グリーン・レクイエム (3)


「すみません。」
程なく、中からおばあちゃんが出てきた。
「あれ、まあ。どうしたの?こんな所に何か用かね?」
「俺達山登りに来たんですけど、日が暮れて下りるに下りられなくなって…。すみませんが、一晩泊めてもらえませんか?」
建城兄が訊くと、おばあちゃんは二つ返事で頷いた。
「いいよいいよ、泊まっておいき。嬉しいやね。ここは滅多に人が来ないんだよ。」
おばあちゃんは本当に嬉しそうに笑った。どうやらおばあちゃんは一人暮らしのようだ。
 僕達は家に入れてもらい、電話を借りてお母さん達に連絡した。お父さんは心配していたみたいだったけど、お母さんは「建城くんがいるから大丈夫ね」と笑っていた。真波ちゃんは怒られていたみたいだった。
 それから、おばあちゃんが作ってくれた晩御飯を食べた。おこわとか、煮物とか、お母さんが作らないような料理ばかりで、不思議な味だったけど、おいしいと思った。そう言うと、おばあちゃんは喜んでくれた。
 食事も終わって落ち着いた頃、建城兄は「トイレ借ります」と言って部屋を出て行った。僕と橘夏姉と真波ちゃんは暫くおばあちゃんと話していた。おばあちゃんのお話は面白かった。たくさん昔話を知っていて、いろいろ話して聞かせてくれた。
 僕はふと窓から外を見た。トイレに行ったはずの建城兄が、何故か外にいるのが見えた。
「おばあちゃん!僕もトイレ借りるね!」
僕はとっさにそう言い、立ち上がった。そしてトイレに行くふりをして玄関に行き、音を立てないように気を付けながら引き戸を開け、外に出た。
「建城兄!何処行くの!?」
そう叫ぶと、建城兄は弾かれたように振り返った。悪戯を咎められた小さな子供のような目で僕を見る。それは一瞬で、すぐにいつもの怜悧な瞳に戻った。
 建城兄は僕に向かって微笑んだ。全てを諦めたような、それでいて強い意志の籠もっている、そんな顔で。
「死にに行くんだ。」
あっさりと、軽い口調で建城兄は言った。
 暫くは意味が飲み込めなかった。やがて徐々にその言葉が僕の頭に浸透していくにつれて――、僕の身体は硬直していった。
「どうして…。」
ややあって、漸く声が出た。
「どうしてそんな事言うの!? 建城兄、『命は大切だ』って、いつも言ってたじゃないか!それなのに、どうしてそんな事言うんだよ!…建城兄、医者になるって言ってたじゃない!だったら、僕達と一緒に帰ろうよぉ…。」
憤りと悲しさに、声が詰まった。
 「命は何物にも代え難い大切なものだ。だから俺は医者になる。」いつもそう言っていた建城兄が、何故そんな事を言うのか、理解できなかった。
 建城兄の顔に、陰りがさした。
「医者にはなれない。…もう、駄目なんだ…。」
 強い風が吹き、周りの木々を大きく揺らした。ただでさえ不気味な葉音が、真っ暗な今、余計に恐ろしい。肌がちりちりと泡立っていた。
「俺の病気、もう治らないんだ…。」
 ドクン…。自分の鼓動が、いやに大きく聞こえた。
「帰ったら、入院しなければならない。そして、そのままベッドに縛り付けられる。身体中にチューブを取り付けられ、苦痛に耐えながら、死ぬまで…。
 俺はそんなのは嫌なんだ。自分の死に方くらい自分で決める。そのためにここに来たんだ。」
 建城兄の瞳は力強く、澄んでいた。死を受け入れた者の目だ。
 建城兄は僕の方に歩いてきた。ポケットから何か取り出して、それを茫然とつっ立っている僕の手に握らせる。それは黒い万年筆だった。
「やるよ、それ。大事に使ってくれな。死ぬ前に楽しい思い出をくれたから、それのお礼だ。」
 建城兄は本当に死ぬ気なんだ。と、そう分かったけれど、何も言えなかった。足はがくがくと震えていた。
「じゃ、元気でな、木葉。橘夏や真波達に、よろしくな。」
建城兄は大きな手で僕の頭を軽く叩き、寂しそうな、けれど晴れやかな、不思議な笑顔を残して、暗闇の中に歩いて行った。足音と人影が、遠く離れて小さくなっていく。
 ざわざわと、また木の葉が騒いだ。
 身体が動かない。足が震えて、動けない。行かせたくないのに。止めたかった。どちらにせよ建城兄は死んでしまう。そう分かっていたけれど、それでも引き止めたかった。
「建城兄――!」
僕の絶叫にも、建城兄は振り返らなかった。一度も振り返らないまま、闇に飲み込まれていった。建城兄の姿も足音も、だんだん薄れて消えていく。
「建城兄!」
もう一度叫んだが、僕の声が闇にこだましただけだった。足音も姿も、もう消えてしまっていた。
 ガラッ。
 不意に、僕の背後で引き戸の開く音がした。振り返ると、橘夏姉が立っていた。寂しそうな笑みを浮かべている。
「建城くん、もう行っちゃったのね…。」
そう呟いた後、橘夏姉の笑みが歪んだ。そして次の瞬間――、橘夏姉は僕をきつく抱き締めていた。
「ごめんね、ごめんね…。」
そう繰り返しながら、橘夏姉は泣いていた。僕も泣いていた。
 涙が溢れて、止まらなかった。
 雲に隠れていた緋色の月が、再び辺りを明るく照らした。けれど、建城兄が行ってしまった方向の木々は、真っ黒なままだった。


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