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瓜はめば子ども思うほゆ 栗はめばまして偲はゆいづくより来たりしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ’反歌)銀も金も宝も何せむに 勝れる宝子にしかめやも瓜を食べれば(残してきた)子どものことを思いだす。栗を食べれば、いっそう懐かしく思えてしようがない。子どもたちはいったいどのような縁で、私の子どもとしてやってきたのだろうか。目に子供の姿がちらついて、熟睡することができない。(反歌)銀も金も宝石も何にせよ、それらより勝っている子どもに宝として及ぶだろうか。いや及ぶまい。山上憶良によって詠まれたもので、何をしていても子供たちの姿が目の前に見えるほどの憶良の子供たちへの愛情をあらわした歌です。すべての親が同じです。心ない事件がありました。郊外にある碑に手をあわせました。二度とこんな事件が起きませぬよう祈ります。
2019年05月30日
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昨日。午前9時。訓練)地震発生の放送全員一斉に最寄りの集合場所に集まり、審議員の点検、全体集合場に向かった。廃線後の広場には、一杯の人だかりである。暑い日だがみんな協力的だ。平成28年10月21日14時7分。あの地震だった。まだブルーのシートが乗ってるお家もあるようだ。でも直接住居に関係ない所で、ゆっくりと修繕しようとの考えのところのようで、住居は、落ち着いたようだ。かつて防災訓練の名目での訓練があったが、人ごとの用で参加者も少なかった。地震の振動を経験する車も、後が立たぬほど希望者が並び、悲鳴がおきたり、笑いがあったり、大賑わい。消火ポンプで実演する人ありで、みな真剣のようだった。山陰地方は地盤が年間3-4cm東へ動いてるようで、ひずみが起きやすいということだ。島根県東部から兵庫県北部にかけて帯状に連なって地震が起きやすいそうだ。専門学者の調査とのこと。年間に3-4cmとはかなり大きい。用心して無駄な事はない。
2019年05月27日
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西倉吉保育園の橋付近にホタル5ひき昨夜午后8じごろきました。まだ走り故飛行してるのは2匹だけ。サンサンプラザ裏の田んぼは0.西中橋付近も音沙汰なし。今、西中橋付近から北野神社下の高速取り付け道路に向けての工事が始まってるので、ここは今年はダメみたい。なおここらの水路は、高速道路の雨水排水を収容するような工事のため、ホタルの住家はだめになりそう。開発と自然保護は、折り合いがむつかしいもの。今朝ホタルの会長さんが観察表を持ってこられた。記録の最初が26日になってるから、20日はまだはやいのだろうか。 万歩計もっていったら、5000歩あるいていました。テレビの番から脱出して、健康管理に専念しよう。
2019年05月23日
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里見忠義の寿命がもう少し有ったら、又別の好転の歴史があったかも。国替えで来た里見衆、従来ともすれば、里見氏の伯耆国替え自体を「配流」としてとらえると、里見家の落日の過程として悲観的に判断されて、たまゆらの主従「あわれ」となってしまいます。 少ない記録からみても、大岳院への寄進、東郷八幡宮寄進、翌年2月の北条郷八幡宮の再建、同年9月の北野村天満宮の再建などをみると、倉吉を中心とする久米郡・河村郡支配がかなり意欲的であったことが伺えます。 それが元和3年6月に姫路城主池田光政が因幡・伯耆2国の鳥取城主になり、その家臣伊木氏が倉吉にはいると里見氏は、所領を没収下田中に移されることになりました。相憐れむ同類の池田と里見 治者からお預けの身となった里見忠義、下田中・堀へと移されて、忠義の病死で終焉をむかえたことに帰結されています。 でも池田家も外様扱いで姫路城を追われ、減石の上、配置転換の仕打ちされた幕府に、深い憤りを抱いていましたので、相似た運命の里見一行を、無碍に取り扱いはしませんでした。 倉吉を治めた伊木家は、家老の忠貞は6歳で、先年播州で父忠繁を亡くしたばかりでした。 伊木半兵衛正春の後見あったらばこそ、着任早々で、倉吉の河川の整備をし、勝入寺をたてて池田の祖を祀りました。 里見の記録も伊木の記録も倉吉では発給文書が少々ある位で、ほとんど他にありません。 これは、あえて記録は残さぬことにしたものと思われます。伊木半兵衛・小岸在信の存在 伊木半兵衛は、播州三木城を受け持った初代伊木忠次の弟の子で、三木城の補修、先君を祀る勝入寺の建設、2代忠繁の姫路城大改修時”普請奉行”の補佐を受け持っており、小岸在信は忠次が、敵将の子を預かり育てた者で、倉吉では力量の士になっていたと思われます。ほかに斉藤氏の家臣だった高原、各務2臣もいたようです。(虫明け記禄逆算) このような力量の家臣団の存在があれば、堤防の構築、お寺の建設などわけなくできたでしょう。里見家奉公人連署書状(塚本文書) 返々昨四日川村郡より馬五匹参候、候、其外ハ不参候、依之河村郡御奉行昨日以書状申入候、度々他行故御報無之候、為御心得申入候、以上、一昨日者乍御報具申入候、馬之儀、信州様へ御相談被成候哉、無御心元奉存候、一昨書付以委細ニ如申入、安房守事、来八日ニ可被罷稼候間、六日八日両日ニ馬、人足被仰付可被下候、従其元御積之馬数にてハ何□不罷成候間、御六ケ布可有之候覧、切々申達候、可然様ニ奉頼入候、恐縮謹言、八月五日 板倉左衛門佐 康常 祭主新左衛門 頼□多賀長太夫様 人々御中下田中で里見一行は、馬、人足を提供うけて罷稼したもようです。用兵の妙にたけた半兵衛の里見一統の竹田川筋の堤防工事の起用があったことと推察します。堀村での病死は早すぎた倉吉にきて、8年目に病死した里見忠義ですが、城主の池田光政が元服するのは翌年、預かりの伊木忠貞の元服は4年後で、まだ幼い為政者の時で充分な対応ができない時でした。 それから光政は将軍秀忠の養女を娶り、忠義の伯父で倉吉まで来て、江戸に呼び寄せられてた正木大膳は、改めて忠義死後鳥取に、妻子とともに預けられた。光政が幼いためなどの理由はたたないが、本多正純の取り潰し等もあり、里見に対する一抹の反省があるような気がする。大膳は6年ほどで病気でなくなるが、子供、家来のとりたてなど岡山国替え先まで面倒をみてもらってるようです。
2019年05月20日
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里見忠義が寿命があったら、運命は好転してたかも。徳川の天下統一で、大阪で後顧の憂いなきように戦うために、外様の里見の水軍力を危惧して、里見は国替えさせられました。初発の試み以上に徳川の策は進展し、里見を取り巻く諸条件も好転の兆しをみせかけたところまでこぎつけ、房総を放棄した里見に新しい進展の地があたえられたかもしれません。家康の側室お万の方 里見一門衆の正木時頼の娘お万の方が、慶長元年(1596)家康に見初められ側室となり寵愛、信頼されており、元和5年(1619)に頼宣、翌年に頼房が生まれ、紀州藩、水戸藩の元祖になりました。お万の兄為春は紀州の家老としてとりたてられ、里見家が没落後は時頼も紀州にうつり余生を送り元和8年8月19日忠義より2か月遅く他界しています。お万の死装束といって、死ぬ覚悟で諫めたことで家康を、改心させています。 もう一人の里見一門衆の正木大膳は、義康の弟で正木家を継いだ忠義の伯父で、忠義が江戸で転封を授けられた時には、家康のいる駿河に1年前から呼び寄せられており房総には不在でした。そして、駿河の地から、忠義に伴って伯耆の国に向かいました。御供の上野仲国は、房総にいってましたので、城始末の様子は承知でした。かくして房総の始末状況は、仲国より忠義、大膳も聞いての上で旅立ちでしたろう。統治者から預けの身に なにしろ記録がほとんどない里見忠義一行です。 国替えから始まり、途中から池田藩にお預けの身に変化させられた里見一行。倉吉担当の伊木家の記録もほとんどない状況です。てんやわんやの統治者 預かった池田藩がこれまた、姫路の城42万石から鳥取32万石、10万石減少されて、家来衆は皆ひきつれて、しかも殿様は9歳、里見一家を預かった倉吉の伊木家老は6歳でした。 前任者鳥取6万石の地に居城準備せねばならなく、倉吉にいたっては、竹田川・小鴨川筋の天文の水害跡を修復する力ある治者に恵まれず放置の有りさま、これを改修することが第一でした。相哀れむおなじ境遇
2019年05月17日
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従来ともすれば里見氏の伯耆国への国替え自体を配流とみて「里見家の落日」の過程として捉えられてきたが、この堀江頼忠の活躍といい、その他確認される家臣たちの存在、さらには元和元年11月13日に大岳院へ3石余寄進、東郷八幡宮へ20石寄進、翌年2月の北条郷八幡宮の再建、同9月の北野村天満宮の再建などをみると、倉吉を中心とする久米郡、河村郡支配(2万7千国)がかなり実質を伴っていた様子が窺われる。 それが元和3年6月に姫路城主池田光政が因幡・伯耆2国を領し鳥取城主となり、その家臣伊木氏が倉吉に入部するに伴い里見氏は所領を没収され、田中村、さらに掘村に移ることになったのである。 その両段階を明確に区別し伯耆の里見氏を位置づける必要があると思われる。 とはいえ、里見氏の伯耆国における実態究明には、當該段階伯耆国の政治過程の検討が必須と思われ近世史研究との密接な連携が求められよう。 当面年末詳8月5日付多賀長太夫宛板倉康常・祭主頼□連署書状「塚本文書」の検討が急務と思われる。”今よみがえる里見忠義の足跡 佐藤博信” 「塚本文書」里見家奉公人連署書状返々昨四日川村郡より馬五匹参候、其外ハ不参候、依之河村郡御奉行昨日以書状申入候、度々御他行故御報無之候、為御心得申入候、以上、一、昨日者乍御報具申入候、馬之儀、信州様へご相談被成候哉、無御心元奉存候、一、昨書付以委細ニ如申入、安房守事、来八日ニ可被罷稼候間、六日八日両日ニ馬・人足被仰付可被下候、従其元御積之馬数に手ハ何□不罷成候間、御六ケ布可有之候覧、切々申達、可然様ニ奉頼入候、恐惶謹言、 八月五日 板倉左衛門佐 康常 祭主新左衛門 頼□ 多賀長太夫様 人々御中 塚本文書とは明治期の岡山塚本吉彦氏の蒐集文書の総称で数少ない関連文書です。 文書の内容は、忠義の「罷稼」に伴う馬・人足提供を求めたもので、提供予定の馬数では無理なことを伝え、今まで、田中村に居を移され、そして堀村へ転居させられたとしか知られなかったことが分かったようです。 いずれにしても記録が少なく、肝心の15年間倉吉を治領した伊木長門守忠貞一連の記録がほとんどないことは、幕府と池田藩との確執が如実に推察されます。
2019年05月15日
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令和の新年号がスタートしました。 昭和、平成、令和と三代の御代に生きることになりました。 あえて5月1日から令和なる文字は、筆にせず傍観の形で世の行く様を眺めました。 新天皇、皇后の立派な姿には、心意気が感じられとてもすがすがしく感じました。 自平成30年ー至◎◎年 の◎◎に令和の文字を手帳、帳簿に書き込みました。 なんだか岸壁から離れた船のスクリュウが動き始めたような気分です。 さあ、わが人生ももう一息頑張ってみましょう。
2019年05月05日
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