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〈法華経〉の世界【電子書籍】[ ひろさちや ] さて著者は,法華経を〈法華経〉と『法華経』に分ける。 すなわち〈法華経〉は, 「久遠実成の仏」は姿なき仏です。ということは、「教え」そのものがその仏の本質なんです。 そして、その「教え」とは、じつは大宇宙の真理である〈法華経〉にほかなりません。 つまり、「久遠実成の仏」とは〈法華経〉そのものなのです。とまさに法つまり仏の教えそのものをさす。 つまり 釈迦は最初の最初から久遠実成の仏(宇宙仏)であられます。 然りとすれば、釈迦の説法は宇宙仏の説法ですから、それは〈法華経〉なのです。 釈迦が説かれたもので、〈法華経〉でないものはありません。 ──釈迦の説法はすべて〈法華経〉だ──これが『法華経』の主張です。なのである。 そして『法華経』は,妙法蓮華経そのもをさすというのだ。 さすがひろ仏教じつにわかりやすい。 こういうのを対機説法と言うんでしょうな。 したがってあたしなんざあ,本書の髄が次から次へと頭に入ってきましたものな。 まあそれにしてもひろさちや実に多くの法華経本を出していますな。 それらの中で本書が,一番腑に落ちた。 納得感が,実に高い。 といいつつ実は,もっともっといいことが書かれていたのにね。 もうすでに忘れてしまったのだ。 まあそんなことは,どうでもいいか。 それであたしは,考えたわけだ。 南無妙法蓮華経の妙法蓮華経は,どっちだい? 『』なのか〈〉なのか。 普通に考えたらそれは,〈〉でしょうが,日蓮聖人という人の個性を考えると逆なんじゃないかなんて考えてしまう。 どうもあたしは,天邪鬼である。(7/13記)
2023.09.11
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わたしの「南無妙法蓮華経」【電子書籍】[ ひろさちや ] 法華経に関してもひろさちやは独特の仏教観を呈する。 その考えは実人生や生活に直結する。 次の, 昔は、いくら努力しても、失敗したり、うまくいかない人もいました。 世の中はそういうものだと思われていました。 ところが高度経済成長期というのは、みんなが伸びた時代でした。 努力しない者でも、みんなよくなったのです。 九十パーセント以上が中流意識を持つようになりました。 だから、もっと努力したら、もっとよくなったのです。 そこで、「なにごとも努力したらうまくいく」という神話ができました。 だから、いまの年寄りは、その価値観にしがみついています。という見解は,おもしろい。 同感である。 今は,そうでないということを自覚しないと,大変なことになる。 つまり,ここでもひろ流に考えて大事なことは,仏の物差しと人間の物差しの違いということになろう。 このことは特に孫に対して考慮しないと,大変なことになる。 さて本書は,南無妙法蓮華経なのだが,実は,そういう題名のひろさちや仏教である。 ツボは,苦とは, 思うがままにならないことであり, 私達の人生が苦であるのは,私達が欲望を持っているからである。 よって, 欲望をなくせば,苦しみもなくなるのだ。 このことは本当に今まで何度も何度も読んで理解したつもりなのに,相変わらず私は思い通りにならない人生につまずいている。 少しは,前進しているのかどうかは,まったくわからない。 しかしたえず前進しなければならないのがブッディストなのだ。
2023.09.05
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現代語の法華経【電子書籍】[ 庭野日敬 ] 法華経は平成12年13年頃私が単身赴任をしていた時に近くの書店で法華経の本を見つけそれを読んだ時に痛く感動してそれ以来長らく浅草浅草寺から買ってきた妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25偈を法華経の行者は常に法華経を受持していますという教えに基づいてお守りのように持ち歩いていたのだがそのうちバッグを買い替えたりしているうちにいつのまにか古いバッグの中にしまわれているばかりになってしまっていた。 それはともかく今法華経をなぜ私は一生懸命勉強しているかと言うと私の菩提が新義真言宗でありもう20年以上勤行を欠かさずやっているのだがこの間浄土教系の教えとか坐禅を行ったり来たりしているわけでそういえば自分は法華経を勉強したことがあったなあ なんて思い出してまた 読み始めたのだけれど当時一生懸命勉強した割にはやはり自分の脳裏にはその記憶の面影もなくてただただ抽象的な観念だけが残っていたようなつまりそれは残渣とでも言うものなのだろうかそれでも様々な法華経本を読んでいるうちなんとなく法華経というものの凄みを感じ始めている。 例えば そして、ただ、この世のものはすべて絶対的な実体はなく(空)、固定した相はなく(無相)、何かに作られたものでもない(無作)のである、というような思索ばかりに心がとらわれておりました。一一六─九─上 仏さまが今お説きくださいましたような、〈すべての人が平等に仏性を具えていることを悟った上で、さらに人びとの間にある違いを認め、相手によってそれぞれにふさわしい教えを自由自在に説き、世の中を美しくし、すべての人を人格完成の域にまで導く〉という菩薩の法を、喜んで求めることをいたしませんでした。 本当に考えが至らずに、申しわけないことでございました。などということはつまり空論に対する法華経の明確な否定と言えよう。 こうなると一体ブッディストとして私は何を信じればいいのか などと思ってしまう。 とにかく法華経はミスター大乗仏教と呼べるものでありまた釈迦牟尼仏世尊の人生を忠実に なぞっているものではなかったかと記憶していたのでそのことが私の頭の片隅に ずっと残渣として残っておりそれなのに今一生懸命読んでいる法華経本にはそのことが書かれていないので戸惑っているのが本当のところだ。 法華経をはじめとする諸経を勉強していて仏にも寿命があるということについてすごく 疑問に思っていたしもしそうであれば宗教として成り立たないのではなかろうか などとも思っていたけれども わたしも父である。 世界全体の、父である。 世の衆生の、もろもろの苦しみ悩みを救うものである。 常に衆生と共にあって、苦患から救おうと願い続けているものではあるが、凡夫は心が顚倒しているゆえに、目に見えるものしか実在とは考えない。 その顚倒を正すために、実際は衆生と共にありながら、時期がくれば入滅するのだと告げる。 もし、いつでも仏に遇えるというのであれば、わがままな心が生じ、放逸の気持が起こり、五官の欲望を律することを忘れてそれに執着するために、次第に悪業に走り、したがって人生の苦患がさまざまに起こってくるであろう。というように本来は仏の寿命は永遠であるのだが方便で仏が入滅してしまわないと私たち衆生が救われないという事実に着目して仏は 入滅することになっているのだという法華経の理論には驚かされる。 このことは父親の医者が薬を飲まない子供に対して重要なことを宣言する例えで明らかにしていたんだな。 この辺のところも私自身きちんと勉強していなかったということについていささか 反省している。
2023.09.04
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〈法華経〉の真実【電子書籍】[ ひろさちや ] さてなぜここで法華経なのか,浄土宗の研究家ひろさちやによる法華経解説を何故読んでいるのか,は,私自身もわからない。 わからないまま本書を読んだらさらに法華経がわからなくなってしまった。 ひろさちやによる法華経の解釈は今まで私が抱いていた法華経に関する概念を芯から変えてしまうものだ。 仏と仏子は違う。 つまり親と子は違う。 子という個は親という個になれない。 ゆえに仏子は仏になれない。 だから,仏と仏子は違う。 そのことについては私は保留。 本当に法華経がそんなことを語っていたのかどうかもっと色々な本を読まないと納得できないもの。 ただ火宅誓喩に関し, ここで大事なことは、まずは火宅から外に出ることです。 火宅とは世間です。 わたしたちは世間の価値観に従って生きています。 立身出世が大事だ、金が大事だ、贅沢な暮らしをしたい……みんな世間の価値観です。 そんなものを捨てて、世間の外に出ることです。 釈迦仏はわれわれに、「まず世間から外に飛び出せ!」と教えておられます。 われわれはその釈迦の教えを信じて、世間から脱出せねばなりません。という考えですな,火宅とは世間の物差しだということ,このことはひろ仏教学の真骨頂,火宅誓喩をそう読んできたかと思うと途端に嬉しくなってしまった。 さらに, 火宅からの精神的脱出というのは、火宅である世間の価値観を馬鹿にすることです。 世間の人は、金儲けに価値を認めています。 立身出世を願っている。 世の中の発展に貢献しなさいと、訓話を垂れる人がいます。 それを、〈馬鹿じゃなかろうか⁈〉と思うのが、火宅から飛び出ることです。と念を押す。 火宅誓喩をここまでひろ仏教で解釈すると,素敵なことになる。 そうなると,なんとしても仏と仏子の関係もひろ仏教で理解したいものだ。
2023.09.03
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『法華経』日本語訳【電子書籍】[ ひろさちや ] ひろさちやにかかれば法華経もここまでデフォルメされるか。 ここ数日日蓮宗に凝っている。 日蓮宗は元法華宗と言ってとにかく法華経命の宗派だ。 その法華経は人によっては効能書だけのお経であるなどと誹謗する人もいるけれど,多くの仏家が法華経に帰依している事実に鑑み決して侮れないというのが私の考えだ。 さて本書では著者が最初にことわり書きをしてかなりの意訳だが,ただひたすら翻訳小説のように読んでほしいというポリシーだったことから,実は本当の法華経の良さが取り払われていた。 ここはもう一度きちんと法華経の本を読まなければなるまいなと痛感した。 ただし仏の寿命について,『もろもろの比丘たちよ、仏に見えることはなかなかむずかしい』と。 衆生はこのような言葉を聞いて、仏に見えることの困難を思い、心に仏に対する恋慕の情を抱いて仏に会いたいと渇仰し、善根を積むべきである。 そのために如来は、実際には滅することはないにもかかわらず、しかも入滅すると言うのだ。 善男善女よ、諸仏の説く教えはこのようなものだ。 衆生を救わんがための教えであるから、すべて真実であって虚妄ではない」として,方便論を説く。 すなわち, 『あなたがたよ、よく知りなさい。わたしはいま、老い衰えて臨終のときが迫っている。 この良薬をここに置いておくよ。 あなたがたはこれを服みなさい。 病気が治らないなどと心配する必要はないんだよ』の比喩ですな。 仏の命は無限であるが,仏はあえて仏の命が有限であると思わせて良薬を飲ますのだという。 この比喩が法華経の独壇場ですな。 法華経の比喩に乗って騙されてとにかく法華経を信じなさい,ということだ。 なるほどこれが,南無妙法蓮華経の真髄。 あたしゃあ,とにかく一日一回は妙法蓮華経観世音菩薩普門品を読誦していますからな。 ここで禅宗との大きな違いが出てくるのだ。 それが功徳の問題。 何しろ達磨大師は,無功徳!と喝した人ですからな。 ここいらへんが仏教の実に難しいところでありますけれど,もう少し法華経を突っ込んでみたいと思います。(6/25記)
2023.09.02
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うちのお寺は日蓮宗【電子書籍】[ わが家の宗教を知る会 ] この本によって日蓮宗の行が,中心となるのは、題目を10回から100回、心ゆくまで繰り返しとなえる「唱題行」です。これが日宗の正行(正しい修行)です。 『法華経』を読むことは、正行を助ける助行です。檀信徒に親しまれているのは「方便品」「自我偈」「宝塔偈」です。声に出して繰り返し読むことによって暗唱できるようになります。これを「読誦」といいます。読誦することは、お釈迦さまの教えを受け取り、自分自身への戒めとすることです。ということがわかった。 日蓮宗では団扇太鼓で拍子を取るが,それも3拍子と5拍子があるということだ。 唱題行の際には団扇太鼓を打ち鳴らします。打ち方は「南無妙法蓮華経」と3打で打つ作法と、「南無妙法蓮華経」と5打で打つ作法があり、地域やお寺によって異なります。題目をとなえる回数は決まっていません。終わりの合図のリンを鳴らしたのち、ゆっくり3回となえて終わります。 ということである。 3拍子は,南,法,蓮でたたき,5拍子は妙法蓮華経でたたく。 こうなると早速実践したくなるのが私で,本日の勤行の最後に唱題行をやってみた。 勤行でやることがだんだんだんだん多くなってきて長くなるのが玉に瑕だ。 せめて毎朝20分で切り上げたいのだが,まず神様に祝詞を上げ神想観をし,坐禅をして,読経,三密加持,称名念仏,唱題行,九字切りだから,20分に収めるにはかなり苦しい。 しかしながら仏教のうち世尊に光を当てると,実は日蓮聖人がおっしゃることが一番科学的根拠つまりエビデンスに基づいている。 法華経からの論は,世尊の一生涯に基づいており,その世尊をして多宝如来という後ろ盾を持って,さらに強化しているわけだ。 そして日蓮聖人の法難もこの世の中だからこその現象とも言えよう。 他宗に対する厳しい批判もエビデンスに基づいているものである。 ただ私のようなヤワな者には少しきついかな。 でも曹洞宗の厳しい修行に比べたらただ日蓮聖人の生き方が厳しいというだけで私どもには何らの影響もないのではなかろうか。 もう少し日蓮宗をみてみようと思う。(6/25記)
2023.09.01
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よくわかる日蓮宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] 鎌倉時代の祖師方のうち法然上人, 親鸞聖人は南無阿弥陀仏という称名念仏,そして道元禅師は只管打坐を行と定めた それに対し日蓮は題目を唱えることつまり南無妙法蓮華経を唱えることを行とした。 心で把握(観心)されるべき宇宙の根本原理である本尊(久遠実成の釈迦如来)は、「妙法蓮華経」の題目として表現され、全宇宙(三千世界)は個人の観念(一念)と融合し、そのことによって森羅万象は支えられ、三千世界と一念は全く一体である。 『法華経』には末法の第五の五百歳(末法の世に入ってから二千五百年後)に久遠実成の釈迦如来が出現し、仏国土(仏が治める理想の世界)を建設するために邁進する無数の菩薩が出現すると説かれている。 だから、根本原理(本尊。久遠実成の釈迦如来)の表れである「妙法蓮華経」を口にとなえる(南無妙法蓮華経)ことによって、全宇宙と個人のありのままの姿を感得し、仏の世界に帰入することができると説く。 日蓮宗における本尊は上記のとおり久遠実成の釈迦である。 その久遠実成の釈迦を表すものが南無妙法蓮華経である。 唱題の結果仏の世界に帰入することができると説く。 称名念仏とも只管打坐とも全く違う行ということになる。 ただ称名念仏である南無阿弥陀仏と題目南無妙法蓮華経は形が非常に似ているということは言えよう。 しかし考えが根本的に違っているのでただただ南無阿弥陀仏やら南無妙法蓮華経を称えるまたは唱えるのは宗教的に実に危険な行為と言えよう。 日蓮が鎌倉以前に成立した真言宗も含めて他宗を批判するのは,自分が本当に法華経に予言されていた法難を被ったからである。 それが法華経の正しさを証明したというわけだ。 さて南無妙法蓮華経であるが, 仏の深遠な悟りの智慧(仏知見)は衆生(すべての人々)の心の中に具わっているのであり、それを開かせて(認識させて)くれるのが本尊(久遠実成の釈迦如来)なのである。 そして日蓮は、本尊が仏知見を開かせてくれる際に最も重要なのが、「南無妙法蓮華経」の題目をとなえることだという。 題目によって「観心」と「本尊」が一つになり(合一し)、悟りが達成される。 観心と本尊の合一は南無妙法蓮華経の題目をとなえることによってのみ実現されるというのである。という原理によって動くことになる。 ただ本書ではその方法について具体的には書かれていなかった。 ただ南無妙法蓮華経を唱えればいいということはなかろう。 その方法論がなければ 一体何をすればいいのかと読者は考えてしまう。 ただ坐るにしろ称名念仏するにしろその前段階としての準備段階はやっぱり必要である。 どこで一体題目を唱えればいいのかが不明であった。 残念な書になってしまった。 結局もう少し日蓮宗の本を読まなければならないのだろうな。(6/24記)
2023.08.29
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よくわかる日蓮宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] 日蓮宗は 日蓮はこの久遠実成の釈迦如来を至上の存在と考えた。 彼は自著『観心本尊抄』の中で「一念三千の法門は、法華経の如来寿量品の文底に沈めたり」と説き、一念三千の法門、すなわち全宇宙の存在現象が個人個人の心の中に具わっている。 そのことをしっかりと認識することが「観心」であると説いた。 そして、「一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」と続ける。とするものである。 すなわち 日蓮はあらゆる経典を読破し、その思想を理解した。 その上で「一乗真実」「久遠実成の釈迦如来」を説く『法華経』を絶対の教えと確信した。 つまり、『法華経』の説に従えばすべての教えは方便であって、けっきょくのところ絶対的な真実である『法華経』に帰一する。 ここに『法華経』のみによる日蓮のユニークな思想が展開されるのである。というものである。 法華経が説く世尊は久遠実成の世尊であり現世に存在していた世尊は仮の姿だというのだ。 法華経が優れているところはこの現世に現れた世尊の一生を史実に基づいて構成したところにある。 だからその話は自然に人々に信じられることになるのだ。 従って日本においてはこの法華経や日蓮宗をもとにした立正佼成会やら霊友会それに創価学会などが新興宗教として現れたことになる。 こうした中で日蓮は 『法華経』には、すべての仏菩薩や天(神々)が帰依すべきことが説かれている。 この記述に基づいて、日蓮は日本の神々も『法華経』に帰依すべきと同時に、『法華経』に帰依してそれを弘めようとするものをしっかりと守らなければならないと考えた。 「龍口の法難」の折、日蓮が護送される途中に鶴岡八幡宮の前で八幡大菩薩を激しく𠮟責したのは、今述べたような理論によるのである。 つまり、『法華経』の持経者、行者を護れない神は本当の神ではなく大きな仏罰が当たるというのである。と神をも畏れぬ行動である。 日本の神々も釈迦如来を守護するべきものなのだと言っているわけだ。 ここにおいて日蓮は自分が例えば瀧口の法難のような経験をした法華経の護持者であり、釈迦如来を守るべきものである日本の神々も法華経、日蓮宗を護持すべきだと神々に訴えているのであり、日連はしっかりと神と仏の違いを自覚していたということになる。 つまり日蓮は偉大な宗教者だったのだ。
2021.09.20
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】仏典をよむ [ 末木文美士 ]仏典をよむ末木文美士 多宝如来は死者そのものである。 なぜここで文字どおり死者としての仏が出現するのか従来の解釈では必ずしも明らかでなかった。 法華経の永遠性とこの世界の外の世界でも通用する普遍性を象徴するものだとしてもあえて塔の中に座ったままのミイラ仏を持ち出すのはグロテスクな感がしないでもない。 最近死を感じることが多い。 先月叔母が亡くなったと思ったら昨日同僚が亡くなった。 叔母は81歳、同僚は58歳だった。 なんだか死が身近になってきたと思ったら少し不安になってきた。 「多宝如来は死者そのものである。」という一文は法華経を知る上でとても重要なことだと本書を読んで思った。 ある意味死者の出現はショックなことだ。 それは反宗教的である。 しかし仏教が葬式宗教と言われる所以もここにありという感じがする。 翻って死とはなんだろう。 死とは意識の拡散なのか。 少なくとも肉体がなくなることであり、肉体的楽しみがなくなることであろう。 逆に肉体的苦しみもなくなるのだ。 叔母は悪性リンパ腫に苦しみ、同僚は急性心筋梗塞で死んだ。 その苦しみはなくなった(はずだ)。 同時に子や孫の成長を楽しむ事も亡くなった。 死が拡散だとしたら、神に繋がる。 拡散しきったとき光に同調し、神に同期するのではなかろうか。 神は光である。
2015.06.19
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法華経入門著者: 則武 海源 法華経のすばらしさは、7つの寓喩にあると言われている。それが、法華経の真髄だろう。 髷の中の珠は、決して与えないという寓喩は、結局釈迦が「法華経の真髄を誰にもまだ教えていない」ということになるのだろうか?この寓喩が一番難しいような気がする。 著者は、法華経を「東洋のイソップ」と評する。 が、法華経は、能書きだけで効能がないなどという言葉も聞かれる。確かに、あと一歩がない気がする。 しかし、その一歩、つまり、百尺竿頭一歩ですな、それは、あなたが、つまり、法華経を読誦したあなたがつっこみなさいよ、ということではないのかなあ。 法華経を文学としてみる時、本当に素晴らしい叙情詩であると思う。これは、鳩摩羅什の名訳によるとも言われている。 法華経が素晴らしいのは、仏教教祖世尊の一生が見事に荘厳に表されているからである。仏教徒が涙するのは、そこの部分である。 能書きたれているばかりだとの批判に対しては、結構、マジに仏教の真髄が語られている部分もあると言うことを紹介しておきたい。 たとえば、世尊が霊鷲山で説法をしているのは、一大事からだと言うこと、何が一大事かと言えば、三乗、大乗であるということ、つまり、誰でも成仏できるのであることと、人のために努力する菩薩道というものを提唱したことなどを教えるためであることがきちんと語られている点で、主張がキチンとされているのだ。 そして、日蓮は、遂に、この経そのものを信じよというわけだ。法華経は、それだけの価値があると私は見る。他にはない教えが多くちりばめられている。ある意味、仏教のエッセンスであるとも言えるのではなかろうか? ここまでをまとめるとこうだ。 仏教信者は、きちんと法華経を解釈すべきだ。 法華経の中に仏教の真髄がこめられているからだ。法華経が、すべての基礎基本だから、きちんと学すべきである。 その上で各宗派に入り、仏教を勉強していくべきであろう。私ももう一度法華経を学ばなければならない。
2007.07.28
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定年出家著者:大島龍穏 著者は、50歳まで神奈川県警察で強行犯等の捜査をする刑事だった人だ。 思いがあって、警察官を辞し、尊敬する日蓮宗の師に師事し、僧侶になったものである。 結構有名な人だから、知っている人もたくさんいるだろう。 50歳という年齢が大きな意味を持つ。 この先あと10年ということを考えた場合、その後、一体自分は、どうやって生きていくのだろうか、というとても単純な疑問を持った。 そのころ、父が死んだりして、仏教に傾倒していく。 また、強行犯捜査という、死体に因縁がある職種だったこともあったろう。 さまざまな因縁が絡んで、僧侶の道を選ぶのである。 私は、本書を涙ながらに読んだ。身につまされるということか。 著者が身延山で修行中、来るなよといった妻がそっと見学に来る。 このシーンなんか、本当に号泣ものである。 私は、定年後、いや、定年前であっても、自分の第二の仕事として、僧侶を候補に挙げている。 私は、本書を読んで、今の段階で、僧侶が第一の候補に上がってしまった。 本書は、何の気なしに訪れた良く行く書店で見つけたものである。 まるで待っていたかのようだった。 著者は、寺を持たない。強いて言えば、紙の寺だそうだ。 それよりもこれからの時代、無宗教者が多かっただけに、このような檀家を持たない僧侶が多く必要になってくるだろう。 勿論、僧侶になるには、それ相応の覚悟が必要だということ。そして、勉強もしなければならない。それから、修業もしなければならない。 しかし、僧侶になることは、自分に課せられたことのような気がしてならない。それほど思い入れのある本であった。 著者は、まず、菩提寺の住職にストレートではなくて、知り合いの人を介して、それとなく師事できるかどうかを聞いたらしい。まず第一手は、そこのところからだろう。誰に師事するかということだ。 そして、学校にも行かなければならないだろうし、修業も積まなければならないだろう。でも、定年後の仕事は僧侶が第一だと考える。
2007.07.16
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