昨日は、大変な目にあいました・・・ 3時ぐらいから雪が降り始め、終業の5時には車の上は雪で覆いかぶさっているという状態だったのですが、ラジオの交通情報では高速は通行止めになってないし、学校の前の道も雪が積もっていないので、大丈夫だろう、と思って車で帰ったのが運の尽き・・・ 。 雪は途中で止んだのですが、なれない雪で車がのろのろとしか動かない! 私の車はスバルのインプレッサで4輪駆動なので多少はノーマルタイヤでも雪道には強いのですが(そのため、スタッドレスを履いたスバルの車は、雪道で調子にのって事故を起こしやすいのですが・・・)、 他の車はそうでもないのでおかっなびっくりの運転でスピードが出ず、片道1時間半で帰るところがなんと4時間、夜の9時にようやく我が家にたどり着くという、心身に負担が掛かる結果と相成りました 。 こんなことなら、宿直員さんもいるのだし、学校に車を置いて、電車で帰れば良かったです 。
そんな状況だったので、昨日更新する予定だった前回の続き、 モーリーン・サワ 文、 ビル・スレイヴィン 絵、 宮木陽子 訳、 小谷正子 訳『 【送料無料】本と図書館の歴史 ラクダの移動図書館から電子書籍まで 』(西村書店、2010年12月)の紹介と解説が書けませんでした。そこで今日、こうして更新となった次第です。
前回は、古代ギリシャ・ローマ時代までの図書館の歴史について長々と書いてしまいました。そのため、大半が本文からの引用でちょっと面白くなかったかもしれません。 そこで、今回は色々工夫して紹介していきたいと思います 。
さて、前回が第1章の「 古代図書館の誕生 」の紹介でした。今回は、第2章の「 破壊と崩壊の暗黒時代 」となります。前回の最後で「 ローマ帝国は不幸にも西暦200年代に衰退し始め、476年に崩壊します。その結果、ヨーロッパでは文明が衰え、ギリシャ・ローマ時代に生まれた学問の多くは失われてしまいます。読み書きする人も少なくなり、学問が軽んじられ、ほかの多くの文化施設同様、図書館も姿を消し始めます。「 暗黒時代 」の到来です。 」と書きました。ではその実態はどのようなものだったのでしょうか。
642年、エジプトはイスラム教徒に占領されます。その時、イスラムの新しい統治者に対して、アレクサンドリアの住人が、アレクサンドリアで2番目に大きな セラピウム図書館 にある何千もの巻子本についての対応を尋ねたところ、返ってきた返事は「巻子本に書いてあることが『神の経典』(=コーラン)と一致するなら、必要ない。異を唱えるなら望ましくない。よって廃棄せよ」という、とんでもないものでした。その結果、巻子本はアレクサンドリアの何千もの公共浴場の燃料とされてしまったのです。と、いう話は現在ではデマであると歴史家は考えていますが、 セラピウム図書館 のような図書館の多くがこの時代に破壊されたことは事実です。こうした図書館の数は数百に及んだと考えられています。このように当時、西ヨーロッパ中の図書館が破壊されたり、設備が取り除かれたりしました。なぜ、このような状況になったのでしょうか。 その理由はローマ帝国が崩壊し始めたとき、もはや図書館を維持する資金もなければ、利用する人もいなかったからです 。ある図書館は、侵攻軍に破壊され、ある図書館は管理を怠ったため使用できなくなりました。 さらに強力な新興宗教、キリスト教が勢力を増してきて、そのキリスト教の指導者は、古代ギリシャやローマの異教の文学を保存することに関心がなかったため、図書館を崩壊から救う努力をしませんでした 。 その代わりに、当時、ヨーロッパ中に出現し始めた教会や修道院に、自分たちの図書館を作り始めたのです 。
こうした図書館に書物を備えるために、修道士たちは日々、写本づくりに励みました。学問も文化もあまり高く評価されていなかった時代に、こうした修道士たちが書物の消失を守っていたのです。多くの修道士が書き写したのは聖書やその他の宗教書でしたが、中には古代ギリシャ・ローマ時代から伝わる書物を写し取り、後世の人々のために保存した人もいました。このブログでも紹介したことのある『修道女フィデルマ』シリーズの中でも ピーター・トレメイン の『 【送料無料】修道女フィデルマの叡智 』(東京創元社、2009年6月)の中の章「 ホロフェネスの幕舎 」では、修道院から借り出された オリゲネス (2~3世紀のアレキサンドリアの神学者でキリスト教神学校の校長)が書いた『 ヘクサプラ 』(『 旧約聖書 』のヘブライ語の本文と、それをギリシャ文字で音訳したもの。その他、4種類のギリシャ語の翻訳、部分によっては6・7種、を対照させて6欄に並べて記した六欄対照版の大著)が事件の展開の中で重要な役割を果たしています。この本は、 フィデルマ が活躍する時代の3百年前に書かれたものです。なお、この時代のアイルランドでは、書籍は本棚に並べるのではなく、1冊、あるいは数冊ずつ皮製の専用鞄に収めて壁の木釘に吊り下げるという収蔵法をとっていたそうです。興味深いですね。
こうして、修道士たちが手で書き写した巻子本は、とても貴重なものでした(その後、現在私たちが使用している形態の「本」が写字生によって開発されます。これにより、木製の表紙により羊皮紙が擦り切れなくなり、羊皮紙の両面に文字が記入でき、ページをめくるだけで探したい項目を見つけることができるようになりました)。そこで、いわゆる彩色写本(どんなものかは フランソワ・イシェ 著、 蔵持不三也 訳 『 【送料無料】絵解き中世のヨーロッパ 』(原書房、2003年12月)をみてください)
が有名になるのは、鮮やかな絵の具や金箔を用いて、手作業で念入りに色づけされているだけではありません。1つの作品を作るのに、気が遠くなるほどの時間がかかり、さらに、材料の羊皮紙も高価で、1冊の本を作るのに何十頭もの動物、子牛や子ヤギの皮が必要だったのです。ところが、修道士たちは色付けには細心の注意を払っても、肝心の文字を書き写すことにはそれほど熱心とは限りませんでした。作業に厭きるからなのか、知識がないのからか、いずれにせよ写本がいい加減だったり、間違いだらけといった事が度々ありました。これは、修道士たちがおかれていた環境、暗く(部屋が明るいと貴重な書物が損なわれるため)寒くてじめじめした部屋で1日6時間も7時間も働かなくてはならなかったのです。このような状況下では、修道士の多少の不注意は許されることでしょう。ところで、修道院の写字室はどこも、主に自分の所で所蔵する書物を作っていました。また、 他の図書館や修道院から書物を借りてきては、それを書き写し、蔵書に加えました。今日の相互貸借の初期の形です。 また、必要な書物を得るために、修道士がはるか遠く、例えば、イングランドの修道院長が書物を探してローマに旅する、ということが日常的に行われていました。
そして、修道士たちの多くは様々な書体で書き写すようになります。今日のほんの装丁者が何千もの異なる書体から、それぞれの本に合った書体を選ぶように、修道士も書物によって特定の書体を使うようになったのです。また、読みやすくするため、単語の最初の文字以外は小文字にしたり、スペースを入れたり、セミコロンやピリオドなどの句読点を使用するようになります。これ以前は、句読点なしで書物は大文字で書かれていたそうです。 こうして西ヨーロッパでは、修道院が集めた写本のおかげで、多くの重要な作品が守られました 。その一方、西ヨーロッパが原始的な社会へと逆行していた頃、ビザンツ帝国やアラブ諸国、中国では素晴らしい絵画や壮大な建造物、重要な文学作品が作られていたのです。
という感じで、第2章の「 破壊と崩壊の暗黒時代 」の前半部分、ヨーロッパの状況を紹介してみました。 それにしても、現在のわれわれの感覚からすると、写本の内容が誤字脱字だらけというのは考えられないことですよね 。 今の我々はコピー機やスキャナーがあって本当に良かったですね 。そんなわけで、 次回は後半部分の西ヨーロッパ以外の地域について紹介していきたいと思います 。
またまた昨日の続きで、『本と図書館の歴… 2011年02月16日
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