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三人の二代目は、名をなした御仁の若い時の登場がからみ面白いものです。 今日は岡本与三郎なる20歳の青年が、信長の前に登場しました。 豪商淀屋の祖、常安20歳。 安土城を築く時5丈(15メートル)の大石を取り除くに、皆が運び出す、削り取るの発想の域にあるのを、穴を掘って埋めるという奇策で成功、信長に存在と信を博し、更に秀吉に紹介するというところでした。 信長、秀吉、家康3代に認められる豪商となりました。 武将の心意気の別なる型のものでしょう。 大阪の中ノ島開拓や治水貢献で、天下の台所にした功労者です。 大名等への貸付するほどの大富豪になり、1705年には5代将軍綱吉代、幕府に取り潰されました。所謂闕所所払いです。 苦節60年後、1763年に元の淀屋橋で、淀屋を再興したのが、当地倉吉のその時の番頭牧田仁衛門の子孫です。 当時の牧田家が現存していて、市の名所として観光客が後をたちません。 秀吉と常安のからみがどう展開するのか楽しみです。
2010年01月29日
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秩序のない雑兵は見知らぬ村落であるから略奪したり、婦人を襲ったり、時には戦略的に敵に食糧を保有させないために稲をやきはらった。 逃げ惑う農民の藁家に火を放ち、松明がわりにして気勢をあげた。 戦火おさまり、大名は寺領を安堵したりして、民心を安定させ治安に力を尽くすかに見えても、家を焼かれ食糧を奪われた農民を救う事には役立たなかった。 尼子の家再興のため12年間の忠節を貫いた山中鹿之助は、講談や歴史小説としては、主家再興のため粘り強く、一匹狼として壮絶無比の悲願に倒れた武将で、劇的人物としては人気のある材料となったが、農民からは鬼と嫌がられ恐れられたのである。 しかし当時にあっては、鹿之助のように若い生涯を主家にために貫くものは珍しく、おおくは自己一族の繁栄のためにのみ謀り、信義も節操も地を払っていたことは信長、秀吉、徳川の天下人はもとより、大小名、足軽に至るまでかかえありない人間の業であった。 農民と農民の生活の基盤となる土地を荒廃させては首長たるの存続もありえないことを忘れていた。 民衆をはなれて政治がありえないことは昔も今もかわりはない。 堤城がある、北条町誌の一節です。 山田重直城主が、織田と毛利の大きなうねりの中で、どちらに就いたら得だろうかと迷う盟主南条を諌めが仇になり滅ぼされたことの史実が知りたくて資料館訪問しました。 昔のお話がなんだか今日のお話のように感じる錯覚をしましたんでーー。
2010年01月19日
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猫に鰹節というが、利権にからむ政界の騒動をみて思い出した。 与党になると必ずこんな問題が湧き上がる。 少々の軍資金を撒いても、大きな仕事がとれると元がとれると言う寸法で鰹節を提供する者がいる、それを又食うものがいる。 巧妙な処理も上手の手から水の如く漏れる。 そして秘書が処理していて、政治家本人は知らない事が多いのも奇妙だ。 一部官僚のでたらめを訂正し、事業仕分けを手がけ、すっきりした国になる期待をしている所だったが、どうやら関心は又、不正な金の問題だ。 大統領が、引退して白い服着せられて金の事で裁判に掛けられてる国がありますが、何処にも鰹節が好きな猫政治家がおり、鰹節で自分の利を得ようとするものがいるらしい。 政権交代で、新鮮さが漲ると期待されたものだ。 でもこれじゃ50歩100歩の政権与党。 世界は動いている。 こんな問題で渦を巻いていては後顧の憂いを残す。 黒白早くつけてほしいもの。
2010年01月14日
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今日は、わが班の新年会でした。 班編成変えがあって、わが公民館も班合併で単位人数がおおくなりました。 水炊きを囲み祝杯をあげました。 去年の丑としの牛歩から一転し、千里を走る寅の年に変わり、蓄えたエネルギィとストレスを発散する年にしようと意気軒昂でした。 今年仕事の予定が増え、県外にもでかけねばならぬという建築関係の友もいて、杯はさらに増え、町内の河川の掃除の名案まででました。 いままで川に入った人がゴミを拾いコンテナにいれ、川岸からロープで引き上げて車ではこんでいましたが、通学路の転落防止のてすりが川岸に出来たのでソレが出来なくなり中止になっていました。 そこで汚くなった川の作業の復活をしようというわけです。 名つけてボルガの舟歌作戦。 川上から船を流し、船にロープをつけ両岸から数人が流れないようにひっぱりながら歩き、川に入った人がゴミを船にいれる。 橋のところでコンテナを引き上げる。 途中の橋橋でカセットでボルガの舟歌を流す。 これは、子ども会とPTAに参加をゆだねる。 川下で作業終了点で炊き出しで作業のねぎらいをする。 空気をいれる船が適当、その算段、企画の浸透、クリアする問題は多い。 でも汗する企画に遊びのゆとりを入れるとは中々いい考えです。 ボルガの舟歌歌うものもいます。 どうもこりゃあ、成功させねばなりますまい。
2010年01月11日
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年をとることを歓迎しなさい。 それは終わりのない人生の道を、いっそう高くのぼっていくことを意味するからです。 「いかにして年をとるかを知ることは、人間の最大の仕事であり、生きるという偉大な技術におけるもっとも難しい数章である」 といったのは、スイスの哲学者アミエルです。 より良く生きることはまた年をとることでもあるのです。 マーフィの名言集 年あらたまり、新年会にいってきました。 去年かくしゃくたる存在の先輩が、他界された由で、元気なにこやかなお顔が思い出され、彼岸と此岸の境の近きを新たにしました。 充実した加齢を誇れる1年にしたいものです。
2010年01月10日
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たかが小説、されど小説。 主幹を引き立たせるに枝葉は時に曲げられます。 ですが。三人の二代目の山田重直殿。 いつも敬意を払ってる祖先がふがいない部類に装飾されると気持ちおだいにならぬものです。 近くに山田重直殿の堤城跡があります。 勇者が集い、戦乱に巻き込まれ多くの祖先が散ったといわれます。 山田重直はこの地の旧家で、地元の信望も厚く、後の里見忠義が普請した、山田八幡を建立した家柄です。 一介の毛利の派遣家老扱いはちとくやしいです。 今日は、三人の二代目は、話題が山陰から離れ、岐阜に飛び、信長が宇喜多直家がなびいた報告と荒木村重の城抜け出しの報告をうけてる所にうつりました。 2日間の天秤の傾の向きでしたが堤城の重直殿の無念をなぐさめました。伯耆民談記
2010年01月05日
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夢うつつの中に軽快なリズムの音が響く。 まな板を叩く包丁の音だ。 いつも聞く老妻の音だが、今日は新鮮に聞こえる。 故あって幼児を3人伴って末娘が同居して2年目をむかえようとしている。 山ほどの洗濯物を朝早くから干し、朝食の準備をして、時折グチをこぼすが、毎日欠かすことがない。 ありがたいの気持ちが薄らいでいた自分にきずき初夢を閉じた。 小さなボリュームのテレビが大学駅伝を報じている。 観衆が沿道にいるから、快走は気分が乗る。 反面、調子が出ないものには観衆の面前で気まずい。 走ってるものにはそんな事なんにも感じないだろうが。 ヒーローになる者、悔し涙を流すもの人生いろいろ。 ブログで政権のふがいなさを評するとアクセスが急増する。 調子のり己の足元を見つめることも忘れ、批判の材料をさがす。 これでは、いつまでもよくならない。 若い40代の政治家達が真剣に旧来の陋習を破り、事業仕分けをして変革を試みようとしている。 次は優秀な頭脳を持ち学業を習得し専道をいく若い官僚が参画活動する番である。 リーマンショックから始まって世界不況というが、これは不安定の安定でいつか来るべき現象であったろう。 愚を正し、生への感謝をすることから歩を進めるべきだ。 台所の快音に感謝し、総会を準備してる若者に「ありがとう」をいいたい。 今日は公民館の初総会だ。 初夢の内容は思いだせないが、わが生活も今年はチェンジを試みたいもの。
2010年01月03日
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あけましておめでとうございます。 3人の2代目は天正7年(1579)に入り、伯耆羽衣石城南条元続が登場してきました。 いよいよ山陰も渦中にはいるようです。 宇喜多直家が、南条に直接使者を送り、毛利裏切りをすすめていますが、この年毛利目付八橋城杉原盛重に同道して、南条元続、岩倉城主小鴨元清、山名氏豊は、美作湯原大沼山で宇喜多と戦ってるようですので少しげせませんが。 しかし、この年に羽柴秀吉に内通してる事が毛利方にしれ、翌天正8年(1580)8月羽合平野で毛利吉川軍と南条、小鴨、山名軍が戦い敗戦しました。 倉吉山名氏豊は鹿野亀井を頼って逃げるうちに因幡勝部で山賊の手により落命しました。 天正8年、いよいよ羽柴秀吉が鳥取攻めを敢行し山陰にやってきます。 有名な兵糧攻めは、2次遠征の天正9年です。 毛利と織田とのせめぎ合い、どちらについたが身の為かの地方侍の損得勘定の展開がはじまります。 天正9年秀吉は、鳥取陥落のあと、伯耆の国までやってきます。 吉川元春が馬の山、御冠山に羽柴秀吉と対峙しにらみ合いしました。 だが鳥取落城の報復の執念に燃える吉川勢に辟易、南条に食糧と武器を届け、戦わずして秀吉は兵を引き上げました。 天正10年小鴨元清の岩倉城は、吉川軍に攻め滅ぼされ、南条羽衣石城に次の手を伸ばそうとした時に本能寺の変が起きて信長が殺されました。 秀吉が、乱を平定するため毛利と和睦しましたので、伯耆も戦がおわり、南条は関が原の戦いまで秀吉の臣としてつかえました。 3人にどれだけ山陰勢がからむのか楽しみです。
2010年01月01日
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