江戸時代末期、諸外国との緊張関係で躍起の時、沿岸警備のため、
幕府、海岸に面した諸藩は、要所に台場を築き大砲を備えました。
鳥取藩では、因幡で、浦富、浜坂、賀露、伯耆で橋津、由良、赤碕、淀江、境の8か所備えました。
由良台場 は鳥取藩で最初に造られた台場です。
これら台場と大砲を造ったのが、伯耆瀬戸村の武信左五衛門と武信潤太郎です。
沿岸警備の重要政策にも拘わらず、藩財政困窮で出資金はなく、反射炉御用掛を命じられた、
武信左衛門が土地、費用を一切うけもち、潤太郎が技術的なものをうけもち、大砲、台場をつくりました。
この時期に、このような 反射炉 を建設したのは、鳥取藩のほか、幕府、佐賀藩、薩摩藩、水戸藩などわずかといいます。
由良川の近くの六尾で、反射炉の建造し、驚くのは、一丘越した水流の強い加勢蛇川から11キロ用水路で水をひき、この水勢で水車を回して砲身に孔を開けたといいます。
この時の水車は9メートルだったとか。
武信潤太郎は、岡山湯原の庄屋西田市右衛門の次男で、家は鉄山経営で富をなした一族の出身。
長崎、熊本で火薬製造、砲術、大砲鋳造を学び、海防、回漕業、鉱山業などの幅広い知識の持ち主で、武信家の養子となった人です。
反射炉の要は耐火レンガの製造で、1500度から1600度に耐えねばなりません。
佐賀と水戸では、良質の粘土がえられず、数度の失敗があったので、粘土探しから慎重に行い北条村下曲部落でそれを発見使用しています。
(大学教授が、このねんどは良質であると立証し、高耐火度をもつものと称賛したそうです。)
安政4年(1857)3月に反射炉建造にとりかかり、9月に完成し、同月中に大砲2門の鋳造に成功しました。
鳥取藩内の台場の大砲は勿論、浜田藩、萩藩、など他の藩からも注文が相次ぎ建造された大砲は50門以上に達しました。
最初に造った大砲1門は、鳥取藩が防備を分担してる大阪湾天保山に備えられ、イギリス艦に5発撃ちこんだとの記事がありましたが、その後の顛末は?あとで。
いずれにしても、東伯耆の豪快な誇らしい先人です。
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