時間についての雑談 -10



 時間については過去にタ・フィシカで何度も述べてきたつもりだが、アンタの時間論は難しくて全然ワカランというので、雑談にして繰り返してみたい。

 繰り返すことが時間ではないが、無責任に繰り返すことでワカル、ことが時間、だからである。
 だれでも時間とはナニであるか、必ず自分で知っている。わかっている。
 つかめないのは時間の本質、なのである。つかんで操作できない、だけ。
 時間をテンソル化して操作できると思っているのは悪魔だけである。

 時間は、そのものとして無責任に繰り返して共有できないモノである。再現できない。 現実というバーチャリターが絡んでくるので。

 しかし陰謀を企てて、他人を飯の種にして搾取してやろうと企画する人は、この時間を理解して、共有の知識にしてしまおうと努力する。テンソル化して操作できると思っている。
 それが形而上学であり、数学のアルゴリズムであり、宇宙論なのだが、悪魔が関わろうとする無駄な努力なのである。

 カトリックの屋台骨を作った一人、聖人のアウグスチヌスが、最初に、このことに気がついた。
 時間は、そのものとして対象認識できない。口ごもるしかない。弁証できない。
 相手が時間だと気づかぬまま、コレをやろうとしているバーチャル・リアリティという現代技術はあるが、欺瞞や陰謀から抜け出せは、しない。

 欺瞞の過去なら言い訳できるが、自分の本当の過去などは言い訳できないのである。
 過去のある地点から、ある地点までのモーメント的に把握された部分が、対象認識された時間、なのだが、これはそもそも「私の時間」であって、他人の時間ではない。
 だから私に、つまり自分に誠実であろうとした聖人には、語りようが、なかったのである。
 時間を語るには、欺瞞の過去を語る悪人に徹するか、あるいは悪魔になるしかない。

 これを逆手に取った時間哲学をやったのが、イマヌエル・カントである。
 形而上学とは無縁な地平で、やった。
 自分の直感の形式であるにすぎない時間を、対象認識すれば誤謬をまねくしかない。
 これはカントが明確にしたことだが、未だに、これを気にする人は一握りしかいない。

 カントは、聖人にも悪魔にもならず、善悪の彼岸で、欺瞞の過去をただ、淡々と批判し、解体した。
 批判して解体し、その薄暗い要素をバラしていった。
 その最深遠部分が、純粋理性批判の図式論(シェマチスムス)である。純粋悟性概念の図式として、述べられている。
 この暗い論議は、未だ、現代に至ってもほとんど誰にも、ロクに理解されていない。

 (次回はカントの成果の上に立った、ハイデガーの時間論についての雑談)





   時間についての雑談 2
 ハイデガーは、転向ユダの哲学教授フッサールによって、哲学教授の地位に押しあげられた人である。
 だから第二次大戦中は、ナチの党員となるしかなかった。
 ナチ党員でなかったら、ユダヤ人の手先としてヤスパース以上の酷い目にあっていただろう。

 ハイデガーの時間論はしかし、そのものとして対象認識できない、口ごもるしかない、弁証できないソレ(時間)を、「自己責任として引き受けて成り立っている。」
 それが実は、ナチの部分、なのである。
 ハイデガーからナチ党員の身分を取り上げたら、あの20世紀最高の哲学は残らない。
カスのようなものしか残らないということ。
 ハイデガーがナチだからダメだと言っているような人は、何を見てるんだろうと思ってしまう。

 ハイデガーの時間論はしかし、この、欺瞞の過去を言い訳するため、かなり入り組んだやっかいなものになっているのは確かである。
 だから直裁にハイデガーの時間論を雑談するには、まず類似の状況におかれていたデカルトの形而上学をなぞったほうが、わかりやすいと思う。

 デカルトは、自分の哲学が、火あぶりという世間のイジメに直結していることを明確に認識していた。脅威は目の前にあった。
 だから、形而上学を書いたのである。
 世間様への弁明書、なのである。哲学書、として書いたのではない。
 哲学、で述べているのはコギト・スム(思惟即存在)ということであり、時間論としては「瞬間」でしかない、と言われている。コの「いわれ」もウソだと思うが。

 しかし今日の科学技術を可能にしたのは、彼の哲学部分、しかも時間論の部分であって、世間への弁明書ではない。
 だが、今日の科学技術者が、その基礎にとすがるのは、彼の世間への弁明書の方なのである。
 要するに、欺瞞の過去については、自分の身が危険だから、デカルトは一切の論議を避けたのである。それにすがって今日の科学技術ができている、ということ。

 ハイデガーはしかし、フッサールというユダの師の言う現象学が、実質はヘーゲルの時間論で成り立っていることに気がついていた。
 そのヘーゲルの時間論が、カントの成果を見据えたものではなくて、むしろデカルトの欺瞞を直裁に継承するものであることをすら、見抜いていた。
 だから、絶対精神を言い立てるヘーゲルではなく、カントの時間論に立ち返って、コギト・スム、を、自分でやり直したのである。
 此処にーある(ダーザイン)=人間(メンシェン)、としてである。

 時間論は、存在論と、常に、「おかしげな不可解な関係」に、ある。
 ドゥンススコトゥス先生が述べた、バーチャルな「おかしさ」、である。
 その関係を解き、批判し、解体して、いわば基礎的存在論(存在論の基礎破壊)として時間論を推し進めた。
 最終的には時間論の方から存在論を見直す、つまり形而上学的宇宙論を可能にしようというのが、確かに当初は最終ゴールのはずだった。





      3
 しかし存在と時間という、あの大著を構成していくさなかにおいて、後半の意図は、ことごとく放棄されたのである。
 時間論の方から存在論を見直す、つまり形而上学的宇宙論は、人間として関わってはならない領域だということを自ら悟ったのである。
 ナチにはそんな人は多いだろうが、ハイデガーは超人論議は、しない。
 ユダの予定とは決別したし、シェリングのような悪魔主義者にはならなかった、ということ。

 ユダというのは徹頭徹尾、現実主義者である。78%の「現実」しか、認めない。
 それとは決別した。

 一方、ナチというのは徹底したツラン主義者である。
 過去の欺瞞を正してくれる「オカルト的原郷」を追い求める。だから建前主義のヘンな日本人とも同盟できた。
 ハイデガーはナチを選び、「現実主義者が常に必要とする形而上学的宇宙論」を遠ざけたのである。

 ナチにとって、現実主義者というのは悪魔そのものに見える。
 小生はナチではないし芸術家でもないが、ヒトラーと意見は同じで、現実主義者というのは悪魔だと思う。

 そのかわり、ハイデガーの時間論議は、未だ無く、すでにない、時熟を見据えた論議となってしまった。
 存在論議の批判的解体はできたのだが、暗い時間の全体が居座ってきて、世界を立てー組んでいる(ゲシュテルの)様は見えても、今度は自分の足場もなくなっていることに気がついたのである。

 世界像の時代はすでに来ており、ニヒリスムスは完成してしまっている。
 ハイデガーはナチなので、78%の現実には、すがらない。
 聖アウグスチヌスのように、自分に誠実に、哲学の終わりの方を告げたのである。


 ここでハイデガーが述べている哲学というのは、もちろんヘーゲル哲学の理念のこと。
 「人々が共有できる、哲学」という「学問理念」のことである。
 それは終わったのである。今は現実主義者の陰謀が、世に、はびこっているだけ。

 この「ハイデガーの時間論」に耳を貸さない人は多い、というか、現実主義者にもツラン主義者にもならない、学問の奴隷は世に多い。
 小生も実はその一人で、ハイデガー先生から多くは学んだが、現実主義者にもツラン主義者にもならないので、未だに奴隷の身分である。但し学問の奴隷ではない。カネの奴隷。

 しかし時間論の方から存在論を見直すことは、まったくできていないというか、もともと、その気もない。









    4
 時間論というのは自分の直感の形式(カント)を論議するわけだから、批判して取り去る、あるいは基礎的存在論(存在論の基礎破壊)という形では、確かに可能である。
 しかしこれを学問的知識にするのには、哲学(無知の知)以外のアプローチでは不可能なのである。
 しかもハイデガーが明確にしたように、すでに形而上学とは、おさらばするしかない。

 合目的対象化認識である科学技術の基礎が、それでは成り立たないと同様、ヘーゲルの「無の哲学」も、その基礎が成り立たない。
 執着すれば、ニヒリスムスが口をあけて待っているからである。

 この深刻な事態を理解したのは、米国にいた、一部のテクノロジー論者だけだと思う。
 ユダではないが、ユダの影響を受け、カルヴィン主義にもいまいち、なじめなかった、プラグマチストと言われていた人たち。

 彼らは、時間論は存在論と、常に、「おかしげな不可解な関係」に、ある、ということを見出したのではない。
 78%の現実があるのだから、100%の宇宙論があらねばならぬ、というユダの理屈に、いまだすがっているのはおかしいと思っているだけの、実態はキリスト教徒の人たちである。
 だから道具的な関係(タ・プラグマ-タな関係)を見出して、しかもその将来に賭けた。
 自分がこっそり隠し持つカルヴィン主義は覆い隠して。

 神はサイコロを振らないはずだ、というユダの理屈も、同じである。
 彼らが神とあがめている存在者の存在は、悪魔であることにも、薄々は気がついているのである。
 遠い過去のウガリトなどでは、堂々と悪魔の姿で、絶対の神が描かれていた。
 悪魔に指導されて、ユダとプラグマチストたちはアリストテレスを紐解き直し、テクネーというヘラス語の、本来の意味を理解した。

 哲学として理解したのではなく、ヘーゲル的な学術の理念として理解した。
 それは技術、という意味ではないのである。
 ポイエシスの技を「出ー迎える、心構え」のことである。

 ポイエシス(詩作)というのは、「出ー来る」、という意味である。
 ・・・である、と断定するのではなく、出ー来る、ということの体系に出会うだけだと。
 これは実は、ハイデガー先生の受け売りなのであるが。

 それが、今日のテクノロジーなのである。
 テクニーク(技術)のロジックではなくて、テクネー(心構え、つまり時間のクラス)のロジック化。
 型枠の設計図式と化したこころの、アルゴリズム化。

 わかる、部分を切り取っていく(スキエンチアという)科学技術とは、基礎が違うのである。
 一部、わが国の伝統職人の心構えに似ている。だから、わが国の伝統職人の心構えを、今日の米国人は理解しやすいのである。
 伝統工芸の数々を、今では米国人の多くが受けつでくれている。

 しかし合目的対象化認識に基づく科学技術も、ポイエシスの技を出迎える、心構えを立て組むテクノロジーも、その基礎にあるのは「時間論議」である。
 およそ人の認識のクラスというのは、必ず、この「時間」で、できている。
 存在者の存在、という神を捌くのも、この「時間のクラス」なのである。
 シェーマ(図式)だということ。心構えの図式。

 時間論というのは、必ず自分の直感の形式(カント)を論議すること、なのである。







   5-1
 自分の直感の対象イメージ、ではなくて、形式(責任)にすぎないのだから、それは暗い。
 その暗さは、ロゴスが持つ暗さと同等のもの。
 プラトンやアリストテレスが、メー・オン(無)だと述べた、その暗さ、なんである。

 対象化認識できない。
 対象に据えて見ようとしたら、ロゴスは、根拠-なし、ということに等しい。
時間はハイデガーの言うとおり、未だ無く、すでに無い。
 今、という瞬間、現存在など、対象認識にすがろうとする、現実主義者のウソだということ。
 つまり自分の魂など、もともと無い。

 しかし人は対象化認識しか、出ー来ない、のである。
 しかも必ず、合目的な思惟しかできない。
 自分の魂を据えての、ロボットにしか、なれない。
 欧米の言語では、特に。
 そうしないと言語にならないので。

 自己責任の範囲でしか、時間を認識できないのに、自己責任を言い始めると対象的合目的認識ができないモノなので、時間論議は常に必ず暗い、のである。

 早い話、現実にのみすがる主義者には、一切無縁な世界、なのである。
 あの超賢いユダたちに、哲学者が一人もいない、コレが最大の理由である。
 いるのは転向ユダのみ。
 スピノザもマルクスもヴィットゲンシュタインもフッサールも、ユダヤ教徒ではなくて、転向者である。

 一切見えないはずの、イデアやロゴスやミュトス、そして時間も、彼ら現実主義者には、単にアイデアや論理や技芸、そして数学でテンソル化した、次元として見えるのである。
 彼らは暗いものが一切見えないので、光る硬い、明るい耀きとして見えている。
 ウエットで儚い叙情も、彼らには見えないので、光る硬いイメージと化す。
 ポイエシスの本源はウエットな感情なのだが、ここで光る硬いイメージと化す。







    5-2 カテゴリー=範疇ではない
 一方、カントの図式は、というと、薄暗いどころか真っ暗闇である。
 本当は、何にも見えていない。

 小生が学生時代にコレで沈没したのは、現代のイメージ教育を受けてきた者としては、あたりまえ、なのである。
 イメージでは何も見えない。
 それが正しいのだが、彼ら現実主義者には、なんとモノつくりの型枠(クラス)として見えているのである。
 構想力をなんと、企画して見ている。

 日本に哲学を導入した人々にも同じ人々がいたようで、哲学の言う「カテゴリー」、という、実に重要な時間枠の意味が、ここで誤訳された。
 意図的な誤訳、と言っていい。

 カテゴリーというこれは、哲学では最も重要なロゴスのカタログであって、魂の証(プラトン)、実在の証(アリストテレス)、純粋悟性概念の図式(カント)、なのだが、これをなんと、範疇と訳してしまった。

 古代中国の思想から借りてきた洪範九疇を、うすっぺらくして使った。
 クラス化の枠なんだと。
 とんでもない「責任転嫁」である。
 これをやったのはきっと、他人に責任を転嫁して、のし上がってきた人だろう。

 古代中国風の政治経済的な世界しか見えていないので、ロゴス(根拠ーなし)のカタログを、時間のクラス(型枠)として扱ったのである。
 ロゴスは、根拠ーなしの形式、なのに、政治経済的な根拠に据えてしまった。
 これをやってしまう人は、世間がユダヤ文化に染まってしまったので、今でも多いと思う。
 政治経済的課題の方が哲学のもとなのに、哲学を政治経済の課題の根拠に据えようとする。
 そして政治経済課題が先だというのは確かだが、先験的認識のワクが、それでできるはずがない。バーチャリターだから。

 実は類似のことを、西洋世界も、やったのである。
 彼らには、日本人が普遍的に持つ、空間の概念がなんと、ない、ことがわかった。
 ラウムというのは、彼らには存在がいっぱい詰まった世界のことで、空虚な無の世界のことではない。つまり私どもが言う「空間」、ではない。
 ましてや時間は、というわけである。

 これの理由は、スコラの人々のアリストテレス解釈の誤り(プラトニズムでやってしまった)にあるのだが、もっと端的に言うと、哲学を失って、一神教が必要とする形而上学を求めた、そこにあるのである。
 数年前から、そう思い始めた。
 「ありてあることを神にあがめる、現実主義者の陰謀」が、モロに絡んでいるのである。

 カントも、空間については論じていないし、ハイデガーも居場所(オルト)としてしか論じていない。
 しかし空間と時間は、ともに人の直感の形式であり、常に同じ責任の「もの」のことを言う、というのが、小生の時間・空間論である。

 時間は確かに合目的対象化認識のクラスとして企画できるモノであるが、本来は、へんに入れ子になったバーチャルな現実のこと、「その責任」、なのである。










    6-1
 空間と、時間と、ほんとうは別々に明確に分けて論議はできないハズ、ということ。
 合目的対象化認識のクラスとして、個々に企画すれば、必ずムリがあるのである。
 空間は時間であり、時間は空間、そのものなのである。
 数学的に言うなら、イコールではなくて、合同。
 ともに、直感の形式にすぎない。
 それをムリにイコールで扱うのが、数学という架空の世界。

 男女を、y遺伝子の有無で明確に基準化(クリテリア化)しようとしてもムリなのと同様。

 やっと最近、この性別の問題も世間で論議されはじめた。
 プラトンのように、男しか愛せない男がいたりすることが、あたりまえだとみなされはじめてきた。
 これは先験的認識と経験的認識が、へんな入れ子状態となっていて、きっちりと分けて論議できないのと、まったく同じ意味なのである。

 世の一切のモノが、エネルゲイア(関係)とエイドス(形容)に分かれてしか認識できないのも同じ。
 二進法で、世の中は企画はできても、計れない。

 世界は、イエス・ノーという、「論理でできているのではない」、からである。
 人の、か弱い認識が、それに負うしかない、という、惨めな事実(ファクトウム)が、あるだけなのである。
 「現実がある、のではない。」
 ファクトウムは「惨めな事実」であって、世界の普遍的真理なんぞではない。

 この、現実における先験的認識と経験的認識のおかしさを、明確にあぶりだした人が、中世英国のドゥンス・スコトゥス博士であった。
 へんに入れ子になったバーチャルな現実のことを明確にした。
 その責任のことを、「バーチャリター」として弁証した。

 経験的認識を、経験的認識だと確認し悟るには、必ず先験的な認識の枠が必要で、同時に先験的な認識の枠のようなものがあるのだと悟るには、経験的認識に負わねばならない。
 時間的にも空間的にも、ウロボロスになっていて、実に実に、おかしげ、なのである。 これは人の認識には、必ずその基底にあるものなので、小生はいつもスーパーマリオのゲームをやる人に例えて話をする。

 画面上でマリオになりきって、画面上で飛び跳ねている自分と、そんなゲームをやって操作していることを自覚している、別の自分が、同時に、そこに居る。
 この乖離、というのが、バーチャルということであり、「現実」ということの意味なのである。
 そしてここで乖離として見えているものが、実は「責任」、なのである。
 つまり時間・空間。






     6-2
 「責任を、自分のモノとして認識しない現実主義者」には100%、この乖離は理解不能、だったのである。
 別々の人格が居る、としか、見ないだろう。

 あるいは操作している自分が居るだけで、コンソール上の感覚はニセモノだ、と思っているのかもしれない。
 姫を助け出すべきマリオの責任など、一切自覚していないわけである。
 だから普通、現実主義者には、このてのゲームが面白くなくて、できない。
 漫画を読めない人も、そう。
 小生も、だんだん、そうなってきた。

 カントの論議は、実は、この精妙博士コト、愚鈍先生の先験的認識と経験的認識の「ヘンな関係」がモトとなっているんだと思う。
 先験的観念論と経験的実在論のヘンな関係を暴くことが、カントの時間論、という哲学だからである。

 高名な啓蒙的自然科学者だったカント先生が180度思惟の方向を転向して、本当の哲学者となったのは、哲学博士になってから久しく、もう晩年になってからである。
 これは本人が、ちゃんと自分で、そう言っている。
 その理由の一つとしての形而上学批判も、ちゃんとやっている。
 純粋理性批判は、このへんな関係をわかる、そのための純粋理性コボチ作業であって、純粋な理性を追い求めていたのでは、ない。

 カントの認可した弟子のフィヒテや、その弟子のヘーゲルは、確かに純粋な理性を追い求める、その方向に進んだのだが、カントがやっていたのは「ヘンな関係の泥沼時間論議の解体」。
 言うなれば「人の感性の再現論理ではなくて、責任論議=弁証法の逆立ち、つまり史的唯物論革命」のほう、なのである。

 宇宙論や心理学、倫理学、社会学、形而上学的経済学とも一切無縁な、責任論議、つまり哲学、なのである。
 ソクラテス以前の自然学者たちは、自分の思惟の誤謬にほとんど気がつかず、常に自然を対象に据えて論議してしまっていた。
 あらわなコトを見ようとしていた。

 哲学は、ソクラテスが初めて気がついて、始めたこと。
 自然物理学や心理学や倫理学と、哲学の、どこが違うのか理解できない人は大勢いる。 自分が、形而上学を手放せない現実主義者、だからである。

 自分で、よくわかっていると思っている、しかし決して語れない時間の、そのわかっている、という意味を、暴いて破壊して語ること。
 自らの分限である自分、というものの「無知に」自分を導くこと。
 現実主義者は責任転嫁して、責任転嫁して、それを避ける。

 しかし批判というコボチ作業でのみ可能となってくる、自分で自分の無知を暴いて、責任を引き受けて本当にわかる、そのことこそが哲学、なのである。

 つまり時間論議でのみ、哲学は可能となる。
 二進法の記号論理や、心理操作や倫理操作とは、およそ無縁な世界である。







   7
 実は知恵や知識や、技術やノウハウとも無縁な世界。
 知恵や知識や、技術やノウハウを使って、哲学は、できない。
 いくら知識があって、知恵があっても、「時間を語ること」はできない。

 ささやかで惨めな、「自分の無知を悟ることができるだけ」、である。弁証できない。
 しかし自分の無知を覗き込めば、時間、という意味が「わかって」くる。
 それは「自分の過去の欺瞞の諸々」、なのである。
 直感として形式立てられた、欺瞞の立て組み(ゲシュテル、これはハイデガーが述べた)の諸々だということ。
 神の仕組み、宇宙の仕組み、では、ないのである。

 人は責任を持って未来を見ることは、一切できない。
 神は対象物として「存在しない」し、もの自体は無いし、未来も無い。
 ユダのように78%の想定予想は可能だが、必ず誤る想定なのである。
 30mの津波想定でダメなら、100mで想定する。
 すると、次には1kmの高さの津波がやってくる。過去に何度も来ている。
 1000万年後ではないかもしれない。明日かもしれない。

 時間は、次元やテンソルではない。
 なので、可逆性は持たないし、想定評価し値踏みすることもできない。
 現代の物理学が、共有の時間を予定で据えてテンソル化して、次元として企画されている、だけである。
 時間は、ほんとうは個々人のモノであって、共有できない。
 直感として形式立てられた、欺瞞の立て組み(ゲシュテル)を破壊して、わかる、だけである。
 これは実は誰でも、いつでもやっていること。

 人は、反省ができる生き物であるがゆえに、人である。
 欺瞞の過去を振り返って破壊してみて、わかる、それができる。
 これができない人は単に、ひとでなし、なのである。

 直感として形式立てられた、欺瞞の立て組み(ゲシュテル)が再現し、オートメーションで生み出す、「企画物のモノ」にのみ囚われてきたのは現代である。
 「生み出すモノ」に囚われるあまりに、立てー組む、クラスの秘密を、その図式の素材や設計や、精度にばかり気を取られてきた。
 だから一方で、この欺瞞の過去を暴き、真相を暴露する、アートも繁栄してきた。
 繁栄は、かならず反映であり、自分の過去の欺瞞の諸々が絡んでいる。

 アートの語源アルスは、今日のテクニーク(技術)の意味だということも欺瞞の諸々として絡んでいる。
 アートの語源は、テクネー(心構え)の方ではなくて、テクニーク(技術)の方なのである。
 技術のみならず、資格や才能が支える、合目的価値体系が絡む、「企画物のモノ」の方である。

 だから今日の芸術は、カネになる。
 永遠とか未来とか、あるいは時の無い、要するに無責任体系の絡む方である。
 知恵や、知識でできたイメージ世界だと、言っていい。
 陰謀だと。








   8
 その世界に、此処ー露、は要らないのである。
 個々路もいらない。
 魂も、本当は要らないのである。
 しかしスピリット(精神)、あるいはガイスト(精神)は必ず要る。
 これがないと、立て組む、クラスの素材がなくなる

 黄金率と、コントロール可能なマインドを形成するヤワな素材が、哲学と無縁な現実主義の世界でも必ず要る。
 さらにその黄金率とマインドとの関係を仕切る未知の力も必要である。
 心理学という名の形而上学と、倫理学という名のマインドコントロールのための技術工学は、人が人を支配搾取しようと企画すれば、必ず必要なのである。

 此処ー露を論議したがる哲学の方は、権力者には邪魔者となってしまう。
 つまり時間論議は、その、人が人を支配搾取しようという目的には、危険を招く思惟、なのである。
 だから、ソクラテスは殺された。
 日本でも、三木先生は牢獄にぶち込まれて殺された。

 此処ー露は避けて通って、そのくせ大切だ大切だと叫んで純粋な素材にして、カネになる形而上学や技術工学の論議の対象にしたいと考えている、へんな人たちばかりの世の中になってしまった。
 事情は、ソクラテスの時代からほとんど変わっていないのだが。
 何が言いたいかというと、時間論議は此処ー露の論議であり、此処ー露、つまりそれを対象化認識しようとしたら、メー・オンなものについての論議となってしまう、ということである。

 精神論議になる、という意味ではないのである。
 なんにもなくなるということ。
 真っ暗闇になる。自分の無知を覗き込むので。

 此処に露、なのだから、反省できる。責任も引き受けられる。
 しかし責任と無縁にソレと直面しても、ロゴス同様、ガル・ニヒトである。
 ガル カイネン フェアシュタントス ハーベンだからである。先立つ先験的なものを何も立てず掴んでいないから、形式も実在も、なくなる。

 コレはつまり、この世に自然物(ジッヒ・ツアイゲンな、モノ)など、存在しないということ。

 しぜん、という日本語は、時間表現のための「副詞」であって、名詞ではない。
 じねん、というコレは、動詞の様を扱う「形容詞」であるにすぎない。

 つまり世に、もともと、大自然などという考え方は無いのである。
 日本では明治以降に、誰かがデッチあげて、意図的に世に広めた陰謀なのである。
 立て組む、クラスの素材がなくなると、支配者は困る。
 なので、人が人を支配搾取しようとすれば必ず必要となる、黄金率とマインドとの関係を仕切る、未知の力が仕立てられて、論議されているだけなのである。








    9
 単に共有の論議と固有の論議の違い、偏在の論議と実在の論議の違いに過ぎないという、めくらましのための意見も出てくるだろう。
 存在者の存在をまず認めて、次に固有なオノレの時間を置いて、存在との関係としての時間を考えたがる人は多い。
 というか、西洋人は、ほぼ全員が、そうなのである。言語がそうなっているから。
 哲学者以外は。

 デカルトが哲学の中興者であるゆえんは、彼が形而上学を書いたから、ではない。
 存在者の存在と、思惟する自分の関係、なんて、一切考えていないからである。

 彼が見出したのは、悪霊(既成の理念や知識)抜きに、ただ考える、このことのうちに「ある」、出-来る、時間の不思議さ、である。
 それは無から有が生じるウロボロスであり、エゴへと立てー組まれて消えていく、ウロボロスなのである。

 エゴというステートメントが重要な役割を持っているのは確かだが、彼自身は、このエゴの始末をつけないことには、世間で、まっとうに暮らせないとわかった、のである。
 ソクラテスのように殺される自分が見えた。しかも火あぶりで。

 黄金率とマインドとの関係を仕切る、未知の力、なんぞに囚われていたのではなくて、むしろ空虚なエゴというステートメントが、なんで重要な役割を持つのか、不審でならなかったのだろうと思う。
 しかし命は惜しかった。

 彼はカネで成り上がった貴族の子弟で、もともと遊び人だった。
 黄金率も、マインドも、どうでもよかったのである。
 しかし、エゴ・コギト・エルゴ・スム、というそこには、無から有が生じるウロボロスがあり、エゴへと立てー組まれて消えていく、ウロボロスがあった。
 この時間の秘密は、此処にー露、だったのである。

 つまり自然(しぜん)、だった。
 それがエゴという視点の介在でモノとなり、素材化される以上、疑い得ない時間の秘密が、ここに(エゴという支点に)あらわに見えているのである。
 疑い得ない時間の秘密を、デカルトは覗き込んで自分の責任として引き受けたのである。
 此処にー露(ヒュシス)としてである。

 これが、どこでネイチャーとすりかわったのかは、これもまさに時間論の陰謀だと思うのだが。






  10
 デカルトの立場をはっきり言うと、無神論である。
 彼自身が形而上学という弁明書を書いているのでソレに騙されるが、世俗の立場では神の子羊であっても、哲学者としては無神論者である。
 哲学は「無知の知」しか、信仰しない、ので。
 知識なんか、もともと一切信用しない。ソクラテス以来。

 78%の現実など信仰しないし、絶対精神がある、コトなんぞ、絶対に信仰しない。
 ヘーゲルは本物の哲学者なので、絶対精神という名で「ロゴスの無を、根拠ーなし」、を、見ていたにすぎない。
 弁証の仕方が、逆だった、だけ。それを利用されてしまっただけ。
 但しイルミナティの親玉だったらしいが。

 時間の責任を引き受ける、ということは、「ありてあるものへの信仰から遠ざかる」、ということである。
 エク・ジステンツする。

 実存、ではない。
 立って、出て行く。自分で、わかることへ。
 脱ー存。

 人の認識はすべてウロボロスであるから、既成の対象的認識の知識で相手したソレは、必ず、すでに無く、未だない。
 無時間的な自らの由来へ立って、出て行くことでしか、わかることはできない。
 そしてこの無時間的な(デカルトの場合は瞬間)責任は、もちろん可能なモノではない。
 対象的認識の知識や、学問としての哲学は、不可能なのである。
 瞬間など、この世には、ない、ので。

 時間は必ず・・・から・・・までの間、のことである。
 間の空虚のこと。
 つまり立てー組まれたモノの、間の隙間のコト。
 瞬間という名の、直感の閃きなんぞとは、違う。

 時熟の時を求めて、これを時間枠としてクラス化しようなんていう試み自体が、狂気の沙汰なのである。確かに隙間なので、型枠には、なるんだが。

 超人、ウイバーメンシェンという思想は、この不都合への対策として考え出された希望だが、所詮、気違いの希望である。
 但し超一流の文献学者を哲学者に貶めて気違いにしてしまったのは、梅毒でも、サロメという危険な女でもなくて、無責任志向の時代だと思う。
 それどころか、このヘーゲル哲学も、無責任者な現実主義者に利用された。

 人は人を超えることはできない。
 超えたらもはや、人でなし、なのである。




   休止
   再開 2015秋




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