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昨日、日曜日、朝7時から天神様のお掃除でした。 鳥居はたおれても、灯篭はたおれても、国旗掲揚台はたおれても、お正月にはあす担う奥にの宝の参詣にお掃除しますとの総代さんのご発案、大賛成と参集した人のおおいこと。 じっとみてないと分からない暗さ、「ヤア、元気か」。 あちこちであいさつかわし、掃除にはいります。 梯子にのぼり、屋根の瓦、ごみが落ちないようにする人。 ばらばらになった灯篭の上につもった落ち葉を取る人。 社の土台は応急てあてで、ブルーシート。 掃除してる人、人、は皆明るい。 屋根がこわれた人も来ていました。 けがなく、火事なく皆元気だったことがよかった。隣の兄ちゃんに避難誘導してもらったんがうれしいなど話声がきこえる。 明るくなって、眺めると、こんな小さな石碑でもと思えるものまで倒れています。八幡さんも、加もさんも被害があったそう。神さんが被害を背負われたんで死者も火事もなかったんだ」とお隣部落の爺さん。神さんもダメかと思ってたら、自分が背負われたか、なーるほど考え方だな」掃除がすんで雑談もあちこちで。総代さんがごあいさつ。「いい年をとりましょう。今日はごくろうさんでした。」
2016年12月26日
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倉吉での池田家家老伊木忠貞公治世の状況が記録になく判然としない。 洪水対策として長門土手を作り盤石な居住空間をつくり、池田家始祖恒興公菩提寺勝入寺建立等偉大な功績は知られてるが、それが具体的な部下の名前も判然としない。 15年の短年での功績にするととても偉大なものである。 ところが家老の年をしり唖然とする、 倉吉に来る前の年に、先代伊木忠繁公がなくなり、5歳で相続し、池田家鳥取国替えに参画し、6歳の忠貞公である。 忠貞公の祖父忠次公の弟の子、伊木半兵衛正春と小岸惣右衛門存信が、活躍してることが、次に国替えになった、岡山の虫明の記録から判断できる。 初代忠次公が、荒木村重征伐の時、支城宮之原攻略で、敵将小岸惣右衛門存之が忠次をみこんでわが子を託し落城した時の人が小岸惣右衛門在信である。それから38年が経過してる。家臣としてとりたてられ、岡山では、子孫が家臣団の責任者となっている。 まだほかにも、織田信長の攻略時の斉藤氏の家臣であった高原氏、各務氏も家臣であった。 6歳の家老の実績の内情は判明した。 人情に篤い集団であるのに、前治者、里見忠義の扱いは、記録がなく、邪魔者扱いで、下田中に配し、又、山守掘に流して、病没させたとしか言い伝えがないのか。 しかし、岡山の虫明のきろくを見て、岡山でもまだ、幕府の目が非常にきびしかったことを知った。里見の扱いも、記録にしてないのはうなずける。本当は、大事に扱ってくれたことは、記録にしてないことだ。 岡山に行って7年ごに御在所を作るのにすら気をつかってることが次の記録で伺えます。虫明御在所に相成り候は寛永16卯年成。御茶屋前溝筋は御自分で御繕不成子細は先年 金川御茶屋 高石垣で御築候處江戸向不可然 日置豊前殿 御身上危うき事に成り申候に付虫明は石垣等は不成申候 石掻寄被置候破損または砂取捨迄 御公儀御構被仰付候破損仕候に付 公儀御奉行 高野勘介殿被参候 後に天下の3大家老と称された伊木忠貞公、倉吉での栴檀時代の本当の里見忠義扱いを知ってみたいもの。 徳島藩 稲田氏、仙台藩 伊達氏、岡山藩 伊木氏が天下の3大家老。
2016年12月24日
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大河ドラマ真田丸が昨夜終了しました。 真田幸村が、華々しく戦いをいどみ日の本一の武将との賞賛をうけ見事散りました。 家康の陣の馬印「金扇」を倒したのは、三方原の武田信玄と幸村の2回だけだったとか。勇敢。 大阪夏の陣、冬の陣と征し、徳川の時代になりました。 伊達政宗に、時を経て真田守信なる臣が名をあげたのが、幸村の子供です。最初は偽名でつかえてたようですが、仙台真田家の復興がなりました。幸村息女は家臣片桐重長の側室になっています。 敵将の人を信じ、わが子を託した幸村。引き受けた政宗の心意気。
2016年12月19日
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昼寝してたら、薬やさんから電話がかかりました。 なんだろう。 薬やさんになにもたのんでないんだがな」と電話をとると「忘れ物があります」 今日朝早くから絶食して、病院で検診してもらい、薬局で薬をもらってきました。薬をもらって、勘定すまし、車でかえったんですが、保険証や診察券を入れた手提げをどうやら待合室の椅子においたままだったらしいんです。 そういえば、 待ってる間に週刊誌をぱらぱらめくっていました。 きれいなお姉さんが、裸になってにっこりわらっています。 ページめくると昔は巡査さんにしかられる真っ裸です。 あたりをみまわしてこの爺さんなにみてるんだと言われるが。 だあれもいません。 瞑想にふけようとした時に急に名前を薬やさんの姉さんがよんだので、「ハイ」とこたえてたちあがりました。本をかたずけて薬窓口に行ったので、手提げを忘れたというわけでした。 絶食の疲れもあり、昼寝しても手提げのことはすっかり忘却でした。 「痴ほうの薬調合してくれませんか?」 薬局の姉さんかたは、お昼の休憩中でしたが、一瞬怪訝なかおしましたが、大笑いでした。
2016年12月18日
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昨日、午后6時から交通安全パレードに参加。小学生、父兄、シニア会、役員さんが、雨のなか町内をまわりました。パトカーが車道を、小学校児童男女が、交通安全の放送をながして走り、傘さして歩道は1列です。長い長い列、80人ぐらい。まだ、地震の跡がなまなましく残ってる屋根、塀もあり、歩道もポールがあり迂回箇所もあり、初雪襲来の前哨の夕は、いささか寒く楽ではありませんでした。でもみんな参加してるという自負があり、明るい行進でした。地震があって、団体行動がなにか実のある行動に感じたのは、どうやら私だけではなかったようです。今まで災害避難訓練が何回かありましたがダラダラ、でも1回の地震で班の機能が、ビックリするほど整い、若い人が積極的に食事、寝所の世話をしてくれました。車庫をかり、食事、寝所をつくり、みんなが一緒に行動しました。3日いっしょに寝ました。震度7近くで、火災もなく、死者もなかったのは、大難が小難になりほんとうに有難いことだったと感謝しきりです。額を伝う雨もおわりには、汗と一緒になり、心地よい交通安全行進になりました。来年もまた参加できるように、安全運転で元気でいたいものです。ごくろうさんでした。
2016年12月15日
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池田勝三郎恒興の母は勝三郎を出産した年、幼児吉法師(信長)の乳母として織田信秀に厚遇され2人は兄弟のように成長する。 勝三郎は青年期、信長の小姓と喧嘩の末、彼を切り殺して姿をけした。この時、勝三郎をかくまったのが森寺藤左ヱ門秀勝であった。また、後に信長が同族との戦い中に許しを得て再度信長に仕える橋渡しをしたのも藤左ヱ門であった。 桶狭間の戦いで功をたてた池田恒興は信長麾下の侍大将になると、信長は老職に藤左ヱ門勝英をつけた。藤左ヱ門は池田家将来のため、知勇兼備の組頭を信長の許しを得て家臣に組み込んでいった。その中に太田氏、和田氏、片桐氏、土倉氏、伊木氏の名がある。 平成8年 「備前藩筆頭家老伊木氏と虫明」邑久町郷土史クラブ編の抜粋です。 ここにある伊木氏は、倉吉の家老家で伊木長門守忠貞の祖父のことです。織田氏と斉藤氏との戦で難攻を極めた斉藤氏属城伊木山を落とした時、 「香川長兵衛 一身の働きを乗っ取り比類なき高名せしにより、信長公これを賞し向後、伊木を氏とし清兵衛忠次と号せよと宣へり。よって香川を改め伊木とし清兵衛忠次と名乗った。忠次この時弱冠19歳であった。」伊木の姓は織田信長より賜ったものです。 池田家において、森寺藤左ヱ門秀勝が年老い、伊木忠次の重責が重くなりました。 信長本能寺変ののち、秀吉に味方し、織田信雄を擁立する徳川家康との戦いで、長久手において、池田恒興、長子之助が戦死。忠次は2男輝政を守護して生き延びました。 両軍は和睦し、池田家は、輝政を家督相続に忠次が奔走して成就させました。豊臣あと徳川の世になり、池田家の処世訓は殊の外きびしかったことでしょう。伊木忠次の功績は絶大なものがあります。
2016年12月12日
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12月8日は、大東亜戦争勃発、真珠湾攻撃の日、あれから75年もなる。 攻める側からみると、奇襲攻撃で、宣戦布告の時期が云々されるが、攻められる方では無防備でたまったものではなかっただろう。 原爆で非戦闘員を大量殺傷、しかも降参するとわかってるのに、プルトニュームの実験を長崎で3日を待たずに行ったのは人道を逸脱してるが、奇襲の代償として語られるのは致し方ない。 紛争を武力で解決しようとする人間のサガが悪い。 昭和16年、小学校が国民学校と改称され、新1年生は、12月8日を大詔奉戴日と記憶させられ、戦争の真っ只中を生きてきた。 「欲しがりません勝つまでは」食い物、衣類、履物も不足する中で、戦地の兵隊さんの苦労に比べて我慢した。 遊びも戦争ごっこ、あこがれは軍人さん。 昭和20年8月15日をもって終戦。 在郷軍人の凋落ぶり、巡査、教師のあわてを目の前にし、教科書を墨をぬるのが日課となった。 空襲警報がなくなって安楽になったが、これから先の所を墨塗るのはいいとしても、1学期の今まで教えられたところを間違いだと墨ぬるのは、先生も大変だったろうが、生徒もこれが負けたということかと知った。 民主主義が喧伝され、話し合いがなにかとクラスに持ち込まれ一部のクラス員に多大の負担を掛けたものだった。 学制改革で6,3,3で新制中学ができ、地元で新しい中学1年生となった。 柔道、剣道は、進駐軍から禁止。 相撲部として、雨天の時室内で畳の上で練習する名目で柔道するというややこしいいいわけの柔道だった。 孫のスイミングプールに、週1回アッシーをつとめてるが、のびのびとみんな泳いでて平和っていいなと思うことしきり。
2016年12月09日
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