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突然の御嶽山の噴火、夕方相撲をみようとテレビをつけて、画面の煙みて、びっくりしました。 天気良好、週末、紅葉、登山絶好の日よりでした。 まさに青天の霹靂でしたでしょう。 登山者のかた大変でしたお見舞いもうします。 31名の尊い犠牲者もでたようです。冥福をいのります。 撮影した勇気ある人により、生生しい状況を見せていただきましたが、噴煙での暗黒、硫黄臭の空気、呼吸困難で、大変でしたでしょう。 自然の脅威は、一度牙をむいたらこわいものです。 日日がもう少しずれていたら、被害者も少なかったかも。残念です。 大山の裾野である当地も、大山の火山灰が覆い、風雨によりけずられ、今の安定となりましたが、あのような風景がかつてあったのかとぞっとしました。 プレートの変革、火山の活動とこれから、あらたな事象がおこりましょうが、平静に行動できるように心がけましょう。
2014年09月28日
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戸川幸夫氏が高安犬物語で直木賞を受賞された昭和30年、山形の学寮は、喜びで大賑わいでした。 氏と同学年の教授もいらして、昔ばなしで喜びを倍加させました。 戸川氏が、明日、追試験があるという日に、電線をまたぐほどの大雪が米沢にふり、山形から汽車にのり、見物したいと出かけました。 挙句、汽車の混雑で、追試験に間に合わず単位をドッペッタとの内輪話まで聞きました。 佐賀県の人だったから、雪がめずらしかったんでしょう。 しばらく、毎日新聞の戸川先輩が直木賞」と話題彷彿でした。 先日の里見400年祭で、南総里見八犬伝についてのお話に、直木賞作家の平岩弓枝氏がいらっしゃいました。 その時、戸川幸夫氏が師匠だったことを、お話になりました。 最初の面接で、動物文学ジャンルを切り開いた人故のやさしさで、弟子にして頂いたようなお話でした。 というのは、紹介してくれた友人を作家志望と勘違いし、平岩さんは連れの人だと最後まで思ってての弟子OKだったとのユーモアたっぷりでお話でした。 それで今、作家としてここにあるとの感謝でした。 戸川先生らしいお話だなと、半世紀前の感慨にふけらしていただいた講演でした。 山形の回想に、珍しき事は、続きます。 昨日、山形から、半世紀前に別れた友から電話がありました。 「わかるか?おれが」といわれ、?です。 名を聞くと、声は年を経ていても、紅顔美少年の面影が脳裏に浮かび、面影と声が一致するのが不思議でした。 「いやー、お元気!」と返事。 たちまちに、頭の中はカーット。 山形の景色、鮮やかな半世紀前の妄想がいっぱい浮かびます。 次々と話題は、当時の出来ごとの思い出ばかり。 迂用曲折のそれぞれの人生経緯は、話してもつながるはずがありませんのでカット。現在の元気な状況報告のみ。 寮生活、下宿、自炊と居を変え、謳歌というより、青春に翻弄された時代の思い出がめぐります。 野郎の自炊ほど味気ないものはありません。 時折部屋の入り口に、料理をおいてくれるかわいい女性がいました。 が、当時の私は、、愛くるしい彼女に心にフタをして接しました。 この無碍にしたことを、責めてくれたのが彼でした。 半世紀過ぎた電話で、真新しく愛くるしい顔を思いだしました。 でも彼はこのことを忘れていました。 改めて心やさしかった彼女に心から御礼とお詫びの念を捧げます。 彼の話では、彼女は立派な同伴者を得、子供、孫さんに囲まれ幸せ絶頂とのことで喜ばしいことです。 彼の電話は、「これからの人生が楽しみだ」と続きます。 「甘いも酸いも得た後の+αの人生、のびのびと人助けになる日をめざしたい」。 私も同感で受話器をおろしました。 彼に逢いたい、又会う日がきますように。
2014年09月23日
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福島原発の吉田所長の所為は、前人未踏の行為で、大鵬の志を貫いた勇気の一言に尽きます。 安全神話で、実利を急いだ原子力発電は、まだ人類が想定内の操作範囲で、想定外を予測する学は樹立していませんでした。 有史にない自然災害の発生で、今までの安全神話は崩れました。 この時、銃後の本社、政治の憶測の指示と現場責任者の行動が相反しました。 冷却のための海水の注入のことです。 所長は場の全責任を預かる者として、最善の対策と判断実行したまさに信念の人でした。 銃後で、対策を考えたものは、参考策として提案しても、指示は僭越でした。 それが、組織の上席にあるもの、学を論ず者としても、現場の安全管理を一任したものへの態度ではありません。 現場では、不慮の出来事に、己達の保身なぞ考える暇もなく、早く平常に沈静させる事に一念でしたでしょう。 あろうことか、燕雀の者が、己レベル見解で保身退却の評価判断し、それを新聞報道をしたのは、失礼というより、犯罪でもあります。 己の身命第一のものが、身命を賭して使命に働く者の気持ちがわからないのです。 5月の蝿のごとくうるさいだけでなく、新聞という公器で世論をまどわすことはやめてほしいものです。 昔 大海原で船が遭難した時、最悪事態には帆柱に己をくくりつけて、船とともにした船長。 だから最後の最後まで最善を尽くした。 このような大鵬の船長時代には、難破がすくなかったという。 吉田所長は、大鵬のような船長だったにちがいない。
2014年09月20日
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9月10日は、鳥取大地震が起こった日でした。 昭和18年(1943)太平洋戦争真っただ中のできごとで、報道もあまりされませんでした。 震度6、マグネチュード7,4,直下型地震、死者1,200人、けが人4000人倒壊・焼失建物2万8千棟 71年の年月がたちました。 地形も浸食で変わり、当時の出来ごとはわからなく、罹災経験者もすくなくなり、ほとんど震災については、語られなくなりました。 あってはならぬことですが、南海トラフの動きが想定される中、内陸部の連動地ゆえ、対策を考えておくことが必要です。 この震災から9年後、昭和27年(1957)4月17日には、鳥取大火が起こり罹災者2万491人、罹災家屋5228戸の不幸を鳥取市はこうむっています。 今考えても大変でしたでしょう。 忘れたころに来るのが、災害でしたが、近頃、生生しい時にこれでもかとやってきます。 お互いに注意しましょう。
2014年09月10日
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昨日の雨には弱ったが、今日はいい天気です。 里見祭で、知事さんが忠義公に扮し、奥さんが伏姫、市長さんが堀尾の家老さん役で武者行列に参加、遠路館山、松戸など甲冑武者連も馳せ参じて、配流より400年の時をしのびました。 里見忠義公の菩提寺大岳院住職のお話。平岩弓枝さんのお話が昨日ありました。 滝沢馬琴日記に里見のことが書いてあるとの報告でありましたので、フィクションながら、里見家を意識して八犬伝は書かれたと言えましょう。 関金は昨日に続ききょうも里見一色の日よりでした。 武者行列は倉吉を歩き、終焉の地山守へいき、山守小学校5年、6年生が扮する里見八犬士の自己紹介する、子供歌舞伎が披露されました。 29回を迎える歌舞伎、どうしてどうして、全校で40足らずの生徒数なのに、そりゃあ立派な演技でした。 子供のセリフ、演技大変でしょうが、それを指導する人たちはまだ大変でしょう。 元公民館長さんが、今職を辞しても指導を続けておられるとのこと、この継続には頭がさがります。 政治がらみで館長を外されかけ、自ら席を蹴った人らしい気っ風の大立ち回りの演技でした。 来月は、館山の里見シンポジュウムに招待され演技をするそうで、がんばってください。 今年も実りの秋が、里見忠義公とご家来衆の廟を寿ぎていました。 歌舞伎がすんで、お参りしてきました。やすらかにお眠りください。
2014年09月07日
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大きな自然石の記念碑が、「○○開拓記念」「○○造成記念」等あちこちにあります。 花崗岩、安山岩など、まわりがきれいに角がとれてまるくなっています。 山を歩いていて、あたりは草原に大きな岩石があり、めだっている場合があります。 どうしてこんな所にと不思議になります。 これらは、何万年前の水害で、まわりの土砂と一緒に流され、取り残されたものです。 年経て、まわりの小さな土砂は風化され流され安定した山の一部になっています。 大きなかたまりのまま、土中に埋もれたり、傾斜途中で留まったりで、現在にいたっています。 こんなところから、みつけ運んできて、記念碑にしています。だからこれら記念碑は、昔の水害の実証者です。 動かざること山のごとし。とは形容で使いますが、実は、常に山は安定のほうに向かって変化し動いています。 車で山里を走ってみてください。山並みの裾に飛び出している個所がほうぼうでみられます。 山崩れの跡です。 扇状地と称して、たいがい竹がよく生えており、裾では、地下水がよくで、作物も実ります。 おだやかで、生活適地ですが、山の裾をけずると、山は安定のために動きだし崩れます。 最近の土地開発が、山すそを削るため、山は不安定になり、安定に向かって動き出します。 勿論、応力計算で対処の工事がなされています。 今までの経験、記録の想定外事象があると、おもわぬ被害が発生します。 木造住居が崩れると、1軒の家の材料、6メートルはじめさまざまの長さの材木が、トラック3台分位が土砂に混じり流れますので、次の家を直撃崩壊させ、橋げたを壊し、あるいは橋げたにつまりダムをつくり、あふれた水は、水路を変更して、被害を大きくします。 開発の裏に、頻繁にがけ崩れは、繰り返そうとします。 山岳部を住居地に開発する場合、倒壊家屋の材料も危険物になることを心にいれるべきでしょう。 、
2014年09月04日
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犬江信兵衛仁(いぬえしんべえ まさし) 仁 一切のものに親しみ情け深く、人のこころの痛みが分かる おもいやり犬川荘助義任(いぬかわそうすけ よしとう) 義 人間として行う筋道、道理。正義犬村大角礼儀(いぬむらだいかく まさのり) 礼 人の行うべき道 人に感謝する心をしる 礼儀犬坂毛野胤智(いぬさかけの たねとも) 智 物事をよく理解しわきまえていること。まこと 知恵犬山道節忠与(いぬやまどうせつ ただとも) 忠 真心を尽くして忠実なこと 仕えてる人のこころをしる 忠誠犬飼現八信道(いぬかいげんぱち のぶみち) 信 言をたがえぬこと、欺かないこと 信じて実行犬飼信乃戊考(いぬずかしの もりたか) 孝 父母によく仕えること犬田小文吾悌順(いぬたこぶんご やすより) 悌 年長者に仕え従順なこと 兄に従う
2014年09月01日
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里見忠義公が慶長19年(1614)房総より、伯耆倉吉3万石に就任されてから400年め、南総里見八犬伝が滝沢馬琴によって文化11年(1814)に最初の5冊を出版してから、丁度200年めが今年です。 毎年9月に、里見忠義公の菩提寺大岳院から、忠義公終焉の地、関金堀まで、武者行列をしています。勿論遠路なので、主要部だけの行列で途中は近代兵器バスでの移動です。 範囲が広範のため、終焉の地で関係者が、廟前慰霊祭を行い、しかる後に菩提寺で法要後、八犬士?が住職より玉を授受して武者行列が出立します。 里見忠義と南総里見八犬伝とは、史実において関係なく、里見の拠点と歴史を題材にした曲亭馬琴の伝奇創作小説で、全106冊が出版しおえたのが天保13年(1842)、実に28年間の長期にわたって人々を魅了しました。 里見家をモデルにしたのではないかといわれることが、菩提寺大岳院墓所に書き記されています。 「元和8年(1622)29歳にして関金町堀の地において逝去され、近臣八人が殉死を遂げた。遺言により当院において葬送し殉死八臣の遺骨をうずめ、御位牌とともにお祭りしている。 この時当院で授けた忠義公の法名を 「雲晴院殿心雙賢涼大居士」といい殉死した八人の法名にもすべて「賢」の字をつけたところから、彼らは「八賢士」とよばれていました。 のちにこれが、滝沢馬琴作南総里見八犬伝のモデルになったのではないかといわれています。」 倉吉での里見忠義公の記録は、ほとんどなく、居住地が、神坂、下田中、堀と知られるだけで関東武者の心意気のみが肌にかんじられるだけです。 そこで、倉吉里見祭の武者行列は、菩提寺大岳院住職から、八玉を授けられる時から、八犬伝にすり替わり、八賢士が八犬士になります。義実公に代わって実在の忠義公のみが登場です。 いわば、里見忠義、八犬伝混交物語行列です。 八犬伝は、 安房の国で、里見義実が、乱世を平定した時、前領主側室、玉梓(たまずさ)を捉え、一時は助けようとしたが、家来の進言で処刑してしまいました。この玉梓の「武士の言葉に2言なし!」の怨念が発端で物語は進展します。 伏姫は義実の子供で、小さい頃から口が聞けませんでした。 これも玉梓の呪いでした。 役の行者(三徳山の投入堂縁者)が与えた108の珠の数珠で口が聞けるようになりました。 隣国から攻められ、戦況ただならぬ時、大将義実が、「敵将の首を取ったものに伏姫を娶らせる」と宣言。飼い犬の八房が敵将の首を取ってきた事でさあ大変。 伏姫は、武士の2言なしで、犬八房に連れられ富山の洞窟に行きます。これも玉梓の妖術のしわざ。 伏姫の許嫁の金碗大輔(かなまりだいすけ)が姫を取り返しにいき、八房を弓で射殺しました。その矢が、伏姫にもあたります。 姫は八房の気を感じて懐妊していました。 身の潔白を証明するとして、姫は義実と大輔の前で自害してしまいます。 この時、役の行者から授かった護身の数珠がバラバラに飛び散り、中の仁、義、礼、智、忠、信、考、悌の八つの玉が八方へ飛び散ります。 後にこの霊玉を持った因縁の八犬士が、集まり里見家の復興にあたるという物語が南総里見八犬伝です。 それぞれの八犬士の生い立ち因縁を絡み、霊玉の行方をを探して金碗大輔が出家して丶大(ちゅうだい)法師と名のり旅します。 20数年ぶりに八犬士を伴った丶大法師は里見義実の元へ帰ってきます。 そして八犬士は里見家の危難を救うお話です。 犬ずくしの話で、伏姫は、人と犬がよりそっている伏。丶大法師は、大に丶で犬。 八犬伝の主題が、勧善懲悪・因果応報にありますので、今の時代に忘れた日本人の心に問いかけるセレモニイとしてもおおいに意義がありましょう。 忠義公も苦笑して武者行列を参観してることでしょう。 今年は平井知事が里見忠義公、奥さんが伏姫、石田市長が堀江能登守(実在歴)が行列に参加されます。
2014年09月01日
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