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500年の寿命の木斛(モッコク)に面会しました。 本堂改築で根を切られ、幹を切られ樹勢が落ちた古木を救う手当中の樹医さんに同行しました。 一言に500年、歴史の重みがあります。 この古木の胴体、目通りに新しい芽をふきだしていました。 500年生存の木が樹勢をとりもどしての平成23年の新芽の息吹です。 木斛(モッコク)は江戸5木と称し江戸時代にアカマツ、イトヒバ、カヤ、イヌマキとともに造園木として重視され、葉が美しく樹型が整うので好まれたようです。又堅く美しい赤褐色を帯びる材は床柱などの建材、櫛の素材として重宝だそうです。 樹皮は染料に、民間療法として葉は乾燥して煎じて腎臓、肝臓の疾患につかったそうです。 根のまわりに穴を掘り、炭と栄養剤と酸素供給で根からの活性を計っていました。 山中鹿之助が打ち果たされた場所があり、又天下分け目の端緒を作った秀吉の水攻めで有名な備中高松城があります。 天正10年(1582)の6月2日早朝に織田信長が殺され、秀吉がこの地で知ったのが3日水攻めの高松城清水宗治が講和の条件に湖上で自刃したのが4日、毛利軍3万騎が待機してる面前での一発逆転劇がありました。 ここ高梁のモッコクの木もその空気を吸ってきたいたんでしょう。 大きな苔が生えた幹に出た新しい小さい芽が、歴史を語るようで異様に愛着感じました。 夕暮れ迫る帰路には、散策の余裕も与えられずでしたが、あらためて歴史散策に又でかけようと思います。 そのときこのモッコクも元気を取り戻してるでしょう。
2011年09月29日
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農業大学校から少し南下すると蒜山と大山が眺望にはいり、しばし天空を駆けると大山大鳥居神社のまさしく名のごとく大鳥居が見えてくる。 この神社は鳥居はくぐれない、鳥居の先は社なぞない。 向こうに聳える大山山麓が社殿であり、大山に神様はおわしますらしい。 こんなでっかい神社ってすごい。 その横に天神野円筒分水工なる又構想のでっかい水分配施設がある。 上流の狼谷ため池、大山が水面に映ることから通称大山池から延延と水路でひいた水を円筒中心からオーバーフロウさせて同標高で5方面に均一に水を流している施設だ。 狼谷ため池までも、はるかひと山向こう谷から水を引いてきた先人の豪胆な発想と行動力には驚きのほかない。 というのは天神野の丘陵地は河川の形成は地形的に不可能で、この用水により、広大な水田が開け肥沃な穀倉地ができたのである。 恩恵の浴はそれで、それぞれ自分たちの地への水の分配獲得は又別問題であったろう。 どこの地でもある水分配に死活問題がからみ喧嘩争奪が絶えなかったという。 大岡裁判ならぬ円筒分水は、見事な採決である。 大山大鳥居神社の横に壮大な発想の人智がある。 鳥取のへそがここにあるようで、私はいつもここで休憩する。 5つの水門から1/5の水量が同量それぞれ流れだす。
2011年09月26日
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ようやく秋らしい日になりました。濁流岩をのむ勢いだった大川も真ん中に小川で澄み切った水を流しています。 やんちゃ坊主が暴れた後、正気になって申し訳なさそうにしてる感と似た河川の流れの状況です。 街中を流れてる2級河川が汚くて、愛護団体を作り掃除してきたんですが、老齢化したから会を解散すると世話役さんから書き物がポストになげこまれていました。 せっかく会ができたのに、自分が歳とったからやめるんじゃなく、みんなに相談かけて、相談すれば、引き継ぐ若い者もでるだろうに。 俺が、俺がを通す人がまだいるんですね。 いきなり、解散会の案内状です。 一杯のんで終わりにしようということらしい。 みんながどういうのか、あたらしい動きに変革せねばと考えてます。 力まずテレビ ショッピングでもみますか。 人工衛星が落ちてくるらしい。桑原、桑原。
2011年09月24日
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今日は彼岸の中日、台風一過天気晴朗です。 里見八犬伝が先導して悲運の将として里見忠義公があわれみのみで操られてるのが悲運、もうひとつの顔があるかもとタイムスリップしてみます。 雄誉霊巌上人は、里見義康の帰依により安房に浄土宗大巌院を開山として創建、さらに義康の子10代忠義も帰依させ円頓の妙戒を授与し、忠義より永世42石朱印をうけている(1609年 忠義が倉吉に来る5年前)。「1614年9月忠義改易倉吉にくる。」「1615年(元和元年)三朝町字穴鴨 西照山 大雲寺 当村 安田茂右門の建立で 開基・開山は雄誉上人」「1615年 (元和元年)琴浦町赤崎 寿福山 専称寺 宗祖並びに三祖霊場参拝の折当地に止錫、庵の本尊阿弥陀如来を拝し村人に請われ寺号を寿福山大信院専称寺とし当寺開創霊巌上人を開山上人と為す。」 里見忠義公が伯耆倉吉に来た翌年に穴鴨と赤崎に雄誉上人が来られていますが、両人の接触はなかったんですか。 彼岸に行き聞いてみたいものです。 さて、雄誉上人が房総の一僧なればたいしたことはありませんが、この御坊諸国で数多くの寺院建立、布教の大活躍し、皇室の信任が厚く後水尾天皇に進講したり、家康、秀忠、家光に親しく法談を行った人物、のちに浄土宗総本山知恩院大32世住持という傑物です。 「1617年雄誉、西国行脚の途中に伯耆国里見忠義を訪れる。」 1615年穴鴨、赤崎に来た時は里見忠義と面会の記事はありません。1617年又新たに伯耆にきたのでしょうか。 こんな権威のある御坊が里見忠義公に面会に来たことは事実のようです。 免罪の労はトップ会談で上人は可能だったのになかったとすれば、里見忠義公は別の使命で伯耆に来たのかもしれません。 里見の大将の「房総にかえりたい、かえりたいの泣きの涙の悲運の将なんてバカにするない」って声が聞こえるーーー。 これ以上推論を入れると、ミステリーとなり、歴史を歪めますので、彼岸に免じてお許しを。 伯耆、因幡は政権交代のどさくさで、尼子、毛利、豊臣、徳川、さらに池田でお国換えがなされ記録もなおざりにされました。本当がしりたいもの。 彼岸の忠義公今夜夢の中に来てくだされ。
2011年09月23日
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恐る恐る楽天さんのブログに加入させてもらってもう2300日を数え、107000のアクセスの有ることを知りビックリしました。 よく我ながら続いたものと驚いています。 記入率は80%あったものがだんだんさがり、50%に近づいてきたものの継続の喜びを惹起させてくれます。 台風一過の陽の光が窓から注いでいます。 何事もなくよかったというものの、直下の被害を受けた地域の方を考えると済まないような気になります。 人災、天災の多い年です。 想定外という経験記憶がない災害が巡ってくる宇宙年というものでしょうか、人災以外は巡回事でしょう。 最高峰のヒマラヤが海中であった時期もあったことを考えると分らぬは人間だけかもしれません。 時に応じ、最適の対処をすることが宿命かもしれません。 人づてに事象は語られてきましたが、記録にないものはいつしか忘れられてしまいます。 特に悲劇は忘れよう、思い出すまいという心理も手伝い、想定の中から消えるのでしょう。 わが心も50%といえ記せたのも楽天さんのおかげと感謝し、年の功に合う記をこれからも続けたい所存です。
2011年09月22日
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台風12号の通過地点であり心配していましたが、それほどの被害はありませんでしたが、紀州方面の大雨の被害は、大変の模様で、お悔やみもうしあげます。 今までの想定を越す大雨では、含水層が飽和した岩層の崩落を招き、河川の容量も耐れなくなり大災害が起きたようです。 半年前の大津波、今度は山紫水明の山岳地帯でおきました。 何か災害列島の様相を思いますが、形治まる前の変動、なんとか小難で時代を通過せねばなりません。 沈静すると1000年のスパンは又安静の時代にはいれましょう。 自然現象は、時の流れに順応すればいいようですが、暴発した原子力の方は、まだ沈静の目途がつかぬようです。 人智の総力挙げて解決してほしいものです。
2011年09月06日
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蒙古10万余騎の敵が攻めてきた時に神風が吹き、侵略軍は全滅した。 弘安4年夏のころと唱歌に歌い、記憶にとどめている。 さて、台風だ、自然現象とあえて神風じゃないと評価しなおす几帳面なご仁も多いが、どうみても尋常ではこの戦争には勝てなかった日本軍が勝ったんだから、神様に至誠が通じたと思おう。 台風12号が、今四国にとどいたようだ。 大きい、ノロい、大雨降らすと新記録保持者の台風でなにが起きるか不安だ。 時速15キロで中国山地を越えて鳥取に来るという。 今きてくれては困るんだが、梨が枝にたわわ、稲が稔の直前である。 昨夜から雨、時折りの風が荒れ、今日一日雨、たいした風もないと思って傘さして川のぞきにいったら、急に風がふき傘を吹き飛ばし、ずぶぬれで帰って来た。 これが明日まであるというから困ったものだ。大山に600ミリの大雨あり、記録更新という。 迷走台風の進路が、東北震災の方でなくこちらに来たから、よかったと思おう。 震災のあとに台風が行けば気の毒だった。 大雨は仕方がない、というより山野に降り積もった放射性物質の除染と考えれば神雨となる。 福島の地がきれいになればいいのにと祈る。でも海に流れたあとはどうなるのかが気になるが。 車で河川を見て来た。 3河川満杯の流れ、隣町の湖水は溢れ避難だという。 交通止めがあちこちにあり、車輪の音がおかしいのでみると道路は水の中である。 慌てて引き返す。 あす台風が来るまでどうやら無策でまたねばならぬ。 自然はしようないものだ。 神雨であれと祈る。
2011年09月03日
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