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曲亭馬琴の南総里見八犬伝の八犬士と八つの玉犬江親兵衛仁 いぬえしんべえ まさし 仁 いつくしみ おもいやり犬川荘助義任 いぬかわそうすけ よしとう 義 道理 犬村大角礼儀 いぬむらだいかく まさのり 礼 人の行う道犬坂毛野胤智 いぬさかけの たねとも 智 知恵犬山道節忠与 いぬやまどうせつ ただとも 忠 真心をつくす犬飼現八信道 いぬかいげんぱち のぶみち 信 うたがわない犬塚信乃戌孝 いぬつかしの もりたか 孝 父母につかえる犬田小文吾悌順 いぬたこぶんご やすより 悌 長者に仕える この玉は、伏姫が幼児に役行者から授かった護身の数珠の玉。 伏姫の死で飛び散った。 この玉を持った因縁の八犬士が集って里見家を復興するものがたり。 勧善懲悪、因果応報の理念が全体を貫く。 毒婦 玉梓が 死罪を許すと言ってたのに、執行した主君の倫理違反に怨恨を果たす。 「子孫まで煩悩の犬となさん」 飼犬、八房が、敵大将の首を取ってきた者に伏姫を嫁にする約足を主君が果たさぬので連れ去る。 「犬畜生といえども約足は約足」 伏姫 人に犬、(チュウ)大法師 大に、 役行者は三朝三徳山投入堂建設因縁あり。
2016年06月29日
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今年も里見祭りがやってきます。 房州(千葉県)から、伯耆(倉吉)へ、幕府政策により、配属されてきた里見安房守忠義公を偲ぶお祭りです。 お祭りの意義としては、合併した倉吉・関金を舞台にしたお祭りで他に類がないことです。 里見忠義公が、祭祀されてる倉吉大岳院から、終焉の地、関金山守まで武者行列がいきます。 山守では、行列到着を受けて、今度は、小学生による子供歌舞伎里見八犬伝が開宴されます。 ちいさがたの里見八犬士が、見えをはり、口上をのべる様は、圧巻で、6年生が主役なのに、人数が足りず下級生も動員の熱演です。 この指導は、当時の公民館館長さんが発案、担当し、いまでは、先輩たちが帰って来て練習を手伝ってるそうです。 ともすれば、合併を不平の材料にし、過ぎさりし合併前の過去を懐かしむ声が、それぞれの地でまだあります。 それを払しょくするお祭りを企画した先人は、先見の明があります。その使命は終っていません。 10指を数える年数になりましたが、続けることに意義があり、マンネリに悩むことも数多しです。 祭りを統率する理事長さんも大変です。 まず、準備会で、里見忠義が何者かという若者の意見がでました。 そういえば、里見祭りの忠義公はなにものか?です。 忠義公は、房州から来られた里見家の10代当主は間違いありませんが、家来が、南総里見八犬伝の八犬士と、奥方が伏姫とフィクション南総八犬伝の物語上の人物です。 里見行列途中に、怨念をあらわにして襲うて来る毒婦、玉梓。行列のクライマックスですが、これも南総里見八犬伝中物語の人物です。 まあ、祭りだからいいじゃないか。 と考えれば、そこまで。 南総里見八犬伝は、滝沢馬琴によって、里見忠義が倉吉にきてから、200年後に書かれた小説です。 1814年から1824年まで28年かかって書かれた小説で、日本の古典文学でも最長の勧善懲悪伝奇物語です。 舞台も安房、城主も初代里見義実、馬琴は、一度も安房国を訪れる事なく、しかるに、地名もかなり正確にしるしてあるという馬琴の完全なフィクションであるらしい。 馬琴が最後に、史実とは違う物語であると告白しましたが、28年間の長きにわたり、ベストセラーを待ち続けた世人は、里見家の歴史として信じてしまったようです。 現在も、里見八犬伝が、里見家の史実と思ってるのが大多数のようです。 例外でなく当地でも、八犬伝の里見忠義がおおいようです。 歴史上の里見忠義を、彼終焉の地倉吉に、房総の方から識者連が調査にこられ、いろんな事実が分かりました。 治者であった里見忠義を、預かりの身として後任池田藩が幕府から命じられます。、忠義を、下田中に移住、後に山守に転居させ、病気で他界、8人の家来も、のち、後追い自刃した記述しか残っていませんでした。 それが、伊木家老による、長門土手建設と同時して、河川工事従事、神社建立等の功績もあった里見忠義のことが分かりました。 もともと、池田藩自身も、10万石減らされ、姫路の要所から鳥取に左遷された身、里見忠義の扱いには、慎重で、爆弾を預かってるようでしたろう。 よくても悪くても問題になります。幕府は、目を見晴らしていました。 ほとんど記録がないのは、意図的であり、倉吉統括した伊木長門守忠貞の主従の記録も、あえて倉吉には残っていません。 6歳の家老、伊木長門守忠貞、それを補佐し幾多の難事件を処理した、伊木半兵衛正春の存在も、倉吉での活躍も、一つも記録に残してありません。 これは、伊木忠貞の岡山への国替え先の虫明に残された記録により倉吉時の主従記録が判明しました。 里見忠義扱いについてはありませんが、伊木家主従の利発と温情を鑑みるに、忠義は粗末な扱いは受けていなかったでしょう。 さて里見祭りは、里見忠義の虚の部分南総里見八犬伝で表現して、実部分の史実は、詳細に解明する必要があります。
2016年06月28日
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土曜日午後の天神野は、静かです。 自動車学校はお休み。 北野神社の大きな杉の木の切り株を掃除しました。 草がもう繁茂しており、株の上の土をとるのに固くなって大変。 社殿に祝詞あげてからと思ったら、石畳が木の枝、銀杏の落下未熟実でいっぱい。 竹ぼうきで掃いたら、結構広い。汗だくになってしまいました。 あれこれ、することが多いもの。 拍手が、あたりにこだま。 里見忠義公が400年前に、天満宮を建てられたという由緒ある場所。北野天満宮。 ここの境内にある杉の切り株が2m60ほどのものがあり、6年ほど前に社殿に倒木被害があってはと、伐り倒したというものです。 年輪が緻密でかなりのねんすうがありそうです。 地元の先輩は、350年はあったかもというあいまいな話です。 伐採した時は、邪魔な木としてしか印象がなかったみたいで、処理した結果もあいまいです。 土の中に埋もれてた株ですが、まだ木の性は健全。 400年+の年輪があれば、忠義公がお手植えの木かもしれない。 なーんて空想すると、心が弾みます。 そんな目でみると、切株がとてもいとしいもの。 草抜き、土とりがなかなか。 道具を用意して、かからないとダメみたい。長期戦になりそう。 株の横に根の切り株もあり、これを掃除して、NSEWを赤線投影し年輪だけでもと数えたが、天眼鏡が入用のよう。 それでも200の概数年輪がよめるなんて、時間を縦にふみこめる喜びが漲ります。 ゆうやみがそこに来たので、あわててかえりました。 楽しみができました。 ヒマをみてでかけます。 今年の里見行列に又、参拝の寄り道をお願いしましょう。 お手植えだったら、一挙に暦がめくれましょう。
2016年06月18日
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