ラッキィセブンティライフ

ラッキィセブンティライフ

中村久子先生の一生




1、生まれて、
 中村久子女史は、明治30年、岐阜高山氏に生れ、70歳で亡くなられました。
 幼時に突発性脱疽に侵され、両手両足を亡くし切口の痛みは、14年間に及び、耐え、
又それを育てたご両親の苦労いかばかり、しかも7年めには、父親の栄太郎さんが急性脳膜炎で倒れ3日間寝ただけで他界してしまいます。
 途方に暮れた一家、母親は、2歳の男の子を、施設の育児園に預け、両手両足のない子をつれて同じ畳職人と再婚します。
 この再婚先で、ある朝、久子女史の目が光りを感じなくなり、失明してしまいます。
 母親は、あわてて病院へ駆け込みましたが、手足の病が目にきたので回復はおぼつかないとのお医者さんの言葉でした。
 母親は、失意で、久子女史を負ぶって、人里離れて歩きます。激流渦巻く音に不安を感じた子の声に我を取り戻した母親は、家路に向かいました。
 せめて目だけはとの執念で、奇特な眼医者さんのお陰で、1年目には完全に元にもどります。

2、母親の愛の鞭
 独り立ちできるものを与えねばならないと考えた母親のあやさん。猛烈な教育をはじめました。
 手足の無い子に着物を与えて、解いてみなさいといいました。
 どうして解くのかと聞くと、自分で考えてやりなさいと冷たくとりあわない。
 鋏の使い方を考えなさい。口で針に糸を通してみなさい。そして縫ってみなさい。
 厳しくいいつける。できません。難しいと泣いても喚いても母親はふりむかない。

 11歳の女史に工夫させて、ヒントの一つも与えない。出来なかったら,ご飯もたべさせてくれない。心を鬼にしての母親の愛のしつけでした。
 女史は、このしつけを最初はうらみ、本当の子供でない、貰い子でないかと思った位でした。
 鬼の教育が実をむすび、12歳の終わりごろから、チエがわき、工夫が生まれ、誰の力も借りずに小刀で鉛筆を削り、口で字をかき、へらを使ってたんものを裁断し、歯と唇を上手に動かし、両腕先にはさんだ針に糸を通し、その糸を口の中でくるくるっと上手に回して玉結びができるようになりました。

 15歳になったとき、1か月かかって、初めて単衣一枚を縫い上げ、お婆さんに渡します。お婆さんは、その単衣と女史をだきしめて、「これはお前が縫うたんじゃない。仏さまと、亡くなった父さまが、お前に力をつけてくださったんじゃ」と声上げて泣かれたそうです。

3、独立を決心
 20歳になったとき、一人で生きていくことを決心、自らすすんで、見世物小屋にわが身を売り、自分の病気治療のために母親が背負いこんだ借金を全部払ってしまいました。
 名古屋の見世物小屋で、「だるま娘」と名をつけられて、裁縫や編み物、短冊や色紙に字を書いてうる芸や、針に糸を通し、その糸を口で結んでみせる見世物芸人になりました。46歳まで26年間、見世物芸人は続きました。

4、結婚
 芸人になりたての時から身の周りの世話を見てくれてた方と24歳の時に結婚します。
 優しい、いたわり深い人だったが、長女を出産して、1年後に腸結核で亡くなってしまいます。両手両足のない女性が、幼子を残され主人に死なれる悲惨な事です。
 大変と思い、主人の兄さんが、元一座にいた人を紹介し、再婚されます。
 とてもやさしい人で穏やかな家庭ができましたが、2女が生まれて、1年1か月して、今度は、この方が急性脳膜炎にかかり1日で亡くなってしまいます。
 29歳の女史は、4歳と2歳の子供をかかえて途方にくれます。

5、3度目の結婚
 見世物小屋の世界は、天幕を張るとか仲間の交渉とか、下見の旅にでるなど、男手なしではやっていけない商売で、女史はこの世界以外生きていく道はしらない。
 幸い、信頼できる男性にめぐりあったので、3度目の結婚を決意します。
 ところが、この男が最初の2人の主人とまるっきり反対の悪いずる賢い人で、最初はよかったが、本性をあらわし、酒と博奕に明け暮れるで、8年辛抱しましたが、辛抱しきれぬことがおきてしまいました。
 3女が生まれたのに、遊び呆けて面倒みない、戸籍にも入れようとしない、麻疹にかかっても放ってる、とうとう生後10か月で亡くなってしまいました。
 離婚を申し出ると手切れ金1500円要求した。土地つき一戸建てが買える位の金額です。
 両手両足のない女性が幼いこども二人かかえているのに、情け容赦なく金をもぎ取って行ったといいます。

6、今の御主人とのめぐりあい
 また、2人の子供かかえて、社会に放り出され、辛い生活を強いられましたが、義侠心のある興行師がおとなしい男性を紹介し結婚をすすめました。今の御主人です。
 体の不自由な女史を包み込むような、仏のような優しい骨の髄からの優しいお方でした。
 「街の湯に 映画にわれを負いたまう
     夫は尊し 示現如菩薩」
 この世に現れた菩薩さまだと謳いあげてるようなかたでした。
 女史が精神的にも、家庭的にも落ち着かれたのは45,6歳の頃からでした。
 それまでの苦難は、まさに業苦のあらしでした。

7、弟、栄三さんと母堂あやさんとの別れ
 前後しますが、苦難のさなかに、肉親との悲しい別れがありました。
 冷酷無残な興行師とあと15日で契約が切れ、いよいよ自由の身になるという日に、女史が8歳の時に別れ、17年間逢ってない弟栄三さんの危篤の電報がきました。
 15日済んでからと許してくれず、契約期限を半年伸ばす約束をして、弟さんの元に掛け着けました。休み期限は7日。8日めには、電報で呼び戻され、別れて7日めに弟さんは死にました。葬式にも行くことは許されませんでした。
 弟さんが亡くなった3か月後に、限りなき愛情をそそいでくれた母親のあやさんが46歳の若さでなくなりました。北海道に巡業中で、母の死に目も葬式にも参列できませんでした。

8、愛ある協力者
 苦難に耐え、勇敢におのれの道に立ち向かってきた女史に温かい手を差し伸べてくれた人々も多くいます。
 芸人になりたての頃、実の親のように面倒を見てくれた興行師が、筆、紙、硯を持ち込んで20日ほど、書道を無料で教えてくれました。本人も小学校にも行けなかったけど、閑をみつけ本を読み、万葉集や古今集も学びました。芸人は学問など必要のないという空気の中、反発もありました。それにひるまず黙々と本を読みました。
 この女史の勉強が、人間をこしらえやがて世に出るきっかけになりました。

9、実業界と医学界の応援
 当時の一流月刊誌「婦女界」の懸賞募集実話に一等当選しました。
 口にしっかりとペンを加えて書いた「種々の境遇と戦って来た私の前半生」は、婦女界社長の心をゆさぶり、東京帝国大学医学部に交渉して、中村女史に義足をつけて下さるよう奔走されました。
 「人々をふるい起たせる、社会のお手本だ」と整形学教授が、快く引き受けられ、女史の自足歩行可能に尽力されました。
 この頃から、女史が世間にひろく知られるようになりました。

10、娘の運動会参観
 「おもちゃの兵隊」を踊る娘の姿をみて、稲妻のように女史の頭をかすめたのは、亡くなった母親のことでした。
 母親は、我が子の入学式も運動会の姿を見ることはできなかった。よその子供の入学式、運動会を見た時どんなに悲しかっただろう。自分は両手両足がなくても五体健全の体に恵まれた我が子の晴れ姿が見れる。この時はじめて、女史は「自分が母に与えていたものが悲しみと苦しみだけだった」と気付くのです。
 手足のない体を背負って生まれて来て、父母を嘆きのどん底につきおとした。この自分の罪をどうするのかという心境に達し、自分の運命まで、自分の責任として人生を切り開こうという境地までたどり着きます。
 自分で生きてるのでない、生かされて生きてるのだ。
これを契機にして女史は真実の生き方を探る道を歩きはじめます。

11、ヘレン・ケラーとの対面
 日本ライトハウスの創立者で全然目の見えない英文学者、岩橋武夫を感動させ、彼の力で世界の聖女と言われた三重苦のヘレン・ケラーとの対面が計画されました。
 岩橋武夫は、ヘレン・ケラーの著作全5巻を翻訳した人物デケラー女史とは、親密な中でした。岩橋の全盲で努力しての学位取得、社会活動も頭のさがる事柄ですが、ヘレン・ケラーが中村女史の両手両足切断の体に、手でふれて、溢れる涙をぬぐおうともせず「私より不幸な人、私より偉大な人」とだきしめて手をはなそうとしなかったそうです。

12、青森の小学校6年生の感想
 黒瀬氏の青森での「中村久子先生の一生」を聞いて、ぜひ小、中学生にも聞かせたいとの要望があり、1か月をおかずに、はるばる阪神から、青森に黒瀬氏は出かけています。白血病との診断があっての体で。お話し聞いた小学6年生の生徒と先生が、感想文をおくっています。その感想文を黒瀬さんの奥さんが読まれ感激し、4回も読まれたそうで、朝になってたそうです。貴重なものだとこの感想文をプリントにして大事に残しておられます。


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