昭和31年刊行の倉吉市誌(昭和28年10月1日5万2千人で市発足)に記載
日本にウラン鉱の産することがわかったのは、1884~5年頃、岐阜県中津川市北方の苗木地方から発見されたフェルグソン石、および苗木石で、その後多くの人々により調査され、ウラン鉱床の研究が行われてきた。
特に第2次世界大戦中は、ウランは戦時資源の花形として研究され、時の学術振興会大58小委員会、その他の人々により研究調査されたが、戦後原子核エネルギーがただたんに原爆資源としてのみでなく、むしろ平和産業の動力源として、あるいは諸種の学術研究用として、各方面に利用されはじめ、原子核エネルギーの最重要資源の一つである含ウラン鉱は世界各国で大々的に採鉱されはじめた。
日本でも鉱物学者、化学者、民間アマチュアはもちろん、通算省が採鉱にのりだし現在までに60以上の産地が知られ、含ウラン鉱の種類では20種をこえている。
当市、および当市付近の含ウラン鉱床もこのような時代の要請の中において発見されたものである。
関金町の石坂清福が、自分の鉱区で昭和17年の企業整理まで採金していた小鴨鉱山の鉱石を東京都の東商会社長、東善作におくった。(30年3月)
東はG,H,Q天然資源局のC,Bホスキンスと同道して4月入山の結果を通産省地質調査所へ報告して以来、現地調査は、今までに3回で、飛行機、自動車探査、ボーリングにより、同鉱山を中心に大々的に探査された結果、日本で最も有望な含ウラン鉱山として、時代の脚光を浴びるにいたった。
通産省中沢次郎技官、東大片山信雄教授等の30年12月までの調査測量データーによると大体次のようである。
鉱区所有者は関金町の石坂清福で、約40年以前から戦時中まで最近していたもので、現在は廃坑である。場所は旧市街地から約10キロ隔てた旧小鴨村内で、民家僅か4戸の山里、倉吉市菅原の東側標高400米の山側にある。横に坑道があり、北東へ240米掘られており、入り口から50米入った所に上下の竪坑(60尺)がある。
鉱床の本鉱は北東約60~70度の方向に走り西へ70度の傾斜をもち、鉱脈の幅は最大1,5米である。基盤は黒雲母花崗岩、岩脈で鉱床中には亜鉛、鉛、黄鉄鉱、微量の金,ヒ素を含む低温生成の金鉱脈で、金属含有率の高いところ程ウラン含有率も高く冨鉱部ではウランの品位も高い。0,14~0,16%含有量。カウンタ―3万~6万カウンター毎分。
本脈の北西約500米巾の地帯には、本脈と並行する鉱脈の露頭3-4条確認されている。注目される点は、本脈を中心に三朝ー広瀬感10数キロを結ぶ線上に500メートル幅の弱線帯(岩盤の割れ目の多い地帯)が発達し、この帯の中に鉱脈群が形成されていることで、この地域全部ガウラン地帯と推定されよう。露頭にはウラン鉱床の特徴である赤鉄鉱化作用が著しい。
これらの事実から小鴨鉱山は、東北から西南に延びるお大きな含ウラン鉱脈の東北端に近い一部に過ぎないのではないかと推定される。これに関連して、菅原の西にある倉吉市広瀬地区(シンチレーションカウンター毎分6-10万カウント計測)、更に三朝町北東の東郷町波関峠など相当強い含ウラン鉱物が発見されている。
また三朝町福吉の古い坑道内で最高シンチレーションカウンター毎分3万6千カウント以上の新鉱脈が発見され、北東60度にのびているらしい。
なお同時に発見された(飛行機探査が端緒となる)岡山県との県境近くの栗祖の人形峠鉱脈の基盤は、小鴨鉱山と同じ花崗岩地帯であるが、水成岩層に発見されたウラニューム鉱石として日本ではじめての大四期洪積世以前の地層に存する鉱床である。
ここに黄緑色二次鉱物の燐灰ウラン鉱(オーチュナイト)が発見され、剣道沿いの掘割の地表に200mもあらわれている。
平均品位0,1%-0,4%で5万7千カウント計測されており、地表から浅いので堀やすく、それだけに有望視されている。しかし、分布状態、埋蔵量は今後の調査にまたねばならない。
この鉱床は熱水作用によって、ウランが水成岩中に入ったものとも考えられ、一概に水成鉱床であると判断しかねる。
以上のウラン鉱床の見通しについては充分の長さ結果に依らなければならず、いろいろな問題も残されている。
金属鉱床中に多量の含ウラン鉱の発見されたのは、當小鴨地帯鉱山と岡山県の倉敷市三吉鉱山で、特に小鴨鉱山は鉱脈が連続している点、それが広範囲にわたっていつ点、品位の高いことなど日本で最も有望視されるに至った所以である。
今後の問題は、鉱脈の深さとその状態、特に初生鉱物であるピッチブレンドの追及が問題となり、調査が進むにつれて品に、埋蔵量など大体確定してくると思う。