ラッキィセブンティライフ

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雄誉霊巌上人と伯耆倉吉の里見忠義

雄誉霊厳上人

 雄誉霊巌上人は、里見義康の帰依により安房に浄土宗大巌院を開山として創建、さらに義康の子10代忠義も帰依させ円頓の妙戒を授与し、忠義より永世42石朱印をうけています。(1609年 忠義が倉吉に来る5年前)

 雄誉霊巌上人は諸国で数多くの寺院建立、布教の大活躍し、皇室の信任が厚く後水尾天皇に進講したり、家康、秀忠、家光に親しく法談を行った人物、のちに浄土宗総本山知恩院第32世住持という傑物です。
NPO安房文化遺産フォーラム・雄誉霊巌上人像

 慶長19年(1614)里見忠義が伯耆倉吉に転封されてきました。
 関心事が雄誉霊巌上人が倉吉に来て忠義と面会されてることです。


1、忠義との面会のこと

 面会された年月については、元和2年(1616)頃、元和3年(1617)9月頃、 諸説ありて判然としませんが、上人が法然の足跡を参拝する西国行脚名目で旅立たれたのも忠義改易の年(1614)、翌年8月の説があります。
 鎌倉、沼津、伊勢山田、奈良、大阪、播磨、岡山法然ゆかりの誕生寺から倉吉に直行し、三隅、久留米、京都、伊勢山田、沼津、鎌倉、館山の順に行脚されています。(橋津歴史塾)

 この時、伯耆では、雄誉霊巌上人が三朝穴鴨大雲寺、赤崎の専称寺を開山されており、穴鴨では、たたら王の安田家、赤崎では松江藩ゆかりの庄屋河本家が尽力されています。

 興味をひくのは、橋津にある西蓮寺の開山覚蓮社本誉春道和尚が雄誉霊巌上人の弟子であり、西蓮寺開山後2~3年目で、すでに橋津におわしたことです。
 忠義公との面会、勿論、本誉和尚との面会もありましたでしょう。
 如何だったでしょう。

 面会の年月ですが、元和2年と3年では、環境が大きく異なります。
 それは、元和3年(1617)に,因幡伯耆が池田藩となり、倉吉は家老伊木長門守が統治するに及び、忠義は表舞台からおろされました。元和2年ならまだ表舞台の神坂にいます。

 元和2年に、里見忠義は北条の山田八幡宮、倉吉の北野天満宮の社殿造営をしてることから、やはり面会は元和2年が正しいでしょう。
 雄誉霊巌上人、本誉春道和尚も加わっての対談は、希望に満ちた紅顔23歳の忠義公だったでしょう。


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