ラッキィセブンティライフ

ラッキィセブンティライフ

知らぬが仏、誤解が幸・監督修業


しらぬが仏、誤解が幸い監督修行
 個室といったって、コンパネ仕切りですが、飯場には私の部屋がありました。
 ダイナマイトの空箱をテーブルにして、坑内、抗外、火薬取り扱いの鉱山保安員の試験勉強を必死でしました。
 こんなこともありました。 
 給料袋をもらって、テーブルの上に置いて、用たしから帰ったらパットその給料袋が消えていました。そして、その日の夕飯から1人分食事がいらなくなりました。辞めていく駄賃に鉱夫が失敬して行ったんです。

 所長から、現場に突き放されて、現場監督をまかされた当所は、私の修業の為の行為と信じていました。坑内では、危険な所に先陣をきらされ、仕事の後始末を終えて、飯場にかえるのは最後でした。風呂もみんながはいった後で、お湯が膝までしかない湯でした。

 監督といっても、なかなか若造の印象がついてまわりました。
 大学を終えてはじめての仕事でしたからなんにもわかりません。
自分でも感じ、みんなもそう感じていたので仕方ありません。 でも、なにくそと言う気持ちだけがいやに燃えあがってたのだけは記憶しています。
 逆転の時は、以外に早くやってきました。 こんなにうまくいくのと思う位の出来事でした。

酒呑みも芸の内  」
芸は身を助けるといいます。 
その日、現場仕事をおえて、飯場に帰ったら、蝮の先山Fを含め、6人の男が食堂で酒をのんでいました。 「やあ、ご苦労さん」と私は、近づいていきました。

  飯場の事務所には、町の酒屋さんから取り寄せた2号瓶の酒が箱入りで積んでありました。 現場の仕事を済まし、食堂に来て、1本、2本と帳面につけてもらって呑むんです。勘定は、月末に賃金から相殺されます。 荒仕事のあとの1杯は、別格の味がするものです。飯場の者は勿論、町から通いの人も、ここで呑んで、ほろ酔い機嫌で帰ります。 誕生日とか、掘進状況がよい所には、所長が褒美に1本がでたりします。 蝮の先山(さきやま)はもう大分酔いがまわっていました。 「ご苦労さん」といって私は食道にはいっていきました。 「一杯のみな」と湯呑みをさしだして、蝮の先山が右手に2号瓶を持ち上げました。「ああどうもありがとう」と湯呑みを受けて一気に飲み乾しました。 のどが渇いていたので本当にうまかったんです。他の連中も飲みっぷりに唖然としていました。 

「私にも3本ください」と2号瓶を、事務所から貰ってきて、みんなの前に置き仲間入りしました。 呑むほどに、酔うほどに、口がほどけ、みんなが前の勤めた現場の話をします。 北海道、東北、九州、みんな全国に渡り歩いているんです。

「俺ん所の所長はな、そりゃあ豪気な人だったんだぜ」
「そうか、俺ん所は先山が九州ん男で可愛がってくれてな」 決まって前の現場はよい所のようです。いいところにいたと思わせたいんです。 辛い思いがあったのに、よかったと思いたいんです。 2号瓶の追加は、増えます。

「あんた強いなあ、まいった」「そうでもないよ」とさされた酒は全部飲み干しました。 2号瓶がテーブルに乱立してその日は終わりました。

 学生時代、除夜の鐘を聞きながら酒をのみ始めて、場所を3回かえて呑んだことがありました。挙句、呑みっぱなしで、元日の日は暮れて、真夜中になってたことがありました。 仲間の北海道のとも達は、“”熊の会“”と称する酒豪ぞろいで、コンパのときは四斗樽を据えて呑んでいました。 私は最初銚子2本でギブアップでしたのが、「酒に交われば飽かくなる」。で学業のかたわら、酒業?の芸をおぼえたんでした。

 翌日、段取りのため皆より早く現場に行きました。 昨日の連中はまだ覚めやらぬ顔をしています。 一緒に呑んだ町から通っている男の顔がみえないので、どうしたのか聞くと、腸ねん転で休んだという事でした。
  仕事がすんで、夜8時ごろになりましたが、町まで歩いて腸ねん転の男を見舞いに行きました。症状は軽くもう治ったとのことで安心して帰りました。
 実はこの男が町では、なうての荒くれ者で、いれずみ消し男も、蝮の先山も一歩さがって従っていたのです。坑内は危ないから、坑外の仕事しかしないといって、坑内に人手が要り所長が頼んでも嫌といって従わない男だったのです。所長も実は手をやいていた男でした。 

知らぬが仏が駒を得る 
 街の荒男は腸捻転もなおり又現場にでてきました。 
「若いのが、夜さ見舞いに来た、こんな事は初めてだ。」 といって、みなに「この若いのに協力せいや」と言いはじめたんです。
 坑内で人手が足らぬ時は、ヘルメットを冠りサアやるぞといって、自分から進んで入ってくれるようになりました。  
 勿論、蝮の先山も一番先に言う事を聞くようになりました。 

 正直にもうせば、わたしが赴任した時、「現場を任せる」といって所長が私を現場に放り出したのは、こんな現場の人間関係のいじめにあって、私が1週間で音を上げて辞めると言い出すだろうと予想しての事だったんです。 辞めさせようとのおもわくだったんです。

 事業所が4箇所あって、他の3つの鉱山の所長は、大学出身の若手でした。 でも、みんな赤字採算でした。当事業所だけが、黒字で本社に送金していたんです。 

 海軍下士官だったという所長には、若いもんに負けるかという意地があり、黒字出してるという自負も持っていました。 京都本社では、社の伝達も無視するワンマン性に困り、かといって唯一の黒字に文句もいえず、職員をもう一人つけて健全化しようと考えました。 新入社員の私にその役をさせようと、まだ就任間もない現場から、当事業所に転属させたわけでした。本社から部長が来ての依頼でした。

 前事業所の所長は、あそこに行ったら殺されるぞと転属を反対してくれました。 でもなんだか面白いと思いまして、「1年だけ行かしてください」と条件つけて承諾しました。そして今の現場に転勤してきたんでした。

 ここで大きなミスがありました。 
前の現場の時、4事業所会議がありました。その懇親会の酒宴の時、今の所長にむかって、「大きい人か、小さい人か分からない」とジョークのつもりで言ったのを忘れていました。
「大胆にして、且つ細心」は、豪傑の条件です。 
 所長はどこかこの条件に近いとその時思ったんです。ひげをのばし、精悍無比で、元潜水艦の下士官でした。反面、小さな几帳面な文字をかく人でした。小さいが余計だったんです。 所長は、酒もタバコものまない人だったんです。 こちらが酒が醒めて忘却しても、もともと酒が醒めない人は覚えています。 本社の人事配転意向も分かっていて、この若造め”の気持ちだったんです。 
  その結果が、「現場をまかせるからやってみな」だったんです。 

 私は信用されたと思いこみ期待にこたえようと必死でした。 
 雷管の種類が分からず、先山に聞いて、ど素人となめられ、ヘマをしましたが、切り羽に巡回に行っては、スコップ持ってトロッコにズリの積み込みを手伝ったり、坑外のズリ捨て場でズリ落としを手伝ったり、坑内の水道管の配管の継ぎ手、レールの部品の加工までしました。新品の長靴の底が擦り切れて1ヶ月もちませんでした。 

 酒の帳簿も、資材の坑木購入も2重の操作がありました。
 ほかの現場はいまだ赤字で、黒字はここの事業所だけは変わりませんでした。
 所長は現場に行かなくなったのでかえって経理操作が楽になったわけです。あとで聞いたことですが、銀行の上得意さんだということでした。 

 一方、所長は、自分が扱いに困った荒男が坑内仕事までやっていると知り、態度が変わってきました。日曜にはジープに乗せて町へ繰り出し映画館に行き、食堂でご馳走までしてくれるようになりました。もちろん、飯場にいる鉱夫も一緒です。

 当地で若い時に育ったという三国連太郎が銀幕で売り出した頃でした。あれだ、あれだと鉱夫が銀幕に指さし教えてくれます。 
 辞めさせる作戦を間違って、愛情と受け取ったため、ひょうたんから駒ならぬ信用を所長から受ける羽目になり、仕事も覚え、鉱山現場は楽になりました。 
知らぬが仏がひょうたんから駒をだしました。26歳でした。

 隣県にある事業所は規模が一番大きい鉱山で、3交替で掘削していました。 ここに総評からオルグが来て労働争議が起きかけました。 本社からの指令で所長は、ここに転勤となりました。 労働組合と一触即発の様相を鄭しました。 後々に又私も呼び寄せられる羽目になるわけですが。 
 所長が転勤になって、鉱夫経験豊かなK爺さんが相談役になり、現場の所長代理を新入りの私が受け持つことになりました。 そして明後日、本社から専務が事業所に来るとの知らせがあったその夜、事件は起きました。 

ジープ落下
 事業所のジープが5メートル下の川に転落しました。酔っ払い運転でした。

 日曜日夕飯もすみ一段落している時でした。
 街の山持ちさんが飯場に立ち寄りました。 用件はたいしたことではなかったんですが、後山のYがジープで街まで送っていく事になりました。米進駐軍の払い下げのジープがあったんです。Yは免許をもっていて所長がよく運転させていました。だが10時過ぎてもYは帰ってきません。
「なんかあったんだろうか、おそいなあ」「10分もかからんぞ、おかしいな、酒呑んどるかもしれんぞ」 Yは酒が好きです。悪い予感がしました。
 様子を見に街の方へと真っ暗な道を歩きました。 

 しばくすると、山道の下方から車のライトが右左と闇を縫ってあがってきます。 坂道ですのでスピードはありません。確かにジープです。 

 道の真ん中で立っているのに、止まる様子がありません。慌てて飛びのき、ジープの後部ドアを走りながら開け飛び乗りました。 案の定、後部シートに座っても分からない位酔っています。 
 飯場の前に川があり、その横の広場が駐車場になっています。 広場までたどりつき、方向転換して駐車です。 川に向かって1回進み、ブレーキ、バック、車寄せ、もう1回前進、ブレーキのブレーでキの時は、前輪がゆるやかに道肩を越えていました。 アット言う間もなくジープは川に落ちていきました。 
宙に浮いたと思ったら、後ろ座席からフロントガラスまで投げ出され、尻からいやと言うほどぶちつけられました。ガラスは飛び散りました。 運転手は車外に飛び出していません。 

みると川の中の大きな岩に運転手はへばりついています。
「大丈夫かっ、おい」側に近寄って肩に手を当てたら急に泣き出して、「すみませーん」と抱きついてきました。
 怪我がないとわかると、むしょうに腹がたってきました。 でも腹が立ちすぎると声もでないものです。 
 そのころ、飯場の連中が音を聞き寝巻き姿で出てきて、とりかこんでいました。 事務所で、Y爺さんが平静な顔しているのが、かえって腹が立ち、ヤケ酒をあおりました。 本社からの客を前にしてなんと言うことが起きたのか。万事休すです。 でも対策はたてねばなりません。
 以前日通に勤務した事のあるTがいました。 なんとかしてグレーン車を手配してくれるよう頼みました。 明朝未明に山を下り、日通の始業前に、玄関前で戸が開くのを待って一番に頼んでみるからといってくれます。 

 翌朝、黄色い大きなグレーン車が細い山道を上がってきたときはとてもうれしいものでした。助手席にはTが乗っていました。心強く感じました。 引き揚げ作業は、グレーン車を固定して、ワイヤをジープにかけたと思ったらいとも簡単に上がってきました。前輪がひしゃげていましたが、足で蹴りますと元にかえりました。さすが戦場を走る車、フロントガラス以外はなんともありません。 Tに運転してもらい、隣市のガラス屋まで行き厚手のガラスをはめてもらいました。
 専務一向の視察は無事終了しましたのはいうまでもありません。

山火事続き、災害は忘れない内に来る
「コンプレッサーの排気で山が火事になった」と電話がかかったのは、陽気が漂う頃、事務所での仕事をしている時でした。 現場までの1キロほどの道をどうして走ったか記憶ありません。 灰色の煙が立ち登っています。 春先の陽気は、枯れ木や枯れ草を乾燥させます。 コンプレッサーの排気からでた火の粉が枯れ草に燃え移ったのが火事の原因でした。 雑木林であったのと、木がまだ小さかったので類焼はまぬがれました。坑内から飛び出してみんなが火消しをして大過なくすみました。

 乾燥期ゆえ火に注意しようといましめあいました。
 ところが、1週間もたたないうちに又大山火事に遭遇してしまいました。
 隣村が山火事だと聞き、坑口に立ち眺めましたら、かすか向こうの山際に黒い煙があがっていました。 火事と聞き記憶に真新しいので皆んな仕事が手につかぬ様子でしたが、工期も迫っていましたので坑内仕事を続けさせました。 煙がこちらに向いてきて、その速度がどうも速いようです。 燃え広がるというより、飛び火するようにしてこちらの方に進んできます。風が火を進め火が風を起こすというんでしょうか、手に取るようにみえました。 その頃通気坑も兼ねて坑道が裏側山頂に貫通していましたのでここから、パノラマを見る様に観察できました。 30分もかからぬ速さで、火列の先端がはっきりと観察できるようになりました。どうも様子がただならぬようです。
 坑内の仕事を中止させ、山の中腹にある火薬庫からダイナマイト、雷管を運び出させ坑内に移動させました。 最後のダイナマイトを坑口まで入れた時には、頂上まで火の手がやってきました。危機一髪でした。 
 鉱山の入り口は、化粧枠といって、山の男が念入りに格好をつけて作っています。通気坑の化粧枠が危ないというので、バケツさげて坑内を走りました。 行ってみると、坑内に火の粉が飛び込んできて、まさにあたりは火事真っ只中でした。枠に水をかけ焼けぬようにしました。 このあたりは目通り尺、2尺の大きな松林の林立しているところでした。 小さな火の粉がまず飛んできて、枯れ草がちょろちょろ燃えます。 その火が松の木の根っこに行ったと思った瞬間、木の幹をつたって一気にてっぺんまで炎があがり、瞬時に枝を伝い松の葉が火を噴きます。 発火温度にあたりが熱せられているので、火が来るとたちまち炎になってしまいます。 炎が風を呼び、風が炎になり、まさに炎舞です。 
 山火事は炎にまかれて危険だといいます。全くです。 坑内に避難できるので、山火事の真っ只中を近くで見学できました。 火の手はまだ手をゆるめず、鉢伏のテレビ塔基地の山へむかいました。火薬庫は無事でしたが回りの草木は焼かれて真っ黒でした。 夜7時頃ちいさな雨がふりました。瞬く間に鎮火しました。 山火事には雨が一番と知りました。 どうも忘れないうちに災害が来るのは、最近の常識になりました。 

労働争議と戦災孤児と刃傷事件
人里はなれた山中の鉱山飯場、真夜中2時ごろのことでした。「喧嘩だ、きてくれ!」 部屋の中に鉱夫がとびこんできました。 飯場の食堂にとんでいくと、人々が二つにわかれ、一方に電車の運転手のTが血がついた左手をおさえています。分けられたもう一方に、後山(あとやま、現場の補助員)。のYが炊事場の出刃包丁を持ってたっています。みんなが喧嘩をひきわけたところでした。 突いてきた包丁を両手で抑えて切れた傷でしたが、幸い怪我は浅く、救急箱でまにあいました。

 問題はYの取り扱でした。 所長は、出張で不在中の出来事でした。 Yは戦災孤児で、兄弟2人の天涯孤独で、弟はお寺にあずけられており、Yはトンネル工事、鉱山を渡り歩いていました。 事務所に連れて行き話をしますと、酒も醒め申し訳ないことをしたと反省しています。Tの言葉付きが気に入らなかったようでした。時として山陰の方言が呼び捨てされる感じで腹がたつことがあります。高知男のTには、この新入りYが生意気なという気分があったんでしょう。 
 でも刃傷事件です。 真夜中、山の奥、所長不在、いかに処理すべきか早速私は、御験しにあいました。 

 話せば長い事ながら、麻畑前任地で、所長の嫌がらせを、好意と勘違いしたため、現場の鉱夫に痛めつけられ乍らも、それが好転し、鉱夫にも、所長にも可愛がられるようになりました。 
 それも束の間、中央からオルグの指導で人形峠事業所に労働組合が出きました。 人形峠事業所は、会社の一番おおきな鉱山でした。 所長は本社命令で急遽転勤命令で峠所長に転勤になりました。 組合つぶしと反発がかなりあり、ストライキも辞さない雲行きでした。 そして、私にも転勤命令がおりました。 所長の後を追って峠に赴任と言うことになりました。 今度は所長が、要請したようでした。 所長の信用は頂けるようになったんですが、なにしろ、前任地の鉱山に較べたら、雲泥の差がある大きな鉱山でした。 トロッコも連結して10台も、電車でひいてきます。 にわか仕込みで鉱山仕事は、前任地で覚えましたが、ここにきたら専属工がいて、労力はいりません。 
 でも所長が呼んだ組合潰しの監督の印象があり、白い、冷たい目が又従業者に浴びせられました。それと、私の髭が端のほうがつまめるほどに伸びていたことも反発を招いたんでしょう。実は私もひげをのばしていたんです。 

 話は戻って真夜中、Yと2人事務所の中にいました。
 聞くと前の現場でもYは喧嘩して辞めたとのことでした。 もうしませんとわび、夜が明けたら山をおりるといいます。 反省しても次の現場で又喧嘩するかもしれません。 天涯孤独のみそらで、気の毒です。 ここでなんとか止めてやることができないものか。労働組合長に来てもらって逆に相談をかけました。
 労働組合長は、初め何のことかといぶかしげでしたが、Yを守ることに賛成してくれました。今日の事件は、私が全責任を持つことを約束しました。 
Yはもう絶対喧嘩騒動はしない。Tにあやまることを約束しました。
労働組合長は、Yの責任を持つ。そして、Tにも許してもらうようとりはからう。 以上を、組合長に誓約書を書いてもらい、Yの署名もとりました。 そして書庫の奥底にしまっておきました。
 翌日は、なんのこともなく、あけました。所長も帰ってきました。でも内緒にしました。 Yは人間が変わったように働きはじめました。


© Rakuten Group, Inc.
X

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: