大日如来を本尊とする真言宗大日派の本山です。正面の楼門(仁王門)と反橋鑁阿寺と同じ1196年に創建されたのですが、室町時代に兵火に遭い、1564年に再建されました。仁王門の仁王像は鎌倉時代に運慶によって作られたとされています。1299年創建と言われる本堂も足利氏時代から残るものなのですが、残念ながら修復工事中でした。実は以前も鑁阿寺を訪れたことがあり、修復工事前の本堂の画像があります。本堂(重要文化財、2008年10月撮影)足利氏第2代である足利の創建と言われ、1592年に再修されたものです。経堂(重要文化財)前述の足利義兼が妻の供養の為に創建したと言われ、1407年に関東管領足利満兼によって再建されました。御霊屋(赤御堂)鎌倉時代の創建とされ、現在の建物は江戸幕府第11代将軍の徳川家斉によって再建されたものです。大酉堂 元々は足利尊氏を祀るお堂として、室町時代に建立されたものです。甲冑姿の足利尊氏像が安置されていましたが、「足利尊氏=逆賊」の皇国史観が台頭すると、足利尊氏像は本堂に移されました。校倉1432年の創建と言われ、棟札によると1752年に再修されたそうです。鑁阿寺の宝物が収められていました。多宝塔開基である足利義兼の創建とされており、現在の建物は江戸幕府第5代将軍綱吉の母である桂昌院の再建と伝えられていました。しかしながら寛永6(1629)年の銘があることから、再建年代はもっと遡るとされています。蛭子堂創建年代は不明ですが、足利満兼の妻北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀って建てられたものです。鑁阿寺も元は中世の武士居館であり、方形の堀と土塁で囲まれた形になっています。土塁と外堀その外堀の四方には、門が置かれていました。東門 創建時からあるもので、1432年の修築とされています。北門創建された時代にはまだ登場していない薬医門形式で、江戸時代末期に造られたものです。西門東門と同じく1432年に修築されたものです。足利氏の始まりは、源義家(八幡太郎)の三男である源義国が、下野国足利荘を領有したことに始まります。源義国の二男源義康が足利義康を名乗り、以後は代々足利氏を称するようになりました。その足利義康が居館を構えたのが、足利氏館としての鑁阿寺の始まりです。足利義康の子である足利義兼(2代)が、1196年に居館内に持仏堂を建立し、足利義兼の戒名である「鑁阿」が鑁阿寺の由来となっています。さらには足利義兼の三男である足利義氏(3代)が、1234年に伽藍を整備して、鑁阿寺が足利氏の氏寺となりました。吉川英治著「私本太平記」の中では、以下のような記述があります。足利氏の祖である源義国は、「七代の孫、かならず天下をとり、時の悪政を正し、また大いに家名をかがやかさん」と置文しました。その七代の孫に当たるのは足利家時なのですが、足利家時はその置文の内容を「三代の後の子に託す」と遺言を残して、自刃してしまいました。その足利家時の遺言にある「三代の後の子」こそが足利尊氏でした。足利尊氏像先祖の置文の予言や遺言通りに天下をとって、後醍醐天皇の建武政権に変わって室町幕府を設立しました。鎌倉幕府の倒幕から、建武政権に反旗を翻して武家政権の奪還と、この人ほど毀誉褒貶の激しい歴史上の人物もいないかも知れません。平成3年の大河ドラマ「太平記」で、足利尊氏役の真田広之が着用していた甲冑。(同じ足利氏にある「太平記館」にて)(財)日本城郭協会「日本100名城」私本太平記(1)価格:550円(税込、送料別)
2010/07/20
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栃木県足利市は清和源氏足利氏発祥の地であり、その足利氏の居館跡である鑁阿寺(ばんなじ)の隣に、足利学校があります。足利学校の遠景(歩道橋より)「日本最古の総合大学」とも言われる足利学校の創建については諸説あって、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあります。いずれにしても室町時代に衰退していた学校が再興され、後の発展の基礎が築かれました。1439年に、「永享の乱」で知られる関東管領上杉憲実が書籍や領地を寄進し、さらに鎌倉の円覚寺から快元を招いて庠主(学長)に就け、足利学校中興の祖となっています。上杉憲実像上杉憲実が寄進した書物などは、国宝に指定されています。戦国時代には「学徒三千」といわれるほどになり、足利学校の出身者が戦国武将に仕えたりしていたようです。フランシスコ・ザビエルも、「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介しました。江戸時代になった1668年に足利学校の大修築が行われ、その当時に創建された建物も残っています。孔子廟1668年に創建された建物で、内部には孔子像と小野篁の像がありました。ちなみに孔子廟の脇には、伊東祐亨の植えた月桂樹がありました。日清戦争時の初代連合艦隊長官です。(その隣には上村彦之丞の月桂樹もありました)足利学校の象徴でもある学校門も1668年に創建されたもので、庫裡の中には当時の扁額が展示されていました。学校門の扁額明治になって足利学校の東半分には小学校の校舎が建てられたのですが、昭和57年から保存整備事業が進められ、平成2年に江戸時代の姿に復元されています。萱葺屋根の「方丈」(復元)現在では「足利学校と足利氏の遺産」を、世界遺産に登録しよう」という運動が行われています。
2010/07/19
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足利源氏の本拠地である栃木県足利市、その足利市内を見下ろす両崖山の山頂に両崖山城があります。両崖山城は足利城とも呼ばれていますが、こちらは藤原足利氏の城であり、足利源氏の本拠地としては、同じ足利市内の鑁阿寺(足利氏館)があります。両崖山の麓にある織姫神社から、両崖山城への登城道が続いていました。織姫神社の鳥居織姫神社は足利の機織の神様なのですが、縁結びの神様でもあり、229段ある階段を登りきると縁結びが叶うそうです。織姫神社社殿織姫神社は1200年以上の歴史をもち、足利織物の神様として信仰されてきました。織姫神社から見た足利市内と渡良瀬川織姫神社からは「関東ふれあいの道」が両崖山へと続いています。両崖山の尾根伝い登って行くのですが、岩でゴツゴツとしたピークをいくつも越えなければなりませんでした。こんな岩場のピークをいくつか乗り越えたのですが、果たしてこれが城の遺構なのかどうか。織姫神社から約1時間ほどで、両崖山の山頂付近までやってきました。本丸のある山頂付近には、堀切や腰曲輪の跡も見られるようになりました。堀切跡腰曲輪跡曲輪の跡に神社が建っていたのですが、これも腰曲輪の1つのようです。「足利城址」の碑があるのですが、本丸はさらに上にあるようです。さらに上に登って行くと、曲輪の跡に祠がいくつも並んでいました。本丸跡祠は石垣の上に建っているのですが、後世になって造られたものだと思われます。眼下を流れる渡良瀬川の対岸は下野国、新田氏の新田金山城を見下ろすことができました。両崖山城の歴史は古く、1054年に藤原秀郷の子孫である藤原(足利)成行によって築城されたと伝えられています。源平合戦の頃、藤原足利氏は平氏に従っていたため、源氏軍が渡良瀬川まで攻め込んで来たとも言われています。源平合戦で藤原足利氏が滅びると、足利地方は源氏足利氏(足利尊氏の祖先)が治めることとなりました。戦国時代に入ると、足利地方も古河公方足利成氏と平井城を本拠とする関東管領山内上杉氏の争いの戦場となり、両崖山城には山内上杉氏の家臣であった長尾景人が足利に入って、以後は長尾氏の本拠地となっていました。他の北関東の城と同様、両崖山城も関東管領を継いだ上杉謙信と小田原北条氏の勢力争いの真っただ中にあり、何度か攻防戦が行われたようです。北関東の要衝にある両崖山城でしたが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、長尾氏も北条方についたため、他の関東の城と同じく両崖山城も廃城となったようです。
2010/07/17
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