ラッキィセブンティライフ

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北条八幡宮奉納棟札


 元和2年(1616)2月
 北栄町・北条八幡宮蔵

 里見忠義が北条郷の山田八幡宮を再建した際に施主として名を記した棟札がある。
 棟札を所蔵する北条八幡宮は北栄町北尾の八幡山に鎮座する神社で、9世紀半ばに豊前の宇佐八幡宮から勧請されたと伝えられ、中世以来、武家の信仰篤く、梵鐘や車両の寄進をうけてきた。

元和2年に社殿を再建した里見忠義は安房館山城主であったが、小田原城主大久保忠隣が失脚した事件に連座し、慶長19年に国替えを申し渡されて、改易同然で伯耆倉吉に移された。その後、光政が入国すると、改めて百人扶持を与えられて、郊外の地に屋敷を移されたが、元和8年に病死し、大名里見家は断絶した。

 本棟札はの銘文には、里見家再起への願いもこめられているとされ、忠義の心情を察することができるほか、北条郷代官奉行や、建築に関わった大工たちの名前も記されており、地域の様子がうかがえる点でも貴重な資料である。
 「鳥取入府400年
 池田光政展ーーー殿、国替えにございます」より

 八幡宮の修造は、永世5年(1508)に里見義通が安房国北条郷の鶴谷八幡宮で行って以来、代々の当主が行ってきた事業でした。しかし忠義は鶴谷八幡宮の修理をすることなく倉吉へ移されてしまったのです。そのため伯耆国北条郷の八幡宮でそれに代えたのです。その時に奉納された棟札には忠義の心情がよく表されています。

 「敗壊転倒奇かな妙かな」で始まる棟札の願文には、自分の没落を奇妙と評する改易直後の心境が綴られ、房州太守の身でありながら、徳川家の威風によっていまは西国倉吉の地にあることや、世の流れで西国に斜陽の日を送っているが、太陽も月も地に落ちることなく、やがて再び東から明るい光をさしてくる時が来ることを信じていることなどを記しています。あからさまな徳川家への無念の思いと東国にある故国へ復帰することを願う気持ちがこ められているのです。そして安房国民の変わらぬ里見家への思いを信じ、主君として、忠孝の武勇の道を学び、仁義礼智信の五つの道徳を実践することが、子孫への責任であると主張しています。忠義は安房で家をおこすことを願っていたのです。
「里見家の落日」より


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