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忘年会があり東郷池湖畔の宿に参りました。 晴れ渡った空、窓下の池のさざ波、鴨の群れが波にあそんでいます。 通説だった吉川元春の陣・馬野山と羽柴秀吉の陣・御冠山が絵画のごとくうつっています。 先日この対峙した歴史の通説に疑問との専門家のご意見を検証するのにいい機会です。 写真の右方のこんもりしたところが御冠山で、左の方の端が馬野山です。 6千と三万の、両陣営があまり近すぎるかもしれない。 作戦立てるにしても、両軍の前哨地点がすぐで、行動の余地がとれないだろう。 両軍の大将もいつ寝首を掻きに来られるかもしれない。陣所が近すぎる。 たいこうがなるという十万寺は、この湖畔の今座ってる後ろの方になる山です。 ここなら、作戦たてて、夜駈け、朝駆け、池の湖畔を隠密裏に敵陣に向かうことができましよう。大将はでんと構えれます。 「通説は疑問」が本当かも。と思いました。 側にいた地元のKさん、それじゃ困るという。 今更そんなこというな。そうだとみんな信じてきたから。 こんなこともありです。 まあ500年前のできごとですから、天下の大勢には影響ないのかも。 とりあえず専門家の欄にのみ収納してもらいましょうか。 看板の説明もそのままにしときましょう。
2014年11月29日
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外国との門戸を閉ざしお島の大将然と、太平の夢に浸っていた徳川将軍と幕府、外国船が頻りに日本の近海に出没し始めると、大慌て、海防を厳重にせよとの通達を各藩に通達しました。 鳥取藩も例外でなく、海防上砲台を設置の必要が急務となりました。 池田藩は、伯耆の国瀬戸村の武信佐五郎、潤太郎の力を借り、大砲を六尾で作り、由良海岸にフランス式築城法で陣地を構築、大砲を7門備え付ける見事なお台場をつくりあげました。 武信潤太郎の専門知識と資金を出し、近村から労力を集めた佐五郎の豪傑がいたから完成しました。国の危機を憂う心は、一藩の懐状況など眼中に入れず即実行しています。 由良のお台場にいってきました。 道の駅がにぎわい、車が所狭く駐車しています。 そのすこし離れて、大砲がある広場があります。勿論ミニチュアです。 お台場事務所がありますが、人の気配がなく、続きの大きな倉庫風の建物から、笛の音が聞こえます。風流だなと歩を進めたら、中で「練習してるんです」と中年の男性でした。 静かな場所で、雰囲気をめで笛の練習してるようでした。 邪魔したのを詫び、お台場の陣地はもっと海よりである事を聞かされて歩をすすめました。 道の駅の賑わいにたいし、お台場へは、閑散そのもの。 看板も探し出すところにありました。 広大な陣所は、さすが面影を損なわず土塁がめぐらしてあり、駆け上がり、土塁を一周しました。これだけのものを藩に金がないからと言って資金を出すとは豪快な旦那です。 それにしても、砲弾一つも放さなかったとはいえ、この武信佐五郎、潤太郎氏の銅像か肖像画を置く建物があっても罰はあたるまいと残念がる事しきりです。 帰りに、山陰線の踏切を渡ったら、六尾の所で車窓から反射炉の看板がみえましたので車を路地にむけ、ハンドルきりました。 角柱に矢印があるので、そのまま進行しましたが、ありません。 違ったかなと、丁度庭に出てる恰幅のお父さんに聞くと、あの角柱の看板の所だそうです。 あの地は反射という地名だそうで、この家の横を一山こした、大山の裾から用水を引いてきて、水車を回したと大した事をしなさったと父さんが教えてくれました。水車で旋盤を回し、大砲の弾道をつくったそうです。 宇佐から5人の職人が来てて、4人はかえり、一人は地下の娘と一緒になって、子孫がおられるそうです。 4人は、なんでだか殺されたとか。 武信さんは、分限者で大山参りも自分の土地を行けたくらいだったそうなと自慢顔でした。 父さんは、庭の隅の土蔵の前に古釜やがらくたの横にある、レンガが邪魔だけど、反射炉のレンガらしいので置いてるといいます。 「みせてください」 飛び上がって同行して、レンガをみせてもらいました。 潤太郎氏は、佐賀藩、水戸藩が反射炉で、レンガが熱に絶えず失敗し、レンガの粘土に苦労したことを知っていたので、レンガに適する粘土探しからはじめ、北条の下曲の粘土が適してることを探し出したそうです。 これがその曰くの粘土のレンガ! 手にとってじっくり見せてもらいました。 焼き後はついてはいませんが、炉の一部であることに違いありません。 「お父さん、これは大事にして下ださいよ、歴史の証だから」 狭い道、車がやってきたので、それではと別れました。 バックして、反射炉看板の所に佇み、文久3年(1863年)の2世紀半の昔50門の大砲が作られた現場を偲びました。 大義に生きる人の話はすがすがしいものです。 郷土の偉人の事を、もっと子供に話してやらねばなりません。
2014年11月26日
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コナンの探偵くんが、北栄町で人気を挙げ、最近鳥取空港の名前にも使用される郷土の人気ものになりました。 コナン館で鉄道のジオラマが、併設されてるというので参観してきました。 24日連休の最後とあって、コナン館は、子供つれの親子で満員でした。 精巧に作られた、新幹線や路線の有名な列車のミニチュアがレールを走る樣は、幻想の世界に誘因されてあたかも旅行中の気分にしてくれます。 なんとこの鉄道を動かしているのは、趣味が嵩じて自分の列車を持ってる人々達だそうです。 本物の何分の一の精巧な幾十万円級もあるそうです。 このスペースに持ってきて走らせる気分は、もうなんともいえないそうです。 みんなそれぞれお仕事を持っていて、電気屋さん、学校の先生、お役所の役員さん、巡査さん、いろんなお仕事のおじさんがいます。 交代で、休みをとりあって、運営してる不思議な趣味の嵩じた団体です。 もうなくなって久しい、倉吉線の録音を持っている、当時の学生、今はおっさんもいます。ガタゴト、ガタゴト。駅停車を知らせる音楽がなります。でも何処の駅かの放送はありません。音楽だけの停車の知らせだったんですね。この録音テープ。途中の停車音楽、車輪のきしみ、ガッタン。ガッタン。倉吉から関金。関金から山守。このテープを所望する人が多いそうです。この列車で、関金から倉吉に通学した人の心には、ガッタン、ガッタンだけでなくいろんな思い出がわいてきましょう。 試験の日、駆け込みの車中の最後のつめこみ記憶、窓外の田んぼが緑から黄金にかわり、やがて白にいろどられた思いの数々。となり駅から乗ってくる美少女、今日も乗って安心、今日は乗らなかったがどうしたんだろう。気になった思いで。 今は、おっさん、おじいちゃん。 おばちゃん、おばあちゃん。 そういえば、列車の旅番組もテレビでおおくなりました。 乗って旅する乗り鉄、列車を撮影する撮り鉄、乗って録音する取り鉄、なんてあるそうです。 趣味の世界は、知る人ぞ知る。 部外の人には、なんだ位のものですが。 隊長さんからいろんなお話ききました。 遠いところから人がくるそうです。 いろんな街の名物や趣味の作品展示と抱き合わせでイベントが多いそうで、とても人が集まりますと、生き生きした目付きでした。 「ちょっとすみません」とジオラマのセットの中に入り込み、又別の列車を並べてスイッチをおしました。 トンネルの中をぬけて踏切が点灯して、走り続ける列車、九州の果から奥羽の地まで学のため通った若き日の自分を想起してる自分がいました。 さあ私も人生の次の駅むけて出発しましょう。
2014年11月25日
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穏やかな初冬の陽だまり、久方ぶりに東郷池湖畔の芝生に腰をおろしました。 対岸の馬の山と御冠山が聳え、掃き清めたような池の面に影を映しています。 天正9年(1581)鳥取城陥落。時すでに遅しの毛利援軍吉川元春が陣する馬の山。 羽柴秀吉が、鳥取城を渇殺で落とし羽衣石南条応援に駆け付け、対峙したのが、御冠山です。 吉川軍6千、秀吉軍3万。 吉川元春、自若として動揺することなく、悠然として兵馬も平然厳粛を保ち、弔い合戦とて意気盛ん、陣背の橋津川の橋、船すべて廃棄自らの退路を断ち待ち構える。 秀吉、大胆不敵なる元春、元長を見て恐れを抱いた。 羽衣石城に兵糧、弾薬を届け、数日にして、戦端を交えず鳥取に引き返し、宮部継潤に鳥取城を託し、姫路に帰還しました。 静かなる対峙、その中でも諜報が行き交い大変事が展開されたろうと勝手に空想をめぐらせました。観光の看板にも、挿絵いりで説明がかいてあります。 しかし、あの御冠山がどうも秀吉の陣所ではなかったようだとの記事に驚きました。 陣所の位置の麓に伯耆一宮の倭文神社が鎮座まし、ここは霊山の地である事、該地に陣跡の痕跡が見当たらなかったと登山検証記がありました。 他に中世研究家が、羽柴勢と吉川勢の動きなどから、秀吉の御冠山布陣説に疑問を呈してるとの付記もありました。 では、御冠山でなく何処なのか? 羽衣石、南条元続と岩倉、小鴨元清、兄弟を支援するために来たのと、進出前後の状況からみて、十万寺集落周辺と推察でき、地元で「たいこうがなる」と呼ばれる大規模な城跡が、鳥取城郭研究家によって発見されてるといいます。 三朝の山田、倉吉の栗尾、松崎の羽衣石谷、身方である鹿野亀井との重要な結節点である地が十万寺部落。 その城跡から指呼のの間に、羽衣石の模擬天守閣がみえ、樹木の間から東郷池と馬の山を望見できたと、登頂経験して筆者は教えています。 尚、「陰徳太平記」に 「10月27日、羽衣石山続きの高山へ打ち登り馬野山を眼下に見て陣を張った」とあります。「伯耆民談記」でも高山が大山となっているが、同じ内容であるといいます。 この高山を御冠山とするのが今までの通説です。 でも高山が御冠山だとすれば「眼下に見る」の表現は妥当でも、「羽衣石山続き」となると明らかに違い、平野をはさんだ別山並で違います。 筆者は城跡に座り込み考えたが、この十万寺の場所が秀吉の陣地であったとしても問題ないと結すんでいます。 専門家の方の検証なので、それ以上詳細はわかりませんが、歴史の通説に疑問を感じたとおっしゃれば、そんな事もありなんと、逆に興味を感じます。 秀吉が来て、吉川と対峙したことの事実は明らかだから、その場所の云々で大局は変わりませんが、今まで通説と言ってるものにも、歪曲されて語り継がれてる事も多々ありましょう。 特に戦場の事象は、勝ったものだけが、語れる特権ですので、甲を乙と語り継げば、乙となって疑うべきことなき事象となってしまいます。池畔でみる、馬野山と御冠山のはるかなる思いはちと変わりましょうが。
2014年11月22日
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いやでも目につくPCのファスト画面に連なった光るハゲの低頭写真。 又か!。 なんの失敗での「申し訳ありませんでした」なのか?。 最近おおくなった。 偉い人が、上役が、会社の、部下の失敗を謝罪するシーン。 なんと今度は、御医者さんの失敗らしい。 群馬大学医学部付属病院の腹腔鏡を使った手術の失敗。 先日、ここで8人の続いての死体を出して報告があったばかり。 別の12指腸粘膜下腫瘍腹腔鏡手術でも失敗があったという事です。 手術後、11か月で亡くなった。 開腹に切り替え、術後の手当も適当でなかったとか。 病院で決めたルールには、従っていなく、かってに手術したとか。 執刀医も50歳の指導医も辞めて、今はいないとか。 病院の最高責任者が丁寧に謝罪。 家族とも話会いがついたそうな。 よかった。めでたし。 ではない! 50歳とかの人、その患者の命、その一生はどうなる。 人の命は地球より重いというが。 もっと、その医の使命感を感じてほしいものです。 腹腔鏡手術は、患者の損傷を最小限に留めて、回復を早める画期的な医学の手術です。 開腹して、余分な個所、血管を損傷しなくてすみます。 医学の進歩で、人はどれだけ恩恵を被っているのか数しれません。 でも理想と現実。 最初から完全はありません。 現在の進歩のレベルであっても、完全はありません。 万が一の不成功もあります。 その難関を乗り越えて、新しい技術の進歩が確立します。 その難問をこなすための患者は、協力者です。 それだけの覚悟でのぞみます。 こんな病気で悩む人が少しでも、痛まず治療ができるならと喜んで手術をうけます。 万が一、アクシデントがあっても、笑って?ではなく、仕方ないとあきらめて天国にいきます。(私見、私は。) なのに。 こんな大事な手術なのに。 倫理委員会にかけずに、患者に危険な場合もあることも言わずに執刀したのでしょうか。 おおくの死者が出たから、辞めた。 後は、あやまってちょうだい。 こんなことですみませんよ。 医は算術が、まかり通ってるのが目につきます。 ほんとうのお医者さんが迷惑しています。 大災害での何万人の死者の一人と、医術失敗での一人の死者の命は、その本人にとっては、同じものです。 多く患者が来るから、医者は成功ではないのです。 医の基本を大事にしてほしいものです。
2014年11月19日
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ようやく南総里見八犬伝の玉梓の縛霊から離れた、里見忠義伝が先日、伯耆倉吉で上演されました。 房総からはるばる山陰伯耆倉吉の地に来られた里見忠義公、慶長19年(1614年)丁度今を去る400年前の事がらです。 解釈する人の言の葉で、歴史事情はかわります。 事に、戦記は、敵、味方の命運がかかっており、残った勝者がとりつくらい史記にします。 史実とされながら、因果は全く別なものである場合もあります。 あまりにも、滝沢馬琴の里見八犬伝が有名なため、モデルとされたといいながら猟奇的なものが先行して忠義公もこれに埋没してしまっていました。 倉吉の記録も里見忠義は、下田中に左遷され、のちに山守堀に移され、病にて亡くなり、大岳院に葬る位で、ほとんどありません。 今度の公演では、倉吉の地に溶け込み、地元の人の為に尽くす里見主従を描き、異郷の人も温かく包みこむ伯耆の人情を描いてくれました。 若いロマンスもからめ、心温かくさしていただきました。 8人の家来が殉死したのに、6人分しかない6人塚の解明も見事にしてあります。 播州赤穂の時、会津の白虎隊の時も状況説明する人が残っています。 残った2人も後始末をして、後を追い8人全員が主君を追いました。 この中でただ一つ気になることがあります。 小鴨の野武士退治が、演幕にあり、勇壮な若武者里見忠義像がありました。 そして、すさんだ地に北野天満宮を建設されました。 このことは、安藤氏が書に、天神野の野党刈りに出陣する忠義を、倉吉の人々が「りりしい若武者だ」と褒め称えたと残していますが、判官びいきで倉吉の人間は里見忠義をいとおしいと思っているのです。 その演幕で、野党の頭首が捉えられ、「よそ者がなにを!」と毒つき、「以前は武士でここを統治した岡田の云々」と反抗し、挙句、里見の家来に切って捨てられました。 小鴨城の出城で岡田城が、天神野の側の西倉吉にありました。 天正10年(1582)の小鴨岩倉城が吉川元治に滅ぼされた時にともにほろびました。 もしこの時の岡田の城主の子孫の設定ではないと思いますが、混同してはいけないので、別の名前の設定にしてほしいものです。 名乗らず、子孫と信じて家系を守ってる人々がいます。 歴史の地には、必ず、黙して語らずの歴史の家があります。 それを傷つけることになってはいけません。
2014年11月17日
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西蓮寺という浄土宗のお寺に唸るような掲示伝道あり。高いようで 低いのが教養低いようで 高いのが気位深いようで 浅いのが知識浅いようで 深いのが慾の皮有るようで 無いのが反省無いようで 有るのが七癖多いようで 少ないのが分別少ないようで 多いのが無駄厚いようで 薄いのが人情薄いようで 厚いのが面の皮強いようで 弱いのが根性弱いようで 強いのが意地参りました。
2014年11月11日
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江戸時代末期、諸外国との緊張関係で躍起の時、沿岸警備のため、幕府、海岸に面した諸藩は、要所に台場を築き大砲を備えました。 鳥取藩では、因幡で、浦富、浜坂、賀露、伯耆で橋津、由良、赤碕、淀江、境の8か所備えました。 由良台場は鳥取藩で最初に造られた台場です。 これら台場と大砲を造ったのが、伯耆瀬戸村の武信左五衛門と武信潤太郎です。 沿岸警備の重要政策にも拘わらず、藩財政困窮で出資金はなく、反射炉御用掛を命じられた、武信左衛門が土地、費用を一切うけもち、潤太郎が技術的なものをうけもち、大砲、台場をつくりました。 この時期に、このような反射炉を建設したのは、鳥取藩のほか、幕府、佐賀藩、薩摩藩、水戸藩などわずかといいます。 由良川の近くの六尾で、反射炉の建造し、驚くのは、一丘越した水流の強い加勢蛇川から11キロ用水路で水をひき、この水勢で水車を回して砲身に孔を開けたといいます。 この時の水車は9メートルだったとか。 武信潤太郎は、岡山湯原の庄屋西田市右衛門の次男で、家は鉄山経営で富をなした一族の出身。 長崎、熊本で火薬製造、砲術、大砲鋳造を学び、海防、回漕業、鉱山業などの幅広い知識の持ち主で、武信家の養子となった人です。 反射炉の要は耐火レンガの製造で、1500度から1600度に耐えねばなりません。 佐賀と水戸では、良質の粘土がえられず、数度の失敗があったので、粘土探しから慎重に行い北条村下曲部落でそれを発見使用しています。 (大学教授が、このねんどは良質であると立証し、高耐火度をもつものと称賛したそうです。) 安政4年(1857)3月に反射炉建造にとりかかり、9月に完成し、同月中に大砲2門の鋳造に成功しました。 鳥取藩内の台場の大砲は勿論、浜田藩、萩藩、など他の藩からも注文が相次ぎ建造された大砲は50門以上に達しました。 最初に造った大砲1門は、鳥取藩が防備を分担してる大阪湾天保山に備えられ、イギリス艦に5発撃ちこんだとの記事がありましたが、その後の顛末は?あとで。 いずれにしても、東伯耆の豪快な誇らしい先人です。
2014年11月06日
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因幡街道の参勤交代宿泊地の智頭宿は、高速道ができ、山陽まで一跨ぎの所になったが、いたるところ、宿場街の印象を醸し出す景観とおもてなしの心にみなぎっていました。 八十路の客は、入場無料の労りある石谷家住宅に、労り該当のシニア団体30数名団体、瓦の修繕代にでもと入場料をはらって見学をしました。 雨の予報の因幡路の旅、傘を広げる事もなく、先人の偉業を見学さしていただきました。 山林経営で財をなした当主、建築材のすごさもさることながら、山子との一丸を果たした指導力に敬意を表します。 政治家にも志され、因美線開通など地域の貢献に私財を投じられたことがやはり地域の人に尊敬の的として「おらが石谷家」の気心を感じました。 池田藩の長もちもありました。 欅の通し柱が2階の間でつないであります。 2本の木が木目を同じようにつないであることが説明されましたが、この技術がいかに困難かは、材木やが一番しっています。 それを見事になされてる、この大工技術は、貢献したい心以外はないでしょう。 柱の中ごろを良くみてください。つなぎ目があります。 次は、怖いぐらいの山の中を車ははしります。 いきついたところが又風流な食堂でした。 雨のしずくがまだ残った、紅葉のはじめの木々の中に点々と居を構える道場のようです。 広い庭の隅に、炭がまがありました。 どんな方法で炭をやくか、都会でなく田舎の子供にも参考になります。 かえりに、入場した時は、知らなかった、碑がめにはいりました。 道をへだてた向こうです。鳥居もあります。 碑のしたに「慰鶏碑」とあり、天使のあしもとに鶏がいます。 車からはなれ、又みたきえんに引き返し、「慰鶏碑はなにですか?」 年配の従業員のおばさんが、説明してくれました。 ここの経営者の先代が、養鶏業で名をなし、そしてこの事業を興した。 そこで鶏に感謝しているのだと説明してくれました。 そこでわかりました。 最初門をくぐった時、鮮やかな鶏の鳴き声があり、あたりを見渡すと、チャボが放し飼いしてありました。ここでは、もう鶏は自由の身なんでした。 おばさんはここの山間部の人で、仕事ができることのうれしさを経営者に感謝しているのが印象的でした。
2014年11月01日
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