暴れん坊将軍は8代の吉宗、松平健が若い時の凛々しい剣裁きを、テレビでやっています。他局で今度は水戸黄門さんが印籠を持って悪を懲らします。
吉宗は紀州、黄門は水戸、時代は同じでないが、吉宗のお爺さんと黄門の父とは兄弟で、徳川家康の10男と11男で母親はお万の方で、里見忠義公御一門衆の勝浦、正木環斎の娘です。正木環斎は主家里見の改易で紀州の家老になったお万の兄為春の元で過ごし、元和8年(1622)他界、奇しくも里見忠義の他界と同じ年。
家康が島田で見初めたという美人のお万、御年17歳、家康54歳の時。
紀州藩、徳川頼宜、水戸藩、徳川頼房、と幼児のうちに初代藩主となる。家康老後で先がわからいので早く処遇決定。
紀州藩、徳川頼宜の長男、2代藩主光貞の子で、4男が8代将軍徳川吉宗です。
7代将軍家継8歳の死で、秀忠の男系子孫、つまり徳川将軍家の血脈が途絶える。
6代将軍家宜正室、天英院の指名で、御三家出身初の養子として宗家を相続8代を継ぐ。
水戸藩は、家康の11男、養珠院お万との子頼房が初代藩主。水戸光圀は頼房3男、2代藩主で、財政は芳しくなかった。
話は変わって、暴れん坊将軍のテレビだが、綺麗な天守閣がでるが、これは、姫路城の映像であるらしい。勿論皇居に天守はない。
この姫路城は、現在の規模に修築したのが、池田輝政で、伊木家2代当主伊木忠繁普請奉行です。初代伊木忠次から薫陶をうけた、甥の伊木半兵衛が普請の第一線で活躍し築城に力をつくしました。
2代伊木忠繁が他界し、跡継を3代忠貞(3男5歳)を選び、端の衆を納得させ、池田家第一家老で、後三大家老と国で賞賛される逸材を見つけ育てた伊木半兵衛こそ、陰の力で、倉吉にきても、長門土手、勝入寺建設も、いとも短時間で作りあげた。 倉吉在住15年という短時間である。
それだけ、姫路の城つくりのノウハウでは、いとも簡単であったかもしれない。
記録がない。ほとんどない。
これは幕府の目を気にしての事で、里見主従扱いにも言える。
里見主従に伊木衆が、ひどい仕打ちをしたんじゃなかろうかと推測したりするものもいるが、杞憂のこと。御霊が曇もったものが推測すると虐待の話になる。
堀に里見主従は、最後に下田中から移った。
里見の家臣に板倉牛洗斎昌察がいた。彼は、房総で、郡山奉行として人々に知られ、山を管理し百石船建造の材木を調達したり、忠義の安房神社造営の材調達を果たした事もありました。その経験を生かす場所が関金の山守にあったとすれば。半兵衛さんが良きに図ったことかも。
将に、春の夜の夢。

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