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死のみが等しく公平なように、どのような状況にあっても大晦日はやってくる。そして、暦の上ではこれが一つの節目。原稿で言えば字数制限であり、締め切りであり、相撲で言えば土俵である。節目という限界があるからこそ、それまでを熱く、あるいは激しく、燃え生きることができる。節目が来れば、またゼロからのスタートである。ゼロに戻ることは、時に儚く、しかし清清しい。 振り返れば、書き残したこともたくさんある。書評に公開できたのは一部でしかない。映画についても、今年は劇場での鑑賞があまりに少なかった。最低限年内更新予定だった書評二冊分と、DVD二本分は年を改めたい。************************************************** さて、本年もたくさんの読者、閲覧者に恵まれ、新年を迎える前夜、改めて深く感謝しています。時には更新が精一杯で、ご無沙汰してしまったり、コメントが遅れてしまったこともありました。けれども、遊びに来てくださる方々やメッセージやコメントがなければ、ブログという一つの場を、これだけ大切に続けてくることはできなかったでしょうし、今後もそうでしょう。 来る年が皆様にとりましても実り多き一年となりますよう、感謝をこめて心よりお祈りいたします。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/31
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なんで今年の年末はこんなに忙しいのか…。いや、普通の企業さんは今日あたり仕事納めも稀ではない…と振り返ったとき、あぁ、確かに今年の年末は例年とは違ってクライアント都合での進行でもあったかも知れないが、一番大きなことは、去年はフリーランスで、今年は違う、ということか、と。 フリーだと、私の場合は大抵仕事納めはクリスマス明けくらいで決着してしまうのですが、今年は「自分の仕事は終わりました。さぁ忘年会、そして良いお年を~」というワケにはいかないのでして。 そんなことをかみ締めながら、幾分静かになった街のどこかのオフィスで、仕事や掃除の合間のブログ・アップでした。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/28
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年末の慌しい時期の合間を縫って、先月から延ばし延ばしにしていた車の12ヶ月点検にいきました。事故は未然に防ぐ、「予防」が大事。ということで、しっかり点検してもらったのですが、結果的には何もなかったとはいえ、この時期4時間動けないというのはなんとも厳しいものです。そのしわ寄せはちゃんと来ているのですが、面白かったのは、代車として年式の古いローバーを貸してもらったこと。 あまり大きな車は好きではない私。きっと個人的にも一生乗ることはないであろうローバーを試乗することに。とにかく、なんか重たい、この車。取り回しも、慣れないせいか悪い気がします。でも、その分転がり始めると、低い位置でベアリングが回転するような、惰性が働くように、いきなり勢いが付くんですね。 ウッド(風か?)の内装に、レザー(風か?)の内装。きっといい車なんでしょうね。久しぶりにこんな広い車に乗ったぞ(笑)。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/28
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2007年、やはり音楽についても書かねばならないでしょう。私はもともと音楽系からキャリアをスタートさせていただき、今も音楽ジャンルでもときどき書かせていただいているのですが、そうするとやはり、ヒットチャートは当然網羅します。 しかし2007年は音楽をゆっくり聴く時間がなかったこともありますが、どちらかというと“気分”で聴く曲の方が多かったです。それも、シングル単位でなく、アルバムで流しているような感じ。 コンピレーションではボサノバ・テイストでヒット曲をカバーした『グリーティングス』は美しかった。R&B系は、ベテランで好きな人たちは抑えたけど、若手ではアリシア・キーズ(もはや貫禄モノな才女ですが)、そしてロイドに期待を抱きました。ラサーン・パタースンは相変わらずイイなぁ。ポップスではマリオ・ヴァスケス。芸能的なのが出てきましたね。これもイイ。 ちょっと違ったジャンルでは、ケレン・アン。これも美しかった。 あ、挙げだしたらキリがない。邦楽では、徳永英明の『VOCALIST』シリーズ、聴きましたね。往年のハイトーン・ヴォイスも、少し枯れも入り、曲によっては女性が歌うよりも艶かしい本家をも凌駕する趣き、これ同作2、3についても言えました。倒錯的な美がある。こういう路線が、もともとR&Bでも好きだったと、国境を越えて原点に返る一枚。 このヘンにしておきましょうね(笑)。(了) 『グリーティングス』ロイド『ストリート・ラヴ』ラサーン・パタースン『ワインズ&スピリッツ』ケレン・アン『さよならは言わない』徳永英明『VOCALIST 3』■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/27
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慌しい年の瀬です。って毎回こお書き出しだなぁ、最近は。だからこそ、いまさらクリスマス話ですよ。 今年も例年通り、実家でパーティを持ちました。今回は、一族のそれぞれに予定があって、参加者は少し減りましたが、来れなかった人の分まで盛大にやりました。あ、これは着てない人には内緒ですが(嘘)。 ところで、アンチョビは皆さんお好きですか?ブラジル生活時代、イタリア系移民の多かった港町、海岸沿いの窯で焼いたピザは本当に美味しかった。父と弟と三人で、頭に乗せたりして、大判のピザのにおいをぷんぷんさせながら、自宅に戻ったことをよく覚えています。当時は、テイクアウトですよ。デリバリーなんかない時代です、勿論。 その父と私はアンチョビが大好きで、帰国当時日本でアンチョビのピザが手近で食べられないのがすごく辛かった想い出もまた…。 最近、ピザのデリバリーのお店でもおいしいピザ、それもアンチョビのピザが食べられるようになりましたけど、最近はメニューからはずされています。あ、お店の名前、分かっちゃうかな? ともあれ、無論ピザ抜きチキン中心でのクリスマスパーティだったのですが、そこに意外なものを持ち込んでみました。アンチョビ・ペーストです。私、そんなものがあるとは知らなかったのですが、個人的には大ヒット。好きな方は、ワインなどに合わせてもう使ってらっしゃるかと思うんですけど…。 パスタに混ぜたり、バゲットやクラッカーに乗せて軽く焼いてもオッケー。傑作なのが、このアンチョビ・ペースト、パッケージデザインが素敵なんですけど、ハミガキ粉っぽいんですよ。洗面所に置いておいたら、間違いなくカタクチイワシで歯を磨くことになりますよ。 忙中閑あり。ムードを出そうということで、実に十●年ぶりくらいに、昔使っていたクリスマスツリーが登場しましたよ。これ、我が家では二代目ツリーなんですけど、オーナメントは初代のツリーのものが混在していて、これが結構レトロでシュールなんです。評判は、オーナメントのサンタの顔が怖い、と…。(了) フォルメリック ガイア アンチョビペースト60g■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/27
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ちょっと今さらな記事ですが、DVDで鑑賞した映画二本について。『ハンニバル・ライジング』で、大方の「?あとでアンソニー・ホプキンスに…なる?」という疑問を払拭する怪演を見せたギャスパー・ウリエル。彼の初期の出演作品『かげろう』を見ました。 エマニュエル・ベアールも出演しているとはいえ、視聴者側の期待に応えているとは言い難し。肝心のギャスパー・ウリエル、やっぱり怪物ですね。本作の中でも、過去が不明の逃亡少年を演じ、男手を失った、同じく戦火を逃れようとする家族の環に、不思議なモチベーション―これは、個人的な愛情以前に、おそらくは人間関係への憧憬と欲望でしょう―で溶け込んでいき、最後はこれまた溶けるように消えていく、まるで悪戯妖精のようなきわどい演技を見せています。 何が怪物的か、と言えば、この作品でのウリエルは、マナーや躾けのない少年役なワケですが、そうした得体の知れない感じと、不安定なキャラクターを演出するために、見ている側がどうも気持ちの悪い、ムズムズするような、ヘンな歩き方や身振りをするんですね。これが、ちょっと怪物的なんです。あの童顔に、妙に雑音的な声、そして不気味な動き。ヤング・レクターの萌芽、ここにあり、です。 ただ、作品としての『かげろう』は、脚本もイマイチだし、ヒネリがあるようでヒネリを感じないし、展開を左右するほどにぎこちないカットインするシーンらが、不必要な作家主義とでもいった案配で、テンポが悪いです。一行が一時的に暮らす、戦時下の危険な外界から隔絶するシェルターのような森(や自然)の映像は、光もたっぷりで美しいのですが。ラストまでが安直な気がしてしまいました。フランス映画というフォーマットに頼らないと成立しないような気がしました。ギャスパー・ウリエル好きならマストですが。 パトリス・ルコント監督作品『仕立て屋の恋』。これは前にも観たのですが、今年はルコント作品をDVDで網羅する、というテーマ上観た次第。相変わらず、主人公イール氏の卵顔(卵頭)のブヨブヨ感がちょっと気色悪いなぁ。特に、タトゥー入れているシーン、ブルーのライトの元で青く艶めくイール氏の姿は、やっぱり今でも忘れられない画でした、今回も。 イール氏が半熟卵を食べるシーン。あ、やっぱりオーシュ卿=バタイユのいうエロスは卵なんだ、と気づいた次第。気づいたといえば、イール氏ことミシェル・ブラン、ブノワ・マジメル(『クリムゾン・リバー2』ほか)に似てるんだよなぁ。ちょっとゴムっぽい肌質が…。 相変わらず、日常の不条理という残酷でドライなテーマの中に、ロマンスという一縷の望みを練り込むのが上手なルコント監督でした。(了)かげろう(DVD) ◆20%OFF!ハンニバル・ライジング プレミアム・エディション仕立て屋の恋(DVD) ◆20%OFF!クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち スタンダード・エディション(期間限定)(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/25
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見出し:「世紀の友情」の“真偽”を疑う。新関公子著『セザンヌとゾラ―その芸術と友情』(ブリュッケ) セザンヌとゾラ。その友情は幼き日の教室に遡って無垢。その袂別は、ゾラの『作品』という小説にあるとされてきた。美術史家ジョン・リウォルドの圧倒的な権威のもと、あらゆる場面に登場するこの二人の巨人ー文学の巨人と美術の巨人ーの友情とドラマティックな絶交を、疑いものなくゾラによるモデル小説の主人公・画家クロードの悲劇的人生をゾラのデリカシーの欠如としてセザンヌが撥ね付けたことが原因ということに慣れ過ぎてしまっている。 それにしてもなんとも面白くない本だ。無論褒め言葉であるが、本書は、ゾラとセザンヌの友情と袂別が、「芸術家の苦悩のゆえ然」としたあの通説でないことを、血脈をあげて解き明かそうとし、ほとんどそれに成功している。 膨大な資料の中から、この二人の“業績”の中の、きわめて私的なことについて焦点を絞り、それが私的でありながら対局への影響浅からぬ転機へと収斂させてゆく、淡々としてはいるが立体的な手法には説得力がある。 ところが、である。印象派の成り立ちや勃興に、文学が援護射撃した経緯はつぶさに語られる(なにしろ、学生時代には、絵画の才能はセザンヌを越えていたゾラであるし、文章の才能はゾラ以上だったセザンヌである。共闘はさぞ強力だったことであろう)一方、肝心な絶交の原因についてはあまりにもあっけなく綴られてしまう。我々が信じていた、あの“武者小路実篤的な絶交”は、原因こそ違えど、やはり“武者小路実篤的な絶交”には違いなかった。いや、むしろもってますます“武者小路実篤的”であり、それがかえって小説より陳腐な事実を見せられた思いなのである。 さて、このほとんど正解と言っても良い分析、それも大家の作り上げた通説を覆す分析を信じるべきか否か。難しい選択である。私は、それがリウォルドの定説源流の観光ガイド的ロマンチシズムと知りつつ、あえて今は『作品』のゆえの断絶と思いたいものだ。 どちらにしても、前提とは恐ろしいものである。そして同時に都合の良いものであって、さらには、できるならしがみつきたい類いのもののようである。前提は、時に幻想を与えて甘やかしてしまうものだ。 ともあれ、真相を確かめるため、あえて頑なに避けて来たオルセー美術館にも足を運ばねばなるまい。(了)セザンヌとゾラ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/21
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見出し:いと呑気なる中国春画の世界。中野 美代子著『肉麻(ろうまあ)図譜―中国春画論序説』(作品社) 回鍋肉の肉(ろう)と、麻婆豆腐の(まあ)である。肉麻、ようは酒池肉林の肉林のことであろうか。 エクゾティスムとは何かについて、サイードを離れたところで再び考えているこの途上で、本書を手に取ったのは、まさにエグゾティスムのゆえである。それも、『ピエール・ロティの館』『江戸の身体を開く』の連続性の中での本書への接触であった。エクゾティスムに触れる。おそらくは聖書のエクソダス=脱出のエクス、さらには外部を表す接頭語のエクスを冠するエクゾティスムは、中心以外=外周、周縁への憧憬なので、そも中華思想がなければ存在し得ない。中華思想の外に、エクゾティスムの対象は存在するからである。ならば、この興味は中華の本場へと向かわねばならない。 さて、私が春画を高く評価するのは、批判精神、諧謔性、美術的技巧、風俗文化の資料としての貴重さ、世話物見的愉しみのゆえのみならず、これがきわめてカタログ的であり、まさに切開された“営為の解剖図”だからである。 中国の春画の面白さは、どの男女も、きわめて中性的で年齢不詳の容貌を持っていることであり、それが春画から体温を剥奪している点だ。一見、これが性的行為を描いたものとは到底信じられないほどのあっけらかんとした呑気さと、開放感がある(そのほかには、空間/室内外というフレームを引用した作品については、図像学的な面白さもある)。この閉ざされた場で行われた開放/解放の行為の図版の数々は、まさに中華的性風俗のカタログなのである。 西欧はもちろん、中国の春画、あるいはインドのカーマスートラの挿画などに比べ、なぜか日本の春画は、男性器だけは、江戸期からすでに、精密すぎるほどのリアルな描写がなされているのは実に不思議である。男性器崇拝の名残か、春画作者らのコンプレックスの裏返しか、少なくとも日本が歩んだファロセントリズム(男根中心主義)は、一般に信じられているのに反して、キリスト教的人間観(近代日本の欧化主義)とは無縁なのかも知れない。 エクゾティスムは若さの特権だ。だからまた我々はピエール・ロティの異国趣味を非難することはできない。なぜなら若き日に抱いた憧れは政治性とは無縁に無垢だからである しかし一体、旅(身体内部への旅、中国の性風俗への旅)とは日常からの脱出であり、誰しも物見遊山的な期待と憧れをそれに抱いている。そもエグゾティスムなき旅は成立しうるのか。異世界への無邪気な憧れなくば旅情など生まれえない。すべて旅人はエグゾチストであり、我々は誰かの異国趣味を嗤うことはできないし、嗤わせたりなどするものか。むしろ、あたかも異世界を日常のように旅するポーズは、とりすました欺瞞であり、エクゾティスムの政治性への批判に無条件で同調する浅薄な進歩主義でしかない。 真面目に読んで興味深く、知的好奇心のままに娯楽的に読んで構わないのがこの叢書の格段に贅沢で耽美主義的なところである。 本書はまた別の文脈で手に取ることになろうが、最後に著者自身による図版に付けられたキャプションが、痛快かつ非常に示唆的であって、図版に劣らぬ驚きをもたらしてくれる。(了)肉麻(ろうまあ)図譜■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/21
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この間百貨店に行きましたら、懐かしい、という思いと同時に、“!!!”という衝撃的なグッズに遭遇。 なんと、キャラメルコーンのゲーム&三ツ矢サイダーのゲーム。これはズルいなぁ、と。もうパッケージやデザインからして、よく出来てるんですけど、まず懐かしいと思ってしまう。で、手に取ってみたら、ま、逆・黒ひげ危機一髪みたいなゲームなんです。 でも、なぜキャラメルコーン&三ツ矢サイダーなのか…。これは完全にメーカーの遊び心ですね。何故と問う方が野暮なワケで、あえてこのラインアップを玩具にしたメーカーのセンスに脱帽です。 しばらく遠ざかっていたキャラメルコーン&三ツ矢サイダーに、こんな形で遭遇するとは、なんとも嬉しいサプライズでした。(了)ドキドキ キャラメルコーンドッキリ三ツ矢サイダー■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/20
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見出し:カルティエ、宝石商の王ゆえに王の宝石商。『サライ』『ラピタ』編集部編『カルティエ時計物語』(小学館) もはやカルティエがただの海外ブランド品の一つであるなどと思う向きも少なくなっただろう。海外ブランド品を。ただ身につけていることがステイタスである時代はとうに過ぎ去った。いまや、そのブランドのバックストーリーに魅力が感じられなければ、ブランドがブランドとして機能しない時代である。逆に、バックストーリーばかりが凝っていて、先行してしまっているブランドもないではないが、ともあれ、ブランドとは、ロゴやマークではなく、その裏側にあるものであり、そうでなければいかなる高価なブランド品もブランドを持たないに等しい。 本書は、多数のビジュアルと、コラムやインタビューによって構成された、一種のカルティエの企業案内であり、説明書でもある。こうして、一つの宝飾店を、改めて本で読み直してみる、ということ自体、少し不思議な感覚もあるが、本書のタイトルが“時計物語”となっているのに、有名時計の紹介や開発の由来のみならず、きちんと宝飾品についても触れてあるのが嬉しい。殊に、特注の宝飾のスケッチやデザインラフなどが掲載されているのは実に貴重である。 人は、我々は相変わらずブランド品を買う。しかし、我々が消費しているのは、実は“ブランド品”というもう一つのブランドであって、本来ブランドとして認識されるべきブランドそのものをどこまで知り、愛しているか自問してみるのも一興だろう。カルティエを評して「宝石商の王ゆえに、王の宝石商」と言ったのはイギリス国王・エドワード7世だそうだ。だからカルティエに関して言えば、「ブランド品を買う」というのは適切ではなく、宝飾品を買う、と表現すべきなのかも知れない。(了)カルティエ時計物語■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/20
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見出し:江戸の岸部露伴たちよ、身体内部を解読せよ。タイモン・スクリーチ著、高山宏訳『江戸の身体を開く』(作品社) 昨日は文学を読み、朝はノンフィクションに震え、コミックスを読むかと思えば今夜は解剖にまつわる本を読む。それも、江戸時代の解剖にまつわる一冊である。 著者の経歴を見れば納得できるが、それを差し引いても、あまりに枯れたその思想に、筆者がイギリス人であることを忘れてしまいそうになるが、これはまた単に翻訳するだけでなく、高山風を盛り込む訳者の魔術の故かも知れない。 江戸の身体を開く、というテーマは、無論はじめに蘭学ありきであった。開明、開国。これらはまさに、開き晒す近代日本の“オープニング”への階段であったのである。江戸期の日本人が、漢方という内科的治療(口腔を通じた治療行為)しか知らなかったのに対し、開くことによって、西洋のミクロコスモス究明=マクロな宇宙(真理)を追究するオブセッションや使命感とは違う“開き方”が生まれたとも言えるのである。ひとたび江戸時代から人間が、内への入り口(口)を通じて中を見ることなく、内側から直した(漢方)のに対し、今度は切開し、解剖し、晒すことで、外的な力を加える=外的な視線を持ち始める、こととなり、同時に医の対象が、視の対象へとモノ化して行った。これが江戸期から現代までの医療の足跡と軌を一にしている。 西洋の身体内部への関心は、そのまま西洋医学の足跡であり、つまりはアナトミー(解剖)サージャリー(外科)の歴史であったのだが、試行錯誤と、真理探求とは別の次元での江戸人の知的欲求が醸成して行った我が国の外科治療の底流は、きわめて個性的であったと言えるのだろう。オランダでは真理探究に必須だった切開は、日本ではあくまで江戸時代に急速に拡大した技術的可能性の一つでしかないと著者はいう。 鋏そのものを扱うというフェティシズムは、次第に、開かれた身体そのものへのフェティシズムへとシフトしてゆき、つまりは身体そのものがモノ化され、拝物の対象化されていく過程なのである。この“解剖台”に並ぶのは、開く道具(鋏)のみならず、やがて開かれた道具(体)が加わり、カタログ化されてゆくのだ。これは、『ジョジョの奇妙な冒険』における、岸部露伴のスタンド、“ヘブンズ・ドアー”の世界観ではなかろうか(岸辺露伴のスタンドはまさに身体を開き、テクスト化して読む、眺める身体=モノ化した身体の解剖および外科的医療行為の徴的記号ではないか)。 江戸期の解剖への情熱が克明に記述される一方で、もちろんオランダ源流の西洋的解剖学の歩みも綴られて行く。オランダから西洋医学が江戸時代に入るまで、漢方と内科だった。外科は、道具も拷問的に見えたし、治療言うより知的好奇心や先進技術への興味が先立ったし、同時に香具師的でもあった。 ふたたび、当時の外科手術および解剖の道具はおぞましい。眼球剔抉器、頭蓋穿入器、背骨拘束器、など、文字から想像するに、これは外科道具と言うよりは拷問の道具だが、考えてみれば、拷問もまた「口を開かせる」行為であった。そこにある境界線は、濃そうで薄そうな気がしてしまう。あるいは、身体の中に宿った身体を開くか否かの東西の比較はまた面白い。開きたい西欧が、身体の中の身体=子についてはタブーとして扱うのに対し、日本では魚卵を「子持ち」して喜ぶメンタリティがある。西欧で食された魚卵は、キャビアのみが例外であったという。 また、解剖図譜には、巻物としての日本と、ブックとしての西欧で、仕様の違いがあるが、これがことのほかその後の解剖図の歩みに少なからぬ影響を与えていると言うのは面白かった。 西洋医学において、解剖は一人で行われる。これは完全にミクロコスモスの支配のアナロジーであり、形而下におけるパフォーマンスなのであるが、このミクロコスモスの支配は、ある意味で神の創造の業へのオマージュであり、時に、真理探究という大義名分に隠れた神への挑戦でもあっただろう。このメンタリティは、機械式自動人形への技術に否応なく通じて来るし、お国も時代も少々変わるが、19世紀ヨーロッパの中流家庭の子女によって当たり前のように愛おしまれたドールハウス=開かれる内部への伏線を感じてしまうのである。 ふたたび江戸の切開へと戻ろう。何故江戸期の解剖図がはなはだ稚拙なのかと言えば、美学的技法の不足や相違もあるが、まず腑分け、つまり解剖をしたことがそれまでなかったからだ。 その歴史を13世紀にまで遡るという「九相詩」に依れば、1:死者2:膨張(張想)3:皮膚の変色やしみ(青痣想)4:死者の解体(壊想)5:肉体の器官の崩壊(血塗想)6:骨がむき出す(膿爛想)7:カラスなどについばまれる(散想)8:白骨化(骨想)9:骨さえ無に帰す(焼想):火葬とのアナロジーがあるのだろうか?このプロセスこそ、日本古来の死んだ体(デッド・ボディ)の塵芥への回帰の“正道(少なくとも哲学的/思想的な意味においてではあるが)”であり、一見グロテスクなこの九相詩には、野ざらしの己、この世を仮の住処とする、どこか飄々たる達観が込められていていかにも東洋的であり、清々しくもある。 開くことに目覚めた日本では、西洋画への関心も相まって解剖図の技術は急速に上達するわけだが、その腑分け図が最初は、まだ身体の切開を知らなかった時代の植物画に回帰していくさかしまな流れは面白く、また天井から吊るされたような解剖図が“生けられた”オランダのボタニカル・アートに見えてくるから不思議である。 やがて、その精度は措くとして、身体内部の“生命の流れ(これを西洋は血流と呼び、東洋は経絡と読んできた)”がある程度開示され可視化すると、当然、西欧でもそうであったように、これはミクロコスモスの地図としての体内の仕組みが、国家(および交通網)の地図へと置換されて行くことは免れ得ない。 山東京伝は、京都を心臓になぞらえたが、無論「京=教」なのであり、著者は「当時の日本人にとって京都は最奥の自我」であるというようなことを述べている(ちなみに洒落者・山東京伝の地図風双六の黄表紙では、日本橋に二本差しの武士が、品川がしなあだま、などに置き換えられもじられている)。この置き換えや変化/トランスフォーメーションは、身体(ボディ)が国家(ボディ・ポリティック)へと変容するダイナミズムと捉えている。トマス・ホッブズの『リバイアサン』の表紙を思い出して欲しい。国家=君主を構成する無数のボディたち!! さて、著者は蘭方を解剖学的(アナトミカル)、漢方を全体的(ホリスティック)として二項を対置しているが、オランダの医学が漢方より多くの病を治したとは言わない、と結ぶ立場は、公平な視線と見るべきか、著者のエグゾティスムと疑うべきか…判断に迷うところだ(またしてもエグゾティスム!!)。江戸期の切開願望のいかんともし難い膨張の過程で、古い、亡霊的名言“汝自身を知れ”の影響を受けてしまったのか、少なくとも、江戸期の医療人にとって、解剖行為そのものは、生や外部を中心とした、エクスつまり見知らぬ内部(逆説的表現だが、未知なる内部は、つまり遠い外側、周縁なのである)への郷愁と欲望の対象であったに違いない。まさに、エグゾティスムである。 江戸期の医者は、アスクレピオスの蛇の杖に、解剖図を学んでその杖に羽根(羽根ペンの恩恵でもあるまいが)を手にし、ヘルメスの如く近代医療への飛翔を始めるのである。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/19
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年末は着々と、粛々と進行しております。皆様お元気でしょうか。週末は野暮用で実家に戻っており、週が明けてからは取材のオンパレード。所謂年末進行というヤツですが、大抵この時期はいつも取材は仕事納めになっていて、編集やデザインレイアウトの作業に入っていたりするのですが、今年は媒体のリニューアルがあったりした関係で、少々ズレ込んでいたりします。 ちょっと記事アップが滞っていましたが、時間を見つけてたまっている書評などを順次アップしていきます。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/19
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ここでお一つ、スパナチュ記事をアップ。今日は第12話『豹変』、第13話『復讐の天使』を。12話は、おなじみ脱出モノです。誰にでも姿を変える、欲望を持った悪霊シェイプシフターが銀行を襲った。この犯人を、いち早く人間以外と断定したのは、銀行の警備員ロン。しかし、宇宙人&SFオタクのロンの読みは案の定ミスリードで、「犯人は人の形をしたロボット、つまりマンドロイドだ!!」。目からビームが出てるし…って、違います。それ、シェイプシフターですから。そう諭すディーン&サムの兄弟。確かに、人間以外の仕業であることを認めてくれた謎の兄弟だが、マンドロイドは認めてくれない。ならば、俺が…。 勇んだロンが、銀行にマンドロイド退治に現れたから、隠密裏にシェイプシフターを捉えに銀行に入り込んでいたディーン&サムは大慌て。 このエピソードでは、意外にもディーンの名ネゴシエーターぶりが発揮されます。さらに、マシンガントークの嫌味なFBIが登場したり、さながらアクション&サスペンス映画のショート版。うまいな、と思ったのは、金庫という密室を使うことで、この何度も登場した悪霊の話を、別のスリリングさで演出しているところでしょうか。 最後に、間一髪、SWATの服装に着替えて窮地から脱走するディーン&サムの心境は果たして…自分たちだってシェイプシフターじゃん!!と思ったかどうか。 13話、これは深すぎて、うまく説明できないなぁ。自信がない。ドラッグ中毒の女性が、ある日テレヴァンジェリストの声をきっかけに、光に包まれた天使の招きを受け、数日後殺人を犯す。監房の彼女を尋ねるサムは、彼女が充たされ、深い幸福のうちに聖書を繰っているのを目撃して唖然とする。 なぜなら、彼女によって殺されたのは、表向きは信仰心篤い図書館司書だったが、なんと学生を殺しては地下に埋めていた。 あるいは、アルコール中毒の男が、ある晩天使に導かれ、やはり人を殺す。殺した相手は、これまた表向き善人だが、少女売春をもくろんでいた事が、ディーン&サムの調査で発覚。「天使の声に導かれ、彼らが殺したのは皆悪人だ…」。だから殺してもいいのか?天使は本当に存在するのか?愛する母を失って以来、無神論者になっていたディーンは、心揺れるサムの話を真剣に取り合わない。サムは、悪魔の計画のリストに載っている自分が赦され、癒されることを念じて、ずっと祈り続けてきたと兄に打ち明ける。そんなサムにも、突然天使が訪れる!! これが天使じゃなければ、サムは人殺しになってしまう。たとえ相手が悪人でも、人を殺すならサムも同じだ。必死に止めようと調査を進めるうちに、天使が最初に現れた時期と同じ頃、街の教会で慕われる若い神父が殺されていたことに突き当たる。天使の御業ではなく、この世に恨みを残した信仰心篤く正義感に溢れる神父の霊が、天使に成り代わって天罰の指令を出しているのではないかと思い当たったディーンとサム。と突然、サムにも指令が下る。天使の招きを受けてしまったサムは教会でこの殺された神父の霊を呼び出させることにし、ディーンは、サムが天誅を下すべきだった相手を追いかける。 サムの前には、きらびやかな光に包まれた天使が…。「私はもう人間じゃない。天使になったのだ。悪を見逃すことは神の意思ではない」。「違う。人は神にも天使にもなれない。安らかに眠るのだ」。かつて友と呼んだ今は亡き神父の迷いを絶ち、祈りによって天国へと送り返したのは、“天使になったと思い込んだ神父”とともに、教区で活動してきた老神父の祈りだった。 ディーンが追いかけた男は、やはり女性に暴力を振るわんとしていた。すんでのところで暴行を食い止めるも、男には逃げられそうになる。真っ暗な夜の中での、激しいカーチェイス!!と、追いかけられる男が、交差点の右側からやってきたトラックを避けようとしたところ、トラックのマフラーが折れて、男の車に飛び込んできた。マフラーは迷うことなく窓を突き抜け、まっすぐと男の胸に突き刺さった…。奇跡のような、結末。 天子はいなかったと話すサムに、ディーンが一言。「あいつの死に方を見たら、少しは神を信じそうになったよ。」エンディングには、クラプトンの“Knocking on Heaven's Door”が流れます。 物語の本筋からいうと、このエピソードはそれほど重要ではない(サイドストーリー的)のですが、普段悪魔との対決ばかりを扱っているこの作品で、はじめてしっかりと神の存在を対置したことは記憶しておくべきです(以前カルト教団絡みのエピソードはありましたけどね)。こうした描き方に、キリスト教社会の枝葉を垣間見てしまうのでした。(了)SUPERNATURALII スーパーナチュラル〈セカンド・シーズン〉コレクターズ・ボックス1(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/14
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クリスマスが近付いてきました。街はどこもイルミネーションや飾り付けで、否が応にもクリスマス・ムードを盛り上げています。 振り返って、私にとってのクリスマスの原風景は、やっぱりブラジルかなぁ。それ以前はあまりに幼くて記憶が薄れてしまっています。 ブラジルは、カトリックの国なので、とにかくクリスマスにしろイースターにしても、街中、大人も子供みんなお祭ムード。どうしてもブラジルと言うとカーニバルのイメージが強いですが、クリスマスなど、これとはまたちょっと違って、優しくて軟らかい光のイメージ。 思い出すのは、自宅からちょっと行ったところに、バウネアリア・センターというショッピングセンターがありまして、金や銀のリース、スプレーで色づけされたヒイラギや、綿毛の雪で飾られる中、等身大でしょうか、当時の私にとっては大変大きく見えたサンタのおじさんの人形が立っていまして。それがショッピングセンターの独特の電光に包まれて、今にも動き出しそうにして私たち幼い兄弟をいたく喜ばせました。思えば、いい時代だったなぁ。 大人になると、どうしても「先にイベントありき」のクリスマスに、あたかも包囲されているようで、ちょっと息苦しかったりしますが、それでも、帰国してからもずっとクリスマスの夜は家族大勢で迎え、行く年の穏やかならんことを祝い合っています。 果たして、最高のクリスマスというのは、器でなく中身、行事ではなくムード、靴下の中身ではなく和やかなニュアンスの中にあるのかも知れません。(了)チューブライト付き クライミングサンタ2●20%OFF!!室内オーケー【3連Lサイズ・サンタ&トナカイイ】クリスマスライト・イルミネーション・クリスマスオーナメント・クリスマス小物)ぐりとぐらのおきゃくさま■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/14
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さてさて今日はスパナチュ、10話「遺言」、11話「禁じられた遊び」の二つをご紹介。10話はいきなり濃厚な話から始まります。「一体父さんは兄さんに何と言ったんだ!!」問いつめるサムに、もしサムが誤った計画に組み入れられた時には、兄自らの手で弟を始末することを死に際の父・ジョンから託されるディーン。なぜ父は自分に直接話さなかったのか納得のいかない弟・サムは兄・ディーンを責めるも、兄は兄で弟を託され、場合によっては殺さなくてはならない運命の重さに耐えかねていた。 サムが仲間と呼ぶ、つまりは悪魔の計画の内にあり特殊な能力を授けられながら、まだ悪魔に加担してない男が殺される。悪夢を見てから、両手で相手を感電する能力を持つ男は、己の力の恐ろしさにこれを持て余し、精神科医に相談するも、その帰り道何者かに殺される。 一人でも多くの、まだ道を踏み外さぬ仲間を見つけ出したいサムは、この呪われた運命を断ち切り、兄の悲しい責任の芽を摘むべく、たった独りで動き出すと、サムの拠点であるモーテルに、“サムの爆死の予知夢”を見て、とにかく命を救おうと、無理解を承知でやって来たエヴァという女性に出会う。笑われてしまうと思いつつやってきたエヴァは、サムが驚かないばかりか共感を示したことがきっかけで、サムと行動を共にするようになる。探していた“仲間”について知るため精神科医を訪れる二人。と、何者かの銃弾が二人を襲う!! エレンに話を聞いて、サムを陰ながら援護していたディーンはこの狙撃者と格闘するが、あえなく返り討ちに遭ってしまう。 サムの携帯に電話が入る。ディーンからだ。会話中の暗号から、ディーンがピンチにあることを知ったサムは救出に向かう。 「二週間後には結婚するの」と話すエヴァは、それでもサムを案じてその先も同行しようと願い出るが、狙撃以来危険を感じたサムはエヴァを帰して、一人ディーンの捉えられる場所へと向かうが、こここそがエヴァの予知夢でサムが爆死する小屋であり、同時に、あの何者かがサディスティックに兄・ディーンを苛む場所。待ってろ兄さん!! さて、この何者。冒頭から誰か分かってしまうので、別にネタバレなどないワケで、誰かと言いますと、あの“Hunter by Nature”、“根っからハンター”男こと、ゴードン氏。前回は、サムに阻まれて「人を殺さない吸血鬼」を逃がし、おまけにディーンに「人殺し」呼ばわりされて三日も小屋の椅子に縛られっぱなしの放置プレイ、という屈辱を味わったゴードン、今回は、エレンの酒場で「神の計画」の噂を別のハンターから聞き、その計画を成す兵隊のリストにサムがいることを知ったばっかりに、超強気&超ドSです。前回登場より若干頭髪もそり込んだ感もあって、凄み利かせてますが、最後はサムの「知略」でまんまとゲームオーバーへ。このゴードンのネチっこさが、またカチンと来るんですよねぇ~。ストーリー最後に、惨殺された婚約者を残してエヴァが連れ去られてしまっているのも気になります。 一方11話「禁じられた遊び」は、ゴシック・ホラーテイスト。長年続いて来た格式あるホテルが閉館することになった。しかし、この閉鎖に関わる者が、ホテルに縁のない人であろうと不自然な死を迎える…。最初の犠牲者である引っ越し業者が階段から転落し、首を折って死んだ時、ホテルの中では、このホテルを模した特注のドールハウスの中で、男性の人形が首をよじって落ちていることを謎の少女によって発見されている。それも、まんざら不快ではなさそうな眼差しで…。 人形、人形、人形!!もう、人形だらけのこの古ぼけたホテル。そこに、二人の姉妹。赤字経営を切り盛りして来た働き者の当主・スーザンは、怪事件はともかく、このホテルの閉鎖作業に忙殺され事態の不自然さを察知する余裕もない。老執事、開かずの間、秘められた想い出、一族の肖像写真、異国のまじないをするという老婆。 もう、揃い過ぎというくらいに、おどろモチーフが揃っているのですが、これが案外物悲しく、またやり過ぎない演出で、結構しみじみイイ作品なのです。 スーザンの娘に寄り添うマギーは、実はスーザンはじめ他の大人達には見えず、あたかも娘の“空想の中のお友達”然としているのですが、実はこのマギーは、スーザンにとっても浅からぬ縁(えにし)ある人物で…。これはネタバレしますので、とりあえず“プールのシーン”としておきますが、そこまでは恐ろしいまでに静かに展開するのですが、“プールのシーン”は、ガラスの破砕音を合図に一気に目を覚まされるように、ダイナミックなシーンへと展開します。サムが飛びますからね、なんたって。静から動です、つまり。そういうリズム感やテンポもいいです。 カップルと間違えられるディーン&サムのやり取りや、アンティーク商を名乗ってスーザンの仕事場に入り込む件など、笑えるシーケンスは結構あるのですが、見終わった後に、なぜか懐かしい感じ、ちょっと甘酸っぱい感じの残るエピソードなのです。(了)SUPERNATURALII スーパーナチュラル〈セカンド・シーズン〉コレクターズ・ボックス1(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/12
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一昨日の12月10日、畏友ボリス・ガケール氏の出演するリサイタル「弦響の夜会」に駆けつけました。これは、ハープ、マンドリン、ギター、中国古箏、といった東西の弦楽器による共奏、という趣旨。 二時間たっぷり、演目もバラエティに富み、「この楽器でこの曲を!?」という嬉しい驚きも。ボリスのギターは、なぜか、特に難しい楽器とのセッションになるほど冴えわたっていましたが、こういうスリリングな感覚は、もしかしたらブラジルでの活躍の中で身につけたものかも…。彼の演奏は、日本で行われたものはほとんどすべて足を運んでいますが、初めて彼の演奏を聴いたときから比べると、繊細さに加えて、楽しさ、そして少し思索的な落ち着きを与える音を身につけたような気がしました。 ほかに面白かったのは、やっぱり「この楽器でこの曲?」という演目や、意外な音の楽しめた楽器。若き才能・堀雅貴氏のマンドリンで奏でられる“アップ目の曲(とあえて書きたいような)”は、あたかもファンク・ベースのように粘っこく踊ったり、ロックのギターのような刺激的な音で魅了し、彩愛玲氏のハープは、お祖父様の故国である台湾のスタンダード『望春風』で、束の間我々をロマンティックな夢想に誘い、双子の姉妹でる中国古箏奏者、鶯と燕は、日本語も巧みに、この珍しい、そして想像以上にボリューム感・厚みのある楽器を抜群の呼吸で聴かせてくれました。中国古箏を見ていて、今年5月に訪問したベトナムの伝統楽器に、やはり琴があったのですが、確か一弦で、あとは弾く人の腕と、琴線を爪弾かない方の手で操作する、ブラジルの民族楽器・ビリンバウのようなもので音を震わせたりこもらせたりするのですが、日本の琴と違う大陸感の悠久を感じました。ところで中国古箏って、傍から見ていると鍵盤楽器を操っているようにも見えました。(了)【送料無料】鶯と燕/鶯と燕 中国箏デュオ・アルバム(CD)【送料無料】花一輪/彩愛玲ハープの世界(ハープ)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/12
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今日は、出版パーティ当日のファッションについて。この日、礼服をあえて避けて私が着たのは、テーラーワークスさんで仕立ててもらったスーツ。 テーラーワークスさんは、弟のバンド仲間であり、ライヴに足を運んでいるうちに知り合った私の尊敬する友人でもあります。大学卒業後、某有名アパレル会社で修行し、数年前に独立。もともとセンスの飛びぬけた男だったので、やっぱりこういう世界でいつか独り立ちするのかな、と思っていました。 滅多にスーツを着ない代わりに、着るスーツは十分に吟味する性質なので、そういう視点からスーツはかなり着てきた方だと思いますが、テーラーワークスさんに仕立ててもらったスーツは、本当に素晴らしくて…。 テーラーワークスさんのスーツは、老舗テーラーの工場が持つ技術と世界一流ブランド・国内優良メーカーから厳選された素材とでつくりあげるオーダーメイドスーツで、4種類のスタイル、1000種類以上の生地、20種類以上のオプションディテールによってあつらえることが可能。細かいオーダーにも対応してくれます。私も、生地からシルエット、雰囲気までかなり意見を交換しながら作ってもらいました。 テーラーワークスで使用される生地は、世界最高級と謳われるエルメネジルド・ゼニア、ロロ・ピアーナ、スキャバルなどをはじめとする海外一流メーカー、またミユキ毛織をはじめとする国内有名メーカーから厳選してセレクトされたものだそうです。 縫製についても、100年の歴史を持つ銀座の老舗テーラーのオーダーメイドスーツを手がける国内屈指の紳士服専門工場によ って厳密な品質管理のもと製造されており、一度着たら病み付きになりますね。 個人的には、オーダーメイドだからこそなのでしょうけど、肩の馴染み具合とアームホールのフィット感が、本当に吸い付くようで、この感触のためだけに何度も着、あつらえたくなってしまいます。(了)*テーラーワークスさんのHPはコチラです。■著作です:何のために生き、死。
2007/12/11
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12月7日(金)、東京都・天王洲にて共著の出版パーティがあった。この日の二日前、私の恩人のお父様が逝去された。それで、このパーティの朝、私は告別式へと向かうことになった。突然のことだったし、また交通事情の乱れもあって、私ははからずも告別式の後半にしか、会場にたどり着けなかった。だから、私が最後の弔問者かと思っていた。しかし、そうではなかった。最後にこられたのは、大変ご高齢の婦人で、背は丸くなり、歩くのも覚束ない様子。斎場のスタッフの方の手を借りながらの焼香となった。その表情が穏やかで、泣くでもなし、かといって無表情でもなかったから、なおさら無理を圧しての弔問が哀しく、喜怒哀楽に言葉など不要なのだ、人間の心の前に言葉など無力なのだとさえ思いそうになった。 しかし思い直して、やはり、だからこそ文筆を仕事とする者は、言葉の力が軽視され、消費されるだけの長物とされる時代に、 私はしっかりとこの葛藤を引き受けて、言葉の宿す力と責任、言葉でしか伝えられないことの意味や素晴らしさを微力ながらも守れるよう、一層精進しようと決めたのだ。 その後私は、今度は公的な事情で、突発的に「どうしようもない時間」を与えられてしまったので、ふらりと四谷の教会へと足を運んだ。そこで私は「今夜のパーティが、どうか人を和する宴となりますように」とだけ祈った。 「どうしようもない時間」を作ったのは、仕事のクライアントが抱えてしまったトラブルのフォロー作業だった。「どうしようもない時間」から、今度はその対応の時間がやってきたので、オフィスに戻る。そこで、きわめて現実的な時間を真剣に過ごす。こうした事情で、パーティ会場へは予定していたよりも遅く入ることになってしまった。 会場にはすでに、このパーティのために協力を惜しまなかった方々が準備に取り掛かっていた。また招待客でもある弟は、現地でさっそくカメラやビデオの設営に取り掛かる。こうしたタイトな進行の中で、共著者に対しては申し訳ないことに、事前打ち合わせも十分にできないまま、パーティはスタートした。くしくも、共著のテーマと重なるように、たった一日の中で生と死と舞踏し、光と影の中で思索をめぐらせ、心を揺り動かすこととなった。この日、パーティはとても素晴らしいものとなった。 このパーティは、共著『何のために生き、死ぬの? 意味を探る旅』(地湧社)にとっては、実は本当の意味で巣立ちの夜となったと思う。出版された日が巣立ちの日、と思っていたが、その後はもう少し育てる時間を要した。自分でも、よく育てた、と思う。だから、このパーティから、この本は本当の意味で一人歩きを始めるのだと思う。“親”の一人として責任は十分に果たした。愛してやまない子、かわいい子だからこそ、どこまでも歩いていって欲しいと願うばかりだ。 この場を借りて、改めて出版パーティ当日お手伝いをして下さった方々、また駆けつけてくださった読者や応援くださった方々(それまでお顔を知らなかった読者にもたくさんお目にかかれた)、家族と、講演もいただいた青木新門氏、出版社と共著者の近藤裕先生に感謝の意を示したい。(了)*写真は、出席された方から寄せられた花束や手作りのリース、記念品などです。御礼の意を込めて、記念にブログに貼っておきます。ありがとうございました。■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/10
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さて、本日最後の記事です。先日の出版パーティに駆けつけてくれたのは、数年来の友人で、ベルギー大使館での出会いからずっと互いのクリエイティヴィティを刺激し合い、励まし合って来た、私の弟も含め、それぞれ互いに“ベルギーの兄弟”と呼び合う優秀なクラシック・ギタリストのボリス・ガケールが明日、銀座王子ホールにて演奏します。この人、拙著にも“引用”されているのですが。。。 パーティでの飛び入り演奏もありか?と思っていましたが、本人曰く、人のパーティで営業活動をするのは失礼になるから、と遠慮したようで、そんなこともあろうかと持参しておいた彼の作品/演奏のCDは、当日歓談の時間の約1時間、会場のBGMとして流しました。当日出席下さった方で、その素晴らしさに気付いて下さった方、いたかなぁ…。技術は無茶苦茶高いのに、素朴で、優しくて、奥ゆかしい男なのです。 ともあれ、興味のある方、是非ともボリス・ガケールの演奏を生でお聴き下さい。(了)■ライヴ情報:銀座王子ホール12月10日(月)19:00~ 弦響の夜会 ~ハープ、マンドリン、ギター、中国古箏、弾かれる弦の妙なる響き~彩愛玲(ハープ) 、堀雅貴(マンドリン) 、鶯と燕(中国古箏)ボリス・ガケール(ギター) 他王昌元:戦台風 、サルツェード:夜の歌アルベニス:アストゥリアス 他\5,000 全席指定アルテ・エスペランサ 03-3473-6044■ボリス・ガケール氏のプロフィール 1977年ブリュッセル生まれ。ブリュッセルとキンスの王立管楽院でブラジルのギタリスト、セルジオとオダイルのアサド兄弟に師事。また、ブローウェル、ディアンス、ラッセル、ベリナティ等のマスタークラスを受諾。仏、独での国際コンクールに大賞。1997年、デニス・サンホとデュオを結成、ベルギーやドイツで演奏活動を行う。また、1998年には、ピアソラ、アサド、そして自作の(オブリガード)を含むアルバムをリリース。このアルバムがきっかけとなり、自作曲がカナダやパリで出版される。2001年には初のソロアルバムをリリースした。2002年には日本でも演奏を行っている。■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/09
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PCをいじっていて気がついたこと。最近、液晶モニタの保護フィルムをデスクトップのモニタに貼ったんです。DVDも奇麗に映る…なんてコピーがついてましたけど。 パソコンでDVDを見ることは稀ですが、とにかくモニタに向かっている時間が長いので、本当に目が疲れるんです。モニタが悪い!!というワケじゃなく、結局PCのモニタというのは、殆どの場合、かなり目線から近い場所で使用されるモノである、という宿命を背負っているのであって、これはもう自分自身で対策を打つしかないのです。 で、保護フィルムを貼りましたところ、まずモニタ特有のチラ付きがなくなりましたし、カラーの再現がシャープになって、やはり輪郭のぼやけてしまいがちだったフォントの隅や、サイトのアウトラインなどがハッキリとして、目への負担が軽くなったような気がします。 もともとPCなどにはあまり後からベタベタ貼ったりつなげたり、というのが好きでなかったのですが、この液晶保護フィルムはアタリでした。こんなにも世界(あ、もちろんモニタの向うの世界ですが)がクリアになるなら、早く使ってみるんだった…。(了)EF-FL17HG 液晶保護フィルター<17インチ用>:エレコム*基本的には貼り直し可能なものが多く、気泡も入りにくくなっていて驚きました。また基本サイズさえ間違えなければ、大抵テンプレートが着いていて、モニタ画面の表示領域にぴったり合わせてカットできるようになっています。■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/09
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パーティが終わってからブログにアップするべき記事ではない。また、パーティのきらびやかなのを誇って記すのでもない。このパーティの開催にあたって、沢山の時間とエネルギーと真心を分けて下さった方々、そして出席くださった方々への感謝の念と、引き続き真剣に、真面目に、名の出るものも出ないものも、小さい記事も大きい記事も、どれ一つ疎かにすることなく、すべての原稿を愛し、取り組むをもって、この文筆家の矜持と責任を己に刻み付けるため、ここに備忘録として記す。************************************************************『何のために生き、死ぬの? 意味を探る旅』(地湧社)出版記念講演会&パーティ日時:2007年12月7日(金)、18:30~21:00場所:天王洲セントラルタワー キャナルガーデン1階 キャナルダイニング ラ・カーザ・ニキ (La Casa Niki )講演:講師 青木新門(作家、詩人)テーマ 「どのように生き、どのように死ぬの?」鼎談 青木新門、近藤裕、太田塁(後者二名が本出版パーティの著者) 定員:会場の都合で50名に限定(急用により欠席された1名を除いた49名ご出席)青木新門氏のプロフィール: 富山市出身。富山市内で飲食店を経営したが倒産。新聞の求人広告を見て、冠婚葬祭会社に就職。八年間納棺夫の仕事をしたのち、同社の専務取締役を経て、現在は監査役。 納棺夫の体験を基に書かれた「納棺夫日記」はベストセラーとなり、『Coffinman』として英訳もある。地方文化功労賞、北日本新聞文化功労賞を受賞。************************************************************追)個人的なメモになりましたが、パーティの模様や、それについての記事は別にアップいたします。■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/09
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スカイプ、なぜか父が実家で導入するらしいんです。あれって、これだけ携帯電話のマーケットが成熟してしまうと、日本ではなかなか使いにくいのではないかな、とも思うのですが、海外ではユーザーがかなりいますし、その辺も考えてのことなのでしょうか。 で、端末どれがイイ?って聞かれたんですけど、いつの間にかすごいコトになってるんですね。かなりの数がある…。 使い方が簡単なのが一番でしょうけれど、あえてスカイプも併用するなら、なんか携帯電話とはちょっと違った機能やデザイン、ユーザビリティがあってもいいのかな、なんて思います。(了)Skype用 USB ハンドセット ハンディタイプ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/07
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天王洲、ラ・カーザ・ニキでの出版パーティが週末に迫ってきた。これは、近藤裕氏との共著『何のために生き、死ぬの? 意味を探る旅』(地湧社)の出版記念パーティであり、同時にこの本への応援を下さった方々への感謝のパーティであると私は個人的に感じている。 また、『納棺夫日記』『つららの坊や』(余談だが、『納棺夫日記』の書評は当ブログの過去記事にアップしてある)など、独自の視点で、日常ではつい目を逸らしてしまいがちな生・老・病・死、といったテーマと向き合い、時にはリアリズムを通じて、時にはポエジーを通じて、「光」―連続する生命―についての作品を発表されている作家・詩人の青木新門氏を講師に迎えての記念講演会の場でもある。 共著を中心にして、人の縁、命の縁のさらなる醸成を“祈念”してのパーティでもあるのだ。 出版パーティのコーディネーターをかって出てくださった方曰く、「両世界的な雰囲気を持つ私にぴったりの会場」を選定くださったとのこと。過日、下打ち合わせもかねて、ラ・カーザ・ニキに食事に行ったが、テラス越しの景色は12月の夜にはイルミネーションも楽しく綺麗だろう。そしてレストラン内は、まさに私好みの素敵な色使いの内装で、当日が大変楽しみになったのであった。 今回のパーティでは、有志でスタッフとして協力してくださる知人・恩人もいらっしゃる。私としては、黒子に徹してしまうのではなく、仕事はしながらも、しっかりとパーティを、主役級・主賓級に楽しんでくださることを切に願っている。 出席者全員の目線に高低のない、和やかな夕べになることを今から楽しみにしているのだ。(了)何のために生き、死ぬの?
2007/12/05
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最近ゲームからすっかり遠ざかっていた私。とにかく、ここ数年で曲がりなりにも続いているインドアレジャーがブログと読書&DVD鑑賞と仕事くらいという、慢性三日坊主な私ですから。もともとプレステ買ったのも、たまに遊びに来る弟とウイイレをするためだけに買った「万年床」のようなもの。しかし、その戦友たる弟が、「たまには何にも考えずにストレス解消できるゲームもいいよ」と勧めてくれたのがコレ。いやぁ、気持ちイイ、気持ちイイ。ホントに何にも考えないでやってるんですけど。雑賀孫市、大暴れ。うん、これがキャラ萌え、ってヤツなんでしょうねぇ。 で、なんで数多いる戦国武将から雑賀孫市を選んだのか、直感でしかないわけですが、前田慶次使いの弟曰く「相変わらずへそ曲がりだなぁ」。そう?(了)【PS2】戦国無双2 猛将伝 TREASURE BOX 限定発売■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/04
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見出し:合理主義の権化最愛の妹、登場。惣領冬実『チェーザレ(4)』(講談社) 待ちに待った『チェーザレ』の第四巻がようやく完成した。第四巻の最大の見せ場は、チェーザレ・ボルジア最愛の妹にして、後世その名を禁忌意識と一種の倒錯的ロマンティシズムのモチーフへと残したルクレツィア・ボルジアが登場することである(血塗られたボルジア家!!)。 後に徹底した合理主義的政治観で知られるチェーザレが、冷酷な仮面を脱ぎ捨て非合理的で人間的な横貌を見せる数少ない相手であり、のみならず政治的な意味においても重要な役割を担っていく薄幸のヒロインの登場である。 断っておきたいが、マキャヴェッリの『君主論』は、いわば“もしも本”であり、チェーザレ・ボルジアが君主だったら、という待望論で論じた君主論であり、実際のチェーザレは、辣腕政治家にして天才軍略家たる将軍であり、父・ロドリゴという君主の後ろ盾を躊躇いなく活用した将軍であったことは気に留めておきたい。(了)チェーザレ(4)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/04
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ミシュランはミシュランでも、旅ガイドの方のミシュランを先日購入。グリーンガイドといわれるヤツですね。 タイヤメーカーのミシュラン(ゴーストバスターズのマシュマロマンみたいなキャラクターが有名)がなぜレストランガイドを?しかも格付けまでしてしまうという…。まぁこれは、車ができれば道路ができる、道路ができれば旅人が増える、旅人が増えれば行く先々で美味しいものも食べたいだろうし、名所にも行ってみたいだろう、という、きわめて近代主義の幻想に乗っかって、それが見事に当たったケースですけど、そういう理由で旅のガイドの方も実にスゴイのであります。 とりあえず入手したのは英語版で、ある都市について英語ではどのように説明されているのかを知りたくて買ったのですが、パラパラめくるだけでもなかなか楽しいです。(了)MICHELIN BIBENDUMミシュラン ビバンダムスノードーム/レッドガイドフレンチアート ミシュラン「LES GUIDES FRANCE」【重版予約】 ミシュランガイド東京2008■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/03
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なんでしょう、色んな意味で腑に落ちなかった件の会見。あんまりコメントしても野暮なんですけど、私はこんな風に感じました。 器が品格を作る場合もあれば、品格がおのずと器を用意することもある。前者より後者に見えるは難く、また器が先に出来て、あとからそれに見合う品格を作るのはさらに難しい。 さて、国技もそうでないスポーツでも何でも、あまりに「完成」を急ぎすぎるのではないか、ということ。仮に国技について言及すれば、まず国技であれば、形式も実力も品格もすべて大事でしょう。政治的な意味づけからではなく、少なくとも様式美やアートとして、これを無視することは、国技の存在意義の前提を否定することになるでしょうから(国技に迎え入れた以上、外国人力士という表現もやめて欲しいなぁ。アナクロニズムだし、世界に日本の伝統を誇るのに、今更グローバリズムを無視した風潮のなかで平気でいられる、というのはあまりに不自然ではないか、と…)。 国技を代表する立場の横綱であれば、国を挙げて、どこの国に出しても恥ずかしくない人物に育て上げることが求められこそすれ、育てる前にその芽を摘むのに全力を注ぐというのはいかがなものかと思うのです。 やっていけないことをしたら謝る。これは人間であれば、横綱であろうとチャンピオンであろうと関係なく、誰にでも当たり前のこと。 たまたま、器が先に出来上がってしまった前途有望な人たちが、品格(この言葉も嫌いだなぁ)であれ、中身であれ、とにかくその器にふさわしいものを身に着けるまで、待ち、応援する。一気に両方を備える人間など有史以来存在したでしょうか。 そういう成熟に最低必要な時間を待てない、という感覚は、どうもいただけないと思うのですが、いかがでしょう。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2007/12/01
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