ラッキィセブンティライフ

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伯耆民談記 強力の正木大膳と矢田某


伯耆民談記 一、里見屋敷の事
「矢田幸佐は、七郎右衛門と言って元は出雲の武士であったが、鳥取城の武田高信の臣となり、気高郡河内村荒神山城主となった。その時鹿野城の亀井新十郎玆矩と領地の境界について度々あらそったが、遂に敗北して、浪人となり、伯州倉吉にのがれ、民間に交わり、船を求めて矢田丸と名つけ商業に従事したが子孫はそこにつたわっておる」
 気高郡誌の中にある矢田幸佐が矢田某だろうと倉吉市誌(昭和31)にある。

 大蓮寺にある三基の五輪塔は矢田氏のものと言われ、現在下福田の矢田家がまつられてる。又口碑として伝わってることに加茂神社の神輿の一体は矢田の寄進であるし、魚町と東街の間の小川に三明寺古墳の盤石を運ばせて石橋をかけたのも、そうである。ちなみにその石橋は現在は打吹公園の由来を記した石碑となっている。
(倉吉市誌昭和31年)

 正木大膳之孫、倉吉住正木利善入道義清、萬祥山境内観音堂江奉納額記録之事
一、表者円通閣之三字也      但シ横弐尺三寸
                   竪壱尺六寸
  裏二伯倉之住正木氏
       利善入道義清
  奉寄進
  後世をかけて
       願い□額なれや
  慈悲の誓ひを
       たのみこそすれ
 享保五(1720)

 大岳院の観音堂に大膳の孫の奉納額が、あったそうな。正木大膳の在倉の証。

 おそらく正木大膳が倉吉にいたころに、生まれた子の子孫であろうか。(”房総里見一族”の作者、川名登)




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