昭和26年 高校2年、初めて汽車に乗る。
天草島には、電車も汽車もない。
本渡からバスに1時間乗り、大矢野で汽船に乗り30分、三角港で下船、駅で改札をして、足をタラップに乗せる。
これが汽車かと実物を始めてみる。
柔道昇段試験を受けに熊本に出かけた。
みんな都会人ばかりで田舎もん気がひける。
6人総当たり試合だ。
結果は4勝1引き分け。
黒帯貰う。
今まで、練習で勝ち負けしてた友は、昇段試験に落ちた。
組合わせの相手が強かった為。負けが込んだのが原因。
不思議や、それ以後3か月経ったら、練習でその友に負ける事がなくなった。
黒帯だとの意識での練習と、駄目だったとの意識の練習では、成果がこんなに違うものかを身をもってしる。
友も後で告白。
自信をもつことが、必要だ。
交通不便な島では、高校から、寮生活か下宿生活でないといけない。
通学が不可能で、二親離れての生活をしいられる。
寮では、 寮生全員による、寮長選挙をして、運営する。
階上、階下、北棟、3寮の寮長の元、一応自治である。
2学期末に、2年生が役につく。
3年生と2年生で選挙で決め、次の新年度で新入生をむかえる。
寮長は3人で、1寮、2寮、3寮の順にそれぞれ1室に入る。
その選挙で、1位に選任され寮長となる。
食事情はまだ芳しくなく、コッペパン1個に味噌汁1杯の食事時代。
日曜には、下級生つれて、山行きし、熟柿はカラスが食うんで、人間さまは誰が採ってもよい規則の地だったんで、秋空ながめ、熟柿喰いする。
明日は九州大会に行くという最後の仕上げ練習に、相手の巴投げがくずれ手をついたら左肘脱臼。腕が反対になり、立ちあがったら、ブラーンと元に戻りグシャリとひっついた。これを征服音というらしい。元になった。
大会には、勿論離脱、首から腕釣りの日々が続く事になった。
さても、この負傷は、1年生の時、相撲部雨天練習柔道部に入った時、なまいきな1年生のくせに前からやっていたのがいて、それが、いきなり、受け身も教えず、立ち会いをして、足払いをかけた。
こちらは、倒れた。普通襟をもっていてかけ、相手が倒れる瞬間引き上げてやることをせねばならない。
襟をもたずにかけたから、倒れて手首で支えたら、脱臼してしまった。
くの字になった手首、相手は真っ青になりおろおろしてる。
脱臼の左手首を、右手でひっぱり、卓球台にのせて、強くマッサージして修復した。痛いというより、えぐるような深い疼痛を感じたのを覚えてる。
医者にいったら、修復はなってるとのことであった。
それからの相手の態度、なんと優しいこと。
当時、敗戦国日本では、マッカーサー命令で、柔道、剣道など道がつく武術は、禁止命令がでていた。相撲は、許されていた。
知恵のある先輩が、相撲を雨が降ったとき、室内で練習する名目で畳の上で雑巾ダンスしたのが柔道部だったというわけ。
だが、その禁止もうやむやになっていた。
時々、この2か所の傷は痛み、八十路まで、お共することになった。
記憶も其のたびに想い出させるため、その時の記憶が鮮明になり、真新しくなる。なまいきな1年生先輩は、6年前に他界してもういない。
昭和28年。阿蘇大噴火あり。熊本大水害あり。
阿蘇地方の大雨決壊で、流れた流木が、熊本の白川に架かる橋げたを壊し、壊された橋材も伴って次の橋を壊す現象で、次々と橋をこわした。眼の前で流れる橋を見に行った。
子飼橋なるドイツ人技師の自慢の橋が上流にあった。
なんぼ流木が橋げたにあたってもびくともしない。
これが仇となった。流木が次々とひっかかりダムとなり、横溢した水は、橋の横の堤防を超え市内になだれ込んでいき大水害を起こした。
橋のたもとの家や道路を流し新しい流路をつくってしまった。
幸い、下宿は熊本城上の丘だったんで被害はなかった。
所属なしの浪浪の、予備校生1年の出来ごと。
火山灰が、浸水家屋に入り込み、水が引く時に流し出した人は幸い、床下の干からびた泥は重かった。
復興時の街は、昼間でも前がみえぬ、阿蘇火山灰の土ぼこりで、太陽が夕暮れ時みたいであった。車も電気灯もして走ってた。
昭和29年 山形の地は、異国の地で、言葉を聞いてもわからず、こちらの言葉も分かってもらえず苦労の大学生活が始まった。北海道の熊の会の底なしの酒呑達、青森、秋田、宮城のそれぞれ違う東北弁の方言、ズーズー弁。でも寮生活は、面白かった。
蔵王に登る全寮登山には、びっくり。春先に行う全員参加行事だ。
みんながゆっくり登るんで、追い越し、追い越し、先頭に迫る。
でも、休憩がない。
じんわり、じんわり、みんな登っている。
とうとう草臥れ休憩した。
後から来たサッカー部の友が、キャラメルをくれた。
1個なめて、さあっと疲れが飛んだ。甘みは、疲労回復即効薬と知る。
そして、東北人の粘り強さをまざまざと知らされた登山であった。
昭和31年 地質専攻で、修業論文必修で、フィールドを与えられ調査することになった。卒論はまたせねばならない。
12月23日。鶴岡に行き、そこから、山にはいる予定で、駅を降りた。
山岳部の寮友が、山形の合宿に行くために駅にいた。
彼は言う。「大網は、大雪だぞ。調査は無理だ」
地すべりで有名な大網が与えられたフィールドだった。
仕方ない、中止で折り返すことにした。
「おい、ここは俺の縄張りだ、1日繰り上げのクリスマスイブしようや」彼が言う。
リュックかついで、鶴岡駅前の呑屋にはいる。
テーブルの上にまだ、開店前で、椅子が乗ってたのを降ろして、2人で酒をのんだ。
焼酎11杯も呑むという山岳部の猛者、なかなか元気がいい。
夕方、二人で、山形の寮に帰るべく、鶴岡の駅から汽車に乗る。
途中、左沢(アテラザワ)で乗り換えたのは知っている。
車内が温かすぎ、デッキに涼をとりにでる。
ガタゴト ガタゴト 威勢よい音がきこえて、汽車がでる。
カーブで、列車がガタンと音立てしゃくった。思わず足とられふらついた。
デッキの扉が開いたままだった。
スーット車外にダイブしてしまった。
ふと眼がさめた。
石河原の上にねてる。なぜだろう。
そっと手を伸ばしてみると、冷たいおおきなレールにさわった。
線路の割り石の上であった。汽車の音はしない。闇、闇、静寂。
汽車から落とされた!
頭の中は、記憶が確かでない。何で汽車から?
鶴岡に行ったことなど記憶になく、山形で酒を飲んでいたと錯覚。財布探したらポケットにある。拉致。投げ捨てではないらしい。
汽車から落ちたらしい。
急に恐怖がわいてきた。
立ち上がり辺りをみる。まっくら。
向こうのほうに灯りが一つみえた。
灯りに向かって走った。
と思ったら。体が宙に浮き。さかさまになった。
さくらんぼ畑が線路わきにあり、鉄条網が張ってあったのだ。
その鉄条網にみごとぶっつかった。厚着してたので怪我は少なかった。
バンドと上着の間に鉄条網のバラ線が1本ささり下腹に傷し、ズボンに巻き付いた鉄場網を手で払ったので小指の付け根に1本、額に1か所トゲ傷をおった。
それから100メートルほど線路沿いを走った。(後で検証にいってみた)
小道があり、そこから灯りに向かってたどりつきました。
八百屋さんがありました。
「ごめんください」「どうしました」「汽車から落ちました」
いきなり、血だらけで、服はやぶけ、煤で黒くなっており、御主人はびっくり、「早く乗りなさい」とかたわらの軽自動車に乗せて病院に走りました。
八百屋の御主人も慌てたらしい。
見たことない寝台だなと思ったら産婦人科だった。看護婦さんが傷手当してくれ、お金を払おうとしたら鶴岡から山形行のキップが出てきて、「山の調査で鶴岡に行ったんだ」と思いだしました。
八百屋のご主人は、神町の米兵と喧嘩したんじゃないかと思ったが、ここで事実がわかったと安心でした。神町は、戦前日本の航空隊がおり、進駐軍が接収して米兵の航空隊がいました。
神町の駅に行き、行き合いの汽車に乗り、山形へ向かい、寮にかえりました
山岳部の友は、山形に汽車がついたら、私がいないから、私のリュックと自分のリュックを担ぎ、寮まで持ってきて自分の部屋で就寝でした。もう降りてどこかに飲みに行ったんだろうと思ったそう。
おい起きろ!
目を覚ますと、8人ほどの友達がフトンを囲んでいる。
「大丈夫だろうか」
「死にはせんだろうか」
縁起でもないこと言ってるやつらだな、と思もってたら、
「起きろ!」とたたき起こされた。 タクシーをよんでたらしい。
病院に行き検査してもらうことになった。
病院の寝台に寝たら、吐き気を催した。看護婦さんが大慌てで準備、動かしたんで吐き気がしたんだと説明。たいしたこともなく、治療もなく寮へかえる。
翌日が大変。口があかない。と言うより、こめかみがさび付いたようになり、痛くてご飯も食べれない。おかゆを作ってもらい流し込む作業には、まいった。