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動かざる如大地の如しは夢散。まあこの大地よく動くものです。「今度は、震度4、今度は3、は今度は1。」ひっきりなしに動く大地になれっこ。(これは今だからいえること。)最初はどうなることか、戦線恐々でした。「あれが地震雲」となりの兄さんが教えてくれました。どす黒いちぎれ雲が一面に覆っていました。戸棚の茶碗、コップ、棚の鍋が降ってくる炊事場、本が、資料集が、前後左右から落ちてきて頭を小突かれ、パソコンを手で覆うのがやっと、何事が起きたか吾に帰るのに時間がかかりました。炊事場の瓦礫の中から、ばあさんを連れ出し、テーブルの陰で動きが収まるのを待ちました。 みんなが指定したされた難所にでてきました。 民生委員さんの車庫に隣保班、みんなが毛布をもってきて集まりました。 その夜、次の夜、グラ、グラが怖くて、みんなで泊まりました。 横になって寝ると大きいといっても車庫です、出入りに窮屈。 そこで外の車に老中は退散し休みました。でも車中泊は骨身に応えました。 冷え冷えとした街路灯がやけに寂しくうつります。 西中学校のグランドにクラックがはいっており、北野神社の鳥居も、灯篭もたおれました。北北西-南南東の長さ約18キロ、幅約13キロの最も浅いところが500mの断層が隠れてるとの国土地理院の推定。70度西に傾斜した断層で、西側が南に、東側が北に動く「左横ずれ」だったとか。その真ん中にどうやら我々は、いるみたいです。 ガラス、瓦、陶器片を向山で集積するとのことで、みんなが持ち込んだものを、一村くんとジープで運びました。延々と続く車の列。みんな懸命です。 市役所の職員さんが、誘導し分別集積していました。黙々と機敏よく、丁寧にがんばっていました。ありがとう。帰りは、混雑するので、左に出てと誘導され、工業高校方へ遠回り。まあええか、上古川もブルーシートの花盛り。街中もいっぱい災難現場。ぶっつぶれた箇所は、カメラ向けれません。専門家が写してますのでやーめた。100回の防災訓練より、1回の災害経験。わが班の人情、結びつきが一夜、弐夜でがっちり。災害は嫌だけど、貴重な財産いただきました。とはいっても、まだ地震は、まだまだ進行形です。ロングロングになるやも。ケセラセラ。二階のひっくりかえった本箱本体、修復にかかりましょう。ああ、動いた! 震度1かな。
2016年10月25日
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昨日森の感謝祭がありました。竹細工コーナーは子供たちが群がり、竹を切ることが異様に面白く、「私が切った」という感触がたまらなく優越感にかわるんでしょう。竹切ノコがよく切れるので、大きな竹も大丈夫。それを切ったとき、テレビゲームで見せる笑顔とは別のチャイルドスマイルでした。村のおじいさん先生が、竹とんぼ、竹笛、竹鉄砲、竹かご、竹花瓶、竹箸、竹皿 竹ならなーんでも作りをおしえてくれました。 先生がたも、50年まえ、60年まえ学校からかえり夢中になって、竹細工したぼうやたちです。にこやかいっぱい。 母さんがたも、自然を玄関にかざりたいと竹の花たてをつくるのが懸命で子供と別こうどう。次はむかし大学教授だった竹権威者の先生の竹のクイズ。 しってるかな、竹の節はいつできるでしょう? 生まれた時、筍、から全部の節ができており、節々が一緒にのびるからすぐ大きくなる。 一晩で1っものびるもんおもある。 竹の花が咲くのは何年? 50年から60ねん。 答えが正解者には、やさい、お菓子の商品がもらえました。 笑いのなか、13問のクイズとその間のトークに、森が海の恋人であり、森がきれいになると海もきれいになる。自然は一体であり、山をだいじにしましょうの気持ちがみなぎりました。待ちに待った、お昼。鉄板焼きのやきそば。もうもうとあがる湯気。香ばしいソースの香り。もうたまらん。歓声と食欲が交錯する一時でしたお次はさつまいもほり。竹を豪快に穴の中でもやし、蒸し焼きにして作った竹炭を土壌にいれ、土壌改良の畑は、やわらかい土で、手でおおきな芋が掘り出されました。ここでも子供さんの顔が紅潮、上がる歓声、平和だなあ。またきたいなあ。 楽しい一日でした。
2016年10月18日
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北野の天神さんのお社を、400年前に里見忠義公がお建てになりました。今のお社は、再建修復されていますが、お社の横に大きな杉の木の株があります。 10年前に、お社に木が倒れたら危険ということで、伐採したという木だそうです。 2mちかくあり、ひょっとすると、「里見忠義公がお社建てられた時のお手植えの杉かも」という噂がでました。 土をかぶせてあったものを掘りだして、水で洗い年輪を数えようとしたら、真ん中はブラックホールで、残りの面をつなぎ、つなぎで素人では、なかなか手におえない。 機会があって、農学博士3人が今日、鳥取からおでましになって見ていただいた。ここまで難しい鑑定とは思っていなかったとおっしゃり、分かってる年輪だけ数えはじめられました。 250年、180年、連続して数えれる年輪、それにブラックホールを足すと、ゆうに400年は越すかもしれないという、笑いながらの結論だけはたちました。 あと残った面を研磨してもう少し年輪をだして、精査をする法を伝授していただきお帰りになりました。 いずれにしても、里見忠義公が、この木の横で神社を眺めておられたことはほぼ間違いありません。ここでは、南総里見八犬伝の呪縛から抜け出した、人間里見忠義公の姿がありました。 柏手の音も高らかに、社殿に響き洋々と帰路につきました。
2016年10月12日
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昭和30年、地質調査所にとても変わった”ウラン爺さん”とよばれた方が時々訪れていました。当時、非常に優秀なガイガー・カウンターをもっていて、北は北海道から南は屋久島までウラン探しをしていたといっていました。 ところがある日、一つの石をもって地質調査所に来ました。 これが猛烈にカチカチとカウンターに反応するわけです。「どこのものですか?」ときいても、「まあ まあ」といって彼は返事しない。 当時はまだ法定鉱物にウランが指定してなかったからでした。 ところが、1か月ほどしてウラン爺さんからハガキが届きました。 気がついて、消印をみると「関金」と書いてある。 さて日本中に「関金」というところはないかと郵政省にまで頼んでさがしました。 日本中の鉱区の中からウランが出そうなところと「関金」とを照らしあわせた結果、鳥取県の小鴨鉱山に違いないとわかりました。 むろん、全員ででかけました。 小鴨付近の農家に民宿して、峨や、泥水や、雪や氷と戦いながら1年ちかく、あの辺の土地をセンチ刻みに探査して回りました。(地質調査所の方の回顧です。) 昭和31年10月21日。 科学技術庁初代長官正力松太郎自ら小鴨鉱山の開所式に姿をみせテープを切って「日本原子力時代の夜明け」がはじまりました。後ろにウラン爺さんの姿もありました。 東善作、この人がウラン爺さんです。 「原子力の時代は、目前に来ている。日本でも原子力工業が始まるでしょう。その時に日本にウランがなかったらどうなるのか、各国とも、ウランの輸出には、いろいろと条件をつけるでしょう。その時に慌ててもだめだ。私はそれが心配でウランをさがしてる」 昭和5年にロサンゼルスから、米、欧、露、3大陸の単独飛行を敢行したパイロットが、東善作の経歴。大正5年、飛行学校入学を目指して渡米し、第一時大戦では、米軍飛行士として従軍、戦後米国から軍人恩給をもらってた、ただ一人の日本人です。 「ある日本男児とアメリカ」より。 ここのおやまはネー ウランのやまーさ ほればほるほど たからとわいて サッサウランがよー サッサウランがよー サッサうらんが 花とさくよー アメリカの黄金ラッシュごとき、ウランのラッシュが倉吉にも来るぞ! の夢ありました。 今は昔の夢。 核兵器、核汚染、等々扱いが困難で処理手を焼いてる状態で、ウランは悪物評価された状態です。 天恵のウラン産地としてほこりにしましょう。
2016年10月02日
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