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天神野丘陵末端の倉吉西中学校付近に位置する北㋨城。詳細は不明だが「伯耆民談記」によると岩倉城の支城で岩倉の北にあるため、北の城というとある。一社彫りといわれる大きな空堀があるといるされている。平成28年10月の鳥取県中部自身で西中学校の校庭が一部陥没し、幅約8米の一部が姿を現した。 昨年文化財巡検の資料みてたら、地震のあと西中校庭のひびを撮影してたのを思いだした。 もっと詳しく見てたらよかった。
2020年01月30日
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東風ふかば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそきみかすむ 宿の梢をゆくゆくと 隠るるまでもかえりみしはや此たびは ぬさもとりあえず手向山 紅葉のにしき神のまにまにやまわかれ とびゆく雲のかえりくる 陰見るときはなお頼まれぬ夕されば 野にも山にも立つ煙 なげきよりこそもえ勝りけれ美しや 紅の色成る梅の花 あこが顔にもつけたくぞなる流れゆく 我は水屑となりはてぬ 君しがらみとなりてとどめよ櫻花 ぬしを忘れぬ物なればならば 吹きこむ風に言伝はせよ筑紫にも 紫おふる野辺はあれど なき名悲しむ人ぞ聞こえぬ啼かばこそ 別れをいそげ鶏の音の 音の聞こえぬ里のあかつきもがな海ならず たたえる水の底までに 清きこころは月ぞ照らさむ 灯篭が地震で倒れ、何とかたちあがりました。 そしたら、灯籠に和歌がありましたのを小鴨文化財,石造物めぐりで教えてもらいました。 北野神社は、菅原道真などを祀る旧村社。京都の北野天満宮の文例を勧請したもの。享禄2年(1529)野火のため社殿・記録など焼失、天文20年(1551)尼子晴久再興され、元和2年(1616)里見忠義が方3間の社殿建立。しかし、万治年中(1658~61)再度野火で焼失。寛文年中(1661~73)再建。大正4年(1915)中西神社、岡田稲荷神社、福岡神社、秋喜神社を合祀、北野神社と称する。
2020年01月26日
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令和2年の新春、小鴨川歩道橋の中ほどにたってあたりを眺めました。 眼下の河原は、綺麗に整理され、繁っていた雑木も雑草もなくなり、流路が整然とされ、澄み切った真水が悠然と流れていました。 昨年は、台風15号、19号で震撼された日本列島でした。 静かなおだやかな小鴨の川も、一旦大雨が来たら、急峻な中国山塊のから捕集された雨水が命を得たものの如く濁流と化します。1、むかしの小鴨の平野と川 小鴨平野は、天文の洪水で西側の天神野裾を流れていた小鴨川が今の東側に流路を変えたといいます。 鴨川が昔の小鴨川のなごりだそうです。鹿首村なるものが八幡様から陸続きであったそうですが壊滅したそうです。その後、丸山、生田の人里ができました。丸山には家の川上に木を植える風習がありその名残の大きな木が記念物として表示してあります。 丸山の観音様と河原町上の八幡さん水道山裾が同じ流紋岩で小鴨川底も同じで、当時同じ丘だったことがうなずけます。 河原町上の土手は、いかにも人工で作った堤防で、ここが壊れたら、倉吉懐を襲う被害がおきます。明源寺土手の名称は、小鴨にある明源寺と混同すると地理的におかしくなります。関係は、調べていませんが、何回もこの堤防の決壊に悩まされ、小鴨橋袂は、千人波止なる名称を付ける如く労力をかけ奮闘しています。 天文13年(1544)の天文の洪水は、竹田川と別河川であった小鴨川が、山名氏時代に栄えた見日千軒を飲み込み河道にして合流しました。斯くたる災害で傷んだ街も、住民が打吹山ろくに移動する位で河川の改修は、まだでした。 元和3年(1617)池田光政鳥取を領するに中り、伊木家が倉吉を治領することになりました。 70年ほど小鴨川の増水に肝ひやしていた倉吉人民に、河原町千人波止あたりから東中学あたりまで2重土手を築いてくれました。 確たる記録は、御承知の如くありません。 あるのは、旧グンゼ辺りにある地名に「長門土手」という伊木長門守の名前を写した場所と、播州三木より移転した池田家家祖、池田勝入斎の菩提を祀る勝入寺の建設が唯一の伊木忠貞公の功績として残っています。 2、伊木家の人々 これらをどうして作ったか、家臣は誰かも倉吉には記録がありません。しかもトップの家老伊木三十郎(忠貞)は若冠6歳で、倉吉着任後9年たった寛永3年(1626)に元服し長門守忠貞となりました。寛永9年(1632)には、岡山に池田家が国替えになり、倉吉を去っています。 倉吉在任期間15年です。 前領主里見忠義を預かりの身として引き受け、下田中、堀と移住させ、元和8年(1622)には29歳で病没しました。その3か月ご残った家臣が殉職して果てました。 現在小鴨橋の上から眺める雑木、雑草もなく、川正中に流路を得て、水が整然と流れる様は、どんな大水でも磐石です。このようにブルドウザーで整理されるならいと簡単でしょうが、人力で、年少の家老で、初めての治所でよくやったものです。 判明してるのは、伊木半兵衛正春の存在です。伊木家の仕置家老なるものが居ました。小岸惣右衛門在信もいました。3、陰の力、伊木半兵衛正春と小岸惣右衛門在信 播州姫路で伊木家の初代伊木忠次は三木城を預かり、弟正雪の隠居で、その子伊木半兵衛正春を用い、右腕として、三木城下、勝入寺建設、城下整備にあたらせました。 慶長6年(1601)になり、姫路城大改修時には、池田輝政より、伊木家2代伊木忠繁が普請奉行を仰せつかりました。1609年忠繁28歳時、ほぼ現姿の姫路城を成しました。半兵衛も尽力し初代伊木忠次は慶長8年(1603)になくなりました。 小岸惣右衛門在信は、伊木忠次が以前荒木村重が信長に背いた時、攻めた支城宮原城城主の子で敵将が忠次に託して落城したいわくの士で、倉吉では38歳位でしたろう。 4、主家変転と伊木家 慶長18年(1613)に主君池田輝政公がなくなり利隆公が後を継ぎました。 元和元年(1615)輝政の正室督姫が亡くなりました。 元和2年(1616)池田家の主君池田利隆公逝去。6月に継息幸隆(光政)が家督相続。 伊木家にもこの年元和2年8月に伊木家2代当主忠繁が36歳でなくなりました。 伊木半兵衛正春が一族を束ねて、家督を三男三十郎に継がせました。5歳で将来性のある第3代伊木忠貞の誕生です。 主家の面倒を見るべき家老伊木家の頭首が逝去、其の後継決定、度重なる主家の受難をも半兵衛は、見事処しました。 そして、姫路から鳥取への国替えでした。 国替えの途中では、加古川の正条川での国替え奉行の池田出羽守由之が家臣に殺されるハプニングがあり、此を病死扱いの処置し、幕府対策、家督相続難なく果たした三十郎でした。陰に半兵衛がいました。5、勝入寺建立と長門土手 倉吉に入った伊木家の第一の仕事は、城下町の改修と天神川・小鴨川の堤の改修でした。 勝入斎の御霊を祀るお寺を第一に移転した心情は、見上げたもので、倉吉民情は、好感をもって伊木家の長門土手工事にも協力したものでしょう。姫路城普請奉行の中枢で指揮した半兵衛ら家臣の経験もあって、短期でも成功しました。天神川筋では、里見主従の協力もあったような文書がみつかっています。 6、陪臣なる扱い 伊木家の倉吉での記録は、ほとんどありません。従って里見忠義の記録もありません。 倉吉での里見忠義を語る時、国替えの条件から減俸、治者から預けの身になった事等から、池田藩の伊木主従に厄介者にされたと判ずる見解がおおくあります。 神坂から下田中に移転する時、伊木家の家来から、忠義公が槍で家から追い出されたと語るものもあり、たまゆらな悲しき人生と語るもあります。 伊木半兵衛、小岸在信、まだ諸々の武士がいる中、こんなことはなかったと、むしろわが身に写し、里見主従を大事に扱った事と信じます。 どうも倉吉の15年を経て、岡山虫明に行ってからも、幕府の監視が強く、溝筋の改善も届けがいったようで、陣屋をも茶屋の名称を用いてたとかの幕府の目を恐れていた事を聞くと倉吉での記録が少ないのは、むべなるかなです。 主君の池田光政は、元和9年(1623)将軍家光立会で元服し、前任地姫路城に来た本多忠刻と千姫の娘、勝子を正室に推薦され、断りを入れたが、寛永5年(1628)に秀忠の養娘として正室に迎えています。 第一家老として、伊木忠貞は、岡山で住し、虫明陣屋は伊木半兵衛、小岸在信などが、500人の住民の地に、300人の主従が住むので、水源、山木まで居住環境の管理をし、住民との調和を図ったようです。 主池田光政は正室を徳川から迎え、疱瘡を患い、捨て身で看病をしてくれた勝姫に感謝し、江戸での側室は持たぬと決めた仲良さだったといいます。 岡山藩伊木忠貞は、徳島藩稲田、仙台藩伊達と並び、三大家老と称される傑物です。 将軍からみると、光政と忠貞は、臣と陪臣で異なる扱いでしょうか。 7、解せぬ伊木忠貞の最後 「忠貞は江戸からの帰国途上、川崎宿で急死するが、その死因について将軍からの使者が追いかけてきて茶会に招待され、覚悟を決めて茶会に臨み毒殺されたという。」 牛窓での朝鮮使節の馳走で,経平の部下が不謹慎の行動があったやに記されていますが、曖昧にしか解りませんが、それと忠貞の毒殺の因果は更に解せません。
2020年01月16日
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明けましておめでとうございます。出す賀状もすくなくなりましたが、来る賀状も減りました。特に来年から賀状はやめますと昨年の賀状で宣告した友からの賀状が無くなり、本人が先早に黄泉に行ってしまったものが3人いたことが驚きです。 先見の明があったというべきか、自分の生力が衰えたのを感じたものか定かでないが、こんな寂しい予告はしない方がよいように思う。今年の賀状にも、来年から辞めますとの文句があるのが2・3あったが恰好は、いいが、気持ちはよくない。 黙って、賀状だすのをやめたらいい。 中には、是だけ生きたから、後15年ぽっち長生きようと思うとの賀状もあった。 15年を彼の年に足したら=100になる計算。その調子、せっかくもらった命だ。 堪能して人生を送らにゃ損だ。 そのかわり、ぼけとか、寝たきりじゃ意味がない。 その元気な見本になって、ありがたがれるシニアになろう。 老人よりシニアが響きがいいらしい。 そんな気持ちの子の年の初めでした。
2020年01月07日
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