ラッキィセブンティライフ

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熾烈なり権力闘争のとばっちり里見忠義

江戸幕府内では、大久保忠隣とその与力の大久保長安を中心とした武断派と本多正信・正純父子を中心とした文治派が激しい権力闘争をしていました。

両派の力関係は互角でした。

本多正純の与力である岡本大八が、賄賂事件を起こし、本多の文治派が形成が劣勢となりました。

慶長17年(1612)キリシタン大名の有馬晴信が、岡本大八に賄賂を贈った事が露見し、その一部6000両が文治派、本多正純に渡ったと嫌疑がかけられました。実際うけとったのではなく大八が着服したようでしたが、反対派からの誹謗中傷はすざまじく、文治派本多父子は、権力闘争から落下しました。

岡本大八は、駿府市中引きまわしの上、火あぶりの刑に処せられました。有馬晴信も改易、流罪され、最後に切腹を命じられ、キリシタンのため自害を拒み家来に首をきらせて生を終えました。

慶長18年(1613)に、今度は、武断派大久保忠隣の与力、大久保長安金山・銀山奉行が横領してたと、本多正信・正純がきめつけました。長安が死し後です。

長安も派手好みで、金の棺に遺体をいれよとの遺言を残しており、家康の激怒の命で長安の屋敷を調査しました。多数の金銀がみつかりましたが横領では、なかったようですが、これを失地回復とばかりに、文治派は長安奸賊決定へともっていきました。、

遺体は掘り起こされ、岡本大八と同じ安倍川の河原に磔にされ、同日大久保長安の7人の男児と腹心は処刑せられました。

大久保忠隣が豊臣秀頼に内通してるとの讒言もあり、家康の不興を買い、大阪にキリシタン鎮圧の命で出たところを、忠隣は改易を申しわたされ、井伊直孝に御預けの身となりました。

改易の主な理由は、豊臣への内通、長安事件の連座、忠隣の養女の無断婚姻など提示されていますが、政敵を追い落とすための文治派の策謀であったと推察されています。

豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく和平論をとなえる可能性の忠隣を遠ざけたとする説もあります。

忠隣失脚後、連座として、里見忠義の妻が忠隣の孫娘であることで、堀利重が、妻の母親が忠隣正室の姉ということで改易、ほか大久保派がすべて改易、忠隣の居城、小田原城も破却となりました。

長安と忠隣の失脚により、幕府は完全に本多親子の牛耳ることとなりました。



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