伯耆倉吉には、伊木長門守忠貞の”長門土手”、”勝入寺建立”など、今に残る偉業が存在しています。
しかし、15年治領された記録としては、残るものは、実に少ないのです。
なぜ記録がないのかは、お国替え自体が、主君が幼少だからの理由で姫路から鳥取の地に国替えし、しかも十万石減俸してのことは、明らかに左遷、あわよくばとりつぶしの考えが幕府にあったのでしょう。
だから、うかつなことで上げ足とられぬように気をつかい記録は最小限にとどめたのでしょう。
それに、倉吉は、池田家を当初から守り育てた家老伊木家の統治だったから、よけいに秘密主義が守もられました。
トップの家老伊木忠貞は、慶長17年(1612)の生まれで、元和3年(1617)のお国替えで倉吉に来た時は、齢6歳,前年に父忠繁をなくし、家督を相続したばかりでまだ幼名三十郎と名乗っていました。
寛永3年(1626)元服して伊木長門守忠貞と名乗りました。それは倉吉にきて9年あとのことです。里見忠義が堀で亡くなって4年あとのことです。
この伊木家の幼君の輝かしい実績を支えた謎解きに、伊木半兵衛正春という伊木宗家の仕置家老なる存在がありました。
(この資料は岡山邑久町郷土史クラブ編 「備前藩筆頭家老伊木氏と虫明」より引用させていただきました)
伊木半兵衛正春は,伊木家初代伊木忠次の甥で、忠次の弟、伊木教春の子です。
播州三木の前任地では、伯父忠次のもとで右腕として働きました。播州三木城を伊木忠次が池田家中で預かりした時、城郭を改修し、城の北東に寺を建て、千手観世音菩薩像をまつり、先君、勝入斉信輝を祀り、伊木家の菩提寺とし、護国山勝入寺建設にも尽力しました。
初代伊木忠次が三木城の完成を見ず他界すると、伊木半兵衛正春は、伊木宗家2代忠繁を相続させ、忠繁が36歳で亡くなると、数え5歳の三男三十郎(忠貞)を伊木家家督相続させたのも半兵衛正春です。
勿論三十郎(忠貞)も、幼いながらも叡智で豪放、優れた体格であった事でもありました。
しかも、この年元和2年(1616)のはじめ藩主池田利隆が死去し、幸隆(光政)が家督を継承した大騒動の年の8月に伊木忠繁の死去がありました。
明けて、元和3年には、『幼君では姫路の護りは難じ」と、幕府は池田幸隆にお国替えを鳥取に命じました。
国替え責任者となった家老池田由之が、藩政をしきり幼君をないがしろにした評もあり、お国替えを総指揮していた正条川(揖保川)の渡しで、家中の大小姓神戸平兵衛に恨み刺し殺され、犯人もその場で自刃する事件がありました。3月31日の夕方の出来ごとです。(池田由之は、勝入斎と一緒に戦死した長子池田之助の子で世が世であれば、池田家の長になれる立場だった。)
その夜、正条の宿で急を知った三十郎(忠貞)は、全家中に「池田出羽守樣鳥取下国中、正条の渡しで急死された」と触れ込み、出羽守家中に禁口令をだし、幕府にも届けをだし、継息由之に家督相続を願いでました。
後日、真相を知った多くの家中が、三十郎の「この処置に感心した」と伝えられています。「時の伊木氏仕置家老は伊木半兵衛正春であった」と糺し書きがついています。
平成8年10月に編じられた邑久町郷土史クラブ編に記されていますが、三十郎は6歳、前年伊木家を相続したばかりで、仕置家老は伊木半兵衛正春であったと記されてるように、この処置の参謀は、半兵衛の陰の力があったらばこそです。
これが公になれば、鳥取はおろか、藩そのものが藻屑になってたかもしれません。
殺された池田出羽守由之の子由成は、鳥取にはいると、家老として米子領を管理する役をおおせつかっています。
風波もたてず、みごとなこの処置は、現在の鳥取人にしても初耳が多い事です。
倉吉に入った三十郎(忠貞)の第一の仕事は、城下町の改修と天神川、小鴨川の改修であったとありますように 長門土手、勝入寺建設は、伊木半兵衛にとっては、すでに三木城での改修経験、忠繁の姫路城普請奉行の折、手助けの陣頭指揮経験があったからこそのことです。
鳥取城建設も姫路城建設の普請奉行忠繁の元で陣頭指揮の伊木半兵衛が、尽力したものでしょうが、夢寐にも喧伝されないよう記録に残されてないようです。
(現在、倉吉の成徳小学校前の繫華通りの看板に倉吉歴史案内がありますが、南条統治から、いきなり荒尾統治へとなっており、伊木統治は省略されてあるのも記録がなかったからかも。おかげで里見忠義公も陰が薄くて可哀想)
「大河ドラマに里見忠義を」と当局にお願いを、千葉・鳥取両県でおこなっていますが、まずこの看板の歴史認識をかえるべきです。
寛永9年(1632)に今度は、岡山城主池田光仲が幼少との理由で、鳥取と岡山が国替えになります。
20歳になった忠貞は、主君より早く岡山に入り主君を迎えました。
虫明陣屋三万三千石をたまわり、半兵衛と協力して体制をととのえ、後に千力さまと住民から親しまれる岡山池田藩第一家老となりました。
しかし岡山にいっても「身上危き事に成り申候」のように幕府の目を恐れて、書類を書くのも気をつけていた事が記事にあります。
倉吉到着の頃は察するにあまりあります。
記録がないのでなく、残してはならなかったのでしょう。
預かりし里見忠義主従の事も、記録にないのは仕方ありません。
6歳の伊木忠貞の業績の真髄が判明しました。
倉吉図書館の方が岡山より資料を探して下さいました事感謝します。
追記 「鳥取入府400年 池田光政展 ”殿、国替えにございます”」
の年表を見ると加古川渡し場における池田出羽守の刺殺事件が年代が元和4年となっており付記します。(平成30年10月3日記)
元和3年(1616)光政因幡・伯耆32万石への国替えを命じられる(3月6日)
家臣が播磨から因幡・伯耆へ入る(8月14日)
池田出羽が米子城、伊木三十郎が倉吉陣屋、日置豊前が鹿野城に入り、土倉市政が 国務を担当する(8月14日)
元和4年(1617)光政、江戸を出発(2月20日)
加古川渡頭において池田出羽が神戸平兵衛に刺殺される。(3月11日)
光政鳥取に初入国し、御礼使として土倉市政が江戸に赴く(3月14日)