全5件 (5件中 1-5件目)
1
忠義公の正室桃源院さまは、大久保忠燐の孫姫。 父おやは忠常、里見に嫁いで翌年他界、母は家康の孫娘於仙。 幕閣の騒動起こり、大久保忠燐の失脚あり。 連座の責、里見家にもおよび、里見忠義伯耆倉吉に転封。 2人の娘連れ桃源院、実家、埼玉、騎西の弟忠職に身をよせる。 元和8年(1622)里見忠義、山守掘で死亡。 寛永9年(1632)大久保忠職(ただもと)騎西2万石(埼玉)から、加増されて5万石、美濃加納城に入城。 寛永16年(1639)7万石に加増されて、明石に転封。 忠義公の菩提寺 ”雲晴寺”を、ここ明石に忠職の力かりて、桃源院建てる。 その名も忠義公の戒名、雲晴院殿心叟賢凉大居士から。 慶安2年(1649)唐津(佐賀)の藩主となった大久保忠職、姉の桃源院(東丸さま)を大事にされたようです。2人の娘も旗本に嫁し、東丸さまは、明暦元年(1655)唐津で亡くなりました。享年59歳。 高野山にある忠義公の墓碑の近くに、弟君によって東丸さまの墓碑が祀られてるそうです。もうはなれません。なかよく。 幕閣の騒乱がもたらした因果で、大久保忠燐は、小田原城を放逐されましたが、孫の大久保忠職の跡を継いだ忠朝の代になり、小田原城を拝領することになったようです。
2016年09月17日
コメント(0)

社地区の英霊の忠魂碑に敬意を評しました。小鴨地区の英霊の忠魂碑に敬意をh等しました。北野神社とならんで、2地区の忠魂碑があります。宮司さんが先導で、参拝しました。不遇な思いはいつの時代もしたくない、平和であれと願い、努力しようとみな念じました。バスに乗り武者行列は関金堀公終焉の地へ向かいました。
2016年09月07日
コメント(0)

9月4日晴天。里見忠義公400年前、社殿寄進の倉吉の殿様を偲ぶ。 社殿前には、打吹童子ばやしの明日の日本を背負う若人が太鼓をならして、歓迎の宴を披露してくれました。 小鴨小学校、北谷小学校、北条小学校、西郷小学校、社小学校、明倫小学校、灘手小学校、大栄小学校、の2年生、3年生、4年生、5年生、6年生が団員でそれぞれ父兄の方方も一生懸命でした。北野神社氏子総代さんはじめ、役員さんがたも社殿で、同席していただきました。灯篭の灯りも、ますます輝くことでしょう・
2016年09月06日
コメント(0)
9月4日、神様に感謝。 台風12号が九州沖に来てるというのに、15キロの進行速度を10キロにゆるめてくれて、雨雲の傘は届かず、ことらは、朝から天気。雨の心配皆無。 よし。今日の里見行列は、90%成功。 まだ早いが、担当の行列が途中立ち寄る北野神社に行き、参拝する。 鈴の音、柏手が、森閑とした社殿に響く。 己の祝詞の音に恐縮する自分がいておかしい。 9時前、出発地の大岳院へいき、参拝。 武者行列の方がたが、三々五々に集まってこられる。 真剣なお顔がうかがえる。 持ち場北野神社に帰って粗相のないようにしよう。 氏子連の10時の集合には、時間がまだある。 手水場の水をぬき掃除した。 参道の落ち葉はきも久しぶりで気持ちがいい。 人がふえ、社殿、参道瞬く間にきれいになっていく。 不思議な光景を感じたのは、この方々は神社を掃除してる行為を楽しんでるのだ。 行列が参拝するので、急に掃除を招集かけた不足でも出るのでは?なんて思ってたのを恥じた。 昨夜、公民館で、班の役員決定に参集したが、中々、自分の都合ばっかりのべて、役を逃れようとする汚い根性をみてうんざりしていた。そんな輩もいるもんだとながそう。 行列が来る前に、童子ばやしが太鼓の演奏を奉納した。 1時間に及ぶ演奏で、公以来の400年の夢を覚ますかの賑わいをかもしだした。 若い明日担う子らが、一心にうちならす姿は、何者にもかえがたいもの。 残念なのは、これだけ宣伝したのに、地元の人が来ていないことだ。 交通指導員は、4名きてくれてさながら要人警護のだんどり。 社殿の前の自動車やさん地は満車。用意した場所はほとんど満車で、自動車学校の奥部も借用か?というところまでいった。 宮司さんが、武者行列の一行を誘導して、社殿横に鎮座する小鴨地区慰霊碑・社地区慰霊碑の前で参拝し、国の為に命をささげた方方があって、今の平和があることを若い人達に説明された。 行列は、バスで一路、里見忠義公の終焉の地堀へむけてはしった。 ああよかった。 というのは、
2016年09月05日
コメント(0)

9月4日 里見祭りが倉吉であります。 里見安房守忠義公が、慶長19年(1614)に房総(千葉県)館山10代城主が、伯耆倉吉の地に転封されてきました。後、鳥取因伯を領する事になった、池田に預かりの身となり、29歳の若さで関金山守で逝去、8人の従者が殉死し果てました。 倉吉の大岳院にお祀りしてあり、倉吉・関金の行政合併を祝して、公他界された9月に、武者行列を、お眠りの倉吉から、関金の山守の終焉の地まで行う壮大な目的をもったお祭りです。 里見家断絶後200年後に、「南総里見八犬伝」なる滝沢馬琴の小説が出て、有名となり、里見をモデルにしたと称されるも、全く異質な事がらの展開となっています。 倉吉での里見忠義像も記録がなく、つまびやかならず、南総里見八犬伝の人物が混成した武者行列となっています。南総里見八犬伝とは、室町時代後期、安房国里見家の姫・伏姫と犬八房の因縁によって生まれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説です。因縁の文字仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌が随所に現れ、忘れかけた現代人に語りかけます。 嘉吉元年・安房で里見義実が、滝田城主神余光弘を謀殺した山下定包を討った時、定包の妻玉梓の助命を一度はしたが、殺してしまう。梓は武士の2言をうらみ「里見の子孫を畜生道に落とし、煩悩の犬にしてやる」と残し斬首される。 伏姫は、玉梓の呪いで物言わずの子で、役の行者に数珠をもらう。 隣領の安西景連が攻めてきて、落城寸前で義実「敵将の首を取ってきた者に伏姫をあげる」という。飼い犬の八房が、景連の首をとってくる。 伏姫は、主君の言を翻すことの不可を説き、八房と富山に去った。 伏姫は読経の日々で、玉梓の呪いの八房も好転した。 義実と許嫁の金碗大輔が、富山で、伏姫と八房発見、大輔が射た矢が伏姫に当たり、首のかけていた仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字の数珠が、中空に飛び散り果てた。 金碗大輔は、、大(チュウダイ、大に 、で犬)法師となり、八個の玉を探しに行く。 共通して犬の字をもつ八犬士が,牡丹の形の痣を体のどこかに持っていて、関八州を舞台に活躍、みなが導かれ一つになって、里見家に集結する物語です。 水滸伝は百八の魔星が飛び散り、後に英雄豪傑が現れる物語、 八犬伝は八つの数珠玉が飛び散りのち、八犬士として世に現れる物語。倉吉の里見祭りには、忠義公に八人の賢士にかわり、八犬士が侍従し、指揮は房総からついてきた家老堀江能登守。 道中、いまだに執念を持つ、玉梓が行列を襲い、八犬士は、それぞれの文字の数珠をかざして追い払います。 まさに史実とフィクションと山間部、都市部との合併繁栄を祈った大お祭りです。乞うご期待。
2016年09月01日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1