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環境の日なんてあることはしらなかった。 平民には知らなかったと言っても、どうもないが、環境大臣が知らないと話にならない。 否、話になった。 何日かと聞かれて、大臣の答えがちがった。 6月1日と答えた。それも後ろに聞いて。 6月5日だった。違っていた。 鬼の首とったみたいに、野党の質問者が騒ぎだした。 国会のニュースで、テレビが過熱。 大臣のポストが来たが、細かい知識まで知らなかったようだ。 原発事故除染の数値が、認識が違って物議をかもしたのは、担当部署の責任者故大事件だった。 まずこれで謝罪した。 ピンポイントの粗捜しで、今回の質問だという。 歯舞を読めなかった、担当大臣もいた。 これは、どう見たって、救えない。 勉強どころの話ではない。 担当だったら、だれより調べなければ。 竹島は、島根県が日本の国だと懸命だ。 国がせねばならない運動なのにといいたい。 国会は日本の最高の議決の場。 足取り合戦や綺麗でない足を綺麗にしてほしいもの。 国会の話合はもっと大事なことがある。 笑いは大切だが、苦笑は国にも健康にもよくない。
2016年02月23日
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白内障は年取ると、水晶体が濁って来る現象で、人工のレンズを取り換えるときれいにみえるようになるようです。 お医者さんは、簡単なことでも、親からもらったものをたやすく取り出して、取り換えるなんて心構えがいります。もっと親身になって、説明をしてほしいものです。 白内障の手術が上手な先生らしいとのうわさで、いつも混んでる病院があります。 内科のかかりつけのお医者さんに、紹介状頂いて検査してもらった時のことです。 紹介状の先生は、最初に面接程度で、後は検査をして、インターンだろうかの若いお医者さんが、大学ノートに何だか記帳しながら、「白内障です。すぐ手術したほうがよいです。いつしますか?」。 急なことで、即答できなくていると、「目薬は、気休めみたいなものですから出しません」。 「お次」。紹介状相手のお医者さんには、お話しできず、次の予約日は2か月後のパスポートもらって、さようならでした。 知人が行ってる他の眼科に行きましたら「白内障ですが、目薬だしますので点眼してください」 「手術は、まだする必要ありません」でした。 あれから、2年ほどたちました。 昨日行ったら「まだ初期の段階だから、点眼で大丈夫です。なくなったらきてください」 まだ見えが悪くなったということはありません。たしかにぼやっとする時もありますがまばたきでなおります。 手術を薦められてすぐ応じた昔レストランのおかみさん。テレビみるのに、メガネかけねばならなくなって、不自由でこまってますと言いました。 「新聞見るのには、よく見えるでしょう」というと、新聞なんかあんまりみないといいます。 人間の水晶体は、遠近を自分で調節するが、人工レンズは、遠か近どちらかにきめると、反対はメガネで合わせねばならないことを納得してないのです。説明してあるのですが、納得してないのです。 かって公民館長さん、手術されて1年め、「どうですか?」と聞いたら、遠くが見えず、友達の顔もわからない、車の運転も近回りだけで控えているといいます。 「検査に行ったとき、遠くがみえないというんだが、これで大丈夫というんでっすぜ」 奥さんいわく、「朝は一番に新聞とりに行って、読んでいますよ」 メガネなしで、新聞はみてるらしいです。 人間のレンズは、遠く近くを収縮、膨張で調節できるが、メガネは焦点一か所だけなんで、ここをはっきり説明してくれないとこんなことになりかねないのです。 いつか白濁が進み時期だとみたら、人工レンズに変えていただきますが、大体寿命に合わせてあるのだろうから、先のことまで心配すまい。
2016年02月20日
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里見家奉公人連署書状 返々昨四日川村郡より馬五疋参候、其外ハ不参候、依之河村郡御奉公昨日以書 状申入候、度々御他行故御報無之候、為御心得申入候、以上、一、昨日者乍御報具申入候、馬之儀、信州様ヘ御相談被成候哉、無御心元奉存候、一、昨書付以委細ニ如申入、安房守事、来八日ニ可被罷稼候間、六日八日両日ニ 馬・人足被仰付可被下候、従其元御積之馬数ニてハ何□不罷成候間、御六ケ布可 有之候覧、切々申達候、可然様ニ奉頼入候、恐皇謹言、 八月五日 板倉左衛門佐 康常 祭主新左衛門 頼□ 多賀長太夫様 人々御中 「今よみがえる里見忠義の足跡」の中に記されたもので、岡山で蒐集された「塚本文書」のものらしい。多賀家から流出したものだろうとしています。 説明によると、板倉康常は安房時代に活躍した板倉牛洗斎昌察の一族で康の一時は忠義の父義康から拝領したものだとしるされています。 これは、下田中に里見忠義が行って、出された唯一の家臣の手紙のようと推察しています。。 この書の説明をみますと、忠義の「罷稼」にともなう馬・人足提供を求めたものの、提供予定の馬数では無理なことを伝え追加をたのんだ返事がなくて困ってるとの催促の手紙のようです。 今まで、伊木忠貞が池田地領で来、忠義は預かりの身になり、下田中に邪魔だから転居させられ、それから本人が望んだのか、治者の量感か山守に転居したとしか知られていません。 洪水で荒れた倉吉、伊木長門守忠貞が最初にやったことが家老の名が残る、小鴨川沿いの長門土手は伊木家で実施、猫の手も借りたい、竹田川沿いの土手修理を里見忠義に工事うけもってもらったといえないでしょうか。居住してた下田中の勝宿禰神社は、勝部族の産土神社であり洪水の神さまともいわれてます。
2016年02月13日
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正確には今から472年前、天文13年(1544)の洪水まで、伯耆倉吉の河川は、天神川と小鴨川・国府川は別別に日本海に流れていました。その痕跡を記したマップです。工事予告の町内回覧板でまわってきて、こんなマップがあったのかと嬉しく感じました。 地図真ん中に北条川が流れています。 この上流は和田で、大谷茶屋、寺谷を通りどんどをとおり米里に流れ由良川に通じています。 小鴨川と甲府川が和田のところで合流して、この北条川のルートで流れ日本海にそそいでいました。今も和田のところは、北条にむかって流れています。 天神川も独自に流れて途中から、東に流れ羽合町役場の北側を通って橋津川に合流して日本海に注いでいました。 天神川と名前がついたのは、天神山の安山岩を元文年間(1736~40)開削して、直接日本海に流すようになってからのようです。 天文の洪水は、倉吉の八幡神社処の鹿首村を押し流し、向山南の見日千軒を川底にして、小鴨・甲府川が竹田川に合流しました。 とってもおおきな打撃をこの洪水は倉吉とその下流域にあたえています。 3河川が合流した水量で北条平野、羽合平野は、カーブして羽合に流れる為にちょっとした雨でも氾濫し困ったことでしょう。日本海に並行して天神山から東にのびた安山岩の山が堰となったのです。 天文の洪水があって70年後、まだ傷跡は残った現状の倉吉の地に里見忠義主従は、房総からやってきました。3年後には、池田藩となり、家老伊木長門守第一番に手掛けたのが、洪水対策の土手つくりでした。長門土手は、今は市街地の中に地名として残り語りつがれています。 天神川沿いも同様な洪水対策が必要な荒廃があったでしょう。 対岸の大原は、人柱をつけ地蔵さんを祀るほどの工事を要したほどの洪水被害です。 天神川真正面の下田中に里見主従が転居したのはこちらの千人波止を受け持ったものと思われます。、
2016年02月13日
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「今日は何の日?」 「2月11日建国記念日、祝日ですよ」 紀元節「雲にそびえる高千穂のーー」 歌詞が口にでる。 メロディがかってにでる。 1番はみなおぼえてる。 2番は後半の方がうろおぼえ。 正確なものを、久しぶりに調べてみました。 雲に聳ゆる 高千穂の。 高根おろしに 草も木も。 なびきふしけん 大御世を。 あふぐ今日こそ たのしけれ。 海原なせる 埴安(はにやす)の。 池のおもより 猶ひろき。 めぐみの波に 浴(あ)みし世を。 あふぐけふこそ たのしけれ。 国民学校で習った歌は、覚えてるもの。 鬼畜米英の敵愾心教育。 特攻隊魂。 挙句、敗戦で、2学期教科書の墨ぬり。翼戦的表現を消させられた。 1学期習ったところも、あれは間違いだったと、教えた先生が習った生徒に墨塗らせたあわれな学校。敗戦とは、こんなことです。 教練指導の先生が、民主主義、民主主義とやたら、話し合いばかりさせる教室。 柔道はだめ、剣道はだめ、すもうだけはなぜだかお構いなし。 一番変わったのが、在郷軍人と巡査と学校の先生。 昨日の態度と今日の態度。一番オロオロしてました。 翼戦で仕方がなかったんでしょうが戦争はいけません。まして負けはダメです。 中東では、まだ戦争が続いています。 なんとか早く平和になってほしいもの。 地球人として、解決に全力をあげてほしいものです。
2016年02月11日
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ついぞ最近まで、倉吉にいて長門土手、勝入寺建立の伊木長門守の実績は知っていましたが、この家老の年齢が6歳と知り、きっとご家来衆にすばらしい参謀がいるのではとの思っていました。 でもなかなか、どの書にもみあたりませんでした。 15年の短い期間であり、次の荒尾二代が250年間もあったので、一緒にされて気にもされなかったんでしょう。 ところが、この15年が、倉吉、鳥取池田にとっても一番性根がいった時代であったろう事が推察されます。この立役者は、家老伊木長門守忠貞ですが、陰で心労した伊木半兵衛正春の存在があったことを知りました。 伊木半兵衛なる人物は、家老伊木忠貞の祖父忠次の甥で、前任地三木の地で、父教春にかわり、家老宗家伊木忠次に努めた方で、城郭の改修、城下の整備、先君勝入斎信輝の位牌をまつり霊をなぐさめる勝入寺の建立を手掛けた人です。 もともと、池田家の始祖信輝の母は、織田信長の乳母だったので、いわゆる乳兄弟の間がらです。 信輝が織田家で、侍大将になったときに、信長が側近として配慮したのが、伊木忠次で、弟教春と共に池田家の興隆に力をつくしました。 信長本能寺で没しあと、秀吉に組し、継承問題で小牧・長久手の戦いあり、家康を攻め、信輝、長男之助と戦死しました。忠次は次男輝政を守り脱出、後に池田家の継承をさせました。 秀吉・家康和睦して、おさまりましたが、徳川・池田には、一物残るのが人情でしょう。 家康の2女富子を信輝の正室にする話が持ち掛けられ、利隆を残し、病気療養で妻糸子は実家にかえり離婚し、輝政は新たな縁組をしました。 関ケ原の戦いには、徳川がたで勝利し、功により播州姫路52万石の城主となりました。 伊木忠次は、三木城3万7千石を預かりました。 甥の伊木半兵衛正春にの助力で安堵の忠次でしたが、三木城改修、姫路城の大改修もみずになくなってしまいました。 伊木宗家の2代忠繁の継承も勿論半兵衛の計らいです。慶長8年(1603)のことです。 慶長18年(1613)に池田輝政公姫路で死去。利隆城主に相続。 元和2年(1616)に利隆死去。幸隆(光政)9歳で相続。 同年 宗家2代伊木忠繁36歳で死去。3男三十郎(忠貞)5歳を相続。 伊木半兵衛はこれらを処理しました。 だが、それだけでは済みませんでした。 元和3年になって、城首が年齢が未熟で姫路の要地はつとまらぬとの幕閣の沙汰で、鳥取に國替えの沙汰がおります。しかも10万石少ない32万石。立派なのは、家来衆みな引き連れて國替えしました。反士反農の部下もできたようです。 国替え途中に、正条川(揖保川)の渡しで、国替総指揮官の池田由之が、大小性神戸平兵衛という家中の者に殺される事件が起こっています。由之は池田之助の子で、世が世であれば、池田の長男の子で城主の器だとの気があり、主君が幼いので出過ぎた沙汰があったのかも、それを諫めての事のようですが、本人もその場で切腹しました。 この事件は、恰好の藩の不祥事として幕閣の手玉に取れる材料です。 三十郎(忠貞)は、正条の宿でこれを聞き、「池田出羽守様正条の渡しで急死された」と触れ込み、池田家には禁口令をしき、幕府に届け、継息由成を跡継にして、鳥取では、米子城を治領する家老に就任させ万事、事なしにおわりました。 6歳の忠貞のなせる業ではありません。半兵衛の下支えあったらばこそです。 さて、倉吉の治領での仕事は、今までこれとて手腕ない治者で天文の洪水で荒れ果てたままの地を、後の世まで語られる、長門土手、千人波止、勝入寺建立と伊木忠貞6歳は、次々に実績をあげました。 勿論、忠貞の手腕はありましたろうが、伊木半兵衛正春にしたら三木での復習ぐらいでしたろう。 これが倉吉の書類に、半兵衛の字もみつけれません。私が探せないのかも。 つとめて書に残さないことに努めてたようではありますが。 岡山の虫明の記録から知らされました。感謝します。伊木長門守と里見忠義と霊厳雄誉上人 伊木長門守と里見忠義400年伊木長門守忠貞と伊木半兵衛正春と里見忠義 伊木長門守忠貞の系譜
2016年02月07日
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李下に冠瓜田の沓 菓子箱に金とは、時代劇によくあるはなし。 今の時代にもこんな話があるとは。 しかも大臣部屋で。 ポケットに入れなかったの釈明。 いいか悪いかの次元ではない。 密室での事が週刊誌に知れる話、どうなってるの。 殿は世界とわたりあって。 家来がネコババ。 切っ手とキップ買って世直し考えた県会議員。 泣いて訴えてたが、みな忘れたよう。 聞きたくないお話し。 もっと真剣にやろう。
2016年02月01日
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