「房総に帰りたい、古里にかえりたいと泣きの涙で明け暮れた悲運の将 だなんて馬鹿にすない!」
豪快に笑ってる関東武者、里見忠義公の声が、山静かな山守の郷の廟から聞こえてきました。
世にいう里見忠義公は、房州館山里見家12万2千石、10代当主で、幕府政策大久保忠隣連座の責任でで安房国の領地を没収され、伯耆倉吉に配流されました。
今を去る400年前、慶長19年(1614)の事です。表向きは3万国ですが、実質4千石だったとか。住居は、打吹山麓神坂、今の市役所南側でした。
幕府の勘気がとけ、房総に帰りたい一心で暮らし、北条の八幡宮、北野天満宮、等社寺に寄進祈願をして朗報を待ちました。
元和3年(1617)池田光政(9歳)が因伯32万石の領主に任命され、伯耆倉吉は、家老伊木長門守忠貞(6歳)の管掌となりました。
そこで忠義は、池田藩お預けの身となり、政事中心地の神坂から、下田中へ移住させられてしまいました。
その後、下田中から、関金山守に移住させられ、 元和8年(1622)6月19日病により、齢29歳の若さで亡くなりました。家臣8人が、主亡き後3か月の9月19日に殉死し果てました。
それから200年たって滝沢馬琴が、里見家をモデルにしたと言われる、南総里見八犬伝の小説を著し当時、大ヒットしました。
とうとう房総の地にかえれず、泣きの涙で伯耆の地で、”たまゆらの人生を送った忠義公あわれ”と世にいわれ、小説里見八犬伝が里見忠義本筋となり、猟奇伝的扱いさえうけています。
そこで、時代背景、とりまきの人々を検証をしてみますと、あにはからんや、やはり関東武者としての、もう一人の、りりしき伯耆の里見忠義像が浮かびあがってきます。
真相伯耆の里見忠義公に迫ってみます。
優れた家臣団に恵まれた忠義と伊木長門守と伯耆人の気質
里見忠義には、優れた家臣団がいて、最後は殉死の奉公までしたお供のお話は周知のことです。
池田家時代となり、家老伊木長門守が倉吉を統治することになり、里見忠義一転して、預かりの身に変わります。
記録には残っていませんが伊木長門守にも優秀な家臣団がいたのではないでしょうか?家老をもりたて、後世に残る大事業を着任そうそうに完成させているのがその証拠です。
家老の伊木長門守は、倉吉着任時、御歳6歳です。前年元和2年(1616)に父忠繁の死により、家督を相続したばかりで、藩主国替えにお供して姫路より鳥取にきま した。藩主なら家老が手助けして、幼少でも務まりますが、実務地では、家老自らが第一線でなければなりません。それが初めての地を治めるに、幼少ながら相当 の実績をあげています。これは優秀な家臣がいた証です。
池田勝入斉の菩提寺勝入寺を建立したり、洪水に荒らされた倉吉に、今でも名が残る長門土手を作るなどその手腕は、老練な家老のような実績です。旧倉吉市誌にも老家老伊木氏となっているのもありますが、実際は6歳です。幼少でこんな実績はできますでしょうか。きっと優秀な家臣団がいたことでしょう。
倉吉の地は、遠く古より、産鉄の地で、中国山地の花崗岩の磁鉄鉱を主とした砂鉄を得て、農耕具、刀剣等産物加工の技をもち、富裕で、旦那さん的統率者を中心に、集団での自治行動が習慣化しており、房総からのお殿さまをも心から受け入れました。
話はかわり、マッカーサーが日本を占領した時、日本人が尊敬する頭首の天皇制を尊重して、日本をうまく統治しました。
ここ伯耆倉吉、伊木家でも里見家の扱いを、流人としての扱いでなく、、着任早々の大事業の数々の工事協力にもっていきました。
前統治者としての扱いをして、住民が慕う心を、下田中の天神川堤防工事にあたってもらいました。居住は勝宿弥神社地、(大御堂を作った産鉄部族勝部族の産土神社)で、住民も尊敬して工事協力したことでしょう。その名もしめす”千人波止”です。
伊木家の方では、鹿首村流出後の小鴨川の荒廃、河原町上手の明現寺土手軟弱等の補強で倉吉を水害から守るべく堤防を築きました。今でも一部が郡是側に地名として残る、家老の伊木長門守を称賛する「チョウモン土手」を工事しました。“千人波止“が河原町土手にもあります。
実際、倉吉は天神川、小鴨川、国府川が平野の中を流れ、中国山地の急峻な傾斜から流れ込むこれら河川の水流は、想像を絶するほどで、大きな水害が度 度あり、代々治水に悩まされてき、小鴨川などは、はじめ西側の天神野の裾をながれていましたが、今は平野東側を流れています。鴨川が先の小鴨川の名残です。西倉鴨川西側は地下1m位下には大山火山灰が堆積していますが東側には、礫層堆積となっています。

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