日蓮はこの久遠実成の釈迦如来を至上の存在と考えた。
彼は自著『観心本尊抄』の中で「一念三千の法門は、法華経の如来寿量品の文底に沈めたり」と説き、一念三千の法門、すなわち全宇宙の存在現象が個人個人の心の中に具わっている。
そのことをしっかりと認識することが「観心」であると説いた。
そして、「一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」と続ける。
日蓮はあらゆる経典を読破し、その思想を理解した。
その上で「一乗真実」「久遠実成の釈迦如来」を説く『法華経』を絶対の教えと確信した。
つまり、『法華経』の説に従えばすべての教えは方便であって、けっきょくのところ絶対的な真実である『法華経』に帰一する。
ここに『法華経』のみによる日蓮のユニークな思想が展開されるのである。
『法華経』には、すべての仏菩薩や天(神々)が帰依すべきことが説かれている。
この記述に基づいて、日蓮は日本の神々も『法華経』に帰依すべきと同時に、『法華経』に帰依してそれを弘めようとするものをしっかりと守らなければならないと考えた。
「龍口の法難」の折、日蓮が護送される途中に鶴岡八幡宮の前で八幡大菩薩を激しく𠮟責したのは、今述べたような理論によるのである。
つまり、『法華経』の持経者、行者を護れない神は本当の神ではなく大きな仏罰が当たるというのである。
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